セルジオ・コンセイソン

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この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の)はマルセネイロ第二姓(父方の)はダ・コンセイソンです。
セルジオ・コンセイソン Football pictogram.svg
名前
本名 セルジオ・パウロ・マルセネイロ・ダ・コンセイソン
Sérgio Paulo Marceneiro da Conceição
ラテン文字 Sérgio Conceição
基本情報
国籍 ポルトガルの旗 ポルトガル
生年月日 (1974-11-15) 1974年11月15日(43歳)
出身地 コインブラ
身長 178cm
体重 78kg
選手情報
ポジション FW (WG)
利き足 右足
ユース
1986-1991 ポルトガルの旗 アカデミカ
1991-1993 ポルトガルの旗 ポルト
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1993-1994 ポルトガルの旗 ペナフィエル 30 (2)
1994-1995 ポルトガルの旗 レサ 24 (3)
1995-1996 ポルトガルの旗 フェルゲイラス 30 (4)
1996-1998 ポルトガルの旗 ポルト 56 (9)
1998-2000 イタリアの旗 ラツィオ 63 (7)
2000-2001 イタリアの旗 パルマ 25 (5)
2001-2003 イタリアの旗 インテル・ミラノ 41 (1)
2003-2004 イタリアの旗 ラツィオ 7 (0)
2004 ポルトガルの旗 ポルト 11 (0)
2004-2007 ベルギーの旗 スタンダール・リエージュ 74 (21)
2007 クウェートの旗 アル・カーディシーヤ 7 (5)
2008-2010 ギリシャの旗 PAOK 37 (4)
通算 535 (49)
代表歴
1995-1996 ポルトガルの旗 ポルトガル U-21 7 (1)
1996-2003 ポルトガルの旗 ポルトガル 56 (12)
監督歴
2010-2011 ベルギーの旗 スタンダール・リエージュ (アシスタントコーチ)
2012-2013 ポルトガルの旗 オリャネンセ
2013-2014 ポルトガルの旗 アカデミカ
2014-2015 ポルトガルの旗 ブラガ
2015-2016 ポルトガルの旗 ヴィトーリア・ギマランイス
2016-2017 フランスの旗 FCナント
2017- ポルトガルの旗 FCポルト
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

セルジオ・パウロ・マルセネイロ・ダ・コンセイソン(Sérgio Paulo Marceneiro da Conceição, 1974年11月15日 - )は、ポルトガルコインブラ出身の元同国代表の元サッカー選手。現サッカー指導者。現在はプリメイラ・リーガFCポルトの監督を務めている。ポジションはWG

経歴[編集]

コインブラで生まれると、地元のアカデミカ・コインブラの下部組織でキャリアをスタート。2部FCペナフィエルポルトガル語版でプロデビューを果たすと、以降はレサFCポルトガル語版FCフェルゲイラスポルトガル語版と同カテゴリーのクラブチームを転々とし、1996年にトップカテゴリーの強豪FCポルトに入団。ポルトでの2年は右WGの中心選手としてゴールを重ねるなど攻守に渡り活躍し、リーグ連覇やタッサ・デ・ポルトガルのタイトル獲得に貢献した。

この活躍が認められて、1998-99シーズンセリエAへ渡り、移籍金1120万ユーロでラツィオへ加入[1]。移籍後すぐにレギュラーを掴むと、UEFAカップウィナーズカップの優勝に貢献、またリーグ戦では33試合5得点を記録した。さらに、翌1999-2000シーズンはリーグとコッパ・イタリアの2冠にUEFAスーパーカップとチームの黄金期を支えた。

2000年7月、エルナン・クレスポと交換で同僚のマティアス・アルメイダと共にパルマACへ移籍[2]次のシーズンは、同様にセバスティアン・フレイとの交換でインテルナツィオナーレ・ミラノへ移籍金10億リラ・4年契約で加入した[3][4]。ここでは、エクトル・クーペル監督の下で思うように活躍が出来ずにいると、2003年7月28日に双方合意で契約を解除して[5]自由移籍でラツィオへ復帰するも出場機会はあまりなく、再び契約を解除しFCポルトへ復帰[1]。ポルトでは、自身3度目となるスーペル・リーガのタイトルを獲得した。

2004年、ポルトとの契約が満了したためベルギースタンダール・リエージュと1年契約で加入[6]。加入後程なくして練習中に膝を負傷したことにより、約1ヶ月戦列を離れていた[7]時期があったものの、同シーズンのベルギー・ゴールデン・シューに輝いた[8]。その後も活躍を続けていたが、2006年3月の試合中に相手選手にを吐きかけたことでレッドカードを提示されると、さらに主審に対し暴行をしたことでベルギーサッカー協会から4ヶ月半の出場停止を言い渡され、そのままシーズンを終了した[9]

翌2006-07シーズンは、UEFAチャンピオンズリーグ予選3回戦に間に合いサスペンションが終わりるも、今度は左膝を負傷したことで離脱[10]を余儀なくされ、キャプテンを失って窮地に陥ったチームはFCステアウア・ブカレストに敗れ本大会進出を逃した。また、リーグ戦では3位・カップ戦では決勝戦で敗れ準優勝とタイトル獲得に及ばなかった。

2007年6月24日、SCブラガ移籍寸前だったものの、年俸110万ユーロでクウェートカーディシーヤSCと契約[11]。2008年1月、ポルトガル復帰が失敗するも同胞のフェルナンド・サントス率いるギリシャPAOKテッサロニキと18ヶ月の契約で加入すると、クラブの伝説的選手にして会長を務めるテオドロス・ザゴラキスの背番号7を与えられた。

翌2008-09シーズンからキャプテンを務め、同胞のアデリーノ・アンドレ・ヴィエイラ・フレイタス(ヴィエイリーニャ)と共に両WGのレギュラーとして支え、優勝には及ぼなかったもののパナシナイコスFCAEKアテネといった3強のうち2チームを抑え準優勝に貢献。そのリーダーシップとクラブへの献身からファンのお気に入り選手となっていった。しかし、翌シーズンの序盤に負傷をすると定期的な怪我に悩まされ、10月13日に引退を表明[12]。程なくして、同クラブの会長となったジシス・ヴリーザス英語版の後を引き継ぎスポーツディレクターに就任した。

2010年5月後期にPAOKから去り、コーチングスタッフとして古巣のスタンダールに移動。2012年1月1日、ダウト・ファキラ英語版に代わりSCオリャネンセポルトガル語版の監督に就任。指導者としてのキャリアをスタートさせた。

代表[編集]

ポルトガル代表としては、1996年11月19日の1998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選・ホームで1-0と勝利したウクライナ戦でデビューをし、2003年9月6日の親善試合で0-3で敗北したスペイン戦まで56試合12得点を記録した。

UEFA EURO 2000でチームはグループステージを2連勝し、早々と1位突破が確定する中でコンセイソンは控えとしてプレーしていた。ロッテルダムで行われた3試合目にして最終戦のドイツ戦でようやく先発起用されると、前回王者相手にこの試合全ゴールとなるハットトリックを決める[13]と、この活躍が認められて、以降は敗退するまでスタメンとしてプレーした。

2002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選アイルランドオランダ等から4ゴールを奪い本大会進出に貢献し、メンバーにも選ばれた。

プライベート[編集]

故郷コインブラに自身の名を冠した収容人数2,500人のエスタディオ・ムニシパル・セルジオ・コンセイソンポルトガル語版が建設された[14]

個人成績[編集]

代表での成績[編集]

出典[15]


ポルトガル代表 国際Aマッチ
出場 得点
1996 1 0
1997 7 1
1998 3 0
1999 9 1
2000 12 5
2001 6 2
2002 11 3
2003 7 0
合計 56 12

タイトル[編集]

クラブ[編集]

FCポルト
SSラツィオ

個人[編集]

脚注[編集]

外部リンク[編集]