ドーハの悲劇

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1994年FIFAワールドカップ
アジア地区最終予選
開催日 1993年10月28日
会場 アル・アリ競技場(カタールの旗 カタール ドーハ)
最優秀選手 中山雅史
主審 セルジュ・ムーメンターラー

ドーハの悲劇(ドーハのひげき)は、1993年10月28日[1]カタールドーハアルアリ・スタジアムで行われたサッカーの国際試合、日本代表イラク代表戦の日本における通称である。

1994年アメリカワールドカップアジア地区最終予選の最終節で行われたこの試合は、試合終了間際のロスタイムにイラク代表の同点ゴールが入り、FIFAワールドカップ初出場に近づいていた日本代表が一転して予選敗退する結末となった。

最終予選の経過[編集]

第4戦まで[編集]

日本は、1次予選F組で7勝1分けとし、UAEを抑えて1位通過し、最終予選に進んだ。

この最終予選は、ドーハでのセントラル方式にて行われ、1次予選を勝ち抜いた6か国の総当たりリーグ戦で、上位2か国がワールドカップの出場権を得ることになっていた。

日本は初戦のサウジアラビア戦を0-0で引き分け、第2戦のイラン戦を1-2で落とした。この時点で最下位に転落したが、スタメンの入れ替えを敢行した第3戦の北朝鮮戦を3-0で勝利し、続く第4戦ではそれまでW杯と五輪のアジア予選で一度も勝てなかった韓国三浦知良のゴールで1-0で勝利し、韓国に代わり首位に立ち本戦出場に王手をかけた。[2]

イラクは1次予選でA組に参加し、6勝1分1敗で勝ち点13、中国を勝ち点1差で抑え首位で通過した。最終予選では初戦の北朝鮮戦で2点を先取しながら退場者を出し、2-3で逆転負け。その後監督を交代し、韓国戦に2-2で引き分け、イラン戦では2-1で初勝利を収め、サウジアラビア戦は1-1の引き分けを記録していた。

最終戦となる第5戦を残した第4戦終了時点の順位は以下のとおり。

順位表(第4戦終了時点)
順位 チーム 勝点 得失差 総得点
1 日本の旗 日本 5 2 1 1 +3 5
2 サウジアラビアの旗 サウジアラビア 5 1 3 0 +1 4
3 韓国の旗 韓国 4 1 2 1 +2 6
4 イラクの旗 イラク 4 1 2 1 0 7
5 イランの旗 イラン 4 2 0 2 -2 5
6 朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮 2 1 0 3 -4 5
対戦表(第4戦終了時点)
チーム 日本の旗 サウジアラビアの旗 韓国の旗 イラクの旗 イランの旗 朝鮮民主主義人民共和国の旗
日本の旗 日本 X 0-0 1-0 - 1-2 3-0
サウジアラビアの旗 サウジアラビア 0-0 X 1-1 1-1 - 2-1
韓国の旗 韓国 0-1 1-1 X 2-2 3-0 -
イラクの旗 イラク - 1-1 2-2 X 2-1 2-3
イランの旗 イラン 2-1 - 0-3 1-2 X 2-1
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮 0-3 1-2 - 3-2 1-2 X
  最終予選敗退(3位以下)。

当時の勝ち点は勝利2、引き分け1、敗戦0。勝ち点が同じ場合、得失点差、総得点、当該国間の対戦結果の順で順位を決した。

北朝鮮以外の5か国が勝ち点の差「1」の中で犇めいており、5か国のいずれにも本大会出場のチャンスが残されていた。

同日・同時刻キックオフとなる最終戦(第5戦)3試合の組み合わせは

となっていた。各試合の結果による勝ち点等の成績をまとめると下表のようになる。

日本イラク 日本 イラク
勝ち点 得失差 得点 勝ち点 得失差 得点
日本が勝った場合 7 +4以上 6以上 4 -1以下 7以上
引き分けの場合 6 +3 5以上 5 0 7以上
イラクが勝った場合 5 +2以下 5以上 6 +1以上 8以上
サウジアラビアイラン サウジアラビア イラン
勝ち点 得失差 得点 勝ち点 得失差 得点
サウジアラビアが勝った場合 7 +2以上 5以上 4 -3以下 5以上
引き分けの場合 6 +1 4以上 5 -2 5以上
イランが勝った場合 5 0以下 4以上 6 -1以上 6以上
韓国北朝鮮 韓国 北朝鮮
勝ち点 得失差 総得点 勝ち点 得失差 総得点
韓国が勝った場合 6 +3以上 7以上 2 -5以下 5以上
引き分けの場合 5 +2 6以上 3 -4 5以上
北朝鮮が勝った場合 4 +1以下 6以上 4 -3以上 6以上
  本大会出場(勝ち点7)
  最終予選敗退(勝ち点5以下)

したがって、各国の本大会出場条件は次のとおりとなる。

日本イラク
日本が勝った場合 【日 本】 本大会出場

【イラク】敗 退

引き分けの場合 【イラク】敗 退

【日 本】サウジアラビア、イラン、韓国の3か国のうち2か国を成績で上回る必要がある

次の条件のいずれかを満たすとき本大会出場

サウジアラビア - イラン
  • 引分けの場合
  • イランが勝った場合で、かつ
    • イランの得失差が+2以下の場合
韓国 - 北朝鮮
  • 引分けの場合
  • 北朝鮮が勝った場合
  • 韓国が勝った場合で、かつ
    • 得失差で日本と韓国が同数の場合で、かつ
      • 総得点で日本が韓国の同数以上となる場合
イラクが勝った場合 【日 本】敗 退

【イラク】サウジアラビア、イラン、韓国の3か国のうち2か国を成績で上回る必要がある

次の条件のいずれかを満たすとき本大会出場

サウジアラビア - イラン
  • 引分けの場合で、かつ
    • 得失差でイラクがサウジアラビアを上回る場合
    • 得失差でイラクとサウジアラビアが同数の場合で、かつ
      • 総得点でイラクがサウジアラビアを上回る場合
  • イランが勝った場合で、かつ
    • 得失差でイラクがイランと同数以上となる場合
韓国 - 北朝鮮
  • 引分けの場合
  • 北朝鮮が勝った場合
サウジアラビアイラン
サウジアラビアが勝った場合 【サウジアラビア】 本大会出場

【イラン】敗 退

引き分けの場合 【イラン】敗 退

【サウジアラビア】日本、イラク、韓国の3か国のうち2か国を成績で上回る必要がある

次の条件のいずれかを満たすとき本大会出場

日本 - イラク
  • イラクが勝った場合で、かつ
    • 得失差でサウジアラビアとイラクが同数の場合で、かつ
      • 総得点でサウジアラビアがイラクを上回る場合
韓国 - 北朝鮮
  • 引分けの場合
  • 北朝鮮が勝った場合
イランが勝った場合 【サウジアラビア】敗 退

【イラン】日本、イラク、韓国の3か国のうち2か国を成績で上回る必要がある

次の条件のいずれかを満たすとき本大会出場

日本 - イラク
  • イラクが勝った場合で、かつ
    • 得失差でイランがイラクを上回る場合
  • 引分けの場合で、かつ
    • イランの得失差が+4以上の場合
韓国 - 北朝鮮
  • 引分けの場合
  • 北朝鮮が勝った場合
  • 韓国が勝った場合で、かつ
    • 得失差でイランが韓国を上回る場合
韓国北朝鮮
(北朝鮮は敗退決定)
韓国が勝った場合 【韓国】日本、イラク、サウジアラビア、イランの4か国のうち3か国を成績で上回る必要がある

次の条件のいずれかを満たすとき本大会出場
日本 - イラク
  • イラクが勝った場合で、かつ
    • 得失差で韓国がイラクを上回る場合
  • 引分けの場合で、かつ
    • 韓国の得失差が+4以上の場合
    • 韓国の得失差が+3の場合で、かつ
      • 総得点で韓国が日本を上回る場合
サウジアラビア - イラン
  • 引分けの場合
  • イランが勝った場合で、かつ
    • 得失差で韓国がイランの同数以上となる場合
引き分けの場合 【韓国】敗 退
北朝鮮が勝った場合

第4戦終了時点で首位の日本は勝てば他会場の試合結果にかかわらず出場決定となり、日本が引き分けてかつサウジアラビアと韓国がどちらも勝った場合であっても、韓国が北朝鮮に1点差で勝利した場合には(即ち得失点差で日本と同数となる場合)、日本の総得点が韓国と同数以上であれば日本が出場権を得られるという、かなり有利な条件で日本は最終戦に臨んだ。一方、イラクは日本戦での勝利がまず必要となり、加えてサウジアラビア-イラン戦が引き分けかイランの2点差以内勝利(3点差以上の場合は得失点・総得点でイランとの争い)または韓国が北朝鮮に対し引き分けか敗れた場合、1986年メキシコ大会に続く2度目のW杯本大会出場が実現する状況だった。3位の韓国も自力出場の可能性が消滅しており、最終戦で勝利しても日本とサウジアラビアが共に勝利した場合は本大会出場ができない状況にあった。

第5戦(最終戦)[編集]

試合経過[編集]

最終戦、アル・アリ競技場の観客席はイラクのサポーターが多数を占め、日本にとってはアウェーの雰囲気の中で試合が行われた。日本は北朝鮮戦から採用した変則3トップ気味の4-3-3の布陣を継続。韓国戦で活躍した北澤豪に替わり、出場停止明けの森保一ボランチのポジションに戻ってきた。イラクは出場停止処分が重なり、主力数名を欠いた布陣で臨んだ。

試合は開始5分に長谷川健太のミドルシュートがクロスバーに弾かれバウンドした所を三浦知良ヘディングで押し込み早々と先制。前半は日本が試合を優位に進めたまま終了した。

しかし、イラクは後半に入ると攻勢に転じ、55分にアーメド・ラディが粘り強いボールキープからシュートを決め1-1の同点に追いついた。日本は特に中盤の運動量が落ちてセカンドボール回収がままならなくなり、以降イラクが更にボール支配率を高めて攻勢を強めていく[3]。64分にはドリブルで抜け出したアラー・ジェベルが無人のゴールにシュートするも外すなど、イラクは何度か決定的なチャンスを掴むが得点には結びつかず。逆に日本は69分にラモス瑠偉スルーパスオフサイドラインぎりぎりで抜け出した中山雅史が受け、ゴール右角に決め2-1の勝ち越しに成功した。

イラク攻勢の状態が続くまま時間は経過して89分50秒、ラモスのパスをカットしたイラクはカウンターアタックを仕掛けコーナーキックのチャンスを得た。このキック前に90分を経過してアディショナルタイムに突入。ここでキッカーのライト・フセインはゴール前に直接センタリングを送らず、意表を突くショートコーナーをフセイン・カディムに渡した。フセイン・カディムは、慌てて対応に走った三浦知をドリブルで振り切りセンタリングを上げ、これをオムラム・サルマンがヘディングシュート。ボールは、見上げるGK松永成立の頭上を放物線を描いて越えゴールに吸い込まれ、同点となった(90分20秒)。イラクの同点ゴールが決まった瞬間、控えを含めた日本代表選手の多くが愕然としてその場に倒れ込んだ。その後、日本はキックオフからすぐ前線へロングパスを出すも、ボールがそのままタッチラインを割ったところで主審のセルジュ・ムーメンターラーの笛が鳴らされ、2-2の引き分けで試合終了となった。

終了後、ピッチ上の日本代表選手の多くはその場にへたり込んだまま動けず、ハンス・オフト監督や清雲栄純コーチらに声をかけられ漸く立ち上がるという状態だった。キャプテンの柱谷哲二は両手で顔を覆って号泣し、オフト監督と清雲コーチに支えられながらピッチを後にした。左サイドバックでフル出場した勝矢寿延は、今まで惨敗でのワールドカップ予選敗退のイメージがあったため、引き分けという結果で予選敗退という状況が呑み込めておらず、他の選手がピッチにへたりこむ様子を見て不思議に思ったという。

日本-イラク戦より数分早く終了した他会場の結果が、『サウジアラビア 4-3 イラン』『韓国 3-0 北朝鮮』だったため、最終順位は下表の通りとなり、サウジアラビアと韓国が本大会への出場権を獲得。得失点差で韓国に及ばず3位に転落した日本は出場権を逃した。「日本リード」を聞かされていた韓国の選手達は勝利後もうつむいていたが、「日本同点、試合終了」の結果を知ると一転して歓喜に包まれた。

第5戦の結果一覧(1993年10月28日)


韓国  3 – 0  北朝鮮


日本  2 – 2  イラク
順位表(全日程終了)
順位 チーム 勝点 得失差 総得点
1 サウジアラビアの旗 サウジアラビア 7 2 3 0 +2 8
2 韓国の旗 韓国 6 2 2 1 +5 9
3 日本の旗 日本 6 2 2 1 +3 7
4 イラクの旗 イラク 5 1 3 1 0 9
5 イランの旗 イラン 4 2 0 3 -3 8
6 朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮 2 1 0 4 -7 5
対戦表(全日程終了)
チーム サウジアラビアの旗 韓国の旗 日本の旗 イラクの旗 イランの旗 朝鮮民主主義人民共和国の旗
サウジアラビアの旗 サウジアラビア X 1-1 0-0 1-1 4-3 2-1
韓国の旗 韓国 1-1 X 0-1 2-2 3-0 3-0
日本の旗 日本 0-0 1-0 X 2-2 1-2 3-0
イラクの旗 イラク 1-1 2-2 2-2 X 2-1 2-3
イランの旗 イラン 3-4 0-3 2-1 1-2 X 2-1
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮 1-2 0-3 0-3 3-2 1-2 X
  本大会出場(2位以上)
  最終予選敗退(3位以下)
(当時の勝ち点は勝利2、引き分け1、敗戦0。
勝ち点が同じ場合、得失点差、総得点、当該国間の対戦結果の順で順位を決した。)

試合結果[編集]

GK 1 日本の旗 松永成立 82分に警告 82分
DF 4 日本の旗 堀池巧
DF 7 日本の旗 井原正巳
DF 5 日本の旗 柱谷哲二
DF 3 日本の旗 勝矢寿延 9分に警告 9分
MF 17 日本の旗 森保一
MF 10 日本の旗 ラモス瑠偉
MF 15 日本の旗 吉田光範
FW 12 日本の旗 長谷川健太 59分に交代退場 59分
FW 16 日本の旗 中山雅史 81分に交代退場 81分
FW 11 日本の旗 三浦知良
サブメンバー:
MF 8 日本の旗 福田正博 59分に交代出場 59分
FW 9 日本の旗 武田修宏 81分に交代出場 81分
   
監督
オランダの旗 ハンス・オフト
GK 21 イラクの旗 イブラヒム・サード
DF 14 イラクの旗 サリム・フセイン・カリム
DF 4 イラクの旗 ラディ・シュナイシェル 23分に警告 23分
DF 2 イラクの旗 サミール・ハッサン
DF 3 イラクの旗 サード・ベンヤミン 75分に警告 75分
MF 22 イラクの旗 ハッサム・サード 71分に交代退場 71分
MF 12 イラクの旗 モハメド・ジャベール 46分に交代退場 46分
MF 7 イラクの旗 ナイム・メンシェド
MF 11 イラクの旗 ライト・フセイン
FW 9 イラクの旗 アラー・ジェベル
FW 8 イラクの旗 アーメド・ラディ
サブメンバー:
FW 16 イラクの旗 オムラム・サルマン 46分に交代出場 46分
MF 5 イラクの旗 ジャバル・ハヌーン 71分に交代出場 71分
   
監督
イラクの旗 アモ・ババ

放送[編集]

日本ではNHK BS1、および地上波ではテレビ東京がテレビ中継を、ニッポン放送がラジオ中継を行った。テレビ東京での当該視聴率日本時間の深夜帯にもかかわらず、同局史上最高の48.1%を記録した。

テレビ東京の放送では現地実況が久保田光彦アナウンサー、解説は前田秀樹が務めた。東京のスタジオでは金子勝彦が司会を務め、ゲストとして釜本邦茂(当時:ガンバ大阪監督)、森孝慈(当時:浦和レッズ監督)、当時の日本代表主将・柱谷哲二の実兄である柱谷幸一(当時:浦和レッズ選手)がいた。ロスタイムの同点ゴール時に久保田は「決まった!」と言った後30秒近く言葉が出ず、日本の制作スタッフは放送事故かと慌てたという[4]。その間、解説者の前田も一言も発せず、30秒後にようやく久保田が「仕方ないですね」と発言するまで沈黙が続いた[5]。試合終了後、スタジオに画面が戻ってきても、金子、釜本、森、柱谷兄の四者とも呆然として何も言うことができず、特に柱谷は放送中にも関わらず頭を抱え込み泣いていた。森はロスタイムの同点劇について「これがサッカーなんですよ」とコメントし、金子は「サッカーの世界では、天国と地獄を見て初めて本当のサポーターになれる」との言葉を紹介した。キャプテンの柱谷哲二の兄である柱谷幸一は、金子から「お辛いでしょうけど」と促され、絞り出すように「1カ月、辛かっただろうけど、胸を張って帰ってこい」とメッセージを送った[5]

NHK BS1の放送では実況が山本浩アナウンサー、解説は田中孝司が務めた。岡田武史田嶋幸三がスタジオ解説、友田幸岐がスタジオ司会であった。試合終了後、岡田は言葉を詰まらせ、友田は「サッカーの怖さが出ました。何もこの試合じゃなくても良かったんじゃないかと…」とコメントした。岡田はこの4年後、1998年フランスワールドカップ最終予選中に急遽日本代表監督を引き継ぎ、ワールドカップ初出場を決めることになる(ジョホールバルの歓喜)。

ニッポン放送のラジオ中継は、実況が師岡正雄アナウンサー、解説は小谷泰介が務めた。イラクの2点目(同点ゴール)の直後に、小谷が「何ということだ……」とコメントしている。フジテレビでドーハの悲劇の映像が流れる際にはこのニッポン放送の実況音声が使われた。

登録メンバー[編集]

選手の所属クラブ名は当時のもの。「Captain sports.svg」はキャプテン。

ゴールキーパー
1 松永成立 横浜マリノス
19 前川和也 サンフレッチェ広島
ディフェンダー
2 大嶽直人 横浜フリューゲルス
3 勝矢寿延 横浜マリノス
4 堀池巧 清水エスパルス
5 柱谷哲二 Captain sports.svg ヴェルディ川崎
6 都並敏史 ヴェルディ川崎
7 井原正巳 横浜マリノス
21 三浦泰年 清水エスパルス
22 大野俊三 鹿島アントラーズ
ミッドフィルダー
8 福田正博 浦和レッズ
10 ラモス瑠偉 ヴェルディ川崎
14 北澤豪 ヴェルディ川崎
15 吉田光範 ジュビロ磐田
17 森保一 サンフレッチェ広島
18 澤登正朗 清水エスパルス
フォワード
9 武田修宏 ヴェルディ川崎
11 三浦知良 ヴェルディ川崎
12 長谷川健太 清水エスパルス
13 黒崎比差支 鹿島アントラーズ
16 中山雅史 ジュビロ磐田
20 高木琢也 サンフレッチェ広島
監督 ハンス・オフト
コーチ 清雲栄純
GKコーチ ディド・ハーフナー

評価[編集]

日本サッカー協会強化委員会は同年11月5日に定例会議を開き、「修羅場での経験不足」を理由に翌1994年5月まで契約が残っていたオフト監督の解任を決定した。10日に川淵三郎強化委員長とオフト監督との間で会談が開かれ、翌11日に退任が正式発表された。

サッカー専門誌では、ハンス・オフト監督の作り上げた組織的サッカーが、この予選中でアジアトップレベルのサッカーを披露したとし、その功績を認めながらも、オフト監督自身の指導力の限界を指摘した。

  • オフトは1992年3月に代表監督に就任すると、同年10月のアジア杯で初優勝するなど短期間でチーム力を向上させた。しかし、レギュラーをほぼ固定して戦った結果、主力の故障・不調が重なると選手層の薄さが問題になった。特に左サイドバック (SB) の都並敏史が左足を亀裂骨折した影響は大きく[6]、代役を探した結果、最終予選の壮行試合を兼ねたアジア・アフリカ選手権(10月4日)ではボランチ三浦泰年を左SBに起用し、一応の目途がついたと思われた。しかし、最終予選第2戦では日本の弱点を研究してきたイランから左サイドを執拗に狙われ、第3戦以降はセンターバック(もしくは右SB)の勝矢をコンバートして使わざるを得なかった。柱谷はのちに「W杯に行けなかったのはイラク戦の引き分けよりもイラン戦の負けが要因だったと思う」「固定メンバーで熟成されていた半面、イランに分析され対応されたときに変化を出せなかった」と語っている[7]
  • イラク戦の後半、日本は中盤の運動量が落ちてボールを回収できず、ディフェンスラインが下がりっぱなしになりイラクの波状攻撃を浴びる状態だった。ピッチ上の選手は中盤のカンフル剤となる北澤豪の投入を望んでおり[3]、ラモスはベンチに向かって「キタザワー」とリクエストしていた[8]。しかし、オフト監督は福田正博武田修宏というアタッカーを2人の交代枠に使い、結果的に劣勢を挽回する事が出来なかった。結果論にすぎないが、北澤は後に「やはり(あの交代は)間違いだったと思う」と述べている[3]

また、選手側の様々な事情も分析された。

  • 同年5月のJリーグ開幕は社会現象的な注目を集め、選手たちは期待と関心に応えるため、アマチュア時代とは全く異なるプレッシャーの中でプレーしていた。さらに、週2回ペースの試合(同点の場合Vゴール方式の延長戦・PK戦まで戦う)が続く厳しいスケジュールで、足を疲労骨折した都並やウイルス感染で入院した柱谷など、コンディションを崩す選手が続出した。最終予選前にスペイン合宿を行なったのは、Jリーグで疲弊した選手達を休ませる目的もあったという[9]
  • 韓国戦後、まだ本大会出場が決まった訳でもなく1分け1敗したのが祟ってあと1勝しなければならない状況であるのに、ワールドカップ予選、オリンピック予選において世界に出ようとする日本の前に常に大きな壁として立ちはだかってきたライバル国から挙げた勝利に喜び、涙を流す者もいた。キャプテンの柱谷は、「まだ終わってないんだ」と活を入れている。しかも、対戦成績では大きく負け越していた相手に勝ったとはいえ、押し気味に進めながら1点しか奪えなかったツケが、最終戦の引き分けに繋がる形で回った。
  • イラク戦のハーフタイム中、ロッカーに引き上げてきた選手たちは、オフト監督が3度も「Shut Up(黙れ)!」と怒鳴らなければならない程[10]の興奮状態にあり、オフト監督の戦術説明を聞かず勝手に修正点を話し合っていた。清雲コーチによれば「選手たちの会話がどこで起こっているのかわからない異様な状況」で、「そんな混乱が続く中でオフトが『U.S.A. 45min』とホワイトボード上の模造紙に書いて説明しようとしたら、後半のブザーが鳴ってしまった」という[5]
  • 後半ロスタイム突入間際、日本はカウンターから敵陣深くでボールを保持したが、武田は単純にゴール前へセンタリングを上げ、ラモスは最終ラインの裏へ浮き球のスルーパスを通そうとしてカットされた。そこからイラクの同点ゴールにつながる攻撃が始まった。オフト監督は後に「ゲームの作り方(組織戦術)は教えたが、ゲームの壊し方(試合を逃げ切る方法)は教えることが出来なかった」と語っている[11]。また、吉田光範によれば、前の韓国戦も1-0でリードした残り10分間の内容が不安定で、オフト監督は「キープ・ザ・ボール!」と声を枯らして叫んでいたという[12]
  • 解説者のセルジオ越後は「時間を稼ぐべきところで稼がなかった」と指摘し、「あの1試合だけじゃなくて、最終予選を通じて取るべきところで取らなかったり、そういうチャンスロストはたくさんあった」とチーム全体の経験不足を指摘している[13]
  • 最終予選のベストイレブンに、参加6か国では最多となる松永、柱谷、ラモス、三浦知の4名が選ばれており、表彰式に参加するよう日本サッカー協会に要請が来ていたが、当時オフト監督の通訳を担当していた日本サッカー協会強化委員会の鈴木徳昭総務担当が柱谷に確認したところ、みんなの判断で行けないとのことだったため、鈴木総務担当と川淵強化委員長、小倉純二だけで出席することとなった。鈴木総務担当は、「それはそれでそのときのどうしようもない判断だったけど、本来は結果にかかわらず、どんな悲惨なことがあったとしても、行かせなければいけなかったのかもしれない、とあの後すぐに思った」と回顧している[5]
  • また鈴木は、FIFA関係者のドイツ人から「これがサッカーだよ」という言葉を投げかけられ「こういう経験を私たちサッカー界はあと100年の間に何十回も経験しないと、本当の意味で世界を知ることは、世界と伍することはできないんだなと思いました」と語っている[5]

対戦国イラクに対しては、本大会出場が絶望的な状況ながら試合終了までゴールを狙い続けた姿勢が評価された。選手の奮闘の理由として、イラクオリンピック委員長ウダイ・フセインサダム・フセインの長男)から「日本に敗れたら鞭打ちの刑に処す」と脅されていたという[14]。イラクは最終予選を通して不利な判定を受けており[15][16]、イラクが湾岸戦争の「敵国」アメリカで開催されるW杯へ出場することを阻止する配慮があったのではないかとまことしやかに囁かれた[17]。日本のフジテレビは同点ゴールを決めたオムラムらイラク代表選手数名を日本に招待し、ニュース番組でドーハの悲劇の感想を聞いたり、バラエティ番組「明石家さんまのスポーツするぞ!大放送」で芸能人らとのリベンジマッチを行わせたりもした(1994年4月8日放送分)。

多くのマスコミやファンは、ワールドカップ出場を直前で逃したにもかかわらず、この結果を好意的に受け止めた。選手達を乗せたチャーター便が成田国際空港に到着すると、数百人のファンが選手達を温かく出迎えた[18]。しかし、こういった反応はワールドカップ出場をギリギリで逃した選手たちにとって複雑なものだったという[18]。松永は、「日本はサッカー先進国に向かっている途中だからこうなんだ。これがドイツやブラジル、スペインだったらこういう歓迎のされ方はしないんだろうな。これから代表を背負って戦っていく選手たちに対して、ここでブーイングされるときこそが本当の日本のサッカーのスタートなんだな」と感じたという[5]。また実際に現場で取材したベテラン記者の中には、こうした国内の反応を苦々しく思う者もいたらしい[18]

川淵強化委員長は、この試合がテレビ放映で高視聴率を記録したというだけでなく、国民感情の振幅も大きく日本国民にサッカーの面白さを強烈に印象付けることとなり、オリンピックをも上回る最大のスポーツイベントであるFIFAワールドカップの人気を日本に定着させることになったと評価した[19]

この試合の結果、自力での本大会出場の可能性がなかった韓国代表が本大会出場を決めたため、韓国では「ドーハの奇跡도하의 기적)」と呼ばれている[20]。日本でも捉え方によっては「ドーハの奇跡」と呼ばれることもある[21]

その後[編集]

1998年大会以降、アジア最終予選はホーム・アンド・アウェー方式で行われるようになった。日本は1997年のアジア最終予選イランとの3位決定プレーオフに勝利してワールドカップ初出場を決めている(ジョホールバルの歓喜)。1994年大会出場を逃したいわゆる「ドーハ組」の中で、1998年大会の本戦メンバーに選ばれたのは中山雅史と井原正巳の2名のみだった。以後、日本は自国開催枠出場の2002年大会を含め、2014年大会まで5大会連続でワールドカップ出場を果たしている。

1995年、U-23日本代表アトランタ五輪アジア最終予選でサウジアラビアと対戦した際には、ハーフタイム中に選手の興奮を鎮めたり[22]、リードした後半に効果的に時間を稼ぐなどドーハの悲劇の教訓が活かされ[23]、28年ぶりの五輪出場が成し遂げられた[24]

ドーハの悲劇から18年後、カタールで開催されたAFCアジアカップ2011では日本代表は6試合中5試合をドーハで戦い史上初となる4度目のアジア制覇を成し遂げ、「もうドーハは『悲劇の地』では無くなった」などと言われた[25]。特に初戦のヨルダン戦では、敗色濃厚の後半ロスタイムにショートコーナーからヘディングで同点に追いつくという、まさに18年前の立場を逆にしたかのような試合展開であった。

2013年6月11日に行われた2014年大会のアジア最終予選においては、『日本[26]がドーハの地でイラク[27]との最終戦[28]に臨む』ことが話題となった(試合は1-0で日本が勝利)。

2015年1月16日に行われたAFCアジアカップ2015・グループリーグ(グループD)第2戦では、この試合で同点ゴールを決めたシュナイシェルが指揮を執るイラクとブリズベンで対戦。本田圭佑PKの得点を守りきり、1-0で日本が勝利した。

2016年1月26日にドーハで行われたAFC U-23選手権2016[29]準決勝では、U-23日本代表がU-23イラク代表と対戦し、後半48分に決勝点を奪ってリオデジャネイロ五輪本大会出場を決めた。この世代の選手は「ドーハの悲劇」が起きた1993年かそれ以降に生まれた選手たちだった。手倉森誠監督は勝利後のインタビューで「日本サッカー界のことを思えば、ロスタイムで取るあたり歴史を逆転させた。いい勝ち方だなと思います」と述べた[30]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ カタール時間16時15分開始の日本-イラク戦でロスタイムにイラクの同点ゴールが決まった時刻は18時過ぎであり、6時間の時差の関係で、日本では日付が変わり10月29日の0時過ぎとなっていた。
  2. ^ この試合でMOMを獲得した三浦知良はインタビューの最中に嬉しさのあまり涙し、他のチームメイトも喜びをあらわにしていた。しかしラモスだけは依然として厳しい表情で「まだ何も決まってないよ」と一言残し試合会場を後にしている。
  3. ^ a b c 渡辺達也 "「ドーハの悲劇」イラク戦で出場できなかった北澤豪の本音". Web Sportiva.(2013年10月15日)2013年10月14日閲覧。
  4. ^ 布施鋼治 "平均視聴率48.1%!ドーハの悲劇、テレビ東京の舞台裏". Web Sportiva.(2013年10月27日)2013年11月2日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 一志治夫、2013、「'93・10・28の夜〜希望と蹉跌を味わった者たち〜」、『Sports Graphic Number』(839)、文藝春秋 pp. 56-61
  6. ^ 三浦知・ラモス・都並のヴェルディトリオが絡む左サイドの攻撃が日本の生命線だった
  7. ^ 西部謙司 『サッカー日本代表システム進化論』、<学研新書070>、学習研究社、2010年、81頁。
  8. ^ 一志治夫『狂気の左サイドバック』、p186。
  9. ^ 飯尾篤史 "福田正博「20年前のドーハは『悲劇』じゃない」page3/5". Web Sportiva.(2013年10月27日)2013年11月2日閲覧。
  10. ^ 一志治夫『狂気の左サイドバック』、p182。
  11. ^ 後藤健生 『日本サッカー史』286頁。
  12. ^ 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、文藝春秋社、2013年10月17日、、47頁。
  13. ^ ドーハの悲劇から20年、セルジオ越後氏「あれは悲劇じゃない」 サッカーキング 2013年10月28日
  14. ^ "フセインの息子の元影武者、「ドーハの悲劇」の背景を暴露". 映画.com.(2011年10月21日)2013年9月8日閲覧。
  15. ^ イラクは出場停止中だった主力選手2名が日本戦で復帰するはずだったが、試合当日朝にペナルティーの延長が決まった(杉山茂樹『「ドーハ以後」ふたたび』、37頁)。
  16. ^ 69分の中山の勝ち越しゴールをベンチから見た都並は「こりゃオフサイドだ、これ、くれるか」と呟いたという(一志『狂気の左サイドバック』、p188)。
  17. ^ 杉山茂樹『「ドーハ以後」ふたたび』、37頁。
  18. ^ a b c 潮智史 『日本代表監督論』63頁。
  19. ^ 川淵三郎『私の履歴書』、日本経済新聞2008年2月17日
  20. ^ その後、大韓サッカー協会はオムラムを韓国に招待し国賓級の待遇をもてなし、韓国のテレビ番組でも英雄扱いされた
  21. ^ 大住良之 『アジア最終予選』189頁。
  22. ^ 浅田真樹 "ドーハの夜。オフトが綴った「二文字」が日本の未来を開いた". Web Sportiva.(2013年10月17日)2013年11月2日閲覧。
  23. ^ “マイアミの奇跡”よりも熱かった! “ドーハの悲劇”の教訓が活かされたアトランタ五輪予選・サウジアラビア代表戦2/2 フットボールチャンネル 2013年10月11日
  24. ^ 【元川悦子コラム】アトランタ五輪プレイバック:「28年の壁」をこじあけた日本、そして「マイアミの奇跡」 Soccer Journal編集部 2012年06月20日
  25. ^ アジア杯優勝、もうドーハは「悲劇の地」ではなくなった (1/4ページ) - 日本経済新聞・2011年1月31日。
  26. ^ 前節の試合で既に本大会出場を確定。
  27. ^ FIFA安全規則違反により、アジア予選のホームゲーム国内開催権を剥奪。
  28. ^ 組み合わせの都合により、日本は最終節の対戦がない。
  29. ^ リオデジャネイロ五輪アジア最終予選も兼ねている。
  30. ^ “手倉森監督感慨「歴史逆転させた」ドーハでイラク相手にロスタイムV弾”. スポニチAnnex. (2016年1月27日). http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2016/01/26/kiji/K20160126011928910.html 2016年1月27日閲覧。 

参考文献[編集]

  • 一志治夫『狂気の左サイドバック 日の丸サッカーはなぜ敗れたか』小学館、1994年
  • 潮智史『日本代表監督論』講談社、2002年
  • 大住良之『アジア最終予選』双葉社、2005年
  • 後藤健生『日本サッカー史・日本代表の90年』双葉社、2007年
  • 後藤健生『日本サッカー史・日本代表の90年 資料編』双葉社、2007年
  • 杉山茂樹『「ドーハ以後」ふたたび 世界から見た日本サッカー20年史』PHP研究所、2012年
  • 西部謙司 『サッカー日本代表システム進化論』<学研新書070>、学習研究社、2010年
  • 週刊サッカーマガジン」1993年11月17日号、ベースボールマガジン社

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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