マヌエル・プレシアード

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マヌエル・プレシアード
名前
本名 マヌエル・プレシアード・レボレド
Manuel Preciado Rebolledo
ラテン文字 Manuel Preciado
基本情報
国籍 スペインの旗 スペイン
生年月日 (1957-08-28) 1957年8月28日
出身地 カンタブリア州, エル・アスティジェーロ
没年月日 (2012-06-07) 2012年6月7日(54歳没)
身長 175cm
選手情報
ポジション DF
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

マヌエル・プレシアード・レボレドManuel Preciado Rebolledo, 1957年8月28日 - 2012年6月7日)は、スペインカンタブリア州出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはDF

経歴[編集]

選手[編集]

地元のラシン・サンタンデールプリメーラ・ディビシオン(1部)の試合59試合に出場した。1978-79シーズンには自己最多の32試合に出場したが、クラブはシーズン終了後にセグンダ・ディビシオン(2部)降格となった。3シーズンをセグンダ・ディビシオンのリナレスCFなどで過ごし、RCDマジョルカデポルティーボ・アラベスなどを経て、35歳近くになったプレシアードは1992年にRSヒムナスティカ・デ・トーレラベガで現役引退した。

指導者[編集]

1995-96シーズンにRSヒムナスティカ・デ・トーレラベガ監督に就任して指導者としての道をスタートさせると、1年目からテルセーラ・ディビシオン(4部相当)グループ1で優勝を果たす。1996年には選手として在籍したラシン・サンタンデールBの監督を任され、やはりテルセーラ・ディビシオンで優勝してセグンダ・ディビシオンB(3部相当)昇格を果たした。2000年に再びRSヒムナスティカ・デ・トーレラベガに戻ると、再度テルセーラ・ディビシオンで優勝した。こうして3度テルセーラ・ディビシオンで優勝したプレシアードは、2002-03シーズン途中にラシン・サンタンデールのトップチームに招聘される。2003-04シーズンにはセグンダ・ディビシオン(2部)のレバンテUDを率い、クラブとしては40年ぶりのプリメーラ・ディビシオン昇格を果たした。2004-05シーズンはレアル・ムルシアを率い、2005年夏、プリメーラ・ディビシオン(1部)のラシン・サンタンデールのトップチーム監督に就任すると、2005年12月21日にはレアル・マドリードに2-1で勝利する金星を挙げるなど、降格圏のクラブと勝ち点1差で残留を決めた。

2006年にスポルティング・ヒホン監督に就任すると、2007-08シーズンのセグンダ・ディビシオンを3位で終え、クラブとしては10年ぶりのプリメーラ・ディビシオン昇格を果たした。2008-09シーズンのヒホンはリーグ最低の予算であり、開幕から5連敗(6得点20失点)して降格は必至かと思われたが、失点を恐れずに攻撃的な采配を振ってバレンシアCFセビージャFCからも勝利を奪い、14位でプリメーラ残留を決めた。2009-10シーズンも15位で難なくプリメーラ・ディビシオン残留を決めた。2010年9月22日にカンプ・ノウで行われたアウェーでのFCバルセロナ戦において大幅なスタメン変更を行って試合に臨んだ(試合は1-0で敗戦)[1]。するとこの采配に対して、レアル・マドリードのジョゼ・モウリーニョ監督が「バルセロナに勝ち点をプレゼントしているチームが存在している」と発言し[2]、これに憤慨したプレシアードは「モウリーニョは下衆な人間」("bad colleague" and a "scumbag")と応戦し、メディアを介しての舌戦を繰り広げた[3]。11月14日には両クラブがエスタディオ・ムニシパル・エル・モリノンで対戦したが、この際はアウェーチームが1-0で勝利した[4]。しかし、2011年4月3日にエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウで行われた試合ではヒホンが1-0で勝利し、FCバルセロナと共にリーグを独走していた格上を相手に大金星を挙げた[5]。シーズン開幕から続いていたレアル・マドリードのリーグ戦ホーム連勝記録(14試合)と、モウリーニョ監督がFCポルト時代から続けていたリーグ戦ホーム無敗記録(9年間、150試合)にピリオドを打つ事となった[6][7]。プレシアードは後に、「モウリーニョは我々の控室にやってきて祝福してくれたよ」と明かした[8]レアル・ソシエダに1-5で敗れて19位に落ち、2012年1月31日に成績不振を理由に解任された[9][10]

死去と周囲の反応[編集]

2012年6月6日、ヒホン同様にセグンダ・ディビシオン降格となったビジャレアルCFの監督に指名された[11]。しかし同日午後、バレンシア州のホテルで心臓発作を起こして死去した[12][13][14]。54歳であった。報道ではプレシアードはヘビースモーカーであったとされ、一日に約40本も吸っていたとされている[15]

AP通信は「プレシアードの突然の死はスペインのクラブ、監督、選手の間に感情的な反応の連鎖を導いた」と報じた[12]UEFA EURO 2012のためにポーランドに渡っていたスペイン代表のビセンテ・デル・ボスケ監督はマルカ紙に「我々は皆ショックを受けている。朝食を食べていた時にそのニュースを聞いたんだ。彼は思いやりのある人物であり、良きスポーツマンであった。指導者として尊敬すべきサッカー人だった」と語った[12]。スペイン代表のフアン・マヌエル・マタは「この事実をうまく整理できない。僕はいつも彼の笑顔を思い返すよ」と語った[12]。かつて紙面上でやり合ったモウリーニョはレアル・マドリードの公式ウェブサイト上に「人間としても、性格、正直さ、戦う勇気などの観点を踏まえたスポーツ人としても、常に彼のことが好きだった。」という公開手紙を書いた[12]RCDマジョルカホアキン・カパロス監督は「彼のビジャレアル監督就任を聞いてとても嬉しかった。彼がプリメーラ・ディビシオン復帰に導くことを確信していた。彼は世界中の指導者から参考にされるべきだ」と語った[12]。ヒホンでは多くの人々がエル・モリノンに集い、プレシアードへの哀悼の意を表した[16]。同日にはヒホン市長がスタジアム近くの通りをAlameda de Manuel Preciado(マヌエル・プレシアード通り)に改名する提案を行った[17]

家族[編集]

妻とふたりの息子がいたが、2002年、妻が癌のために死去し、その2年後には、15歳の息子が自動車事故で死去した[4]。2011年4月20日、父親がサンタンデールで車に轢かれて死去した[18]

所属クラブ[編集]

選手[編集]

監督[編集]

タイトル[編集]

  • RSヒムナスティカ・デ・トーレラベガ
テルセーラ・ディビシオン優勝 : 1996, 2000
  • ラシン・サンタンデールB
テルセーラ・ディビシオン優勝 : 1997
  • レバンテUD
セグンダ・ディビシオン優勝 : 2004

脚注[編集]

  1. ^ 物議を醸すS・ヒホンのスタメン落とし バルセロナ戦の8枚代えは正当か スポーツナビ、2010年9月28日
  2. ^ モウリーニョ:「バルサに勝ち点をプレゼントするチームがいるならば…」 Goal.com、2010年9月25日
  3. ^ ヒホン監督:「モウリーニョは下衆な人間」 Goal.com、2010年11月12日
  4. ^ a b Manolo Preciado earns the plaudits, but Real Madrid take the points The Guardian、2010年11月15日
  5. ^ マドリー、ヒホンに足元すくわれる Goal.com、2011年4月3日
  6. ^ Mourinho home record ended ESPN Soccernet、2011年4月2日
  7. ^ レアル、モウリーニョ監督のホーム無敗記録がストップ ロイター、2011年4月3日
  8. ^ Preciado: Mourinho entró en el vestuario y nos felicitó Marca、2011年4月2日 (スペイン語)
  9. ^ Lamento si hice algo mal, seré de este equipo siempre Diario AS、2012年1月31日 (スペイン語)
  10. ^ ヒホン、プレシアードの長期政権に終止符
  11. ^ Preciado ya es el nuevo técnico del Villarreal Marca、2012年6月6日 (スペイン語)
  12. ^ a b c d e f “Manuel Preciado dies suddenly at 54”. ESPN Soccernet. (2012年6月7日). オリジナルの2012年6月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120608152821/http://espn.go.com/sports/soccer/story/_/id/8019954/manuel-preciado-coach-villarreal-dies-one-day-taking-job 2012年6月7日閲覧。 
  13. ^ Fallece Manuel Preciado en un hotel de la comunidad valenciana de un infarto El Comercio、2012年6月7日 (スペイン語)
  14. ^ Fallece Manolo Preciado Marca、2012年6月7日 (スペイン語)
  15. ^ Manuel Preciado – a tribute Balls Out In Public、2012年6月7日
  16. ^ Multitudinario homenaje a Preciado en El Molinón El Comercio、2012年6月7日 (スペイン語)
  17. ^ Manuel Preciado dará nombre a una calle El Comercio、2012年6月7日 (スペイン語)
  18. ^ Fallece el padre de Preciado por un atropello Marca、2011年4月20日 (スペイン語)

外部リンク[編集]