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立原元夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
立原 元夫
名前
愛称 モーチャン[1]
カタカナ タツハラ モトオ
ラテン文字 TATSUHARA Motoo
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1913年1月14日
出身地 東京市品川区
没年月日 没年不明
身長 164cm[2]
体重 64kg[2]
選手情報
ポジション MF
ユース
1933-1936 日本の旗 早稲田大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
日本の旗 早稲田大学WMW
代表歴
1934-1942 日本の旗 日本 4 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

立原 元夫(たつはら もとお、1913年1月14日 - 没年不明)は、東京市品川区出身のサッカー選手

経歴

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法曹の雄と呼ばれた花井卓蔵の五男[3]として生まれた。卓蔵の生家であった立原家に跡継ぎが無く断絶していたため、1928年(昭和3年)4月に立原姓を名乗り、立原家を死跡相続した[4]

東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属高校)在学中よりサッカーを始め、1933年に早稲田大学に入学し、在学中はア式蹴球部に所属した。1934年に開催された第10回極東選手権競技大会日本代表に選出され、5月13日のオランダ領東インド(現:インドネシア)代表戦で日本代表として初出場した。1935年にはア式蹴球部の主将を務めた[5]

1936年3月に早稲田大学を卒業して大日本人造肥料(現:日産化学)に入社[5]、傘下の合同油脂に勤務した[6]。同年に開催されたベルリンオリンピックの日本代表に選出され[2]、1936年8月のスウェーデン代表戦など2試合に出場した(ベルリンの奇跡を参照)[7]

1937年には従軍し、張家口大同方面の戦闘に参加した[8]

1942年8月、満州国建国十周年慶祝東亜競技大会日本代表に選出され、主将として3試合に出場した[9]

その後、日産化学から分離した日本油脂(現・日油)で神明工場副工場長などを務めた[10]のち、関連会社の日油タセト商事(現・タセト)の代表取締役となった[11]

所属クラブ

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代表歴

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出場大会

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試合数

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  • 国際Aマッチ 4試合 0得点(1934-1936)
日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1934200020
1935000000
1936204060
1937000000
1938000000
1939000000
1940000000
1941000000
1942003030
通算 4070110

出場

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No.開催日開催都市スタジアム対戦相手結果監督大会
1.1934年05月13日フィリピンの旗マニラ オランダ領東インド●1-7竹腰重丸極東選手権
2.1934年05月20日フィリピンの旗マニラ 中華民国●3-4極東選手権
3.1936年08月04日ドイツの旗ベルリン スウェーデン○3-2鈴木重義オリンピック
4.1936年08月07日ドイツの旗ベルリン イタリア●0-8オリンピック

出典

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  1. 附属中学サッカーのあゆみ』東京高等師範学校附属中学蹴球部六十周年誌編纂委員会、1984年5月、118頁
  2. 1 2 3 「オリムピックへ十六選手決定す」朝日新聞 (1936年4月23日) 2016年9月11日閲覧
  3. 大木源二『花井卓蔵全伝 下巻』花井卓蔵全伝編纂所、1935年、33頁
  4. 大木源二『花井卓蔵全伝 上巻』花井卓蔵全伝編纂所、1935年、13頁
  5. 1 2 「早大蹴球部卒業選手勤務先」 読売新聞、1936年1月30日、2016年9月26日閲覧
  6. 朝日新聞社 編『われらの選手:オリンピツク代表点描』朝日新聞社、1936年、119頁
  7. ベルリンオリンピック”. 日本サッカー協会. 2016年9月26日閲覧。
  8. 「スポーツマン奮戦録 三君奇遇しまた別る」『朝日新聞』、東京朝刊、8面。
  9. 満州国建国十周年慶祝東亜競技大会”. 日本サッカー協会. 2016年9月26日閲覧。
  10. ダイヤモンド会社職員録 全上場会社版 1961年版』ダイヤモンド社、1961年、537頁
  11. 社史編纂委員会 編『日本油脂三十年史』日本油脂、1967年、643頁

外部リンク

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