野村忠宏

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野村 忠宏
基本情報
ラテン文字 Tadahiro Nomura
日本の旗 日本
出生地 奈良県北葛城郡
生年月日 1974年12月10日(40歳)
身長 164cm
選手情報
階級 男子60kg級
段位 7段
 
獲得メダル
男子柔道
オリンピック
1996 アトランタ 60kg級
2000 シドニー 60kg級
2004 アテネ 60kg級
世界柔道選手権
1997 パリ 60kg級
2003 大阪 60kg級
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野村 忠宏(のむら ただひろ、1974年12月10日 - )は、奈良県北葛城郡広陵町生まれの男性柔道家。医学博士天理高校 - 天理大学 - 奈良教育大学大学院-弘前大学大学院医学研究科博士課程)修了。ミキハウス所属。柔道七段。得意技は背負投。身長164cm、体重62kg。

人物[編集]

祖父は地元・奈良で道場「豊徳館野村道場」を開く柔道師範野村彦忠、父はロサンゼルスオリンピック金メダリストの細川伸二ら名選手を育てた元天理高校柔道部監督野村基次、叔父はミュンヘンオリンピック金メダリストの野村豊和、兄の野村忠寿も豊徳館野村道場のコーチ[1]という柔道一家。

小柄な体から繰り出される多彩な技や、抜群の切れ、スピード、天性の守りのカンが天才的と称される。コーラが大好き。相手を事前に研究しないことや、試合前後の誰も寄せつけない集中ぶりから天才肌だと言われている。その他、小柄さから「小さな巨人」、得意技が背負投であることから「平成の三四郎」との異名もある。

男子柔道60kg以下級の選手として、アトランタオリンピックで優勝。シドニーオリンピックにて柔道軽量級で初の2連覇。アテネオリンピックにおいて柔道史上初、全競技通してはアジア人初となる3連覇を達成。さらに夏のオリンピックでの金メダルは日本人通算100個目というメモリアルになった。

アテネオリンピックでの金メダル獲得後は、近代オリンピック史上2人しかいない個人種目4連覇[2]を視野に、北京オリンピックへの出場を目指した。しかし、2007年講道館杯で6度目の優勝を果たした直後の練習中に右膝前十字靭帯を断裂[3]。手術を回避したまま日本国内での代表選考会へ臨んだものの、2008年4月の全日本選抜体重別選手権準決勝で浅野大輔に敗れたため、代表に選ばれなかった[4]。なお、この敗戦の直後には、右膝前十字靭帯の再建手術を受けている[3]

2012年には、講道館杯の2回戦敗退によってロンドンオリンピックへの出場を逃したため、日本テレビ系列での同オリンピック中継に「アスリートコメンテーター」として出演。現役アスリートとしての視点で、柔道を初めとする競技種目の取材を経験した[5]

2013年11月に右肩、2014年10月に左膝を相次いで手術[6]したが、2015年の全日本実業柔道個人選手権大会での復帰を視野に現役生活を続行[7]。2015年には、4月30日付で七段へ昇段した。柔道界では異例の若さ(40歳)での昇段[8][9]で、講道館によれば、「国際大会に出場するような一級の柔道選手が七段に昇級することは非常に珍しい」という[9]

しかし、2015年8月24日に現役引退を表明。地元の関西(ベイコム総合体育館)で同月29日に開かれる前述の全日本実業柔道個人選手権大会が「引退試合」になることも発表した[10]。自身2年振りの実戦になった同大会では、1・2回戦でそれぞれ一本勝ちを収めたものの、3回戦で椿龍憧(ALSOK新潟所属のシード選手)に一本負け[11]。同月31日に大阪で開いた引退記者会見では、引退の理由に「(前述の手術を受けた両膝と右肩の状態の悪化による)体の限界」を挙げたうえで、今後の抱負として「自分が主役じゃなくて、若い選手たちを主役に引き上げる仕事をしていきたい。オリンピックにも、何らかの形で関われたら嬉しい」と述べた[12]。ちなみに、天理大学卒業後の1999年から所属しているミキハウス[3]では、野村の現役引退後も本人の要望に応じて活動を支援する姿勢を示している[13]

年譜[編集]

エピソード[編集]

  • オリンピックで金メダルを3度獲得しているが、3度とも翌日の有名スポーツ新聞の1面に載らず、谷亮子(田村亮子)が全て1面を飾っている。これはオリンピックで野村の男子60kg級と谷の女子48kg級が同じ日に行われるため、マスコミの注目度の高い谷の試合結果が優先的に記事にされてしまうからである[15]。野村曰く、アトランタオリンピックを取材したスポーツ新聞の記事に『田村亮子、まさかの銀メダル! 野村忠宏、まさかの金メダル』と書かれた、と自虐的に語っている。[16]。ただし、実際には谷と仲が良く、自身の引退会見では「(谷は)特別な存在。自分と同じ日の試合で、国民すべてのプレッシャーが一身に掛かっていた彼女はすごかったと思う。3大会とも(自分が谷と)同じ日に試合ができて良かった」と述べていた[17]
  • 「練習漬け」になりがちな日本のスポーツ界では珍しく、アトランタオリンピックで優勝した直後から、右膝前十字靭帯の損傷で現役続行が危ぶまれるまでは意識的に休養期間を設定(詳細前述)。(夏季オリンピックが開催される)4年ごとにピークを作るべく、稽古(練習)から離れて心身を休めた後に、競技生活へ復帰するというサイクルを繰り返した。ただし、怪我が相次いでからは、「もう一度思い切り柔道をしたい」との一心で怪我と向き合いながら競技生活を続けた[18]
  • 北島康介大畑大介太田雄貴や、自身と同じミキハウスに所属する寺内健など、柔道以外の競技でのトップアスリートとも親しく交流[19][20]。競技の枠を超えたネットワークの中心人物として、世界で戦う悩みや情報を共有することによって、後輩のアスリートを精神面で支えていた[18]。ちなみに、野村の引退試合になった2015年の全日本実業柔道個人選手権大会には、以上の4名が会場の客席から観戦[19][20]。野村の3回戦敗退が決まった直後には、「(野村にとって谷のように)特別な存在」という北島が野村へ直々に花束を渡したところ、野村が思わず号泣するという一幕もあった[21]
  • 北京オリンピックへの出場を逃した頃までは、「『天才』と思われている才能で勝っても、努力で積み上げた末に勝っても一緒」[22]「練習が好きでなくても、練習時間が他の選手に比べて短くても、誰よりも強くなるための努力を積んでいる」[23]などというニュアンスで、「(柔道の)天才」を自称することがあった。引退記者会見では、この経緯を踏まえた「改めて(伺いますが、今でも)『天才』ですか?」という質問に対して、「長い人生を振り返った時に、弱かった時代の方が長かった。もしかしたら才能はあったかも知れないが、開花するまでの長い時間を諦めなかった信じる力や、思いを伴った努力は本物だと思う。信じられたからこそ、今がある」と答えている[21]

戦績[編集]

  • 1992年 - 全日本ジュニア2位
  • 1994年 - フランスジュニア国際優勝
  • 1994年 - 全日本学生体重別選手権優勝
  • 1994年 - 世界ジュニア2位
  • 1995年 - ドイツ国際優勝
  • 1995年 - 講道館杯全日本柔道体重別選手権大会3位
  • 1996年 - ハンガリー国際3位
  • 1996年 - チェコ国際優勝
  • 1996年 - 全日本選抜柔道体重別選手権優勝
  • 1996年 - アトランタオリンピック優勝
    決勝:vsジォビナッツォ(背負投4分33秒)
    準決勝:vsナルマンダ(内股3分6秒)
    4回戦:vsメリジャ(背負投4分21秒)
    3回戦:vsオジョギン(優勢)
    2回戦:vsギチエレス(大外刈38秒)
  • 1996年 - 嘉納治五郎杯優勝
  • 1997年 - ロシア国際優勝
  • 1997年 - 全日本選抜柔道体重別選手権優勝
  • 1997年 - パリ世界柔道選手権優勝
    決勝:vsレワジシビリ(背負投
    準決勝:vsテーマン(背負投)
    4回戦:vsドマ(優勢)
    3回戦:vsソルタノフ(内股
    2回戦:vsポウロ(背負投)
  • 1998年 - 全日本選抜柔道体重別選手権2位、嘉納治五郎杯3位
  • 1998年 - ワールドカップ団体戦優勝
  • 1999年 - 講道館杯優勝
  • 2000年 - フランス国際柔道大会優勝
  • 2000年 - 全日本選抜柔道体重別選手権優勝
  • 2000年 - シドニーオリンピック優勝
    決勝:vs鄭富競隅落14秒)
    準決勝:vsポウロ(優勢)
    4回戦:vsマツゼフ(大外刈31秒)
    3回戦:vsグレコウスキー(肩車2分15秒)
    2回戦:vs賣運兵(一本背負投1分38秒)
    「全部違う技で勝つ」と宣言し、実行した。
  • 2002年 - 講道館杯5位
  • 2003年 - ポーランド国際5位
  • 2003年 - 全日本選抜柔道体重別選手権優勝
  • 2003年 - 大阪世界柔道選手権3位
  • 2004年 - フランス国際柔道大会優勝
  • 2004年 - 全日本選抜柔道体重別選手権優勝
  • 2004年 - アテネオリンピック優勝
    決勝:vsヘルギアニ(優勢)
    準決勝:vsツァガンバータル(大内刈23秒)
    4回戦:vsアルバルシン(内股すかし14秒)
    3回戦:vsグッセンベルク(背負投53秒)
    2回戦:vsララ(背負投2分46秒)
  • 2006年 - チェコ国際優勝
  • 2007年 - ドイツ国際3位
  • 2007年 - 全日本選抜柔道体重別選手権優勝
  • 2008年 - ドイツ国際2位
  • 2010年 - ワールドカップ ウランバートル2位

著書[編集]

脚注[編集]

  1. ^ http://www.judo-ch.jp/team/dojo/002/
  2. ^ 円盤投げアル・オーターと、走幅跳カール・ルイスのみ(いずれもアメリカ合衆国)。
  3. ^ a b c 野村忠宏オフィシャルサイト内のプロフィールを参照
  4. ^ 野村と同じ男子60kg以級の代表には、平岡拓晃を選出。
  5. ^ 日本テレビ『ロンドンオリンピック2012』出演者紹介
  6. ^ 野村忠宏が左膝手術、半年後に稽古復帰日刊スポーツ 2015年9月1日閲覧
  7. ^ 野村忠宏「意地と覚悟を」夏復帰に意欲日刊スポーツ 2015年9月1日閲覧
  8. ^ 野村忠宏が7段「精進します」40歳異例の若さ日刊スポーツ 2015年9月1日閲覧
  9. ^ a b c 柔道・野村忠宏 現役選手異例の七段に昇格「今後とも精進」 スポーツニッポン 2015年6月22日閲覧
  10. ^ 柔道五輪3連覇 野村忠宏が現役引退を発表スポーツニッポン 2015年9月1日閲覧
  11. ^ 野村、最後は一本負け「豪快に勝ち、豪快に負けた日刊スポーツニッポン 2015年9月1日閲覧
  12. ^ a b 引退した野村さん「やれることは精いっぱいやった。後悔ない」 指導の道へ/柔道サンケイスポーツ(共同通信配信記事) 2015年9月1日閲覧
  13. ^ 引退野村 指導者で世界進出を…北米&欧州からオファー殺到 スポーツニッポン 2015年9月1日閲覧
  14. ^ これは後々まで野村の苦労話のネタとなっている。
  15. ^ つまり谷は金メダルを逃しても先んじて記事にされてしまうということである。
  16. ^ テレビ番組『さんまのまんま』での発言より。
  17. ^ 【柔道野村引退会見】(3)「柔ちゃんと仲いいですよ(笑)」「柔道こそが人生」産経west 2015年9月1日閲覧
  18. ^ a b 意識的に休養、スポーツ界に新風 引退発表の柔道・野村朝日新聞 2015年9月1日閲覧
  19. ^ a b 「男・野村」を見た…北島康介が涙の抱擁、大畑ら親交あるアスリート続々産経WEST 2015年9月1日閲覧
  20. ^ a b 野村 引退試合で完全燃焼「体の限界…ここまでよくやった」スポーツニッポン 2015年9月1日閲覧
  21. ^ a b 【柔道野村引退会見・動画】(5)最後の柔道を見てくれた北島康介に「花束渡され、どうしても泣いちゃいましたね」産経west 2015年9月1日閲覧
  22. ^ MBSテレビ『情熱大陸』2008年4月20日放送分「野村忠宏」
  23. ^ 『NEYYORKER MAGAZINE』TRADITIONAL STYLE VOL.29 INTERVIEW with 野村忠宏(柔道家)

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

前優勝者
堤時貞
第5回講道館杯全日本柔道体重別選手権大会60kg級優勝

1999年

次優勝者
徳野和彦
前優勝者
園田隆二
第29回全日本選抜柔道体重別選手権60kg級優勝

1996年

次優勝者
野村忠宏
前優勝者
野村忠宏
第30回全日本選抜柔道体重別選手権60kg級優勝

1997年

次優勝者
徳野和彦
前優勝者
徳野和彦
第33回全日本選抜柔道体重別選手権60kg級優勝

2000年

次優勝者
徳野和彦
前優勝者
内柴正人
第36回全日本選抜柔道体重別選手権60kg級優勝

2003年

次優勝者
野村忠宏
前優勝者
野村忠宏
第37回全日本選抜柔道体重別選手権60kg級優勝

2004年

次優勝者
江種辰明
前優勝者
ニコライ・オギョギン
第20回世界柔道選手権男子60kg級優勝

1997年10月12日

次優勝者
プロ・マヌエロ