フアン・ロマン・リケルメ

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フアン・ロマン・リケルメ Football pictogram.svg
Homenaje a Riquelme.jpg
2015年のリケルメ
名前
愛称 ロマン、ロミー
ラテン文字 Juan Román RIQUELME
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日 1978年6月24日(38歳)
出身地 ブエノスアイレス州の旗 ブエノスアイレス州
ティグレ・パルティード
ドン・トルクアト
サン・ホルヘ地区[1]
身長 182cm
体重 75kg
選手情報
ポジション MF
利き足 右足
ユース
1992-1995 アルゼンチンの旗 アルヘンティノス
1995-1996 アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1996-2002 アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ 151 (38)
2002-2005 スペインの旗 バルセロナ 30 (3)
2003-2005 スペインの旗 ビジャレアル (loan) 70 (27)
2005-2007 スペインの旗 ビジャレアル 49 (15)
2007 アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ (loan) 15 (2)
2008-2014 アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ 165 (35)
2014 アルゼンチンの旗 アルヘンティノス 18 (5)
通算 495 (123)
代表歴
1997-1998 アルゼンチンの旗 アルゼンチン U-20 21 (7)
2008  アルゼンチン U-23 6 (1)
1997-2008 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 51 (17)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

フアン・ロマン・リケルメJuan Román Riquelme, 1978年6月24日 - )は、アルゼンチンブエノスアイレス州ティグレ・パルティード、ドン・トルクアト出身の元サッカー選手アルゼンチン代表だった。現役時代のポジションは攻撃的ミッドフィールダー

1996年にボカ・ジュニアーズからデビュー。2002年にスペインに渡り、FCバルセロナビジャレアルCFでプレーした後、2008年には古巣ボカ・ジュニアーズに復帰した。アルゼンチン代表としては、コパ・アメリカ19992006 FIFAワールドカップ北京オリンピックなどに出場した。アルゼンチン年間最優秀選手賞を4回受賞しており[2]、2001年には南米年間最優秀選手賞を受賞した。 リケルメ自身ほぼ自分のポジションから動かず、自らの出す極めて精度の高いパスで味方選手を動かすという現在のサッカー界ではほとんど絶滅してしまったプレースタイルの持ち主であり、その古めかしさからしばしば「恐竜」というあだ名で呼ばれている。

クラブ経歴[ソースを編集]

ユース時代[ソースを編集]

ブエノスアイレスの北部郊外にあるティグレ・パルティードの、貧困者が多く住む町の質素で貧しい家庭に、11人兄弟の長男として生まれた[3]。リケルメの誕生日(1978年6月24日)はアルゼンチンで開催された1978 FIFAワールドカップの大会期間中であり、翌日の6月25日にエル・モヌメンタルで行なわれた決勝では、マリオ・ケンペスなどの活躍によりアルゼンチン代表オランダ代表を破って優勝を決めた。地元のドン・トルクアト市からほど近いサン・フェルナンド市でサッカーを始め、1992年にアルヘンティノス・ジュニアーズのジュニアチームのトライアルを受ける機会を得た。アルヘンティノスではセンターハーフとしてプレーし、ユースチーム時代にはボカ・ジュニアーズCAリーベル・プレートから注目を浴びた。1995年、アルヘンティノスのU-20チームからボカのU-20チームに移籍し、アルヘンティノスには移籍金80万ドルが支払われた。

ボカ・ジュニアーズ[ソースを編集]

ボカでトップ下に転向した。トップチームのカルロス・ビラルド監督に見出され、1996年11月11日、CAウニオン戦 (2-0) でトップチームデビューし、2週間後のCAウラカン戦 (6-0) ではトップチーム初得点を挙げた。1998年にはカルロス・ビアンチ監督が就任し、背番号10を手渡されてレギュラーに定着。アペルトゥーラ1998でリーグ戦自身初優勝を飾り、クラウスーラ1999でも優勝して1998-99シーズンは前後期制覇を遂げた。2000年のコパ・リベルタドーレスでは、ラウンド16でCDエル・ナシオナル(エクアドル)、準々決勝でリーベル、準決勝でクラブ・アメリカ(メキシコ)、決勝でSEパルメイラス(ブラジル)を下して南米王者に輝いた。アペルトゥーラ2000でも優勝したほか、同年末に日本で開催されたインターコンチネンタルカップではレアル・マドリード(スペイン)を下して優勝し、2000年は国内外で3冠を達成した。2001年にはコパ・リベルタドーレスで2連覇を果たしたが、インターコンチネンタルカップではバイエルン・ミュンヘン(ドイツ)に敗れて2連覇を逃した。ボカでの在籍期間の終盤にはマウリシオ・マクリ会長との確執があり、ヨーロッパのクラブへの移籍を要求してリーグ戦出場を拒否する行動に出た。

バルセロナ[ソースを編集]

2002年11月後半、移籍金1100万ユーロでスペインのFCバルセロナに移籍した[4]。この契約直前には弟の誘拐事件が起こり、リケルメ自らが解放交渉を行なった。身代金を支払って弟は解放されたが、この事件がボカ退団の理由のひとつであったと後に語っている。バルセロナでは背番号10を渡されたが、ルイ・ファン・ハール監督はリケルメの獲得を「政治的な契約」であると語り[5]、彼を冷たくあしらった。出場機会は少なく、不慣れなウイングとしても起用された。その多くが途中出場だったためにボカ時代のプレーからは程遠く、トップチームでのポジションを失っていった。コパ・デル・レイ要員となり、珍しく先発で起用されたUEFAチャンピオンズリーググループリーグのクラブ・ブルッヘ戦では決勝点を挙げた。ファン・ハール解任後に就任したラドミル・アンティッチ監督からも信頼を勝ち取れず、不本意な成績で2002-03シーズンを終えた。2003年夏にはロナウジーニョが加入したことで背番号10を剥奪され、EU外選手枠を超えたためにトップチームの練習から締め出された。戦術面では相容れないリケルメとファン・ハールだったが、「プロフェッショナルだなと思ったのは、いったんクラブの外に出たらとても親切に接してくれたこと。長男が生まれたときは、直々に出産祝いのプレゼントをくれたんだ」と振り返っている[6]

ビジャレアル[ソースを編集]

ビジャレアル時代のリケルメ

2003年8月、同じプリメーラ・ディビシオン(1部)のビジャレアルCFにレンタル移籍した。ボカ時代にチームメイトだったセバスティアン・バタグリアルシアーノ・フィゲロアと再会し、さらにビジャレアルにはロドルフォ・アルアバレーナフアン・パブロ・ソリンなどのアルゼンチン人選手も在籍していた。ベニート・フローロ監督がシーズン途中に退任し、チリ人のマヌエル・ペレグリーニ監督が就任すると、チームのキープレーヤーとして輝きを取り戻した。2003-04シーズンには33試合に出場して8得点し、UEFAカップではクラブ最高位のベスト4となった。2004年夏には本人の希望により、ユニフォームのネームを「RIQUELME」からボカ時代に慣れ親しんだ「ROMAN」に変更。2004-05シーズンはUEFAカップでベスト8となったほか、リーグ戦では35試合に出場して15得点し、25得点を挙げたディエゴ・フォルランが得点王に輝いた。ビジャレアルはクラブ史上最高位の3位となり、UEFAチャンピオンズリーグ予選3回戦の出場権を獲得した。マルカ紙は「もっとも芸術的な選手」にリケルメを選出し、またFIFA最優秀選手賞にノミネートされた。

2005年夏にバルセロナからのレンタル期間が終了したが、ビジャレアルはバルセロナに800万ユーロを支払って保有権の75%を購入し、リケルメと4年契約を結んだ[7][8]。クラブ間の契約書には、ビジャレアルから他クラブに移籍した際に発生する移籍金の25%がバルセロナに支払われるという条項が加えられた。2005-06シーズンのUEFAチャンピオンズリーグではマンチェスター・ユナイテッドFC(イングランド)、SLベンフィカ(ポルトガル)、LOSCリール・メトロポール(フランス)と同組となり、初出場のビジャレアルはグループ首位での決勝トーナメント進出を決めた。グループ2位にはベンフィカが入り、強豪マンチェスター・Uをグループリーグ敗退に追いやっている。バルセロナへの移籍金はリケルメの活躍次第で1000万ユーロまで上昇する条項が設けられており、①UEFAチャンピオンズリーグでグループリーグを突破する、②2005-06シーズンのリーグ戦を4位以内で終える、③2006-07シーズンのリーグ戦を4位以内で終える、の3つの場合にそれぞれ100万ユーロが支払われることになっていたが、ビジャレアルは①のみクリアしたため、計100万ユーロが移籍金に上乗せされている。UEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメント1回戦ではレンジャーズFC(スコットランド)、準々決勝ではインテル(イタリア)を破り、準決勝ではアーセナルFC(イングランド)と対戦したが、セカンドレグの終盤にリケルメが蹴ったPKがイェンス・レーマンに止められ、スコアレスドローに終わった。ファーストレグに0-1で敗れていたため、2試合合計0-1でビジャレアルの敗退が決まった[9]。2006年5月7日にエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウで行われたレアル・マドリード戦は、ジネディーヌ・ジダンにとってレアル・マドリードでの最後のホームゲームとなった。試合終了後の記者会見でジダンはリケルメのプレーを称賛しており、ふたりは更衣室への通路でユニフォーム交換を行なった[10]

2006年9月24日、エスタディオ・エル・マドリガルでのレアル・サラゴサ戦 (3-2) でシーズン初得点を挙げた[11]。2006-07シーズン前半戦には他の選手、ペジェグリーニ監督、クラブの首脳陣と確執を起こし、リーグ戦では13試合の出場にとどまり、コパ・デル・レイでは出場機会なしに終わった。

ボカへのレンタル移籍[ソースを編集]

2007年2月、6月30日までの契約で古巣ボカにレンタル移籍した[12][13]。2月17日、クラウスーラ2007のCAロサリオ・セントラル戦 (1-1) でデビューを飾り、3月9日のCAインデペンディエンテ戦 (1-1) の54分に移籍後初得点となる同点ゴールを決めた[14]。同年のコパ・リベルタドーレスでは、3月22日に行なわれたデポルティーボ・トルーカFC戦 (3-0) で初得点を挙げた。ボカはグループリーグで勝ち点10を獲得し、グループ2位で決勝トーナメント進出を決めた。ラウンド16ではCAベレス・サルスフィエルドと対戦し、ファーストレグ (3-0) の試合開始1分に先制点を挙げて勝ち上がりに貢献。準々決勝ではクラブ・リベルタ(パラグアイ)と対戦し、セカンドレグの61分に先制点を挙げた。準決勝のククタ・デポルティーボFC戦(コロンビア)セカンドレグでは、直接フリーキックで先制点を挙げて勝利に貢献した。決勝ではグレミオ(ブラジル)と対戦した。ファーストレグの18分には、リケルメが蹴ったフリーキックからロドリゴ・パラシオの先制点が生まれ、73分には直接フリーキックを決めてホームでの勝利に貢献した。セカンドレグでは後半に2得点し、クラブとして6度目の同大会制覇に大きく貢献。2試合の5得点すべてに絡む活躍を見せ、ファーストレグ・セカンドレグのそれぞれでマン・オブ・ザ・マッチに選出された。

短期間のビジャレアル復帰[ソースを編集]

ボカへのレンタル移籍期間が満了し、2007年7月にはビジャレアルに復帰した。ボカはリケルメの完全移籍を希望してオファーを出したが[15]、8月にはリケルメとの再契約を断念したと報じられた。しかし数日後には状況が一変し、フアン・カルロス・クレスピ会長は「10日以内」にリケルメを取り戻す自信を表した。ビジャレアルはリケルメの移籍金として、400万ユーロ、ロドリゴ・パラシオマウロ・ボセーリホナタン・マイダナの保有権の50%を要求したが、ボカはこのオファーを拒否した。8月30日、アトレティコ・マドリードがビジャレアルに800万ユーロのオファーを提示したが[16]、移籍期限いっぱいまでもつれた移籍交渉は決裂し、リケルメはビジャレアル残留となった。背番号は8から16に変更され、背番号8はビジャレアル生え抜きのサンティ・カソルラに引き継がれた[17]

ボカ・ジュニアーズ復帰[ソースを編集]

2007-08シーズン[ソースを編集]

2007年11月26日、2008年1月の移籍市場でボカに完全移籍することがビジャレアルから認められ、ボカとは2010年までの契約を結んだ[18]。ボカは1500万ドルを支払い、ビジャレアルは2007-08シーズンのリケルメの年俸(約300万ユーロ)を支払う。ボカがビジャレアルに支払った移籍金はアルゼンチン史上最高額となった。リケルメ自身は2007年末に行なわれるFIFAクラブワールドカップへの出場を希望したが、国際サッカー連盟 (FIFA) が定めた選手の登録期限が11月23日であり、大会への出場は認められなかった。それでも日本への遠征には帯同し、「裏方」としてチームを支える役回りを果たした。

クラウスーラ2008のCAロサリオ・セントラル戦 (1-1) で復帰後初出場し、5月4日、リーベルとのスーペルクラシコ (1-0) ではセバスティアン・バタグリアの決勝点をアシストしたが、クラウスーラ2008では10試合に出場して1得点を挙げるにとどまった。4月22日に行なわれたコパ・リベルタドーレスグループリーグのUAマラカイーボスペイン語版戦 (3-0) では、10分にフリーキックでガブリエル・パレッタの先制点をアシストしたほか、74分にはリケルメ自身が駄目押しとなる得点を挙げた。ボカはグループ2位で決勝トーナメントに進出した。決勝トーナメント1回戦ではクルゼイロEC(ブラジル)と対戦し、ファーストレグ (2-1) では6分にアルバロ・ゴンサレスのパスから先制点を決めた。ボカは2試合合計4-2で勝利し、準決勝ではフルミネンセFC(ブラジル)と顔を合わせた。5月28日に行なわれたファーストレグでは、12分にパラシオのパスから得点し、65分には直接フリーキックを決めた。リケルメは同大会で4得点を挙げたが、ボカは2試合合計3-5で敗れて準決勝敗退となった。

2008-09シーズン[ソースを編集]

2008年8月にはレコパ・スダメリカーナアルセナルFCと対戦し、セカンドレグ (2-2) では91分に直接フリーキックを決めた。ボカは2試合合計5-3で勝利してトロフィーを獲得した。10月、チームメイトのフリオ・セサル・カセレスは母国パラグアイのラジオ局によるインタビューで、リケルメのプロ意識について疑問を投げかけ、両選手の対立が明るみとなった。カセレスは「(リケルメは)全力で走っていない試合もある。彼は現状に満足してしまっているように見える。代表でプレーする時はクラブで見せる以上のやる気を出しているようだ」と主張した。リケルメはFox Sportsの電話インタビューに答え、「彼(カセレス)は僕がクラブにどういう気持ちを持っているのか知らない。試合前には他の選手と同じように気持ちを高めているし、北京オリンピックに出場することを選んだから、十分な休みも取っていない。北京オリンピックの決勝後にはすぐに空港に向かって、レコパ・スダメリカーナの決勝に駆け付けた」と述べた。さらに、「この話題はロッカールームの中に留めておくべきだった。彼はサッカー界の掟を破った」と付け加えた[19]。10月21日にエル・モヌメンタルで行なわれたリーベルとのスーペルクラシコ (1-0) 後には、カセレスは対立について「過ぎ去ったこと」と述べ、「僕らの関係は改善されつつある」と述べた[20]。アペルトゥーラ2008はCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロCAティグレと三つ巴の争いとなり、3クラブが12勝3分4敗の勝ち点39で並んだため、3クラブによる優勝決定戦が行なわれた。ここでも1勝1敗で3クラブが並んだが、得失点差 (+1) でティグレ (0) やサン・ロレンソ (-1) を上回ったボカが優勝した。2009年のコパ・リベルタドーレスはラウンド16で敗退した。クラウスーラ2009は14位と低迷した。

2009-10シーズン[ソースを編集]

2009年10月には年内絶望の怪我を負い、ボカはアペルトゥーラ2009でも11位という低調な成績に終わったため、2010年のコパ・リベルタドーレス出場権を逃した。なお、後にホルヘ・アモール・アメアル会長は、リケルメが2009年を無給で働いていたことを明かしている[21]。2010年4月12日、アルセナルFC戦 (4-0) でボカの3点目を挙げた[22]

2011-12シーズン[ソースを編集]

2011年6月12日、CAバンフィエルド戦 (1-1) でアペルトゥーラ2011に初出場した[23]。8月15日のCAウニオン戦 (4-0) では83分にボカの3点目を挙げ、アペルトゥーラ2011での自身初得点を挙げた[24]。ボカはアペルトゥーラ2011を19戦無敗で終えて勝ち点43を記録し、4年ぶりにリーグ優勝してコパ・リベルタドーレス出場権を獲得した。2012年2月2日、CBRサンタマリーナスペイン語版戦 (1-1) でコパ・アルヘンティーナに初出場し、63分にフリーキックでファクンド・ロンカリアの同点ゴールをアシストした。試合はPK戦に持ち込まれ、4-3で勝利したボカが勝ち上がりを決めた[25]。2月10日、クラブ・オリンポスペイン語版戦 (2-0) でクラウスーラ2012に初出場[26]。4日後にはサモラFCスペイン語版(ベネズエラ)戦 (0-0) に出場し、同年のコパ・リベルタドーレスに初出場した[27]。2月26日のニューウェルズ・オールドボーイズ戦 (2-0) では、クラウスーラ2012での自身初得点となるボカの2点目を挙げた[28]。2週間後のCAインデペンディエンテ戦 (4-5) でもボカの2点目を挙げ[29]、さらにその2週間後のCAラヌース戦 (2-2) でもやはりボカの2点目を挙げた。41分のリケルメの得点により2-0とリードしたが、ボカは後半に2失点してラヌースと引き分けた[30]。4月18日に行なわれたコパ・リベルタドーレスのサモラ戦では75分に駄目押しとなる得点を挙げ、この勝利で勝ち点を13として決勝トーナメント進出を決定させた[31]。決勝トーナメント1回戦ではウニオン・エスパニョーラ(チリ)と対戦し、5月2日に行なわれたファーストレグ (2-1) では25分に先制点を挙げ、90分にサンティアゴ・シルバスペイン語版の得点の起点となった[32]。5月9日に行なわれたセカンドレグ (3-2) では、26分にフリーキックでフアン・インサウラルデスペイン語版の得点をアシストし、50分にパブロ・モウチェの得点をアシストしたほか、68分には自身も得点を決めて見せた[33]。準々決勝ではフルミネンセFC(ブラジル)と対戦。5月17日に行なわれたファーストレグ (1-0) では、51分にモウチェが挙げた決勝点の起点となった[34]。5月23日に行なわれたセカンドレグは1-1の引き分けだったが、2試合合計2-1で準決勝進出を決めた。

2012年6月3日に行なわれたコパ・アルヘンティーナ準決勝ではプリメーラB・ナシオナル(2部)のCSデポルティーボ・メルロスペイン語版と対戦したが、57分には直接フリーキックを蹴ると見せかけた早いリスタートを行ない、チームメイトとのパス交換でゴール前に侵入してネットを揺らした。試合終了間際の89分に追いつかれたが、PK戦を5-4で制して勝ち上がりを決めた[35]。コパ・リベルタドーレスの準決勝ではCFウニベルシダ・デ・チレ(チリ)を下し、決勝はコリンチャンス(ブラジル)との対戦となった。しかし、2試合合計1-3で敗れ、7月4日のセカンドレグ終了直後に現役引退宣言を行なった。この時34歳であり、プレーする気力がなくなったことを退団の理由に挙げた[36]。8月8日のコパ・アルヘンティーナ決勝はリケルメ不在のまま行われたが、ボカはラシン・クラブに2-1で勝利して優勝した。2012年前半にはフリオ・セサル・ファルシオーニ監督との不仲が取り沙汰された[37]

2012-13シーズン[ソースを編集]

2012年10月にはオーストラリア・Aリーグメルボルン・ハートウェスタン・シドニー・ワンダラーズFCがリケルメ獲得に興味を持っていると報じられたが、代理人のダニエル・ボロトニコフは報道を否定した[38]。2013年1月5日にはメジャーリーグサッカーチーヴァスUSA加入間近と報じられた。1月中旬にはビアンチが再びボカ監督に就任したため、リケルメのボカ復帰も取りざたされた[39]。ブラジルのSEパルメイラスへの移籍もうわさされたが、パルメイラスのパウロ・ノブレ会長は移籍金の額や契約条件などを理由にリケルメ獲得から手を引いた[40][41]。1月26日、リケルメはサッカー界に未練がないことを明らかにしたが[42]、1月下旬にはアルヘンティノス[43]やティグレ[44]加入の可能性が報じられた。2月3日にはティグレのオファーを受け入れたと報じられたが[45]、2月4日にはボカ復帰に備えてビアンチ監督と接触していると報じられた[46]

2013年2月8日、ボカ復帰が発表された[47]

アルヘンティノス・ジュニアーズ[ソースを編集]

2014年7月、ユース時代を過ごしたアルヘンティノス・ジュニアーズに移籍することが決定した[48]

2015年1月25日、現役引退を表明した[49]

代表経歴[ソースを編集]

世代別代表[ソースを編集]

南米ユース選手権とFIFAワールドユース選手権[ソースを編集]

1995年8月、ユース代表監督に就任したホセ・ペケルマンによってアルゼンチン世代別代表に招集された。1997年にはペケルマン監督によって南米ユース選手権に出場するメンバーに選出され、リケルメは全9試合に出場して3得点を挙げた。アルゼンチンは過去30年間で2度目の優勝を飾り、リケルメ、ワルテル・サムエルパブロ・アイマールは記者選出の大会ベストイレブンに選出された[50]。この優勝で同年のFIFAワールドユース選手権出場権を獲得。マレーシアで行なわれた大会ではアルゼンチン代表のキャプテンを務め、グループリーグ全3試合に出場した。初戦のハンガリー戦 (3-0) では50分に得点し[51]、2戦目のカナダ戦 (2-1) では55分に決勝点を挙げた[52]。最終戦のオーストラリア戦では88分にPKを決めて3-3の同点に追いついたが、試合終了間際に失点して3-4で敗れた[53]。アルゼンチンはグループ2位で決勝トーナメント進出を決め、決勝トーナメント1回戦のイングランド戦 (2-1) では10分にPKで得点した[54]。準々決勝のブラジル戦には2-0で勝利し[55]、準決勝のアイルランド共和国戦には1-0で勝利した[56]。決勝ではウルグアイを2-1で下し、アルゼンチンは3回目の優勝を飾った[57]。リケルメは4得点を挙げ、アルゼンチン代表はFIFAフェアプレー賞を受賞した。1998年5月にはフランスで開催されたトゥーロン国際大会に出場。U-20アルゼンチン代表は決勝でフランスを破って優勝し、リケルメは大会最優秀選手に輝いた。

北京オリンピック[ソースを編集]

北京オリンピックのブラジル戦でPKを蹴るリケルメ

2008年、U-23アルゼンチン代表のセルヒオ・バティスタ監督は、北京オリンピックに出場するアルゼンチン代表にオーバーエイジ (OA) としてリケルメの招集を決定し[58][59]、キャプテンを任された。オーバーエイジ枠にはリケルメの他にハビエル・マスチェラーノニコラス・パレハが選出され、その他にはリオネル・メッシセルヒオ・アグエロアンヘル・ディ・マリアなどが出場した。8月7日に行なわれたグループリーグ初戦のコートジボワール戦 (2-1) [60]、2戦目のオーストラリア戦 (1-0)[61]にはフル出場したが、消化試合となった最終戦のセルビア戦 (2-0) には出場せず、マスチェラーノがキャプテンマークを巻いた[62]。準々決勝ではオランダに2-1で勝利し[63]、準決勝のブラジル戦 (3-0) ではアグエロが2得点した後、76分にリケルメがPKで駄目押しとなる3点目を決めた[64]。8月23日、北京国家体育場(鳥の巣)に89,102人の観客が詰めかけた決勝でナイジェリアと対戦。1-0で勝利し、アルゼンチンはアテネオリンピックに続いて大会2連覇を果たした[65]

A代表[ソースを編集]

1997年11月、ダニエル・パサレラ監督によってアルゼンチンA代表に初招集され、11月16日、1998 FIFAワールドカップ・南米予選最終節のコロンビア戦 (1-1) で試合終了間際に出場してデビューを飾った。この試合はボカの本拠地であるラ・ボンボネーラで行なわれている。リケルメはフランスで開催された1998 FIFAワールドカップの出場メンバー入りは逃した。

コパ・アメリカ1999[ソースを編集]

1999年7月にはパラグアイで開催されたコパ・アメリカ1999のメンバーに選出され、背番号22を背負った。なお、この時のメンバーにはボカからリケルメ、ウーゴ・イバーラワルテル・サムエルギジェルモ・バロスケロットマルティン・パレルモディエゴ・カーニャの6人が選出された。グループリーグ初戦のエクアドル戦では試合終了間際までプレーし、3-1で勝利。2戦目のコロンビア戦にはフル出場したが、後半に3失点して0-3で敗れた。最終戦のウルグアイ戦にもフル出場して2-0で勝利し、アルゼンチンは勝ち点6のグループ2位で決勝トーナメント進出を決めた。準々決勝のブラジル戦にもフル出場し、アルゼンチンは32分まで1-0でリードしていたが、最終的には1-2で敗れた[66]

2003年4月30日、トリポリで行なわれたリビアとの親善試合 (3-1) で代表初得点を挙げた。2004年11月17日、2006 FIFAワールドカップ・南米予選ベネズエラ戦 (3-2) で代表2点目を決めた。2005年6月8日にブエノスアイレスで行なわれた同予選・ブラジル戦でも1得点して3-1の勝利に貢献した。同年10月9日に行なわれた南米予選のペルー戦 (2-0) では、81分にPKで代表7点目を決めた。11月16日にドーハで行なわれたカタールとの親善試合 (1-0) で代表8点目を決めた。

FIFAコンフェデレーションズカップ2005[ソースを編集]

2005年、ホセ・ペケルマン監督によってFIFAコンフェデレーションズカップ2005に出場するメンバーに選出され、背番号8を渡された。グループリーグ初戦のチュニジア(アフリカ代表)戦 (2-1) では33分にPKで先制点を挙げ[67]、2戦目のオーストラリア(オセアニア代表)戦 (4-2) でも31分にPKを決めた[68]。最終戦のドイツ(開催国)戦 (2-2) では33分に同点ゴールを決め、アルゼンチンは勝ち点7のグループ首位タイで決勝トーナメント進出を決めた[69]。準決勝ではメキシコ(北中米カリブ海代表)と対戦。延長を終えて1-1の同点であり、リケルメはPK戦の1番手としてキックを成功させた。アルゼンチンはPK戦に6-5で勝利し、決勝進出を決めた[70]。フランクフルトのヴァルトシュタディオンで行なわれた決勝のブラジル(南米代表)戦にはフル出場したが、アルゼンチンは1-4で敗れて準優勝に終わった[71]。ブラジルのアドリアーノが得点王とゴールデン・ボール(最優秀選手賞)を受賞し、リケルメはシルバー・ボール(最優秀選手賞次点)を受賞した。

2006 FIFAワールドカップ[ソースを編集]

2006 FIFAワールドカップのドイツ戦でのリケルメ

2006年、ドイツで開催される2006 FIFAワールドカップのメンバーに選出され、は敬愛するディエゴ・マラドーナも背負っていた背番号10をA代表で初めて与えられた。グループCにはアルゼンチン、オランダコートジボワールセルビア・モンテネグロが同居し、「死の組」と呼ばれた。初戦のコートジボワール戦ではハビエル・サビオラの得点をアシストし、93分にアイマールとの交代でピッチから退いた[72]。2戦目のセルビア・モンテネグロ戦にはフル出場して6-0の圧勝に貢献。アルゼンチンは試合中に24本連続のパス成功を記録し、リケルメはエステバン・カンビアッソの得点の起点となった以外にも[73]、素早いリスタートでエルナン・クレスポの得点の起点となり、国際サッカー連盟 (FIFA) によってマン・オブ・ザ・マッチに選出された[74][75]。オランダ代表戦はスコアレスドローに終わり、リケルメ自身は80分にアイマールと交代したが、アルゼンチンは勝ち点7のグループ首位で決勝トーナメント進出を決めた[76]。自身の28回目の誕生日(6月24日)に行なわれた決勝トーナメント1回戦では、メキシコと対戦。6分に先制点を許したが、10分にコーナーキックでクレスポの得点をアシストした[77]。試合は延長戦までもつれたが、98分にマキシ・ロドリゲスが美しいボレーシュートを決めてアルゼンチンが勝利した[78]。準々決勝では開催国のドイツと対戦し、49分にコーナーキックでロベルト・アジャラの得点をアシスト。72分にカンビアッソと交代したが、その数分後に同点ゴールを許し、アルゼンチン代表はPK戦の末に敗れた[79]。自身は5アシストを記録し、大会のアシストランキング1位となった。

2006年にはアルフィオ・バシーレ新監督によってアルゼンチン代表のキャプテンに任命された。ブラジル戦に0-3で敗れると、キャプテンのリケルメが強い批判を浴び、母親が体調を崩して2度も入院したため、「何よりも大事なのは家族」と述べて9月13日に代表引退を発表した。この時点では通算37試合出場8得点を記録していた[80][81]

コパ・アメリカ2007[ソースを編集]

コパ・アメリカ2007のペルー戦でゴールを祝うリケルメ (背番号10)

2007年6月26日、バシーレ監督はベネズエラで開催されるコパ・アメリカ2007に出場するメンバーに選出された。グループリーグ初戦は招待国のアメリカ戦となり、アルゼンチンは4-1で勝利。2戦目のコロンビア戦 (4-2) では34分にヘディングで、45分に直接フリーキックで得点し、アルゼンチンの勝利に貢献した。最終戦のパラグアイ戦にも勝利し、3戦全勝でグループリーグ突破を決めた。準々決勝ではペルーと対戦し、後半だけで再び2得点を挙げたほか、61分にはメッシの得点をアシストした。準決勝では招待国のメキシコと対戦し、45分にガブリエル・エインセの得点をアシストし、65分にはPKで駄目押しとなる得点を挙げた。決勝ではブラジルと対戦し、フル出場して3-0の勝利に貢献した。大会を通じて5得点し、ロビーニョ(ブラジル)に次いで得点ランキングの2位となった[82]

2010 FIFAワールドカップ[ソースを編集]

2007-08シーズン序盤はビジャレアルで冷遇されており、公式戦への出場はゼロだったにも関わらず代表に招集されると、10月13日に行なわれた2010 FIFAワールドカップ・南米予選初戦のチリ戦 (2-0) では直接フリーキックから2得点し、アルゼンチンは幸先よいスタートを切った。11月17日の同予選・ボリビア戦 (3-0) では再び2得点を挙げた。2008年10月のマラドーナ監督就任後も中心選手の役割を担ったが、2009年3月にはマラドーナ監督にテレビ番組でプレーを批判され、監督との意見の不一致から代表引退を表明した[83]

2010年以後[ソースを編集]

2010年夏にはセルヒオ・バティスタ監督が就任し、リケルメの招集に前向きな発言を残したが、2011年7月に解任されるまでに代表復帰には至らなかった。2011年7月にはアレハンドロ・サベーラ監督が就任。2011年8月、サベージャ監督は初采配試合となるスーペルクラシコ・デ・ラス・アメリカスのブラジル戦に向け、国内リーグ所属選手のみで構成されたアルゼンチン代表にリケルメを招集した。約2年ぶりの代表復帰となったが、クラブの試合で負傷して代表を離脱した[84]

人物[ソースを編集]

1男2女の父親である。憧れの選手はディエゴ・マラドーナジネディーヌ・ジダンであり、パブロ・アイマールと仲が良い[85]ラテン音楽であるクンビアを愛聴している[86]

ゴール後にはトッポ・ジージョポーズ(耳に手を当てる動作)のゴールパフォーマンスをする。このポーズの由来には「娘が好きだから」という説と「ファンの声が聞こえるか」という説がある[87]。ボカ在籍時にはマウリシオ・マクリ会長と対立しており、後者の説はファンは自分の味方であるとして会長を挑発しているというものである。

個人成績[ソースを編集]

クラブでの出場記録[ソースを編集]

所属クラブ 国内リーグ 国内カップ 国際カップ 合計
シーズン クラブ リーグ 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
アルゼンチン リーグ カップ 南米カップ 合計
1996-97 ボカ・ジュニアーズ プリメーラ 22 4 22 4
1997-98 19 0 2 0 21 0
1998-99 37 10 5 0 42 10
1999-2000 24 4 16 3 40 7
2000-01 27 10 14 3 41 13
2001-02 22 10 6 0 28 10
通算 151 38 43 6 194 44
スペイン リーグ コパ・デル・レイ 欧州カップ 合計
2002-03 バルセロナ ラ・リーガ 30 3 1 1 11 2 42 6
2003-04 ビジャレアル (loan) ラ・リーガ 33 8 3 1 12 4 48 13
2004-05 35 15 0 0 11 2 46 17
2005-06 ビジャレアル ラ・リーガ 25 12 1 0 12 2 38 14
2006-07 13 1 0 0 - - 13 1
通算 136 39 5 2 46 10 187 51
アルゼンチン リーグ カップ 南米カップ 合計
2007 ボカ・ジュニアーズ (loan) プリメーラ 15 2 11 8 26 10
2007-08 ボカ・ジュニアーズ プリメーラ 10 1 10 4 20 5
2008-09 28 5 7 4 35 9
2009-10 24 3 2 0 26 3
2010-11 13 4 13 4
2011-12 21 4 2 1 9 3 32 8
通算 111 19 2 1 39 19 152 39
通算 アルゼンチン 262 57 2 1 82 25 346 83
スペイン 136 39 5 2 46 10 187 51
通算 398 96 7 3 128 35 533 134

代表での年別出場記録[ソースを編集]

アルゼンチン代表
出場 得点
1997 1 0
1998 0 0
1999 5 0
2000 0 0
2001 0 0
2002 1 0
2003 3 1
2004 6 1
2005 13 6
2006 8 0
2007 9 9
2008 5 0
通算 51 17

代表での得点[ソースを編集]

# 日付 場所 対戦相手 最終
スコア
勝敗 大会
1. 2003年4月30日 リビアの旗 トリポリ リビアの旗 リビア 3-1 親善試合
2. 2004年11月17日 アルゼンチンの旗 ブエノスアイレス ベネズエラの旗 ベネズエラ 3-2 2006 FIFAワールドカップ・南米予選
3. 2005年6月8日 アルゼンチンの旗 ブエノスアイレス ブラジルの旗 ブラジル 3-1
4. 2005年6月15日 ドイツの旗 ケルン チュニジアの旗 チュニジア 2-1 FIFAコンフェデレーションズカップ2005
5. 2005年6月18日 ドイツの旗 ニュルンベルク オーストラリアの旗 オーストラリア 4-2
6. 2005年6月21日 ドイツの旗 ニュルンベルク ドイツの旗 ドイツ 2-2
7. 2005年10月9日 アルゼンチンの旗 ブエノスアイレス ペルーの旗 ペルー 2-0 2006 FIFAワールドカップ・南米予選
8. 2005年11月16日 カタールの旗 ドーハ カタールの旗 カタール 3-0 親善試合
9. 2007年7月2日 ベネズエラの旗 マラカイボ コロンビアの旗 コロンビア 4-2 コパ・アメリカ2007
10.
11. 2007年7月8日 ベネズエラの旗 バルキシメト ペルーの旗 ペルー 4-0
12.
13. 2007年7月11日 ベネズエラの旗 プエルト・オルダス メキシコの旗 メキシコ 3-0
14. 2007年10月13日 アルゼンチンの旗 ブエノスアイレス チリの旗 チリ 2-0 2010 FIFAワールドカップ・南米予選
15.
16. 2007年11月17日 アルゼンチンの旗 ブエノスアイレス ボリビアの旗 ボリビア 3-0
17.

タイトル[ソースを編集]

クラブ[ソースを編集]

アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ
スペインの旗 ビジャレアル

代表[ソースを編集]

アルゼンチンの旗 U-20アルゼンチン代表
アルゼンチンの旗 U-21アルゼンチン代表
アルゼンチンの旗 U-23アルゼンチン代表

個人[ソースを編集]

脚注[ソースを編集]

  1. ^ フェラン・ソリアーノ著、グリーン裕美訳『ゴールは偶然の産物ではない』アチーブメント出版、2009年、162頁
  2. ^ Riquelme: Football has given me everything”. FIFA.com (2011年12月19日). 2011年12月19日閲覧。
  3. ^ Number web (2005年9月30日). “ファン・ロマン・リケルメ 遅れてきた「天才」”. 2009年7月11日閲覧。
  4. ^ Barça take up Riquelme option”. UEFA.com (2002年11月26日). 2013年5月7日閲覧。
  5. ^ Cowley, Jason (2006年6月18日). “Lonesome Riquelme is the go-to man”. The Guardian. http://football.guardian.co.uk/worldcup2006/story/0,,1800201,00.html 2006年8月12日閲覧。 
  6. ^ クリスティアン・インファンソン「あの不思議な感触を求めて」『Sports Graphic Number plus』 2005/12号、文藝春秋、58-63項
  7. ^ Riquelme leaves Barça for good”. UEFA.com (2005年6月21日). 2013年5月7日閲覧。
  8. ^ livedoorスポーツ (2005年6月23日). “ビジャレアル、リケルメの完全移籍を発表”. 2009年7月11日閲覧。
  9. ^ Villarreal 0-0 Arsenal (agg 0-1)”. BBC Sport (2006年4月25日). 2011年12月19日閲覧。
  10. ^ ジダン、リケルメとユニフォームを交換し感動”. livedoorスポーツ (2006年5月7日). 2013年6月12日閲覧。
  11. ^ Villarreal vs. Real Zaragoza 3 - 2 Soccerway、2006年9月24日
  12. ^ The end is nigh for a player unable to cross great divide The Guardian、2007年1月22日
  13. ^ Román dio el sí Olé、2007年2月7日 (スペイン語)
  14. ^ oca Juniors vs. Independiente 1 - 1 Soccerway、2008年3月9日
  15. ^ AFP BB News (2007年8月12日). “リケルメ ビジャレアルへの復帰を明言”. 2009年7月11日閲覧。
  16. ^ AFP BB News (2007年8月30日). “アトレティコ・マドリード リケルメ獲得へ”. 2009年7月11日閲覧。
  17. ^ livedoorスポーツ (2007年7月27日). “ビジャレアル、リケルメに背番号剥奪の屈辱”. 2009年7月11日閲覧。
  18. ^ REUTERS (2007年11月27日). “ビジャレアル、リケルメのボカ移籍に正式合意”. 2009年7月11日閲覧。
  19. ^ [1]ロイター、2008年10月8日[リンク切れ]
  20. ^ Caceres: Riquelme Conflict Now In The PastGoal.com、2008年10月21日
  21. ^ Boca Juniors Filial Japon (2009年10月23日). “プライドを賭けた戦い!!!”. 2010年1月8日閲覧。
  22. ^ Boca Juniors vs. Arsenal 4 - 0Soccerway、2010年4月12日
  23. ^ Boca Juniors vs. Banfield 1 - 1Soccerway、2011年6月13日
  24. ^ Boca Juniors vs. Unión Santa Fe 4 - 0Soccerway、2011年8月16日
  25. ^ Boca Juniors vs. Deportivo Santamarina 1 - 1Soccerway、2012年2月3日
  26. ^ Boca Juniors vs. Olimpo 2 - 0Soccerway、2012年2月11日
  27. ^ Zamora vs. Boca Juniors 0 - 0Soccerway、2012年2月15日
  28. ^ Boca Juniors vs. Newell's Old Boys 2 - 0Soccerway、2012年2月26日
  29. ^ Boca Juniors vs. Independiente 4 - 5Soccerway、2012年3月11日
  30. ^ Boca Juniors vs. Lanús 2 - 2Soccerway、2012年3月26日
  31. ^ Boca Juniors vs. Zamora 2 - 0Soccerway、2012年4月19日
  32. ^ Boca Juniors vs. Unión Española 2 - 1Soccerway、2012年5月3日
  33. ^ Unión Española vs. Boca Juniors 2 - 3Soccerway、2012年5月10日
  34. ^ Boca Juniors vs. Fluminense 1 - 0Soccerway、2012年5月18日
  35. ^ Boca Juniors vs. Deportivo Merlo 1 - 1Soccerway、2012年6月3日
  36. ^ Copa Libertadores defeat may spell the end for Riquelme at Boca, but he will always be a legendGoal.com、2012年7月5日
  37. ^ ボカを揺るがすリケルメと監督の対立 前期リーグ優勝チームに緊急事態Goal.com、2012年2月24日
  38. ^ Riquelme agent denies A-League interest ESPN Soccernet、2012年10月18日
  39. ^ Argentine star Riquelme says he nearly joined Chivas USA メジャーリーグサッカー公式サイト、2013年1月5日
  40. ^ El nuevo presidente del Palmeiras duda de Riquelme TN.com、2013年1月22日
  41. ^ Palmeiras rules out Riquelme deal China.org、2013年1月25日
  42. ^ "No extraño mucho jugar a la pelota", confesó Juan Román Riquelme El Litoral、2013年1月26日
  43. ^ Argentinos ofertará por Juan Román Riquelme Tiempo de San Juan、2013年1月30日
  44. ^ Riquelme se reunió con Tigre Fox Sports LA、2013年1月31日
  45. ^ Juan Román Riquelme habría aceptado jugar en Tigre Deportes Terra、2013年2月2日
  46. ^ Según su representante, Román Riquelme está dispuesto a volver a Boca Analisis Digital.com、2013年2月4日
  47. ^ Goal.com (2013年2月12日). “ボカ復帰を喜ぶリケルメ”. 2012年2月20日閲覧。
  48. ^ リケルメ、古巣アルヘンティノスへ移籍「とても特別な日となった」 サッカーキング 2014年7月21日付
  49. ^ 元アルゼンチン代表のリケルメ、36歳で現役引退 「もうプレーしない」 Goal 2015年1月26日付
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  66. ^ Group C - ARG COL ECU URURSSSF
  67. ^ Argentina - Tunisia FIFA.com
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  69. ^ Argentina - Germany FIFA.com
  70. ^ Mexico - Argentina FIFA.com
  71. ^ Brazil - ArgentinaFIFA.com
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  73. ^ Lonesome Riquelme is the go-to man Guardian、2006年6月18日
  74. ^ Argentina 6-0 Serbia & MontenegroBBC Sport、2006年6月16日
  75. ^ Argentina - Serbia and Montenegro BBC Sport
  76. ^ Netherlands - Argentina FIFA.com
  77. ^ 2nd Round Match: Argentina 2 - 1 Mexico Gabriel Batistuta.net
  78. ^ Argentina - Mexico FIFA.com
  79. ^ Germany - ArgentinaFIFA.com
  80. ^ [2][リンク切れ]
  81. ^ [3]Yahoo! Sports、2006年9月13日[リンク切れ]
  82. ^ Copa América 2007RSSSF
  83. ^ Crooke, Perry (2009年3月11日). “Juan Roman Riquelme quits Argentina after Maradona row”. London: The Daily Telegraph. http://www.telegraph.co.uk/sport/football/international/4973953/Juan-Roman-Riquelme-quits-Argentina-after-Maradona-row.html 2009年9月5日閲覧。 
  84. ^ Argentina's Alejandro Sabella laments loss of Juan Roman Riquelme & Juan Sebastian VeronGoal.com、2011年9月14日
  85. ^ リケルメ、ペケルマンとの不仲を否定livedoorスポーツ、2006年5月10日
  86. ^ Riquelme: "Nadie puede dar por muerto a Boca"Clarin、2013年5月16日
  87. ^ マラドーナ、‘10番の夜’でリケルメにインタビューlivedoorスポーツ、2005年9月8日

外部リンク[ソースを編集]