ジュニーニョ・パウリスタ

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ジュニーニョ・パウリスタ Football pictogram.svg
名前
本名 オズバウド・ジロウド・ジュニオール
愛称 パウリスタ
ラテン文字 JUNINHO PAULISTA
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 1973年2月22日(43歳)
出身地 サンパウロ州の旗 サンパウロ州サンパウロ
身長 165cm
体重 58kg
選手情報
在籍チーム 引退
ポジション MF
代表歴
1995-2003 ブラジルの旗 ブラジル 51 (5)
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ジュニーニョ・パウリスタ(Juninho Paulista)ことオズバウド・ジロウド・ジュニオール(Osvaldo Giroldo Junior, 1973年2月22日 - )は、ブラジルサンパウロ州サンパウロ出身のサッカー選手である。名前からも分かるとおり、サンパウロ州の出身者である。

プレースタイル[編集]

華麗なステップワークとスピードを生かしたドリブル、中盤全体をカバーする運動量、スルーパス等のアシスト能力、中盤でのゲームメイク力を持つ。 ブラジル伝統のテクニックとファンタジアを受け継ぐ10番でありつつも、運動量が少なく中盤の中央に王様として君臨する古典的な10番ではなく、スピードと前後左右の運動量があり、時代の変化に伴うプレースペースの縮小に対応できる能力を持っていた。

また、ファブリツィオ・ラバネッリクリスティアン・ヴィエリロマーリオといった個性の強いストライカーの全員とも良好な人間関係を築いており、特にクリスティアン・ヴィエリからは親友扱いされていた。又、これらストライカー達の全員が素晴らしい成績を収めている。 ファンタジスタでありながら、豊富な運動量で走り回ってストライカーの周囲をサポートし、FWが得点できるようお膳立てをするタイプで、彼自身「ラバネッリやヴィエリ、ロマーリオ達にアシストし、彼らが得点することが、僕の喜びなんだ」と語っている。

略歴[編集]

キャリア初期[編集]

貧しい階級層出身の選手が多いブラジルサッカー界では珍しい中流階級の出身で、父親は公務員だった。少年時代はサッカースクールでフットサルをしており、10代の頃からサンパウロ州で注目を集めた。ただ、体格が小さい方だったためか、プロデビューは19歳と遅く、ユース年代の代表には選ばれていない。

サンパウロFC[編集]

1992年にサンパウロ州の中堅クラブイトゥアーノFCでキャリアを始め、1993年には、当時のテレ・サンタナ監督に才能を認められ、前年トヨタカップを制したサンパウロFCに移籍。当初はレオナルドミューレルら前線の選手層が厚かったため控えとなることが多かったが、サンタナ監督の指導を受け、スーパーサブとして活躍する。

同年のトヨタカップでは、ACミランと対戦。途中出場を果たし、弱冠20歳にしてクラブ世界一のピッチに立つ経験をした。この時は放映した日本テレビでも、サンタナ監督の秘蔵っ子である注目の存在として取り上げており、ジュニーニョがアップを始めると、わざわざアップするジュニーニョを映していた。

1994年にはほぼレギュラーに定着し、攻撃的ミッドフィールダーやFWとして活躍し、10番のレオナルドと共にサンパウロFCの攻撃を担った。レオナルドが鹿島アントラーズに移籍すると、以降はサンパウロのエースとして活躍。同年にはコパ・CONMEBOLにレコパ・スダメリカーナを制し、一気に名を上げた。1995年には背番号を10に変更し、サンパウロの象徴的存在となった。1995年カイオとのコンビで活躍し、同年のブラジル国内最優秀選手を獲得している。尚、日本にも親善試合で来日し、ジュビロ磐田を相手に1-0、決勝点を挙げている。

同年2月22日の22歳の誕生日にスロバキア戦で代表デビュー。同年のコパ・アメリカでは10番を背負い、決勝まで進んだが、エンツォ・フランチェスコリ率いるウルグアイに破れ惜しくも準優勝となったが、大会MVPに選出された。イングランドで開催されたUMBROカップでも再び10番を背負い、好パフォーマンスを見せて優勝に貢献し、一躍セレソンの新10番として国際的に認知されるに至った。ザガロ監督の下、4-3-1-2システムでトップ下として攻撃の中心を担い、96年アトランタ五輪まで同ポジションの不動のレギュラーとして、文字通りセレソンのエースとなった。

ミドルズブラFC[編集]

1996年、ミドルズブラFCへ移籍した。しかし、後にジュニーニョ自身が「僕が望んだというよりも、ミドルズブラが強く望んだ結果だ」と語ったように、ミドルズブラ側が当時ブラジル国内市場最高の移籍金を提示し、スタジアムの改修費に悩むサンパウロが合意する形で移籍が成立した。

ジュニーニョはファブリッツィオ・ラバネッリとのホットラインで善戦するものの、結局ミドルズブラは1996-97シーズンで最下位となり、2部リーグに降格してしまう。また、この間にアトランタ五輪で日本に敗れ、準決勝ではナイジェリアにも負けて結局銅メダルと、続けての挫折を味わうことになってしまった。又、アトランタ五輪以降は、地理的な条件(当時、プレミアリーグなどはブラジル国内では眼中になかった)に加えて、クラブの低迷もあって、代表でのポジションを失うことになってしまった。

一方で、1996-97シーズン最終節でミドルズブラFCの降格が決定したピッチで号泣し、チームへの愛情と勝利への執着を露にし、また報われないながらも”ブラジル代表の10番”に相応しいプレーを見せ続け、イギリス中を感動させた。その号泣のシーンは大きく報道された。この号泣と孤軍奮闘によってジュニーニョは、ミドルズブラのサポーターのみならず、イギリス国民全体から最も愛された外国人選手という地位を築くことになった。その結果、降格後にアトレティコ・マドリーへ移籍する際、ミドルズブラ・サポーターからは全くといっていいほど「裏切り者」という批判が起こらず、むしろ愛情と哀惜に満ちた送り出しになった。

アトレティコ・マドリード[編集]

1997年、スペインのアトレティコ・マドリードに移籍した。開幕のレアル・マドリード戦でいきなりリーガ初ゴールを決め、一躍チームのエースとなった。クリスティアン・ヴィエリキコらと強力攻撃陣を形成し、前半戦3位の原動力となった。そのプレーに対して、当時のユーゴスラビア人監督のラドミル・アンティッチは、「ジュニーニョがいれば、戦術などいらない」旨の発言をして絶賛している。この間、ようやくブラジル代表にも復帰し、1997年のコンフェデレーションズカップ決勝では攻撃的MFのレギュラーに返り咲いて、優勝に貢献した。

このまま行けば、1998 FIFAワールドカップでの代表選出は確実であったが、1998年年明けのリーグ戦で、ミチェル・サルガドのバックチャージを受け、左足首靱帯断裂の重傷を負い、ワールドカップを棒に振った。この怪我以降も度々靱帯の負傷を繰り返したため、ジュニーニョの特徴だったスピードを生かした突破力は少しずつ衰えが見られるようになった。 半年のブランクを得て復帰するが、その後監督に就任したアリーゴ・サッキクラウディオ・ラニエリの、ファンタジスタを不要とする構想に合わず戦力外となり、1999年にミドルズブラFCに2回目の移籍を果たすものの、ミドルズブラは戦術がロングポール主体に変わっており、全盛期のプレーは戻らず、再びブラジル代表からも遠ざかる日々が続いた。

CRヴァスコ・ダ・ガマ[編集]

2000年、ジュニーニョはブラジル国内に戻り、リオデジャネイロ州の名門CRヴァスコ・ダ・ガマに移籍する。ここには当時ロマーリオエウレルジュニーニョ・ペルナンブカーノジョルジーニョらがいた。戦術や規則に縛られた欧州を脱出し、自由を回復したジュニーニョは、ここで10番を与えられると徐々に本来のリズムを取り戻し、復活を遂げた。コパ・メルコスールの決勝では、0-3の劣勢から、ジュニーニョとロマーリオのコンビが爆発して4-3と大逆転、優勝を飾った。ロマーリオはこの年の南米最優秀選手を獲得し、ジュニーニョ自身もベストイレブンに選ばれ、ブラジル代表にも復帰した。

この当時、ロマーリオはジュニーニョのアシストとゲームメイクを高く評価し、かつ感謝しており、ブラジル国内のインタビューでは記者達に向かって「世界一のMFはジダンじゃない。ジュニーニョだ」と絶賛している。 ロマーリオは、フラメンゴ時代には、中流階級出身で優等生タイプのサヴィオを殴っており、本来育ちの良いタイプとは合わないはずであるが、なぜかジュニーニョとは気が合っていた。ジュニーニョ自身もロマーリオを素直に尊敬しており、「ロマーリオはいつも遊んでいるように言われるけど、本当は最後まで居残り練習しているんだ」という旨の発言をしている。

日韓ワールドカップ[編集]

2002 FIFAワールドカップ日韓大会に際して、悲願のブラジル代表に選出されたジュニーニョだったが、このときは不運にも所属クラブであるフラメンゴで不調に陥っており、その間に台頭したロナウジーニョに攻撃的MFのポジションを奪われ、不慣れな下がり目のMFで出場することになった。

結果、グループステージでは先発したものの、決勝トーナメント以降は守備を重視したルイス・フェリペ・スコラーリ監督の戦術によって、ジョゼ・クレベルソンにポジションを奪われ、ほとんど出番はなかった。それでも、決勝戦ドイツ戦の最後に出場を果たし、世界一の瞬間に立ち会うことが出来た。これにより、トヨタカップ優勝とワールドカップ優勝という、クラブ、代表両方の世界一の瞬間にピッチに立つこととなった。

キャリア終期[編集]

2002年、三度ミドルズブラFCに移籍。かつてのスター扱いではなく、必ずしも先発保証はなかったが、フットボールリーグカップを制覇し、クラブに歴史を刻んだ。

2004年には出場機会を求めてスコットランドのセルティックFCに移籍するが、ここでもロングボール・サッカーに適応できず、再び母国に戻りサンパウロ州SEパルメイラスに移籍し、エジムンドと共にエースとして活躍した。ブラジル代表には招集されなくなったものの、そのファンタジアは健在で、得点王ランキングやベストイレブン順位でも上位につけていた。

2007年に、パルメイラスの経営陣を批判してチームにいられなくなり退団。再びCRフラメンゴに移籍してコパ・リベルタドーレスに挑むも、チームは1回戦で敗退。出場機会を模索して、今度はオーストラリアシドニーFCに移籍を果たした。イギリス連邦の一員であるオーストラリアでは、イングランド時代のジュニーニョの名声が生きており、ドワイト・ヨークの後継者として期待された。しかし、またしても怪我等に悩まされ、目立った活躍は出来ずに2008年3月に退団。以後、復帰も目指してSEパルメイラスの設備を借りて練習を重ねていた。2010年、初めてプロとして契約したクラブチームである古巣のイトゥアーノFCで再びプレーした。

所属クラブ[編集]

獲得タイトル[編集]

クラブ[編集]

ブラジルの旗 サンパウロFC
ブラジルの旗 CRヴァスコ・ダ・ガマ
イングランドの旗 ミドルズブラFC
ブラジルの旗 CRフラメンゴ

代表[編集]

ブラジルの旗 ブラジル代表

個人[編集]

  • コパ・アメリカ最優秀選手賞 : 1995
  • ブラジル最優秀選手賞 : 1995
  • CARLING PREMIERSHIP PLAYER OF THE YEAR 1996-97 受賞
  • CONMEBOLベストイレブン : 2000

作品[編集]