マイケル・ジャクソンの1993年の性的虐待疑惑

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マイケル・ジャクソンの1993年の性的虐待疑惑(マイケル・ジャクソンの1993ねんのせいてきぎゃくたいぎわく)とは、マイケル・ジャクソンが少年に対し児童性的虐待を行ったとして1993年に刑事告発および民事訴訟を提起された疑惑。

マイケルは一貫して無実を主張していたが、示談により金銭的に解決したため真相が解明されることなく疑惑が晴れなかった。この疑惑とは別に、2005年には同様に少年に対して性的虐待を行ったとしてマイケル・ジャクソン裁判が提訴され、2005年の裁判では全面無罪を勝ち取った。

経緯[編集]

発端[編集]

1993年にビバリーヒルズの歯科医エヴァン・チャンドラーの息子である13歳の少年が、父親によって精神科医のもとに連れて行かれ、そこでマイケル・ジャクソンが性的虐待をしたと話したことが発端となった。

この背景には、エヴァンが自分の息子と非常に親しくなったマイケルに息子の愛情を奪われたことでマイケルに対して嫉妬を抱き、しかも多額の金を必要としていた事実がある。この時点でエヴァンはすでに少年の母親のジューンとは離婚していたが、週末は息子が父親宅に来て一緒に時を過ごしていた。少年がマイケルと親しくなることを当初はエヴァンも歓迎していたが、少年がマイケルに夢中になるにつれ、父親である自分への愛情を奪われたと感じ始めた。またエヴァンは歯科医であったが映画脚本家になりたいという夢を持っており、この夢の実現のために多額の金を必要としていた。

少年は母のジューンに引き取られており、エヴァンは養育費を毎月払うことになっていたが支払いは滞っていた。そして当時少年をめぐって、ジューンとエヴァンは熾烈な親権争いをしていた。こうした背景において、エヴァンにとっては、マイケルは金をゆするうってつけの対象だった。エヴァンは、自分の陰謀にぴったりの悪徳弁護士バリー・ロスマンに代理を依頼し、2人でマイケルから金を恐喝する策略を立てて行動に出た。

経過としては、少年がマイケルの不適切行為について精神科医に話したことにより、精神科医は児童性的虐待があったとして児童福祉局に報告し、児童福祉局が警察に報告したために、エヴァンの計画とは別にまずは警察が動き出したのである。少年および父親は決して「刑事告発」したのではない。エヴァンは金が欲しかっただけであり、刑事捜査に協力することはなく、民事訴訟を提起した。

アミタール塩の瓶

少年は当初、マイケルは自分に対して何も不適切な行為をしていないと語っていた。しかしあるときから突然この意見を変えてしまう。それはこの訴訟事件が和解によって終結した数ヶ月後にあるジャーナリストによって報道されたことだが、当時、少年の歯を抜くためにエヴァンが治療を行った際、バルビツール酸系催眠鎮静剤であるアモバルビタールを使用した直後のことであった。アモバルビタールの米国での商品名は「アミタール」という。「アミタール」を使った治療後に少年は、マイケルが目の前でマスターベーションを行ったり、オーラルセックスを行ったなどという話や陰茎を愛撫されたということを、精神科医に話した[1]。だが、アモバルビタールを歯の麻酔剤として使用することはほとんどない。

かつては「アミタール面接」としてPTSDなどの患者にこの薬剤を用いて、抑圧された記憶心的外傷を話させる治療に用いられたことがあり、また自白剤としても使用されていた。これは、静脈注射でこの薬剤を徐々に投与していくと、意識が朦朧としてきて、相手の言うことに対して抗うことができない状態になるため、これを利用して自白を強要することが行われていたとされる。またこの薬剤を用いて虚偽記憶を植えつけることがいかに容易であるか、ワシントン大学の心理学教授による臨床試験が米国で行われ、実証されて論文発表もされている[3]

このアミタールという薬物は催眠性がありかつては一部の治療者が用いていたが、この件に関しては様々な非難が起こっていた[4]。とある父娘の性的虐待訴訟のケースでは、訴えられた父が娘の心療科医のこの薬の娘への使用を理由に反訴し勝訴するという事まで起こった。そのためアメリカでは2000年ごろまでにこの方法は禁止となり、多くの州でこのような訴訟は受け付けないことになった。カリフォルニア州も同様であり、2005年の裁判ではこの事実を持ち出せば無罪になる可能性が高かった。

捜査開始[編集]

警察がマイケルのネバーランドおよびロサンゼルスのマンションの家宅捜査令状を取って動き出すと、この情報がメディアに流れて世界中に報道され、一大ショックを巻き起こした。家宅捜索の際に警察官はマイケルの家の花瓶を蹴り倒し、25万ドル相当の金貨数枚も紛失したが、この件に関しては不問とされ起訴もされなかった。また1993年12月20日、警察はマイケルを全裸にして体中を調べ、ペニス、尻、太ももを撮ったが、少年の証言と一致するような証拠は見つからなかった。しかし、このようなマイケルにとって有利なニュースは大々的に報道されることはなかった。

マイケルはすでに「Dangerous World Tour」を欧州から開始していたが、刑事捜査と同時に民事訴訟が提起されるなど、とてもツアーを続けられるような状況ではなくなってしまった。これらのプレッシャーとストレスに加え、10年前のCM撮影で負った頭部やけどの皮膚再生手術をツアー直前に受けていたこともあって鎮痛薬を処方されていた。そのためこの薬物の依存症になり、ワールドツアーを途中で断念せざるを得なくなってしまった。彼はメキシコでツアー中止の理由として「虚偽の疑惑からの屈辱と不名誉、メディアの虚偽報道などからくるストレスとプレッシャー、パフォーマンスで必要とされる大きなエネルギーとが、僕を追い詰め、身も心も疲れ果ててしまいました」と発表した。マイケルはツアーを中断して薬物依存症の集中的治療を受けるべく、エリザベス・テイラーの献身的な支援に支えられてメキシコから英国に渡った。

ツアー中止のほか、スポンサーであったペプシの降板など音楽活動にも多数の影響が出た。精神的にも追い詰められ、そのときに制作した曲が「Stranger In Moscow」とされている。

示談による解決[編集]

疑惑の発生後、マイケル側の弁護士団内では内部分裂による意見の相違が本格化した。米国では民事訴訟では裁判に持ち込む前に示談として解決するのが一般的であること、これ以上マイケルのプライバシーを公に晒すことは耐えられないこと、マイケルが鎮痛剤依存の治療に専念しなければならないことなどを考慮し、1994年1月25日に少年に対し、以後40年間にわたり計1530万ドル[5]を支払うことにより和解した。マイケルは「僕は不適切なことは何もしていない。名前と名誉を守るためだけにこのお金を支払う」と書かれた示談書を提出した。また告発した少年の将来への配慮から、少年の氏名や示談内容は一切他言しないという機密保持契約も作成されたため、マイケルは同意し本件について語ることはなかった。

マイケルは、当時の自宅ネバーランドでインタビューを収録し身の潔白を訴えた。1996年に当時の妻リサ・マリーと出演したABC局のダイアン・ソイヤートーク番組でも「僕の潔白を証明してほしいと弁護士に頼んだんだ。でも弁護士に『公正な裁判は受けられない。陪審員は当てにならない。7年はかかるし無実になる保障はない』と言われ僕は震え上がった。僕は言われているようなことはしていない。この恐ろしい問題を早く終わらせたかったんだ。O・J・シンプソンのような馬鹿みたいな事をTVでしたくなかったんだ」と語っている。このトーク番組で当時の妻リサ・マリーと共に訴訟に関して話をしたことで、さらに少年の父親エヴァンから機密保持契約違反であるとして6000万ドルの民事訴訟も起こされた。この訴訟は当時の妻リサ・マリーに対しても起こされた。

エヴァン・チャンドラーの通話記録[編集]

ロスマン弁護士と画策して「卑劣な手を使ってマイケルを陥れ大金を手に入れる」と、エヴァン自身が少年の継父であるデイヴィッド・シュワルツに電話している内容が、デイヴィッドによって極秘録音されており世界中に流されている。録音された会話の中でエヴァンは、「(マイケルに)言うべきことについてリハーサルした。」と語り、少年の継父が「君をそんなに怒らせるような、一体どんなことをマイケル・ジャクソンがしたって言うんだ?」と問いかけると「彼は、俺の家族をばらばらにしたんだ。俺の息子はやつの力と金に魅せられてしまっている。俺はマイケル・ジャクソンに対して行動することに決めたんだ。もうすでにすべて計画されている。他の人間も関わっている。皆準備万端で自分の位置について俺からの電話を待っている状態だ。俺がやつらに金を支払ったんだ。俺だけの計画ではなく、やつらとの共同でのある計画に従ってすべての事が運ばれるだろう。俺が弁護士に電話しさえすれば、視野にいるすべての人間を、やつが出来うる限りの悪魔のように醜く汚い冷酷な方法で破滅させるだろうよ。俺はやつにそうする権利を完全に与えたんだ。これをやりおおせたら大儲けさ。俺が失敗することはあり得ない。隅から隅までこの計画をチェックしたんだ。俺は欲しい物すべてを手にする。反対にやつらは永遠にすべてを破壊されるだろう。元妻は息子の親権を失い、マイケルのキャリアは終わりだ。」と語っている。

このような明白な証拠があるものの、検察側は彼らの恐喝容疑についてはしかるべき捜査を全く行わず、少年の言葉だけを証拠としてマイケルの起訴に向けて躍起となった。

だが真実がどうあれ、結果的に示談によって金銭的決着を付けたことで世間に「金で無罪を買った」という印象を与え、真相は結局明らかにならず、後にも疑惑の目が消えなかった。当時薬物依存と戦うマイケルを援助したエルトン・ジョンはこれに対し「マイケルは最後まで戦うべきだった」と述べている。

書籍『救済』[編集]

1993年の事件当時、バリー・ロスマン(原告側弁護士)事務所に勤めていた法務秘書であるジェラルディン・ヒューズが著した書籍『Redemption: The Truth Behind the Michael Jackson Child Molestation Allegations』(邦題『救済 ― マイケル・ジャクソン児童性的虐待疑惑の真相』ISBN 978-1576880364)が2004年1月に出版された。本書はマイケル・ジャクソンに対して起こされた1993年の児童性的虐待疑惑における彼の無実を事件の内側から可能な限り検証したものである。

本書の邦訳版『救済 ― マイケル・ジャクソン 児童性的虐待疑惑の真相』[6]に、「このケースはあまりにも社内秘が多く弁護士事務所の全スタッフにも極秘だったため、最初から何かの企みもしくは策略をしているような様相を帯びていた。この疑念のため、オフィスのスケジュール・ブックに日々の出来事について書き記すようになった」と著者の言葉が記載されている。

著者の疑念を裏付けるような出来事がその後いくつも重なり、彼女はついにこれが金目当ての企みであると確信するようになる。そしてマイケル弁護団の調査担当官であるペリカーノ私立探偵に、彼女がオフィスで知りえた情報をすべて提供した。当初のマイケル弁護団チームは絶対に金を支払わないつもりでいたし、裁判になれば勝つと信じていた。マイケル自身も相手の要求額を絶対に払うつもりはなかったのだ。しかし相手側は弁護士を変更し、新たに加わったやり手のラリー・フェルドマン弁護士がついに民事訴訟を提起した。双方の弁護団の攻防が進むにつれ、マイケル側も弁護士を変更し、新たにマイケル側に加わった弁護士たちは和解の方向へ動き出した。

同書には「検察は最初からマイケル・ジャクソンを有罪と決めつけ、原告の少年とその父親(エヴァン・チャンドラー)が訴えた内容が事実かどうか十分な検証を行わず、メディアはあたかも性的虐待が実際にあったかのように、あらゆる卑劣な手段を使って書き立て報道し続けた」と記載されている。和解に向けてマイケルの弁護団が動き出した背景が本書に詳述されているが、メディアがあたかもマイケルが有罪であるかのように書き立てた報道被害によって、マイケルが公正な裁判を受けるチャンスが疑わしくなっていたことも記載されている。

2005年の裁判[編集]

後の2005年のマイケル・ジャクソン裁判において、1993年の性的虐待疑惑について、マイケルの家の元警備員ラルフ・チェイコン(Ralph Chacon)が、「裸のマイケルが当時11歳の少年の身体の至る所にキスし、そして少年の陰茎を口に入れオーラルセックスを行った」と主張した[7][8]

だが当時チェイコンは家賃の支払いにも困るほど経済的に困窮していたこと、チェイコンを含む数人の元従業員がマスコミにネタを売ろうと企みメディア・ブローカーを雇っていたこと、「法廷での重要証人」となることで大金が手に入る、メルセデスベンツ450を買う予定だと近所の人々に吹聴していたことなどが裁判の中で明らかにされた。また「マイケルに電話を盗聴されていると思った」などの荒唐無稽な内容の民事訴訟をマイケルに対して起こしたが敗訴し、逆にマイケルに対して「詐欺行為、抑圧行為、悪意のある行動」を働いたとして賠償金支払い命令が出されていたことも明らかになった[9]

原告父子のその後[編集]

この訴訟で無理やり性的虐待を証言させられた少年ジョーディ・チャンドラー(Jordy Chandler,1980年1月11日 - )は、2005年8月5日に児童虐待されたとして父親のエヴァンを訴えた[10]ニュージャージー州の法廷では「彼は頭を後ろから殴られていた……ダンベルの重りで……そして、催涙性もしくは刺激性のスプレーを目に吹きかけられ、そして窒息させられそうになっていた(struck him on the head from behind with ... (dumbbell) weight ... sprayed his eyes with Mace or pepper spray, and tried to choke him)」と述べられた[11][12]。さらにそれでもまとまらず2006年9月5日に控訴した[13]。そのためこの訴訟は家庭裁判所から一般法廷に移ることになった。

2009年6月25日にマイケルは死去。死後に少年が米タブロイド紙に「僕は父に嘘を言わされた。マイケルごめんなさい。」と語ったと掲載されたが、実際の本人のコメントなのかどうかは不明。少年はこの件に関して公式にコメントしていないとされている。

2009年11月初旬、少年の父親エヴァンが、アパートの管理人により自宅のベッドの上で死亡しているのが発見された。頭部側面に拳銃による銃創があり、発見時に拳銃を手に持ったままの状態だったことからジャージー市警は自殺と断定。市警のスポークスマンより「自殺と断定した。死亡時に複数の処方薬が発見され、重篤な病だったと思われる。遺書などは見つかっていない」と公式に発表した。エヴァンの担当医は警察に対して「予約した時間に来なかったため、アパートの管理人に様子を見に行ってもらい、死亡しているのが発見された」と語った。遺書はなく自殺の原因などは不明。彼は再婚し2児をもうけていたが離婚し、子供たちとも疎遠になっていた。またマイケルのファンからの反発を避けるため整形手術を行っており、その容姿は以前とは全く異なっていたと伝えられた。父親が少年に対して起こしていた虐待裁判は少年が父親に対して年間約1億5千万円の送金を数年に渡り行うことで決着し、これより前に不起訴となっていた。

出典[編集]

関連項目[編集]