奥山和由

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おくやま かずよし
奥山 和由
奥山 和由
生年月日 (1954-12-04) 1954年12月4日(64歳)
出生地 日本の旗 日本 愛媛県
職業 映画プロデューサー映画監督
ジャンル 映画
著名な家族 奥山融(父)[1]

奥山 和由(おくやま かずよし、1954年12月4日 - )は、日本の映画プロデューサー映画監督。株式会社チームオクヤマ 代表取締役社長。株式会社KATSU-doの代表取締役会長[2]

愛媛県で生まれ東京都で育つ。都立戸山高校学習院大学経済学部経済学科卒業。松竹専務を経て、現在は株式会社チームオクヤマ代表取締役社長。株式会社祇園会館代表取締役社長。吉本興業株式会社エグゼクティブプロデューサー。沖縄国際映画祭エグゼクティブディレクター。

来歴[編集]

シネマジャパネスク[編集]

シネマジャパネスク(CINEMA JAPANESQUE)」とは奥山和由が中心となって進められたプロジェクトで、従来の全国画一的なブロックブッキングと異なる、邦画の新しい製作・興行体制の構築を目指すというものであった。1億円前後の低予算で作った映画を、3~4館ほどのシネマジャパネスク専用上映館を基本に、作品規模やテイストに応じて上映館の数を臨機応変に変化させるというものだった。また、CS放送チャンネル「衛星劇場」のオリジナルコンテンツ製作の側面も持たせるため、「衛星劇場」の名称は「シネマジャパネスク」に変更された。解任事件により1997年の10ヶ月間のみの短命プロジェクトとなってしまったが、奥山の前面指揮によって有望な若手監督による数多くの邦画が製作され、日本映画界のプロ達の投票によって選出される1997年第7回日本映画プロフェッショナル大賞では功績を評価され特別賞を受賞している。

プロジェクトの第1作となる『傷だらけの天使』(監督:阪本順治)は[注 1]、2作目として製作された『うなぎ』[注 2]はカンヌで最高賞のパルムドール賞を受賞した話題性もあり、興行的に貢献した。それ以降の作品は、『東京夜曲』(監督:市川準)、『CURE』(監督:黒沢清)、『バウンス ko GALS』(監督:原田眞人)、そして翌年のカンヌ国際映画祭正式出品となった『フラワーズ・オブ・シャンハイ』(監督:侯孝賢)など、世界各国の映画祭の多くの賞を受賞したが、興行的には振るわなかった。

1998年1月の奥山解任劇をもって「シネマジャパネスク」は終焉を迎えた。当時同プロジェクト内で撮影が進行・完成・上映間近になっていた映画は撮影中止や上映延期になり、CS放送の名前は再び「衛星劇場」に戻された。『ルーズボーイ』など未だにオクラになったままの作品もある。また後に無事上映された映画からは「製作総指揮:奥山和由」のクレジットが外され、奥山色は一掃された。

主な作品[編集]

出演[編集]

テレビ[編集]

ラジオ[編集]

  • わが人生に乾杯! (2009年12月3日 NHKラジオ第一放送) - プロデューサーになるきっかけや、深作欣二、五社英雄両監督の思い出、北野武、竹中直人の監督起用について、ロバート・デ・ニーロとの関係や松竹解任による映画制作の頓挫などを語った。

個人受賞歴[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ シネマジャパネスク発足以前に完成していたため製作費1億7000万円、松竹発表の配給収入は3500万円前後[3]
  2. ^ 『傷だらけの天使』同様にシネマジャパネスク発足以前に完成していたため製作費1億7000万円[3]

出典[編集]

  1. ^ 奥山元松竹社長の“遺言”息子・和由氏が思い代弁”. ZAKZAK (2009年11月30日). 2016年10月27日閲覧。
  2. ^ a b 吉本興業、映画会社を設立”. シネマトゥデイ. 2014年10月6日閲覧。
  3. ^ a b 大高宏雄 『日本映画逆転のシナリオ』 WAVE出版、2000年4月24日、24-25頁。ISBN 978-4-87290-073-6

外部リンク[編集]