礒貝洋光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
礒貝 洋光 Football pictogram.svg
名前
カタカナ イソガイ ヒロミツ
ラテン文字 ISOGAI Hiromitsu
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1969-04-19) 1969年4月19日(48歳)
出身地 熊本県
身長 176cm
選手情報
ポジション MF
利き足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1992-1996 ガンバ大阪 125 (26)
1997-1998 浦和レッドダイヤモンズ 10 (3)
代表歴
1995[1] 日本の旗 日本 2 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

礒貝 洋光(いそがい ひろみつ、1969年4月19日 - )は、熊本県下益城郡小川町(現宇城市)出身の日本の元サッカー選手。現プロゴルファー。姓は磯貝と表記される場合もある。

来歴[編集]

小学校時代に全日本少年サッカー大会に出場すると「天才」サッカー少年として脚光を浴びた。中学時代はU-17日本代表のエースストライカー。 1985年に高校サッカーの名門帝京高校に入学すると1年生から10番を背負った。1986年にはU-20日本代表としてFIFAワールドユースアジア予選に出場した。

1988年に東海大学に入学すると澤登正朗と共に1年時からレギュラーとして全日本大学サッカー選手権大会を始め多くのタイトルを獲得した。また1991年に日本代表に選出され、4月のスパルタク・モスクワ戦と5月のバスコ・ダ・ガマ戦でプレーしている(在学中はAマッチ出場は無し)。Jリーグ開幕前年の1992年に東海大学を中退して、ガンバ大阪に入団。自身への挑戦のため、あえて馴染みのない関西のクラブに入団したとの事である。

その後は永島昭浩本並健治らと共に、Jリーグ初期のガンバ大阪を盛り上げた。常に主力として活躍し、キャプテンを担った事もあった。1995年日本代表としてインターコンチネンタル選手権で念願のAマッチデビューを果たすがこれが最後の代表出場となった[1]1997年浦和レッドダイヤモンズに移籍したが翌1998年に29歳で現役を引退した。Jリーグ通算成績は135試合出場29得点。

現在のところ日本プロゴルフ協会の会員一覧に掲載されていないが、プロゴルファーとして日本のトップを目指すと公言している[2]

2007年1月に行われた学生時代からのライバル・澤登の引退試合に招待され参加した。

サッカー選手として[編集]

典型的な天才肌タイプの選手であり、クラシックなゲームメーカー。運動量が少なくプレーのムラも多かったが、非凡なるパスセンスを持ち、両足共に高い精度を誇っていた。しかしプロ入り後天皇杯で大怪我をしてプレイのクオリティを下げる結果になってしまった。 ガンバ大阪時代には攻撃的MFとしてプレーしていたが、高校や大学時代にはFWとして、また浦和レッドダイヤモンズ時代には展開力を買われてボランチでプレーした経験も持つ。フリーキックは精度が高く、1試合に右足・左足で一点ずつ決めた事があるという話がファンの間でよくされているが、いつの試合か又は公式戦かなど具体的な時期や試合は示されていない。また、田中陽子が2012 U-20女子ワールドカップスイス戦で、左右の足で一点ずつ決めた際には、元ガンバ大阪の永島昭浩はフジテレビスーパーニュースで、Jリーグでもこれを決めた選手はいない旨を述べている。そのため、事実ならプロ以前の事かと思われる。

人物・エピソード[編集]

  • 日本サッカー界における「未完の大器」や「早熟の天才」として名を挙げる者が多い。「生まれるのが10年早ければ木村和司ワールドカップメキシコ大会を狙えた」、「10年遅ければゴールデンエイジとして海外で活躍していた」などと仮定で語られることの多い選手でもある。それだけの期待を抱かせる選手であった。
  • Jリーグ開幕の1993年シーズンに、シジマールの持っていた731分連続無失点記録を予告ゴールで破った。
  • 帝京の後輩である松波正信は先輩の礒貝に憧れ、「パスを受けたい」との理由で数ある入団先からガンバ大阪を選んだ。また帝京の同期である森山泰行は礒貝と「もう一度コンビを組みたい」との理由で当時在籍していた名古屋グランパスから移籍志願した。
  • 東海大の同期でもありライバルでもある澤登正朗は礒貝について、「一言で言うと天才。冗談抜きで中田英寿とか小野伸二以上のモノを持っていた」と評している。
  • 同じ九州出身で学生時代に対戦経験のある永井秀樹は、「マラドーナがどんなに天才だったと言っても、少年時代の礒貝さんにはかなわない」と語っている。
  • 日本代表時代のラモス瑠偉は「オレの後、日の丸の背番号10を背負うのは彼(礒貝)だと思う」と語っていた。だが1995年以降、礒貝は代表に呼ばれることはなく、ラモスも前言を撤回し「ノボリ(澤登)が10番に相応しい」と、自身の後継者に礒貝の親友である澤登を指名したが、実際は、ダークホースの岩本輝雄が10番を背負った。
  • 1987年度の全国高校サッカー選手権準々決勝で澤登正朗率いる東海大一高と対戦。PK戦にもつれた試合の最後のキッカーとなりこれを外している。
  • 東海大在籍時の1991年に休学し、スペインへ半年間留学をしている。本人は「契約の問題で試合出場はできなかったが、チームの中で俺よりうまいヤツはいなかった」と後に語っている。
  • 2009年8月、TV番組(朝日放送「探偵!ナイトスクープ」)内において、再びサッカーボールを蹴る姿が放映された。きっかけは、熊本に住む磯貝の親戚から送られた、「彼がかつてスタープレイヤーであったことを全く信じてくれず『ただの冴えないおじさん』としか思っていない小学生の息子2人に、磯貝が凄い選手だったことを教えたい」という依頼だった。ミニゲームを行うにあたっては、関西大学サッカー部が協力した。
  • トヨタカップで来日したACミランが日本代表と練習試合をした際、若ければ連れて帰りたいと思い、フランコ・バレージが礒貝の年齢を尋ねた。
  • 2016年11月28日、テレビ東京の深夜番組「あの天才のその後・・・今を追跡してみました」にて、現在は体重が110kg、友人宅の一部屋を間借りしてスポーツ医学のアドバイザーをしながら高校時代の同級生が棟梁をする建築現場にて大工の手伝いをしている事が取り上げられた。

所属クラブ[編集]

ユース経歴

プロ経歴

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 リーグ杯 天皇杯 期間通算
1992 G大阪 - J - 8 0 3 0 11 0
1993 28 6 4 0 2 0 34 6
1994 40 6 3 0 4 0 47 6
1995 37 13 - 4 4 41 17
1996 20 1 9 2 4 2 33 5
1997 浦和 14 10 3 0 0 1 0 11 3
1998 0 0 0 0 - 0 0
通算 日本 J1 135 29 24 2 18 6 177 37
総通算 135 29 24 2 18 6 177 37

代表歴[編集]

試合数[編集]

  • 国際Aマッチ 2試合 0得点(1995)[1]


日本代表 国際Aマッチ
出場 得点
1995 2 0
通算 2 0

音楽作品[編集]

  • 「ビバ!ガンビーノ」(マーキー&ガンビーノ with 礒貝洋光)
1994年発売。ガンバ大阪オフィシャルサポーターズソング。公称3万枚を売り上げた[3]
FM802OSAKAN HOT 100では最高位23位[4]、100位以内に18週ランクインし続けた。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c “礒貝 洋光”. サッカー日本代表データベース. http://www.japannationalfootballteam.com/players_a/hiromitsu_isogai.html 
  2. ^ webサッカーマガジン「輝く!セカンドライフ」 2007年5月15日
  3. ^ 森綾『読むFM802』(ISBN 4822740137)、日経BP出版センター、1994年、240頁。
  4. ^ 森綾、前掲書239-240頁。

関連サイト[編集]