1950 FIFAワールドカップ

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1950 FIFAワールドカップ
1950 FIFA World Cup
Copa do Mundo FIFA de 1950
大会概要
開催国 ブラジルの旗 ブラジル
日程 1950年6月24日 - 7月16日
チーム数 13 (3連盟)
開催地数 (6都市)
大会結果
優勝  ウルグアイ (2回目)
準優勝  ブラジル
3位  スウェーデン
4位  スペイン
大会統計
試合数 22試合
ゴール数 88点
(1試合平均 4点)
総入場者数 1,045,246人
(1試合平均 47,511人)
得点王 ブラジルの旗 アデミール(8点)
 < 19381954

1950 FIFAワールドカップ: 1950 FIFA World Cup)は、1950年6月24日から7月16日にかけて、ブラジルで開催された第4回目のFIFAワールドカップである。この大会は唯一、決勝ラウンドもリーグ戦で開催された。第4回大会以後、FIFAが初代会長ジュール・リメの会長就任25周年を讃えて、優勝杯がジュール・リメ杯と公式に呼ばれることになった。

予選[編集]

出場国[編集]

出場選手は1950 FIFAワールドカップ参加チームを参照。

大陸連盟 出場
枠数
予選
予選順位
出場国・地域 出場回数
CONMEBOL 1+4 開催国  ブラジル 4大会連続4回目
南米予選 7組  チリ 3大会ぶり2回目
 ボリビア 3大会ぶり2回目
8組  ウルグアイ 3大会ぶり2回目
 パラグアイ 3大会ぶり2回目
UEFA 1+7 前回優勝国  イタリア 3大会連続3回目
欧州予選 1組 1位  イングランド 初出場
2位  スコットランド 出場辞退
2組 1位  トルコ 出場辞退
3組 1位  ユーゴスラビア 3大会ぶり2回目
4組 1位  スイス 3大会連続3回目
5組 1位  スウェーデン 3大会連続3回目
6組 1位  スペイン 2大会ぶり2回目
CONCACAF 2 北中米カリブ海予選 9組 1位  メキシコ 3大会ぶり2回目
2位  アメリカ合衆国 2大会ぶり3回目
AFC 1 アジア予選 10組 1位  インド 出場辞退

本大会[編集]

概要[編集]

第二次世界大戦により、ワールドカップは1938年から中断されており、またヨーロッパの大部分が未だに復興途上であった。このため、唯一の立候補であり、欧州と違い戦争被害がなく、また未開催となった1942年大会の開催地としてドイツと並び立候補した実績のあったブラジルが大会の開催権を得た。

当初は16か国の参加を想定、開催国のブラジルと、前回大会優勝のイタリア以外は、欧州から7、アメリカ州(北中米および南米)から6、アジアから1が選出される予定だったが、辞退国が多発したため、グループ配分が崩れ、グループDのように2カ国で争ったところから、グループAやBのように4カ国が争ったところまで様々であった。

インドは、インドネシアフィリピンビルマ各国の参加拒否により、自動的に予選なしでアジア枠からの参加が決定していたものの、裸足での試合参加をFIFAに拒否されたという理由で、大会直前に参加を辞退したため、結果的にアジアからの本大会参加国はなかった。その後、1952年ヘルシンキオリンピックの後、サッカー競技規則第4条競技者の用具の項でシューズ着用義務が明確に規定されるようになった。このように長年にわたって、FIFAに裸足でのプレーを拒まれたため、インドが今大会を棄権したものと考えられてきたが、2011年のロサンゼルス・タイムズ紙によると、「一番の大きな理由は、当時のインドにとっては、オリンピックのみが重要で、FIFAワールドカップの重要性を認識していなかった財政難のインドサッカー連盟(AIFF)がオリンピックに集中したかった為」とある(もう一つの棄権理由だったブラジルワールドカップの旅費も、実際はワールドカップ組織委員会が大部分を負担すると約束していたことが分かっている[1])。

南米各国も、ブラジルサッカー協会との間に問題を抱えていたアルゼンチンサッカー協会同国代表の参加を拒否、他にもエクアドルペルーが参加を拒否したため、ウルグアイチリパラグアイボリビアの4か国が予選なしで自動的に参加決定となった。

また、戦前に開催された大会で好成績を収めた国の中には、1934年大会の準優勝国チェコスロバキアや、1938年大会の準優勝国ハンガリーなど、戦後になりソビエト連邦の影響で共産主義政権下(いわゆる「鉄のカーテン)に入った東ヨーロッパ各国もあったが、これらの国はソ連代表と歩調を合わせ予選参加を拒否した。

連合王国を構成するイギリスの各サッカー協会が、大会の4年前に17年間の孤立からFIFAに復帰し、特例として1949年から1950年にかけて行われたブリティッシュ・ホーム・チャンピオンシップの1位と2位のチームが参加することとなった。1位がイングランド、2位がスコットランドであったが、スコットランドサッカー協会は優勝チームとしてでなければ参加を辞退すると事前に表明、結果2位だったため協会会長が不参加を決定し、当時のスコットランド代表キャプテンが協会会長に翻意するよう訴えたが認められず辞退となった。トルコも参加を辞退した。インドと合わせたこの3カ国の辞退に対し、FIFAは欧州予選で出場国に次ぐ成績を上げていたフランスポルトガルアイルランド[2]に対して補充参加を要請したが、ポルトガル、アイルランドは辞退、フランスは一旦参加を表明し、グループDで試合をすることまで決まっていたものの結果撤退した。フランスは「4日間に3500kmも離れた都市を転戦しなければならない」ことを理由に、参加を辞退した。広大なブラジル国内では飛行機移動が一般的なことを知らなかったからという。ただ、本当の理由は当時はフランス経済が困難な状況で、さらに大会直前の練習試合で連敗したためといわれている[3]。 大会は13カ国、しかも1次リーグの参加国数が2-4で不揃いのまま行われることになった。ディフェンディングチャンピオンのイタリアは、参加はしたものの、前年に発生したスペルガの悲劇の影響で、南米までの渡航に航空機ではなく船舶を使用した。

また、第二次世界大戦での敗北後、連合国軍による占領下にあったドイツ日本は大戦中の1945年に両国サッカー協会が会費未払いなどの理由で除名され、同大会の予選開始までに復帰できず、事実上参加を拒否された[4][5][6][7]。当時フランス占領下にあったザール保護領(現在のドイツザールラント州)では、1948年にザールラントサッカー協会英語版が結成、代表チームも組織されてはいたが、同協会のFIFA加盟が許可されたのはワールドカップ本大会開催の2週間前だったためこちらも間に合わなかった。

1950年ワールドカップの前に、マラカナースタジアムのオープニングゲーム。

本大会の前には各協会の主力チームをそろえたイギリス代表がヨーロッパ代表を親善試合で6対1で破っており、イングランドは全13か国中唯一の初出場ながら優勝候補の1つに数えられた。しかし、大会では1次リーグの2戦目でアメリカ合衆国に1対0で敗れると、続くスペイン戦にも1対0で敗れ、グループリーグで姿を消した。アメリカへの敗北は当時のイギリスでは考えられないことであり、新聞に結果が記載されると、印刷ミスであるとして新聞社に抗議の電話が殺到した。「FIFAワールドカップ史上最大の番狂わせ(世紀のアップセット)」と呼ばれている(後述)。

決勝は、ノックアウト方式ではなく、再び総当たりのリーグ戦で行われた。これはスタジアム建設に多額の投資を行ったブラジルサッカー協会側からの試合数増加を狙った提案に基づくもので、当初FIFAは難色を示したものの、ブラジルサッカー協会がこの提案が拒否された場合大会の開催自体を拒否するという脅しとも取れる意思表示をしたため、他に代替開催国のあてもなく、戦後初となるワールドカップを是非とも復活させたかったFIFA側が折れた形となった。1次リーグ各組で1位だったブラジルスペインスウェーデンウルグアイの4チームが参加した。決勝リーグの最終節では2連勝のブラジルとウルグアイが対戦し、勝利したウルグアイが第1回以来、イタリアと並ぶ2度目の優勝を果たした。一方この最終戦で引き分け以上で優勝が決まっていたブラジルは逆転負けで優勝を逃し、敗戦の瞬間には試合会場のマラカナンスタジアム内でショック死と自殺で命を落とす人が続出し、後に「マラカナンの悲劇」と呼ばれた。ブラジル代表はその後、この敗戦のショックを払拭するため、それまでの白いユニフォームをカナリア色(黄色)に変えることとなった、ブラジル代表は60年以上が経過した今もカナリア色を使用している。

なお、結果的には最終節の試合が事実上の決勝戦になったとはいえ、現在に至るまで、トーナメント形式で決勝戦が行われなかった唯一の大会となっている。

FIFAワールドカップ史上最大の番狂わせ[編集]

以下の記述は、国際サッカー連盟(FIFA)公式HPの記事「The miracle of Belo Horizonte(ベロオリゾンテの奇跡)」[8]と各種資料に基づく。FIFA記事に基づく場合は、特に注釈は設けない。

1950年6月29日、ベロオリゾンテエスタジオ・セテ・デ・セテンブロで行われたグループリーグ第2組第2戦アメリカイングランド戦で、セミプロ数名以外[9]、残りはアマチュアのアメリカが、全員プロのイングランドを1-0で破った。「FIFAワールドカップ史上最大の番狂わせ(The biggest upset in World Cup history)」とFIFA公認で呼ばれている(FIFA公式呼称は、「The miracle of Belo Horizonte(ベロオリゾンテの奇跡)」)[9]

2018年6月10日、アメリカのデータ会社Gracenote社がワールドカップの各試合について、試合前の時点でデータに基づいて想定される両チームの勝利確率を算出した結果、アメリカがイングランドに勝利する確率は最も低い「9.5%」で、この試合の結果は「FIFAワールドカップ史上最大の番狂わせ(The biggest upset in World Cup history)」であることが計算でも確認された[10]

試合前までの状況[編集]

アメリカ代表は、「市民権を得る意思を持っていた」外国人などを中心に、1930年と1934年の2回に渡って代表セレクションを行っていた。ハイチからアメリカニューヨークコロンビア大学会計学を学ぶために留学し、ブルックリンのレストランで皿洗いのバイトをしながら学んでいたジョー・ガエントス英語版(イングランドを破る決勝点を入れた選手)は、アメリカ代表のスコットランド人監督であるジェフリー・ビル(JEFFREY Bill)監督によって見出され、大会直前にアメリカ代表に加わった。なお、監督自身も、アメリカ代表監督になったのは、今大会前であった。当時アメリカは、36年間のプロリーグ断絶期間中で[11]、セミプロ数名(1試合わずか5ドル程度の報酬)を除けば[9]、残りはアマチュアであり、イングランド3部リーグからアメリカの選手が帰国すれば、即アメリカ代表のレギュラーになれるというレベルだった[11]。アメリカ代表の選手たちは、学生や英国などからの移民選手たちが主であり、その職業及び副業は高校の体育教師、獣医師、街馬車の御者、郵便配達そしてレストランの皿洗い等であった。また、ハイチからの留学生ジョー・ガエントス英語版 、アメリカ代表キャプテンのエド・マキレニー(Ed Mcllvenny)、ジョー・マーカ(Joe Maca)の3人は当時アメリカ国籍はなかったが、アメリカ代表入りして、今大会で得点をあげた。今大会後の1950年12月2日に、国際サッカー連盟(FIFA)は聞き取り調査(ヒアリング)を行ったが、「市民権を得る意思を持っていたので、アメリカ代表に加えた」とアメリカサッカー連盟が説明し、「選考は、当時は間違っていなかった」とFIFAも事後承認している。当時のアメリカ代表選手たちは、人並み外れた体格から「ショット・プッターズ(砲丸投げ選手たち)」と呼ばれていた[3]

対するイングランド代表は、全員プロ選手であった。ナイトに叙勲された名手スタンリー・マシューズ(Stanley Matthews)、後にイングランド代表監督としてイングランドをワールドカップ優勝に導いたアルフ・ラムゼイ(Alf RAMSEY)ら世界的なスターを揃えた今でいう「銀河系軍団」であった[3][9]。イングランドは、第二次世界大戦前は毎年、欧州大陸から強豪をホームに招いて親善試合をしていたが、一度も敗れたことが無く[3]第二次世界大戦後も、今大会のアメリカ戦の前までに23勝4敗3分で、ホームでは無敗という驚異的な戦績を誇っていた[12]

大会前の準備も、対照的であった。アメリカ代表が集合したのは、大会開幕の2週間前。数日間の合宿後、7便の飛行機を乗り継ぎ、3日間かけて移動し、疲れ切ってブラジルに着いた。対して、イングランド代表は、大西洋を船でゆっくりと渡り、体調十分の状態で、ブラジルに到着した(注:旅客機が大衆化するのは、1960年代からである)[9]

両国の対戦前までに、グループリーグ(1次リーグ)の第1戦で、アメリカスペインに1-3で敗れたのに対して、イングランドは、チリに2-0で勝利していた。この結果を受け、試合前のオッズ(かけ率)は、アメリカの勝利は500倍となっていた。 アメリカ代表のジェフリー・ビル(JEFFREY Bill)監督(スコットランド人)も、試合前のインタビューで「勉強しに来ました。我々にチャンスはない(We have no chance.)」と率直に答えるなど[12]、イングランドの勝利は間違いないものだと思われていた。

イングランドは、初戦のチリ戦に続いて、アメリカ戦でも、スタンリー・マシューズを出場させず、温存した(当時のサッカールールでは、公式戦での試合中の選手交代はできなかった。認められるようになったのは1953年からで、交代は負傷した場合のみで、最大2名までであった)。ただ、イングランドは、マシューズがいなくても、世界屈指のスター選手ぞろいだった。

ブラジルの6月は冬だが、試合会場のベロオリゾンテは常春といった気候。試合日、気温は27度で、湿気が多い日だった。アメリカのユニホームは、白シャツに紺のパンツで、イングランドは青シャツ、白パンツであった[9]

試合展開[編集]

満員の観客たちは、イングランド代表のスターたちのプレーを見に来ていた[9]。コイントスで勝ったイングランド代表がキックオフ。観客の声援に応え、試合開始直後からイングランド代表が圧倒し、イングランドは前半12分までに6本もシュートを浴びせたが、2本がポストに当たり、残りは元プロ野球捕手(キャッチャー)であるアメリカ代表GKフランク・ボルギ(Frank Borghi)に防がれた[9]。アメリカ代表GKフランク・ボルギは、この時、「5、6点の失点で試合が終れればいいのだが」と思っていたという。前半25分、アメリカ代表は最初のシュートを放ったが、イングランド代表GKバート・ウィリアムズ(Bert Williams)が防いだ。その後も、イングランド代表は前半30、31、32分と立て続けにシュートに持ち込んだが、センターフォワードスタン・モーテンセン(Stan Mortensen) の2本のシュートはクロスバーを越え、本職はFWの右アウトサイドトム・フィニー(Tom Finney) のヘディングシュートはGKフランク・ボルギに弾き出され、得点できずにいた。

前半38分、アメリカに先制点が生まれる。平日は高校の体育教師で、週末だけ試合でわずかな収入を得るセミプロのアメリカ代表MFバー(Walter Bahr)がドリブルした後、ゴール前右側(アメリカ側から見て右)約20mの地点からシュートを放った。しかし、シュートに力が無く、左(イングランド側から見て左)に動いたイングランド代表GKバート・ウィリアムズがキャッチしようとした。だが、GKバートがキャッチする前に、長身のアメリカ代表ジョー・ガエントス英語版が猛烈な勢いで走り込んで、大きくジャンプして、頭で触れた。このヘディングシュートは、ふわりと上がり、イングランドゴールに入った[9]。満員の観客たちは、イングランドが1失点したことによって、逆に「奮起したイングランド代表のスターたちにより、最終的にはアメリカにサッカーを教えることになる(FIFA公式HPの記事)」と期待した。観客の期待通り、イングランドは、反撃を開始し、前半終了間際にトム・フィニーがシュートに持ち込もうとしたが、シュートを打つ前に前半終了の主審の笛が鳴った。

後半も、イングランドの猛攻が続いた。だがアメリカは反則覚悟の猛タックルで防いだ。若いアメリカは体力には自信をもっていた[9]。後半9分、後半14分にはイングランド代表が決定機を掴んだが、後半14分のスタン・モーテンセンの直接FKはGKフランク・ボルギのセーブに防がれる等で得点にならなかった。アメリカ代表の後半のシュートは後半29分に放ったシュートで、それがアメリカ代表の後半最初で最後のシュートだった。

アメリカ代表は、ガエントスの得点と好セーブを連発する頼りになる守護神GKフランク・ボルギの姿により、試合前より自信を持ち、勇敢にプレーできるようになっていった。イングランド代表が得点を取れないことに不満を抱いた観客たちは、アメリカ代表の奮闘ぶりもあり、アメリカ代表の応援を後半途中からするようになっていった。また、開催国ブラジルでのブラジル初優勝を希望するブラジル人は、途中から優勝候補の強豪イングランドの敗戦を願うようになっていった。

後半37分、イングランド代表のスタン・モーテンセンがペナルティエリア付近で、アメリカ代表のチャーリー・コロンボ(Charlie Colombo)の猛タックル(FIFA記事によれば、サッカーというより、ラグビーのタックルだったという)により倒され主審の笛が鳴ったが、ペナルティーキック(PK) ではなく、主審はフリーキック(FK)を与えた。ペナルティエリア外の反則という判定だった。そのFKからイングランド代表のジミー・マレン(Jimmy MULLEN) がヘディングシュートを放ったが、アメリカ代表GKフランク・ボルギが指先で弾き出し決定機を防いだ。結局、イングランドはゴールを奪えずアメリカに歴史的な完封負けを喫した。この試合は、「FIFAワールドカップ史上最大の番狂わせ(The biggest upset in World Cup history)」(FIFA公認の呼称)(あるいは「サッカー史上最大の番狂わせ」(世紀のアップセット))と呼ばれた[9][12]。   地元ブラジル人観客はグランドに雪崩込み、殊勲のジョー・ガエントス英語版を肩に担ぎあげた。先述の通り、地元開催での初優勝を希望するブラジル人は、途中からイングランドの敗戦を願っていたためとも言われている。

この試合の実際の映像は、FIFA公式動画「USA shock England in 1950: The miracle on grass(1950年にアメリカがイングランドに衝撃を与える:芝生の奇跡)」[13]でいくつか視聴することができ、トム・フィニーのヘディングシュートをアメリカ代表GKフランク・ボルギがセーブする場面やアメリカ代表のチャーリー・コロンボらの必死の守りなどの試合中のいくつかの局面や試合後、ジョー・ガエントス英語版がブラジル人観客に担ぎ上げられるシーンなどを見ることができる。

試合後の会見[編集]

試合後、アメリカ代表DFハリー・カウフ(Harry KEOUGH)は、「通常、比較的早い時間帯での得点(相手にとっての失点)では、優れたチーム(イングランド)は敗退しない。試合前、私たちは、0-2での敗戦なら満足していたし、勝とうとも思っていなかった。出来うる限り、最善を尽くすことのみ考えていた」と無欲の勝利であることをコメントした。

一方、イングランド代表右ウインガー(アウトサイド)トム・フィニー(Tom Finney) は、「前半数回、後半2回、イングランドのシュートがポストをたたいた。アメリカ代表の得点は、頭に当たって落ちた偶然の得点。今日は我々(イングランド)の日ではなかったので、プレーし続けるのを止めた。アメリカと100回対戦したら、99回は楽勝できた」と、アメリカは偶然の勝利であるというコメントを残した。

反響[編集]

アメリカは大会に記者を1人しか送らず、その1人も有給休暇を使い、自腹で取材に来ており、その記事を掲載した新聞は、アメリカの地元紙の1紙だけだったという。そのため、サッカー通のアメリカ人は誤報と思ったという[12]

当時はTV中継が無い時代で、イギリスでこの敗戦が報道されると、イギリス国民の誰もが誤報だと思ったという。新聞に結果が記載されると、印刷ミスであるとして新聞社に抗議の電話が殺到した。間違いと思い込んだイギリス首都ロンドンのある新聞が、「10-0でイングランドが勝った(1-0の1が10点のタイプミスで、チームも逆にしたミスと解釈した)」と報じたほどだった[9]

その後[編集]

アメリカ代表は、この大会以降、W杯予選敗退が続き、1990年イタリア大会まで40年間、ワールドカップ本大会に出場することはなかった。

先述の通り、今大会後の1950年12月2日に、国際サッカー連盟(FIFA)は、ハイチからの留学生ジョー・ガエントス英語版 (イングランドを破る決勝点を入れた選手)、アメリカ代表キャプテンのエド・マキレニー(Ed Mcllvenny)、ジョー・マーカ(Joe Maca)ら3名のアメリカ代表今大会得点者が、当時アメリカ国籍がなかったことについて、聞き取り調査を行ったが、「市民権を得る意思を持っていたので、アメリカ代表に加えた」というアメリカサッカー連盟の説明を受け、「アメリカ代表に加えた選考は、当時は間違っていなかった」と、FIFAは事後承認した。

この試合で前半38分に決勝点を決めたアメリカ代表のジョー・ガエントス英語版は、結局、アメリカ国籍を取得せず、ワールドカップ後はアメリカ代表としてはプレーしなかった。ワールドカップ後、フランスにわたり、フランスの2つのクラブでプレーした後、母国のハイチに帰った。そして次の1954年スイスワールドカップ北中米地区予選ハイチ代表に選ばれ、出場した。その後、引退しドライクリーニング屋を経営するようになった。

ガエントスは、帰国したハイチで悲劇的結末を迎えた。ガエントスは政治に興味がなかったが、1964年7月8日の朝、ハイチのデュヴァリエ大統領が発足させた秘密警察トントン・マクートに逮捕され、フォートディマンシェ(Fort Dimanche)刑務所に投獄された。投獄2日目に目撃されたのを最後に、そのまま消息を絶った。1964年7月10日に死亡したと推測されているが、未だに遺体も発見されていない[14]。デュヴァリエ政権下での3万人の犠牲者のうちの1人だと考えられている。なお、CIAに所属していたとの話もあるが、真相は定かではない。

2005年には、この試合を題材に『ジェラルド・バトラー in THE GAME OF LIVES』という題で映画化された。この映画では、当時のアメリカ代表選手4人がラストで出演している。

イングランド代表は、屈辱的な敗戦であるアメリカ戦の青いユニホームを、二度と着用しようとはしなかった[9]。イングランドでは、今でもこの敗戦はイングランドサッカー最大の恥とされている[15]

会場一覧[編集]

都市 スタジアム
ベロオリゾンテ エスタジオ・セテ・デ・セテンブロ
クリチバ エスタジオ・ドゥリヴァウ・デ・ブリット
ポルトアレグレ エスタジオ・ドス・エウカリプトス
レシフェ エスタジオ・イリャ・ド・レチロ
リオデジャネイロ エスタジオ・ド・マラカナン
サンパウロ エスタジオ・ド・パカエンブー

結果[編集]

グループリーグ[編集]

※試合開始日時はすべて現地時間UTC-3)。

グループ 1[編集]

チーム
1  ブラジル 3 2 1 0 8 2 +6 5
2  ユーゴスラビア 3 2 0 1 7 3 +4 4
3  スイス 3 1 1 1 4 6 −2 3
4  メキシコ 3 0 0 3 2 10 −8 0











グループ 2[編集]

チーム
1  スペイン 3 3 0 0 6 1 +5 6
2  イングランド 3 1 0 2 2 2 0 2
3  チリ 3 1 0 2 5 6 −1 2
4  アメリカ合衆国 3 1 0 2 4 8 −4 2









チリ  5 - 2  アメリカ合衆国
ロブレド 16分にゴール 16分
クレマシ 32分にゴール 32分60分
プリエト 54分にゴール 54分
リエラ 82分にゴール 82分
レポート ウォレス 47分にゴール 47分
マカ 48分にゴール 48分 (PK)


グループ 3[編集]

チーム
1  スウェーデン 2 1 1 0 5 4 +1 3
2  イタリア 2 1 0 1 4 3 +1 2
3  パラグアイ 2 0 1 1 2 4 −2 1




グループ 4[編集]

チーム
1  ウルグアイ 1 1 0 0 8 0 +8 2
2  ボリビア 1 0 0 1 0 8 −8 0

ウルグアイ  8 - 0  ボリビア
ミゲス 14分にゴール 14分40分51分
ビダル 18分にゴール 18分
スキアフィーノ 23分にゴール 23分54分
ペレス 83分にゴール 83分
ギジャ 87分にゴール 87分
レポート

決勝リーグ[編集]

チーム
1  ウルグアイ 3 2 1 0 7 5 +2 5
2  ブラジル 3 2 0 1 14 4 +10 4
3  スウェーデン 3 1 0 2 6 11 −5 2
4  スペイン 3 0 1 2 4 11 −7 1

※試合開始日時はすべて現地時間UTC-3)。



ブラジル  7 - 1  スウェーデン
アデミール 17分にゴール 17分36分52分58分
シッコ 39分にゴール 39分88分
マネッカ 85分にゴール 85分
レポート アンデション 67分にゴール 67分 (PK)

ウルグアイ  2 - 2  スペイン
ギジャ 29分にゴール 29分
バレラ 73分にゴール 73分
レポート バソラ 37分にゴール 37分39分


ブラジル  6 - 1  スペイン
パーラ15分にゴール 15分 (OG)
ジャイール 21分にゴール 21分
シッコ 31分にゴール 31分55分
アデミール 57分にゴール 57分
ジジーニョ 67分にゴール 67分
レポート イゴア 71分にゴール 71分






優勝国[編集]

 1950 FIFAワールドカップ優勝国 

ウルグアイ
3大会ぶり2回目

得点ランキング[編集]

順位 選手名 国籍 得点数
1 アデミール  ブラジル 8 
2 オスカル・ミゲス  ウルグアイ 5
エスタニスラオ・バソラ  スペイン
4 シッコ  ブラジル 4
テルモ・サラ  スペイン
アルシデス・ギジャ  ウルグアイ

脚注[編集]

  1. ^ 裸足でのプレーを拒否されたため、1950年ブラジルワールドカップを棄権したのですか?-ロサンゼルス・タイムズ2011年7月19日
  2. ^ この時点で「アイルランド代表」を名乗るチームは2つ存在していた。1882年の当初はアイルランド全域を統括し、この時点では北アイルランドのみを管轄していたアイリッシュ・フットボール・アソシエーション(IFA)のナショナルチーム(後の北アイルランド代表)と、1921年創立でアイルランド共和国の協会であるフットボール・アソシエーション・オブ・アイルランド(FAI)の2つがあったが、FIFAにW杯出場を要請されたのは欧州予選に参加したFAI代表の方だった。
  3. ^ a b c d 松岡完著「ワールドカップの国際政治学」1994年、朝日新聞社
  4. ^ ドイツは1949年にドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)に分裂し、従来のドイツサッカー連盟(DFB)は西側の協会として再建、東側では新たにドイツサッカー協会(DFV)(de)が組織されたが、両者がFIFAに(再)加盟したのは1952年だった。また、大日本蹴球協会(JFA)は、第二次世界大戦後(第二次世界大戦終結は1945年9月2日)の1945年11月13日に、FIFAに会費が払えずFIFAに資格停止処分されており、FIFAへの復帰はこの大会後の1950年9月23日だった(1947年4月1日に「日本蹴球協会」へと名称変更した上で再発足)
  5. ^ 轡田三男 「サッカーの歴史 天皇杯全日本選手権 (6)」『サッカーマガジン』 ベースボール・マガジン社、1968年8月号、112頁
  6. ^ 日本蹴球協会編 『日本サッカーのあゆみ』 講談社、1974年、150頁。
  7. ^ 松岡完 『ワールドカップの国際政治学』朝日新聞社、1994年、P85
  8. ^ The miracle of Belo Horizonte-国際サッカー連盟公式HP、2010年2月3日
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m No.839番狂わせ記念日-大住良之公式HP、2011年6月29日
  10. ^ W杯「史上最大の番狂わせ」はどの試合? 米調査会社がデータで算出-フットボールチャンネル、2018年6月10日
  11. ^ a b デイヴィッド・ゴールドブラット著、野間けい子訳「2002ワールドカップ32か国・データブック」2002年、P142
  12. ^ a b c d 素朴な疑問探究会編「[サッカー]がもっとわかる本」1998年、P172~P174
  13. ^ USA shock England in 1950: The miracle on grass-FIFATV、2012年11月15日公開
  14. ^ Joe GAETJENS 奇跡を実行した男の最期-伊Sky Sport 2010年4月19日
  15. ^ 南アフリカW杯C組開幕戦イングランド対アメリカ戦前、イングランドの屈辱の日を思い出す-The telegraph 2010年6月5日
  16. ^ RSSSFによれば31分にゴール 31分に得点。
  17. ^ RSSSFによれば43分にゴール 43分に得点。
  18. ^ RSSSFによれば89分にゴール 89分に得点。
  19. ^ RSSSFによれば49分にゴール 49分に得点。

外部リンク[編集]