渋谷陽一
しぶや よういち 渋谷 陽一 | |
|---|---|
| 生誕 |
1951年6月9日 |
| 死没 | 2025年7月14日(74歳没) |
| 出身校 |
東京都立千歳丘高等学校 明治学院大学経済学部 中退[2][3] |
| 職業 |
音楽評論家 DJ 実業家 |
| 肩書き |
元ロッキング・オン・グループ代表取締役社長(1982年 - 2024年3月) ロッキング・オン・グループ代表取締役会長(2024年4月 - ) |
渋谷 陽一(しぶや よういち、1951年〈昭和26年〉6月9日[4][5] - 2025年〈令和7年〉7月14日)は、日本の音楽評論家、編集者、DJ。2024年3月31日にロッキング・オン・グループ代表取締役社長を退任して[6]代表取締役会長[7]となる。
来歴
[編集]東京都新宿区出身[5]で、東京都立千歳丘高等学校在学時から『音楽専科』などのロック誌に寄稿し、18歳でグランド・ファンク・レイルロードのレコード評を記し、音楽評論家として活動を始める[8]。明治学院大学在学中の1970年に水上はるこが中心となっていたミニコミ誌『レボリューション』を新宿のロック喫茶で発見し、投稿[9]した。1970年発行の11号で、当時の「既存のロックに対する批評やロック観をぶち壊し、ロックに先行しうる論理を構築する」という意思を宣言する投稿で、中村とうようの評論家としての姿勢を批判などした[10]。
1972年に、同誌へ投稿していた岩谷宏、橘川幸夫と知り合い[9]、松村雄策を加えた4人が中心となり、読者投稿型ミニコミ誌『rockin’ on』を創刊[11][12][13][14]した。1973年に商業誌(隔月刊)[15]として全国配本を開始し、1977年に月刊誌[16]となる。1973年からNHKでラジオDJを務め、NHKラジオ第1放送の『若いこだま』、NHK-FMの『ヤングジョッキー』『サウンドストリート』『ミュージックスクエア』などで英米のロックを積極的に紹介した。1986年に邦楽専門の音楽誌『ROCKIN'ON JAPAN』を創刊して以降、『CUT』『bridge』『H』『SIGHT』『SIGHT ART』など数々の雑誌や書籍を手掛け、2000年から『ROCK IN JAPAN FESTIVAL』『COUNTDOWN JAPAN』『JAPAN JAM』など音楽イベントで総合プロデューサーを務めた。
2023年11月17日にロッキング・オン公式サイトで病気療養のため渋谷は入院し[17]と、入院加療中は副社長の海津亮と山崎洋一郎が社長職務を代行することを合わせて発表した[17]。
2024年3月30日に1997年からDJを務めたラジオ番組『ワールドロックナウ』(NHK-FM)が終了した[18]。
2024年3月31日にロッキング・オン・グループ3社(株式会社ロッキング・オン・ホールディングス、株式会社ロッキング・オン、株式会社ロッキング・オン・ジャパン)の代表取締役社長を退任して代表取締役会長[6]に就いた。
入院後リハビリ療養中の2025年に、誤嚥性肺炎を併発して7月14日に74歳[19]で他界した。7月22日にロッキング・オングループ公式サイトで訃報が公表[20]され、2023年の病気療養は脳出血による緊急入院であった[19]。
音楽評論家の北中正和は、朝日新聞の取材に対し、以下の追悼文を寄せた[21]。
彼は、ロックについて理論武装して書く人だった。ロックが若者たちにとって持つ『意味』を言語化するのにたけ、ロックから受けた『感覚』をどう表現するかを考え抜こうとした。その批評はまるで文芸評論のようだった。—北中正和
評論家として
[編集]「ロッキング・オン」は外来思想としてのロックを日本の風土と日常生活の中に根付かせようとする一種の思想運動だったと言える[22]。
時代における先進性を持ったバンドを高く評価するが、音楽性を固定させたようなバンドは「様式化」と批判している。例えば、ハードロック(ヘヴィ・メタル)におけるブラック・サバスは評価するが、ジューダス・プリーストは批判している。これについて松村雄策との対談で、「サバスは好きだけどジューダスは嫌いというのは世間は納得しない」と、からかわれている[23]。
レッド・ツェッペリン、ビートルズ、プリンスは、盲目的なファン姿勢を一貫してくずさない。
クイーンは、自著『ロックミュージック進化論』で日本における人気ナンバー・ワン・バンドと評し、要因として建築工学的で厚みのあるサウンドやメロディーの明快さなどを挙げている[24]。渋谷自身も「デビュー当時は新しいタイプのハードロック・バンドとしてよく聞いていた」と語り、『ジョーズ』や『スター・ウォーズ』といったハリウッド大作映画に通じる質の高いエンターテイメント性がクイーンの魅力であると述べている[25]。
ライナーノーツを数多く執筆しているが、原稿の管理に無頓着で、単行本『ロック大教典』出版に際して読者らへ今まで書いたテキストを送ってほしいと告知し、実際に送り届けた人々を協力者として巻末に記した。
不得手な英語の失敗談に、『音楽専科』の新譜紹介ページでエリック・クラプトンのソロアルバムのタイトル"No reason to cry"(1976)を「泣くのに理由はいらない」の誤訳がある。実際は「泣く理由はない」で真逆の意味である。
新雑誌の立ち上げに編集長として積極的に関わることが多く、「映画」ジャンルはとくに積極的で、黒澤明、北野武、宮崎駿、押井守らに直接インタビューした。
出る杭的な言動が業界で反感され、業界大物のパーティーで渋谷が挨拶に立てば、「バカヤロー」「いい気になってんじゃねえぜ」と大声で罵倒の野次が嵐のごとく降ってこともあった[26]。
1972年にロッキング・オンを立ち上げてから7年間の活動について、「評論家としての自分は、ロッキング・オンというプロジェクトの一部であった」「メディアを自分達で組織していくという行為が僕の全てであった」と振り返り、メディア活動を批評行為の一部と位置づけ、「その表出のしかたが、文章であるか、雑誌運営であるかの差でしかない」と述べている[27]。
音楽評論家として雑誌を創刊したが、いざ雑誌を作り始めると、雑誌編集の仕事の方がはるかに面白かった、と語っている[28]。
1984年頃にほとんどの執筆活動を休止し、「原稿を書いているより、広告営業をしている方が楽しいし、資質的にも合っているように思う」「原稿を書いていると鬱鬱として暗くなってしまう。楽しくない事を無理矢理やると体に悪い」「要するに根っからの編集者であり、出版社の経営者なのである」と述べている[29]。
評論家業よりも出版社の経営者としての立場を重視し、経営者の方が面白いと公言している[30]。
イベントプロデューサーとして
[編集]2000年から新規事業として取り組んでいる音楽イベントについて、「ロック・フェスティバルはひとつのメディアであり、雑誌作りによく似たトータルな表現である」と述べている[28]。
橘川幸夫によると「ロッキング・オンが創刊する以前から、渋谷は小さなコンサートを主宰していた」[31]。ロッキング・オン黎明期に資金集めのため区民ホール等でフィルムコンサートを何度か催し[32]、橘川は「渋谷の、こうした活動は、やがて、15万人を集めるに至ったロッキング・オンの夏フェスの成功につながるのだろう」[31]と評している。
交友関係
[編集]若いとき、自身のラジオ番組にゲスト出演した浜田省吾と議論が白熱し浜田が激怒した。浜田に「結局あんたたちゃあ、人の作ったものにケチつけてメシ食ってるんでしょう!この三流評論家が!」と面と向かって毒づかれ、これに対して渋谷は「はい、そうですよ」としか答えられなかった[33]。のちに渋谷は、自身が発刊する音楽誌で何度も浜田の特集を組むなど浜田を支援し続け、プライベートでも付き合いがある数少ないミュージシャンの一人として浜田の名前を挙げている[34]。
RCサクセション時代から仕事仲間である仲井戸麗市は、インタビュー中に渋谷と歌詞の世界観について真剣に言い合っているうちにエスカレートし、マジギレて殴り合う寸前に至った。しかし言葉の裏に愛情を感じており、一件以後、仲井戸にとって渋谷の存在が心の中でずっと大きくなった[26]。
B'zをはじめとしたビーイング系のミュージシャンを自社の雑誌であまり採り上げないことから、ビーイング嫌いとも巷間されるが、渋谷本人はプロダクションのビーイングにそれほど悪い印象がない[35]。グループ創業者長戸大幸は旧知の仲で「業界の中でも数少ないウマの合う人物」[35]でビーイング系のミュージシャンは「それほど嫌いではないが、好きでもない」と語る[35]。雑誌『VIEWS』のビーイング批判特集で、唯一人肯定的にコメントして発売後に電話で礼を告げられた[35]。自ら編集長を務める雑誌『bridge』で「いろいろ言われているが、そのビジネスに向かうスタンスは正しい」といった趣旨のビーイング肯定原稿を発表[35]し、「これだけ擁護しているんだから100万円ぐらい欲しい」と冗談めかして記事にすると電話があり、「100万円はあげれないけど、広告は出してあげる」と言われ、しかも普通の広告ではなく「ガンバレ渋谷陽一」のコピーで笑えるものにしたい提案された[36]。『bridge』4号で、祝儀袋にビーイングのクレジット入りで「ガンバレ!渋谷陽一」とデザインされた広告が掲載された。かつて制作に関わったテレビ東京の『PVTV』は、BeingとGIZAがスポンサーしたビーイングアーティストのピックアップ枠があった。
創刊誌
[編集]- 『rockin'on』
- 『ROCKIN'ON JAPAN』
- 『CUT』
- 『H』
- 『SIGHT』
- 『bridge』
- 『SIGHT ART』
著書
[編集]単著
[編集]- 『レコード・ブック』新興楽譜出版社 1974年 ※後に『ロック ベスト・アルバム・セレクション』として文庫化
- 『メディアとしてのロックンロール』ロッキング・オン 1979年
- 『ロックミュージック進化論』日本放送出版協会 1980年 ※のち新潮文庫
- 『音楽が終った後に』ロッキング・オン 1982年
- 『ロック微分法』ロッキング・オン 1984年
- 『ロックは語れない』新潮文庫 1986年 ※対談集 表紙イラスト:江口寿史
- 『ロック ベスト・アルバム・セレクション』新潮文庫 1988年 ※1974年『レコード・ブック』を増補改訂版し文庫化
- 『ロックはどうして時代から逃れられないのか』ロッキング・オン 1996年
共著
[編集]- 『ロック読本』福武文庫 1989年
- 『40過ぎてからのロック』松村雄策共著 ロッキング・オン 1995年
- 『ロック大教典』松村雄策共著 ロッキング・オン 1997年
- 『渋松対談Z』松村雄策共著 ロッキング・オン 2002年
- 『定本渋松対談・復刻版』松村雄策共著 ロッキング・オン 2002年 ※1986年に通信販売で刊行した同書を復刻
- 『渋松対談 赤盤』松村雄策共著 ロッキング・オン 2011年
- 『渋松対談 青盤』松村雄策共著 ロッキング・オン 2011年
構成
[編集]『ビートルズの軌跡』 新興楽譜出版社 1972年10月 ※1987年に文庫化
インタビュー
[編集]- 北野武『余生』(2001年、ロッキング・オン)のちソフトバンク文庫
- 北野武『孤独』(2002年、ロッキング・オン)のちソフトバンク文庫
- 北野武『時効』(2003年、ロッキング・オン)のちソフトバンク文庫
- 北野武『異形』(2004年、ロッキング・オン)
- 北野武『光』(2005年、ロッキング・オン)
- 北野武『生きる』(2007年、ロッキング・オン)
- 北野武『女たち』(2008年、ロッキング・オン)
- 北野武『今、63歳』(2010年、ロッキング・オン)
- 北野武『物語』(2012年、ロッキング・オン)
- 北野武『やり残したこと』(2015年、ロッキング・オン)
- 北野武『ラストシーン』(2017年、ロッキング・オン)
- 宮崎駿『風の帰る場所―ナウシカから千尋までの軌跡』 (2002年、ロッキング・オン)のち文春ジブリ文庫
- 宮崎駿『続・風の帰る場所―映画監督・宮崎駿はいかに始まり、いかに幕を引いたのか』 (2013年、ロッキング・オン )
- 鈴木敏夫『風に吹かれて』(2013年、中央公論新社)2019年に中公文庫2冊
出演
[編集]ラジオ
[編集]ポッドキャスト
[編集]SIGHT RADIO いとうせいこうと渋谷陽一(2020-2021)
企画番組
[編集]テレビ
[編集]- ショウビズTODAY(1985年 - 1995年、テレビ朝日)
- HITS(1988年 - 1989年、テレビ朝日)
- ミュージック・サテライト(1995-1996 NHK BS1)
- JAPAN COUNTDOWN(1998年 - 2020年、テレビ東京)
- メガロックショー(1991年 - 1992年、NHK総合) - 構成
- LIVE BANG!(2005年 - 2006年、テレビ東京)
- PVTV(2006年 - 2009年、テレビ東京)
- SHOWBIZ COUNTDOWN (2001年 - 2011年、テレビ愛知)
脚注
[編集]- ↑ “世田谷区長 保坂のぶとWEB 「せたがやYES!」から日本を変える道はどこにあるのか 『脱原発区長はなぜ得票率67%で再選されたのか?』出版記念イベント”. 保坂のぶとWEB (2016年). 2019年9月17日閲覧。
- ↑ 渋谷陽一『ロックは語れない』(1986年5月、新潮文庫)カバーそで 著書プロフィール. 2019年10月3日閲覧。
- ↑ 風に吹かれてI-スタジオジブリへの道 (2019年3月、中公文庫)カバーそで 聞き手プロフィール. 2019年10月3日閲覧。
- 1 2 3 4 5 『DJ名鑑 1987』三才ブックス、1987年2月15日、83頁。
- 1 2 “オン・ザ・ロック! ゲスト渋谷陽一|BSテレ東 - テレビ東京”. テレビ東京 (2015年7月12日). 2019年9月15日閲覧。
- 1 2 “「ロッキング・オン・グループ」渋谷陽一社長の退任、会長就任を発表 昨年11月に病気療養発表”. SponichiAnnex. スポーツニッポン新聞社 (2024年3月30日). 2024年3月31日閲覧。
- ↑ “ロッキング・オン・グループ 新体制に関するご案内”. ロッキング・オン・グループ (2024年3月29日). 2024年3月31日閲覧。
- ↑ 渋谷陽一 『ロックは語れない』 新潮社〈新潮文庫〉、1986年、カバー裏プロフィールより。
- 1 2 渋谷陽一『メディアとしてのロックン・ロール』ロッキング・オン社、1979年6月20日、13頁。
- ↑ 渋谷陽一『レボリューション』バオバブ社、1970年7月20日、36頁。
- ↑ 1972年8月号 創刊発起人 渋谷陽一
- ↑ “「ロッキング・オンの時代」 橘川幸夫氏”. 日本経済新聞 (2017年2月19日). 2021年3月6日閲覧。
- ↑ “「ロッキング・オンの時代」書評 才能が交錯した「音楽と私」誌|好書好日”. 好書好日. 2021年3月6日閲覧。
- ↑ “SUNDAY LIBRARY:武田 砂鉄・評『字幕屋の気になる日本語』『ロッキング・オンの時代』ほか”. 毎日新聞. 2021年3月6日閲覧。
- ↑ 1973年4月号 編集発行人 渋谷陽一
- ↑ 1977年10月号 編集発行人 渋谷陽一
- 1 2 “ロッキング・オン・グループ・渋谷陽一社長、病気療養のため入院 山崎洋一郎氏&海津亮氏が職務代行”. ORICON NEWS. oricon ME (2023年11月20日). 2024年3月31日閲覧。
- 1 2 “療養中の渋谷陽一氏不在のまま「ワールドロックナウ」27年の歴史に幕 代打の伊藤政則氏が「さよなら!」”. SponichiAnnex. スポーツニッポン新聞社 (2024年3月30日). 2024年3月31日閲覧。
- 1 2 “音楽評論家・渋谷陽一さん死去 74歳 音楽雑誌「ロッキング・オン」創刊 23年に脳出血発症 - スポニチ Sponichi Annex 芸能”. スポニチ Sponichi Annex (2025年7月22日). 2025年7月22日閲覧。
- ↑ 「ロッキング・オン・グループ代表 渋谷陽一逝去のお知らせ」(プレスリリース)、ロッキング・オン・グループ、2025年7月22日。2025年7月22日閲覧。
- ↑ “渋谷陽一はロックの矛盾を体現したのか 重なるツェッペリンの軌跡:朝日新聞”. 朝日新聞 (2025年11月10日). 2025年12月9日閲覧。
- ↑ もっとも成功したベンチャー誌 ロッキング・オンとその系譜 Lmaga.jp
- ↑ 渋谷陽一 『ロック大教典』1997年、89頁、ロッキング・オン
- ↑ “「ボヘミアン・ラプソディ」なぜ若者に人気? 「元祖Jポップ」としてのクイーンの魅力”. 東洋経済ONLINE (2018年12月7日). 2019年7月15日閲覧。
- ↑ 渋谷陽一『ロックミュージック進化論』1980年 140-142頁、日本放送出版協会
- 1 2 AERA 2000年4月17日号
- ↑ 渋谷陽一 『メディアとしてのロックンロール』 ロッキング・オン、1979年、252-253頁。
- 1 2 編集会議 2001年10月号 宣伝会議、44-45頁
- ↑ 渋谷陽一 『ロック微分法』 ロッキング・オン、1984年、250-252頁。
- ↑ 渋谷陽一 『ロック微分法』 ロッキング・オン、1984年、251頁。
- 1 2 Kitsukawa, Yukio, 1950-; 橘川幸夫, 1950-. Rokkingu on no jidai = Rickin' on (Shohan ed.). Tōkyō. p. 56. ISBN 978-4-7949-6940-8. OCLC 967151442
- ↑ Kitsukawa, Yukio, 1950-; 橘川幸夫, 1950-. Rokkingu on no jidai=Rickin' on (Shohan ed.). Tōkyō. pp. 54-56. ISBN 978-4-7949-6940-8. OCLC 967151442
- ↑ Cdジャーナル編『音楽cd検定公式ガイドブック(下)』、音楽出版社、2007年、ISBN 978-4861710308、p53。
- ↑ 『青空のゆくえ - 浜田省吾の軌跡』、ロッキング・オン、1999年、475頁
- 1 2 3 4 5 渋谷陽一 『ロックはどうして時代から逃れられないのか』 ロッキング・オン、1996年、468頁。
- ↑ 『bridge』4号 127頁 1994年
- ↑ “FMホットライン|番組|NHKアーカイブス”. NHK. 2026年3月15日閲覧。
外部リンク
[編集]渋谷陽一の社長はつらいよ rockinon.com内ブログ