マイケル・ジャクソン

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マイケル・ジャクソン
Michael Jackson
1988年、Bad World Tour にて
基本情報
出生名 マイケル・ジョセフ・ジャクソン
Michael Joseph Jackson
別名 ジョー・ジャクソン
Joe Jackson
出生 1958年8月29日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国インディアナ州ゲーリー
死没 2009年6月25日(満50歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス
ジャンル ポップ
R&B
ソウル
ニュージャックスウィング
ファンク
ロック
ダンスポップ
モータウン・サウンド
ディスコ
クラブ
職業 シンガーソングライター
ミュージシャン
ダンサー
作詞家
作曲家
編曲家
音楽プロデューサー
俳優
振付師
MC
DJ
担当楽器 ボーカル
ギター
シンセサイザー
ピアノ
キーボード
ベース
ドラムス
ラップ
ヒューマンビートボックス
活動期間 1967年2009年
レーベル モータウン
エピック・レコード
ソニー・レコード
マイケル・ジャクソン・カンパニー
共同作業者 ジャクソン5
公式サイト MichaelJackson.com

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マイケル・ジョセフ・ジャクソン(Michael Joseph Jackson、1958年8月29日 - 2009年6月25日)は、アメリカ合衆国シンガーソングライターダンサー音楽家作詞家作曲家編曲家実業家慈善活動家音楽プロデューサー

ポップ・ロック・ソウルの真の王者the true king of pop rock and soul)」、または「ポップ界の王King of Pop)」と称される。ギネス・ワールド・レコーズでは「人類史上最も成功したエンターテイナー」として認定されている。

VH1が選ぶ最も偉大な100のアーティストで、ビートルズボブ・ディランに次ぐ3位[1]

ローリング・ストーンが選ぶ最も偉大なシンガー100人では25位[2]

ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティストでは第35位。

Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第51位[3]

目次

来歴[編集]

1958 - 1970[編集]

10人兄弟姉妹の7番目(六男)として、インディアナ州ゲーリーアフリカ系アメリカ人街に生まれる(すぐ上の兄マーロンの双子の兄弟は、誕生後すぐに死亡した)。ゲーリーは、住民の8割以上をアフリカ系アメリカ人が占める、全米で最もアフリカ系アメリカ人の率が高い都市であり、また黒人達にとっては最初の黒人市長が1967年に出た、誇りの土地でもある。

父のジョセフ・ジャクソンは、USスチール社の製鉄所の貧しいクレーン操縦士であった。母キャサリン・ジャクソンエホバの証人の信者で、マイケル自身も同様であった。その活動の一環である家庭訪問は「Thriller」発売後も行っていた[4][5]。父親は厳しく、しばしば息子に手を上げた。財政的に厳しく、キャサリンは「シアーズ」などの小売店でパートタイムとして働くことで、家計を何とか補おうとしていた。

父は「ファルコンズ」というR&Bバンドでギタリストをしていた過去を持ち、アーティストの道を諦めてからも当時のギターを大事にしまっていた。1957年に白黒テレビが壊れてしまった後は、演奏を披露することもしばしばあった。

ところがある時、愛蔵のギターを息子達が隠れて演奏していると、弦を1本切ってしまう。勝手に切れたと思ってほしいという願いもむなしく、ジョセフに問われ、「殺される」と恐れたが、意外にも冷静に「演奏して見せろ」と言われ、ティト達が必死になって演奏すると、ジョセフはなかなかうまいことに気がついた。「これはひょっとすると貧困から抜け出す手立てになるかもしれない」と思った父は、息子達に歌とダンスの訓練を授けようと決意。ジャッキーティトジャーメインと従兄弟とされていた2人(実は他人)で、1962年にボーカルグループを結成した。

翌年、マイケルは兄マーロンと共に2人の「従兄弟」と入れ替わりにグループに入る。マイケルは幼稚園時代から歌を歌っており、1962年には幼稚園で映画「サウンド・オブ・ミュージック」のエンディング曲「全ての山に登れ」を歌っていた。マイケルは当時5歳であったが、父の厳しい特訓を受け、兄弟バンド「Ripples & Waves Plus Michael(のち「the Jackson Brothers」と改名)」の一員として頭角を現した。

初めてナイトクラブで働いた時の収入はわずか8ドルであり、ほぼ無名の状態であったが、翌年くらいになるとタレントショーやスーパーマーケットのオープン記念に出演することで、地道にではあるが徐々に名前が知られるようになっていった。

1965年には、地元ゲイリーのルーズベルト高校で行われたタレントコンテストで、テンプテーションズの「マイ・ガール」を演奏し、優勝した。

ジャクソン5時代(中央、1971年

1966年に、4人の兄達と「ジャクソン5」(ジャクソンファイブ)を結成。ゲーリーのナイトクラブ、ミスターラッキーでデビューする。1967年にはニューヨークのアポロ劇場にも進出し、大々的なタレントコンテストで優勝した。これにより、ジャクソン5はシカゴのリーガルなどの名門劇場に出演できるまで成長する。当時は、まだまだ駆け出しであったため、前座の出演であった。この過程で、ジェームス・ブラウンジャッキー・ウィルソンサム&デイヴなど、様々なスターのパフォーマンスを勉強した。

地元では、インディーズの「スティールタウン・レコード」からシングルを何枚か出しており、1968年1月には「ビッグ・ボーイ」でデビューしている。

当初、ジャクソン5をインディアナ州で発掘したのは、聞こえがよかったのでダイアナ・ロスということになっていたが、実は、ボビー・テイラーがコンテストに優勝した彼らと競演した際に発掘、その後モータウンに紹介した。モータウンの創始者ベリー・ゴーディは、ロスでジャクソン5のオーディションビデオを見たとき、荒削りながら彼らにスターの資質を見出した。即刻、彼はモータウンの総力を上げプロモートを開始したのだが、その際にベリー・ゴーディがダイアナ・ロスにジャクソン5を紹介させるという経緯だった。

1968年7月に、モータウンと正式に契約。1969年10月シングル「帰ってほしいの」(I want you back)でメジャーデビュー(マイケルは当初8歳の設定だったが、実際には11歳だった)。リードボーカルとして天才児ぶりを発揮し、いきなりヒットチャート全米1位にまで上り詰めた。幼く可憐な感じでありながら、ビブラートが掛った声がファンを惹きつけた。その次のシングル「ABC」の相手は、ビートルズの「レット・イット・ビー」であったが、首位の座から引き摺り下ろし1位を獲得。続く「小さな経験」(The Love You Save)「I'll Be There」も1位となり、デビューから4曲連続で全米チャート1位に送り込むという快挙をなし遂げた。

1971 - 1980[編集]

マイケルは、1971年10月発表のシングル「Got To Be There」でソロデビュー。11月には、人気コメディー番組「フリップ・ウィルソン・ショー」に出演した。翌年には、「Ben」もヒットした。

1970年代半ば、ジャクソン5とレコード会社の間で音楽的方向性の違いが表面化。マーヴィン・ゲイスティーヴィー・ワンダーなどが自分自身のセルフプロデュースによって、ニュー・ソウルと呼ばれる新しいポップミュージックの枠を作り出していくのを見て、メンバー達も自分達による音楽という新しい方向性を見出していったのだが、それに対してモータウンが反発したのである。モータウンとの金銭的なトラブルも出はじめた。マイケル本人も背が伸び、酷いにきびに悩まされ、その上声変わりが追い打ちをかけて、性格が急変。ラ・トーヤは「元気な少年だったマイケルはこの時内気な青年に変わってしまった」と後に語っている。実際、「背が伸びて可愛くなくなった」などと冷やかされることもしばしばであった。

結局、自分達による音楽を求めたメンバーは1975年にモータウンを離脱し、エピック・レコードへ移籍した。しかしその際、モータウンがジャクソン5のグループ名のエピックでの使用を認めず、訴訟問題となった。そのため、グループは名前を「ザ・ジャクソンズ」と改め活動を行うことになった。しかし当時一番マイケルと仲が良く、グループのセックス・シンボル的存在でもあったジャーメインは、モータウン社長の娘と結婚していたためグループから脱退。新たにマイケルの弟ランディがザ・ジャクソンズに加入した。

ザ・ジャクソンズ時代(後列左から2番目、1977年

このいざこざでグループの人気が下がるのではないかと心配され、事実移籍後のアルバムの売り上げはさほどよくなかった。だが、ザ・ジャクソンズが初めてセルフプロデュースを行った3枚目のアルバム『Destiny』がヒットし、その不安を一蹴する。この頃のザ・ジャクソンズのヒット曲としては、「Can you feel it」「Blame it on the boogie」「Shake Your Body (Down To The Ground)」(マイケルとランディの共作)などがある。ジャクソンズ時代もマイケルはグループと並行し、ソロ活動を行っていた。

1978年、ダイアナ・ロス主演のミュージカル映画「Wiz」(オズの魔法使いのアレンジ)にカカシ役で出演していた際、映画音楽を担当していたクインシー・ジョーンズと出会った。クインシーに対して「誰か僕に合うプロデューサーはいないかな」と言ったところ「私じゃ駄目かな」とクインシーが返答したという逸話が伝わっている。「ウィズ」はステージ上では大成功だったものの、映画は商業的には成功しなかった。年末に発売された映画からの「ユー・キャント・ウイン」が、エピックでのデビュー曲であった。

クインシーをプロデューサーに迎え、『Off The Wall』を制作。7月先行シングルとして発表された 「Don't Stop 'Til You Get Enough」 は、初めてマイケル自身が作詞作曲を手がけたナンバーである。なお、この頃はドラムとピアノを使って作曲を行っていた。当時は黒人ということで、さほどオンエアされなかったが、タキシードを着たマイケルが3人に分裂する映像は話題を呼ぶ。最終的には全米チャートを制覇した。8月に発売された『オフ・ザ・ウォール』は、少年ボーカリストからの脱皮を印象付けることになる。10月には、「Rock With You」を発表。この曲では、一人多重録音の技術が用いられている。ビルボードでは、4週連続1位を獲得している。さらに、「Off The Wall」「She's Out Of My Life」と同一アルバムから4作連続で全米チャートトップ10に入るという、当時ソロアーティストとしては誰もなしえなかった快挙を成し遂げた。しかし、後にマイケル自身が『スリラー』でこの記録を破ることになる。『オフ・ザ・ウォール』はロングヒットを飛ばし、次回作に期待を集めた。

ザ・ジャクソンズは、1980年9月「マイ・ラブリー・ワン」(Lovely One)(マイケルとランディとの共作)、11月「ハートブレイク・ホテル」(This Place Hotel)(マイケル直筆)とシングルを出したが、これらがこの時期のザ・ジャクソンズの主要曲であることからも分かるように、この頃はグループの中でも非常に重要な位置を占めていた。「This Place Hotel」はもともと「Heartbreak Hotel」という名前であったが、後に改名している。「ビリー・ジーン」「Dirty Diana」同様スキャンダラスな歌詞で知られている。 映画「WIZ」に出演。(1979年)

1981 - 1990[編集]

1981年3月には、1975年発売の『フォーエヴァー・マイケル』から、「想い出の一日」(One Day In Your Life)がモータウンから発売されたが、『オフ・ザ・ウォール』の売り上げが凄まじかったために、このシングルも話題を集め全英1位を獲得している。1981年12月には次回作のため、『オフ・ザ・ウォール』では「Girlfriend」を書いてもらったポール・マッカートニーにコラボレーションを打診した。これが実を結び、ポールと正式にコンビを組むことになり3曲のデュエット(「The Girl Is Mine」「Say Say Say」、そしてポールのアルバム『パイプス・オブ・ピース』に収録された「The Man」)を後に生むことになる。ポールとはプライベートで一緒になることが多く、2人ともアニメーションが大好きで、一緒にたくさんのアニメを観たとマイケルは語っている。

1982年6月にはクインシーのプロデュースにより、スティーヴン・スピルバーグ監督の「E.T.」のストーリーブックのナレーション入りアルバムの制作に参加した。ナレーションのほか、このアルバムのための楽曲“Someone In The Dark”を提供した。1982年8月には、クインシーと2人でロサンゼルスのウエストレイク・スタジオに篭りっきりのような状態になった。クインシーによると、この頃彼は相当の恥ずかしがり屋で、レコーディング・スタジオでも、灯りを消してソファの向こうでしか歌おうとしなかったと語っている。そうして出来上がったアルバム『スリラー』は全米チャートで37週にわたり1位を記録。日本でもオリコン史上初の洋楽アルバムによるミリオンセラーを達成。「Billie Jean」「Beat It」「Thriller」とミュージック・ビデオの概念を変える作品を次々に発表し、『スリラー』はアルバムの売り上げの世界記録を更新した。

1983年1月発表の「Billie Jean」はマイケル作詞・作曲の曲で、曲とビデオの両面でゴシップ記事に苦しめられる自身の姿を投影したものと言われている[要出典]。2005年の無罪判決の時もジャーメインが「Larry King Live」に出演した時、司会のラリー・キングもこの曲を引き合いに出し、「マイケルは被害者か?」と質問している。ジャーメインはこれに対し、この曲に関しては人によって非常に多様な解釈が出ていることを念頭に置き「歌詞の内容が曲解され、事件が起こる」と語っている。この作品は黒人であるにも関わらず、MTVでプロモーションビデオが放映され続け、「黒人の映像は放映すべきではない」というMTVの暗黙のルールを壊した作品のひとつとして知られている(もうひとつは、プリンスの「Little Red Corvette」である)。

2月には「黒人音楽の壁を越え、ジャンルの壁を壊す」というコンセプトのもとで、エディ・ヴァン・ヘイレンを起用した力強いロックナンバー「Beat It」を発売。このビデオではリードシンガーの背後で群集がダンスするという、プロモーションビデオの画期的な変革を行ったことで知られる。現在では当然のように撮影されているが、その原点と言われるのがこの作品である[要出典]。このショートフィルムでは自身の希望で「ロサンゼルスのストリートの本物のチンピラ」を起用した。

1983年5月には、モータウン25周年コンサート(Motown 25: Yesterday, Today, Forever)においてこの曲の間奏でムーンウォークを初めて披露した(ビデオ映像)。なお、この際、モータウンのコンサートに出演する代わりに「Billie Jean」を歌うことを条件に出したとされている[要出典]。この初披露のムーンウォークでは爪先立ちが上手く出来ず本人の満足のゆくものではなかったという。

そして、12月には後の多くの調査でミュージックビデオの最高傑作と目される「Thriller」がMTVで初公開された。約14分の大作であるこのビデオではマイケルが狼男に変身したり、ゾンビとダンスを踊ったりと、特殊効果を多用したその映画的な構成が話題となった。監督はジョン・ランディス1999年のMTVによる「今まで作られたビデオの中で最も偉大なベスト100」でも1位に輝いている。また、この年の年末にはペプシと大型スポンサー契約も結んでいる。

1984年2月には本人出演のペプシのCMが、MTVによって初公開された。しかしペプシのCMでライブバージョンを撮影中、アクシデントが起こった。階段最上段からステージに降りてくる途中で散らす予定の火花が、階段最上段にいる状況のまま散った。髪に火がついた状態のまま登場したマイケルは、頭頂部に大きなやけどを負った[6]。この時は皮膚移植手術によって完治した。ペプシ側はマイケルに対して推定3億円あまりの賠償金を支払ったが、マイケルはこの賠償金の全額を治療した病院に寄付した。また、この一件についてペプシ、製作者側を非難することはなく、両者の関係が悪化することもなかった。

『スリラー』の記録的ヒットの後、家族を巻き込んだ金銭的トラブル、音楽的方向性の分裂と妥協の繰り返しなど、ザ・ジャクソンズの活動は困難に直面。マイケルはアルバム『Victory』収録曲のうち3曲でリード・ボーカルを担当するが、結局「ヴィクトリー・ツアー」の後にグループを脱退する。ザ・ジャクソンズはその後ジャーメインがリードボーカルを務めるもののうまくいかず事実上解散状態になった。

ロナルド・レーガン大統領夫妻とともに(1984年5月14日)

1985年には、エチオピア難民救済チャリティーを目的としたUSA for AFRICAに参加し、その際「We Are The World」をライオネル・リッチーと共作した。その姿勢は評価されたが、「バンド・エイド」の模倣であるとの揶揄、アメリカ中心主義ではないかとの批判もされ、賛否両論の結果となった。楽曲自体はメロディ、歌詞共に普遍的で素晴らしいものであると言われ、多くの賞を受賞した(受賞記録を参照のこと)。ロナルド・レーガン大統領から授与された際、マイケルは右手に白の手袋をしたまま握手をしたため、一部から不評を買った[7]。この頃から彼は持病として皮膚病を患っていたため、手袋を外せなくなっていた。

同年8月、ビートルズの版権251曲を管理する音楽出版社ATVを約4,750万ドルで購入。ビートルズのメンバーではポール・マッカートニーと2曲のデュエット・シングル(「The Girl Is Mine」、「Say Say Say」)を発表するなど親交が深かったが、マイケルの所持する大量のビートルズの版権をマッカートニーが売買してくれないかと交渉を持ちかけたところマイケルが断ったため、その後はさほど仲が良くない。なお、マイケルに音楽の版権を投資対象として買うよう勧めたのはマッカートニーであった[8]。マッカートニー自身は不仲説を否定しており、マイケルの没後には「マイケルが版権を残さなかったことで私がショックを受けているというのはまったくの事実無根」「マイケルと私は実際、何年にも渡って疎遠になってはいたが、仲違いしていたわけではない」と声明を出している。[9]マイケルはビートルズに対して特別な思い入れがあり、ジョン・レノンの次男ショーン・レノン1988年の「ムーンウォーカー」で共演したり、「Come Together」をカバーしたりしている。なお、ビートルズの版権は20年後の2005年時点でも、購入した版権の半数を所有していた。

1986年5月、ペプシとの契約を更新。ペプシはソロ・ワールドツアーの宣伝や公演も受け持つことになったため、世界ツアーに向けて大きな後押しを得ることになる。8月には、クインシーと共にウエストレイク・スタジオのスタジオD室に陣取り次のアルバムの制作に取り掛かった。

完成したアルバム『BAD』は1987年8月に発表され、「I Just Can't Stop Loving You」から「Dirty Diana」まで、史上初の同一アルバム5曲連続全米チャート1位という前人未到の偉業を成し遂げた。表題曲「BAD」のショートフィルムは、私服警官に強盗と間違えられて射殺されてしまった青年の実話[10]が基になった。パフォーマンス部は今までの縦と横の動きに加え様々な動きを加えた複雑なダンスを披露した。振付はグレッグ・バージロバータ・フラックウェズリー・スナイプスが出演し、マーティン・スコセッシが監督を務めた。1987年9月から世界ツアーを行い、1988年にかけてアメリカや西ドイツイギリスなどで公演を行った。日本に於いても「M.M.旋風」と称されるブームを巻き起こした。なお、もうひとつの「M」はマドンナである。

カハラ・ヒルトン・ホテルにてサインをするマイケル(1988年1月)
西ベルリンのコンサートに詰めかけた観客(1988年6月19日)

1988年1月には自伝「ムーンウォーク」が出版され、4月のニューヨークタイムズ・ベストセラー・リストで初登場1位を獲得した。この頃、社会的な問題に対しても目を向けだし、1月発売のシングル「Man In The Mirror」ではポリティカルな題材を歌い、後のマイケルの作風に繋がる作品となった。1988年4月にはソ連のCMに西側諸国の人物であるマイケルが出演したことで話題となった。また、この頃ビートルズの版権を大量購入するなど、ロックに意欲を示していた。その彼はハードロック調の楽曲「Dirty Diana」を書き、4月にシングルとして発売された。この曲はダイアナ・ロスを連想させるタイトルであったため当時話題を呼んだ。同年、NHKが『第39回NHK紅白歌合戦』にマイケルを出場させるというプランを立てていた。この年12月9日 - 26日まで9回の東京ドーム公演を開催するマイケルにそのまま日本に滞在してもらい、出場してもらうというものだった。結局、マイケルの出場は実現しなかったものの、これがこの後しばらく外国人歌手を紅白に出場させるケースを作り出した[11]

1989年、BREアウォーズでポップ・ロック・ソウルの三部門を制した。エリザベス・テイラーはこれを「The True King of Pop, Rock And Soul」と称した。

1991 - 2000[編集]

世界のトップスターに上り詰めたマイケルであったが、さらなる極みを目指し『Dangerous』を制作。このアルバムからクインシー・ジョーンズとのタッグを解消した。1991年10月に発売されたこのアルバムからの先行シングル「Black Or White」は文化的価値観の違いを乗り越えようという歌詞が多くの人に受け入れられ、20カ国以上で1位を獲得。全米チャートでも7週連続1位を獲得した。ロッキングなポップチューンでラップをフィーチャーしたこの楽曲は、音楽的にもクインシーから完全に独り立ちしたマイケルの姿を全世界に見せ付けた。ショートフィルムでは「スリラー」を手がけたジョン・ランディスが、再び監督として参加。当時としては最新の映像技術であるモーフィングが採用され話題となった。

ところが、この曲のショートフィルムでは後半のソロ・ダンスシーンが暴力的及び性的な要素が強すぎるとして一般放映が中止されるという事態になった。後にそのバージョンのショートフィルムはその部分の映像に黒豹が登場することからパンサー・バージョン(パンサーとは豹属の動物一般のことである)と呼ばれるようになった。セクシュアルなダンスや、人種差別団体(クー・クラックス・クラン)の名前やハーケンクロイツの描かれた車や店のガラス窓を破壊するシーンが問題とされた。なお、この映像は現在ではヨーロッパでは一斉放映が許可されており、マイケルのビデオ作品では見ることが出来る。ただ、現在見られるパンサー・バージョンは、初期の映像とは若干違っており、窓に書かれた人種差別団体の名前などいくつか修正され、今ではそれらの文字は消されている。

アルバム『Dangerous』は1991年11月に発売され、ビルボードでは4週連続1位を獲得。発売後6週間で全世界での売り上げは1千万枚を突破した。このアルバムで共同プロデューサーとなったテディ・ライリーはクリフォードから、アルバム『Dangerous』は時代を先取りしていた、と後に評されている。発売日にはロサンゼルス国際空港でアルバム3万枚が銃で脅され強奪されるという事件も起こっている。

しかし、このアルバムの発売と前後してかつてマイケルを映像で世界的スターにしたMTVグランジバンドニルヴァーナの「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」を大量に流す事態が発生。それで強力に煽られることとなった1991年9月発売のニルヴァーナのアルバム『ネヴァーマインド』に連続を止められ、アメリカではかつてのMTV主導型のマイケルの音楽は商業的過ぎるという批判を受け出すことになる。そのため、アメリカでは評判は前作ほど良くはなかった。しかし、全世界ではこのアルバムは前作を超える3100万枚以上を売り上げることになる[12]

1992年1月には「Remember The Time」を発売。翌月公開されたショートフィルムはエジプトの王国をモチーフにしたもので、エディ・マーフィーイマン・アブドゥルマジドデヴィッド・ボウイの妻)、マジック・ジョンソンと共演した。このショートフィルムでは、イマン・アブドゥルマジドとのキスシーンが話題となった。このショート・フィルムの監督は、ジョン・シングルトンが担当した。テディ・ライリーは2006年5月14日のインタビューでは今までに自分が手がけた曲の中では最高傑作と言っている。マイケルも同月アフリカに行ってツアーを開始したが、体調不良になり日程を短縮した。この際に訪れたコートジボワールでは「サン族の王冠」の称号を授与されている。

4月にはナオミ・キャンベルと官能的な求愛を繰り広げる「In The Closet」(監督は写真家のハーブ・リッツ)が発表される。7月にはNBAマイケル・ジョーダンとMJ同士で共演する「JAM」が発表された。この作品ではヘヴィ・Dノーティー・バイ・ネーチャークリス・クロスなども共演している。これらの作品では多くの有名人が出演しており、マイケルの交友の広さが窺える。7月には自らの詩や写真、絵などを紹介する本「ダンシング・ザ・ドリーム」を発表した。

HIStoryのプロモーションのためにヨーロッパ中に置かれた多くのマイケル・ジャクソン銅像の一つ

dangerous tourでは、日本人ユーコ・スミダ・ジャクソンが出ていた。

1992年からペプシがスポンサーになり、ワールドツアーを行い世界中でコンサートを行った。収益金は1992年にマイケルが設立したヒール・ザ・ワールド基金に寄付された。1993年1月には、クリントン大統領の「アメリカン・リユニオン:第52回大統領祝賀会」での就任コンサートで「Gone Too Soon」「Heal The World」を披露した。2月にはTVの人気トーク番組「オプラ・ウィンフリー・ショー」にネバーランドでのライブインタビューという形で出演した。そこではムーンウォークのやり方を実際にマイケルが見せてくれたり、即興で「Who is it」をアカペラで歌った(翌日からラジオで同曲のリクエストが全国的に殺到する“事件”が起きた)。彼が皮膚病の尋常性白斑に罹患していることを公表したのも、この番組の中であった。

1993年スーパーボウル第27回大会のハーフタイムショーでライブを行う。大型のビジョンの中で踊るマイケル。その後、画面から上部に飛び出しヴィジョンの上でダンス。さらに中央のステージまで瞬間移動するというもの。さらには、1分13秒間ステージ上で静止するという前代未聞のパフォーマンスを見せ、ジャクソンのハーフタイムショーはスーパーボウルの前半戦よりも高い視聴率を記録した。このジャクソンのパフォーマンスは、スーパーボウル・ハーフタイムショーの新たなスタンダードを築いたと言われている。彼はスーパーボウル・ハーフタイムショーの伝統上、ノーギャラでこのライブを行った[13]。その結果、スーパーボウル単体としての価値が上がり、現在のような世界のトップアーティストを毎年ハーフタイムショーに招くことが定着していった。半年後の1993年8月、彼はマイケル・ジャクソンの1993年の性的虐待疑惑で訴えられ、ワールドツアーを途中で断念する。

1994年には、MJJプロダクションズを設立した。1994年5月、ドミニカ共和国でリサ・マリー・プレスリーと電撃結婚。1994年10月のベスト・アルバム発売が予定されていたが、延期され1995年6月に2枚組アルバム(ベストアルバム+オリジナルアルバム)『HIStory』を発売した。タイトルは“history”と“his story”を掛けたものである。当初は新曲は4曲で1枚のベスト・アルバムの予定であったが、延期され新曲が大幅に追加された。収録曲「D.S.」(この楽曲の名称はマイケルを訴えようとした検察官トム・スネドンを暗示したものと言われている)などマイケルにしては世間に対する主義主張の強い、イデオロギー性の強いアルバムである。

アルバムの発売に先駆けて5月先行シングル「Scream」が発売され、妹のジャネットとのデュエットが話題となった。二人の仲が良いことは有名で、ジャネットは自身のライブ中に裁判で戦っているマイケルに祈りを捧げたことがある。また当時の彼女の人気はマイケルに追いつくほどであった。8月「You Are Not Alone」を発売。史上初のビルボードHot100における初登場1位を獲得した。ショートフィルムでは当時の妻リサ・マリーとセミヌードで競演。12月には地球環境の破壊について切実に歌い上げた「Earth Song」をヨーロッパでカット。イギリスでは6週連続1位を獲得、イギリス国内だけでも100万枚を突破し、イギリスにおけるマイケル最大のヒット曲となった。マイケルのお気に入りの曲の一つでもある。

1996年4月には「They Don't Care About Us」をシングルカット。ところが、歌詞の一部が反ユダヤではないかとして批判を浴び、マイケルは自身が反ユダヤではないと弁明することとなった。ミュージックビデオのうちプリズンバージョンはMTV等の番組で放送が自粛され、ビルボードでは最高30位。しかし、ドイツでは首位を獲得している。7月16日にはブルネイの国王であるハサナル・ボルキアに招待され国王の誕生日ジュルドンパークオープン記念に無料コンサートを開催した(費用は国王持ちだった)[14]。1996年9月から3度目の世界ツアーを行う。韓国では熱狂した少年がマイケルの乗るゴンドラに飛び乗るというハプニングもあった。11月14日にデビー・ロウと二度目の結婚。

1997年、突如『Blood on The Dance Floor』(新曲5曲+リミックス8曲)を発売。600万枚以上の売り上げを記録した。マイケルは表題曲をエルトン・ジョンに捧げたとされている。詳しい経緯は分かっていないが、エルトン・ジョンはエイズの少年ライアン・ホワイト(1971年-1990年)に関する話でかつて協力し合った仲である。エルトン・ジョンは後の裁判の際には最後まで沈黙を守り続けている。この直後、ソニーとの確執は表面化し、1997年10月に発売されるといわれていた『ヒストリー』からの第7弾シングル「スマイル」が販売停止となった。

1998年7月に来日し、世界空手道連盟加盟団体の士道館から名誉五段を授与される[15]。またこの際に「マイケル・ジャクソン・ジャパン」の設立を発表し、日本をはじめとして、アジアやアメリカでテーマパーク「World Of Toys」の建設や、国内外での玩具店の直営及びフランチャイズ方式での経営を行う計画を発表するが、その後計画は解消となる。

1999年6月にはマイケルと有志の友人たちがふたつのチャリティコンサートを開いた。収益金は赤十字ユネスコ、ネルソン・マンデラ子供基金に寄付された。この頃ニューアルバムの製作に取り掛かっていたマイケルであったが、プロデューサーのウォルター・アファナシエフは「Fall Again」(後にアルティメット・コレクションにデモ音源が収録された)という曲を手がけている最中「レコード会社側が圧力をかけていてね(まだ発売されないんだ)」というコメントも残している。この当時何曲かのシングルの発売の噂は出ていたが、1つも実現しなかった。

2001 - 2005[編集]

2000年12月12日に第16回ロックの殿堂入りが決定され、2001年3月に正式にロックの殿堂入りした。なお、マイケルはジャクソン5としても1997年に殿堂入りしている。

2001年8月、『Invincible』の先行シングルとして発売された「You Rock My World」はフランスで5週連続1位を獲得。スマッシュヒットとなる。「Butterflies」は米国内でラジオ向けにシングルカットされたのみで、CDとしてのシングルカットはなかったのにもかかわらず、大きな反響を呼びエアプレイだけでビルボードで14位まで上り詰め、R&B・ヒップホップシングルチャートでは2002年年間12位を記録した。同年9月7日、10日、マイケルはニューヨークでソロ30周年を祝うコンサート「Michael Jackson: 30th Anniversary Celebration, The Solo Years」を行った。日本からは安室奈美恵が駆けつけ、オノ・ヨーコも参加した。9月7日は兄弟達と出演し、終幕はクインシー・ジョーンズの指揮で出演者全員による「We Are The World」が演奏された。9月10日には最後の「You Rock My World」でアッシャークリス・タッカーがパフォーマンスに参加した。コンサートはチケット総売り上げ額10,072,105ドル、観客総動員数34,884人と成功のうちに終わった。しかし、その翌朝アメリカ同時多発テロ事件が起こる。これにより密かに予定されていた「Invincible World Tour」が中止となった。

事件に衝撃を受けたマイケルは、「We Are The World」を再現したような豪華アーティストを集めたチャリティシングル「What More Can I Give?」を企画。この曲はもともとはコソボ自治州のアルバニア系住民に捧げる予定であった曲で1999年には既に存在していた。マライア・キャリーセリーヌ・ディオンジャスティン・ティンバーレイクビヨンセリッキー・マーティンルーサー・ヴァンドロスらスターを集めてコンサートを開催した。しかし、10月にレコーディングは終わっていたのにもかかわらずプロデューサーのスキャンダルなどの影響でCD発売は実現しなかった。ソニーの圧力があったとも言われる[誰によって?]。なお、マイケルはこの頃2期目の再選を狙っていたジョージ・W・ブッシュ大統領の政治方針に反対し、民主党を支持し資金集めに協力しようと、2002年4月にアポロ劇場で「Black or White」「Heal The World」を披露している。

2001年10月、最新オリジナルアルバム『Invincible』を発表。タイトルは「無敵で、いつまでも成長し続けることで人々のために貢献する」という意味合いを込めたもの。当初は1999年11月9日発売の予定だったものが数回延期され、2001年10月30日(US)発売となった。このリリースの直前、レコード会社の凄まじい圧力に痺れを切らしたマイケルはトミー・モトーラにもはやこのアルバムで最後だと通知した(実際、このアルバムが生涯最後のものになった)[16]。この後マイケル側とレコード会社側は激しいバトルを繰り広げることになる。(後述ソニーウォーズ

2002年11月19日、宿泊していたベルリン市内のホテル4階のバルコニーにて、窓から生後数ヶ月になる自身の息子を外側のファンに見せた。マスコミが「手すりの辺りでブラブラとさせ不安定な状態で危険にさらしたのでは」と強烈に非難。これに関連しベルリン市警が子供の保護監督の怠慢だとし捜査を開始。訴追はされなかったが、世界的な非難を浴びて「弁解はしません。私は大きな過ちを犯しました。(あの時)とても興奮していました。私は自分の子供たちを故意に危険にさらすようなことは、絶対にしません」と謝罪した。マイケルの友人であるユリ・ゲラーは「マイケルには多大な精神的プレッシャーがかかっていて、また時差ぼけもあります。彼のしたことは間違っています。何も考えていなかったのでしょう。興奮しすぎていたのかもしれません。でも最高の父親です」と語っている。なお、この際子供の顔を隠していたことも一部で話題となったが、これはパパラッチから子供たちを守るために顔を隠していると言われている[誰によって?]

2003年6月24日、ハリウッドのコダック・シアターで行われた第3回BET(ブラック・エンターテインメント・テレビジョン)アウォードで、「ソウルの帝王」ことジェームス・ブラウンのパフォーマンスにマイケルが飛び入りで参加した。ステージ上でマイケルとジェームズが共演するのは約20年ぶりのことであった。その後マイケルは「ここにいるこの人物ほど、僕に大きな影響を与えた人はいない」とスピーチし、自らの師匠であるブラウンに生涯功労賞を手渡した。この際、会場にはマイケルと共にラトーヤも姿を見せた。この年、ノーベル平和賞に再びノミネートされる。同時多発テロ被害者の支援のために作られたにもかかわらず、長らく棚上げの状態が続いていた「ホワット・モア・キャン・アイ・ギブ」であったが、何とかして発売できないかと検討した結果、オンラインで2ドルで販売されることが決定し、2003年10月にダウンロードが始まった。これによって集まった資金は子供の組織に寄贈された。2003年11月18日にベスト盤『Number Ones』をリリース。この直後マイケルは性的虐待疑惑で逮捕され、いわゆる「マイケル・ジャクソン裁判」が始まり、世界各国のマスコミから衆目を浴びる。

2004年12月15日限定発売ボックスセット『The Ultimate Collection』を発売。アルバムの中には、イラク戦争に対する反戦歌として2004年にレコーディングされた「We've had enough」も収められている。

2005年6月13日、性的虐待疑惑のすべての件に関して無罪評決が下る。同月、裁判の療養もかねて親しい王族が多いバーレーンに移住した。2005年7月、2枚組のベスト盤『The Essential Michael Jackson』を発売。アメリカでは最高位96位と振るわなかったが、イギリスおよびアイルランドでは2位、フランス(コンピレーションアルバムチャート)やベルギーでは首位を奪う(フランスではコンピレーションアルバムチャートで6週もの間首位の座を守り続ける)。2005年のハリケーン・カトリーナの被害に際してもチャリティシングル「I Have A Dream」を企画。だが、前回同様にレコード契約を決めないまま制作した影響もあり、現在発売未定となっている。仮名は「From The Bottom Of My Heart」であり、正式名称はキャロル・ベイヤー・セイガー、デヴィッド・フォスターと共作した1999年10月発売予定だった曲の名前と同じである。

2006 - 2009 死去前[編集]

2006年には、元ジャクソン5のドラマー、ジョニー・ジャクソンが刺殺される事件が発生する。同年マイケルのシングル作品20作が片面DVD仕様のシングル(Visionary: The Video Singles)として再発売され、スペインのチャートではマイケルの曲が再発で次々と1位になり、結果的に15曲までもが1位を獲得するという快挙を成し遂げた。

2006年4月、マイケルとバーレーン王子、シェイク・アブドゥラー・ビン・ハマド・アール・ハリーファとの合弁会社、トゥー・シーズ・レコーズと契約。同年5月26日、1998年世界空手道連盟のイベントに出席して以来の来日。「日本にはいい思い出がたくさんあるのでとても楽しみ。変わらぬ愛で僕をサポートしてくれたファンのみなさんに会えることを楽しみにしている」と語る。27日、日本MTVジャパンが主催する「MTV Video Music Awards Japan」に出席し、裁判以降初めて公の場に姿を現した。28日自身の子供達と共に児童養護施設「星美ホーム」を訪問。29日にはアジア財界のメンバーと会談した後に、YOSHIKI叶姉妹らと対面した。また、6月5日放送のSMAP×SMAP(収録は5月31日)に飛び入りの形で出演した。マイケルがテレビのバラエティー番組に出演するのは世界で初めてのことである。関東地区の視聴率は22.0パーセント、瞬間最高視聴率は25.9パーセントを記録した。出演料は20万ドル(約2000万円)。結果的にこの出演が生前最後のテレビ番組出演になった。

パリのディズニーランドで次男プリンス・マイケル2世とともに(2006年6月18日)

6月17、18日にはベルリンで、マイケルの無罪評決1周年を祝うパーティーが開催された。W杯ドイツ大会では世界発売されたFIFA公式アルバム『Voices』に参加し「アース・ソング」を収録している。

無罪評決を受けて音楽活動も本格的に再開され、2007年後半のニューアルバムの発売が4月に発表された。5月にはニューアルバムの製作にマイケルのアルバムを3作品共同プロデュースしてきたテディ・ライリーが再び参加すると伝えられた。2006年6月にはレイモン・ベインが声明を出し、レコーディングの為にバーレーンの住居は維持したままヨーロッパに移住する予定があるというマイケルの意向を伝えた。また、同月MJJプロダクションズを段階的に廃止する目的で、マイケル・ジャクソン・カンパニーを設立した。

8月25日午後2時25分頃、ネバーランドの西側で森林火災が発生したが、午後7時半頃には鎮火。9月、バーレーンのアブドゥラ王子の所有するトゥー・シーズ・レコードとの提携を解消。4月にガット・レコード会長のガイ・ホームズがトゥー・シーズの代表取締役に就任するという報道があったが、ホームズによると正式な契約は交わしていなかったのだという。そのため、6月に設立が発表されたマイケル・ジャクソン・カンパニーがレコード会社としての役割を担うこととなる。

11月14日、ギネス・ワールド・レコーズが、アルバム『スリラー』の総売上げ枚数を1億400万枚と認定したと報道される。だが、実際には6500万枚と記載されていた。同日、新たに8部門に関して世界記録認定書を授与された。11月15日のロンドンのアールズ・コート・アリーナで開催されたワールド・ミュージック・アウォード2006ではマイケルは7億5000万枚の総売り上げを誇るとされた。12月14日、日本にて同月19日に行われる予定だったMichael Jackson Premium Christmas Partyが急遽延期された。高額なチケット料金に一部見直しが図られ、また2007年3月9日,10日と二日間に渡り行われることになった。デーブ・スペクターのMC登板に、以前から彼からマイケルのゴシップ報道を聞いていたファンによる批判が相次いだ。

12月25日、ジェームズ・ブラウンが死去。ブラウンは生前自分がマイケルに対し好意を持っていたことを述べ、「アメリカへ戻って来ることについては心配するなと伝えてくれ」と語っていた。そのマイケルはクリスマスからアメリカ合衆国に帰国し、ラスベガスに滞在する。マイケルは12月27日、レイモン・ベインを通じ「ブラウン氏に対し常に抱いていた愛情と尊敬の念は、言葉では充分に語り尽くせません」というコメントを出す。12月30日にはブラウンの告別式がジョージア州オーガスタのジェームス・ブラウン・アリーナで行われ、約9千人の参列者が参列。マイケルも参列しスピーチを行う。マイケルは棺に口付け別れを惜しんだ。

2007年3月4日にファン感謝イベントに参加するために成田空港より約1年ぶりの来日。3月5日、子供たちのためにビックカメラ有楽町本店を借り切っておもちゃなどを購入。3月7日、東京ディズニーシーを初訪問。3月8日と9日に「ファン感謝デー」が開催。3月10日14時過ぎ、神奈川県の在日アメリカ軍基地の「キャンプ座間」の「ヤノ・フィットネス・センター」でおよそ3000人の兵士やその家族から歓迎を受ける。3月14日に離日。

2008年2月、スリラー25周年記念エディションをリリース。エイコンウィル・アイ・アムカニエ・ウェストらによる同アルバム収録曲のリミックスが収録されている。2008年9月、「Michael Jackson King of Pop」をマイケル生誕50周年を記念してリリース。世界20ヶ国以上でそれぞれの国でファン投票を行い、日本盤ではその中の15曲が収録された。

2009年3月5日、「7月にロンドンのO2アリーナで10公演を行う。これは“生涯最後の公演”(ファイナル・カーテン・コール)になる」と発表。その後「THIS IS IT」(This is it.)のタイトルで50回に渡る公演が行われることが発表された。チケットは全公演分が即日完売した[17]。なお、当初は7月8日からスタートする予定であったが、7月13日からのスタートに延期された。また、この頃より「THIS IS IT」の準備及びリハーサルに入った。

2009.6.25 死去後[編集]

2009年6月25日(カリフォルニア時間)14時26分に死亡が確認される。50歳没。彼の死は全世界のレコードチャートに影響を与えた。全英では直後に『Number Ones』が1位を獲得。その後『The Essential Michael Jackson』が7週連続で1位を獲得。本国アメリカのビルボードチャートでは当時は新譜のみ扱うというルールがあり、マイケルの作品は旧譜のカタログ扱いでランクインされなかったが、サウンドスキャンからの総合セールスでは『Number Ones』『The Essential Michael Jackson』『Thriller』の3作がこの週首位のブラック・アイド・ピーズの「The E.N.D.」を上回る売り上げを記録。カタログチャートの作品がビルボードの本チャートで首位の作品をセールスで上回る現象はビルボード史上初のことであった。なお、この年の12月5日付けのチャートからこのルールは変更され、旧譜もランクインできるようになった。

追悼式が行なわれたステイプルズセンター。THIS IS ITのリハーサルもこことザ・フォーラムで行なわれた。

2009年6月29日ジャクソンのスタジオ・アルバム5作品を紙ジャケット仕様にしたボックス・セット『The Collection』がヨーロッパでリリース。2009年7月7日「THIS IS IT」のリハーサルを行なっていたロサンゼルスステイプルズ・センターで追悼式が開かれる。遺族や親交のあったミュージシャン、抽選で選ばれたファン等2万人が参列。当時11歳の娘、パリスは「生まれた時からずっと、ダディはこれ以上ないくらい最高な父親でした。すごく愛してるわ。」とスピーチし、泣き崩れた[18][19]

2009年9月17日に裁判所から5億ドルとも言われるマイケルの遺産の行方に関する法廷文書が公開された。その文書によるとマイケルの母であるキャサリン・ジャクソンに孫であるマイケルの3人の子供達の養育権を与え、キャサリンが現在、暮らしているマイケルの邸宅の維持費の他に介助費、洋服代、使用人への賃金、娯楽費など合計で2万6000ドル(日本円で約240万円)、子供達には世話係への報酬、娯楽費など3人で6万ドル(日本円で約550万円)の合計8万6000ドルが月ごとに支払われることが明らかになった。マイケルは生前からキャサリンを経済的に支えていたため、子供達の永久後見人に指名された彼女を今後も遺産でサポートするように遺産管理人は裁判所に求めていた。

2009年10月12日インターネット上で未発表曲「THIS IS IT」が解禁となる。2009年10月28日「THIS IS IT」のリハーサル映像を収めたドキュメンタリー映画「Michael Jackson's This Is It」が全世界で同時公開される。監督はケニー・オルテガ。当初は2週間限定上映であったが、人気により2週間上映が延長された。日本では週末興行収入3週連続1位を獲得した。 また映画のサウンドトラックである『Michael Jackson's This Is It』も同時に発売された。このアルバムはオリコンチャート初登場1位を獲得。これは『BAD』以来23年ぶり3作目の記録であった。

2009年11月、マイケルの父親であるジョー・ジャクソンがマイケルの遺産から毎月1万5000ドル(日本円で約130万円)以上を支給してもらえるように裁判所に申請書を提出していることがわかった。ジョーは2002年にマイケルが書いた遺書に記述がなかったために遺産は一銭も相続されないことになっている。ジョーは毎月1700ドル(日本円で約15万円)の社会保障費が支払われているが、足りない分はマイケルからの援助で生活していた。裁判所に申請されたものでわかっている内容は家賃1200ドル、外食費2500ドル、交際費1000ドル、旅費2000ドル、宿泊費3000ドルなどとなっている。2009年11月5日、マイケル・ジャクソンの1993年の性的虐待疑惑の中心人物だった男性、エヴァン・チャンドラー(訴えを起こした少年の父)が遺体で発見された。拳銃自殺とみられている[20][21]

2009年12月7日付けオリコン音楽DVDチャートで「Live In Bucharest: The Dangerous Tour」が5位を獲得。その後、歴代洋楽DVD売り上げランキングにおいて第1位になった。2009年12月30日ジョン・ランディスが監督した「Thriller」のミュージック・ビデオがアメリカの国立議会図書館に永久保存される。ミュージック・ビデオが保存されるのは今回が初めてである。

2010 -[編集]

2010年1月1日「The Collection」が日本でリリースされる。しかし、通信販売限定商品としてだった。アメリカでは発売されていない。2010年1月27日映画「Michael Jackson's This Is It」のDVDとBlu-rayがリリースされ、オリコン週間DVD総合チャートとオリコン週間Blu-ray総合チャートで、2月8日から3週間連続第1位を獲得した。


2010年6月2日、マイケルの故郷であるインディアナ州ゲーリーに3億ドル(日本円で約227億円)の予算をかけてマイケルに捧げる博物館を建設する計画が動き出したことがわかった。マイケルの父であるジョー・ジャクソンとゲーリー市当局はジャクソン・ファミリー博物館、マイケル・ジャクソン舞台芸術&文化センター、ホテル、劇場の建設が来年にもスタートすることを発表した。マイケルは生前、2003年にゲーリーを最後に訪れ、このプロジェクトについての交渉を行っていたが、その後の進展はなかった。父親のジョーは「マイケルと私たち家族が待ち望んでいた計画だ」と語っており、ルディ・グレイ市長も「このプロジェクトが何千という雇用を生み出すばかりでなく、完成すれば世界中から年間少なくとも75万人の観光客がゲーリー市を訪れ、毎年1億ドル(日本円で約92億円)から1億5000万ドル(日本円で約138億円)の経済効果が得られると見積もっている。寄付と投資によって建設費はまかない、ゲーリー市が300エーカー(1.2平方キロメートル)の建設地を提供する。不況にあえぐゲーリー市住民も博物館の建設に前向きだ」と語っている。

2010年6月25日日本でドキュメンタリー映画「Michael Jackson Commemorated」が公開となる。この映画は、ジャクソンのマネージャーであったマーク・シャフェルが監督したもので、シャフェルが10年間ジャクソンを撮影したプライベート・フィルムが元になっている。

2010年8月、BANG Media Internationalによると、マイケルが息を引き取ったロサンゼルスのボーンビー・ヒルズにある敷地面積1.26エーカー(約5100平方メートル/1545坪)の豪邸が2900万ドル(日本円で約26億1000万円)で売りに出されたという。マイケルは生前にこの豪邸を月額10万ドル(日本円で約900万円)で借り、子供達と一緒に住んでいた。この豪邸は2008年に3800万ドル(日本円で約34億2000万円)で一度売りに出されていたが、買い手がつかずに値引きで新たに売りに出したという。フランスのシャトー風の造りになっている豪邸には7つの寝室とトイレが13室、ジム、試写室、スパ設備、試飲部屋つきのワインセラーを備えているほか、ガレージには7台の車を収容することができるという。

2010年10月25日、米経済誌フォーブスがすでに死去した著名人が2009年10月1日から2010年10月1日までの1年間に稼いだ金額に基づき『死後、稼いだ著名人ランキング』を発表し、マイケルは1年間で推定2億7500万ドル(日本円で約222億円)の収入を上げてランキング1位になることがわかった。マイケルが1位を獲得した要因として、公開された『THIS IS IT』の大ヒットに加え、楽曲の売り上げも好調だったためという。同誌は著名人の遺産管理業務に携わる弁護士の話として「いずれは下降線をたどるものの、少なくともさらに数年は多額の収入をもたらすことは確実」と指摘した。このランキングは13人の死去した著名人からなるランキングだが、1位のマイケルの収入は2位以下12人[22]の合計収入より多かった。

2010年12月、生前の未発表曲を集めたアルバム『MICHAEL』がリリースされる。

2010年12月、TMZ.comによると、マイケルの元邸宅で現在は不動産会社コロニー・キャピタルが所有するネバーランドをマンハッタンにあるジュリアード学院の音楽院のような作曲や演奏など音楽に関するあらゆることをカバーするティーンエイジャーのための音楽学校にするビジネスプランを練っていることがわかった。しかし、この計画には2つの問題があり、1つは「ネバーランドのあるサンタバーバラ郡から音楽学校の設立の許可を得られるか」、もう1つは「学校にマイケル・ジャクソンの名前を使用できるかどうか」ということだという。この計画に対し、マイケルの遺族は「非常に面白いアイデアで可能性を感じる」とコメントを発表している[23]

2014年5月、未発表曲8曲を収録したアルバム『Xscape』をリリース予定[24]

死亡時前後の状況[編集]

Googleにおける2009年6月25日の「Michael Jackson」のアクセス数の推移。左の矢印はマイケル死亡が確認された14時26分、右は死亡が報道された14時44分

2009年6月25日 自宅にて心肺停止状態に陥り、マイケルのスタッフが救急隊に通報。12時26分に救急隊が到着。13時14分にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)付属病院へ救急搬送される。約42分間に及ぶ蘇生活動を行うも、14時26分に死亡が確認された(死亡日時はカリフォルニア時間)[25]。死亡当時は身長180cm・体重50kgだった。

マイケルの死は各国のメディアでトップニュースとして報道され、全世界に衝撃を与えた。CNNBBCなどが報道特別番組を組み、病院前から24時間体制で生放送を続けた。ネットサイトでも大きな話題を呼んだ。まず最初に報道したのはアメリカのセレブリティ専門サイトのTMZで、死後18分後という異例の速さだった。その後、ロサンゼルス・タイムズがその7分後に続いた。2つのサイトはアクセス数の急増によってダウンし、Googleでは検索数が一時猛烈に跳ね上がり、「Michael Jackson」の検索がスパムとみなされ検索不可能となるという事態が起こった[26]

日本において最も早かったのは東京のFM局J-WAVEである。2009年6月26日に放送されていた「〜JK RADIO〜TOKYO UNITED」(ナビゲーター:John Kabira)の中、午前6時(米西部時間14時)の番組冒頭でマイケル死去の一報が報じられた。各テレビ局の多くが病院に搬送された時点では、「マイケルジャクソンが死亡したと思われる」と報道し、実際に「マイケルジャクソンが死去」と断定して報道したのは、それから数日たってからであった。また、午前6時50分過ぎにはアメリカサイトに引用による通信社の電文を放送した。その後はマイケルの関する話題に触れながらヒット曲を放送する体制となった。

2009年7月1日 マイケルに雇われていた看護師のシェリリン・リーは、ABCニュースのインタビューにおいて、2009年4月頃に深刻な不眠に悩むマイケルから睡眠導入のために麻酔薬プロポフォールの処方を依頼されたが断ったと話した[27]。(プロポフォールは、外科手術において全身麻酔の導入・維持に用いられる麻酔薬である。)心臓マッサージを床で行わなかった件も一説ではある。

2009年7月13日 マイケルの姉ラトーヤはイギリスでの取材において「(麻酔を処方した)医者がマイケルを殺したと認識している」と発言した。

2009年7月22日 ロサンゼルス市警察は、ロンドン公演「This is it」におけるツアー専属医として2009年5月から雇用されており、マイケル死亡時に心肺蘇生を行ったとされる心臓内科医コンラッド・マーレーのオフィスを家宅捜索した[28]

2009年8月24日 警察の事情聴取に対するマーレーの宣誓供述書とされるものが報道された。「不眠治療のためにマイケルに、5月中旬から6月22日までの6週間、連日プロポフォールを投与した。依存症になることを懸念し6月23日にはプロポフォールの使用を中止し他の薬に切り替えたが、死亡日である6月25日には催眠鎮静剤であるロラゼパムミダゾラムを断続的に投与するも眠りにつかせることができず、マイケルの要求によりプロポフォールを25mg点滴投与した。それによりマイケルが眠りについた後、トイレのため2分程離れ、戻ると呼吸をしていなかった」という内容だった[29][30](呼吸抑制作用のある麻酔薬プロポフォールの投与中は、患者の呼吸状態等を常に監視し続けることが義務づけられている)。

2009年8月28日 ロサンゼルス検視当局が死因を公式発表。急性プロポフォール中毒とした上で、第一の死因はプロポフォールロラゼパムの複合使用と指摘した。殺意の有無に関わらず、他者による外的要因により死亡したとする故殺であることも断定した[31]

2009年10月1日 AP通信が検死報告書のコピーを入手したと報道。内容は「検視当局による解剖の結果、肺に炎症は見られるものの息切れがあった可能性がある程度で、他の心臓や腎臓などの臓器は健康であり、マイケルの健康状態は50歳の男性として総合的に見て十分良好であった。また、AP通信が麻酔の権威である医師に報告書への見解を求めたところ、『マーレーが投与した呼吸抑制作用を持つ鎮静剤と麻酔薬プロポフォールの組み合わせが非常に危険であり、その複合作用により呼吸停止が起こった可能性が高い』と指摘した」というものだった[32][33]。なお、ロサンゼルス検視当局はこの報道について「検視当局内部から漏らしていない」とコメントしたが、検死結果の内容については否定しなかった(過去にタブロイド誌が報道した他の検死結果については間違いであると正式に否定している)。

一周忌[編集]

2010年6月25日 the818nowニュースによると、この日、世界中からマイケルのファンが、グレンデール市のフォレストローン・メモリアルパーク前に集まり、ゲートが開くのを待つために長い列ができた。ファンからの花やギフトなどが彼の眠る大霊廟のホーリーテラス前に設置された献花に飾られた。

日本のマイケルファンのグループからの花がトラック2台分届いた。世界中から献花された花の中では特に大きな物であったため、米国、日本のメディアの関心を引き、日本のマイケルファンの気持ちの強さを印象付けた形になった。

ジャクソンファミリーのランディ、ティト、ジャーメイン、ジャネットなどが参列に訪れ、ティトは献花台近くにいたファンと握手を交わし、参列に訪れた人々に感謝を示していた。これらのニュースはYahoo! News、MTV Video[34]、www.cfnews13.com、www.washingtonpost.comなどから世界各国に紹介された。

音楽性[編集]

クインシー・ジョーンズと出会ってからは、ソウル・R&B、ポップなどを融合させた作品を発表。ポール・マッカートニーとのデュエットや「Beat It」でエドワード・ヴァン・ヘイレンスティーブ・ルカサーを起用するなど、ジャンルや黒人・白人の垣根を超越した存在となった。

1987年の『BAD』、1991年の『Dangerous』ではニュー・ジャック・スウィングと呼ばれるサウンドを多用し、流行を牽引した。

1990年代後半になっても、流行に安易に迎合することを嫌いこのスタイルを保ったが、2001年の『Invincible』では同時代性を意識した曲を多く収録した。

ハードロックにも関心を示し、「Beat It」ではエディー・ヴァン・ヘイレンスティーブ・ルカサー、「Dirty Diana」ではスティーヴ・スティーヴンス、「Black Or White」では元ガンズ・アンド・ローゼズスラッシュ、「Whatever Happens」ではカルロス・サンタナと共演している。なお、クイーンのメンバーとの接近があった時期があり、「地獄へ道づれ」を提供されているが、諸事情により断り、クイーン自らでの発表を強く薦め、事実それは彼らのスマッシュヒットとなっている。しかし、後に彼らとは関係を絶っている。

パンチの効いたボーカルを聴かせるアップチューンとは対照的に、「She's Out of My Life」「Heal The World」「You Are Not Alone」などの、繊細なハイトーンの美声で歌い上げるバラードも多い。

また、「Man in the Mirror」「Heal The World」「Earth Song」など、社会問題や環境問題を扱い、広く平和を訴える曲もある。

ダンス・パフォーマンス[編集]

ダンスはマイケルジャクソンが抜きん出た才能を発揮した、彼の代表的魅力の一つである。1歳半の時には、洗濯機の鳴る音に合わせて哺乳瓶を片手に踊っていたと母のキャサリンは語っている。練習の際は「フレッド・アステアジーン・ケリーを手本にしていた」「ジェームズ・ブラウンのステップを食い入って見ていた」と本人が語っている。「踊るときは何を考えているのでしょうか」という質問には、「踊る時に考えるのは最大のミス。感じることが大切なんだよ」と答えている。

ムーンウォーク」は「ゲットーで踊る黒人の子供たちから」学んだものだと本人が語っている。また、初期のころから膝を曲げつま先で立つ独特なポーズを見せており、アルバムのフォトやムーンウォークの締めなどによく用いられる。帽子を投げるパフォーマンスでも知られる。ジャクソン5 時代から才能を見せており、先生のお手本を経った一度見た直後、見事に同じダンスを踊って見せたという。

『オフ・ザ・ウォール』の頃はただ曲に合わせて踊るだけであったが、『スリラー』の頃には縦と横の激しい動きが出始め、プロのダンサーたちとの競演も始まった。この頃はマイケルは技術的に様々なものを修得しており、フィギュアスケートのようなスピードのある回転技術も修得し、存在感を大きくしている。

さらに『バッド』の頃になると体の様々な動きをダンスに取り入れるだけでなく、動きの切れ、スピードがプロのダンサーに匹敵するレベルになり、完成されたダンスを披露するようになった。この時期に同アルバムの楽曲Smooth Criminalのショートフィルム(マイケルにおけるPVの総称)は高い評価を受けた(このフィルムはマイケルが敬愛するフレッド・アステアの映画『バンド・ワゴン』のオマージュとなっている)が、その中で斜め立ち(Zero Gravity:ゼロ・グラヴィティ)のシーンが話題となった。この衝撃的な動きは当初映像作品の中だけのものと思われたが、後にステージで披露した(重心を物理的にありえない位置にまで投げ出すため靴の裏にフックをかける仕掛け。華奢な見た目とは裏腹に相当に鍛え上げられたダンサーとしての筋力を示す事にもなった)。ムーンウォークのBillie Jeanと並びライブツアー定番の最も人気あるパフォーマンスの一つに数えられる。

『デンジャラス』の頃には動きのキレ、スピード、流れはもはや通常のダンサーのレベルを超え、バックダンサーが明らかにマイケルの動きについてこれないなど、その技術水準は極めて高い物となっていた。また、動きのしなやかさ、線の細さから来る彼独特の雰囲気は、ある種の境地に達していた。その後もラテン系のダンスなど様々なジャンルのダンスを取り入れることによって、年齢による体力の衰えを感じさせないばかりか、寧ろ、30,40と年を重ねていくごとにパフォーマンスの種類は増し、動きに磨きがかかっていった。

2005年には裁判の精神的ショックから著しい衰弱が伝えられファンから心配されたが、2006年3月に兄のジャーメインが「毎日300回の腕立て伏せと腹筋をやっている」ことを伝え、精神的なタフさとその自分に対する厳しさで皆を驚かせた。そして、2006年5月には回復した姿を日本で披露した。

記録映画「THIS IS IT」 で見せた姿は、そのダンスパフォーマンスにおいても全く衰えなく、かつての動き同等、あるいはそれ以上の洗練さえ感じさせるものだった。

かつてのジャパンツアーの際、宿泊先のホテルマンがマイケルの部屋の床が水浸しになっているのを発見。実はこれは練習中の汗だったというエピソードも伝えられた。ライブツアー中のミュージシャンがここまでストイックに調整をしてステージに臨む例は珍しいが、しかしマイケルにとってはこれが通常であった。恵まれた才能に加え日々の不断の努力によって、ライバルと言えるミュージシャンがいないばかりか、プロのダンサーがあこがれる存在にまでなっていった。

ファッション[編集]

手袋[編集]

スリラーの頃はラインストーンやスパンコールの縫い付けられた手袋を片方の手だけに着用するスタイルがマイケルのトレードマークであった。片方の手にだけ着用するスタイルについてマイケルは自著の中で片方だけ手袋をすればアクセントになると思ったためと語っている。当時マイケルはパフォーマンスだけでなく授賞式や公の場でも常に身に着けており、ホワイトハウスに招かれた際にこの手袋をしたまま大統領と握手したために問題になったこともあった。しかしバッドが発売される頃になると、ステージでパフォーマンスするとき以外に着用することは一切無くなった。実は着用し始めたのはスリラーの発売前からであるが、殆ど話題にならなかった(同じく自著より)。

ステイプルズセンターで行われた追悼式では、兄弟全員がこの手袋を身につけていた。

靴下[編集]

手袋と同じく白のソックスはマイケルのトレードマークであった。脛ほどの短めの黒いスラックスに白いソックス、黒のローファーのスタイルはシンボルマークにもなった。フレッド・アステアがダンスする際に足の動きを際立って見せるために白いソックスを履いたことに影響を受けてという理由だが、当時の観点から言っても白のソックスは時代遅れであったが、マイケルはこれが「クールだと思った」(自著より)と語っている。白のソックスの他にもステージではスパンコールやラインストーンが縫い付けられたソックスを愛用していた。白いソックスというスタイルは私服でも変わらず、生涯着用し続けた。87年の時点でルーズソックススタイルのソックスを着用している(横浜公演のビリー・ジーンの映像などで確認できる)。

ジャケット[編集]

スリラーのヒットは音楽シーンだけでなくファッションにも影響を与えた。マイケルがビート・イットやスリラーのショートフィルムで着用していたジャケットはライセンス品でないものも含め数多く出回り、実際にビヨンセはビート・イットの赤いジャケットを持っていたとスピーチで語っている。

オークション[編集]

マイケルの死後、様々な私物がオークションにかけられ落札されている。

2010年10月、マカオでアメリカのオークション業者「ジュリアンズ・オークションズ」主催のオークションが開催され、マイケルがアルバム『Dangerous』の収録曲「Jam」のPVで使用したバスケットボールが競売にかけられた。このPVでマイケルはNBAバスケットボールのスーパースターのマイケル・ジョーダンと共演しており、出品されたバスケットボールにはマイケル・ジャクソンとマイケル・ジョーダンのサインが入っている。落札金額は24万5000ドル(日本円で約2000万円)だった。この他にもマイケルがアルバム『HIStory』のビデオ撮影に使用したクリスタル入りの手袋も出品され、落札金額は18万ドル(日本円で約1470万円)だった[35][36]

2010年12月4日、TMZ.comによると、米カリフォルニア州のビバリーヒルズで開催されたジュリアンズ・オークションズ「ICONS&IDOLS」に1987年から1989年に開催された『Bad World Tour』で使用したラインストーンがまぶしく輝く片手分のグローブと白い中折れ帽子が出品された。落札金額はグローブが33万ドル(日本円で約2805万円)、帽子が7万2000ドル(日本円で約612万円)だった[37]

2010年12月14日、ロイターによるとパリで生前、未公開だった4枚のポートレートが競売にかけられた。これらポートレートは1999年にフランスの写真家アルノ・バニが撮影したものでマイケルがアルバム『Invincible』のために依頼したものであったが、レコード会社の意向で採用されなかった。落札金額は「古代エジプトのファラオ王のようなポーズの写真」が2万6000ユーロ(日本円で約290万円)、「マイケルの左目の周りに青い光沢のある素材を施した写真」が2万5000ユーロ、「黒いシャツで顔の下半分を覆った写真」が2万2000ユーロ、「赤いカーテンの前に立っている写真」が9000ユーロだった[38]

2011年6月26日、「Thriller」のPVでマイケルが着用した赤い革ジャンがジュリアンズオークションに出品され、180万ドル(日本円で約1億4,400万円)で落札された。このオークションには他にも多数マイケルのゆかりの品々が出品され、ゴールド・ディスクは15,000ドル(日本円で約120万円)、80年代にマイケルが着用していたサングラスが60,000ドル(日本円で約480万円)、サイン入りの黒のハットが33,750ドル(日本円約270万円)、MTVアワードでマイケルが受け取ったトロフィーが54,400ドル(日本円で約435万円)、マイケルが描いた落書きが7,680ドル(日本円で約61万円)で落札された[39][40]

ディスコグラフィ[編集]

(ジャクソン5、ジャクソンズ時代の作品はジャクソン5の作品を参照)

CDアルバム[編集]

モータウン時代

オリジナル・リリース:1972年1月
オリジナル・リリース:1972年8月
オリジナル・リリース:1973年4月
オリジナル・リリース:1975年1月

エピック/ソニー

オリジナル・リリース:1979年8月
プロデュース:クインシー・ジョーンズ
参加アーティスト:ラリー・カールトン、デヴィッド・フォスター、ワー・ワー・ワトソン、パティ・オースティン他
オリジナル・リリース:1982年11月
プロデュース:クインシー・ジョーンズ
参加アーティスト:ポール・マッカートニー、エディ・ヴァン・ヘイレン、デヴィッド・フォスター、ラトーヤ・ジャクソン他
オリジナル・リリース:1987年8月
プロデュース:クインシー・ジョーンズ
参加アーティスト:スティーヴィー・ワンダー、ジミー・スミス、サイーダ・ギャレット、スティーヴ・スティーヴンス他
オリジナル・リリース:1991年11月
プロデュース:マイケル・ジャクソン、テディ・ライリー他
参加アーティスト:スラッシュ、ヘヴィー・D、ポール・ジャクソンJr、ルイス・ジョンソン他
オリジナル・リリース:1995年6月
プロデュース:ジャム&ルイス、ダラス・オーティン、R・ケリー他
参加アーティスト:ボーイズIIメン、ザ・ノトーリアスB.I.G.、シャキール・オニール他
オリジナル・リリース:1997年5月
プロデュース:マイケル・ジャクソン、テディ・ライリー、ジャム&ルイス、ダラス・オースティン他
参加アーティスト:スラッシュ、ワイクリフ・ジョン、ファンクマスター・フレックス、サトシ・トミイエ他
オリジナル・リリース:2001年10月
プロデュース:マイケル・ジャクソン、ロドニー・ジャーキンス、テディ・ライリー、R・ケリー、ベイビー・フェイス他
参加アーティスト:ザ・ノトーリアスB.I.G.、クリス・タッカー、カルロス・サンタナ、ブランディー他
オリジナル・リリース:2001年11月
オリジナル・リリース:2003年11月
オリジナル・リリース:2004年11月
オリジナル・リリース:2005年7月
オリジナル・リリース:2009年10月
オリジナル・リリース:2011年11月

※各チャートの数字は最高位。また米国はPOPチャートの順位である。

DVD・ビデオ[編集]

  :90年代盤スリラーと称されたこのSFは完全限定生産BOXとして発売された。

代表曲[編集]

モータウン時代[編集]

  • (1971) Got To Be There(全米4位・R&B4位・全英5位)
  • (1972) Rockin' Robin(全米2位・R&B2位・全英8位)
  • (1972) I Wanna Be Where You Are(全米16位・R&B2位)
  • (1972) Ain't No Sunshine(全英8位)
  • (1972) Ben(全米1位・R&B5位・全英7位)
  • (1973) With a Child's Heart(全米55位・R&B23位)
  • (1973) Happy(全英52位)
  • (1975) We're Almost There(全米54位・R&B7位)
  • (1975) Just A Little Bit Of You(全米23位・R&B4位)
  • (1978) Ease On Down the Road with Diana Ross (from The Wiz)(全米41位・R&B17位・全英45位)
  • (1979) You Can't Win (from The Wiz)(全米81位・R&B42位)
  • (1981) One Day in Your Life(全米55位・R&B42位・全英1位)
  • (1984) Farewell My Summer Love(全米38位・R&B37位・全英7位)
  • (1984) Girl You're So Together(全英33位)

Off The Wall[編集]

Thriller[編集]

BAD[編集]

Dangerous[編集]

HIStory[編集]

Blood On The Dance Floor[編集]

Invincible[編集]

Number Ones[編集]

Michael Jackson's This Is It[編集]

  • This Is It (全米-位・R&B18位・全英-位)

コラボレーション・その他[編集]

  • (1983) Say Say Say with Paul McCartney(全米1位・R&B3位・全英2位)
  • (1984) Somebody's Watching Me with Rockwell(全米2位・R&B1位・全英6位)
  • (1985) We Are The World with Lionel Richie(全米1位・R&B1位・全英1位)
  • (1988) Get It with Stevie Wonder(全米80位・R&B4位・全英37位)
  • (1993) Whatzupwitu with Eddie Murphy
  • (1996) Why with 3T(全米-位・R&B72位・全英2位)


※基本的に掲載されている曲は米国もしくは英国でシングル発売されたもの。
各チャートの数字は最高位。また米国はPOPチャートの順位である
太字は全米、全英を含め、米国のR&Bチャートもしくはヨーロッパ諸国などで首位を取った曲である。(Jam、Heal The Worldは再発で1位)

アルバムセールス[編集]

(2014年1月現在)

モータウン[編集]

作品 売上枚数 備考
Got to Be There 410万枚 4ミリオン
Ben 440万枚
Music & Me 200万枚 2ミリオン
Forever Michael 160万枚 ミリオン
The Best of 220万枚 2ミリオン
One Day in Your Life 150万枚 ミリオン
Farewell My Summer Love 200万枚 2ミリオン
Looking Back to Yesterday 30万枚
The Original Soul of Michael Jackson 37万枚
Anthology 260万組(2枚組アルバム) 5ミリオン

エピック/ソニー[編集]

作品 売上枚数 備考
Off The Wall 2000万枚 20ミリオン
Thriller 2億5000万枚 250ミリオン(全世界で史上最も売れたアルバム)
Bad 4500万枚 45ミリオン
Dangerous 3200万枚 32ミリオン
HIStory 2000万組(2枚組アルバム) 40ミリオン
Blood On The Dance Floor 600万枚 6ミリオン
Invincible 1300万枚 13ミリオン
Greatest Hits - HIStory Volume I 300万枚 3ミリオン
Number Ones 750万枚 7ミリオン
The Ultimate Collection 25万組(5枚組ボックスセット) ミリオン
The Essential Michael Jackson 200万組(2枚組アルバム) 4ミリオン

公演[編集]

Bad World Tour[編集]

  • 1987年9月12日 - 1989年1月27日
    マイケル初のソロ・ワールド・ツアー。9月9日に来日し、12日に東京で開始した。アメリカ・ロサンゼルスで終了するまで、15ヶ国123公演を行い、440万人の観客を動員した。ツアー総売上高は1億2千5百万ドル。コンサート・ツアー史上最大の世界記録樹立。
  • 日本では87年の横浜公演が日本テレビで放送された。

Dangerous World Tour[編集]

  • 1992年6月27日 - 1993年11月11日
  •  :ドイツ・ミュンヘンに始まりメキシコ・メキシコシティでツアー中断を発表するまで、69公演を行い、350万人の観客を動員した。機材総量1250トン以上、スタッフ235人、80台のトラックという規模で行われた。
    2004年発売の「アルティメット・コレクション」にルーマニア・ブカレストでのツアーを収録したDVDが収録された(後に単体で発売)。これはマイケル初の公式ライブDVDである。

HIStory World Tour[編集]

  • 1996年9月7日 - 1997年10月15日
    チェコ・プラハに始まりダーバンで終了するまで、35ヶ国58都市で82公演を行い、450万人の観客を動員した。
  • 唯一、マイケルのライブツアーの映像でHD放送された実績がある(ミューヘン公演とコペンハーゲン公演で、いずれも97年)

THIS IS IT[編集]

  • 2009年7月13日 - 2010年3月6日
    イギリス・ロンドンのO2アリーナで開催予定されていたツアーで、50公演が予定されていた。
    この公演は彼の死によって実現しなかったが、リハーサルの様子は映画『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』として上映・ビデオ化された。

日本公演[編集]

12月31日は、当初カウントダウン公演の予定であったが、急遽カウントダウン中止(0時になる約10分前に終了)となった。

主な日本語書籍[編集]

※基本的に版元在庫の一部。
  • 著書 <MOONWALK>(1988年)
  • 著書 <Dancing the Dream>(1992年)
  • エイドリアン・グラント『マイケル・ジャクソン全記録 1958-2009』吉岡正晴訳・監修、ユーメイド、2009年11月
    マイケル公認本、旧版は『マイケル・ジャクソン観察日誌』(小学館、1997年)、旧版は96年までの記述、英語版は数年ごとに加筆、最期の時までを記述した第5版を元にした。
  • マイケル・ヒートリー『マイケル・ジャクソン伝説の軌跡』五十嵐麗子ほか訳(ベストセラーズ、2009年8月)
  • クリス・ロバーツ『マイケル・ジャクソン―ザ・キング・オブ・ポップ1958‐2009』(青志社、2009年8月)
  • レイチェル・ラニッチ『マイケル・ジャクソン・ア・フォトグラフィック・セレブレーション』(マガジンランド、2009年8月)
  • イアン・ハルパリン『マイケル・ジャクソン仮面の真実』田口俊樹ほか訳(早川書房、2009年9月)
  • 西寺郷太『新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書』(ビジネス社、2009年9月 入門書)
  • 宮島鏡『マイケル・ジャクソン 新伝説』(道出版、2009年9月)
  • チャス・ニューキー=バーデン『MJ マイケル・ジャクソン・レジェンド 1958-2009』(AC Books、2010年1月)
  • 西寺郷太『マイケル・ジャクソン』(講談社現代新書、2010年3月)
  • トッド・グレイ『ヤング・マイケル・ジャクソン写真集 1974-1984』押野素子訳、吉岡正晴解説(ブルース・インターアクションズ、2010年5月)
  • 坂崎ニーナ 眞由美『マイケル・ジャクソンの思い出』(ポプラ社、2010年5月)
  • 松浦大覚『マイケルからの伝言』(さんが出版、2010年6月)
  • ジョセフ・ジャクソン『息子 マイケル・ジャクソンへ ~天国への遺言状~』(講談社、2010年6月)
  • ジェラルディン・ヒューズ『救済 マイケル・ジャクソン児童性的虐待疑惑(1993年)の真相』寺尾和子訳、メディカル パースペクティブス、2011年1月
  • 『緊急報道写真 マイケル・ジャクソン 1958-2009』講談社、2009年7月
  • 『who's BAD? マイケル・ジャクソン 1958-2009』シンコーミュージック・エンタテイメント、2009年7月
  • 『マイケル・ジャクソン★ポップ・レジェンドに捧ぐ』ILM、2009年7月
  • ローリング・ストーン8月号増刊 永久保存版マイケル・ジャクソン・インタビューブック』ILM、2009年7月
  • 『KAWADE夢ムック 総特集マイケル・ジャクソン』河出書房新社、2009年8月
  • ライフ誌特別編集 マイケル・ジャクソン追悼』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2009年8月
  • 現代思想 マイケル・ジャクソン 2009年8月臨時増刊号』青土社
  • 『大人のロック!特別編集 マイケル・ジャクソン メモリアル』日経BP社、2009年8月
  • 別冊宝島 マイケル・ジャクソン 栄光と悲劇のキング・オブ・ポップ』宝島社、2009年8月
  • 日経エンタテインメント!増刊 マイケル・ジャクソン THIS IS IT』日経BP社、2010年2月
  • レコード・コレクターズ増刊 マイケル・ジャクソン・ワークス』ミュージック・マガジン社、2010年7月
  • 清涼院流水『キング・イン・ザ・ミラー』PHP研究所、2010年10月
以下はマイケル生前の出版のごく一部。
  • マーク・ビゴ『マイケル・ジャクソン 孤独なピーター・パン』田川律訳(新書館、2009年9月)、初版は1984年
  • ボブ・ジョーンズ 『マイケル・ジャクソン 少年愛と白い肌の真実』楡井浩一訳(講談社、2005年) 
  • アフロダイテ・ジョーンズ『マイケル・ジャクソン裁判』押野素子訳(ブルース・インターアクションズ、2009年5月)
  • クリストファー・アンダーセン『マイケル・ジャクソン 今世紀最大のポップスターの悲劇と真実』藤井留美訳(ベネッセコーポレーション、1996年)

映画[編集]

CM[編集]

ゲーム[編集]

発売は下記の4つがセガ、5番目はミッドウェイ・ゲームズ(日本ではコーエー。現コーエーテクモゲームスが販売)、6番目はユービーアイソフト

「ムーンウォーカー」は本人がゲームセンターでセガのゲームを遊び、気に入ったことから自らセガに制作を提案した。スペースチャンネル5は試作版をプレイしたマイケル自ら出演を切り出し、急遽ゲストとして登場することとなった。1では飛び入りだったためにごく一部分のみの出演だったが、その後製作されたpart2では主人公であるリポーター・うららの所属する放送局「チャンネル5」の局長として重要な役を演じている。作中では「スリラー」などの振付も登場し、主人公とともに踊っている。

「Michael Jackson: The Experience」はマイケルの死後初めてリリースされた作品になる。

タイトル ハード 備考
マイケル・ジャクソンズ・ムーンウォーカー メガドライブアーケードゲーム 内容は若干異なる(詳細は同項目参照)。
マイケルジャクソン・イン・スクランブルトレーニング メガドライブアーケードゲーム
スペースチャンネル5 ドリームキャストプレイステーション2
スペースチャンネル5 パート2 ドリームキャストプレイステーション2
レディ・トゥ・ランブル・ボクシング・ラウンド2 プレイステーション2ゲームボーイアドバンス ゲームボーイアドバンス版は日本未発売
Michael Jackson: The Experience プレイステーション3Xbox 360WiiニンテンドーDSプレイステーション・ポータブル ニンテンドーDS版・プレイステーション・ポータブル版は日本未発売

マイケルとゲーム[編集]

マイケル自身無類のゲーム好きかつゲームコレクターとして知られ、遺品の中にはたくさんのアーケード筐体やピンボールゲーム筐体があった[41][42]。その中には、来日中にセガに来社、試遊した後に即決で購入したR-360の筐体もあった。また前述の通り、セガとは自身がお気に入りだったことから密接な関係を持っており、マイケルが出演ないしはコラボした作品も残されている。

慈善活動[編集]

ジャクソンは生涯を通じて、世界各地で子どもたちのための慈善活動を行ってきた。1980年代半ば頃から右腕にしている姿がよく見られた腕章は、世界中の子供達を救う決意を表しているものだという。

1984年5月、飲酒運転防止キャンペーンに協力した功績を讃えられ、当時の大統領ロナルド・レーガンより感謝状が贈呈される。

1992年には、世界中の不幸な子ども達の為「ヒール・ザ・ワールド基金」を設立し、世界ツアーの一つである「DANGEROUS TOUR」の収益、推定26億円を全額寄付した。11月、ボスニアの子どもたちにおもちゃや文具が詰まったギフトボックス3万個がクリスマスプレゼントとして届けられたほか、小児病院や子どもたちを支援する団体にも総額11万ドルに及ぶ寄付を行っている。翌年の虐待疑惑などの影響で活動に支障が出たともいわれる。

1993年、ロスで薬物乱用から若者を救う運動に着手。自身も鎮痛剤の中毒に苦しんだ時期がある。1993年、スーパーボウルのハーフタイムショーに無報酬で出演。世界100カ国で放送、各地の軍関係者にも観てもらえるということで出演を承諾、様々な国の異人種の子供達が手を取り合うという演出でウィ・アー・ザ・ワールドヒール・ザ・ワールド等のパフォーマンスを行った[43]

モスクワ、アルゼンチン、グルジアに医療物資として救急車やワクチンを供給するための活動を行っていた。

生涯でチャリティに寄付した額は明らかになっている分だけで3億ドルにのぼる[44]

遊戯施設が併設されている自宅ネバーランドに孤児院の子供や重篤な病に苦しむ子供達と支援団体、地元の子供達等を招待し、全ての施設を無償で開放していた。

1999年、阪神淡路大震災で被災した小中学生へのチャリティ・ソングとして、TOKIOKinKi KidsV6で結成したJ-FRIENDSに、楽曲People Of The Worldを提供した[45]

ワールドツアー等で世界の国々を訪れる度によく病院や孤児院などの施設を慰問していた。ワールドツアーに携わったケニー・オルテガはルーマニアの孤児院を訪れた際、マイケルはその劣悪な環境を危惧し、「明日までに環境を改善し人員を増やさないとステージに立たない」と言い、24時間で孤児院の環境を改善させたとMTVの番組「Human Nature」で語った。

「最も多くの慈善団体(39団体)をサポートしたポップスター」として2000年のギネスブックに載っている[46]

2001年3月には英オックスフォード大学より「世界共通の児童権利法案を提唱する」ための講演を行った[47]

2003年、狼瘡(ろうそう)患者支援団体および研究機関へのチャリティーイベントに出席。

2度ノーベル平和賞にノミネートされており[48]、死後には2010年のノーベル平和賞を授与することを求める署名運動が起こった[49]

チャリティー・ソング[編集]

We Are The World(1985)[編集]

  • アフリカ飢餓救済

参加アーティスト:Michael Jackson, Stevie Wonder, Ray Charles, Bob Dylan, Billy Joel, Cyndi Lauper, Lionel Richie, Diana Ross, Paul Simon, Kenny Rogers, Bruce Springsteen, Quincy Jones (プロデューサー), Hall and Oates, Kim Carnes, Steve Perry, Tina Turner, Dionne Warwick, James Ingram, Smokey Robinson, Kenny Logins, Al Jarreau, Willie Nelson, Huey Lewis 他

People Of The World (1999)[編集]

参加アーティスト:TOKIOKinKi KidsV6 J-FRIENDS(ジャニーズメンバー)に楽曲提供したこの曲は、マイケル本人が楽曲の歌唱指導をテレビ電話で行った。

What More Can I Give? (2001)[編集]

参加アーティスト:Mariah Carey,Celine Dion,Beyonce Knowles,Luther Vandross,Usher,Ricky Martin,Justin Timberlake,Mya,Boyz II Men's Shawn Stockman,The Backstreet Boys' Nick Carter,Carlos Santana,'N Sync,Julio Iglesias,Brian McKnight,Billy Gilman,Anastascia,Tom Petty,Aaron Carter 他

I Have This Dream[編集]

事業[編集]

1985年のATV買収に代表されるように実業家としても知られる。1990年代には日本や韓国で子供向けのテーマパークを建設する計画を発表したこともあるが、実現しなかった。

近年はCD売上の落ち込みもあって財政難が度々報じられ、金銭に関する裁判も複数抱えている。これに対し、マイケルは「僕が破産寸前などという話はまったくのデマ」とはっきり語っている。なお、マイケルは2000年に入ってからも昔の曲の印税だけで年間推定約20億円は収入があったとされる。

製作業[編集]

1990年代、ソニーレコード傘下に自身のレコードレーベルMJJ Recordsを設立。女性グループBrownstoneや、甥3人によるユニット3Tなどをデビューさせた。

日本のジャニーズ事務所との繋がりもあり、1990年代後半にはTOKIO長瀬智也3Tと共演させたTomoya with 3T による楽曲「ETERNAL FLAME」(1997/8/13)やJ-FRIENDSのチャリティシングル「Children's Holiday」(1998/1/21)「People Of The World」(1999/1/13)をプロデュース・作詞・作曲した(「Children's Holiday」は松井五郎、「People Of The World」は秋元康による訳詞)。

逸話[編集]

ショートフィルム[編集]

最も有名なミュージックビデオと形容されているThrillerの制作費はその当時の金額で80万ドル。マイケルが自分の映像作品をショートフィルムと正式に呼ぶようになったのはBlack or Whiteの制作後である。マイケルとジャネット共演のScream(1995)では700万ドルの巨費が投じられ、最も費用のかかったミュージックビデオということになっている。アメリカのホラー作家スティーヴン・キングが制作に参加していることでも知られるGhosts(1996)は35分の最長ミュージックビデオでもある(この作品でマイケルは1人5役を演じている)。Captain EOでは映画の長さ17分に対して制作費1700~3000万ドルと見積もられており、当時としては1分あたりに直して最も費用がかけられた映画だった。また、「Smooth Criminal」のショートフィルムの真のフルサイズバージョンは「ムーンウォーカー」であり、こちらは42分ある。映画であるためミュージックビデオではないが、もしミュージックビデオとして扱われたならこちらの方が長かった。

金銭[編集]

「ぼくはお金に固執はしない。たとえば、その辺の子どもが、ダイヤを見て『これきれい』と言ったら、『いいよ、持って行きな』と言っちゃうだろうし」と2005年2月5日、アメリカFOXニュースの「At Large with Geraldo Rivera」のインタビューで語っている。

2004年のニューヨークタイムズ紙によるとマイケル・ジャクソンの1ヶ月の生活費は2億円で、おもちゃ好きで知られるマイケルはおもちゃ代だけで1ヶ月に3000万円を費やしていた。さらに身の回りの世話をするスタッフも数多く、1989年のBAD TOURでは「マイケル専属世話人」として医者、歯科医、のどの専門医、ネイルアーティスト、足治療の専門医、マッサージ師、ヘアメイク、秘書2人、コック、その他身の回りの世話をする人が7人など約20人以上が世話人としていて、その費用は1ヶ月に4000万円に上った。

2003年にアメリカの大手テレビネットワークのABCテレビなどで放送されたドキュメンタリー番組「Living with Michael Jackson」の中でマイケルは「12歳か13歳の頃、20万ドル(当時の日本円で約7200万円)の小切手を受け取っていたことを覚えている。それは毎月、貰っていたんだ。父親は何に使う?って聞いてきたんだけど僕は貯金した方が良いと答えたんだ。でも父親は好きな物が買えるようにと毎月、お金を渡してくれた。それで僕はチューインガムやキャンディなどを買ったんだ」とジャクソン5時代の収入について語っている。

結婚歴[編集]

1994年5月26日、エルヴィス・プレスリーの娘のリサ・マリー・プレスリーと結婚し「世紀の結婚」と言われたが1996年1月18日離婚。「1999年には「エルヴィスだって鼻の整形をした」とマイケルが発言したため、怒って電話にも出なくなった」と言われているが、実際にはマイケル自身が以前日本の雑誌のインタビューで、「プレスリーも鼻の整形をしていたよ。リサ・マリーが教えてくれたんだ」と発言している。(離婚後に行われたインタビュー)同じインタビューで、「彼女とは今でも良く電話で話をするし、僕の子ども達に会いにきたりもするんだ」と語っている。1995年12月に、リサ・マリーと病院で大げんかをし、翌年8月に離婚成立。その直前の3月には後の妻となるデビー・ロウが流産している。1996年11月3日に、メディアによってデビーが妊娠6ヶ月であることが明らかにされ、11月14日、デビー・ロウと結婚。ビバリーヒルズの皮膚科医のアシスタントとして働き、マイケルはその皮膚科医師の患者だった。彼女との間には長男プリンスと長女パリスが誕生した。1999年10月8日には離婚した。マイケルによると「彼女は私のために子供を作りました。彼女は『あなたは父親になる必要がある』と言いました…そして彼女は私への贈物として子供を作ってくれました」と、バシールの番組で発言していた。2002年にはさらに代理母により次男が誕生した。

ネバーランド[編集]

以前住んでいた自宅は遊園地、動物園が併設されており、ネバーランドと呼ばれる。場所はカリフォルニア州サンタバーバラ近郊、敷地面積は2800エーカー(1100ヘクタール)以上[50]あり、千代田区の面積とほぼ同等である。ネバーランドの名は「ピーターパン」に登場する大人にならない島に由来している。「ピーターパンは僕が心の中に持っている特別な象徴なんだ。ピーターパンからイメージするのは若さ、子供時代、大人にならないこととか、Magicとか、空を飛ぶこととか、僕はそういったものにずっと魅力を感じ続けていて、そして何よりも大切なものだと感じ続けているんだ」と語っている。ラマゾウ、マッスルズという名のニシキヘビなど様々な動物も暮らしている。2008年11月にロスの民間企業へ譲渡した(多額の借金の返済のためといわれているがそれはまったくのデマである)[51]

1989年に39億円をかけて建設した。維持をするためにスタッフを100人以上雇い、年間に維持費として2~3億円を費やしていた。

ディズニーランド[編集]

ディズニーランドが好きで、何度も目撃されている。東京ディズニーランドにも何度か訪れていて、1987年にツアーで来日した際には夕方から貸切で楽しんだ。東京ディズニーシーも訪れたことがある。また、ディズニーランドや東京ディズニーランドのアトラクションのひとつであったキャプテンEOに主役として出演しており、没後に追悼として各パークで再演が行われている。

恋愛[編集]

ダイアナ・ロスを尊敬していることは有名であるが、本人は中学生時代に彼女に告白して失恋している。その時は「もう絶対結婚はしない」とまで言ったそうである。1970年代はテータム・オニールとの交際話もあった。「スリラー」のヒットと同時期に交際していたのはブルック・シールズである。

食事[編集]

食の細さで知られる。1987年10月15日、マイケルが来日した際に『ホテル音羽ノ森』のレストランに立ち寄り、その時はベジタリアンだったマイケルの為に、豆腐ステーキ、アボカドのムース、かっぱ巻といった料理が出された[2]。また1987年10月23日、中国は広東省中山市に訪中していたマイケルは当時ベジタリアンで、昼食に素食(ベジタリアン料理)を用意したことが報じられている[3]

ベジタリアンであると言われており(1988年まで約10年間ベジタリアンだったという説がある)「肉は血で汚れているから食べない」(バッドツアー時の日本テレビの密着番組にて噂のひとつとして紹介)とまで言ったとまことしやかに噂された[要出典]

ケンタッキーフライドチキンが好物であるとも言われ(親しかったマジック・ジョンソンが、マイケルと2人でケンタッキーフライドチキンを食べた思い出を語っている)[52]マイケル・ジャクソン裁判の際に昼食に食べていたとも言われている[53]。その他、1987年9月12日~10月12日まで日本で14公演行われたBADツアーにマイケルに同行した、当時日本ペプシ・コーラの副社長に就任したばかりだった秋元征紘氏は、当時米国ペプシの社員で、マイケル担当のアーロン・ウォルトンが直接マイケルに「もしダイエットを気にならかったら、何が一番食べたい?」と質問し、マイケルは「僕が一番食べられなくて残念なもの、それは勿論ケンターキーフライドチキンさ」と返答されたという内容を語っている[4]

飲酒の習慣は殆ど無く、酒どころかコーラも飲まない。ペプシコーラのCMに出演した際ですら一滴も飲まなかった[要出典]

1987年、1988年マイケル来日中のコックを務めた三條は、マイケルに夜中の3時に起こされ、ポップコーンを作って欲しいと言われ、作ったことがある。味付け海苔を気に入って新幹線の中で食べていた。ビタミン剤も摂っていたという。コンサートの日も朝食は食べず、コンサート終了後、帰ったらまずアイス(ハーゲンダッツのハニーバニラを好んだ)を食べ、またカジキマグロ等も良く食べ、食事の際には100%のオレンジジュースとソーダウォーターをよく飲んだことが語られている。マイケルが肉や魚を食べるようになったのは、1988年11月に日本へ来る前にLAで倒れ、LAのコンサートが流れた時にドクターから、動物性タンパク質を摂るように言われ、白身の魚や鳥肉を食べることをアドバイスされたことがキッカケという。また動物性油分を避けるために、トーストはバターを使わずにマーガリンを使っていた[5][6][7][8]

1988年6月18日ベルリン到着から9月6日のリンツまで、マイケルのボディガードで同行した人へのインタビュー記事によると、大抵マイケルは13時ごろ起きると、シリアルと果物を食べ、その後の食事はコンサート後に鶏か魚を食べていたことが語られている[9]

マイケルは1995年12月6日にも倒れ救急車で病院に運ばれた[10]。マイケルは肉が好きではなく、魚や野菜、チキンスープ等が好きらしいということがあり、医師たちは、マイケルにもっと蛋白質を摂り 1日2クォーターの水を摂るよう指導した[11]

2009年ロンドンでの復帰ライブのための体作りのためにプロテインを摂取していると言われていた。

日本[編集]

1987年、ソロとしての初来日した際、日本では静かな声で穏やかに話す人の方が良しとされることに驚いたという。マイケルはセガのゲームがお気に入りで、来日の際に何度かセガ社を来訪している。セガではマイケルに『ギャラクシー・フォース』を筐体ごとプレゼントするなど歓待しており、一方のマイケルも同社の『スペースチャンネル5』に「友情出演[54]という形で出演している(詳細は#ゲームを参照)。日本のアニメーションのマニアでも知られていて、『戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー』(ただし元は米国アニメの逆輸入である)『新バビル二世』『赤い光弾ジリオン』などを好んでいる(これらの映像は、ショートフィルム「Scream」内で一部使用されている)。実際に映画『ムーンウォーカー』では変形ロボット、『MTV』では映像を使用した。イラストレーターのいのまたむつみを呼んで自分のキャラクターを描かせたこともある。

また、初来日公演の時には群馬県高崎市男児誘拐殺人事件のニュースを聞き、大変心を痛め、兵庫県西宮市西宮スタジアムでのライブでは被害者の少年に向けての哀悼のメッセージを発した。

日本テレビ放送網が、1987年の初来日の際のマイケル・ジャクソンに密着したドキュメンタリー番組を制作した。その番組の映像の一部が、2009年6月28日の『THE・サンデー NEXT』にて22年ぶりに放送された。

イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の「ビハインド・ザ・マスク」を、プロデューサーのクインシー・ジョーンズが気に入り、マイケルのアルバム『スリラー』に、マイケルによる補作詞及びメロディの追加を施したカバーバージョンを収録するつもりであった。しかし発表にあたって、マイケル側が作曲のクレジットと版権の50%を要求したため、YMO側がこれを拒否。マイケル自身がカバーしたマイケルバージョンは発表されなかったが、グレッグ・フィリンゲインズ(『スリラー』の共同プロデューサー)やエリック・クラプトンがカバーしている。YMOのメンバーだった坂本龍一(この曲の作曲者)も、ステージでマイケルによる歌詞が付いたバージョンを演奏していた。今では完全に坂本龍一作曲となっているが、当初は高橋幸宏も作曲者としてクレジットされていた。また、2010年に発売された『MICHAEL』にバックトラックだけ差し替えられ収録された。

J-FRIENDSに「People Of The World」を提供した際、J-FRIENDSのメンバーに電話で一人一人に歌唱指導をしたとされる。中でも堂本剛には「君は歌がうまいね」と褒めたという[要出典]

私生活[編集]

少年時代、クリスマスも誕生日もなく、休み返上で働いていて、レッスンにいく途中、子供たちが楽しそうに外で遊んでいる姿を見ては羨ましいと思っていたと本人が語っている。

マイケルとマドンナとプリンセス・テンコーが、ブルネイハサナル・ボルキア国王(スルタン)一人のためだけにショーをしたとき、テンコーは油田、マドンナがダイヤモンド、マイケルは鉱山か炭鉱をもらった(テンコー談)。

自伝では「最も優れたエンターテインメントはストーリーテラー(語り部)である」と書いている。

木登りが好きであり、木の上で曲を作ることがあった。ネバーランドにはBlack Or White、Heal The World、We are the worldを書いたとされる木があり、本人は「恵みの木」(Giving Tree)と呼んでいた。

家族との確執も噂されるが、父親の誕生パーティーもきちんと行っている。

マイケルの楽曲は今もなお数多くの若いアーティストによってカバーされている。エイリアンアントファームのSmooth Criminalは同グループの人気を押し上げた。また、2007年にはリアーナがDon't Stop the Music(「グッド・ガール・ゴーン・バッド」収録)でWanna Be Startin' Somethin'をサンプリングしている。

2003年10月1日にロンドンで開かれたクリスティーズのポップス記念品オークションでは、マイケルが1976年に描いたチャップリンの鉛筆画が4112ポンドで落札された。

変装をしてお忍びで外出することも多いが、子供連れのため発覚し騒ぎになってしまうこともしばしば。

1999年の6月に『風と共に去りぬ』の作品賞のオスカー像を150万ドル(約1億5750万円)で落札した。ジャクソン曰く、「この映画のオスカー像を手に入れるのが長年の夢だった」。しかし、オスカー像は譲渡を禁止されており、盗品扱いとされ、アカデミー協会によって1ドルで回収される。

1958年生まれ[編集]

同い年としてしばしば引き合いに出されるのが、マドンナプリンスである。この3人は、当時の音楽業界においてもそれぞれが飛ぶ鳥を落とす勢いであったために、ゴシップ誌などを中心に恋愛関係やライバルとして噂されることが多かった。噂にとどまらず、実際にマイケル自身もそれぞれとの共演(プリンスとは「BAD」でのデュエット、マドンナとは「In the Closet」における共演など)を数度に亘って計画しているが、いずれも実現はしなかった(ただし、プリンスとマドンナの共演は実現している)。マイケルが亡くなった直後、マドンナは自身のステージにてケント・モリによるマイケルのパフォーマンスを行い、プリンスはマイケルのカバーを改めて演奏している。

またマドンナとプリンスは、いずれ「ウィー・アー・ザ・ワールド」に招かれているが、それぞれが理由をつけて参加はしていない(プリンスは1曲提供)。

ギネス・ワールド・レコーズ[編集]

マイケル・ジャクソンはこれまでに個人と家族ぐるみで15個以上のギネス記録を持っている。

  • 最高契約金額(ソニーとの契約金8億9000万ドル)[55]
  • 最も成功した兄弟
  • CM出演料史上最高額(1986年のペプシとの契約金700万ポンド 当時の日本円で13億円)
  • 男性ソリストによる英国最高売上アルバム(「BAD」の100万枚)
  • 全米シングルチャート1位を獲得したグループの最年少ボーカリスト(1970年に11歳5ヶ月 「I want you back」)
  • 最も成功したコンサート(1988年のロンドン公演でのチケット7日間分完売)
  • 最長ビデオ(「Ghosts」長さ35分)
  • 人気歌手による販促キャンペーン費用、最高額(合計4000万ドル)
  • NO.1ヒット曲の数々を一番長く持ち続けたアーティスト (自作、ビートルズ他の所有)
  • 全米アルバムチャートでの最長期間首位(『スリラー』の37週 サントラを除く)
  • 全米シングルチャート初登場第1位を獲得した史上初のアーティスト
  • 史上最も成功した音楽ビデオ(100万枚以上)
  • イギリスで一年に最多ヒットシングルを記録(19のシングルがTOP40に)
  • ポップミュージックで最も成功した家族(家族で全米シングルチャート1位を取った曲数が合計で26曲)
  • 人類史上最も成功したエンターテイナー
  • 史上最も売れたアルバム(『スリラー』全世界で1億400万枚)
  • 個人アーティスト単年度でのグラミー賞最多受賞(1984年のグラミー賞において8部門受賞)
  • 史上最高額の所得を得たエンターテイナー(1989年に1億2500万ドル 当時の日本円で約175億円) 
  • 個人名義で最も多くのチャリティ事業に寄付した人物(39のチャリティ基金)

主なゴシップ・事件[編集]

事実確認の取れない記事・報道の数々[編集]

マイケルは金銭目的で訴えられることが多く、「ビート・イット」は自分の作品だと言う男性に訴えられたり、契約不履行だとして訴えられたりしている。2003年までに金銭目的で訴えられた案件は1500回に上っていた。2004年には1年だけで約130人が訴訟を起こした。1997年には「ウィル・ユー・ビー・ゼア」はイタリア人歌手の曲の盗作だとして訴えられた。マイケルは「何か似た部分はあるけど全くの偶然だね。だって僕、イタリア語ができないんだから」と一蹴した。このように訴えられることの多さの反面、有罪判決を受けたことは一度もない

ゴシップ記事も多く、マイケルとジャネットは同一人物であるという説(1995年ごろ)もあった。子供に関するゴシップは「マイケルには隠し子の長男がいる」というものもあり、その子供はマイケル・ジョセフ・ジャクソンJr.といい、BADの発売の頃に生まれた子供で彼の母親はスイスに住んでいるのだという。全てマイケル側は否定しており実際にはマイケルの「名付け子」だった。

子供たちの親に関する様々な憶測がなされる中、マイケルはFOX TV の「裏切られたマイケル・ジャクソン」で自分の子供たちは「セックスしてできた子供」と言い、ロウも同様に証言していた。2005年4月の裁判の証言ではマイケルを「子供たちにとって良き父親」と称賛し「裏切られたマイケル・ジャクソン」もマイケルに言わされたものではないと証言している。デビー・ロウは親権に関する裁判も起こしている。離婚後、ロウは子供たちと45日おきに1度、8時間の面会を許可されていたが、マイケルが常に子供たちを連れて旅に出ていたため彼女はすべての親権を2001年に放棄していた。2006年まで行われた裁判は、この面会に関する親権を取り戻すべく行われた。なお、この裁判は2006年9月に「デビー・ロウと和解することで決着」したという。

知名度を利用する人間も多く、2004年にはマイケルと少年の映像を提供するというコンピュータウイルスが出現。2005年には「マイケルが自殺未遂」[56]、さらに「マイケルが死亡」[57]という情報を組み込んだコンピュータウイルスが出現する。パンダ・ソフトウェアが2005年6月13日発表した「セレブウイルス・ランキング」では、2004年にはウイルスやスパムに6番目に悪用される存在となった[58]

ネット上では真偽不明の噂が簡単に流れるが、マイケル・ジャクソンの場合はテレビや新聞のニュースにおいても信用できる情報は少なく、事実上それらもゴシップ化していた。

事実確認のされない報道は多く、「マイケル・ジャクソンがネバーランドを売却」という報道は数回伝えられた。だが、これらは実際には「ネバーランドを売却しなくては財政的にきついのではないか」とか「マイケルが国外に移った」とかいったことから事実確認がなされずに作り出された報道であった。

無罪判決が出された時も、ドイツ公共テレビARDのニュースキャスターが「陪審団は昨夜、ジャクソン被告が10の罪状すべてで有罪であるとの評決を下した」と速報を読み上げ騒動になった。しかも、この誤りはライバル局の人気コメディアンが「マイケル有罪」と伝えた映像のビデオを使って指摘するまで関係者達は誰も気づかないという事態になった。

性的虐待裁判の際には模倣犯が出現し、1984年5月に性的虐待をされたことを「思い出した」男がいたが[59]、彼の民事訴訟は2006年4月18日に裁判官によって却下された。

ウィキペディアも問題を起こしたことがある。2005年ハリケーン・カトリーナの被害に際してチャリティシングルをマイケルが企画した際に、ウィキペディアが「チャリティーソングは12月20日にリリースされる」「タイトルは『I Have A Dream』」といった早まった情報を流した。これらは事実確認の取れない、いわゆる「噂の集約」といったものであった。そのため、12月15日レイモン・ベインが「ジャクソン氏のハリケーン救済ソングの名前を含め、ウィキペディアで伝えられている情報は事実に反しており不正確なものです」と報道する事態となった。

名称に関してはレコーディングに参加したシアラやディニッシュが語った内容であり、事実無根だったわけではなく、後に公式の発表もなされている。しかし、結果的にこのような事態になったことは事実である。標準時間2005年12月12日7時45分には、英語版ウィキペディアで「I Have This Dream」の項目が事実確認のされないまま作られている。

「薬物を乱用」「バーレーンで職探し」といった情報が流された時、レイモン・ベインは「読んだ内容の90%は信じないでください。大半は嘘ですから」と2006年1月20日語っている。

偏向報道[編集]

尋常性白斑という皮膚病を患っているために皮膚の色が白く変化した(死亡後の検死においても尋常性白斑症と診断された[60]ことを公表しているにもかかわらず、ワイドショーや情報番組で出演者達に「黒人のマイケルは白人になりたくて肌を漂白した」等、人種差別的な中傷コメントをされ続けたり、少年虐待疑惑に関して無罪判決が出たにもかかわらず、まるで本当は有罪であるかのような印象を視聴者に与えるコメントと偏向的な報道を多くされ続けた[61]。 死後も、皮膚の色に関するものなどの人種や病気に対する差別的なコメント、偏向的かつ事実と反するネガティブなゴシップ報道も多くなされ、日本では放送倫理・番組向上機構に批判が寄せられた[62][63][64]

2005年の少年虐待疑惑に関する裁判(マイケル・ジャクソン裁判)に関する報道について、作家でありジャーナリストであるアフロダイテ・ジョーンズは「当時のメディアはマイケルを標的にし彼の破滅を企てていた、メディア関係者の中には検察側の主張に合わせ報道を歪めるような不公平な偏向報道をしていた者もいた、自らも以前はTV視聴者にマイケルが有罪と思い込ませるようなコメントをしていた、2200ものメディア関係者が裁判を取材したが、自らの偏向報道を認めた者はほんの少ししかいない」ということを自著『マイケル・ジャクソン裁判 あなたは彼を裁けますか?』の序文で告白している。正式な裁判記録に基づいて綴られたこの著書は、マイケル側に立った本ということで当時は出版してくれる出版社が見つからず、自費出版に至ったという。マイケルの弁護を担当したトーマス・メゼロウ弁護士も「メディアはマイケルが有罪になることを望んでいた、有罪になり刑務所に入りでもすれば世界的に有名なスターの栄光と堕落ということで映画・TV・書籍などのあらゆる媒体でネタにでき、そうなれば何十億ドルにもなる莫大な収益が見込めたから」という内容の序文を寄せている。

ジャーナリストのチャールズ・トムソンはマイケル・ジャクソン裁判に関する偏向報道の概要を裁判記録と当時の実際の報道とを比較して指摘した。以下要旨「裁判記録を見てみると裁判の実態は、検察側(裁判を起こした少年側)の証人や証言に信憑性がないことが弁護側の反対尋問によって次々暴かれていったものだったことがわかるのだが、そういった検察側に壊滅的なダメージを与えた反対尋問は無視され報道されないという傾向があった、逆にマイケルが有罪であると視聴者にほのめかすような報道や中傷コメントは常軌を逸する程多かった、裁判では信憑性がないとされた検察側の主張があたかも真実であるかのように報道され続けた、無罪評決が下された後もメディアは反省や謝罪をするどころか裁判の実態を検証し正しく伝え直す報道もせず、評決前にマイケルが有罪になるとコメントしていたニュースアンカーやコメンテーター達は無罪評決が出たことに対し『恥をかかされた』と怒りマイケルを中傷し続けた、メディアは視聴者を騙しマイケルに甚大なダメージを与えた、この裁判報道はジャーナリズム史上最も恥ずべき出来事の一つである等」[65]

2009年12月5日、フジテレビの自己検証番組新・週刊フジテレビ批評において「マイケル急死を日米はどう伝えたのか」という特集が放送された。海外からマイケルの映像やタブロイド誌のゴシップネタを買い付けて日本の報道機関に売り、自らもコメンテーターとして出演する等、日本におけるこれまでのマイケルの報道にはデーブ・スペクターが深く関わっていたことが説明された。「どうしてひどい報道ばかりされるの?」等の視聴者から寄せられた報道のあり方への疑問について答える形でスペクターは以下のように語った。「アメリカの芸能報道番組にはTV局による規制が全くなく、何でもありで作りたい放題。海外から日本にゴシップネタを輸入する際にも全く規制が掛からない。世界的スターであるマイケルのネタは視聴率が高い。局によって違うネタを売った方がウケる。タブロイド誌は絵が派手で簡単にネタを持ってこれる。今後はマイケルの子供達やタイガー・ウッズ等を狙っていく」等。この中でスペクターは「マイケルの番組は視聴率が高い」ことを連呼した[66]

生前の扱われ方に関する著名人のコメント[編集]

2006年12月30日、ジェームス・ブラウンの葬儀におけるアル・シャープトン師(著名な黒人運動指導者)のスピーチ内の、ジェームス・ブラウンからのマイケルへの伝言より「心配せずに故郷に戻ってこいと伝えてくれ。才能のある人間はいつもスキャンダルで騒ぎ立てられるものなんだ」[67]

マイケルの追悼式でのアル・シャープトン師のスピーチより「マイケルの3人の子供達に知っておいて欲しいことがある。君達のお父さんにおかしなところなど何もなかった、おかしいのはお父さんが立ち向かわなければならないものの方だった。しかし彼は何としてでも立ち向かった、立ち向かったんだ、私達のために」[68]

オノ・ヨーコの追悼コメントより「人種差別も含む様々な理由で、世界は彼に対して不親切であることも、彼は知っていました」[69]

マドンナによる追悼スピーチより「魔女狩りが始まったのです。マイケルについてのネガティブな噂が次から次に出て来ました。彼の痛みを感じました。街を歩いていて世界中が敵になったように感じるのがどういうことなのか、私は知っています。リンチを行う群集の叫び声が大きすぎるために自分の声は届かないと悟り、どうすることも自己防衛もできないと感じるのがどういうことなのか、私は知っています。(略)彼が家族やキャリアの再建に勤しむ中、世間は批判に徹しました」[70][71]

暗い記憶[編集]

マイケル自身はさほどひどい目にあわなかったと述べていたが「稽古中、父はいつも椅子にベルトを持ちながら座っていて、間違えると叩かれ、みんないつも緊張しながらレッスンをしていた」「ほかにはアイロンコードとか周りにあるものすべてをつかって、ときには僕らをありったけの力で壁に叩きつけ、母親があなた死んじゃうよ、死んじゃうよ、って叫んで止めたのを覚えている。ぼくは足が速かったから逃げられたけど、捕まえられた時は、本当にひどい目にあった」「父を見るだけで失神して、ボディガードに助け起こされたこともあった。すごく憎んだ。だから自分の子供たちには、絶対に手をあげないんだ」などと語っている。

また、グループの駆け出しの頃、売り出すためとはいえストリッパーがいかがわしい出し物をするナイトクラブで営業しなければならなかったこともある。

ソニーウォーズ[編集]

1990年代後半頃からマイケルとレコード会社側の仲は非常に険悪なものとなっていった。レコード会社側は圧力をかけ、マイケルはそれに反抗するというような状態が続き、2001年の『Invincible』の発売直前にこれが最後のアルバムとモトーラに通知した。

実はこのアルバムでは当初、1997年5月に射殺されてもはやこの世にいないビギー・スモールズことノトーリアスB.I.G.の声を収録した「Unbreakable」に20分のショートフィルムを付けて先行シングルとして発売したいというのがマイケルの意向であった。ところが、レコード会社は時間をかけたくないという理由を挙げて、「Unbreakable」を「You Rock My World」に差し替えた。そのため、このアルバムではマイケルが自らの意向通りにリカットシングルを発表することができなかったのである。

その『Invincible』がUSで200万枚の売上しかでなかったとソニーが報告したことに関し「曲が売れなかったのはソニーの宣伝が足りなかったからだ」「会長は人種差別の塊だ」としソニーを提訴。これに関し会社側はプロモーションビデオや宣伝に以前と同等の予算を使ったと反論。だが、2003年1月10日、トミー・モットーラは会長を退き、様々な批判があったがマイケルは勝利し、最終的に5月にはマイケル側の意向をほぼ全面的に呑むことで合意した。

2003年11月ソニーから発売したベスト盤には新曲「One More Chance」が収録された。ただし、この楽曲の広告にはソニーはほとんど関与しなかった。

この問題はマイケルの勝利が決定した時点で幕を下ろすかと思われたが、この問題はさらに尾を引く。マイケルとソニーによる合弁会社、ソニーATV音楽出版は30万曲以上の著作権を管理・運用しており、これによる年間収益はおよそ8千万ドル(ビートルズの楽曲だけでも3千万から4千5百万ドル)に上り、これらのカタログの価値は6億から10億ドルとも言われていた。ソニー・ミュージック幹部からの情報によると、ソニーと対立していたマイケルがソニーから離れた場合、その版権カタログの権利に関して激しい損失が起こるため、版権カタログを奪うべく、シャフェル、コニッツァー、財政相談役のアル・マルニックらがマイケルの周囲で対立していたという。元マイケルの広報担当、アン・マリー・カイトによると彼ら側近はマイケルから膨大な額の金を着服し、陰謀を企てていたという。

このことはマイケル・ジャクソン裁判でも問題になり、弁護人トーマス・メゼロウはマイケルのことを「名声を失墜させようとした側近たちの被害者だ」と述べた。結果的にマイケルは無罪になったが、カタログはその価値のために様々な事件を今まで巻き起こしてきたものであることは否めない[72]。マイケル側に動きがあったとき、ソニー側にそのビートルズの版権の半分を売り渡すのではないかというメディアの観測も2006年4月に出たが、すぐにマイケル側はそれは「新たな融資が組みあがったこと」であると言い、カタログは売っていないと語っている。

結果的に、2006年6月には資産・経営管理を担っていた人物達との関係を解消し、広報担当のレイモン・K.ベインをゼネラル・マネージャーに指名した。8月にはレイモン・ベインが前民事弁護士やアドバイザーなどによるマイケルの破産を狙ったとされる文章が存在することを公表した。2006年12月23日には、マイケル側は年に250万ドルの詐取があったとして前会計担当士(社)らを相手取り訴訟提起した。

肖像権を巡るトラブル[編集]

マイケルの遺産を管理するアメリカの法人・「マイケル・ジョセフ・ジャクソン遺産財団」からマイケルの氏名及び肖像に関して使用許諾を受けた「トライアンフ インターナショナル インコーポレーテッド」が、東京都渋谷区内の企業・「イーシービズジャパン」が日本国内での肖像権を独占的に保有すると同社ウェブサイト上に表示した上で、肖像権を無断使用したとして、東京地裁に訴訟を起こした。2011年10月11日に同地裁は、訴えを認め、表示を全面的に差し止めるよう、イーシービズジャパン社に命じた[73]

ファミリー[編集]

両親

兄弟

  1. Rebbie(Maureen Reilette) Jackson (1950 - )
  2. Jackie(Sigmund Esco) Jackson (1951 - )
  3. Tito(Toriano Adaryll) Jackson (1953 - )
  4. Jermaine Lajaun Jackson (1954 - )
  5. LaToya Yvonne Jackson (1956 - )
  6. Marlon David Jackson (1957 - )
  7. Brandon Jackson (1957 - 1957)(マーロンと双子、生後数時間で逝去)
  8. Michael Joseph Jackson(1958 - 2009) - 本人
  9. Randy(Steven Randall) Jackson (1961 - )
  10. Janet Damita Jo Jackson (1966 - )
  • Joh'Vonnie Jackson (1974 - )(異母妹)

子供

  • Prince Michael Jackson (1997) (出生時名 Michael Joseph Jackson, Jr. より離婚後改名)
  • Paris Michael Katherine Patricia Jackson (1998)
  • Prince Michael Jackson II (2002)

影響[編集]

マイケル自身のキャラクター、そしてダンスのインパクトによって、これらはアメリカの内外を問わず、たびたびものまねの対象となる。例としては、マイケルの代わりとしていくつかの映画に出演しているエドワード・モス(Edward Moss (impersonator))や、オーストラリアで「Jackson Magic」と銘打ったショー[12]を行っているポール・リゾ(Paul Rizzo)、また日本のものまねタレントとしてマイコーりょうまいける井上などが活動を行っている。

影響を公言している邦人著名人[編集]

関連項目[編集]

出典[編集]

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  1. ^ VH1 100 Greatest Artists of All Time - Worst List of All Time? - Bloginity.com”. 2011年2月25日閲覧。
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  3. ^ Rocklist.net...Q Magazine Lists..”. Q - 100 Greatest Singers (2007年4月). 2013年5月21日閲覧。
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  5. ^ My Childhood, My Sabbath, My Freedom”. beliefnet.com (2010年2月22日). 2010年2月22日閲覧。
  6. ^ 1984: Michael Jackson burned in Pepsi ad”. BBC ON THIS DAY (2006年12月11日). 2006年12月11日閲覧。
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  9. ^ ポール・マッカートニー「マイケル・ジャクソンの遺言に失望はしていない」
  10. ^ [1]
  11. ^ 合田道人『紅白歌合戦の舞台裏』
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外部リンク[編集]

公式サイト[編集]