セサル・ロドリゲス・アルバレス
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この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はロドリゲス、第二姓(母方の姓)はアルバレスです。 |
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名前 | ||||||
本名 |
セサル・ロドリゲス・アルバレス César Rodríguez Álvarez | |||||
カタカナ | セサル | |||||
ラテン文字 | César | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
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生年月日 | 1920年6月29日 | |||||
出身地 | レオン | |||||
没年月日 | 1995年3月1日(74歳没) | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
代表歴 | ||||||
1943-1954 |
![]() | 12 (6) | ||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
セサル・ロドリゲス・アルバレス(César Rodríguez Álvarez、1920年6月29日 - 1995年3月1日)は、スペイン・レオン出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはフォワード(FW)。通称セサル。
リーガ・エスパニョーラでの226得点は、テルモ・サラ、ウーゴ・サンチェス、アルフレッド・ディ・ステファノに次ぐ歴代4位の記録である。
経歴[編集]
選手時代[編集]
レオンのクラブでユース時代を過ごした後、1939年にCFバルセロナに加入した。レンタル先のグラナダCFで1部昇格を果たし、1941-42シーズンにプリメーラ・ディビシオンデビューした。彼だけで6得点を奪って勝利したCDカステリョン戦などもあり、得点王争いでは2位につけた。1942-43シーズンにバルセロナに戻り、1944-45シーズンにはリーグ優勝した。バルセロナ時代の同僚にはアントニ・ラマレッツやエスタニスラオ・バソラやラディスラオ・クバラなどがいた。1948-49シーズンは28得点し、ピチーチ賞のタイトルを手に入れた。1951年のコパ・デル・ヘネラリシモ決勝のレアル・ソシエダ戦では彼の2得点が優勝を決めた。1951-52シーズンのバルセロナは、1シーズンだけで5つのトロフィーを獲得した。コパ・デル・ヘネラリシモの決勝のバレンシアCF戦、ラテン・カップ決勝のOGCニース戦と、彼は大舞台でよく得点した。結局バルセロナでは5度のリーグタイトルと2度のコパ・デル・レイ優勝を果たした。
バルセロナを離れてからは、クルトゥラル・レオネサやペルヒニャンFCを経てエルチェCFに在籍した。テルセーラ・ディビシオン(当時3部)に所属していたクラブを、3シーズンでプリメーラ・ディビシオン(1部)に引き揚げた。選手生活最後のシーズンは監督を兼任した。
代表[編集]
1945年から1952年まで、スペイン代表として12試合に出場し、6得点した。1945年3月11日のポルトガル代表戦で初出場し、初得点も決めた。1950年にはブラジルW杯に出場した。
1943年から1954年まで、カタルーニャ代表として10試合に出場し、5得点した。1947年10月19日に行われたカタルーニャ選抜とスペイン代表の試合ではカタルーニャ選抜で出場し、彼の2得点もあって3-1で勝利している。
指導者時代[編集]
エルチェCFで選手兼任監督で1年過ごした後、レアル・サラゴサの監督に就任した。1960-61シーズンは3位に導き、1961-62、1962-63シーズンはそれぞれ4位と5位で終えた。1963年のコパ・デル・ヘネラリシモではCFバルセロナに次いで準優勝した。翌シーズンに就任したバルセロナでは、85試合を率いただけで成功しなかった。
所属クラブ[編集]
- 1939-1954
CFバルセロナ
- 1954-1955
クルトゥラル・レオネサ
- 1955-1957
ペルヒニャンFC
- 1957-1960
エルチェCF
指導歴[編集]
- 1959-1960
エルチェCF
- 1960-1963
レアル・サラゴサ
- 1963-1964
CFバルセロナ
- 1965-1966
RCDマジョルカ
- 1967
レアル・ベティス
- 1968-1969
レアル・サラゴサ
タイトル[編集]
※いずれも選手時代
- CFバルセロナ
- ピチーチ賞 1949
- リーグ 1945, 1948, 1949, 1952, 1953
- コパ・デル・ヘネラリシモ 1951, 1952
- ラテン・カップ 1949, 1952
- スーペルコパ 1945, 1948, 1952, 1953
- グラナダCF
- セグンダ・ディビシオン 1941
- エルチェCF
- セグンダ・ディビシオン 1959
外部リンク[編集]
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