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プレドラグ・ミヤトヴィッチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
プレドラグ・ミヤトヴィッチ
2007年のミヤトヴィッチ
名前
ラテン文字 Predrag Mijatović
セルビア語 セルビア語: Предраг Мијатовић
基本情報
国籍 モンテネグロの旗 モンテネグロ
生年月日 (1969-01-19) 1969年1月19日(55歳)
出身地 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 チトーグラード
身長 177cm
体重 73kg
選手情報
ポジション FW
利き足 右足
ユース
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 コム
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 OFKチトーグラード
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ブドゥチノスト・チトーグラード
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1987-1989 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ブドゥチノスト・チトーグラード 73 (10)
1990-1993 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 パルチザン 104 (44)
1993-1996 スペインの旗 バレンシア 104 (56)
1996-1999 スペインの旗 レアル・マドリード 90 (29)
1999-2002 イタリアの旗 フィオレンティーナ 42 (4)
2002-2003 スペインの旗 レバンテ 21 (3)
通算 434 (146)
代表歴
1989-1992 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア 9 (0)
1994-2003 ユーゴスラビアの旗 ユーゴスラビア 60 (27)
2003 セルビア・モンテネグロの旗 セルビア・モンテネグロ 4 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

プレドラグ・ミヤトヴィッチセルビア語: Предраг Мијатовић, Predrag Mijatović, 1969年1月19日 - )は、モンテネグロポドゴリツァ出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはフォワード。元ユーゴスラビア代表

ユーゴスラビアを代表するストライカーのひとり。巧みな足技と力強いドリブルが持ち味で、速い足の振りから繰り出す強力なシュートから「バルカンの速射砲」の異名をとった。元々は攻撃的なMFとしてキャリアをスタートしたが、のちに前線FWへとポジションを上げ活躍した。

経歴

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数年ユースチームで過ごした後、1987年に地元のクラブチーム・ブドゥチノスト・チトーグラードでキャリアをスタート。同年のワールドユースに出場し、ユーゴスラビアチームの優勝に貢献する[1]。1987-88シーズンにはクラブのレギュラーとなり、デヤン・サビチェビッチドラゴリュブ・ブルノヴィッチブランコ・ブルノヴィッチらと共にプレー、31試合に出場した。

1989年冬の移籍市場にてパルチザン・ベオグラードへ移籍して、デビュー戦となった古巣ブドゥチノストとの試合でゴールを挙げた。しかし、移籍後半年程度は新しい環境にうまく適応することが出来ず、得点を重ねることができなかった。翌シーズン、14得点を記録して才能を開花させた。1991-92シーズンには国内カップ獲得。1992-93シーズンにはチームのリーグ優勝に貢献した。

1993年夏の移籍市場でリーガ・エスパニョーラバレンシアへ移籍。9月5日のレアル・オビエド戦でデビューを果たすと、フース・ヒディンク率いるチームにおいて絶対的な存在となった。最終的にリーガ初シーズンは35試合に出場し、16得点を記録した。1995-96シーズンにはリーグ2位となる28得点を挙げた。

1995-96シーズン終了後、よりタイトルを獲ることが出来る可能性が高いレアル・マドリードへの移籍を希望し、レアル・マドリードもバレンシアに違約金を満額支払って強引にミヤトヴィッチを獲得した[2]。移籍1年目からファビオ・カペッロの下ダヴォール・シューケルラウル・ゴンサレスの3人で攻撃を展開し、リーガ優勝の原動力となる。翌シーズンには怪我などもあってリーグ戦は24試合出場に留まったが、アムステルダム・アレナで行われたユヴェントスとの決勝では決勝点を決め、レアル・マドリードUEFAチャンピオンズリーグをもたらした[3]。これらの活躍により同年のバロンドール投票では第2位となった[4]

1998年にチームはトヨタカップを制したが、ラウルとフェルナンド・モリエンテスの二人が優遇され、ミヤトヴィッチは不遇の時期を過ごした。1999-00シーズン、ジョバンニ・トラパットーニ監督に望まれ、大きな期待を受けてセリエAACFフィオレンティーナへ移籍した[5]。しかし怪我の影響もあって、リーグ戦42試合で4得点と全き躍は出来ず、2001-02シーズン後のクラブ消滅を期にイタリアを離れた[5]。他クラブからいくつかのオファーがあったものの、家庭の事情からスペインに戻り、当時セグンダ・ディビシオン(2部)のレバンテへ加入。1シーズンプレーした後、2003年に現役を引退した。

1989年8月23日フィンランド戦で代表デビュー。1998年フランスW杯プレーオフでは2試合7得点と大爆発しヒーローとなったが、本大会では4試合1得点に留まった。代表通算73試合出場、28得点。

2006年ラモン・カルデロンがレアル・マドリードの会長となったことにより、スポーツディレクターに就任。2009年まで同職を務めた[6]

人物

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2009年6月、脳性麻痺により言語・運動機能障害を抱えていた長男のアンドレイを15歳で亡くしている[7]

脚注

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  1. ^ FIFA U-20ワールドカップ歴代優勝チームを振り返る”. FIFA (2023年4月21日). 2024年3月29日閲覧。
  2. ^ 揺るぎない自尊心すら上回る“ライバルへの憎悪”【CL決勝 同国対決の激闘史/ラ・リーガ編】”. サッカーキング (2019年5月27日). 2024年3月29日閲覧。
  3. ^ Predrag Mijatovic”. Real Madrid. 19 may 2017閲覧。
  4. ^ Ballon d’Or Winners-liveabout.com
  5. ^ a b Predrag Mijatovic, dal discusso goal alla Juventus all'avventura con la Fiorentina”. GOAL (2023年1月19日). 2023年8月23日閲覧。
  6. ^ Real Madrid sporting director Predrag Mijatovic leaves by 'mutual agreement'”. The Telegraph (2009年5月20日). 2024年3月29日閲覧。
  7. ^ レアルを7度目のCL優勝に導いたミヤトビッチ氏「脳性麻痺の息子と話せていたなら、そんな名誉はいらなかった」”. ゲキサカ (2017年6月3日). 2024年3月29日閲覧。

外部リンク

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