ネルソン・バプティスタ・ジュニオール
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名前 | ||||||
本名 |
ネルソン・バプティスタ・ジュニオール Nélson Baptista Júnior | |||||
愛称 | ネル | |||||
ラテン文字 | Nelsinho Baptista | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
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生年月日 | 1950年7月22日(74歳) | |||||
出身地 | カンピーナス | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF (RSB) | |||||
ユース | ||||||
1966-1967 |
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クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1967-1970 |
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1971-1977 |
![]() | 267 | (5) | |||
1978-1982 |
![]() | 218 | (10) | |||
1983 |
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通算 | 485 | (15) | ||||
監督歴 | ||||||
1985 |
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1985-1986 |
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1986-1987 |
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1987-1988 |
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1989 |
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1990 |
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1990-1991 |
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1991 |
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1992-1993 |
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1993-1994 |
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1994 |
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1995-1996 |
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1996 |
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1996-1997 |
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1997 |
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1998 |
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1999 |
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2000 |
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2000-2001 |
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2001-2002 |
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2002-2003 |
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2003 |
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2003 |
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2003-2005 |
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2005 |
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2005-2006 |
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2007 |
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2007 |
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2007-2009 |
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2009-2014 |
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2015-2017 |
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2017-2018 |
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2019-2023 |
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ネルシーニョ・バプティスタ(Nelsinho Baptistaまたは Nelsinho Batista)[1][2][3][4][5][6][7] ことネルソン・バプティスタ・ジュニオール(Nélson Baptista Júnior、1950年7月22日 - )は、ブラジル・サンパウロ州カンピナス出身の元プロサッカー選手。サッカー指導者。プレーヤー時代はネルソンとして知られ、ネルシーニョの愛称は監督生活を始めてからのものである[8]。
経歴
[編集]選手時代
[編集]1967年にAAポンチ・プレッタでプロ生活を開始。現役時代のポジションは右サイドバック[8]。テクニックが特に優れているプレーヤーではなかったが、賢さでプレーするタイプで[8]、攻撃に参加してアシストや得点を奪うDFがほとんどいなかった当時[8]、現在のサイドバックの先駆者とも言えるプレーでサポーターから愛された[8]。1971年から所属したサンパウロFCでは262試合に出場し6ゴールを決め、1975年のサンパウロ州選手権で優勝、初のビッグタイトルを手にした[8]。ここではタッササンパウロのコリンチャンス戦でPKキッカーとして3度PKを失敗(主審が相手GKが動いたとして2度やり直し、全てポストに当ててしまい、全て失敗した[8])したこともあった[8]。その後、サントスFCでプレー、州選手権で優勝を果たした後、CAジュベントスでは2部リーグ優勝を果たし[8]、現役生活を終えた。
指導者時代
[編集]現役引退後は指導者に転身し、古巣のポンチ・プレッタ、サンパウロFCをはじめ、CRフラメンゴ、クルゼイロEC、SEパルメイラス、SCコリンチャンス・パウリスタなどのクラブを率いた。1988年、パラナ選手権で優勝し、監督としての初タイトルを獲得した[8]。コリンチャンスでは1990年にブラジル全国選手権ではテレサンターナ監督が率いたサンパウロを破り優勝[8]、この手腕から高額でパルメイラスに引き抜かれた[8]。1997年にサンパウロ州選手権で優勝、サンパウロFCでも1998年にサンパウロ州選手権優勝を果たした。
1994年7月に初来日し、ヴェルディ川崎のヘッドコーチに就任する。ヴェルディは前年から松木安太郎が監督を務めていたが、ヘッドコーチ就任後のNICOSシリーズでは実質的に指揮を執る事になる。松木退任後の1995年に監督に就任すると、序盤は苦戦するもNICOSシリーズは優れた手腕でチームを優勝に導き[8]、この実績が評価され、1995年11月には次期日本代表監督就任が内定していたが[9][10][11][12]、長沼健日本サッカー協会 (JFA) 会長(当時)の"鶴の一声"により[9][10][11][12]、加茂周(当時)の監督続投が決定[9][10][11][12]。これに対して、ネルシーニョはJFAを「腐ったミカン」と批判した[9][10][11][12][13][注 1]。この騒動の後、ヴェルディ川崎の監督を辞任[9]。
その後はブラジルに帰国し複数のクラブの指揮を執った後、2003年より名古屋グランパスエイトの監督に就任したが、成績不振により2005年9月に解任。
2007年途中から率いたスポルチ・レシフェではペルナンブーコ州選手権 を連覇し同クラブ初のメジャータイトルであるコパ・ド・ブラジルも制した。
2009年7月から柏レイソルの監督に就任[14]。2010年にはJ2で優勝。2011年にJ1優勝へ導いた[15][16](昇格1年目の優勝はJ史上初)。2012年6月30日、ガンバ大阪戦で勝利し、Jリーグ外国人監督最多となる101勝目を挙げた。
2013年8月31日鹿島戦終了後、柏の監督を辞任するとコメントしたが、9月5日にこれを撤回して指揮を執ることになった。
2014年9月17日記者会見を行い、契約を2014年限りとすることを発表した[17]。最終的に2012年以降で最高順位の4位で終わった。
2014年12月12日、2015年からヴィッセル神戸の監督に就任することが発表された[18]。2016年のセカンドステージでは、チーム最高の2位に導いた。2017年8月16日付で成績不振を理由に監督を解任された[19]。
2017年12月12日、ブラジルセリエAのスポルチ・レシフェの監督に就任。しかし2018年4月24日のボタフォゴ戦後にクラブに無断で会見を開き監督を辞任した[20]。
2019年より5年ぶりに柏の監督に就任すると発表された[21]。同シーズンはチームを二度目となるJ2リーグ優勝・J1リーグ昇格へ導き、JリーグアウォーズにおいてJ2優勝監督賞が贈られた[22]。
2020年シーズンは、開幕戦で勝利したもののコロナ禍の影響もあって7位に終わった。また、ルヴァンカップは決勝まで進んだがFC東京に敗北し準優勝に終わった。
2021年シーズンは、オルンガの移籍・コロナ禍での新外国人選手の合流の遅れ・江坂任や呉屋大翔、ペドロ・ハウルらのシーズン途中での移籍などもあり、チームを上手くまとめられずにシーズン序盤からJ2降格危機に瀕したが、監督としてJ1通算200勝を達成したセレッソ大阪戦で辛くもJ1残留を確定させた。
2022年シーズンは、序盤には一時的に首位に立つなど下馬評を覆すような勢いを見せ、多くのサポーターを沸かせたがシーズン後半に入ると主力選手の離脱などもありペースが落ち、最終的にはリーグ7位になり10試合勝利無しという状況でシーズンを終えた。
2023年シーズンは、開幕6試合勝利なしと序盤から低迷。昨シーズン後半からのリーグ戦未勝利記録は16試合まで伸びた。第7節の鹿島アントラーズ戦でようやくシーズン初勝利をあげたものの、その後も不安定な戦いが続き下位から抜け出せずにいた。そして第13節横浜FC戦に敗戦したことが決め手となり[23]、5月17日に双方合意のもとで退任することが正式に発表された[24]。
タイトル
[編集]指導者時代
[編集]チーム
[編集]- アトレチコ・パラナエンセ
- パラナ州選手権 : 1988
- コリンチャンス
- ヴェルディ川崎
- サンパウロ
- サンパウロ州選手権 : 1998
- ゴイアス
- ゴイアス州選手権 : 2003
- スポルチ
- ペルナンブーコ州選手権 : 2008, 2009
- コパ・ド・ブラジル : 2008
- 柏レイソル
- J2リーグ : 2010,2019
- J1リーグ : 2011
- ゼロックス・スーパーカップ : 2012
- 天皇杯 : 2012
- ヤマザキナビスコカップ : 2013
- スルガ銀行チャンピオンシップ : 2014
個人
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 加茂監督の契約が切れる1995年11月末が近づいたことから、次期監督を決めるためのJFA幹部会(長沼JFA会長、岡野俊一郎JFA副会長、川淵三郎JFA副会長、小倉純二JFA専務理事)が同年10月30日にJFAで行われ、この席で加藤久JFA強化委員長が、加茂監督の退任と、合わせてネルシーニョを次期監督に推薦した[10]。幹部会はこれを了承し[10]、加藤が11月19日、ネルシーニョに代表監督就任を要請したが[10]、ネルシーニョ側が幹部会側の提示額を大きく上回る報酬額を希望したため[10][12]、元々ネルシーニョの招聘が本意でない幹部会は加茂留任に気持ちが傾いた[10]。当然これはネルシーニョの交渉術の"常識"で、11月20日夜、ネルシーニョは幹部会側の提示額の上限を受け入れる事を伝えた[10]。ところが大学の後輩である加茂が可愛い長沼は、横浜フリューゲルスの監督復帰が決まっていた加茂の留任を独断で決め[10][11][12]、11月21日、加茂が了承し、加茂の留任が決まった[10][11][12]。1995年11月22日、長沼が多くの報道陣を前に加茂の監督留任を発表した[10]。ネルシーニョは「人生最大のチャレンジ」とまで意欲を燃やしていたが[10][11]、一旦、ネルシーニョに監督要請をしておきながら、加藤への連絡は11月22日の長沼の会見直前、ネルシーニョへの断りの連絡は長沼の会見後だった[10]。この"寝耳に水"の会見を聞いたネルシーニョがJFAの非礼に憤慨し、「JFAに代表監督を選ぶ権利はあるが、おふざけする権利はない。ナガヌマ、カワブチは噓つきで、腐っている。残念ながら箱の中には必ず腐ったミカンがあるものだ」と批判したのも当然だった[9][10][11][12]。
出典
[編集]- ^ Milton Neves. “Que Fim Levou? - Nelsinho Baptista”. Que fim levou? - A biblioteca do futebol brasileiro. 2013年11月2日閲覧。
- ^ “Nelsinho Baptista é o novo técnico do São Caetano”. Terra (2005年12月14日). 2013年11月2日閲覧。
- ^ “XV Curso Nacional: Mais uma turma pronta e preparada”. Futebol Interior (2008年12月4日). 2013年11月2日閲覧。
- ^ “Nelsinho Batista está de volta Ó Vila Belmiro”. Santos Futebol Clube (2005年9月27日). 2013年11月2日閲覧。
- ^ “Técnicos Nelsinho Baptista”. Federação Paulista de Futebol. 2013年11月2日閲覧。
- ^ Lucas Ottoni (2007年12月10日). “Nelsinho Baptista é o novo técnico do Leão”. GloboEsporte.com. 2013年11月2日閲覧。
- ^ “Nelsinho Baptista”. Goal.com. 2013年11月2日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m ワールドサッカーダイジェスト 1996年3月号 no.17 ブラジルの名手たち 第11回 p.112-113 日本スポーツ企画出版社
- ^ a b c d e f 沢田啓明 (2024年2月24日). “熱狂とカオス!魅惑の南米直送便 “日本代表監督白紙”で激怒「話すことはない。ただ」“腐ったミカン事件”と本田圭佑17歳の「ギラギラした」才能…ネルシーニョ本人が告白”. Number Web. 文藝春秋. 2025年4月12日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 「〔徹底特集〕サッカー事件史 〈あの事件〉の真相と舞台裏に迫る 日本代表事件史 ファイル(2) 検証・ネルシーニョ事件」『サッカーマガジン』2008年5月20号 No.1188、ベースボール・マガジン社、251頁。
- ^ a b c d e f g h 川淵三郎「第7章 七転八起 日本代表・10年の軌跡ー代表監督5人のそれぞれ 加茂解任への序章」『虹を掴む』講談社、2006年、238–239頁。ISBN 9784062126762。
- ^ a b c d e f g h 後藤健生「第7章 世界の舞台へ、最後の苦闘・1992-1998 ネルシーニョ事件をめぐるドタバタ劇」『日本サッカー史・代表編 日本代表の85年』双葉社、2002年、277–279頁。ISBN 4-575-29489-6。
- ^ ひと:ネルシーニョさん=サッカーJ1で柏を初優勝に導いた監督 毎日新聞 2011年12月4日
- ^ <柏レイソルの復活請負人> ネルシーニョ 「信頼関係を生み出す温かく深い観察力」 - NumberWEB: 2011年6月15日
- ^ 初優勝に導いた柏・ネルシーニョ監督「2年間ついてきてくれた選手に感謝」 -スポーツナビ: 2011年12月3日
- ^ 柏レイソル優勝は序章に過ぎない。ネルシーニョ・マジックとは何か? - NumberWEB: 2011年11月8日
- ^ 本日の記者会見について - 柏レイソル 2014年9月17日
- ^ ヴィッセル神戸 ニュース/レポート : ネルシーニョ監督就任のお知らせ - ヴィッセル神戸 2014年12月12日
- ^ ネルシーニョ監督との契約解除のお知らせ - ヴィッセル神戸 2017年8月16日
- ^ “You are being redirected...”. www.folhape.com.br. 2018年4月25日閲覧。
- ^ 『ネルシーニョ監督 就任のお知らせ』(プレスリリース)柏レイソル、2018年12月13日 。2019年3月21日閲覧。
- ^ 『2019Jリーグ 各賞発表のお知らせ 最優秀選手賞は仲川 輝人選手(横浜F・マリノス)が初受賞~横浜F・マリノスからの受賞は3人目、得点王とダブル受賞~』(プレスリリース)日本プロサッカーリーグ、2019年12月8日 。2019年12月9日閲覧。
- ^ “【柏】ネルシーニョ監督退任発表 16位低迷 後任は井原正巳ヘッド昇格、20日神戸戦から指揮”. 日刊スポーツ (2023年5月17日). 2023年5月17日閲覧。
- ^ “お知らせ情報|柏レイソル Official Site”. 柏レイソル Official site. 2023年5月17日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- ネルソン・バプティスタ・ジュニオール - Soccerway.com
- ネルソン・バプティスタ・ジュニオール - FootballDatabase.eu
- ネルソン・バプティスタ・ジュニオール - WorldFootball.net
- ネルソン・バプティスタ・ジュニオール - Transfermarkt.comによる選手データ
- ネルソン・バプティスタ・ジュニオール - Transfermarkt.comによる指導者データ
- ネルソン・バプティスタ・ジュニオール - J.League Data Siteによる監督データ
- ネルソン・バプティスタ・ジュニオール - playmakerstats.com