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前川和也

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
前川 和也
名前
カタカナ マエカワ カズヤ
ラテン文字 MAEKAWA Kazuya
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1968-03-22) 1968年3月22日(58歳)
出身地 長崎県平戸市
身長 189cm[1]
体重 98kg[1]
選手情報
ポジション GK
利き足 右足
ユース
1983-1985 日本の旗 平戸高校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1986-1999 日本の旗 マツダ/サンフレッチェ広島 210 (0)
1986 日本の旗 マツダSC東洋
2000 日本の旗 大分トリニータ(loan) 37 (0)
2001 日本の旗 大分トリニータ 38 (0)
通算 285 (0)
代表歴2
1992-1996 日本の旗 日本 17 (0)
監督歴
2009-2011 日本の旗 サンフレッチェ常石Jr.ユース
2012- 日本の旗 FCバイエルン・ツネイシ
1. 国内リーグ戦に限る。2001年12月31日現在。
2. 1996年10月13日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

前川 和也(まえかわ かずや、1968年3月22日 - )は、長崎県平戸市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはゴールキーパー[2]。元日本代表

現在はFCバイエルン・ツネイシ監督を務める。

長男は前川黛也。父同様サッカー選手かつ、GKとしてプレーしている[3][4]

人物

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現役時代は、大きな体格を活かしたセービングを得意とした。特に相手との1対1の場面でのセービングに定評があり、絶妙な飛び出しで何度もチームを危機から救った。シュートに対する反応はもとよりPKにも強く、またハイボールの処理も巧みにこなした。その様は「生きている壁」と形容された。 人柄もサポーターから愛され、広島退団時には涙を流すサポーターもいた。

経歴

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プロ入り後

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高校卒業後の1986年、島卓視横内昭展らと共にマツダSCへ入団。GKコーチであったディド・ハーフナーから指導を受け、徐々に頭角を現し正GKの座を掴む。1989年-1990年のJSLおよび1990年-1991年のJSLではJSL2部ベスト11に輝いている。

1992年にチームがJリーグサンフレッチェ広島として発足すると正GKとして活躍。しかし怪我が多く、長期欠場することも多かったため、その分は控えGKである河野和正が出場し、自身はサブとしてベンチ入りするか[5]、ベンチ入りを外れて事実上コーチ兼任の望月一頼[6]がサブを務めるかのいずれかとなっていた。1994年のチャンピオンシップでは2試合とも欠場している。

クラブでは、1997年まで正GKの地位を守る。しかし1998年に古傷の肩の手術を決行したことで、出場機会を得た下田崇にレギュラーを奪われ、以降は控えに回る。2000年に大分トリニータへ出場機会を求めて移籍した。涙を流しながらの移籍発表会見は、現在も広島サポーターの語り草となっている[要出典]

大分では正GKとして活躍し、翌2001年に完全移籍[7]。同年引退した。

2002年より、大分トリニータの事業部にて営業や試合運営の補助、強化クラスなどに携わった。

2006年より、サンフレッチェ広島の提携スクールの一つであるサンフレッチェ常石サッカースクールのコーチに就任、またGKクリニックのコーチとしても活動している。

2009年から常石ジュニアユースの監督に就任。2012年、同ユースが提携先をバイエルン・ミュンヘンへと変更したことに伴い、FCバイエルン・ツネイシの監督となる。

またスカパー!のJリーグ中継の解説も務めている。

代表

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1992年に日本代表に初選出され17試合に出場。1992年アジアカップでは、準決勝の中国戦で退場した松永成立に代わり急遽出場する。トンネルによる失点という失態を犯したが、決勝では安定したプレーを見せ日本代表の初優勝に貢献した。

1993年には「ドーハの悲劇」もベンチで経験した。

私生活

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妻・志穂[8]との間に1994年、黛也が誕生した。黛也は後に前川と同じくGKとしてプロ入りし、2021年には日本代表にも選出されている。親子二代での日本代表入りは、Jリーグ発足後では初となる[4]

1995年に誕生した次男の天良も同じくGKであり、大分トリニータやサンフレッチェ広島のジュニアユースを経て、2023年まで東京都社会人サッカーリーグ1部のSHIBUYA CITY FCに所属していた[9]

2019年には初孫(黛也の長男)が誕生した。

略歴

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ユース歴

選手歴

指導歴

  • 2002年 - 2005年 大分トリニータ スタッフ
  • 2006年 - 2011年 サンフレッチェ常石サッカースクール コーチ
    • 2009年 - 2011年 サンフレッチェ常石ジュニアユース 監督
  • 2012年 - FCバイエルン・ツネイシ監督

個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本リーグ戦JSL杯/ナビスコ杯天皇杯期間通算
1986マツダSC東洋--
1986-87マツダ23JSL1部00
1987-880000
1988-89JSL2部2000
1989-90130020
1990-9130030
1991-92JSL1部20020
1992広島-J-200020
19931500000150
19942700000270
1995370-00370
199625014050440
199712406000300
199800000000
1999J100200020
2000大分J23700000370
20013802020420
通算日本J1 12802401001620
日本J2 7502020790
日本JSL1部 200
日本JSL2部 620
総通算

その他の公式戦

チームタイトル

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クラブチーム

  • Jリーグ ステージ優勝 1回(1994年サントリーシリーズ)

日本代表

代表歴

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試合数

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  • 国際Aマッチ 17試合 0得点(1992年 - 1996年)
日本代表国際Aマッチ
出場得点
199230
199320
199420
199550
199650
通算 170

出場

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No.開催日開催都市スタジアム対戦相手結果監督大会
1.1992年06月07日日本の旗愛媛県愛媛県総合運動公園陸上競技場 ウェールズ●0-1ハンス・オフトキリンカップ
2.1992年11月06日日本の旗広島県広島県総合グランドメインスタジアム 中華人民共和国○3-2アジアカップ
3.1992年11月08日日本の旗広島県広島広域公園陸上競技場 サウジアラビア○1-0アジアカップ
4.1993年03月07日日本の旗福岡県東平尾公園博多の森陸上競技場 ハンガリー●0-1キリンカップ
5.1993年03月14日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 アメリカ合衆国○3-1キリンカップ
6.1994年05月22日日本の旗広島県広島広域公園陸上競技場 オーストラリア△1-1パウロ・ロベルト・ファルカンキリンカップ
7.1994年05月29日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 フランス●1-4キリンカップ
8.1995年05月21日日本の旗広島県広島広域公園陸上競技場 スコットランド△0-0加茂周キリンカップ
9.1995年05月28日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 エクアドル○3-0キリンカップ
10.1995年06月03日イングランドの旗ロンドン イングランド●1-2アンブロカップ
11.1995年09月20日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 パラグアイ●1-2デサント・アディダスマッチ
12.1995年10月24日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 サウジアラビア○2-1デサント・アディダスマッチ
13.1996年02月10日オーストラリアの旗ウォロンゴン オーストラリア○4-1国際親善試合
14.1996年02月14日オーストラリアの旗メルボルン オーストラリア●0-3国際親善試合
15.1996年02月22日香港の旗香港 スウェーデン△1-1(PK4-5)カールスバーグカップ
16.1996年08月25日日本の旗大阪府長居陸上競技場 ウルグアイ○5-3国際親善試合
17.1996年10月13日日本の旗愛知県神戸総合運動公園ユニバー記念競技場 チュニジア○1-0プーマカップ

脚注

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  1. 1 2 『J.LEAGUE Official Fans' Guide 2001』p210
  2. 【今日の誕生日】3月22日/日本サッカー栄光の瞬間の正GK――前川和也(元日本代表)”. サッカーダイジェスト (2016年3月22日). 2020年7月29日閲覧。
  3. 神戸GK前川黛也が選出「成長」父子2代で代表入り”. nikkansports.com. 日刊スポーツ新聞社 (2021年3月18日). 2021年3月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月9日閲覧。
  4. 1 2 “Jリーグ発足後初、親子二代での日本代表入りの快挙!神戸のGK前川黛也「代表に行くからには…」”. サッカーダイジェストWeb. 日本スポーツ企画出版社. 2021年3月18日. 2021年3月18日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2023年5月9日閲覧.
  5. 当時は変動背番号制のため、通常とは逆に河野が1番を、前川が16番を着用していた。
  6. Jリーグでは、選手のコーチ・監督兼任登録がが認められていないため、登録上は選手専任だったが、コーチとしての指導は行っていた。。
  7. 前川 和也選手の移籍について』(プレスリリース)サンフレッチェ広島、2000年12月21日。オリジナルの2003年10月17日時点におけるアーカイブ2017年10月26日閲覧
  8. 親子2代で代表GK 前川がコロナ禍で覚醒した契機 朝日新聞DIGITAL(2021年3月28日配信)
  9. 前川天良選手 契約満了のお知らせ

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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