渋谷陽一

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しぶや よういち
渋谷 陽一
生誕 (1951-06-09) 1951年6月9日(68歳)
日本の旗 日本 東京都[1]
出身校 東京都立千歳丘高等学校
明治学院大学経済学部 中退[2][3]
職業 音楽評論家DJ実業家
肩書き 株式会社ロッキング・オン代表取締役社長

渋谷 陽一(しぶや よういち、1951年6月9日[4] - )は、日本音楽評論家編集者。株式会社ロッキング・オンの代表取締役社長。

来歴[編集]

東京都新宿区出身[4]明治学院大学経済学部中退。

東京都立千歳丘高等学校在学時から『音楽専科』等のロック誌に寄稿し、18歳の時グランド・ファンク・レイルロードのレコード評で音楽評論家としてのキャリアを始める[5]

明治学院大学在学中の1972年松村雄策岩谷宏(2011年現在は、主にコンピュータ関連の著述家・翻訳家)・橘川幸夫(2012年現・デジタルメディア研究所所長)らと、ロック雑誌『rocki'n on』を創刊[6]。ミニコミ誌としてスタートし、1977年に商業月刊誌となる。

1973年からNHKのラジオDJを務め、NHKラジオ第1放送の『若いこだま』、NHK-FMの『ヤングジョッキー』『サウンドストリート』『ミュージックスクエア』などで英米のロックを積極的に紹介。2019年現在はNHK-FMの『ワールドロックナウ』に出演中。

1986年には邦楽専門の音楽誌『ROCKIN'ON JAPAN』を創刊。その後も『CUT』『bridge』『H』『SIGHT』『SIGHT ART』など数々の雑誌や書籍を手がけ、2000年からは『ROCK IN JAPAN FESTIVAL』『COUNTDOWN JAPAN』『JAPAN JAM』といった音楽イベントの総合プロデューサーも務める。

評論家として[編集]

「ロッキング・オン」は外来思想としてのロックを日本の風土と日常生活の中に根付かせようとする一種の思想運動だったと言える[7]

渋谷は時代における先進性を持ったバンドを高く評価するが、その音楽性を固定させたようなバンドは「様式化」という言葉で批判している。例えば、ハードロック(ヘヴィ・メタル)におけるブラック・サバスは評価するが、ジューダス・プリーストは批判する、という具合である。これについては松村雄策との対談の中で「サバスは好きだけどジューダスは嫌いというのは世間は納得しない」と、からかわれている[8]

クイーンについては自著『ロックミュージック進化論』で、音が建築工学的であると評価している[9]。かつてNHK-FMで年末に放送された、渋谷がDJを務めた『ロック大賞』という番組では、毎年レッド・ツェッペリンが1位であったため殿堂入りという特別扱いになった。レッド・ツェッペリンとビートルズプリンスに関しては盲目的なファンという姿勢をくずさない。

ライナーノーツを数多く執筆しているが、原稿の管理に無頓着で、単行本『ロック大教典』出版の際には読者に今まで書いたテキストを送ってほしいと告知し、実際に送った人は協力者として巻末に記載されている。

英語が不得意なためにしでかした失敗もあり、一例として『音楽専科』の新譜紹介ページでエリック・クラプトンのソロアルバムのタイトル"No reason to cry"(1976)を「泣くのに理由はいらない」と誤訳したことがある(実際は「泣く理由はない」だから意味は全く逆)。

新雑誌の立ち上げに際しては編集長として積極的に関わることが多く、その手腕も高く評価されている。「映画」ジャンルにはとくに積極的に関わっており、黒澤明北野武宮崎駿押井守らに直接インタビューをおこなっている。

渋谷の出る杭的な言動が、いかに業界の反感を買っていたかを象徴するエピソードには事欠かない。業界の大物のパーティーで渋谷が挨拶に立てば、「バカヤロー」「いい気になってんじゃねえぜ」と大声で罵倒の野次が嵐のごとく降ってきたこともあったという[10]

1972年にロッキング・オンを立ち上げてからの7年間の活動について、「評論家としての自分は、ロッキング・オンというプロジェクトの一部であった」「メディアを自分達で組織していくという行為が僕の全てであった」と振り返り、メディア活動を批評行為の一部と位置づけ、「その表出のしかたが、文章であるか、雑誌運営であるかの差でしかない」と述べている[11]

音楽評論家として雑誌を創刊したが、いざ雑誌を作り始めると、雑誌編集の仕事の方がはるかに面白かった、と語っている[12]

近年、執筆活動をほとんどしなくなった理由について、「原稿を書いているより、広告営業をしている方が楽しいし、資質的にも合っているように思う」「原稿を書いていると鬱鬱として暗くなってしまう。楽しくない事を無理矢理やると体に悪い」「要するに根っからの編集者であり、出版社の経営者なのである」と述べている[13]

2000年から新規事業として取り組んでいる音楽イベントについて、「ロック・フェスティバルはひとつのメディアであり、雑誌作りによく似たトータルな表現である」と述べている[12]

本人は評論家業よりも出版社の経営者としての立場を重視しており、経営者の方が面白いとも公言している[14]

産業ロック[編集]

「産業ロック」という言葉を日本で初めて使ったのは、渋谷である(1979年ごろ、NHK-FMのラジオ番組『ヤングジョッキー』において)[15]。渋谷は、当時日本やアメリカで人気のあったジャーニーフォリナースティクスREOスピードワゴン、ボストン、TOTOらを産業ロックと呼んだ。渋谷の産業ロック論は個人的なものではなく、英米の音楽メディアと共鳴しており、70年代後半のアメリカでも、産業ロックと類似した「コーポレート・ロック」「ダイナソー・ロック」(恐竜ロック)という用語がさかんに用いられていた[15]

渋谷は「ひとつひとつのアヴァンギャルドな試みが積み重なって音楽は進んでいく。そんな努力がない限り、音楽は動脈硬化するだけであり、産業ロックとはその動脈硬化なのである」「ロックのこれまでの試行錯誤の歴史を全て御破算にしてしまうような不安を与える。何か非常に身も蓋もないという気がするのだ」と指摘している[15]

産業ロックの特徴について、長髪にジーンズTシャツといったファッション、情緒的で類型的なメロディ、大げさなアレンジで厚い音、保守的でアヴァンギャルドでない音楽性(新しい方法論を示している意味で、ポール・マッカートニースティーヴィー・ワンダーは充分にアヴァンギャルドであると定義)、過剰管理されたマネージメント・システム(マネージャーがメンバーを選定したり、バンドの基本方針を決定する等)を挙げている[15]

後に「日米社長対談 どうやって儲けるか」と題し、ジャーニーのマネージャーであったハービー・ハーバートへのインタビューが実現している[16]

交友関係[編集]

若いとき、自身のラジオ番組にゲスト出演した浜田省吾と議論が白熱し浜田が激怒したことがある。浜田に「結局あんたたちゃあ、人の作ったものにケチつけてメシ食ってるんでしょう! この三流評論家が!」と面と向かって毒づかれ、これに対して渋谷は「はい、そうですよ」としか答えられなかった[17]。しかしながら、その後渋谷は自身の発刊する音楽誌で何度も浜田の特集を組むなど、今日に至るまで長きに渡り浜田を支援し続けている。また、渋谷はプライベートでも付き合いがある数少ないミュージシャンのうちの一人として浜田の名前を挙げている[18]

RCサクセション時代からの仕事仲間である仲井戸麗市は、インタビュー中、渋谷と歌詞の世界観について真剣に言い合っているうちにエスカレートし、あわや殴りあいかというマジギレ寸前になったこともあるという。しかし、その言葉の裏には愛情を感じていたので、その一件以後、仲井戸にとって渋谷の存在が心の中でずっと大きくなったという[10]

B'zをはじめとしたビーイング系のミュージシャンを自社の雑誌であまり取り上げないことから、ビーイング嫌いのイメージがあるが、渋谷本人はビーイングというプロダクションに対して、それほど悪い印象をもっておらず[19]ビーインググループの創業者である長戸大幸とは旧知の仲で、「業界の中でも数少ないウマの合う人物」と述べている[19]。ただしビーイング系のミュージシャンに対しては、「それほど嫌いではないが、好きでもない」と述べている[19]。雑誌『VIEWS』がビーイング批判の特集をやった時はコメントを求められ、唯一、肯定的なコメントを出して発売後お礼の電話をもらった[19]。また、自ら編集長を務める雑誌『bridge』では、「いろいろ言われているが、そのビジネスに向かうスタンスは正しい」といった趣旨のビーイング肯定原稿を発表[19]。その中で、「これだけ擁護しているんだから100万円ぐらい欲しい」と冗談めかして書いたところ電話があり、「100万円はあげれないけど、広告は出してあげる」と言われ、しかも普通の広告ではなく「ガンバレ渋谷陽一」というコピーの笑えるものにしたいという提案を受ける[20]。実際に『bridge』4号で、祝儀袋にビーイングのクレジット入りで「ガンバレ!渋谷陽一」とデザインされた広告が掲載された。かつて制作に関わっていたテレビ東京の「PVTV」では、BeingGIZAがスポンサーで、ビーイングのアーティストのピックアップ枠もあった。

創刊誌[編集]

著書[編集]

単著[編集]

  • 『レコード・ブック』新興楽譜出版社 1974年 ※後に『ロック ベスト・アルバム・セレクション』として文庫化
  • 『メディアとしてのロックンロール』ロッキング・オン 1979年
  • 『ロックミュージック進化論』日本放送出版協会 1980年 のち新潮文庫
  • 『音楽が終わった後に』ロッキング・オン 1982年
  • 『ロック微分法』ロッキング・オン 1984年
  • 『ロックは語れない』新潮文庫 1986年 対談集 表紙イラスト:江口寿史
  • 『ロック ベスト・アルバム・セレクション』新潮文庫 1988年 ※1974年『レコード・ブック』を増補改訂版し文庫化
  • 『ロックはどうして時代から逃れられないのか』ロッキング・オン 1996年

共著[編集]

  • 『ロック読本』福武文庫 1989年
  • 『40過ぎてからのロック』松村雄策共著 ロッキング・オン 1995年
  • 『ロック大教典』松村雄策共著 ロッキング・オン 1997年
  • 『渋松対談Z』松村雄策共著 ロッキング・オン 2002年
  • 『定本渋松対談・復刻版』松村雄策共著 ロッキング・オン 2002年 ※1986年に通信販売で刊行した同書を復刻
  • 『渋松対談 赤盤』松村雄策共著 ロッキング・オン 2011年
  • 『渋松対談 青盤』松村雄策共著 ロッキング・オン 2011年

構成[編集]

  • 『ビートルズの軌跡』1987年4月(シンコー・ミュージック)
    • 1998年に文庫化

インタビュー[編集]

  • 宮崎駿『風の帰る場所―ナウシカから千尋までの軌跡』ロッキング・オン 2002年 のち文春ジブリ文庫
  • 鈴木敏夫『風に吹かれて』中央公論新社 2013年 のち中公文庫

出演[編集]

ラジオ[編集]

企画番組[編集]

テレビ[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 世田谷区長 保坂のぶとWEB 「せたがやYES!」から日本を変える道はどこにあるのか 『脱原発区長はなぜ得票率67%で再選されたのか?』出版記念イベント”. 保坂のぶとWEB (2016年). 2019年9月17日閲覧。
  2. ^ 渋谷陽一『ロックは語れない』(1986年5月、新潮文庫)カバーそで 著書プロフィール. 2019年10月3日閲覧。
  3. ^ 風に吹かれてI-スタジオジブリへの道 (2019年3月、中公文庫)カバーそで 聞き手プロフィール. 2019年10月3日閲覧。
  4. ^ a b オン・ザ・ロック! ゲスト渋谷陽一 |BSテレ東 - テレビ東京”. テレビ東京 (2015年7月12日). 2019年9月15日閲覧。
  5. ^ 渋谷陽一 『ロックは語れない』 新潮社〈新潮文庫〉、1986年、カバー裏プロフィールより。
  6. ^ ロッキング・オン創刊当時はかなりの借金を背負っていった。
  7. ^ もっとも成功したベンチャー誌 ロッキング・オンとその系譜 Lmaga.jp
  8. ^ 渋谷陽一 『ロック大教典』 ロッキング・オン、1997年、89頁。
  9. ^ 「ボヘミアン・ラプソディ」なぜ若者に人気? 「元祖Jポップ」としてのクイーンの魅力”. 東洋経済ONLINE (2018年12月7日). 2019年7月15日閲覧。
  10. ^ a b AERA 2000年4月17日号
  11. ^ 渋谷陽一 『メディアとしてのロックンロール』 ロッキング・オン、1979年、252-253頁。
  12. ^ a b 編集会議 2001年10月号 宣伝会議、44-45頁
  13. ^ 渋谷陽一 『ロック微分法』 ロッキング・オン、1984年、250-252頁。
  14. ^ 渋谷陽一 『ロック微分法』 ロッキング・オン、1984年、251頁。
  15. ^ a b c d 渋谷陽一 『ロック微分法』 ロッキング・オン、1984年、44頁-50頁。
  16. ^ ロッキング・オン 1983年5月号
  17. ^ Cdジャーナル編『音楽cd検定公式ガイドブック(下)』、音楽出版社、2007年、ISBN 978-4861710308、p53。
  18. ^ 『青空のゆくえ - 浜田省吾の軌跡』、ロッキング・オン、1999年、475頁
  19. ^ a b c d e 渋谷陽一 『ロックはどうして時代から逃れられないのか』 ロッキング・オン、1996年、468頁。
  20. ^ 『bridge』4号 127項 1994年

参考文献[編集]

  • 渋谷陽一 『音楽が終わった後に』 ロッキング・オン、1982年。

外部リンク[編集]