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アリエル・オルテガ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アリエル・オルテガ
名前
本名 アリエル・アルナルド・オルテガ
Ariel Arnaldo Ortega
愛称 El Burrito (小さいロバ)
ラテン文字 Ariel ORTEGA
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日 (1974-03-04) 1974年3月4日(50歳)
出身地 レデスマスペイン語版
身長 170cm
体重 67kg
選手情報
ポジション MFOMF[1]
FWSS[1]
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1991-1996 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 134 (30)
1997-1998 スペインの旗 バレンシア 29 (9)
1998-1999 イタリアの旗 サンプドリア 27 (8)
1999-2000 イタリアの旗 パルマ 18 (3)
2000-2002 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 56 (23)
2002-2003 トルコの旗 フェネルバフチェ 14 (5)
2004-2006 アルゼンチンの旗 ニューウェルズ 53 (11)
2006-2012 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 82 (12)
2008-2009 アルゼンチンの旗 インデペンディエンテ・R (loan) 25 (4)
2011 アルゼンチンの旗 オール・ボーイズ (loan) 12 (0)
2011-2012 アルゼンチンの旗 D・ベルグラーノ (loan) 27 (4)
通算 447 (129)
代表歴
1993-2010 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 87 (16)
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
1996 アトランタ サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

アリエル・アルナルド・オルテガAriel Arnaldo Ortega, 1974年3月4日 - )は、アルゼンチンフフイ州出身の元サッカー選手同国代表であった。現役時代の主なポジションは攻撃的ミッドフィールダーであり、シャドーストライカーなどでも起用された[1]。キレのあるスピードドリブルで相手をかわし、チャンスをつくる、テクニシャンであった[2]

愛称は父親が名付けた「El Burrito(エル・ブリート、スペイン語で小さいロバ)」[3]

クラブ経歴

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アルゼンチンのリーベル・プレートの下部組織出身。テスト入団後、当時のリーベル監督・ダニエル・パサレラの目に留まり、1年を待たずしてトップチーム昇格。1991年、17歳でプロデビューを飾る[4]。オルテガは以降、主力選手として国内リーグ制覇、1996年のコパ・リベルタドーレス優勝に貢献した。

1996年にはトヨタカップで来日も果たした(この時、クロスバーに当たる際どいシュートを放つが、デル・ピエロジダンらを擁するユヴェントスに1-0で敗北した)。この頃、ユヴェントスはオルテガを獲得を検討して、かつてユヴェントスでプレーしたシボリを介してオルテガの情報を集めていた[4]

1996-97シーズン途中の、1997年2月、当時のクラブ史上最高の移籍金でバレンシアに移籍[3]。このシーズンは、12試合で7ゴールと大きな活躍を見せた[3]。しかし、翌シーズン、練習から手を抜くなど、常にハードワークを求める、クラウディオ・ラニエリ監督と衝突、レギュラーを外された[3]

1998年、ワールドカップでのプレー振りから大会後、マンチェスター・ユナイテッドFCパリ・サンジェルマンユヴェントスがオファーを出したが、サンプドリアへの移籍を選択、多くの人がこの選択に驚いた[3]。加入後、ヴィンチェンツォ・モンテッラ、パルミエーリとコンビで活躍、8試合で3ゴール3アシストと結果を残していたが、モンテッラが負傷離脱すると失速した[3]。このシーズン、27試合で8ゴール7アシストを決めるも、チームは来期からセリエBに降格となった[3]

1999-00シーズン、マンチェスター・ユナイテッドFCから再びオファーを受けたが、リーベル時代のチームメートであるエルナン・クレスポが居る、パルマへの移籍を選択した[3]。に在籍するが、そこでも目立った活躍をすることは出来なかった。2000年にリーベル復帰。当時売り出し中の若手だったパブロ・アイマールハビエル・サビオラ等と共に活躍。かつての輝きを取り戻し、2002年日韓W杯のアルゼンチン代表メンバーにも選ばれた。

2002年フェネルバフチェトルコ)に移籍したが、環境に馴染めず半年でアルゼンチンに無断帰国。この行動がクラブ側の逆鱗に触れ、多額の違約金を請求される。その後問題は泥沼化、最終的にはFIFAが介入し、オルテガに長期間の出場停止処分が下された。

意欲を失ったオルテガは一時現役を引退。しかし、アルゼンチンリーグ1部ニューウェルズ・オールドボーイズがオルテガに救いの手を差し伸べた。移籍金という形でフェネルバフチェ側への支払いを肩替わりし、2004年8月に和解が成立。この時点で出場停止処分も解除となった。

2006年、古巣のリーベルに復帰。長年に渡って苦しんできたアルコール依存症を克服するため、近年リハビリを行っていることが報じられた。

2007年、依存症の治療のためチリへ渡る。

2008年、チームとの距離が生じていた中、アル・アインUAE)からのオファーを拒否。残留と思われたが、アルゼンチンリーグ2部のインデペンディエンテ・リバダビアスペイン語版に期限付きで移籍した。

2010年、リーベルに復帰するも、アルコール依存症の再発で出場は数試合にとどまり、シーズン中にオールドボーイズに期限付き移籍される。

2011年デフェンソーレス・デ・ベルグラーノスペイン語版に移籍。

2015年5月 かつてのリーベルのチームメート、フランチェスコリ、ソリン、アストラーダ、ガジャルドらが集まり、モニュメンタルで引退試合が開催された[5]

代表経歴

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1993年12月15日にドイツとの親善試合において、僅かな時間ながら代表デビュー。

1994年W杯アメリカ大会で、ディエゴ・マラドーナが史上初めて途中交代された試合(グループリーグ・対ギリシャ戦)で、マラドーナに代わって出場した。ディエゴ・マラドーナが出場不在のルーマニア戦では、マラドーナの代役として先発出場、アルゼンチン国民に希望を与えるプレーを見せた[4]

1996年夏にはアトランタオリンピックで中心選手として活躍。決勝でナイジェリアに敗れるものの、銀メダルを獲得した。

1998年には自身2度目のW杯フランス大会に臨み主力メンバーとして活躍、グループリーグ第2戦のジャマイカ戦で2ゴール1アシスト、更にPKを奪取した[6]クロアチア戦でも決勝ゴールをアシストし、決勝トーナメント進出に貢献。しかし準々決勝のオランダ戦において、ペナルティーエリア内でダイブをし、抗議・挑発をしに来たオランダ代表GKファン・デル・サールに頭突きを見舞い一発退場(明確に言えばシミュレーションで警告を受け、ファン・デル・サールに頭突きを食らわしたプレーで警告となり退場)[3]。試合も1-2で敗れ、戦犯として大きな批判を受けた。

2002年日韓W杯ではレギュラーとして、グループリーグの3試合にフル出場したが、決勝トーナメントにも進出出来なかった。2010年5月5日の親善試合・ハイチ戦で約3年ぶりにアルゼンチン代表へ招集され、出場を果たした。

脚注

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  1. ^ a b c “Ariel Ortega”. Transfermarkt. https://www.transfermarkt.jp/ariel-ortega/profil/spieler/4147 2023年8月4日閲覧。 
  2. ^ トヨタカップ 1996 大会パンフレット P.27
  3. ^ a b c d e f g h i Ariel Ortega, l'erede di Maradona mancato che ha giocato con Sampdoria e Parma”. GOAL (2023年3月4日). 2023年8月22日閲覧。
  4. ^ a b c トヨタカップ 1996 大会パンフレット オルテガ紹介ページ ページ数は無し
  5. ^ El Burrito Ortega tendrá su partido homenaje en Jujuy-Clarin
  6. ^ World Cup 1998 Argentina x Jamaica”. Transfermarkt. 2023年8月22日閲覧。

外部リンク

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