大和銀行

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株式会社 大和銀行
The Daiwa Bank, Limited.
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種類 株式会社
本店所在地 日本の旗 日本
540-8610
大阪府大阪市中央区備後町 備後町二丁目2番1号
設立 1918年大正7年)5月15日
(大阪野村銀行)
業種 銀行業
金融機関コード 0010
SWIFTコード DIWAJPJT
事業内容 銀行・信託業務
決算期 3月31日
主要株主 りそなホールディングス100%
外部リンク 公式サイト
インターネット・アーカイブ
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当時の 大和銀行本店ビル
現在はりそな銀行本店ビルとしてその姿を残す(大阪市中央区

株式会社大和銀行(だいわぎんこう、英称The Daiwa Bank, Limited.)は、大阪市中央区に本店を置いていたかつて日本に存在していた銀行の一つで、かつて存在した 大和銀ホールディングス の後継にあたる りそなグループ・りそなホールディングス 傘下の日本の都市銀行である。

概要[編集]

野村財閥の中核銀行として誕生(のちに分社する証券部は現在の野村證券)。

創案者・野村徳七の「自主独往」精神を受け継ぎ、一時、邦銀でも有数の海外拠点網(一時アメリカにおいては最大)、都銀唯一の信託併営等の総合金融機能を発揮し、企業年金信託では信託業界トップに立っていた。信託併営であることから出店計画が認可されにくかったと言われている。一方で、国会議事堂内に支店を持つ唯一の銀行でもあった。

自主独往の精神が語るように他の都市銀行と違い、合併による規模拡大をしなかったため都市銀行では北海道拓殖銀行に次いで2番目に小規模であった。ニューヨーク支店の巨額損失事件時、住友銀行との合併が報道された。実際合併こそなかったが、アメリカ国内の支店網は住友銀行に譲渡された。

自主独往の精神を受け継いできたものの、2003年3月に大和銀行を存続会社としてあさひ銀行と合併しりそな銀行となった。

歴史[編集]

戦前 - 大阪野村銀行としてスタート[編集]

元来小規模な両替店から証券業務に参入し、日露戦争第一次世界大戦の好景気において兼業の株式仲買業で財を成した野村商店(大阪屋証券・コスモ証券を経て現在の岩井コスモ証券)を営業していた野村徳七(2代目)は、念願の商業銀行設立に動く。そして、1918年6月、資本金1000万円の株式会社大阪野村銀行として創立され、同年8月に開業した。(青森にすでに野村銀行の名前で営業している銀行があったため)

こうして誕生した大阪野村銀行は、発足後間もなく第一次世界大戦後の反動不況、さらに関東大震災に遭遇したが、着実な経営姿勢の堅持によりかえって信用を高め、次の発展の基盤を固めた。その間、証券金融の活性化を主眼とし、担保付社債信託業の兼営と公社債専門の証券部門の設置を行って、次第に証券銀行(投資銀行)としての色彩を強めて行く。また、1925年8月に安藤銀行、1926年11月に福陵銀行、1927年9月に森岡銀行を買収併合した。

信託併営 野村銀行 自主独往[編集]

やがて、証券部門が急成長し、1925年12月には証券部を野村證券株式会社として分離する。

1927年1月、青森に存在していた野村銀行に対し商号変更を要求、それに応じた青森の野村銀行は国立五一銀行へ商号変更。 これにより野村銀行を名乗れるようになる。 大阪野村銀行は野村銀行と名を改め、野村財閥の中核として純然たる商業銀行への道を歩む事となる。


この年から深刻な昭和金融恐慌が進行し、多くの名門銀行が姿を消す中で、1927年12月と1928年5月に淡河銀行、1928年9月に藤田銀行、1929年5月に加島銀行の各営業権の一部を譲り受け、業容を拡大、十五大財閥の1つに発展していく。

1930年代の野村銀行の広告

金融恐慌後の1929年に、野村銀行は大阪府本金庫事務を受託した。これは業務の非効率性から受託に消極的な銀行が多かったなかで、野村徳七が金庫事務の公共性と銀行の信用力の増大に着目したもので、大和銀行-現りそな銀行は現在も単独で大阪府指定金融機関の役割を果たしている。

金融恐慌を契機に急激に高まった銀行の合同整理の中で、1933年には大阪では他の有力3行の合同で三和銀行が発足したが、野村銀行自体は自主独往の路線を堅持。

1944年8月、野村信託株式会社を合併して第1号の信託併営行となった。

戦後 - 財閥解体 野村銀行から大和銀行へ[編集]

戦後、財閥解体野村財閥1946年12月7日 に第2次指定を受け解散。また野村銀行自体も、行名変更を余儀なくされた。財閥解体の進行に伴い、制限会社に対する特別措置の中に財閥名の払拭も含まれていたためである。変更名では、第1案として地名の「大阪銀行」と改称し地元金融機関として生きる道を考えたが、先に住友銀行の案と競合したため、次善策として第2案の「大和銀行」に落ち着くことになった。「大和」の由来は、財閥解体下における新体制での「大いなる和」と、野村財閥の商標である「山にト」(=やまと)を掛け合わせた物であり、また「大和」の「大」は「大阪」をも意味した(現在の野村證券野村グループ)の社章はこの「山にト」をモチーフにしたものである。当然ながら大和証券とは全く関係がない)。これは行員から案を募ったもので、大和銀行行史では「文字として平明であり、『だいわ』と読む語呂のおだやかさが親しみを感じさせ、役職員に愛着を深め、またその意味は聖徳太子の憲法『和を貴ぶ』の精神から来ている」と説明されている。行名変更は、奇しくも創業30周年にあたる1948年10月となり、株式会社大和銀行として再発足した。

1949年11月、甲種外国為替銀行の認可を得、銀行・信託・外国為替を3本の桂とする総合金融機関の体制を実現した。

信託併営と国際化[編集]

昭和30年代に入り、信託の専業主義の考え方による大蔵省の信託分離の勧めにもかかわらず、大和銀行は信託併営を維持した。これは、当時の頭取寺尾威夫が「信託併営は、金融機関の大衆化、機能の総合化にマッチし、顧客に幅広いサービスが提供できるため時代の要請に合致している」と強硬に主張し信託分離化も頑なに拒み、また、関西財界の支持を受けた事も追い風となった。結果、都市銀行の中で唯一信託兼営を守り通したが、これが為に大蔵省から睨まれ、「他都銀と同じスタートラインにない」として、新規出店で認可を出し渋るなど、不利な扱いを受けたとも言われている。1962年4月には、企業年金制度(正確には適格退職年金制度)が発足したが、大和銀行は直ちにこの取扱いを開始し、同年8月には年金信託部が設置され、以後、一貫して信託業界首位の座を堅持することになる。

貿易・資本の自由化が推進され、日本経済の国際化が進捗する中、国際業務では1956年ニューヨーク1958年にはロンドンと、国際金融の2大中心地に相次いで駐在員事務所を設置した。1988年にレイニア・インターナショナル銀行香港地区9店の営業権を譲り受け、当時、在香邦銀最大規模の店舗(10店)を展開、また、1990年には、イギリス・ロイズ銀行のアメリカ拠点を買収し、こちらも、当時、在米邦銀最大規模の店舗(17店)を有し、最盛期には大和銀行の純利益3割を稼ぎ出すにいたる。

機械化、事務効率化の面では、1972年8月、キャッシュディスペンサー(CD、現金自動支払機)1号機を設置し、また、1973年8月には第1次オンラインシステムが完成した。これが、大和銀行におけるエレクトロニックバンキングの幕開けとなった。このオンラインシステムは、1981年の第2次オンラインシステムを経て、1993年に新オンラインシステム・ニュートンに移行した。

創立50周年に当たる1968年9月には総資金量1兆2,000億円を超し、3年後の1971年末には2兆円の大台を突破するに至った。

ユニバーサルバンキングへ[編集]

1988年4月、創業70周年を機にヴィジュアルアイデンティティ(VI)開発を実施した。激化する金融機関の競争、金融の自由化、国際化の進展などに積極的に対応する姿勢を明確にイメージづけるために実施した。りそな銀行に統合された後も、このVIは同じりそなグループの近畿大阪銀行で近年まで使用されていた。

1991年には新本店ビルが竣工し、旧本店ビルとその周辺に分散していた本部機能を集約し、情報機能の一元化と生産性の向上を図った。1994年3月には、東京営業部・東京本部が入居する大手町日清生命館の建て替えで大手町では当時一番の高さを誇った大手町野村ビルが竣工した。リテール分野では、通帳などに使用するキャラクターに原田治円谷プロダクションウルトラマンキッズ)、アランジアロンゾを起用し親しまれた。

1993年9月には、顧客に利回り保証を行う「飛ばし」事件で経営危機(債務超過)に陥った系列会社のコスモ証券(現在の岩井コスモ証券)を救済するため、第三者割当増資を引き受け、証券子会社とした。この結果、大和銀行は、銀行・信託・証券の一体経営を行うことになり、国内初の「ユニバーサル・バンキング」を実現した。この当時は都銀が株式取次ぎができる証券会社を持つことはまだ認められていなかったが、コスモ証券が債務超過に陥っていたため例外的に認められた。

1960年代から、各都市銀行が企業グループを形成する動きの中で、大和銀行も第一銀行(後の第一勧業銀行を経て現在のみずほ銀行)の「第一原子力グループ」に参加していたが、1987年、関西地方に地盤のある企業40社が、「国際花と緑の博覧会」への参加を目的に集合、これが「大輪会」へと発展し、大和銀行はその中核銀行に収まった。しかし、バブル崩壊後は、次第に他の都市銀行とは志向を異にして、地元・大阪に密着した地域密着路線を推進するようになっていく。

バブル崩壊と金融再編[編集]

バブル崩壊は、脆弱な経営基盤である大和銀行を直撃した。そして、凋落が決定的となったのが、1995年に発覚した、「大和銀行ニューヨーク支店巨額損失事件」である。同行ニューヨーク支店において、米国債の取引による総額約11億ドルの巨額損失が発生。当時の大蔵省へ損失報告を行っていながら、米法に反して米当局への報告を怠り、連邦準備制度理事会から巨額の罰金処置とアメリカ合衆国からの国外退去命令という厳罰が下された。

国際金融市場の中心であるウォール街からの追放は、国際金融市場へのアクセスを失うことを意味し、かつて米国内の拠点数第1位、都銀第3位の海外拠点を有していた大和銀行は、大和プルダニア銀行(現在のりそなプルダニア銀行)を除く、全国際業務から撤退した。当時純利益の3割を稼いでいた米国市場を失ったのに加え、バブル崩壊後の経済環境は悪化の一途をたどり、「リスクを張って金利を稼ぐ」与信姿勢も災いし膨大な不良債権を生み出し、1998年3月には公的資金による優先株式4080億円の注入を受けた。

1999年に始まった、都銀各行の金融再編で大和銀行は、その不良債権額から合併を忌避され、取り残されていた。その後、大和銀行は個人や中小企業を主要な取引顧客とし、親密な地方銀行をグループ内に取り込む「スーパーリージョナルバンク」への転換を図ることになる。2001年12月、大和銀行は同行の親密地方銀行である近畿大阪銀行奈良銀行と共に、株式移転により金融持株会社大和銀ホールディングスを設立し、各行はその傘下に入った。同時に、大和銀行が兼営する信託部門のうち、法人向けの年金信託業務を新設の大和銀信託銀行に分割した。

続いて、2002年3月には、同じく金融再編に取り残され、マーケットで集中砲火を浴びていた、あさひ銀行が株式交換により大和銀ホールディングスの傘下となった。2003年3月には、あさひ銀行の埼玉県内の営業拠点と資産を新設の埼玉りそな銀行に譲渡し、残ったあさひ銀行と大和銀行が合併する形でりそな銀行となった。

スポーツ振興くじの経緯[編集]

平成4年(1992年) 財団法人日本体育協会、財団法人日本オリンピック委員会から各政党及びスポーツ議員連盟等に要望書提出(1月)

平成10年(1998年) スポーツ振興投票の実施等に関する法律公布(5月) スポーツ振興投票の実施等に関する法律及び関係省令施行(11月)

平成11年(1999年) 大和銀行(現:りそな銀行)を第一期(2001年〜2005年までの5年間)委託金融機関として決定(8月)

平成12年(2000年) 文部大臣が社団法人日本プロサッカーリーグをスポーツ振興投票対象試合開催機構として指定(3月) スポーツ振興くじの愛称toto(トト)及びロゴデザイン決定(4月) 文部省が「スポーツ振興基本計画」を策定(9月) 静岡地域限定販売(テスト販売2回)(10〜11月)

平成13年(2001年) 全国販売開始(3月) 文部科学大臣がスポーツ振興くじの収益による助成の基本方針を決定(11月) 平成14年度(2002年) 投票方法変更(延長Vゴール方式から90分方式)(2月) 助成事業を開始(4月)

平成15年(2003年) 5試合(10チーム)の得点を予想する「totoGOAL」スタート(3月) コンビニエンスストアでの会員限定販売を開始(8月) 独立行政法人日本スポーツ振興センター設立(日本体育・学校健康センターから移行)(10月)

平成16年(2004年) 最高当せん金の引き上げ(1億円から2億円 ※キャリーオーバー発生時)(3月) 第二期(2006年〜2012年までの7年間)の運営業務をセンターの直接運営方式で行うことを決定(12月)

平成17年(2005年) 3試合(6チーム)の得点を予想する「totoGOAL3」スタート(5月) インターネットでの販売を開始(8月)

平成18年(2006年) 第二期センター直接運営方式による販売開始

委託金未払い問題[編集]

2006年4月に、totoの販売を担当していたりそな銀行がtotoを運営している日本スポーツ振興センターに対して、2003年度と2004年度の未払いの委託金を2006年5月中旬までに支払うよう要求した。未払いの委託金は、経費圧縮分の返済を免除した上で合計144億円にも上り、もし日本スポーツ振興センターが支払いに応じなければりそな銀行は民事訴訟を起こす方針を示していた。りそな銀行(当時は大和銀行)は2001年度から5年間、日本スポーツ振興センターからtotoの販売、資金管理・運用などの業務を委託される契約を結んだ。totoの売上金から日本スポーツ振興センターの取り分、当選金、助成金などの金額を除いた残金が委託金となる契約だった。 りそな銀行は2001年までに、同センターにシステム開発や販売端末の製造などにかかる初期投資費として約350億円を融資し、これをセンターが5年に分けて年70億円を返済、委託料110億円と合わせ、年180億円が支払われることになっていたが[7]、売り上げは当初予想の2,000億円を大きく下回り、年々減少し、2005年度には約149億円にまで売り上げが減ってしまったため、年間180億円の委託金が支払えない状態となり、[8]2002年度から委託金が一部未払いとなり、2003~2005年度の各年度に約70億円ずつが未払いとなっていた。 その後、2006年9月2日に、日本スポーツ振興センターが同年9月末までに利息を含めた未払い委託金全額の約216億5,800万円を一括で支払うことが判明。190億円の返済原資は、みずほ銀行を幹事行として全国から募った18金融機関からの協調融資の形で調達され、残りの34億円は、くじ事業以外の勘定から調達され、同年9月29日に全額返済された。協調融資により調達した資金の返済期間は2007年度から10年間であったが、[9]2007年度からの売上げ急増に伴い、2008年度予算では、長期借入金の残高は95億円とし、08年度、09年度の2ヵ年で完済するとしている。ただし、他勘定から振り向けられた34億円の扱いについての記載はない。

年表[編集]

親密企業[編集]

イメージキャラクター[編集]

参考文献[編集]

  • 大和銀行六十年史編纂委員会編『大和銀行六十年史』 大和銀行、1979年。
  • 大和銀行七十年史編纂委員会編『大和銀行七十年史』 大和銀行、1988年。
  • 大和銀行80年史編纂委員会編『大和銀行八十年史 : 最近10年のあゆみ』 大和銀行、 1999年。

外部リンク[編集]