東京都立小石川中等教育学校

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東京都立小石川中等教育学校
東京都立小石川中等教育学校.JPG
過去の名称 東京府立第五中学校
東京都立小石川高等学校
国公私立の別 公立学校(都立)
設置者 東京都の旗 東京都
校訓 立志・開拓・創作
設立年月日 1918年(府立五中)
2006年(現行)
共学・別学 男女共学
学期 3学期制
中等教育学校コード 13335D
所在地 113-0021
東京都文京区本駒込二丁目29番29号
公式サイト 東京都立小石川中等教育学校
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東京都立小石川中等教育学校(とうきょうとりつ こいしかわちゅうとうきょういくがっこう)は、東京都文京区本駒込二丁目に所在する都立中等教育学校共学である。


概要[編集]

1918年東京府立第五中学校として創立。1950年、東京都立小石川高等学校と改称。校名の「小石川」は、戦災による校舎焼失を経て小石川区同心町(現・文京区)に移転したことに由来する。2006年中等教育学校に改編され中高一貫校化した。

アカデミックで自由な校風で知られ、創立時より理化学教育に重きを置いた教育を行っている。

建学の精神[編集]

立志・開拓・創作

三校是と呼ばれている。「自ら志を立て、自分が進む道を自ら切り拓き、新しい文化を創り出す」という意味。府立五中の初代校長である伊藤長七が熱心に説いていた言葉である。以下は、第2回の入学式において、伊藤が新入生に語ったものである。

立志とは、昔、支那周代の大聖人、孔子が十有五で志を立て、学問を始められたように、それとほとんど同じ年頃の日本の男子が、高等普通教育を受けるために中学校に入学する志を立てることである。かのマゼランの世界一周、かの博士ヘディンの中央アジア探究、あるいはナンセン博士の極地探検、いずれが 開拓の精神の発露にあらざらん。さては高峰譲吉博士、野口英世博士のごとき、あるいは南米各地に移住植民せる同胞の若き男女のごとき、これらを真の開拓者という。しかり、しかれども、我らのいわゆる開拓者は、決して遠征家、海外移住者の如きに限れるにあらず。キュリー夫妻 のごとく、マルコーニ のごとき者、齢八十にして発明の意気なお颯爽、過去に成功せし一千百種の発明を基礎として、さらに新たなる大発明を企てるエジソン博士のごとき、これを真の開拓者という。創作とは、自分の力でできるだけの仕事を、自分でなし、自分で考え、自分で工夫し、他人のまねでない、何かを作り出すということである」[1]

沿革[編集]

府立五中と伊藤長七[編集]

校長在籍時代の伊藤長七の肖像
「転地修養隊」の引率をする伊藤長七と生徒達
府立五中時代の制服。背広の採用は当時としては画期的であった

初代校長の伊藤長七は、東京朝日新聞に掲載された「現代教育観」において、「画一主義の普及」や「科学的研究の貧弱」といった論題で当時の様々な教育問題を革新的に論じ、一躍注目を浴びた。

井上友一東京府知事や後藤新平らの関与で府立五中の初代校長に抜擢されると、理化学研究所が隣接していた立地を活かし、自然科学を主とする理化学教育重視の学校を打ち出した。天体観測や気象観測などの実験や校外学習の重視、通常では中学3年次から始める物理・化学の中学1年次からの学習、独自に編集された「物理化学」の教科書の使用、当時としては高度な設備を持った化学実験室での実験講義など、伊藤の「科学者を輩出する学校」の理念の基に、他校とは一線を画する独自の理化学教育が行われた。

自由主義による教育を理想としていた伊藤は、大正デモクラシーの気風も追い風に、「男女共教」の観点から女性教師を次々と採用[2]、「詰襟制服は胸元を圧迫し自由な思考を阻害する」との持論より、背広ネクタイを制服として制定、夏休みには、伊藤の故郷である長野県北佐久郡志賀村(現・佐久市)で農村生活の体験をする「転地修養隊」を結成[3]。いずれも当時においては画期的であり、何もかもが型破りな教育者として、府立五中と伊藤長七の名が全国に広まった。

校長在任中に単独で米国大統領と会見を開く[4]など、海外渡航経験の豊富であった伊藤は、生徒達に国際的教養の必要性を説いて、国際交流や外国語教育にも力を入れた。イギリス人による英会話授業や、当時高価であったレコード教材による外国語授業、1921年には、日本中の子供達に英語で手紙を書かせて、1万通を超える手紙を海外の訪問先で配布して、文通による国際交流を実現した。大正という時代の中で、伊藤が生徒達に国際人としての意識を持たせようとしたエピソードとして、以下のものが知られている。

端午の節句の日に、伊藤は生徒達と、「アメリカに届くように」と、校庭から風船を入れた紙製の鯉を飛ばした。結局国内から郵送され返ってきてしまったが、伊藤は生徒達に「諸君、この鯉のぼりはアメリカに行って、埼玉県に帰ってきたのだ。」と話した。

1930年に肺炎のため死去。学校葬が執り行われた。伊藤長七の死後も、教育理念はOBの眞田幸男(第6代校長・1964年―1968年)らによって連綿と受け継がれ、今日に至っている。

年表[編集]


校歌[編集]

1919年に制定。伊藤長七自身が作詞。作曲は北村季晴。8番まであるが、通常は1・4・6番のみが歌われる。校歌の歌詞には「開拓」「創作」といった三校是が盛り込まれ、4番の「科學の道に分け入りて」という歌詞では、創立以来の理化学教育の重視が謳われている。

5番の歌詞で「菅の荒野を飛ぶ鷲の羽風も高き飛騨の山」と、東京の学校であるにもかかわらず信濃国にまで及ぶのは、伊藤が信州の出身であり、信州が彼にとっての教育思想の源流だからである。

教育[編集]

理数教育
廊下
校庭
府立五中以来の「小石川教養主義」を継承し、独自の理数教育が実践されている。小石川の教養主義を象徴するものが、50年以上に渡って改訂を繰り返しながら受け継がれている理科系科目のオリジナルテキストで、生物であれば「生物実習」と書かれた200ページにも及ぶ独自教材が全員に配られる。小石川伝統の方針として学生同士が自ら実験を計画し、遂行するので科学的考察力と高度なレポート作成能力が養われる。なお、中等教育学校開校に伴ってテキストは中等用に大幅な改訂が行われている。入学時には白衣・実験用ゴーグル購入が義務付けられており、実験時に着用する。カリキュラムでは「小石川教養主義」の下、地学・物理・生物・化学の全分野が必修となっており、中等5年次まで学ぶ。
選択科目制
母体校の小石川高校は昔から100講座にも及ぶ広範な選択科目を設置し、学生は興味に応じ演習科目や実験講座などを選ぶことができた。新設の中等教育学校では、選択科目制をさらに発展させ、中等1年次から英語や理数系を中心とした多様な講座を設置している。「生命科学基礎実習」などの実験に特化した講座や、「アジア論概説」や「整数の性質」といった教養主義的なものまで多種多様である。さらに、放課後には教諭により自主的に課外講座が実施されることもあり、大学教養レベルの高度な講義が行われている。
小石川セミナー
休日に行われる「小石川セミナー」では、母体校の卒業生のうち800名前後が現役大学教授であるため、最先端の研究内容を知ることができる。中等3年次と5年次には、各自研究テーマを決めて論文作成が行われる。
語学研修
満州朝鮮ヨーロッパカナダシベリアなど、数多くの海外渡航をした府立五中の初代校長伊藤長七は、真の国際的教養の必要性を主張し、当時としては画期的な英会話やレコード教材を使った授業など、戦前では珍しい外国語を重視した教育を行っていた。小石川高校時代、希望者はフランス語ドイツ語を学ぶことが可能で、オーストラリアアデレードへの海外語学研修も行われていた。中等教育学校でもその伝統は受け継がれており、今ではさらに拡充され、レベル別の中国語フランス語ドイツ語を本格的に学ぶことができる。複数のネイティブの教諭が常在しており、英文法やコミュニケーション力の一辺倒に偏らない総合的な語学力の習得を目指した教育が行われている。中等3年次ではオーストラリアアデレードへの海外語学研修が2週間にわたって実施されており、ホームステイをして現地校の授業を受けることができる。その準備段階として、中等2年次に国内語学研修が行われるほか、英語暗唱コンテスト、英語でのメール交換などが実施されている。また、中等5年次にもシンガポールへの海外修学旅行が実施される。
制服
前期課程では、府立五中時代の制服をイメージした、紺のブレザーとストライプのネクタイを着用する。後期課程では、生徒の自主性を尊重して、私服での登校が認められている。かつての小石川高校では制服の制度はなく、標準服とされるブレザーはあったが、多くの生徒は私服であった。
適性検査
入学者の決定において実施される適性検査は、他校と比較して問題量がかなり多く難易度も高めで、理数科目を極めて重視した問題となっている。私立中学校の入学試験と問題の傾向が似ている分野が多い。都立中高一貫校では適性検査Ⅰ・Ⅱ二科目課される場合が一般的であるが、小石川では三科目課される(Ⅰでは国語、Ⅱでは社会、Ⅲでは算数理科の学力を問われている)。難関私立中学校との併願先として人気が高く、都立中高一貫校の中では最難関であり、武蔵両国と共に「都立中御三家」と称されている。

行事[編集]

芸能祭・体育祭・創作展の三つが三大行事である。学生が行事に専念できるよう、伝統的に9月下旬に集中的に開催され、この時期は「行事週間」と呼ばれている。この期間中は通常授業が一切行われず、伊藤長七が打ち立てた「立志・開拓・創作」の校是の下、完全に生徒の自主性に任された行事運営がなされる(行事運営委員会が中央委員会、いわゆる生徒自治会で設置され、予算、運営、決算から全て生徒が行う)。

芸能祭 
府立五中開校当初から続く伝統行事。部活や各団体が舞台上でライブなどを行う。芸能祭実行委員会が設置され、最優秀団体には「芸能祭大賞」が贈られる。
体育祭 
運営は体育委員会。事前に予備大会が行われ、その得点が本大会での持ち点に加算される。
創作展 
各クラスがそれぞれ劇などを行う。後期生(高校生)は伝統的に演劇をする。運営は創作展実行委員会。前期生は展示部門も行うようになった。最優秀作品には「創作大賞(旧創作展大賞H22より)」が贈られる。
後夜祭 
近年行われ始めた行事。運営は生徒自治会。芸能祭大賞・創作展大賞など各部門の上位入賞グループ・クラスを表彰する。芸能祭大賞は再演も行う。芸能祭に出演していない団体の演奏がある。2007年度から前期生の参加も保護者同意の下可能になった。

生徒自治会[編集]

生徒総会
自主自立の観点と、生徒自治会を中心に生徒が全ての運営を行うことから、生徒は学校運営に関して盛んに発言をする。高校から中等教育学校に移行しても残り、前期生(中学生)も参加している。 また、目安箱のようなものも設置されており、生徒は無記名で投書することができる。

学校関係者と組織[編集]

関連団体[編集]

学校関係者一覧[編集]

交通[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 矢崎秀彦『寒水 伊藤長七伝』、鳥影社、2003年
  2. ^ 初代校長伊藤長七について 男女共教”. 紫友同窓会. 2016年10月24日閲覧。
  3. ^ 赤壁の家と法禅寺~夏期転地修養隊の主宿泊先~”. 按針亭. 2016年10月24日閲覧。
  4. ^ 初代校長伊藤長七について 世界を駆ける、伊藤長七”. 紫友同窓会. 2016年10月24日閲覧。
  5. ^ 平成22年度 東京都公立学校一覧”. 東京都教育委員会. 2016年10月24日閲覧。

外部リンク[編集]