小室ファミリー

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小室ファミリー(こむろファミリー)とは、音楽プロデューサー小室哲哉を中心にした芸能人ファミリーであり、同人がプロデュースまたは楽曲提供した歌手たちを呼ぶ総称。

概要[編集]

ファミリー入りするための定義はないが、小室プロデュースの曲が代表曲になると、たとえ1曲の提供であってもファミリーだと世間的に認知されることが多い。また、小室の右腕とされる久保こーじのプロデュースも含まれ、小室ファミリーと定義される歌手は100組を軽く超えるとされる。

ただし篠原涼子TPD時代を含む)やtrfをはじめ、小室がプロデュースするのは概ね2~3年程度であり、globeのように10年も続くというのは稀有である。これは契約期間が最初から定まっているためであり、「いずれは小室の手から離れてアーティストを送り出す」という意味合いもある(「#衰退期」の項も参照)。

またビーイング所属アーティスト同様、dosKiss Destinationなど、解散宣言が出されないまま自然消滅したグループもある。

1980年代に世界的人気を誇る歌手を多数輩出した、ストック・エイトキン・ウォーターマン(以下、SAW)のプロデュース手法を参考にしている。実際に、1988年に小室自身が海外でSAWと共同作業を行った経験があり、日本と海外の音楽市場の間の絶望的なまでの格差を思い知らされると共に、スタジオ・ワークの面白さにも目覚めている。

小室ブーム[編集]

小室ブーム(こむろブーム)とは、1990年代半ばに起こった、小室哲哉のプロデュース楽曲がオリコンチャートの上位を埋め尽くした現象のこと。

発展期[編集]

1992年 - 1993年バンドブームが衰退し「ビーイングブーム」が起こった。その後、ビーイングブームの沈静化と前後して、TM NETWORK終了のころから複数のアーティストへのプロデュースを本格化し、trf、ANISS、大谷健吾、観月ありさ、hitomiによる小室ファミリーの原型ができ上がった。しかし、trf、ANISS、hitomiのデビュー曲ではオリコンチャートの100位以内にも入ることができずラジオでもオンエアされることは少なかった。また、当時小室はソニー・ミュージックエンタテインメント所属であり、他レコード会社の楽曲をプロデュースすることに対する反感も相当強かった。

全盛期[編集]

その後、trfの「EZ DO DANCE」(最高位15位)「寒い夜だから…」(初登場16位、最高位8位、当初はノンタイアップ)などがロングヒットし、中森明菜の「愛撫」がアルバム曲ながら注目を集め、東京パフォーマンスドール篠原涼子が「篠原涼子 with t.komuro」名義で出した「恋しさと せつなさと 心強さと」が、初登場27位からチャート1位まで上昇し、大谷健吾が原宿を中心に人気を集め(オリコン「The Ichiban」などのアンケートで上位に入った)、ここからプロデューサーとしての小室哲哉に注目が集まった。trfは「survival dAnce 〜no no cry more〜」「BOY MEETS GIRL」「CRAZY GONNA CRAZY」など5作品連続でミリオンセラーを記録、ダウンタウン浜田雅功に「H jungle with t」名義で提供した「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント」が予言通りダブルミリオンを獲得したことでプロデューサーとしての地位を確固たるものにした(→小室哲哉提供楽曲一覧参照)。ちなみに、同時期に同じイニシャルをもつ音楽プロデューサーの小林武史もヒットを生み出していた事から「TK時代」と呼ばれていた。

楽曲提供のみに留まらず、エンジニアリングからA&R業務までのプロジェクト全体を統括するプロデューサーとして業界内でも期待を集めた。しかし、1994年から95年前半にかけて丸山茂雄が設立したアンティノスマネジメントによる欧米型マネージメント体制(ワン・アーティスト/ワン・マネージメント)は、プロデューサーとしての楽曲大量生産に対応できるものではなく、やがて破綻した。楽曲製作以外の部分を肩代わりする存在の出現が望まれ(1994,オリコン年鑑など)、プライム・ディレクション[1]バーニングパブリッシャーズなどバーニンググループによる集団管理体制が次第に構築されていった(月刊Views, 1996年8月号, 講談社など)。これに伴い、この時期以降の安室奈美恵を除くほとんどの小室作品は、バーニングパブリシャーズが音楽出版上の原盤権を所有している。

この体制のもとでglobedosなどがデビューし、安室奈美恵華原朋美などのプロデュースとともに成功を収め、1996年から1998年にかけて、いわゆる小室ファミリーによる小室サウンドが大量生産されていった。電通内に小室哲哉チームが作られ、コンサートの冠スポンサー、ウェブサイト「TK Gateway」との連携など単なるタイアップ曲の枠を越えて重層的なメディアミックスが仕掛けられた。この時代にプロデュースを受けたアーティストが小室ファミリーに分類されることが多い。その一方で、同時期に華原朋美は予想外のブレイクによりアイドル歌謡曲指向への転換を余儀なくされ、リミックスアルバムが発売中止となり、H.A.N.D.は1年余りでプロデュースが終わり、海外向けプロジェクトEUROGROOVEも終了した。

1995年から1999年までは『ASAYAN』などで小室名義のオーディションが数回企画されたり、TVCMやテレビアニメ主題歌とのタイアップを付けて有望新人を小室プロデュースでデビューさせることが流行った。しかし、鈴木あみ以外思うような売上が出ず、皮肉にも同じファミリーメンバーでの競争も起こった[2]。このような形態でデビューし、現在も活動している歌手は非常に少ない。

なおこのブームに乗って、小室哲哉と親交がある嘉門達夫(嘉門達夫もイニシャルはT.Kである)は、小室哲哉プロデュース作品の替え唄を集めた「TK替え唄メドレー」を2作リリースしている。嘉門は替え歌メドレーを発表するときは、原曲の著作権者(作曲者・作詞者・歌唱者)の許可を得てからリリースしているが、小室哲哉は非常に協力的だったといわれる。

TK presents こねっと[編集]

1997年1月1日には、プロデュースしてきた歌手などに声をかけ「TK presents こねっと」として『YOU ARE THE ONE』をリリース。ちなみに「こねっと」とは「小室ネットワーク」ではなく「子供ネットワーク」からきており、小学校中学校インターネットを普及させようとする小室独自のプロジェクトの名称である。この活動に参加した歌手たちを小室ファミリーの集大成・最盛期と見る人も多い。

衰退期[編集]

1996年以降、小室以外のプロデューサー(avex創業メンバーや伊秩弘将など)やA&Rの台頭により、小室ファミリー以外の歌手(主にグループ)によるミリオンセールスのCDが増え始めた。これと反比例するように1999年頃から小室楽曲の作風が変化し、小室プロデュース作品の勢力は衰え始めていくことになる。

1997年に安室奈美恵CAN YOU CELEBRATE?」が年間ランキング1位を獲得したものの、翌1998年は小室作品がTOP30にランクインしないなどその失速は急激なものであり、同年globe第40回日本レコード大賞を受賞したのを最後に、一連の賞レースから遠のくこととなった[3]

そして2000年頃から、小室自身が日本の音楽シーンの中心からやや離れたプログレトランスに傾倒し、ミリオンセラーに届くヒット曲を出さなくなった。

CD不況に突入するゼロ年代に向け、CDバブル崩壊の1999年から2000年にかけての歌謡界は以下の流行を見せていた。

これらの影響が一気に押し寄せたことに加え[7]、2000年に小室系として唯一ミリオンセラーを達成していた鈴木あみが「Reality/Dancin' in Hip-Hop」を最後に歌手活動停止状態に陥り[8]、小室ブームは事実上終焉した。

小室ブームが終焉に差し掛かった2000年3月に、1993年以降の小室プロデュースによる楽曲CDの累計発売枚数が3000万枚を突破したことを記念して、avex traxから当時の小室ファミリーの集大成として3枚組のコンピレーション・アルバムARIGATO 30 MILLION COPIES -BEST OF TK WORKS』(ASIN B00005ECC5) が発売された。

その後[編集]

小室は2001年1月にソニー・ミュージックエンタテインメントとの専属プロデューサー契約を解除し、前受報酬(印税)18億円の返還を求められることになり、この返済と自身の浪費のために借金を重ねることになる。

そして2008年に小室は詐欺事件が原因で逮捕、活動停止状態に陥るが、皮肉にも同時期から小室の楽曲が再び注目されるようになる。その後、2010年に小室は活動を再開し新曲を発表する一方、小室ファミリー出身者のメディア登場も再び活性化する。

近年は小室自身に加え、ファミリー出身者では特に華原朋美とTRFメンバーのメディア登場が活発化しており、小室ファミリー時代の楽曲について取り上げられる機会が増えている。

2008年11月時点で発表された小室が作詞・作曲・編曲・プロデュースを手掛けた楽曲の総売上枚数は1億7000万枚以上であり、これは日本の音楽家では歴代1位の記録である。

2011年には、ファミリーとして自身が務めていたユニット・globeのボーカル、KEIKOがクモ膜下出血によって一命は取りとめたものの、呂律や後遺症を患ってしまった為、現在ではリハビリなどを両立しながら自宅にて療養中である。実質的に小室とマーク・パンサーのみでの活動として専念をしている。その為、大型音楽番組での出演の際には、他アーティストとセッションをする試みとなっている。KEIKOに関しては、同ユニットがデビュー20周年を記念したイベントの際にも、ごく僅かながら音声のみでの出演を果たした(事前に小室自身のスマートフォンで通話をした際に録音されたものである)。

ブーム終焉後でも、フジテレビHEY!HEY!HEY!』『僕らの音楽』『FNSうたの夏まつり』『FNS歌謡祭』、日本テレビTHE MUSIC DAY』、TBS音楽の日』、テレビ朝日ミュージックステーションウルトラFES』、テレビ東京テレ東音楽祭』などの音楽番組や「小室ファミリー」「小室ブーム」を特集で扱う番組に、小室哲哉が中心となって小室ファミリーが集結して定期的に出演している。

主なファミリーメンバー[編集]

※順不同。単発および、現在は別プロデュースのミュージシャン歌手も含む。

主なチャート記録[編集]

小室ファミリーとされない例[編集]

以下のミュージシャンおよび歌手については、基本的に当ファミリーとしては扱われない。

脚注[編集]

  1. ^ 法人としては現在のエイベックス・ライブ・クリエイティブだが、2005年のエイベックス・グループ再編でコンサートの企画製作に業態変更している。
  2. ^ 華原曰く「TKファミリー内で仲の良かったアーティストは全然いない。みんなリリースの時期が近かったっていうのもありますし、1位を獲りたいという気持ちがすごい。TKのプロデュースだとみんなそう思っている。だからみんな敵なんです」と語っている(「華原朋美、小室哲哉プロデュース時代は「みんな敵」TKファミリーの内情暴露」より。)。
  3. ^ 小室本人もそれをかなり意識していたようで、2008年11月1日NACK5の開局20周年番組に出演した際には「(1987年から2008年の)前半10年と後半10年は(音楽シーンが)全く違う。99年からの10年は、なかなか曲が出てこなかった」と吐露するほどであった。
  4. ^ ただし初期の2曲については、小室の右腕こと久保こーじがプロデュースしている。
  5. ^ 「作詞の概念を変えられてしまった。とにかく僕には『Automatic』っていうのは出て来なかった。出ないってこと自体、クリエイター側からすると『出てこないんだ自分は…』ってなるんです」「歌詞のハメ方、ラジオの喋り方等、何から何まで自由で『うらやましいなあ、こんな好きに喋っていいんだ』っていうことだったり」「ブラックミュージックを原風景に育ったネイティブな日本人が21世紀を引っ張っていく」と語っている。
  6. ^ 「歌唱力があったり、メロディが良かったり、歌詞が良かったり。僕には彼のしょっぱい感じが出せなかった」と語っている。
  7. ^ 安室の結婚・産休がこれらと重なった影響も大きい。
  8. ^ 脱税事件による事務所とのトラブルのため。

関連項目[編集]