ホセ・ルイス・チラベルト

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ホセ・ルイス・チラベルト Football pictogram.svg
Chilavert sanlorenzo.jpg
アルゼンチンのサン・ロレンソに所属していた1985年頃のチラベルト
名前
本名 ホセ・ルイス・フェリックス・チラベルト・ゴンサレス
愛称 チラ
ラテン文字 José Luis Félix CHILAVERT González
基本情報
国籍 パラグアイの旗 パラグアイ
生年月日 1965年7月27日(50歳)
出身地 ルケ[1]
身長 188cm[1]
体重 92kg[1]
選手情報
ポジション GK[1]
利き足 左足[1]
代表歴2
1989-2003 パラグアイの旗 パラグアイ 74 (8)
2.  現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ホセ・ルイス・チラベルトJosé Luis Félix Chilavert González1965年7月27日 - )は、パラグアイ出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはゴールキーパー(GK)日本ではサムデイと業務提供を結んでいる。

PKやFKを決めるGKとして有名[1]

来歴[編集]

1965年7月25日パラグアイのルーケで生まれる。1980年に15歳で街のクラブチーム、スポルティボ・ルケーニョ入団、すぐに先発GKを任され活躍した。またパラグアイユース代表にも選出されるなど頭角を現す。

1983年には一部リーグのグアラニーへ移籍。1985年からはアルゼンチンサン・ロレンソでプレーする。1989年にスペインレアル・サラゴサに移籍、リーガ・エスパニョーラでは最優秀外国人プレイヤーに選ばれた。

1992年アルゼンチンのCAベレス・サルスフィエルドに移籍。1994年にはベレスを南米チャンピオンに導き、さらにトヨタカップでもACミランを完封して、世界チャンピオンの座に就いた。

1996年には南米最優秀選手賞を受賞。GKの受賞はチラベルトが初めてであった。また、1995年と1997年には世界最優秀GKに選ばれている。

パラグアイ代表に初選出されたのは1989年。1998年と2002年のFIFAワールドカップには正GKとして出場。1998年のフランス大会では4試合で失点を2つに抑え[1]ベストイレブンに選出された。

2002年に移籍したストラスブールでも、2部リーグ降格を防げなかったもののカップ戦では優勝。また、翌シーズンの1部リーグ復帰に貢献した。 2003年にはウルグアイペニャロールに移籍。一度は引退を決意するもののベレスに誘われ2004年4月までプレーした。2004年11月に行われた自身の引退試合においてFKを決めた。

引退後の2005年には、ストラスブールとの契約解除に際し偽造文書を使用した罪により、フランスの法廷から執行猶予付きの6ヵ月の収監を言い渡された。2006 FIFAワールドカップ(W杯ドイツ大会)と2010 FIFAワールドカップ(W杯南アフリカ大会)では、アメリカ合衆国内のスペイン語放送局であるユニビジョンの解説者を務めている。

2010年現在、アルゼンチンで環境エネルギーの会社を経営している、この会社は引退後に起こした会社である。

エピソード[編集]

  • フランス系移民の子孫であるため、名前の正しい発音はチラベルトではなく、”チラベル”である。名前の最後のTは発音しない。チラベル本人もそう呼ばれることを希望しているが日本のメディアはチラベルトと発音し、表記している。
  • 強面で自らFK、PKを蹴るなど一見すると傲慢に見受けられるが、実際はサッカー以外ではファン、特に子供達を大切にする。特に貧しい子供や体が不自由な子供たちに対する募金活動などボランティアなどの慈善活動に取り組み、積極的に活動、協力している。
  • 親日家であり、1998年のキリンカップ・サッカーで来日した際、TBSスーパーサッカーの番組内において、1998年フランスワールドカップで日本と対戦するアルゼンチン代表のプレーの特徴と攻略法を日本のマスコミに伝授した[1]。また、1998年10月10日のJOMO CUPでは海外のリーグ所属ながらゲストプレイヤーとした。
  • 1999年に母国パラグアイで開かれたコパ・アメリカ出場辞退の理由には「経済的に混迷するパラグアイでは国際大会よりも学校や病院が必要」という軍事政権に対する抗議であった。また、グアラニー語の教員免許を持っている。
  • プーマ社と契約していた仏W杯時に、彼に支給されたグローブのみ、同じモデルを支給されていた他の選手と仕様が異なり、後にチラベルトモデルとして販売された(違いはノーマル仕様は甲の部分のラバーやリストバンドが黒に対し、彼のものは甲がネイビーで、リストバンドが黄緑で、ノーマル仕様に施されていた指ズレ防止のラバーが施されていない)。
  • 兄のロランド・チラベルトも元サッカー選手(ミッドフィールダー)で、1986年ワールドカップのパラグアイ代表メンバーだった。
  • 1999年にサッカー史上初のGKの選手によるハットトリックを達成した。3点ともPKによる得点。
  • 引退後はパラグアイの大統領を目指しているという。
  • 2002年に開催されたW杯日韓大会でチラベルトを含むパラグアイ代表が長野県松本市をキャンプ地として使用したのを記念して、松本市では同年から「チラベルトカップ」が開催され[2]、現在に至るまで長野県内の3種(中学生年代)・4種(小学生年代)チームが集う大会として存続している。優勝・準優勝チームにはチラベルトの手形が入ったカップが授与される[3]。またキャンプの際に「素晴らしいスタジアム(長野県松本平広域公園総合球技場)があるのに、なぜプロのクラブがないんだ?」とコメント。当時北信越フットボールリーグに所属していた地元の山雅サッカークラブ(現:松本山雅FC)はこれをきっかけにJリーグを目指すことになったとされる[4]

語録[編集]

  • 「俺はW杯でゴールを決める最初のキーパーになりたい」
  • 「もう泣くな、俺たちはサッカーの試合に負けたわけであって、決して人生に負けたわけじゃない」
1998年W杯にて、フランス戦での敗退直後、ショックで立てないチームメイトに対して。
  • 「相手が水を飲みにピッチの外に出てもプレスをかけ続けろ」
  • 「パレルモ、ボールはこうやって蹴るものなんだよ」
ハットトリック達成後の会見にて。PKを1試合中に3度蹴り、全て外した経験を持つマルティン・パレルモを挑発して。

所属クラブ[編集]


代表歴[編集]

個人タイトル[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i チラベルト FC東京“逆指名” - ウェイバックマシン(2001年7月6日アーカイブ分)スポーツニッポン (2001年7月3日)
  2. ^ アルウィンスポーツプロジェクト構想趣旨 アルウィン・スポーツプロジェクトHP
  3. ^ 第8回チラベルトカップ長野県少年サッカー大会要項等 長野県サッカー協会公式サイト
  4. ^ 松本山雅 パラグアイ代表チラベルトの発言から設立 スポーツニッポン (2014年11月2日)

外部リンク[編集]