ユルゲン・クリンスマン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
ユルゲン・クリンスマン Football pictogram.svg
Jürgen Klinsmann press conference (15096302000).jpg
2014年のクリンスマン
名前
愛称 黄金の隼、クリンスィー
ラテン文字 Jürgen Klinsmann
基本情報
国籍 ドイツの旗 ドイツ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 (1964-07-30) 1964年7月30日(53歳)
出身地 ゲッピンゲン
身長 182cm
体重 73kg
選手情報
ポジション FW
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1981-1984 ドイツの旗 シュトゥットガルター・キッカーズ 61 (22)
1984-1989 ドイツの旗 シュトゥットガルト 156 (79)
1989-1992 イタリアの旗 インテル 123 (40)
1992-1994 モナコの旗 モナコ 65 (29)
1994-1995 イングランドの旗 トッテナム 41 (21)
1995-1997 ドイツの旗 バイエルン・ミュンヘン 65 (31)
1997-1998 イタリアの旗 サンプドリア 8 (2)
1997-1998 イングランドの旗 トッテナム 15 (9)
2003 アメリカ合衆国の旗 オレンジ・カウンティ 8 (5)
代表歴
1980-1981  西ドイツ U-16 3 (0)
1984-1985  西ドイツ U-21 8 (3)
1987-1988  西ドイツ U-23 14 (8)
1987-1990  西ドイツ 26 (7)
1990-1998  ドイツ 82 (40)
監督歴
2004-2006 ドイツの旗 ドイツ代表
2008-2009 ドイツの旗 バイエルン・ミュンヘン
2011-2016 アメリカ合衆国の旗 アメリカ代表
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ユルゲン・クリンスマンJürgen Klinsmann, 1964年7月30日 - )は、ドイツバーデン=ヴュルテンベルク州ゲッピンゲン出身の元サッカー選手サッカー指導者ポジションセンターフォワード2011年から2016年までアメリカ合衆国代表監督を務めた。2006年に開催されたFIFAワールドカップドイツ大会ではドイツ代表監督を務めた。

経歴[編集]

クラブ経歴[編集]

VfBシュトゥットガルト時代のクリンスマン。写真はUEFAカップ1988-89準決勝、1.FCディナモ・ドレスデン戦。

1978年西ドイツのクラブチーム・SVシュトゥットガルター・キッカーズに入団してキャリアをスタート。1984年VfBシュトゥットガルトへ移籍し、1987年/1988年シーズンには得点王を獲得。

インテル[編集]

1989年にはセリエAインテル・ミラノへ移籍。3シーズンの間インテルでプレーし、初年度は13ゴール、二年目は14ゴールを記録、UEFAカップの優勝にも貢献したが、1991/92シーズンはミラノダービーではゴールを決めるも、リーグで7得点、チームは8位に終わる。

ASモナコ[編集]

その後モナコでは1シーズン目にリーグ戦で20ゴールを記録する活躍を見せた。

トッテナム[編集]

トッテナムではリーグ戦21ゴールを挙げ、リーグのライターが選ぶ最優秀選手にも選ばれた[1]が一年で母国へ帰還。

バイエルン[編集]

1995年に母国バイエルン・ミュンヘンに移籍して2シーズンを過ごし、一年目はリーグ戦16ゴール、二年目は15ゴールを決めた。またUEFAカップ、リーグ優勝を獲得した。

その後[編集]

1997年からはサンプドリアに移籍するも8試合2得点振るわず、シーズン途中トッテナムは復帰15試合9得点を記録し1998年でプロとしては現役を引退した。[2]2003年からはアメリカのアマチュアクラブのオレンジカントリー・ブルースターズでプレーし現役を引退した。

代表歴[編集]

代表としては、西ドイツ代表に招集され、1987年12月12日ブラジル戦でデビューを飾った。1988年ソウルオリンピックでは銅メダル獲得に貢献した。 ストライカーとして1990年ワールドカップ・イタリア大会で優勝、UEFA欧州選手権1996では優勝を果たすなど、ドイツのタイトル獲得に貢献した。ワールドカップにはイタリア大会3得点、アメリカ大会で5得点、フランス大会3得点、とどの大会でもゴールを決めている。長年にわたり主将を務めた。通算成績は108試合47得点。

指導者として[編集]

代表引退後は、コーチライセンスを取得し2004年ルディ・フェラー辞任を受けてドイツ代表監督に就任した。監督就任後若手選手を積極的に起用したが、なかなか結果を出せず、親善試合でも苦戦が続いた。このため、後述するように母国を留守にしていることも相まってドイツ国民から批判を受けることが多かったが、地元開催のFIFAワールドカップ・ドイツ大会で下馬評を覆す試合内容、成績を収めたため評価は好転。3位決定戦ではポルトガルを3-1で破って3位に導いた。大会終了後監督を辞任すると発表、退任後はドイツの有料テレビで解説者を務めていた。

2008年1月、2007-08シーズン終了後にオットマー・ヒッツフェルトの後任としてバイエルン・ミュンヘンの監督に就任することを発表[3]。 チームの大胆な改革を進めてきたが、2009年4月27日、リーグ戦の成績不振やチャンピオンズリーグの惨敗を理由にバイエルン・ミュンヘンの監督を解任された[4]

2011年7月29日アメリカ代表監督に就任した[5][6]。ドイツ代表、バイエルン同様、アメリカ代表でも大胆な改革を進め、ボブ・ブラッドリー政権で主将を務めたカルロス・ボカネグラや同政権のエースだったランドン・ドノバン(2013年7月に復帰)といった重鎮に見切りをつけ、クリント・デンプシージョジー・アルティドールティム・ハワードといった同政権の主力をベースにしつつも、ファビアン・ジョンソンアロン・ヨーハンソンなど、欧州のクラブシーンで活躍する二重国籍者を勧誘して、次々とアメリカ代表デビューさせた。ジャーメイン・ジョーンズクリス・ウォンドロウスキなどクリンスマン就任前の二重国籍者も加え、陣容も戦術も大きく変化させた。2013年のCONCACAFゴールドカップでは優勝に導き、2014 FIFAワールドカップの出場にも導いた。

2014 FIFAワールドカップでは、これまで3大会連続出場したランドン・ドノバンを最終メンバーから外した[7]。1次リーグで母国ドイツ代表と対戦し0-1で敗れたものの、グループ2位を確保し決勝トーナメント進出を果たした(1回戦でベルギー代表に延長負け)。

2016年11月、2018 FIFAワールドカップ・北中米カリブ海5次予選メキシコ代表戦、コスタリカ代表戦で連敗した事がきっかけとなり[8]、2016年11月21日、アメリカ代表監督を解任された。[9]

エピソード[編集]

クリンスマン・ベーカリー(実家のパン屋)
  • パン職人の息子であり、本人もパン職人の資格を取得している(現在は父は他界し、母と兄が後を継いで経営している)。その華やかな実績とは裏腹に私生活はきわめて地味であり、スター選手となった後も、車は中古、鞄はリュックを愛用している。現役時代から、高額な年俸の遣い道を聞かれ「将来に備えて貯蓄しているところ」と答えている。
  • 一年の大半をアメリカ合衆国カリフォルニア州で過ごしている。ドイツ代表監督を務めていたときもカリフォルニアから試合や合宿のたびにやってくる生活だったため、しばしば批判の対象とされた。アマチュアクラブのオレンジカウンティ・ブルースターでは、ジェイ・ゲッピンゲンの偽名でプレーを続けていた。「ジェイ」は彼のファーストネームの頭文字、「ゲッピンゲン」は出身地のゲッピンゲンから取ったものと想像される。
  • 「どの監督にも好みの選手とそうでない選手がいる」と語っており、選手の好みがはっきりしている監督だと評される[11]

獲得タイトル[編集]

クラブ[編集]

代表[編集]

個人タイトル[編集]

監督[編集]

ドイツ代表[編集]

アメリカ代表[編集]

脚注[編集]

外部リンク[編集]