ケビン・キーガン

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ケビン・キーガン Football pictogram.svg
Kevin Keegan.jpg
名前
本名 ジョセフ・ケビン・キーガン
Joseph Kevin Keegan
愛称 マイティマウス、キング・ケヴ
ラテン文字 Kevin Keegan
基本情報
国籍 イングランドの旗 イングランド
生年月日 (1951-02-14) 1951年2月14日(67歳)
出身地 ドンカスター
身長 172cm
体重 73kg
選手情報
ポジション FW/MF
利き足 右足
ユース
1967-1968 イングランドの旗 スカンソープ・ユナイテッド
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1968-1971 イングランドの旗 スカンソープ・ユナイテッド 124 (18)
1971-1977 イングランドの旗 リヴァプール 230 (68)
1977-1980 ドイツの旗 ハンブルガーSV 90 (32)
1980-1982 イングランドの旗 サウサンプトン 68 (37)
1982-1984 イングランドの旗 ニューカッスル・ユナイテッド 78 (48)
1982-1984 オーストラリアの旗 ブラックタウン・シティ英語版 2 (1)
代表歴
1972-1982 イングランドの旗 イングランド[1] 63 (21)
監督歴
1992-1997 イングランドの旗 ニューカッスル・ユナイテッド
1998-1999 イングランドの旗 フラム
1999-2000 イングランドの旗 イングランド代表
2001-2005 イングランドの旗 マンチェスター・シティ
2008 イングランドの旗 ニューカッスル・ユナイテッド
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ジョゼフ・ケビン・キーガン(Joseph Kevin Keegan OBE1951年2月14日 - )は、イングランドドンカスター出身の元サッカー選手[2]、サッカー指導者。現役時代のポジションはFWMFバロンドールを二度受賞している)[2]

人物・略歴[編集]

選手として[編集]

1970年代中盤から1980年代初頭のイングランドを代表する選手。小柄ながら豊富なスタミナでフィールドを駆け回り「マイティ・マウス」と呼ばれ、小柄だが鍛え抜かれた身体で相手守備陣を手玉にとり、数々のゴールと勝利を重ね、その気さくな性格で多くの人々から愛されるアイドルでもあった[3]

1951年2月14日、ケビン・キーガンはイギリスのドンカスターに生を受け、サッカーを始めた頃はGKに憧れ、自らもゴールを守ることを望んだが、体躯が小さく、すばしっこいキーガンをゴールマウスに立たせようという監督はおらず、彼は“泣く泣く”背番号7をつけて攻撃的プレーヤーとなった[3]

1966年、4部リーグの「「スカンソープ・ユナイテッドFC|スカンソープ・ユナイテッド」」に入団し、1968年プロにデビュー、右サイドのMFとしてエネルギッシュなプレーで頭角を現わし、チームの勝利に直接的に貢献し続けた[3]

1971年当時リヴァプールの監督であったビル・シャンクリーの目に止まり、リヴァプールに引き抜かれた。移籍金はわずか4万ポンドで、後に70年代最大の「バーゲンセール」といわれたほどだ[3][2]。1971-72シーズンのデビュー戦で開始12分にゴールを奪ったキーガンは、以降、ジョン・トシャックとのコンビで多くの得点と勝利をチームにもたらし、2年目で早くもリーグ優勝に貢献。このシーズンはUEFAカップも制し、ダブルを達成した[3]

1975-76年にはUEFAカップ決勝、ブルージュ戦では第1戦、2戦で共に得点を決め、大きく優勝に貢献した[4]1976-77年にはチャンピオンズカップ決勝でアラン・シモンセン擁するボルシアMGを3-1で破りリヴァプールにクラブ初のチャンピオンズカップ優勝をもたらす[2]、また2度のUEFAカップ制覇、3度のリーグ制覇など、数多くのタイトル獲得に貢献し、リヴァプールサポーターのアイドル的存在であり、リヴァプールでは323試合100ゴールの成績を残した[4]

1977年にドイツのハンブルガーSVへ移籍)[2] 。移籍の理由について「お金の問題ではない。イングランドよりもレベルが高いといわれるブンデスリーガで自分を高めたかった」[3]、と語った。当時は英国から海外へ移籍する例、または移籍先で成功する例が少なかった事から活躍が懸念されたが、ハンブルクでも中心選手としていきなりチームにフィットし、加入2年目の1978-79シーズンにはブンデスリーガ発足後初となるリーグ優勝をチームにもたらした[3]。翌1979-80シーズンのUEFAチャンピオンズカップ準優勝に貢献し成功を収めている。

1980年よりイングランドに復帰、サウサンプトンに入団した。

1981-1982年には26ゴールを決める活躍で得点王に輝き、PFA年間最優秀選手賞を受賞、1982年には勲章(OBE)を受勲した[5]。 その後当時2部のニューカッスルに突然移籍しファンを驚かせた[6]。 、1984年に引退した[2]

これらの活躍により1978年1979年と2年連続でバロンドール(欧州最優秀選手)を受賞したが、イングランド代表での活躍には縁が無く、74年ワールドカップ予選で代表デビューを果たしながら、イングランドは続けて予選敗退を繰り返し、キーガンがようやく大舞台に立てたのは29歳の時。イタリアでの欧州選手権だった。唯一のワールドカップ出場となった1982年のワールドカップ・スペイン大会では大会開幕の数か月前、風呂場で栓を抜こうとした際に背筋を痛めてしまい、この怪我を引きずり、スペイン大会の2次リーグ、スペイン戦に交代で30分間出場するに止まった[7]。1984年に引退した[2]。 イングランド代表通算63キャップ21得点[2]

2004年3月ペレが選ぶ「偉大なサッカー選手100人」に選出された。

監督として[編集]

指導者としてはイングランドのクラブと、イングランド代表の監督を歴任している)[2]

1992-93シーズンに当時ディヴィジョン1(現在のフットボールリーグ・チャンピオンシップ、2部リーグに相当)のニューカッスルを指揮し優勝、プレミアリーグ昇格を決めている。 1995-96シーズンはブラックバーンから獲得したアラン・シアラーを擁して快進撃し、一時は2位に12ポイントを付けて首位を独走する活躍を見せた(最終的にはマンチェスター・ユナイテッドに逆転されて2位に終わる)。1998-99シーズンはディビジョン2(現在のフットボールリーグ1、3部相当)のフルハムを指揮し優勝に導いた。

これらのクラブでの手腕が認められ1999年2月にグレン・ホドルの後任としてイングランド代表監督に就任。翌年のEURO2000出場に導き本大会でも指揮を執ったが、1勝2敗で1次リーグ敗退に終わる。そして10月7日にウェンブリー・スタジアム最後の試合として行われたドイツとのFIFAワールドカップ・予選(0-1、ディートマー・ハマンの得点)に敗れ辞任をした。

2001-02シーズンには再びクラブチームを指揮するようになり、ディヴィジョン1にいたマンチェスター・シティを優勝に導きプレミアリーグへ昇格させた。

そして2008年1月、途中解任されたサム・アラダイスの後任として1997年以来11年ぶり2度目のニューカッスル監督に就任した。しかし、オーナーであったマイク・アシュリーと対立し、わずか8ヶ月で辞任することとなった。

所属クラブ[編集]

代表歴[編集]

指導歴[編集]

タイトル[編集]

チーム[編集]

リヴァプール
ハンブルガーSV

個人[編集]

出典[編集]