ウーゴ・フェルナンデス
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名前 | ||||||
本名 | ウーゴ・ダニエル・フェルナンデス・バリェホ | |||||
カタカナ | ウーゴ・フェルナンデス | |||||
ラテン文字 | Hugo Daniel Fernández Vallejo | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
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生年月日 | 1945年2月2日 | |||||
出身地 | モンテビデオ | |||||
没年月日 |
2022年8月1日(77歳没)![]() | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ウーゴ・フェルナンデス(Hugo Fernández , 1945年2月2日 - 2022年8月1日[1])は、ウルグアイ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。
来歴[編集]
1961年に選手生活をスタートさせ、ウルグアイの他、アルゼンチン、メキシコ、スペインでもプレーした。サッカーウルグアイ代表にも選出された事がある。
1982年に現役を退くとペニャロールのユースチームを率いて優勝に導き、翌年にはトップチームの監督に昇格した。1985年からはメキシコのプエブラの監督を4年間務めた。1991年には東芝サッカー部の特別コーチとして来日している。1994年にウルグアイのナシオナル・モンテビデオの監督をつとめたのち、1995年再びプエブラの監督となった。
1997年、当時Jリーグ入りを目指していた旧JFL・コンサドーレ札幌に招聘された。選手には「ハートでプレイすること」を第一に要求し、自らは試合時間のほとんどを大声で指示を出すことに費やした。
「闘志」を大切にするその指導はプロ化間もないチームにうまく合致し、「チームはファミリー」の合言葉の下この年コンサドーレは26勝4敗という成績で優勝することになる。
1998年、待望のJリーグに昇格。しかし同年の10月に成績不振とフロントとの確執から、監督を解任された。
クラブ歴[編集]
- 1961-1966
ナシオナル・モンテビデオ
- 1967
ラシン・クラブ・デ・モンテビデオ
- 1968-1969
クラブ・デ・ヒムナシア・イ・エスグリマ・ラ・プラタ
- 1970
CAセロ
- 1971
デフェンソール・スポルティング
- 1972-1975
CAペニャロール
- 1975-1978
CDテネリフェ
- 1979-1980
プエブラFC
- 1980-1981
CAペニャロール
- 1981
CFアトラス
監督歴[編集]
- 1984
CAペニャロール
- 1985-1987
プエブラFC
- 1988-1989
UANLティグレス
- 1989-1990
タンピコ・マデロFC
- 1994-1995
ナシオナル・モンテビデオ
- 1995-1996
プエブラFC
- 1997-1998
コンサドーレ札幌
- 2001
イラプアトFC
- 2002
ティブロネス・ロホス・デ・ベラクルス
- 2003
プエブラFC
- 2006
ロボス・デ・ラ・BUAP
- 2006-2008
ドラドス・デ・シナロア
監督成績[編集]
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年度 | 所属リーグ | 大会名 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 順位 | クラブ |
1998年 | J | 1st | 17 | 4 | 13 | - | 16位 | コンサドーレ札幌 |
J | 2nd | 11 | 5 | 6 | - | 10位 |
* 1998年2ndは、第11節終了後に監督を解任された。後任には石井肇ヘッドコーチが昇格した。
脚注[編集]
- ^ a b “ウーゴ・フェルナンデス元監督が死去…札幌をJリーグ昇格に導いた功労者”. スポーツ報知. (2022年8月2日) 2022年8月2日閲覧。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- ウーゴ・フェルナンデス - Soccerway.com (英語)
- ウーゴ・フェルナンデス - WorldFootball.net (英語)
- ウーゴ・フェルナンデス - Transfermarkt.comによる選手データ (英語)
- ウーゴ・フェルナンデス - Transfermarkt.comによる指導者データ (英語)
- ウーゴ・フェルナンデス - J.League Data Siteによる監督データ
- 世界へ捧ぐ - ウーゴ・フェルナンデス元コンサドーレ監督来日
- 単なる町興しに終わらせない / 北海道栗山町 - Internet ARChive 保管版