前川和也

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前川 和也
名前
カタカナ マエカワ カズヤ
ラテン文字 MAEKAWA Kazuya
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1968-03-22) 1968年3月22日(55歳)
出身地 長崎県平戸市
身長 189cm[1]
体重 98kg[1]
選手情報
ポジション GK
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1986-1992 マツダSC
1986 マツダSC東洋
1992-1999 サンフレッチェ広島 128 (0)
2000 大分トリニータ(loan) 37 (0)
2001 大分トリニータ 38 (0)
代表歴2
1992-1996 日本の旗 日本 017 (0)
監督歴
2009-2011
2012-
サンフレッチェ常石Jr.ユース
FCバイエルン・ツネイシ
1. 国内リーグ戦に限る。2001年12月31日現在。
2. 1996年10月13日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

前川 和也(まえかわ かずや、1968年3月22日 - )は、長崎県平戸市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはゴールキーパー[2]。元日本代表

現在はFCバイエルン・ツネイシ監督を務める。

長男は前川黛也。父同様サッカー選手かつ、GKとしてプレーしている[3][4]

人物[編集]

現役時代は、大きな体格を活かしたセービングを得意とした。特に相手との1対1の場面でのセービングに定評があり、絶妙な飛び出しで何度もチームを危機から救った。シュートに対する反応はもとよりPKにも強く、またハイボールの処理も巧みにこなした。その様は「生きている壁」と形容された。 人柄もサポーターから愛され、広島退団時には涙を流すサポーターもいた。

来歴[編集]

プロ入り後[編集]

高校卒業後の1986年、島卓視横内昭展らと共にマツダSCへ入団。GKコーチであったディド・ハーフナーから指導を受け、徐々に頭角を現し正GKの座を掴む。1989年-1990年のJSLおよび1990年-1991年のJSLではJSL2部ベスト11に輝いている。

1992年にチームがJリーグサンフレッチェ広島として発足すると正GKとして活躍。しかし怪我が多く、長期欠場することも多かったため、控えGKである河野和正の出場試合も多かった。1994年のチャンピオンシップでは2試合とも欠場している。

クラブでは、1997年まで正GKの地位を守る。しかし1998年に古傷の肩の手術を決行したことで、出場機会を得た下田崇にレギュラーを奪われ、以降は控えに回る。2000年に大分トリニータへ出場機会を求めて移籍した。涙を流しながらの移籍発表会見は、現在も広島サポーターの語り草となっている[要出典]

大分では正GKとして活躍し、翌2001年に完全移籍[5]。同年引退した。

2002年より、大分トリニータの事業部にて営業や試合運営の補助、強化クラスなどに携わった。

2006年より、サンフレッチェ広島の提携スクールの一つであるサンフレッチェ常石サッカースクールのコーチに就任、またGKクリニックのコーチとしても活動している。

2009年から常石ジュニアユースの監督に就任。2012年、同ユースが提携先をバイエルン・ミュンヘンへと変更したことに伴い、FCバイエルン・ツネイシの監督となる。

またスカパー!のJリーグ中継の解説も務めている。

代表[編集]

1992年に日本代表に初選出され17試合に出場。1992年アジアカップでは、準決勝の中国戦で退場した松永成立に代わり急遽出場する。トンネルによる失点という失態を犯したが、決勝では安定したプレーを見せ日本代表の初優勝に貢献した。

1993年には「ドーハの悲劇」もベンチで経験した。

私生活[編集]

妻・志穂[6]との間に1994年、黛也が誕生した。黛也は後に前川と同じくGKとしてプロ入りし、2021年には日本代表にも選出されている。親子二代での日本代表入りは、Jリーグ発足後では初となる[4]

1995年に誕生した次男の天良も同じくGKであり、大分トリニータやサンフレッチェ広島のジュニアユースを経て、2023年まで東京都社会人サッカーリーグ1部のSHIBUYA CITY FCに所属していた[7]

2019年には初孫(黛也の長男)が誕生した。

略歴[編集]

ユース歴

選手歴

指導歴

  • 2002年 - 2005年 大分トリニータ スタッフ
  • 2006年 - 2011年 サンフレッチェ常石サッカースクール コーチ
    • 2009年 - 2011年 サンフレッチェ常石ジュニアユース 監督
  • 2012年 - FCバイエルン・ツネイシ監督

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1986 マツダSC東洋 - -
1986-87 マツダ 23 JSL1部 0 0
1987-88 0 0 0 0
1988-89 JSL2部 2 0 0 0
1989-90 1 30 0 2 0
1990-91 30 0 3 0
1991-92 JSL1部 20 0 2 0
1992 広島 - J - 2 0 0 0 2 0
1993 15 0 0 0 0 0 15 0
1994 27 0 0 0 0 0 27 0
1995 37 0 - 0 0 37 0
1996 25 0 14 0 5 0 44 0
1997 1 24 0 6 0 0 0 30 0
1998 0 0 0 0 0 0 0 0
1999 J1 0 0 2 0 0 0 2 0
2000 大分 J2 37 0 0 0 0 0 37 0
2001 38 0 2 0 2 0 42 0
通算 日本 J1 128 0 24 0 10 0 162 0
日本 J2 75 0 2 0 2 0 79 0
日本 JSL1部 20 0
日本 JSL2部 62 0
総通算

その他の公式戦

チームタイトル[編集]

クラブチーム

  • Jリーグ ステージ優勝 1回(1994年サントリーシリーズ)

日本代表

代表歴[編集]

試合数[編集]

  • 国際Aマッチ 17試合 0得点(1992年 - 1996年)


日本代表国際Aマッチ
出場得点
1992 3 0
1993 2 0
1994 2 0
1995 5 0
1996 5 0
通算 17 0

脚注[編集]

  1. ^ a b 『J.LEAGUE Official Fans' Guide 2001』p210
  2. ^ 【今日の誕生日】3月22日/日本サッカー栄光の瞬間の正GK――前川和也(元日本代表)”. サッカーダイジェスト (2016年3月22日). 2020年7月29日閲覧。
  3. ^ 神戸GK前川黛也が選出「成長」父子2代で代表入り”. nikkansports.com. 日刊スポーツ新聞社 (2021年3月18日). 2021年3月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月9日閲覧。
  4. ^ a b “Jリーグ発足後初、親子二代での日本代表入りの快挙!神戸のGK前川黛也「代表に行くからには…」”. 日本スポーツ企画出版社. (2021年3月18日). オリジナルの2021年3月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210318092650/https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=87984 2023年5月9日閲覧。 
  5. ^ 前川 和也選手の移籍について』(プレスリリース)サンフレッチェ広島、2000年12月21日。 オリジナルの2003年10月17日時点におけるアーカイブhttps://web.archive.org/web/20031017070502/http://www.sanfrecce.co.jp:80/new-hp/news/source/20001221a.html2017年10月26日閲覧 
  6. ^ 親子2代で代表GK 前川がコロナ禍で覚醒した契機 朝日新聞DIGITAL(2021年3月28日配信)
  7. ^ 前川天良選手 契約満了のお知らせ

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]