1913年2月23日に近隣のストロングと初めての試合を行い、1-2で敗れた。同年6月14日にサンタンデール・ラシン・クルブ(Santander Racing Club)として正式に創設され、夏には初の公式大会となるルイス・レドネ杯(Luis Redonet Trophy)に出場した。11月14日には北スペインサッカー協会(Northern Federation)に加盟が認められ、サンタンデール・フットボール・クラブ(Santander Foot-ball Club)と合併した。1929年に初めてプリメーラ・ディビシオン(1部)に参戦し、1930-31シーズンには2位となったほか、9シーズン連続でプリメーラ・ディビシオンに残留した。1940年にセグンダ・ディビシオン(2部)に降格すると、その後の約30年間はプリメーラ・ディビシオンとセグンダ・ディビシオンを行き来する期間が続いた。1949-50シーズンはセグンダ・ディビシオンの30試合で99得点を挙げ、10年ぶりにプリメーラ・ディビシオン昇格を決めた。フランコ政権中の1941年にはスペイン語以外のクラブ名が禁止されたため、レアル・サンタンデール(Real Santander)と名を変え、この名前はホセ・マリア・マグレギ(José María Maguregui)監督の下でプリメーラ・ディビシオン復帰を果たした1973年まで続いた。しかし、このチームは1シーズンでセグンダ・ディビシオンに降格し、再びプリメーラ・ディビシオンとセグンダ・ディビシオンを往復する期間が続き、1990-91シーズンにはセグンダ・ディビシオンB(3部)まで落ち込んだ。1992年にはラシン・サンタンデールの下部組織出身者でスペイン代表歴を持つキケ・セティエン(Quique Setién)を獲得し、1992-93シーズンにはセグンダ・ディビシオンで3位となってプリメーラ・ディビシオン昇格を決め、1994-95シーズンにはFCバルセロナを相手にホームで5-0という歴史的な勝利を挙げた。
2000年代に入り、2001-02シーズンだけはセグンダ・ディビシオンでプレーしたが、セティエン監督の下でプリメーラ・ディビシオン昇格を決めた。その後は常にプリメーラ・ディビシオンで残留争いの中心にいたが、2006年夏にミゲル・アンヘル・ポルトゥガルが監督に就任すると、2006-07シーズンは開幕から3連敗して序盤こそ躓いたが、セルビア代表のニコラ・ジギッチ(202 cm)とペドロ・ムニティス(168 cm)の凸凹コンビを中心に据えた安定したサッカーを披露し、中位でシーズンを終えた。2007年夏にはポルトゥガル監督が退任し、チームの中心であるジギッチがバレンシアCFに移籍するなど、再び降格の筆頭に挙げられたが、若き智将マルセリーノ・ガルシアの下で攻撃的なサッカーを披露し、6位でUEFAカップ出場権を手に入れた。マルセリーノ監督在任期にはコパ・デル・レイで2度も準決勝に進出したが、2008年はヘタフェCFに、2010年はアトレティコ・マドリードに敗れてベスト4に終わった。2011年1月、インド人実業家アーサン・アリ・サイド(Ahsan Ali Syed)がクラブを買収し、所属選手の未払い分の給料と購入した株の支払い、カンタブリア州政府からの貸付金の返済を約束した[2]。しかし、アリ・サイドは契約を履行しないまま姿をくらませ、結果として2000万ユーロに及ぶ負債が残った[3]。クラブは倒産法を適用して債務の法的整理を行うこととし、降格処分は免れたものの、補強は事実上禁止された[4]。