ハビエル・マスチェラーノ

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ハビエル・マスチェラーノ Football pictogram.svg
Mascherano casagob.jpg
2014年のマスチェラーノ
名前
本名 ハビエル・アレハンドロ・マスチェラーノ
Javier Alejandro Mascherano
ラテン文字 Javier MASCHERANO
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1984-06-08) 1984年6月8日(32歳)
出身地 サンロレンソ
身長 174cm
体重 73kg
選手情報
在籍チーム スペインの旗 FCバルセロナ
ポジション DF (CB) / MF (DMF)
背番号 14
利き足 右足
ユース
1999-2003 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
2003-2005 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 46 (1)
2005-2006 ブラジルの旗 コリンチャンス 26 (0)
2006-2007 イングランドの旗 ウェストハム 5 (0)
2007-2010 イングランドの旗 リヴァプール 139 (2)
2010- スペインの旗 バルセロナ 319 (1)
代表歴2
2003-2004 アルゼンチンの旗 アルゼンチン U-20 22 (1)
2004-2008  アルゼンチン U-23 18 (0)
2003- アルゼンチンの旗 アルゼンチン 135 (3)
1. 国内リーグ戦に限る。2016年12月19日現在。
2. 2016年11月15日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ハビエル・マスチェラーノ(Javier Mascherano, 1984年6月8日 - )は、アルゼンチンサンタフェ州サンロレンソ出身のサッカー選手リーガ・エスパニョーラFCバルセロナ所属。アルゼンチン代表。ポジションはディフェンダーミッドフィールダー。イタリア国籍を保持しているため、『ハビエル・マスケラーノ』と表記されることもある。

ディエゴ・マラドーナ監督就任後、アルゼンチン代表のキャプテンを務めた。

経歴[編集]

クラブ[編集]

父親のオスカル・マスチェラーノニューウェルズ・オールドボーイズでプレーしていたプロサッカー選手である[1]

リーベル・プレート[編集]

地元のクラブでプレーしていた頃はフォワードだったが、父親がコーチを務めていたクラブに入団してミッドフィールダーにコンバートされた[1]。14歳でリーベル・プレートの下部組織に入団した[2]。2003年7月、アルゼンチン代表デビュー直後にトップチーム登録され、2004年にはクラウスーラ(後期リーグ)でリーグ優勝を果たした。同年のコパ・リベルタドーレスでは準決勝まで勝ち進んだが、そこで地元ライバルのボカ・ジュニアーズに敗れて決勝進出はならなかった。レアル・マドリードデポルティーボ・ラ・コルーニャなど複数の欧州クラブが興味を示していたが、リーベル・プレートは認めず[3]、アルゼンチンにとどまっている。2004-05シーズンはあまり成功だったとは言えず、クラウスーラは3位、アペルトゥーラ(前期リーグ)は10位に終わった。コパ・リベルタドーレスでは再び準決勝まで進んだが、ブラジルのサンパウロFCに敗れた。

コリンチャンス[編集]

2005年のコンフェデレーションズカップ後、1500万ドル(約18億円)の移籍金でブラジルのコリンチャンスに移籍した。シーズン中盤に加入したコリンチャンスで9試合に出場した後、2005年9月に左足を疲労骨折し、シーズン終盤を棒にふった。6ヶ月の離脱の後、2006年3月5日に復帰している。FIFAワールドカップによって中断された2006年シーズンはブラジル・セリエB(2部)降格の危機にあったが、相変わらず欧州のクラブからの関心が報道された。

ウェストハム・ユナイテッド[編集]

2006年夏の移籍期間が閉まる直前、コリンチャンスの同僚FWカルロス・テベスと共にイングランドのウェストハム・ユナイテッドへ移籍した[4]。この移籍に関して、本当にウェストハムが彼の保有権を持っているのか、もしくは第三者が登録書を持っているのか、また高額のオファーがウェストハムに来た際は売却を強制させられるのかどうかなどが噂された[5]。彼の加入までのリーグ戦成績は1勝1分1敗だったが、彼の加入後にがくっと成績を落とし、10月29日に移籍後初勝利を挙げるまでに1分8敗の散々な成績だった。加入からしばらくはプレミアリーグの早いゲーム展開、激しいフィジカルコンタクトに順応しきれず、半年間で出場機会が与えられたのは5試合のみで、ほとんどの試合をベンチで過ごした。

リヴァプール[編集]

移籍をめぐる騒動

2007年1月16日、リヴァプールはマスチェラーノの獲得許可をFIFAに求めた。FIFAの規則は、どの選手も1年間に3つの異なるクラブでプレーすることはできないというものだったが[6]、このとき彼は既にコリンチャンスとウェストハムでプレーしていた。FIFAは1月31日に移籍を許可し、リヴァプールは移籍期間終了直前に登録書類を提出したが[7]、イングランドサッカー協会 (FA) はすぐには登録を認めなかった[8]

2月6日からリヴァプールのメルウッドで練習を始め、2月10日には初めて招集メンバー入りし、UEFAチャンピオンズリーグの試合へ向けた準備を進めた。2月20日には移籍がFAから公式に認められると、2月24日のシェフィールド・ユナイテッド戦でデビューし、4-0で快勝した。4月2日にFAはウェストハムに世界最高記録となる550万ポンドの罰金を課した[9]

リヴァプールでの活躍

UEFAチャンピオンズリーグの初出場は4月3日に行われた準々決勝PSV戦1stレグ(アウェー)で、すぐさまレギュラーとしての地位を確立した彼はACミランとの決勝にも出場した[10]。彼とMFシャビ・アロンソで相手MFカカとMFクラレンス・セードルフを抑えることに成功したが、試合には1-2で敗れた。しかし、ファンの投票でのマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。

2008年2月29日、リヴァプールと4年契約を果たし、保有権を完全に獲得した[11][12]。この移籍でリヴァプールは、保有権を持つメディア・スポーツ・インベストメント社に1860万ユーロ(約40億円)を支払ったと伝えられているが、これは移籍金ではなく、選手の4年分の給料である。3月15日、レディング戦で20ヤードの距離からシュートを決め、プレミアリーグ初得点を挙げた。

マンチェスター・ユナイテッド戦では、FWフェルナンド・トーレスがファールを取られたことに対して主審になぜファールなのかを聞きに行き、自らが二枚目のイエローカードを受けて退場している。ディフェンス陣に退場者や負傷者が出た際には、サイドバックやセンターバックといったポジションでプレーすることもあった。

2009年11月29日、グディソン・パークで行われたエヴァートン戦で30ヤードの距離から得点したが、公式記録ではジョゼフ・ヨボのオウンゴールとなった。12月19日のポーツマス戦ではDFタル・ベン・ハイムへの悪質なタックルによりレッドカードを提示され、このファールにより4試合の出場停止の処分を受けた。

FCバルセロナ[編集]

2010年8月30日、メディカルチェックが完了し、4年契約でFCバルセロナへ移籍した[13]。移籍金は2200万ユーロ(約23億5000万円)と推定されている[14]。9月11日のエルクレスCF戦 (0-2) で先発出場してリーガ・エスパニョーラデビューしたが、この試合は本拠地カンプ・ノウで16ヶ月ぶりの敗戦となった[15]。当初は守備的ミッドフィールダーのセルヒオ・ブスケツの控えであったが、2010-11シーズンは最終ラインに怪我人が続出したこともあり、センターバックとしてもプレーするようになった。以降はセンターバックでの起用が多くなっている。

2016年7月27日、ユベントスへの移籍が噂されたが、2019年までの契約を延長した。 2017年4月26日、CAオサスナ戦でPKを決め、クラブ在籍7年目にして初ゴールを記録した。

代表[編集]

アルゼンチン代表でプレーするマスチェラーノ

ユース[編集]

CAリーベル・プレートの下部組織に入団してすぐU-15アルゼンチン代表に選ばれた[1]。2001年9月にはFWカルロス・テベスやFWマクシミリアーノ・ロペスとともにFIFA U-17ワールドカップに出場し、4位入賞の原動力となった。アペルトゥーラの2003-04シーズン中、FIFAワールドユース選手権に出場し、自身は傑出したプレーを見せたものの、FIFA U-17ワールドカップと同じ4位に終わった。出場停止処分を受けたために3位決定戦には出場できなかった。

2004年1月、U-23アルゼンチン代表に選出。アテネオリンピックでは無失点で金メダルを獲得した。

2008年6月の北京オリンピックにはオーバーエイジ枠で出場し、MFフェルナンド・ガゴとともにダブルボランチを組み、堅牢な守備組織を形成した。ブラジルとの準決勝で、リヴァプールFCで同僚のMFルーカス・レイヴァに後ろから倒され、ルーカスは一発退場となった。更にその3分後、MFチアゴ・ネーヴィスに後ろから倒され、またも相手選手は一発退場となった。アルゼンチンは大会2連覇を果たし、マスチェラーノはアルゼンチンのサッカー選手として初めて2大会連続で金メダルを獲得した。

A代表[編集]

ユースレベルで顕著な活躍を見せたためリバープレートでトップチームの試合に出場する前にアルゼンチンA代表に招集され[1]、2003年7月16日のウルグアイとの親善試合でデビューした。なお、リーベルプレートでのデビューが遅れたのは、センターハーフのポジションにキャプテンのMFレオナルド・アストラーダがいたためであった。

2004年にはコパ・アメリカに出場し、決勝でPK戦の末にブラジルに敗れた。この大会ではチームメイトによる投票でチームのベストプレーヤーに選ばれた。

2005年にはドイツで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップに出場したが、決勝でブラジルに1-4で敗れ、失望を胸に大会を去った。2006年のFIFAワールドカップではアルゼンチン代表の5試合全てにフル出場したが、準々決勝でドイツに敗れてベスト8に終わった。

2007年7月、コパ・アメリカ2007の試合で1試合2得点を決め、この大会でチームのベストプレーヤーに選ばれた。それまでの成功とは打って変わって、2008年は我慢の年となった。2008年6月8日のアメリカ戦ではイエローカードを2枚受け、アルゼンチン代表の試合で初めて退場処分を食らった。

2008年11月にディエゴ・マラドーナ監督がアルゼンチン代表監督に就任するとキャプテンに指名された。「チームのキャプテンは、キャプテンマークを巻いて生まれてきたような、持って生まれた特別な才能がある選手がつとめるべきだと思う」と、暗に自分は向いていないという趣旨の発言をしたが、11月10日にハビエル・サネッティに代わる新キャプテンに就任した[16]。マラドーナは「私のチームはマスチェラーノと残りの10人で構成されている」と述べ、彼の重要性を強調した[17]

2013年6月11日、ブラジル・ワールドカップ予選のエクアドル戦で試合終了間際にスタッフを蹴り退場処分を受けた[18]

2014 FIFAワールドカップでは卓越した守備力とリーダーシップでチームを牽引し、ワールドカップ準優勝に大きく貢献した。

個人成績[編集]

クラブでの出場記録[編集]

クラブ シーズン リーグ カップ その他 通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
CAリーベル・プレート 2003-04 20 0 0 0 0 0 20 0
2004-05 26 1 0 0 0 0 26 1
通算 46 1 0 0 0 0 72 1
SCコリンチャンス・パウリスタ 2005 8 0 0 0 0 0 8 0
2006 18 0 2 0 0 0 20 0
通算 26 0 2 0 0 0 28 0
ウェストハム・ユナイテッドFC 2006-07 5 0 0 0 0 0 5 0
通算 5 0 0 0 0 0 5 0
リヴァプールFC 2006-07 7 0 0 0 4 0 11 0
2007-08 25 1 3 0 13 0 41 1
2008-09 27 0 3 0 8 0 38 0
2009-10 34 0 1 0 13 1 48 1
2010-11 1 0 0 0 0 0 1 0
通算 94 1 7 0 38 1 139 2
FCバルセロナ 2010-11 27 0 7 0 11 0 45 0
2011-12 15 0 7 0 6 0 28 0
2012-13 25 0 6 0 8 0 41 0
2013-14 28 0 7 0 9 0 46 0
2014-15 28 0 7 0 12 0 47 0
2015-16 32 0 6 0 8 0 51 0
通算 171 0 39 0 59 0 282 0
総通算 333 1 46 0 129 2 532 5

代表での得点[編集]

# 日時 場所 相手 スコア 最終結果 大会
1. 2007年7月5日 ベネズエラの旗 バルキシメト パラグアイの旗 パラグアイ 1-0 1-0 コパ・アメリカ2007
2. 2007年7月8日 ベネズエラの旗 バルキシメト ペルーの旗 ペルー 4 - 0 4-0 コパ・アメリカ2007
3. 2014年6月4日 アルゼンチンの旗 ラ・プラタ トリニダード・トバゴの旗 トリニダード・トバゴ 2-0 3-0 親善試合

タイトル[編集]

クラブ[編集]

CAリーベル・プレート
SCコリンチャンス・パウリスタ
FCバルセロナ

代表[編集]

アルゼンチン代表

個人[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d ワールドサッカーダイジェスト、日本スポーツ企画出版社、2007年9月6日号
  2. ^ 「死闘の果てに見える世界」footballista、ソルメディア、2009年3月4日号、10-11頁
  3. ^ Mascherano happy to step out of the shadowsTimes、2007年4月8日
  4. ^ テベス獲得が再認識させた、ウェスト・ハムの存在意義Number Web、2006年11月20日
  5. ^ テベス&マスチェラーノの“腰掛移籍”疑惑にUEFAも懸念livedoorスポーツ、2006年9月3日
  6. ^ 不遇に耐えるアルゼンチン代表「ウェストハムから出してくれ!」livedoorスポーツ、2007年1月5日
  7. ^ New twist in Mascherano transferBBC Sport、2007年2月1日
  8. ^ ウエストハムのマスチェラーノがリバプールへlivedoorスポーツ、2007年2月2日
  9. ^ FIFA テベスとマスケラーノの移籍問題を調査へAFP BB News、2007年5月16日
  10. ^ リバプールのマスチェラーノ「欧州一を再び証明したい」スポーツナビ、2007年5月23日
  11. ^ Mascherano free to join LiverpoolBBC Sport、2007年2月20日
  12. ^ アルゼンチン代表マスチェラーノ、リバプールと4年契約ロイター、2010年3月1日
  13. ^ “Javier Mascherano completes move to Barcelona”. BBC Sport. (2010年8月30日). http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/teams/l/liverpool/8948564.stm 2010年8月30日閲覧。 
  14. ^ バルセロナがマスチェラーノと契約UEFA.com、2010年8月30日
  15. ^ Valdez brace sinks champions”. ESPN Soccernet (2010年9月11日). 2010年9月29日閲覧。
  16. ^ マスチェラーノ、アルゼンチン代表キャプテンを承諾livedoorスポーツ、2008年11月11日
  17. ^ Mascherano: I'm very proudFIFA.com、2010年4月12日
  18. ^ W杯予選で衝撃の退場劇…アルゼンチン代表MFがスタッフ蹴りつける soccerking 2013年6月12日
  19. ^ UEFA Champions League squad of the season”. Union of European Football Associations (2015年6月9日). 2015年6月9日閲覧。

外部リンク[編集]