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マラガ・クルブ・デ・フトボル (スペイン語 : Málaga Club de Fútbol 、スペイン語発音: [ˈmalaɣa ˈkluβ ðe ˈfuðβol] )は、スペイン ・マラガ に本拠地を置くプロ サッカー クラブ。2023-24シーズンはプリメーラ・ディビシオンRFEF (3部)に所属している。アンダルシア州 で最も歴史あるクラブのひとつである。
1992年のチーム交替 [ 編集 ]
1948年5月25日、CDマラガ はジュニアクラブのCDサント・トマスを引き継ぐ形でリザーブチームを立ち上げた。CDマラガは1933年にCAマラゲーニョ(Club Atlético Malagueño)を含むマラガの2つのクラブが合併して結成されているが、リザーブチームはこの際に消滅したCAマラゲーニョ という名称を譲り受けた。1959-60シーズン、リザーブチームのCAマラゲーニョとトップチームのCDマラガはともにテルセーラ・ディビシオン (当時3部相当)に在籍することになったが、前者は本来ならばリーグ規定により降格するはずであった。これを回避するために、彼らは母体となるクラブから分割され、リザーブチームではなく独立したひとつのクラブとしてスペインサッカー連盟 (RSFF)に登録された。
1992年、CDマラガは財政難により解散し、リザーブチームのCAマラゲーニョがCDマラガのリーグ参戦資格を譲り受けて存続した。1992-93シーズンの彼らはテルセーラ・ディビシオン(現4部相当)のグループ9に参戦して成功を収め、セグンダ・ディビシオンB (3部相当)昇格を果たした。しかし、翌シーズンには再びテルセーラに降格となり、さらに財政難に直面して活動停止の危機に追い込まれた。1993年12月19日、クラブのメンバー間の投票によってクラブ名称の変更が選択された。1994年6月29日、CAマラゲーニョはマラガCF (Málaga Club de Fútbol S.A.D.)に改名し、かつてCDマラガと呼ばれていたクラブが公式に前身クラブとなった。また、1990年にCAマラゲーニョのリザーブチームとしてSDマラシターナ(Sociedad Deportiva Malacitana)が設立され、トップチームのマラガCFへの改名と同時にマラガCF B となった。なお、2009年からはトップチームの旧称であるCAマラゲーニョを名乗っている。
2000年代初頭の台頭 [ 編集 ]
2000年代初頭のマラガは有望な若手とトップレベルの選手たちを抱えており、より近代的で先進的なスタジアムの所有を誇っていた。UEFAチャンピオンズリーグ 出場権には届かなかったが、大きな支持を集めたホアキン・ペイロ 監督の下で常に成功を収めた。2002年にはUEFAインタートトカップ に出場し、KAAヘント (ベルギー)、ヴィレムII (オランダ)、躍進中のビジャレアルCF (スペイン)を破り、クラブ史上初となる国際大会でのトロフィーを獲得した。2002-03シーズンのUEFAカップ ではFKジェリェズニチャル・サラエヴォ (ボスニア・ヘルツェゴビナ)、AEKアテネFC (ギリシャ)などを撃破し、準々決勝でボアヴィスタFC (ポルトガル)にPK戦の末に敗れたものの、大会前の期待以上のベスト8という成功を収めた。ペイロ監督の引退後にはチームの解体が緩やかに始まり、ダリオ・シルバ 、キキ・ムサンパ 、フリオ・デリー・バルデス 、ペドロ・コントレラス などがクラブを去った。2003年夏にはファンデ・ラモス 監督が就任した。2003-04シーズンのホームでのFCバルセロナ戦ではサルバ がハットトリックを達成するなどし、クラブ史上最高の5-1というスコアでカタルーニャの巨人を粉砕した。また、テルセーラ・ディビシオンに所属していたBチームが2002年にはセグンダB、2003年にセグンダ・ディビシオン と立て続けに昇格を果たしその後3シーズンをセグンダで戦った。
緩やかな後退と財政難 [ 編集 ]
2004年夏にはファンデ・ラモス監督が就任からわずか1シーズンでセビージャFC に去り、グレゴリオ・マンサーノ 監督が就任した。経営難によって主力のホセミ やサルバを放出せざるを得ず、新戦力のマルシオ・アモローゾ やパウロ・ワンチョペ は使い物にならなかった。10節からの9試合で8敗を喫して降格圏に沈んでいたクラブを救ったのはアントニオ・タピア 監督だった。マンサーノ監督からチームを引き継ぐとカンテラ(下部組織)からセサル・ナバス を引き上げ、最終ラインに安定感をもたらした。若手のフアン・ロドリゲス や新戦力のフェルナンド・バイアーノ らの攻撃陣を積極的に起用し、最終的に10位に食い込んでみせた。2005年夏にはサルバを買い戻し、ウルグアイ代表 のリカルド・モラレス を獲得したが、主力の大量放出の穴は埋まらなかった。2005-06シーズンは開幕から黒星を積み重ね、わずか勝ち点24しか挙げられずに最下位でシーズンを終えてセグンダ降格となった。また、セグンダに所属していたBチームも同シーズンは21位に終わり、トップチームの降格とは無関係にセグンダBに降格となった。Bチームは翌シーズンもさらに降格で元のテルセーラに戻ってしまい、その後も度々昇格プレーオフに顔を出しながらいまだ再昇格には至っていない。
2006年、かつてレアル・マドリード の会長を務めたロレンソ・サンス がクラブの株式の97%を取得し、かつて選手としてキャプテンを務めたロレンソの息子フェルナンド・サンス が会長に就任した。2006-07シーズンは良いスタートを切ったが、彼らの調子は劇的に落ち込んだ。ラスト6節のうち2節はセグンダB降格圏に沈んだが、この困難な状況を何とか打開し、セグンダ降格初年度を乗り切って残留を果たした。2007-08シーズンも7連勝するなどしてスタートダッシュを決め、昇格への軌道に乗っているように思われたが、やはり調子を崩し、首位の座をCDヌマンシア に奪われた。最終節はホームでのCDテネリフェ 戦であり、プリメーラ昇格を決定づけるには勝利が必要であったが、アントニオ・イダルゴ の2得点で2-1と勝利して2位の座を守り、3シーズンぶりのプリメーラ復帰を決めた。
2008年夏にはタピア監督を復帰させ、プリメーラ昇格に貢献したDFヘスス・ガメス やMFアポーニョ を引き留めつつ、以前に所属経験のあるMFセルジオ・ドゥダ 、FWアルベルト・ルケ などを獲得。2008-09シーズン開幕から4試合は無得点で1分3敗と苦戦したが、5節のバリャドリード 戦で初勝利を挙げると、8節のアウェーでのセビージャ 戦まで4連勝し、その後は安定して一桁順位をキープした。A・ルケは途中出場が多いながらも8得点と復活し、ドゥダはチームトップの8アシストを決めるなど、シーズン前に補強した選手が期待に応えた。プリメーラ初挑戦のアポーニョとFWナビル・バハ はそれぞれ9得点を挙げ、55得点はリーグ6位の成績だった。最終的に8位でシーズンを終え、昇格組として最高の成績を残した。2009年にアンダルシア州のセビージャ 、ウエルバ 、ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ 、マラガ を開催地として行われたピース・カップ では、アストン・ヴィラFC (イングランド)に勝利したが、アトランテFC (メキシコ)に敗れ、グループリーグ最下位に終わった。2009-10シーズンのリーグ戦は前シーズンと一転して17位と苦戦した。
アル=タニの到着 [ 編集 ]
2010年6月11日、カタール王室の一員でもあるシェイク・アブドゥラ・ビン・ナッサル・アル=タニ が、3600万ユーロ(約39億8000円)と報じられる金額でF・サンス会長からクラブを買収した[2] 。7月28日、アル=タニはクラブの会長に就任した[3] [4] 。FCポルト などを率いた経験のあるジェズアウド・フェレイラ 監督が登用されたが、低迷が続いたために2010-11シーズン途中で解任された。ビジャレアルCF やレアル・マドリード を率いた経験があるマヌエル・ペジェグリーニ 監督が後任監督に就任し、2011年1月にエンツォ・マレスカ 、マルティン・デミチェリス 、ジュリオ・バチスタ などを獲得すると、シーズン終盤戦に一気に順位を上げて11位でシーズンを終えた[2] 。2011年夏にはマラガ出身であるフェルナンド・イエロ をGMとして招聘し、11人の選手を放出するとともに、ルート・ファン・ニステルローイ 、ヨリス・マタイセン 、ジェレミー・トゥララン 、サンティ・カソルラ 、ホアキン・サンチェス など、確かな実力のあるベテランを中心に補強を施した。ペジェグリーニが初めてフルシーズン指揮した2011-12シーズンは、カソルラの大活躍もあってリーグ4位となり、クラブ史上初めてUEFAチャンピオンズリーグ 出場権を獲得した。
一方でオーナーを筆頭とする経営陣の怠慢な資金繰りによる給与や移籍金の未払いが2012年頃より表面化し始め、2011-12シーズン終了後には主力であったカソルラをアーセナルFC へ売却した。2012-13シーズンの戦力低下は不可避であったが、それでもホアキンや新加入のハビエル・サビオラ らベテラン勢の活躍やペジェグリーニの戦術の浸透もあり、CLではプレーオフを勝ち抜くだけでなくACミラン やFCゼニト・サンクトペテルブルク などを抑えグループリーグを首位突破した。しかしながら資金難が改善されることはなく、UEFAによって今後4シーズンの欧州カップ戦参加禁止の処分が下されることとなった。
2013年夏にはイスコをレアル・マドリード [5] 、ホアキンをフィオレンティーナ 、ジェレミー・トゥラランをモナコ へ売却し[6] 、監督もベルント・シュスター が後任に就任した[7] 。
2部降格とアル=タニ独裁の終焉 [ 編集 ]
2017-18シーズン 、プリメーラ残留に向けて夏の移籍市場では12人、冬には8人もの選手を補強したが、いずれも実ることはなく、開幕5連敗を喫するなど、不安定なスタートとなった。1月中旬のヘタフェCF 戦に敗れ、降格圏の19位に転落すると、監督のミチェル を解任し、後任にホセ・ゴンサレス を据えた。しかし、状況は改善されるどころか就任後リーグ戦7連敗など悪化の一途をたどり、後半戦は20位から一度も抜え出すことなく、11シーズンぶりのセグンダ降格が決定した。降格の要因には、サンドロ・ラミレス に代わるエース候補とされたボルハ・バストン の不調、カタール人オーナーのアル=タニ によるワンマン経営などがあった。降格後も杜撰な経営が続き、2019-20シーズン にはレスター・シティ からフリーで加入した岡崎慎司 やレンタル先から復帰したホセ・ロドリゲス がサラリーキャップの問題で選手登録が開幕に間に合わない事態となった。クラブは抗議したものの岡崎はわずか1ヶ月で退団(その後同じスペインのウエスカ に加入)、ロドリゲスはフエンラブラダ にレンタル移籍となった。2020年2月19日、アル=タニ はクラブの資金を私的に利用した横領などの容疑で一時的に解任され、後任には裁判所が指名したホセ・マリア・ムニョス が就任した[8] 。
26シーズンぶりの3部降格 [ 編集 ]
クラブの不祥事発覚以降も財政難は解消されることなく、成績は低迷。2021-22シーズン はリーグ成績18位と辛うじて降格を免れるも、その翌年の2022-23シーズン はシーズン中に3度も監督を交代しつつ、最終的に20位でプリメーラ・ディビシオンRFEF に降格することとなった。マラガが3部リーグに降格するのは1997-98シーズン以来、26シーズンぶりのことであった[9] 。
対外関係 [ 編集 ]
東アンダルシア・ダービー [ 編集 ]
同じアンダルシア州内に本拠地を置くグラナダCF とライバル関係にあり、彼らとの対戦は東アンダルシア・ダービー (デルビ・オリエンタル、デルビ・アンダルス)と呼ばれる。プリメーラ・ディビシオン (1部)での対戦成績は互角であるが、通算対戦成績ではグラナダCFが優位である。
トロフェオ・コスタ・デル・ソル [ 編集 ]
1961年から1983年までプレシーズンにトロフェオ・コスタ・デル・ソルというトーナメント大会を組織していた。当時のCDマラガは決勝でレアル・マドリード 、レッドスター・ベオグラード (ユーゴスラビア)、ダービー・カウンティFC (イングランド)を破って3回優勝している。この大会は2003年に復活し、マラガCFは決勝でニューカッスル・ユナイテッドFC (イングランド)、レアル・ベティス 、パルマFC (イタリア)を破って3回優勝している。マラガCFのトロフィールームには、CDマラガ時代の3個も含めて計6個のトロフィーが飾られている。
スポンサー [ 編集 ]
2009年8月27日、イギリスのブックメーカー であるウィリアムヒル と3年契約を結んだと発表し、ウィリアムヒルがユニフォームの胸スポンサーとなった[10] 。しかし、イスラーム教徒である新オーナーが宗教上の理由から契約を履行することを拒否したため、この契約は2010年9月17日に打ち切られ、2011年6月に国連教育科学文化機関 (UNESCO)が新スポンサーとなった。
提携クラブ [ 編集 ]
以下のクラブはマラガCFと提携関係にある。
タイトル [ 編集 ]
CDマラガ時代 [ 編集 ]
国内タイトル [ 編集 ]
1987-88
1951–52, 1966–67
1963, 1971, 1974
マラガCF時代 [ 編集 ]
国内タイトル [ 編集 ]
1998-99
1997-98
2005, 2008, 2010, 2011, 2012
国際タイトル [ 編集 ]
2002
国内タイトル [ 編集 ]
1987-88, 1998-99
1951–52, 1966–67
1997-98
1963, 1971, 1974, 2005, 2008, 2010, 2011, 2012
国際タイトル [ 編集 ]
2002
近年の成績 [ 編集 ]
過去の成績 [ 編集 ]
FCマラゲーニョとして
シーズン
ディビジョン
順位
コパ・デル・レイ
1929/30
テルセーラ
2位
1930/31
テルセーラ
2位
1931/32
テルセーラ
3位
1932/33
テルセーラ
1位
CDマラシターノとして
シーズン
ディビジョン
順位
コパ・デル・レイ
1933/34
テルセーラ
3位
1934/35
セグンダ
5位
5回戦敗退
1935/36
セグンダ
5位
3回戦敗退
1939/40
セグンダ
3位
1回戦敗退
1940/41
セグンダ
5位
3回戦敗退
CDマラガとして
シーズン
ディビジョン
順位
コパ・デル・レイ
1941/42
セグンダ
4位
ベスト32
1942/43
セグンダ
5位
ベスト32
1943/44
テルセーラ
1位
1944/45
テルセーラ
2位
1945/46
テルセーラ
1位
1946/47
セグンダ
9位
ベスト16
1947/48
セグンダ
4位
6回戦敗退
1948/49
セグンダ
2位
5回戦敗退
1949/50
プリメーラ
12位
ベスト16
1950/51
プリメーラ
13位
1951/52
セグンダ
1位
準々決勝敗退
1952/53
プリメーラ
15位
1953/54
セグンダ
3位
1954/55
プリメーラ
16位
1955/56
セグンダ
11位
1956/57
セグンダ
5位
1957/58
セグンダ
14位
1958/59
セグンダ
15位
1回戦敗退
シーズン
ディビジョン
順位
コパ・デル・レイ
1959/60
テルセーラ
1位
1960/61
セグンダ
12位
1回戦敗退
1961/62
セグンダ
2位
ベスト16
1962/63
プリメーラ
16位
準々決勝敗退
1963/64
セグンダ
9位
ベスト32
1964/65
セグンダ
2位
1回戦敗退
1965/66
プリメーラ
13位
ベスト16
1966/67
セグンダ
1位
ベスト32
1967/68
プリメーラ
10位
ベスト16
1968/69
プリメーラ
14位
準々決勝敗退
1969/70
セグンダ
2位
ベスト32
1970/71
プリメーラ
9位
準々決勝敗退
1971/72
プリメーラ
7位
5回戦敗退
1972/73
プリメーラ
10位
準決勝敗退
1973/74
プリメーラ
7位
5回戦敗退
1974/75
プリメーラ
16位
ベスト16
1975/76
セグンダ
3位
ベスト16
1976/77
プリメーラ
18位
3回戦敗退
シーズン
ディビジョン
順位
コパ・デル・レイ
1977/78
セグンダ
13位
3回戦敗退
1978/79
セグンダ
2位
4回戦敗退
1979/80
プリメーラ
18位
4回戦敗退
1980/81
セグンダ
6位
2回戦敗退
1981/82
セグンダ
3位
ベスト16
1982/83
プリメーラ
10位
4回戦敗退
1983/84
プリメーラ
9位
4回戦敗退
1984/85
プリメーラ
16位
3回戦敗退
1985/86
セグンダ
11位
4回戦敗退
1986/87
セグンダ
6位
3回戦敗退
1987/88
セグンダ
1位
4回戦敗退
1988/89
プリメーラ
16位
ベスト32
1989/90
プリメーラ
17位
ベスト16
1990/91
セグンダ
4位
5回戦敗退
1991/92
セグンダ
18位
5回戦敗退
(CDマラガのリザーブチームとしての)CAマラゲーニョ
シーズン
ディビジョン
順位
コパ・デル・レイ
1948/49
地域リーグ
—
1949/50
地域リーグ
—
1950/51
テルセーラ
12位
1951/52
テルセーラ
14位
1952/53
テルセーラ
16位
1953/54
テルセーラ
15位
1954/55
テルセーラ
7位
1955/56
テルセーラ
11位
1956/57
テルセーラ
12位
1957/58
テルセーラ
7位
1958/59
テルセーラ
5位
1959/60
テルセーラ
6位
1960/61
テルセーラ
7位
1961/62
テルセーラ
4位
1962/63
テルセーラ
2位
1963/64
テルセーラ
1位
1964/65
テルセーラ
4位
1965/66
テルセーラ
4位
1966/67
テルセーラ
5位
シーズン
ディビジョン
順位
コパ・デル・レイ
1967/68
テルセーラ
8位
1968/69
テルセーラ
12位
1969/70
地域リーグ
—
1970/71
テルセーラ
13位
1回戦敗退
1971/72
テルセーラ
11位
3回戦敗退
1972/73
テルセーラ
19位
1回戦敗退
1973/74
地域リーグ
—
1974/75
地域リーグ
—
1975/76
地域リーグ
—
1976/77
地域リーグ
—
1977/78
テルセーラ
14位
1978/79
テルセーラ
12位
1回戦敗退
1979/80
テルセーラ
11位
2回戦敗退
1980/81
テルセーラ
15位
1981/82
テルセーラ
4位
1982/83
テルセーラ
12位
1回戦敗退
1983/84
テルセーラ
6位
1984/85
テルセーラ
4位
1回戦敗退
1985/86
テルセーラ
5位
1回戦敗退
シーズン
ディビジョン
順位
コパ・デル・レイ
1986/87
テルセーラ
9位
2回戦敗退
1987/88
テルセーラ
2位
1988/89
テルセーラ
3位
1989/90
テルセーラ
5位
1990/91
テルセーラ
6位
1991/92
テルセーラ
4位
(独立したクラブとしての)CAマラゲーニョ
シーズン
ディビジョン
順位
コパ・デル・レイ
1992/93
テルセーラ
1位
1回戦敗退
1993/94
セグンダB
18位
1回戦敗退
マラガCFとして
シーズン
ディビジョン
順位
コパ・デル・レイ
1994/95
テルセーラ
1位
1回戦敗退
1995/96
セグンダB
5位
1回戦敗退
1996/97
セグンダB
5位
2回戦敗退
1997/98
セグンダB
1位
1998/99
セグンダ
1位
3回戦敗退
1999/00
プリメーラ
12位
2回戦敗退
2000/01
プリメーラ
8位
2回戦敗退
2001/02
プリメーラ
10位
ベスト32
2002/03
プリメーラ
13位
ベスト32
2003/04
プリメーラ
10位
ベスト16
2004/05
プリメーラ
10位
ベスト32
2005/06
プリメーラ
20位
3回戦敗退
2006/07
セグンダ
15位
ベスト16
2007/08
セグンダ
2位
ベスト32
2008/09
プリメーラ
8位
ベスト32
2009/10
プリメーラ
17位
ベスト16
2010/11
プリメーラ
11位
ベスト16
2011/12
プリメーラ
4位
ベスト16
2012/13
プリメーラ
6位
準々決勝敗退
シーズン
ディビジョン
順位
コパ・デル・レイ
2013/14
プリメーラ
11位
ベスト32
2014/15
プリメーラ
9位
準々決勝敗退
2015/16
プリメーラ
8位
ベスト32
2016/17
プリメーラ
11位
ベスト32
2017/18
プリメーラ
20位
ベスト32
2018/19
セグンダ
3位
2回戦敗退
2019/20
セグンダ
14位
1回戦敗退
2020/21
セグンダ
12位
ベスト32
2021/22
セグンダ
18位
2回戦敗退
2022/23
セグンダ
20位
2回戦敗退
2023/24
プリメーラRFEF
CDマラガとして
20 シーズン - プリメーラ・ディビシオン (1部)
31 シーズン - セグンダ・ディビシオン (2部)
9 シーズン - テルセーラ・ディビシオン (当時3部相当)
マラガCFとして
17 シーズン - プリメーラ・ディビシオン (1部)
7 シーズン - セグンダ・ディビシオン (2部)
1 シーズン - プリメーラ・ディビシオンRFEF (現3部相当)
4 シーズン - セグンダ・ディビシオンB (旧3部相当)
2 シーズン - テルセーラ・ディビシオン (当時3部相当、旧4部)
合計
37 シーズン - プリメーラ・ディビシオン (1部)
38 シーズン - セグンダ・ディビシオン (2部)
1 シーズン - プリメーラ・ディビシオンRFEF (現3部相当)
4 シーズン - セグンダ・ディビシオンB (旧3部相当)
11 シーズン - テルセーラ・ディビシオン (当時3部相当)
現所属メンバー [ 編集 ]
2022年3月31日現在 [14]
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルール に基づく。
※括弧内の国旗はその他保有国籍、もしくは市民権、星印はEU圏外選手を示す。
監督
リザーブチーム [ 編集 ]
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルール に基づく。
ローン移籍 [ 編集 ]
in
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルール に基づく。
out
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルール に基づく。
歴代監督 [ 編集 ]
歴代所属選手 [ 編集 ]
外部リンク [ 編集 ]