フロレンティーノ・ペレス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はペレス第二姓(母方の)はロドリゲスです。
フロレンティーノ・ペレス
Florentino Pére
Florentino perez.jpg
生誕 (1947-03-08) 1947年3月8日(70歳)
スペインの旗 スペインマドリード
住居 マドリード
出身校 マドリード工科大学
職業 ACS Group英語版CEO
純資産 推定2,2億ドル[1]
宗教 カトリック教会
配偶者 María Ángeles "Pitina" Sandoval Montero
公式サイト Florentino Pérez

フロレンティーノ・ペレス・ロドリゲス(Florentino Pérez Rodríguez、1947年3月8日 - )は、スペインマドリード出身の実業家で現レアル・マドリード会長。本業は会社経営者で、ドラガードス社と経営統合してACS社英語版をスペイン最大(ヨーロッパで第3位)の建設会社グループに作り上げた。レアル・マドリードソシオである。

レアル・マドリード会長[編集]

1994年、レアル・マドリードの会長選に初めて出馬するも、ラモン・メンドーサに敗れた。

2000年、借金の清算とルイス・フィーゴの獲得を公約に掲げてレアル・マドリードの会長選に再び立候補、当選した。ペレスは古くなった練習場の土地を地方自治体に売却することで借金を清算し、さらにライバルであるFCバルセロナからフィーゴの獲得にも成功。毎年1人ビッグネームを獲得することを宣言し、2001年にはジネディーヌ・ジダン、2002年にロナウド、2003年にデビッド・ベッカムを獲得(銀河系軍団)。そうすることで認知度が上がったレアル・マドリードは、シーズン終了後に世界中を巡って親善試合を行った。また、試合のみならず日本ではテレビ番組やイベント、CMなどにも出演した。

しかし、結果的にそのツアーによって収益は得たものの次シーズンへの準備期間が削られることとなり、コンディションが良くないままシーズンが始まることとなった。その他にも、選手間の給与格差や守備軽視などの問題も起こり、徐々にクラブはバランスを崩していった。2006年2月にUEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント一回戦のアーセナルFC戦とリーガ・エスパニョーラにおけるRCDマジョルカ戦での連敗により2季連続の無冠が濃厚となったため、ペレスは責任を取る形で会長職を辞任した。

2009年、ラモン・カルデロンが会長職を辞した後、再び会長選挙に立候補した。ペレスの他にも3人の候補者が出ると見られていたが、結局候補者はペレス1人であったため再び会長に返り咲いた[2]。前年多くのタイトルを獲得したバルセロナに対抗するべく、カカクリスティアーノ・ロナウドシャビ・アロンソカリム・ベンゼマらビッグネームを再び獲得。この年補強に費やした金額は2億5000万ユーロにも上った。

2010年、クラブの象徴的な存在であった、ラウルシャルケ04へ放出した。これに伴いクラブのエースナンバー7は、クリスティアーノ・ロナウドに継承された。

2013年にクラブの中心選手だったメスト・エジルをアーセナルに、更には翌年、デシマ(CL10回目の優勝)に貢献したディ・マリアやシャビ・アロンソをそれぞれマンチェスター・ユナイテッドとバイエルン・ミュンヘンに放出した。これに伴い2014年のワールドカップで活躍を見せたハメス・ロドリゲストニ・クロースらを獲得、新銀河系軍団を作り上げようとした。

優れた経営手腕でクラブに多額の利益をもたらし続け、クラブ施設の近代化を推し進める一方で、第一次政権時からその強権ぶりも知られており、数多くのタイトルを獲得しても自身に意に沿わない人物であったり、無冠であったりすると監督を解任、解任した監督は12年間で延べ8人に上っている[3]。また選手の起用に関してのペレスの現場介入に関しては、後にマヌエル・ペレグリーニラファエル・ベニテスカルロ・アンチェロッティが批判するなど、功績と同時に批判も多い[4][5][6]

関連項目[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]

外部リンク[編集]