JDスター女子プロレス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

JDスター女子プロレス(ジェー・ディー・スター・じょしプロレス)は、日本女子プロレス団体。以前の団体名は吉本女子プロレスJd’(よしもとじょしプロレス・ジェー・ディー)。

団体名の由来[編集]

ジャンヌ・ダルクの頭文字の「J」と「D」からとられている。

歴史[編集]

旗揚げまでの経緯[編集]

吉本興業中国進出を計画した際に言葉の壁から今までの芸人による興行形態では進出は難しいと判断して言葉を必要としないスポーツからアピールすることを思い付き、当時ブームが沸き起こっていた女子プロレスに目を付けてプロレス団体の設立を計画。有限会社として設立に際しては吉本興業のほかテレテックバンプレスト旭通信社が協力[1]。代表には卯木基雄(元ラジオ大阪社員)が就任。 他団体との軋轢を回避するためにあえて引き抜き等の手段を使わず、当時、全日本女子プロレスにフリーとして参戦していたジャガー横田バイソン木村を全女の了解を得た上で移籍させて全女を退団、引退していた白鳥智香子李由紀を加えた4名を所属選手として契約。また同じく全女に参戦していたライオネス飛鳥をフリーとして招聘。さらに全女を引退していた神谷美織が覆面レスラーCooga」としてカムバックして後の選手は新人から育成することで陣容を整える。

旗揚げ[編集]

1995年12月24日と25日、大阪府大阪市ベイサイドジェニーでプレ旗揚げ戦を開催。ゲストに西川きよしを来場させてマスコミに対してアピールを行い、また旗揚げ前の様子を特番としてテレビ放送するなど大掛かりな展開を図っている。

1996年4月14日ヴェルファーレで旗揚げ戦を開催。メインイベントに週刊プロレス提供試合としてバイソン木村豊田真奈美戦を行う(これに関しては、この試合をきっかけに週プロと組み色々と行う企画があったが諸事情によりうやむやとなり、これ1回のみで終了してしまう)。旗揚げ当初は覆面コミッショナーとして桂三枝(現:桂文枝)を起用。

その後、新人もデビューしてライオネスのヒール転向による抗争等もあり徐々に団体としての形もできてくるが基本的にジャガーがコーチをしていたこともあり育成方法が全女と被る部分もあり、どうしても地味な印象が拭えず又プロレスに関しては経営経験の無かった吉本が全女をモデルに興行を開催したためプロレスファンから「全女の2軍」的な目で見られてしまう。さらにエースとして期待したバイソンが引退、白鳥と李も自分達への扱いの不満から団体を離脱。さらに将来のエースとして期待していた小杉夕子曽我部美幸が引退するといった事態が発生して、これらのこともあり吉本が期待していた収益を上げることが出来ずに苦しい運営を続けることになる。

アストレスの誕生[編集]

この苦しい状況を打破するために「新世紀スター誕生 アクション・シンデレラ・オーディション」を開催。オーディションに合格した際には2年間限定でプロレスを行い、その後、アクション女優として吉本がバックアップすると言う企画で、これが後のアストレスアスリートアクトレスを合わせた造語)となる(ただしデビューして2年以上経過した現在でもプロレスを続けている選手もおりアクション女優として大成したレスラーもいないため「アクション女優の育成」と言うテーマは成功したとは言い難いが、それまでのレスラー像と違う女子プロレス像を作ろうとしたことは一部では評価されている)。

Jd’からJDスターへ[編集]

苦しい経営が続く中、大手商社による資金面によるテコ入れ等もあったものの女子プロレスブームも終焉を迎えていたこともあり2003年3月に吉本が資本撤退して経営権をジェイオフィス・グループに譲渡して4月に団体名をJDスター女子プロレスに改称して吉本はプロレス経営から退くことになる。

終焉[編集]

経営者は変わったものの経営は苦しいことに変わりなく2004年4月29日、後楽園ホールの全試合後に団体としての活動停止とアストレスを中心とするプロモーションへの移行を発表。これによりザ・ブラディーファング鈴木らはユニット「Team OK」を結成してJDスターから離れた。他団体の選手やフリーの選手を招き「格闘美」のタイトルで興行を開催したが当面のエースと目されていたアストレス2期生の東城えみが5月に退団。9月に元所属選手を中心に実力派フリー選手に主眼を置いた「EXPERT」というタイトルの興行を開始して格闘美と交互に興行したが事実上失敗して格闘美に集約された。

2005年9月23日、エースの桜花由美新木場1stRINGが開催した「息吹」において重傷を負った。9月に元メジャー女子プロレスAtoZ所属選手と高橋奈苗が率いる「ドリームキャッチャー」が所属するKOプロダクションと業務提携を結ぶのの、わずか4か月で業務提携は解消。桜花は早期復帰を目指し手術を部分的に回避していたが、これがかえって災いし本格復帰はJDスターの活動休止後まで時間を要した。2006年に第1回「LEAGUE PRINCESS」を開催して風香が優勝したが2007年5月20日に解散を発表。

7月16日後楽園ホールで最終興行を開催して解散。解散時の運営はジェイディ・スター。

吉本のバックアップにより旗揚げ前からのテレビ番組での番宣や所属選手達の番組出演など他団体に比べ恵まれた環境にあったが団体を支えるべきスター選手が誕生しなかったこととスタート時に全女を参考に団体運営を行ったため地味な印象を与えたまま最後までそれを払拭できなかったことが災いして、たとえ大手の芸能プロダクションがバックアップしても、それが成功するとは限らないと言う前例を作ってしまったことが悲劇とも言える。

LSDルール[編集]

  • Jd'より発祥した独自の試合ルール。LSDはロング・ストロング・ディスタンス(Long Strong Distance)の略。2000年ライオネス飛鳥が発案してタイトルマッチなどで採用された。
  • 試合時間は行われた年に連動して秒数を決めて2000年なら2000秒のLSD2000とした。
  • ルールはいわゆるアイアンマン・マッチとほぼ同じ。時間内にフォール、ギブアップを多く取った方が勝利となる。
  • なお3人以上のシングルマッチはルールが変わり、最初にフォールを取った選手を暫定勝者としてフォールの度にその暫定勝者が変わって時間切れを迎えた時点で勝者としていた。

タイトル[編集]

キャリア3年以内の選手が対象。当初の王座名はJd'ジュニア王座だったが団体名の変更とともに王座名はJDスタージュニア王座に変更されてほどなく封印。
リーグ戦

最終所属選手[編集]

途中退団した選手[編集]

TSUNAMI

試合中継[編集]

GAORAプロレスKING」枠で放送していた。加えて以下の放送局でのレギュラー番組も放送されていた。

その他[編集]

  • Jd’時代に「お笑い王者決定戦」と云うタイトルでリングで芸人同士のトークバトルを行う。坂田利夫をコミッショナーとしてリットン調査団雨上がり決死隊が参加。「お笑い王者決定戦」は評判が良くなかったため2回で終了しているが2回目にはモリマンが参加している。
  • Jd’時代のリングアナウンサーを高杉二郎が行っていた。
  • Jd’時代に行われたイベントで当時まだ無名に近かった極楽とんぼの2人が司会を行っている。
  • 元所属選手の東城えみ(元バンビプロモーション所属)がドレイク森松とのシングルマッチで「負けたらアダルトビデオ出演」という条件の試合で敗北して試合後そのまま撮影が行われた。会場(新木場1stRING)や撮影会社を巻き込んだスキャンダルとなったが結局DVDは発売された。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ ロッシー小川「女子プロレス崩壊危機一髪」ぶんか社、1997年12月、p101-102。