奥山和由

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おくやま かずよし
奥山 和由
奥山 和由
生年月日 (1954-12-04) 1954年12月4日(62歳)
出生地 日本の旗 日本 愛媛県
職業 映画プロデューサー映画監督
ジャンル 映画
著名な家族 奥山融(父)[1]

奥山 和由(おくやま かずよし、1954年12月4日 - )は、日本の映画プロデューサー映画監督株式会社KATSU-doの代表取締役[2]

愛媛県で生まれ東京都で育つ。都立戸山高校学習院大学経済学部経済学科卒業。松竹専務を経て、現在は株式会社チームオクヤマ代表取締役社長。株式会社祇園会館代表取締役社長。吉本興業株式会社エグゼクティブプロデューサー。沖縄国際映画祭エグゼクティブディレクター。

来歴[編集]

  • 実父は松竹元社長である奥山融
  • 学生時代、斉藤耕一監督などの助監督として活動。
  • 大学卒業後、1979年 松竹入社。経理部、興業部を経て1981年撮影所付きのプロデューサーとなる。
  • 1982年 瀬戸内シージャック事件を描いた『凶弾』(監督・村川透)で映画製作に初めて携わり、その後多数の映画をプロデュース。『海燕ジョーの奇跡』(監督・藤田敏八)など、反大船色の強い青春アクション映画が主流。特に異業種との共同製作が多く、純然たる松竹資本の映画はほとんどない。
  • 1987年東急グループ三井物産と製作した『ハチ公物語』(監督・神山征二郎)が、興収50億の記録的大ヒット。
  • 1989年映画ファンド第一号による『226』(監督・五社英雄)
  • 1992年テレビ朝日との『遠き落日』等、大ヒット作品多数。
  • 35歳で取締役に就任。
  • 1990年代前半は北野武『その男、凶暴につき』・竹中直人『無能の人』・坂東玉三郎『外科医』、また秋元康『グッバイママ』などを新人映画監督として多くデビューさせる等、映画界の寵児としてもてはやされた。
  • 1994年 江戸川乱歩生誕100周年記念作品『RAMPO』で映画初監督。
  • 1997年うなぎ』(監督:今村昌平)で第50回カンヌ国際映画祭パルムドール賞を受賞した。
  • 1998年1月 取締役会に於ける大谷信義の緊急動議により、2分間の決議で松竹を解任された。
  • 1998年、製作会社「チームオクヤマ」を設立。
  • 1999年、浅野忠信主演『地雷を踏んだらサヨウナラ』(監督・五十嵐匠)で、ロングラン記録を樹立。
  • 2001年、大竹しのぶ、時任三郎主演 浅田次郎原作『天国までの百マイル』公開。
  • 2008年 神山征二郎監督と久々のコンビによる『ラストゲーム 最後の早慶戦』、亀山千広とのタッグによる『TOKYO JOE』が公開。
  • 2010年 御徒町凧監督・森山直太朗音楽監督の『真幸くあらば』を公開。
  • 2011年 金子修介監督・内田有紀成宮寛貴主演『ばかもの』を公開。
  • 2012年 吉本興業との業務提携により、映画制作センターエグゼクティブプロデューサー及び沖縄国際映画祭のエグゼクティブディレクターとなる。
  • 2013年 新人クリエーターを発掘する『クリエーターズファクトリー』を発足。(第一回受賞者は杉野希妃。)
  • 2014年 第一回京都国際映画祭を、ゼネラルプロデューサーとして開催。
  • 2014年 吉本興業が設立した映画会社である株式会社KATSU-doの代表取締役に就任[2]
  • 2015年 竹野内豊・松雪泰子主演『at Home』、二階堂ふみ・長谷川博己主演『この国の空』(終戦70周年記念映画)など、年間でプロデュース作品が10本を超える。
  • 2016年 桃井かおり監督・主演『火Hee』制作。ベルリン国際映画祭に正式招待される。

映画界における奥山の実績[編集]

奥山は山田洋次監督作に代表される「大船調」といわれる松竹伝統の映画製作の現場にありながら『海燕ジョーの奇跡』(監督:藤田敏八)、『いつかギラギラする日』(監督:深作欣二)、『226』(監督:五社英雄)を初めとする他社出身の監督による青春アクション映画路線を打ち出した。また『ハチ公物語』を初めとする異業種他社との共同制作を推進すると共に大ヒット作を連発するなど日本映画界を活性化して業界内外に実績を認められ、1990年代前半までにプロデューサーとして名の通る存在となった。

しかし『外科室』(監督:坂東玉三郎)で「上映時間50分・入場料1000円」の興行方式を仕掛けて映画界に新風を吹き込み、ヒットもするが、大手他社が当時追従することはなく、新人監督として抜擢した北野武の『その男、凶暴につき』、竹中直人の『無能の人』は話題になり、各種映画祭で受賞したものの大ヒット作とはならなかった。

1997年(平成9年)に「シネマジャパネスク」プロジェクトで松竹の閉塞的興行形態にメスを入れ、同時に他社の資本による映画資金調達に徹しており、松竹自体の出資は殆どなかった。しかし多くの才能を発掘した一方、製作作品数が異常に増え、採算割れと興行不振が目立つようになり、1998年(平成10年)1月に松竹取締役会が奥山親子を解任したことで頓挫する形となった。カンヌ映画祭グランプリを受賞した『うなぎ』にしても作品の評価は高かったが興行的には成功せず、解任騒動では採算度外視の映画制作とされ、非難の的となった。

和由は常にアメリカ型プロデューサーと言われたが、その象徴的事件として『RAMPO』監督解任劇があった。当初、NHKのディレクター・黛りんたろうに監督を依頼。しかし完成した作品を観て、撮り直しを要求。それを黛が拒否したため、奥山自身の監督による別バージョンを製作し、2つのバージョンの同名タイトルの作品を同時公開するという暴挙に出た。当時は大変な話題となりヒットはしたものの、強引さを批判する声が上がった。行定勲ら多くの新人監督にもチャンスを与え、北野武に監督デビューのきっかけを与えたとして評価する声もある。一方松竹は『RAMPO』をはじめ多くの奥山プロデュース作品のDVDを発売せず、また奥山プロデュース作品を松竹直営や系列館にもかけないなど絶縁している。

1998年(平成10年)、チームオクヤマ発足後は『地雷を踏んだらサヨウナラ』でロングラン記録を樹立し、その後も現在に至るまで『ラストゲーム 最後の早慶戦』『ばかもの』などコンスタントに映画制作をしており、『真幸くあらば』では主演に尾野真千子を抜擢し、又『地雷を踏んだらサヨウナラ』『真幸くあらば』『オー!ファーザー』では新人監督を起用するなど、新人たちの育成に携わっているが、逆にベテランとのかかわりはない。2012年(平成24年)以降、吉本興業との業務提携によりプロデュース本数は増加。沖縄国際映画祭のエグゼクティブディレクターに就任。審査員には『オペラ座の怪人』『バットマン フォーエヴァー』などの監督ジョエル・シューマッカーや、女優桃井かおりを招聘している。映画祭内においてクリエイターズ・ファクトリーというコンペティションを設け、新人育成を目指しているという。

ロバート・デ・ニーロと奥山[編集]

1995年ロバート・デ・ニーロが、初監督作品『ブロンクス物語』のキャンペーンのため日本に訪れた折に、奥山はデ・ニーロと初めてミーティングを持った。目的は、デ・ニーロが今後映画制作をしていく上での日本におけるパートナー捜しだった。その頃、奥山も日本国内における映画制作の限界を感じ、また『RAMPO』での初監督を終えた時でもあったので、意気投合し、二人の関係はその後長く続いた。一年後、『RAMPO』の米ロサンゼルスにおける試写会に、デ・ニーロがアンディ・ガルシアなどとともに訪れたことは、日米でニュースにもなった。また、さらに半年後、デ・ニーロは再び日本を訪れ、奥山とともに共同企画開発、及び共同制作の記者会見を開いた。これは『226』以来始めた日本における初の映画ファンド・FFE第3号(50億)をバックボーンにしたものだった。第一作はデ・ニーロのプロダクション・トライベッカ側でスパイものの脚本を用意し、デ・ニーロ自身が監督をする予定だった。また第二作には『幸福の黄色いハンカチ』のアメリカを舞台に移したリメイクものが並んでいた。1997年末、第一作の脚本は第一稿完成に至ったが、1998年1月の解任事件により、FFE第3号は解体され、すべては中止となった。その折に、デ・ニーロは奥山へFAXを送り「ニューヨークに来ないか。一緒にやろう」と誘った(2000年11月11日朝日新聞(夕刊)より)。六本木のレストラン「NOBU」はデ・ニーロが出資をしている店だが、そのオープンのときにも奥山はVIPゲストとして招かれ、デ・ニーロと再会している。また、2003年の作品『TAIZO〜戦場カメラマン・一ノ瀬泰造の真実〜』の「『TAIZO』を100万人に伝える会」においても、渡辺謙黒木瞳などと並んでデ・ニーロの名前が彼の署名とともにある。

北野武と奥山[編集]

北野武は奥山プロデュースのもと監督デビュー以来、淀川長治黒澤明等にその作品を絶賛され海外での評価が高まる一方で、興行的には苦戦が続いた。「文藝春秋」誌に発表された「たけし映画との訣別」のなかにも、たけしの監督作品にこだわり続けて制作することによって松竹社内で窮地に立たされていった経緯が書かれている。当時は北野と奥山が決裂したようなニュースとなったが、実態は所属事務所社長の森昌行と『ソナチネ』の製作費決算の件で決裂し、3作続いたコンビはピリオドを打ったというのが事実のようだ。 しかし『GONIN』(監督:石井隆)や、奥山がスーパーバイザーを務める『IZO』(監督:三池崇史)には俳優として参加している。

映画投資ファンド[編集]

日本で初めてファンドという言葉を使用し、プロデューサー主導型の映画制作を可能にしたのが、奥山が発足したFFE(フューチャー・フィルム・エンタープライズ)である。日本初の映画ファンドでもある。

当時、他業種との共同制作は『ハチ公物語』(映画業界以外の業種との共同制作は日本初だった)を皮切りに常識となっていたが、政治思想を含む企画や、暴力的なもの、性描写が激しいものは、企業イメージを気にするため、共同制作の相手会社を捜すことは困難であった。それは映画という自由表現の魅力を追求する映画作りとは相反する方向となるため、プロデューサーの制作能力、すなわち、クオリティーの高いコンテンツを作る信用のもとに各企業から投資をしてもらい、一定額が集まったのちに企画をプロデューサー主導で決定する(組合員の2/3の賛成は必要)という形でFFEの第一号が誕生した。FFE第一号は、12億集めることができ、そのうちの8億をつぎ込み製作されたのが『226』である。その後、FFE第2号は30億を集め、黒澤明監督、リチャード・ギア主演『八月の狂詩曲(ラプソディー)』、そしてFFE第3号は50億を集め、デ・ニーロとの共同製作へと向かうが、解任クーデター事件により、解体されることとなった。

シネマジャパネスク[編集]

シネマジャパネスク(CINEMA JAPANESQUE)」とは奥山和由が中心となって進められたプロジェクトで、従来の全国画一的なブロックブッキングと異なる、邦画の新しい製作・興行体制の構築を目指すというものであった。1億円前後の低予算で作った映画を、3~4館ほどのシネマジャパネスク専用上映館を基本に、作品規模やテイストに応じて上映館の数を臨機応変に変化させるというものだった。また、CS放送チャンネル「衛星劇場」のオリジナルコンテンツ製作の側面も持たせるため、「衛星劇場」の名称は「シネマジャパネスク」に変更された。解任事件により1997年の10ヶ月間のみの短命プロジェクトとなってしまったが、奥山の前面指揮によって有望な若手監督による数多くの邦画が製作され、日本映画界のプロ達の投票によって選出される1997年第7回日本映画プロフェッショナル大賞では功績を評価され特別賞を受賞している。

プロジェクトの第1作となる『傷だらけの天使』(監督:阪本順治)は[注 1]、2作目として製作された『うなぎ』[注 2]はカンヌで最高賞のパルムドール賞を受賞した話題性もあり、興行的に貢献した。それ以降の作品は、『東京夜曲』(監督:市川準)、『CURE』(監督:黒沢清)、『バウンス ko GALS』(監督:原田眞人)、そして翌年のカンヌ国際映画祭正式出品となった『フラワーズ・オブ・シャンハイ』(監督:侯孝賢)など、世界各国の映画祭の多くの賞を受賞したが、興行的には振るわなかった。

1998年1月の奥山解任劇をもって「シネマジャパネスク」は終焉を迎えた。当時同プロジェクト内で撮影が進行・完成・上映間近になっていた映画は撮影中止や上映延期になり、CS放送の名前は再び「衛星劇場」に戻された。『ルーズボーイ』など未だにオクラになったままの作品もある。また後に無事上映された映画からは「製作総指揮:奥山和由」のクレジットが外され、奥山色は一掃された。

解任騒動[編集]

1998年1月19日松竹は取締役会を開き、父・社長と、専務の和由を同日付けで解任した事を発表した。専務から昇格した大谷信義新社長は、取締役会後東京証券取引所で記者会見を行い、「奥山社長・専務の独断的な人事や投資によって映像部門は閉塞状況にあり、この事が業績不振の大きな要因である。」とした上で、奥山専務が進めていたプロジェクト「シネマジャパネスク」についても『うなぎ』以外ほとんどが失敗で、今後の見通しも採算のメドがたたない状態であること、また創業家・大株主でないにも関わらず略歴の通り実子を学生時代から社業に、後に経営にも参加させる公私混同も問題視された。

これに対して同日奥山和由が解任されたにも関わらず本社前でマスコミ各社に対しインタビューを受けたが、松竹により会見を打ち切られる混乱も生じた。

実質的クーデターによる奥山解任のニュースは、世襲が想定されプリンスとして当人を扱っていた当時の映画界に衝撃を与えた。一時は奥山の指揮により松竹の映画は活性化し、長年大手三社において最下位に甘んじていた興業成績は東映を抜いて東宝に迫る勢いを示していた時期もあったが、徐々に営業成績は下降していった。後年は『RAMPO』によるNHKとの対立等トラブルから制作担当役員から外され社内での評価も疑問符が付くものであった。特にクーデター騒動の直前は、東宝は『もののけ姫』が空前の大ヒット、東映も『失楽園』等のヒット作を出す中で、松竹だけが不振続きであった。

この解任劇について、奥山に同情的な立場からは営業成績や恣意的人事ではなく、それ以前の確執によるとの見方が示されている。創業者の大谷家を中心とする保守派と独断的に改革プロジェクトを進める奥山家との確執による内紛劇、歌舞伎を中心とする演劇部のトップ・永山武臣と、映像部門トップの奥山融との長年の確執によるというものであるが、公開企業の親子による私物化に対する説明は全くなされていない。

チームオクヤマ[編集]

松竹在籍時、自身の製作チームの通称として「チームオクヤマ」を名乗ったのが最初である。解任後、ナムコの出資により製作会社「株式会社チームオクヤマ」を設立。第1回作品である『地雷を踏んだらサヨウナラ』(主演:浅野忠信)はロングラン記録を樹立。「玩具修理者」では、QFRONTスターバックスとのコラボレーションで「キュームービー」を企画する。それに続き「PUPS」「クラッシュ」「天国までの百マイル」などを製作。2008年以降は「TOKYO JOE」「真幸くあらば」「最後の早慶戦」「ばかもの」などの企画・製作と量産体制に入っている。 その後も吉本興業と業務提携をし、『R-18文学賞 自縄自縛の私』(監督・竹中直人)、『R-18文学賞 ジェリーフィッシュ』(監督・金子修介)、『デスマッチ』(監督・室賀厚)などコンスタントに制作し、『R100』(監督・松本人志、2013年)にも共同プロデューサーとして関わっている。同年には伊坂幸太郎原作の『オー!ファーザー』(主演・岡田将生、忽那汐里)をプロデュースしている。

イギリスの映画雑誌スクリーン インターナショナルの映画100周年記念号において日本人では唯一「世界の映画人実力者100人」の中に選ばれた。

主な作品[編集]

出演[編集]

テレビ[編集]

ラジオ[編集]

  • わが人生に乾杯! (2009年12月3日 NHKラジオ第一放送) - プロデューサーになるきっかけや、深作欣二、五社英雄両監督の思い出、北野武、竹中直人の監督起用について、ロバート・デ・ニーロとの関係や松竹解任による映画制作の頓挫などを語った。

個人受賞歴[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ シネマジャパネスク発足以前に完成していたため製作費1億7000万円、松竹発表の配給収入は3500万円前後[3]
  2. ^ 『傷だらけの天使』同様にシネマジャパネスク発足以前に完成していたため製作費1億7000万円[3]

出典[編集]

  1. ^ 奥山元松竹社長の“遺言”息子・和由氏が思い代弁”. ZAKZAK (2009年11月30日). 2016年10月27日閲覧。
  2. ^ a b 吉本興業、映画会社を設立”. シネマトゥデイ. 2014年10月6日閲覧。
  3. ^ a b 大高宏雄 『日本映画逆転のシナリオ』 WAVE出版、2000年4月24日、24-25頁。ISBN 978-4-87290-073-6

関連項目[編集]

外部リンク[編集]