ダルコ・コバチェビッチ

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ダルコ・コヴァチェヴィッチ Football pictogram.svg
Darko Kovačević 5-mar-2008.jpg
名前
ラテン文字 Darko Kovačević
キリル文字 Дарко Ковачевић
基本情報
国籍 セルビアの旗 セルビア
生年月日 (1973-11-18) 1973年11月18日(43歳)
出身地 コビン
身長 187cm
体重 79kg
選手情報
ポジション FW
利き足 右足
ユース
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗ユーゴスラビアの旗 ラドニチュキ・コヴィン
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1992-1994 ユーゴスラビアの旗 プロレテル 51 (37)
1994-1995 ユーゴスラビアの旗 レッドスター 47 (37)
1995-1996 イングランドの旗 シェフィールド・W 16 (4)
1996-1999 スペインの旗 ソシエダ 98 (41)
1999-2001 イタリアの旗 ユヴェントス 47 (11)
2001 イタリアの旗 ラツィオ 7 (0)
2001-2007 スペインの旗 ソシエダ 180 (51)
2007-2009 ギリシャの旗 オリンピアコス 60 (31)
代表歴
1994-2004 ユーゴスラビアの旗/セルビア・モンテネグロの旗 ユーゴスラビア[1] 58 (10)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ダルコ・コヴァチェヴィッチセルビア語: Дарко Ковачевић / Darko Kovačević, 1973年11月18日 - )は、セルビア出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。ユーゴスラビア代表であった。ポジションはフォワード。現在はオリンピアコスFCのテクニカル・ディレクター、U-21チーム監督を務める。

経歴[編集]

クラブ[編集]

初期の経歴[編集]

地元のFKラドニチュキ・コヴィンの下部組織で育ち、1992年にズレニャニンを本拠地とするトップリーグのプロレテル・ズレニャニンと契約を結び、19歳の時にはユーゴスラビア屈指のゴールスコアラーになった。プロレテル・ズレニャニンで2シーズンを過ごし、1994年にレッドスター・ベオグラードに引き抜かれると、1994-95シーズンには31試合に出場して24得点を挙げた。ヨーロッパの最注目株のひとりとなり、ユーゴスラビア代表にも招集されるようになった。レッドスターでは47試合に出場して37得点というペースで得点を積み上げた。

シェフィールド・ウェンズデイFC[編集]

1995年12月、移籍金200万ポンドでイングランド・プレミアリーグシェフィールド・ウェンズデイFCに移籍。ボルトン・ワンダラーズFC戦 (4-2) で2得点を挙げてレス・ファーディナンドになぞらえられるなど、移籍当初は空中戦で強さを見せたが、1995-96シーズン後半戦は結局4得点にとどまり、レッドスターからシェフィールド・ウェンズデイFCへの移籍は、タイムズ紙による「プレミアリーグへの移籍ワースト50」の10位に選ばれた[2]

レアル・ソシエダ[編集]

1996年夏にスペイン・リーガ・エスパニョーラレアル・ソシエダに移籍。1996-97シーズンは8得点にとどまったが、1997-98シーズンは17得点で得点ランキング上位に位置し、1998-99シーズンも15得点を挙げた。3シーズンで97試合に出場して40得点を挙げた。

ユヴェントスFCとSSラツィオ[編集]

1999年にイタリア・セリエAユヴェントスFCに移籍。ユヴェントスFCにはアレッサンドロ・デル・ピエロフィリッポ・インザーギなどが在籍していたが、リーグ戦でも欧州カップ戦でもそれなりの得点を挙げ、1999-2000シーズンにはUEFAカップで10得点を挙げて得点王となった。しかし、ユヴェントスFCのフロントはコバチェビッチが期待に応えていないと感じていたため、両者はイタリア国外で移籍先を探し、スコットランドのレンジャーズFCが1200万ポンドの移籍金を提示して獲得を狙った[3]

2001年夏にはSSラツィオからマルセロ・サラスが加入し、コバチェビッチは両クラブの取引の一部としてSSラツィオに移籍した。

レアル・ソシエダ復帰[編集]

2002年1月、レアル・ソシエダに復帰。2002-03シーズンには20得点を挙げ、23得点のニハト・カフヴェジとともにチームを牽引し、リーグ2位に押し上げUEFAチャンピオンズリーグの出場権獲得に貢献した。2004-05シーズンは30試合に出場して8得点した。2005-06シーズンは開幕から9試合に出場して4得点3アシストと好調であったが、2005年11月にアキレス腱を負傷して長期離脱した。2006-07シーズンは33試合に出場して2得点と不振に喘ぎ、チームも19位でセグンダ・ディビシオン(2部)降格となった。

オリンピアコスFC[編集]

2007年夏、ギリシャ・スーパーリーグ優勝クラブであるオリンピアコスFCと契約した。良好なコンディションを取り戻し、2007-08シーズンは得点ランキング2位となる17得点を挙げてクラブをリーグ優勝に導き、UEFAチャンピオンズリーグでは3得点を挙げて決勝トーナメント進出を果たした。2008年10月2日、UEFAカップ1回戦のFCノアシェラン戦セカンドレグ (5-0) では2得点を挙げた。2009年初頭には心臓疾患と診断されたが、血流を改善するための心臓の手術は成功に終わった[4]。しかし、医師は現役引退すべきだと提案し、2009年5月に行われた国内2冠を祝う親善試合をラストゲームとし、コバチェビッチ本人も公式に現役引退を発表した[5]

代表[編集]

1994年12月28日のアルゼンチン戦でユーゴスラビア代表デビューした。1996年5月にはキリンカップサッカーのために訪日し、メキシコ戦 (0-0) と日本戦 (0-1) に途中出場した。1998年にはフランスで開催された1998 FIFAワールドカップに出場し、グループリーグをドイツに次ぐ2位で通過すると、決勝トーナメント1回戦でオランダに敗れた。2000年にはベルギーとオランダで共催されたUEFA EURO 2000に出場し、グループリーグをスペインに次ぐ2位で通過すると、準々決勝では2年前と同じくオランダに1-6で大敗した。2004年までに58試合に出場して10得点を挙げた。

現役引退後[編集]

現役引退後、コバチェビッチと家族はスペインに移住したが、ギリシャに戻ってコラムニストなどとして活動した。2010年6月、オリンピアコスFCの会長に就任したEvangelos Marinakisはコバチェビッチをテクニカル・ディレクターとU-21チームの監督に登用した。

タイトル[編集]

クラブ[編集]

  • レッドスター・ベオグラード
ユーゴスラビア・カップ : 1995, 1996
  • オリンピアコスFC
ギリシャ・スーパーリーグ : 2007–2008
ギリシャ・スーパーカップ : 2007
ギリシャ・カップ : 2008

個人[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Yugoslavia (Serbia (and Montenegro)) – Record International Players”. RSSSF (2009年2月20日). 2009年3月12日閲覧。
  2. ^ Edgar, Bill (2007年7月18日). “The 50 worst transfers”. The Times (London). http://www.timesonline.co.uk/tol/sport/football/article2096584.ece 2010年5月1日閲覧。 
  3. ^ Philip, Calum (2000年8月5日). “Rangers set to renew pursuit of Kovacevic”. The Independent (London). http://www.independent.co.uk/sport/football/scottish/rangers-set-to-renew-pursuit-of-kovacevic-696633.html 2010年5月1日閲覧。 
  4. ^ Kovacevic Hospitalized for Artery Problem SI.com、2009年1月13日
  5. ^ Crvena Zveda Zveda With Darko Kovacevic Mirosport.net、2009年1月17日

外部リンク[編集]