エンツォ・フランチェスコリ

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この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はフランチェスコリ第二姓(母方の)はウリアルテです。
エンツォ・フランチェスコリ Football pictogram.svg
Enzo Francescoli 2011.jpg
2011年のフランチェスコリ
名前
本名 エンツォ・フランチェスコリ・ウリアルテ
Enzo Francescoli Uriarte
愛称 西:El Príncipe
:Le Prince (王子様)
ラテン文字 Enzo FRANCESCOLI
基本情報
国籍 ウルグアイの旗 ウルグアイ
生年月日 (1961-11-12) 1961年11月12日(55歳)
出身地 モンテビデオ
身長 180cm
体重 73kg
選手情報
ポジション FW / MF
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1980-1982 ウルグアイの旗 モンテビデオ・ワンダラーズ 74 (20)
1983-1986 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 113 (68)
1986-1989 フランスの旗 RCパリ 89 (32)
1989-1990 フランスの旗 オリンピック・マルセイユ 28 (11)
1990-1993 イタリアの旗 カリアリ 98 (17)
1993-1994 イタリアの旗 トリノ 24 (3)
1994-1997 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 84 (47)
代表歴
1982-1997 ウルグアイの旗 ウルグアイ 73 (15)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

エンツォ・フランチェスコリ・ウリアルテ(Enzo Francescoli Uriarte, 1961年11月12日 - )は、ウルグアイモンテビデオ出身の元サッカー選手、実業家。ウルグアイ代表である。ポジションはフォワードミッドフィールダー

ニックネームはEl príncipe(エル・プリーンシペ=スペイン語)やLe prince(ル・プランス=フランス語)、どちらもプリンス(王子)という意味であり[1]、前者は当時流行っていた曲名から付けられた[2]

概要[編集]

1979年にモンテビデオ・ワンダラーズFCからプロデビューし、1983年に移籍したアルゼンチンのCAリーベル・プレートではリーグ得点王、リーグ最優秀選手賞、南米最優秀選手賞など数々のタイトルを獲得した。1986年から8年間はフランスとイタリアのクラブに在籍し、オリンピック・マルセイユではリーグ優勝を果たした。1994年にリーベル・プレートに復帰し、4度のリーグ優勝、2度のリーグ得点王、2度目の南米最優秀選手賞受賞など全盛期といえる活躍を見せた。

ウルグアイ代表としてFIFAワールドカップに2度(1986 FIFAワールドカップ1990 FIFAワールドカップ)出場し、いずれもベスト16の成績を収めた。コパ・アメリカでは3度(コパ・アメリカ1983コパ・アメリカ1987コパ・アメリカ1995)優勝し、その中でも母国開催の1995年大会では主将として優勝に貢献した。

経歴[編集]

クラブ[編集]

1961年にモンテビデオのカプーロ地区に生まれ、6歳から14歳までは地元のカディス・ジュニアーズでプレーした[3]CAペニャロールCAリーベル・プレートのトライアルを受けたこともあったが、痩せすぎているという理由で不合格であった[4]。14歳の時にモンテビデオ・ワンダラーズFCの下部組織に入団し、19歳でトップチームデビューすると、在籍期間中に74試合に出場して20得点した[5]

前期リーベル時代[編集]

1983年に移籍金36万ドルでアルゼンチンのCAリーベル・プレートに移籍し、4月24日のフェロカリル・オエステ戦で初得点を決めた[5]。移籍初年度は多大なプレッシャーや怪我などで調子が上がらず[6]、リーグ戦では19チーム中18位と散々な成績だったが、1984年にはリーグ戦で準優勝し、リーグ得点王とリーグ最優秀選手のタイトルを獲得した[5]。さらに、ウルグアイ人として初めて南米年間最優秀選手賞を受賞した。1985-86シーズンには再び得点王に輝き、リーグ制覇を果たした。リーベルでは113試合に出場して68得点を決めた[7]。また1986年には、コパリベルタドーレスカップの優勝に貢献、優勝を置き土産にチームを去る。

フランス時代[編集]

1986年、アルゼンチンの経済状況の悪化などの理由からフランス・ディヴィジョン・アン(1部)のラシン・パリに移籍した[7]。3シーズンで89試合に出場して36得点を決めたが、クラブのディヴィジョン・ドゥ(2部)降格とともにオリンピック・マルセイユに移籍した[7]。当時のマルセイユにはFWジャン=ピエール・パパン、FWアベディ・ペレ、MFクリス・ワドル、MFディディエ・デシャンなど中盤から前線にかけて名選手がひしめき合っていたが[8]、1989-90シーズンのリーグ戦では28試合で11得点を挙げ、リーグ優勝を飾るとともに、ディヴィジョン・アン最優秀外国人選手賞を受賞した[9]UEFAチャンピオンズカップでは準決勝に進出したが、SLベンフィカ戦ではミスを連発して戦犯のひとりにされた[10]

イタリア時代[編集]

わずか1シーズンでマルセイユを離れる決断をし、セリエAに昇格したばかりのカリアリ・カルチョに移籍した[11]。カリアリで3シーズンを過ごし、98試合で17ゴールを記録した。またカリアリ史上最高のベスト11の一人に選ばれた。[12] 1993年にはJリーグ横浜マリノスに入団するとの憶測もあったが実現せず、1993/94シーズンはトリノFCで1シーズンプレー、コパイタリアでは準決勝に進むセリエBのアンコナに敗れ決勝出場ならず。リーグ戦では24試合で3ゴールに終わる。

後期リーベル時代[編集]

1994年に古巣CAリーベル・プレートに復帰。 リーベル・プレートで過ごした3年半でアペルトゥーラ・クラウスーラ合わせて4度リーグ優勝し、2度目の得点王に輝いた。1995年には再び南米年間最優秀選手賞に選ばれ、1996年にはコパ・リベルタドーレス優勝に大きく貢献。トヨタカップのために来日し、ジネディーヌ・ジダンアレッサンドロ・デル・ピエロらを擁したユヴェントス(イタリア)と対戦したが、0-1で敗戦した。1997年にはサンパウロFCを破り南米スーパーカップ優勝に貢献した。1997年リーグ優勝を置き土産に引退。 1999年8月1日には幼少期からの憧れのクラブであったペニャロールとの引退試合が行われ、8万人の観客に加えてウルグアイのフリオ・マリア・サンギネッティ大統領やアルゼンチンのカルロス・メネム大統領も駆け付けた[13]

ウルグアイ代表[編集]

1981年には南米ユース選手権を勝ち取った[9]。1983年10月13日のコパ・アメリカ準決勝・ペルー戦でウルグアイA代表デビューした。決勝のブラジル戦で代表初ゴールとなる先制点を決めて優勝の立役者となり、大会最優秀選手賞を受賞した。

1986 FIFAワールドカップ1次リーグを辛くも突破したが、決勝トーナメント1回戦でディエゴ・マラドーナを擁するアルゼンチンと対戦し、0-1で敗れてベスト16に終わった。コパ・アメリカ1987準決勝では開催国のアルゼンチンと対戦し、アントニオ・アルサメンディの決勝ゴールをアシストして勝利し、前年のFIFAワールドカップで敗れた雪辱を果たした。しかし決勝のチリ戦では前半26分に退場処分を受け、優勝の瞬間はピッチの外にいた。1990年5月に行われたイングランドとの親善試合ではイングランドのファンをも魅了するプレーを見せ、イングランドの代表戦無敗記録を17戦で途切れさせた[14]1990 FIFAワールドカップには主将として臨んだが、本来の力を発揮しきれず、4年前と同じベスト16に終わった。地元ウルグアイで開催されたコパ・アメリカ1995では、2得点を挙げるなど主将として大車輪の活躍でチームを牽引し、優勝で国民の期待に応え、大会最優秀選手にも選ばれた。

その後、一旦はウルグアイ代表を引退したものの、1996年に1998 FIFAワールドカップ南米予選の途中で復帰した。3度目のFIFAワールドカップ出場を目指したが、ウルグアイが予選敗退したため、1997年に再び引退を表明した。2010年11月現在、ウルグアイ代表のフィールドプレーヤー中最多出場記録を保持している[15]

引退後[編集]

2002年には妻子とともにアメリカのマイアミに移り住み[2]、2003年にはネルソン・グティエレスらとともに英語のサッカーチャンネルであるGOL TV社を設立した[16]。現在は同社とテンフィールド社の副社長を務めている[17]。GOL TVの仕事が軌道に乗ったため、家族とともにブエノスアイレスに戻り、週に1度マイアミを訪れる生活をしている[2]。FIFA.comのインタビューでは「監督業には魅力を感じていない」と答えている[2]。2004年2月に行われたカルロス・バルデラマの引退試合にはイバン・サモラーノホセ・ルイス・チラベルトらとともに参加した[18]。2004年3月、ペレが選ぶ偉大なサッカー選手100人に選ばれた[19]。2010年3月、ワールドサッカー誌が選ぶ歴代優秀攻撃的ミッドフィールダー50人に選ばれた[20]2010 FIFAワールドカップ時にはアルゼンチンのテレビ局で解説者を務めた[21]

人物[編集]

プレースタイル[編集]

すらりとした体形であり、上品で優雅な[16]、流れるようなボール捌きが特徴である[17]。彼のプレーはジネディーヌ・ジダンほか多数の選手に影響を与えている[17]。そのなかでもジダンは敬愛する選手にフランチェスコリの名前を挙げ、自分の息子に「エンツォ」という名前を授けている[15]。1996年のトヨタカップ試合後にはジダンとユニフォーム交換し[2]、感激したジダンは以下のように述べた。

"子どもの頃の夢はフランチェスコリのユニフォームを手に入れることだった"

—  ジネディーヌ・ジダン (1996)

影響[編集]

ウルグアイ人であるが、CAリーベル・プレートでの活躍からアルゼンチンのサッカーファンに愛されている[22]。そのため母国のウルグアイのみならずアルゼンチンにも愛着を持っており、2010 FIFAワールドカップは両国ともに応援した[15]

容姿が整っていたり、テクニックにとりわけ秀でている南米出身選手は「フランチェスコリの再来」と言われることがある。

ディエゴ・ミリート:フランチェスコリと顔立ちが似ている。ミリートの少年時代からのアイドルはフランチェスコリである[23]
ロベルト・フローレス:端正な顔立ちとその技術から。

個人成績[編集]

国内大会の成績[編集]

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
ウルグアイ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
1980 ワンダラーズ プリメーラ
1981 ワンダラーズ プリメーラ
1982 ワンダラーズ プリメーラ
アルゼンチン リーグ戦 リーグ杯 アルヘンティーナ杯 期間通算
1983 CAリーベル・プレート プリメーラ 27 11
1984 リーベル・プレート プリメーラ 49 29
1985-86 リーベル・プレート プリメーラ 37 28
フランス リーグ戦 F・リーグ杯 フランス杯 期間通算
1986-87 ラシン・パリ ディヴィジョン・アン 35 14
1987-88 ラシン・パリ ディヴィジョン・アン 28 8
1988-89 ラシン・パリ ディヴィジョン・アン 26 10
1989-90 マルセイユ ディヴィジョン・アン 28 11
イタリア リーグ戦 イタリア杯 オープン杯 期間通算
1990-91 カリアリ セリエA 33 4
1991-92 カリアリ セリエA 33 6
1992-93 カリアリ セリエA 32 7
1993-94 トリノ セリエA 24 3
アルゼンチン リーグ戦 リーグ杯 アルヘンティーナ杯 期間通算
1994-95 リーベル・プレート プリメーラ 16 12
1995-96 リーベル・プレート プリメーラ 20 7
1996-97 リーベル・プレート プリメーラ 26 15
1997-98 リーベル・プレート プリメーラ 22 13
通算 ウルグアイ プリメーラ 74 20 74 20
アルゼンチン プリメーラ 197 115 242 137
フランス ディヴィジョン・アン 117 43 117 43
イタリア セリエA 122 20 122 20
総通算 510 198 17 7 572 227

[24]

代表での得点[編集]

代表歴[編集]

タイトル[編集]

代表[編集]

ウルグアイ代表

クラブ[編集]

CAリーベル・プレート
オリンピック・マルセイユ

個人[編集]

脚注[編集]

  1. ^ ウィリアムズ2007、173頁
  2. ^ a b c d e Francescoli, the Uruguayan prince”. FIFA.com. 2010年11月2日閲覧。
  3. ^ リベイロ・レモス2008、113頁
  4. ^ リベイロ・レモス2008、114頁
  5. ^ a b c ウィリアムズ2007、188頁
  6. ^ リベイロ・レモス2008、115頁
  7. ^ a b c ウィリアムズ2007、189頁
  8. ^ ウィリアムズ2007、190頁
  9. ^ a b Enzo Francescoli Biography”. Football Team Players.com. 2010年11月2日閲覧。
  10. ^ ウィリアムズ2007、191頁
  11. ^ ウィリアムズ2007、192頁
  12. ^ Speciale: Top 11 - Cagliari” (Italian). Cagliari Calcio.com. 2016年1月8日閲覧。
  13. ^ ウィリアムズ2007、195頁
  14. ^ ウィリアムズ2007、193頁
  15. ^ a b c Enzo Francescoli Talks On Uruguay, Argentina And River Plate”. Goal.com (2010年3月11日). 2010年11月2日閲覧。
  16. ^ a b Interview with Uruguayan Legend Enzo Francescoli, CEO and Founder of GolTV”. Soccerlens.com (2008年4月19日). 2010年11月2日閲覧。
  17. ^ a b c Enzo Francescoli”. 123football. 2010年11月2日閲覧。
  18. ^ 元コロンビア代表バルデラマの引退試合に56000人”. FC JAPAN. 2010年11月2日閲覧。
  19. ^ Pele's list of the greatest”. BBC Sport (2004年3月4日). 2010年11月2日閲覧。
  20. ^ The Greatest Attacking Midfielders of All-Time”. World Soccer (2010年3月5日). 2010年11月2日閲覧。
  21. ^ 『2010 南アフリカ・ワールドカップ決算号』、ベースボール・マガジン社、2010年、48頁
  22. ^ Enzo Francescoli ( football player)”. persona.rin. 2010年11月2日閲覧。
  23. ^ ディエゴ・ミリート”. livedoorスポーツ. 2010年11月2日閲覧。
  24. ^ リーグ戦以外の試合出場のほとんどは南米カップ戦出場によるものである

参考文献[編集]

  • リチャード・ウィリアムズ『背番号10のファンタジスタ』、町田敦夫訳、ベースボール・マガジン社、2007年
  • アンドレ・リベイロ、ヴラジール・レモス『背番号10 サッカーに「魔法」をかけた名選手たち』、市ノ瀬敦訳、白水社、2008年