バッド・ワールド・ツアー

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Bad World Tour
マイケル・ジャクソン の ワールド・ツアー
関連アルバム バッド
初日 1987年9月12日(11日はリハーサル)
最終日 1989年1月27日
行程 2
公演数 北米54
ヨーロッパ41
アジア23
オーストラリア5
計123公演
マイケル・ジャクソン ツアー 年表
Victory Tour
(1984)
BAD World Tour
(1987–89)
Dangerous World Tour
(1992–93)

Bad World Tourとは、マイケル・ジャクソンが1987年9月12日から1989年1月27日まで行った初のワールドツアーである。16か月に渡り、15か国で123公演が行われ、440万人が来場、1億2500万ドルの売り上げを記録。

エピソード[編集]

1987/9/12~10/12 日本公演

9月9日、マイケルは自身のキャリア初となるソロ・ツアーのため来日。日本へ向かう機内では同行した専属シェフによるヴェジタリアン・メニューのみを食べ、機内食には手をつけなかった。

宿泊するホテルのベッドルームにはダンスフロアが設けられ、マイケルはフロアを汗で水浸しにするほどダンスの練習に打ち込んだ。ロサンゼルスへ国際電話をかけ、ヴォイス・トレーナーのセス・リッグスを相手に電話越しでヴォイス・トレーニングにも励んだ。

ペットのチンパンジー、バブルス(当時4歳)もファースト・クラスで来日し、マイケルと同じホテルに泊まった。バブルスはカメラの前でムーンウォークを披露したり、当時の中曽根康弘首相から儀式用の刀剣を授けられたりもしている。

この年の日本公演は、当初は9回=東京(後楽園球場)、西宮(阪急西宮スタジアム)、横浜(横浜スタジアム)で各3回=の予定だったが、あまりのチケット需要の高さのため、さらに5回=横浜で2回、大阪(大阪スタヂアム)で3回=が追加された。

アルバム制作で忙しかったマイケルは、ツアーの準備に十分な時間が割けなかった。そのため1987年の曲目は、その3年前に行われた ジャクソンズの『ヴィクトリー・ツアー』の内容をほぼ踏襲したもの。終盤にヴィクトリー・ツアーでは演奏しなかった「スリラー 」、「キャント・ストップ・ラヴィング・ユー」、「BAD」を追加している。

この年のステージ・デザインのコンセプトは、マイケル主演で前年に公開されたディズニーランドの3D映像アトラクション『キャプテンEO』にちなみ、「不時着した宇宙船」。

バックアップ・シンガーの1人として、メジャーデビュー前のシェリル・クロウが参加。ステージではマイケルと「キャント・ストップ・ラヴィング・ユー」をデュエットした。

来日時マイケルは味付け海苔を気に入った様子で 、リハーサル中にポケットから取り出しては食べていた。

音が皇居周辺まで鳴り響いたという後楽園球場での公演。初日のステージを終えたマイケルは球場を後にする際、カメラに向かって「ドモアリガット~♪」と、バンドスティクスの「ミスター・ロボット」の一節を口ずさんでみせた。

この年のツアー・パンフレットには、当時まだ公開されていなかったショート・フィルム「スムーズ・クリミナル」の写真が掲載されている。

ステージ裏に設けられた楽屋を、KONISHIKIや(当時は大関「小錦」)や、ツアーで来日中だったボン・ジョヴィのメンバーらが訪れ、マイケルと対面している。

東京滞在中、マイケルはCBSソニー信濃町スタジオへ。スティーヴィー・ワンダーから送られてきたデュエット「ゲット・イット」のテープに自身のヴォーカルを追加し、完成させた。

移動中、車が赤信号で停車するとマイケルはたびたび窓を開けて、付近の車に声をかけた。幸運にもサインをもらったファンから「サンキュー」と礼を言われたマイケルは、「彼らも英語を話すんだね」と感心した。

大阪市役所を表敬訪問したマイケルに、当時の大島靖市長から「大阪市の鍵」が授与された。同行したバブルスが、マイケルに出されたお茶を飲んでみせる一幕も。

この頃、日本国内で発生した幼児誘拐殺人事件に心を痛めたマイケルは、涙ながらに「何かできないだろうか」と、通訳に相談。西宮公演の最中、マイケルは被害者の男の子に哀悼の意を表して「二度とこのような悲しい事件が起こりませんように。今回のジャパン・ツアーを彼に捧げたい」と語り「キャント・ストップ・ラヴィング・ユー」を歌った。

その西宮公演のラストで「BAD」を歌った際、「ドーモアリガトー、トーキョー」と都市名を言い間違えるハプニング。

横浜公演では、ステージを降りたマイケルがスタッフの制止を振り切ってグラウンドを駆け抜け、一塁側フェンスをよじ登るパフォーマンスを見せた。

大阪公演では、「ミンナー!」や「(ステージ下へ)オリテイイ?」などの日本語にもトライしたが、発音が悪かったせいか、残念ながら観客にはあまり通じていなかった。

マイケルの両親と姉のラトーヤも来日し、マイケル初のソロ・ツアーを見守った。母・キャサリンは「素晴らしいショーだったが、兄弟がいればもっと素晴らしかったはず」との感想を述べた。

公演には毎回VIP席が用意され、養護施設の子どもたちや、マイケルの身の回りの世話をするホテルのスタッフらが招待された。VIP席のチケットが行き渡っているかどうか、マイケルは常に気を配っていた。

ヴェジタリアンとして知られたこの当時のマイケルは、毎週日曜日は「身体の洗争」と称して断食をしていた。食が細いマイケルのために、日本滞在中は2人の日本人シェフがマイケルの食事を作った。

移動のためマイケルは東京・新大阪間を新幹線で2往復。車内でマイケルはスタッフと共に車両から車両へと渡り歩き、乗客からのサインや写真撮影の求めにも応じた。報道陣のカメラを制しようとしたセキュリティにマイケルは「撮らせてあげなよ」と声をかけた。

9月28日、銀座四丁目交差点に現れたマイケルは、路上でフォトセッションを敢行。居合わせた群衆に囲まれる騒ぎに。

9月29日、東京ディズニーランド初訪問。この日はディズニー側のはからいにより閉園時刻が早められた。マイケルは「スタッフも楽しませてあげたい」と、総勢250人での貸し切りとなった。

9月30日、キャピトル東急ホテルからほど近い場所にあった、千代田区立永田町小学校(1993年廃校)を訪問。児童と共にマイケルは「もみじ」を歌った。

横浜公演を訪れた 盛田昭夫・ソニー会長(当時)に、マイケルは電話で「今夜は声が出ず、満足のいくショーができなかった。次回は必ず良いショーをお見せしたいので、また来てほしい」と、何度も謝った。その後、盛田会長の自宅へ招かれたマイケルは、出された二十世紀梨を大変気に入った様子で、1人で全て平らげてしまった。

14回の公演で45万人を動員したジャパン・ツアー。球場の周りではチケットを持たない人々が漏れてくる音に耳を傾け、中には周辺のビルや歩道橋からステージの様子を覗こうとする人々もいた。9月26日の横浜公演の模様は、10月31日に日本テレビ系列でゴールデン・タイムに放送された。マイケル来日による一連の騒動を、当時のメディアは「マイケル台風」と呼んだ。

10月19日、離日。この年の日本滞在は41日間に及んだ。マイケルはホテルの黒板に「Make love your weapon to overcome any evil (愛さえあればすべてのものに立ち向かえる)」と書き残した。

1987/11/13~28 オーストラリア公演

メルボルンからオーストラリア・ツアー開始。現地のメディアは、オーストラリア発の世界的ヒット映画『クロコダイル・ダンディー』になぞらえて「クロコダイル・ジャクソン」と呼んだ。

28日のブリスベン公演では、スティーヴィー・ワンダーが「BAD」にゲスト参加。

オーストラリア・ツアーの後に訪れる予定だったニュージーランドでは、クリケット協会からスタジアムの使用許可が下りず、ツアー自体がキャンセルに。

1988/2/23~5/6 アメリカ公演

1988年のツアーはアトランタから始まる予定だったが、スポンサーのペプシが、アトランタはライバル会社・コカコーラの本拠地であることを理由に、開催に反対。結果、カンザスシティからのスタートとなった。

2月18日、フロリダ州ペンサコーラでリハーサル中だったマイケルは、地元の小学生420人を会場へ招待。3年生児童による「お金はないけど、あなたに会えたら人生は明るく輝く」とのラップ・ヴィデオを観たマイケルが、彼らを呼び寄せた。

2月23日にカンザスシティから始まった全米ツアーでは、前年のツアーとはステージ・デザインや衣装、曲目が大幅に入れ替わり、『BAD』からの演奏曲は7曲に。

新たに曲目に追加された「ダーティー・ダイアナ」や、アンコールの「ザ・ウェイ・ユー・メイク・ミー・フィール」、「マン・イン・ザ・ミラー」は、マイケルの体調により演奏しない日も少なくなかった。

ステージ上のマイケルが姿を消し、別の場所から登場するマジックを考案したのは、ホワイト・タイガーを駆使したステージで人気を博した、ドイツ出身のイリュージョニスト・コンビ、ジークフリート&ロイ。

お礼としてマイケルは「マインド・イズ・ザ・マジック」という曲をプレゼントした。2009年の映画『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』では、マイケルとダンサーたちがこの曲のイントロで踊る「ドリル」が見られる。

カンザスシティ公演でマイケルは、ズボンのファスナーを開けたまま登場してしまった。「アナザー・パート・オブ・ミー」を歌っている最中に気づいたマイケルは、観客に背を向けてそっとファスナーを上げた。

カンザスシティ公演から、ショート・フィルム「ザ・ウェイ・ユー・メイク・ミー・フィール」で共演したモデルのタチアナ・サムツェンが、この曲の演奏時のみ登場。

3月3日のニューヨーク公演は、全米黒人大学進学基金(UNCF)のチャリティー・コンサートとして開催された。マイケルはこの日の収益から、UNCFに60万ドルを寄付。

ニューヨーク公演では、スティーヴ・スティーヴンスが「ダーティ・ダイアナ」にゲスト参加した。

ニューヨーク公演の「ザ・ウェイ・ユー・メイク・ミー・フィール」の演奏中、タチアナ・サムツェンがマイケルに突然キスをするハプニング。この直後タチアナは解雇され、シェリル・クロウが代役に。

ニューヨーク公演の観客席には、クインシー・ジョーンズ、スティーヴィー・ワンダー、ライオネル・リッチープリンスマドンナらの姿も。

ペプシのCMで共演した子役ダンサーのジミー・セイフチャック(当時10歳)が、ツアーに同行。コンサート終盤の「BAD」では多数の子どもたちと共にジミーもステージに登場し、マイケルとダンス合戦を繰り広げた。

全米ツアーを終えた5月、マイケルはネヴァーランドへ転居。ここは「セイ・セイ・セイ」撮影のロケ地として訪れて以来、マイケルのお気に入りの牧場だった所。

1988/5/23~9/11 ヨーロッパ公演

5月23日、ローマからヨーロッパ・ツアー開始。夏の暑さに加え、ヨーロッパの公演会場は座席のないオール・スタンディング方式だったため、毎回数百人の観客が失神し、救護室へ運ばれた。

コンサート前半終了後の15分間のバンド演奏タイムには、訪れた国にちなんだ曲が演奏された。「今夜はドント・ストップ」や、スティーヴィー・ワンダーの「迷信」、プリンスの「ビューティフル・ナイト」などもレパートリーに入っていた。

ホテル前に詰めかけたファンの群れに向けて、マイケルはサインやメッセージを書いた紙を落としたり、紙飛行機にして飛ばすこともあった。

6月19日の西ベルリン公演では、ベルリンの壁の前にステージが設営された。壁の反対側では数千人の東ベルリン市民がマイケルの演奏を聴こう、ブランデンブルク門付近へ押し寄せる騒ぎに。この一件は、翌年のベルリンの壁崩壊の遠因のひとつとなったとされる。

日程[編集]

年月日 都市 会場
Rehearsal concert
1987年9月11日 東京 日本 後楽園球場
Asia[1]
1987年9月12日 東京 日本 後楽園球場
1987年9月13日
1987年9月14日
1987年9月19日 西宮市 阪急西宮球場
1987年9月20日
1987年9月21日
1987年9月25日 横浜市 横浜スタジアム
1987年9月26日
1987年9月27日
1987年10月3日
1987年10月4日
1987年10月10日 大阪市 大阪スタヂアム
1987年10月11日
1987年10月12日
オーストラリア
1987年11月3日[A] パース オーストラリア W.A.C.A. Oval
1987年11月8日[B] アデレード アデレード・エアポート・スタジアム
1987年11月13日[2] メルボルン オリンピックパーク・スタジアム
1987年11月20日[3] シドニー パラマタ・スタジアム
1987年11月21日
1987年11月27日[4][5] ブリスベーン ブリスベーン・エンターテインメント・センター
1987年11月28日[6]
1987年12月2日[C] ウェリントン ニュージーランド アスレティック・パーク
1987年12月6日[D] オークランド マウント・スマート・スタジアム
フルドレス リハーサルコンサート
1988年2月18日[7] ペンサコーラ アメリカ合衆国 ペンサコーラ・シビックセンター
North America opening dates
1988年2月23日 カンザスシティ アメリカ合衆国 ケンパー・アリーナ
1988年2月24日
30th Grammy Awards show[8]
1988年3月2日 ニューヨーク アメリカ合衆国 ラジオシティ・ミュージックホール
北アメリカ
1988年3月3日[9] ニューヨーク アメリカ合衆国 マディソン・スクエア・ガーデン
1988年3月5日[10][11]
1988年3月6日
1988年3月12日[E] セントルイス セントルイス・アリーナ
1988年3月13日
1988年3月18日 インディアナポリス マーケット・スクエア・アリーナ
1988年3月19日
1988年3月20日 ルイビル フリーダム・ホール
1988年3月24日 デンバー マクニコルズ・スポーツ・アリーナ
1988年3月25日
1988年3月26日[12][13]
1988年3月30日 ハートフォード ハートフォード・シビック・アリーナ
1988年3月31日
1988年4月1日
1988年4月8日 ヒューストン ザ・サミット
1988年4月9日
1988年4月10日
1988年4月13日 アトランタ オムニ・コロシアム
1988年4月14日
1988年4月15日
1988年4月19日 ローズモント ローズモント・ホライズン
1988年4月20日
1988年4月21日
1988年4月25日 ダラス リユニオン・アリーナ
1988年4月26日
1988年4月27日
1988年5月4日 ミネアポリス メット・センター
1988年5月5日
1988年5月6日
ヨーロッパ
1988年5月23日 ローマ イタリア スタディオ・フラミニオ
1988年5月24日
1988年5月29日 トリノ スタディオ・オリンピコ・ディ・トリノ
1988年6月2日 ウィーン オーストリア プラーターシュターディオン
1988年6月5日 ロッテルダム オランダ デ・カイプ
1988年6月6日
1988年6月7日
1988年6月11日 ヨーテボリ スウェーデン エリクスバーグ・ドックス・グラウンズ
1988年6月12日
1988年6月16日 バーゼル スイス シュタディオン・ザンクト・ヤコブ
1988年6月19日 西ベルリン 西ドイツ Reichstag Grounds
1988年6月23日[F] リヨン フランス スタッド・ジェルラン
1988年6月27日 パリ パルク・デ・プランス
1988年6月28日
1988年7月1日 ハンブルク 西ドイツ フォルクスパルクシュタディオン
1988年7月3日 ケルン ラインエネルギーシュタディオン
1988年7月8日 ミュンヘン ミュンヘン・オリンピアシュタディオン
1988年7月10日 ホッケンハイム ホッケンハイムリンク
1988年7月14日 ロンドン イギリス ウェンブリー・スタジアム
1988年7月15日
1988年7月16日
1988年7月22日
1988年7月23日
1988年7月26日 カーディフ カーディフ・アームズパーク
1988年7月30日 コーク アイルランド Páirc Uí Chaoimh
1988年7月31日
1988年8月5日 マルベーリャ スペイン Estadio Municipal de Marbella
1988年8月7日 マドリード エスタディオ・ビセンテ・カルデロン
1988年8月9日 バルセロナ カンプ・ノウ
1988年8月12日 モンペリエ フランス Stade Richter
1988年8月14日 ニース Stade Charles-Ehrmann
1988年8月19日 ローザンヌ スイス スタッド・オランピック・ドゥ・ラ・ポンテーズ
1988年8月21日 ヴュルツブルク 西ドイツ Talavera Wiesen Grounds
1988年8月23日 ウェルフテル ベルギー ウェルフテル・フェスティバル・グラウンド
1988年8月26日 ロンドン イギリス ウェンブリー
1988年8月27日
1988年8月29日 リーズ ラウンドヘイ・パーク
1988年9月2日 ハノーヴァー 西ドイツ ニーダーザクセンシュタディオン
1988年9月4日 ゲルゼンキルヒェン パルクシュタディオン
1988年9月6日 リンツ オーストリア リンツァー・シュターディオン
1988年9月10日 ミルトン・キーンズ イギリス ナショナルボウル
1988年9月11日 リバプール エイントリー競馬場
北アメリカ
1988年9月26日 ピッツバーグ アメリカ合衆国 ピッツバーグ・シビック・アリーナ
1988年9月27日
1988年9月28日
1988年10月3日 イーストラザフォード メドーランズ・アリーナ
1988年10月4日
1988年10月5日
1988年10月10日 リッチフィールド リッチフィールド・コロシアム
1988年10月11日
1988年10月13日 ランドーバー キャピタル・センター
1988年10月17日
1988年10月18日
1988年10月19日
1988年10月24日 オーバーンヒルズ ザ・パレス・オブ・オーバーンヒルズ
1988年10月25日
1988年10月26日
1988年10月31日[G] タコマ タコマドーム
1988年11月1日[H]
1988年11月2日[I]
1988年11月7日 アーバイン アーバイン・メドーズ・アンフィシアター
1988年11月8日
1988年11月9日
1988年11月13日 ロサンゼルス ロサンゼルス・メモリアル・スポーツ・アリーナ
Asia
1988年12月9日 東京 日本 東京ドーム
1988年12月10日
1988年12月11日
1988年12月17日
1988年12月18日
1988年12月19日
1988年12月24日
1988年12月25日
1988年12月26日
北アメリカ
1989年1月16日 ロサンゼルス アメリカ合衆国 ロサンゼルス・メモリアルスポーツアリーナ
1989年1月17日
1989年1月18日
1989年1月26日
1989年1月27日

1987年、後楽園球場と横浜スタジアムで行われる公演の前売り券を私立大学生17人を使って約550枚、買い占めて、S席(6,500円)を最高11万円、A席(5,000円)を最高2万円で売るなど、約70枚(約40万円)を計150万円で売ったチケットブローカーが逮捕された[14]

大阪市西区の架空会社が、新聞広告などで別の旅行会社の名前を使い、チケット代金などとして現金書留による送金で数千万円を集め、持ち逃げした[15]

9月12日、13日には、チケットを高く売りつけていたダフ屋警視庁防犯特捜隊や富坂警察署に逮捕された[16][17]

ニューヨーク公演では、「ザ・ウェイ・ユー・メイク・ミー・フィール」の演奏中、タチアナ・サムツェンがマイケルに突然キスをするハプニング。この直後、タチアナは解雇され、シェリル・クロウが代役に。

脚注[編集]

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  1. ^ http://www.michaeljackson.com/sites/mjackson/files/imagecache/470xscale/8-30x_2.jpeg
  2. ^ http://news.google.co.uk/newspapers?id=FbhWAAAAIBAJ&sjid=P-kDAAAAIBAJ&pg=2872%2C1198254
  3. ^ http://news.google.co.uk/newspapers?id=zStWAAAAIBAJ&sjid=uuQDAAAAIBAJ&pg=2028%2C12704286
  4. ^ http://news.google.co.uk/newspapers?id=zStWAAAAIBAJ&sjid=uuQDAAAAIBAJ&pg=7223%2C12316257
  5. ^ http://i74.photobucket.com/albums/i258/waldo109/brisbane2.jpg
  6. ^ http://i74.photobucket.com/albums/i258/waldo109/brisbane_two.jpg
  7. ^ [1][リンク切れ]
  8. ^ http://news.google.com/newspapers?id=i2dPAAAAIBAJ&sjid=lSQEAAAAIBAJ&pg=4387,639966&dq=michael+jackson+grammy+awards+show&hl=en
  9. ^ http://news.google.com/newspapers?id=TcFdAAAAIBAJ&sjid=Ml4NAAAAIBAJ&pg=3766,1798053&dq=michael+jackson+private+concert+madison+square+garden&hl=en
  10. ^ http://news.google.com/newspapers?id=u89GAAAAIBAJ&sjid=wHsMAAAAIBAJ&pg=4258%2C1700244
  11. ^ Published: February 09, 1988 (1988年2月9日). “Tickets to Michael Jackson Concerts Sell Out in 4 Hours - New York Times”. Nytimes.com. 2012年12月28日閲覧。
  12. ^ http://i74.photobucket.com/albums/i258/waldo109/DENVER_3.jpg
  13. ^ Log nu in om een reactie te plaatsen. (1988年3月24日). “Michael Jackson Bad Tour Denver news *rare*”. YouTube. 2012年12月28日閲覧。
  14. ^ M・ジャクソン前売り券買い占め 17倍のプレミア販売/警視庁が逮捕 読売新聞 1987年8月20日夕刊18ページ
  15. ^ マイケル・ジャクソン公演エサに数千万円ドロン 大阪の架空会社 読売新聞1987年9月5日朝刊23ページ
  16. ^ ダフ屋2人を逮捕 M・ジャクソン公演/ 警視庁 読売新聞 1987年意月13日朝刊22ページ
  17. ^ ダフ屋また逮捕 マイケル・ジャクソン公演/警視庁防犯特捜隊 読売新聞1987年9月14日朝刊23ページ