進め!電波少年

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進め!電波少年
ジャンル バラエティ番組
演出 土屋敏男1993年6月以降P兼任)
出演者 松本明子
松村邦洋
ほか(出演者を参照)
オープニング 「The Wall 〜長城〜」(BEYOND
エンディング テーマ曲を参照
製作
製作総指揮 棚次隆(CP)
吉川圭三(CP)
プロデューサー 篠木為八男
長濱薫
小西寛
土屋敏男
制作 日本テレビ
放送
放送国・地域 日本の旗 日本
放送期間 1992年7月5日 - 1998年1月4日
放送時間 日曜 22:30 - 22:54
放送分 24分

特記事項:
ナレーター:木村匡也
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進め!電波少年』(すすめ でんぱしょうねん)は、1992年(平成4年)7月5日から1998年(平成10年)1月4日まで、日本テレビ系列で毎週日曜 22:30 - 22:54 (JST) に放送された、日本テレビ制作のバラエティ番組である。

概要[編集]

見たいものを見る、したい事をする、会いたい人に会う」という3つのコンセプトの下、アポなし、突撃、ヒッチハイク、さまざまな無茶に挑戦したテレビ史上類を見ない伝説的バラエティ番組として幅広く認知されている。マフィア、暴力団、スラム街までも番組の題材にし、出演者の生命や番組自体の存続にも関わる危険なロケも多かった。企画によっては官公庁・企業・団体からの抗議や圧力も多く、2019年現在の放送コードでは到底、制作・放送不可能な番組である。

当初『笑撃的電影箱』枠内でスタートしたこの番組は、本来はウッチャンナンチャンの『七人のおたく』の撮影専念のため休止を余儀なくされた前番組『ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.』のつなぎ番組として、制作局から急遽土屋敏男に「何かやれ」と持ち上がったものであった[1][2]。同番組の出演者のうち、出川哲朗はアポなしロケに出演していた他、ウッチャンナンチャンも不定期特番の『電波少年INTERNATIONAL』や『いけ年こい年』にゲスト出演している[3]

制作の経緯[編集]

当時ビッグタレントにお伺いを立て、自分の本当にやりたい企画もすぐに拒否されるテレビ番組作りにうんざりしていた土屋は、視聴率を取れなくてもいいからそのストレスを全部ぶつけてやろうと考えたが、出演者の松本明子松村邦洋は編成ですでに決められており、当時2人を全く知らなかった土屋は「このツーショットなんて誰も見たくないだろう」と、後述の顔だけのCG合成を決めた。

構成作家小山薫堂によると、テレビがどこまでやれば取材拒否されるかという境目を探る番組として企画されたという。当初の仮タイトルは『やったろうじゃん』。それではなんだからと、構成作家の都築浩が当時争論の的となった中村敦夫の発言から『怪傑電波芸者』を提案。しかし製作局長から「芸者はダメ」とNGが出たことを受け、同じく構成作家のそーたにが『電波将軍』[4]と滑舌悪く言ったところ、土屋らに「電波少年か、いいねえ」と勘違いされ、さらに「少年なら『進め』だろう」ということでタイトルが完成した。この『電波少年』及び『進め!電波少年』という名称は、日本テレビ放送網株式会社が所有する商標(商標登録番号第3137022号他)にもなった。

「どうせ2ヵ月だけ」のつもりで放送し、社内的にはひっそりと始まった番組ではあったが、初回の視聴率は12%と好調な滑り出しを見せた。また改編期における海外ロケを中心としたスペシャル『電波少年INTERNATIONAL』や、1997年(平成9年)以降に放送された大晦日特番も多大な人気を獲得。1998年(平成10年)には1月1日のスペシャルを区切りに『進ぬ!電波少年』へとリニューアルし、以後2003年(平成15年)までの10年強にわたる長期シリーズへと発展した。

後の2010年(平成22年)3月12日より、CS放送の日テレプラスで放送されることが決定した(CS放送ではそれ以前にもCS★日テレ1996年(平成8年)から2000年(平成12年)9月まで地上波との同時放送を行っていた)。さらに同年4月9日に初のDVDの発売、それを記念して同年3月31日の深夜(4月1日午前)に約7年振りに放送され、同年7月23日にDVD第2弾が発売、さらに同年9月に第3弾、第4弾と続けて発売した。それに合わせて、2010年(平成22年)3月29日からは電波少年ホームページもリニューアルされた。

前述の事情から、再放送では一部カットされている回や欠番になっている回もある。

特徴・内容[編集]

スタジオトークではセットを用いず、松本と松村の2人とゲストの顔だけを映し、CGアートをバックにクロマキーで出演者の顔あるいは上半身だけを合成するという、それまでにない斬新な手法が用いられた。たまに出演者の顔が横に伸びたり、破裂するなどの映像効果があったのもこの番組の特徴である。なお、その映像効果を付けるための機械「ヒット9000」は、当時、日本テレビを含め全世界に数台しか無かったという。

一方でVTRのナレーションでテロップをつけて突っ込む(「好感触」とオチをつける、など)手法もそれまでにないもので、後のバラエティ番組に多大な影響を与えたとされている。また、画質が悪かろうがスタッフが映っていようがお構いなしに、ストーリーさえ成立していれば放送するスタイルも斬新であった。

形式上は松本と松村がMCであるが、スタッフはロケの内容を知らせないなどMCというよりリアクターとして割り切った扱いをしており、特に松村には当日のゲストも知らされなかった。ロケの同行スタッフの人数は他番組に比べて少なく、ヒッチハイクの企画では同行ディレクターがカメラマンを兼ねるなど、番組の人気が出るにつれスタッフの人数が反比例して少なくなっていったのも特徴のひとつである。土屋曰く、ビデオカメラの進化、小型化により、少人数でもそれなりの画質を提供できるようになったとのことである。

アポなしロケ
当初は「アポなしロケ」という、松本や松村、ゲストが事前許可(アポイント)を取らず多くの著名人に様々な依頼を敢行するという企画を中心に行われた。そのスリリングさから人気を博したが、たびたび「無礼だ」などと抗議の的となるお騒がせ番組でもあった。海外ロケでは、ホテルを予約せずに安い金額でホテル探しをするのが定番であった。
アポなし企画は政治家をネタにすることも多かったため、松本と松村の2人は永田町周辺ではブラックリストに載っていたとされている。南アフリカ共和国でのロケでは実際に当時の大統領ネルソン・マンデラと対面し、わざわざ日本から来た松村に驚くどころか感心していた。他にもアポなしでマフィアのボスに会いに行ったり、暴力団事務所に行ったり、夜のスラム街に行ったりと、生命に関わる危険なロケも多かったが(松村は拳銃で脅されたことすらある)、それが視聴者の興味をそそり高視聴率を記録した。またアポ無し取材で原水爆禁止日本協議会(原水協)に「核廃絶推進番組」のお墨付きをもらったこともある。
ヒッチハイク企画
1996年(平成8年)4月に始まった猿岩石の「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」によって番組は空前の人気を博し、社会現象とまでなった。この企画を機に、以降無名のタレントを使ってまさに体を張った体験取材企画が中心となった。その結果、前出のアポなし取材は1997年(平成9年)以降ほとんど行われなくなり、立場の薄れた松村も後述の理由から降板を余儀なくされた。

出演者[編集]

司会[編集]

ナレーター[編集]

  • 木村匡也
  • 西本聖(1994年11月20日放送の「西本投手にナレーターになってほしい!」というコーナのあと、この日の番組後半のみナレーターを担当)

その他の主な企画出演タレント[編集]

代表的なアポ無し企画[編集]

憧れの227cmの岡山さんに会いたい!
第1回目の企画。松本が会いたい人は、「羽田のモノレールで見かけた大きい人」ということでスタッフが調査したところ、住友金属工業に務めている元バスケ選手の岡山さんということが判明した。会社に取材申請を入れたが、案の定拒否。しかし、土屋の「いっちゃえ」という独断でロケ敢行。4時間待った後、会社前で帰宅途中の岡山さんを発見。「ファンなんです」「日本一のタカイタカイをして下さい」とお願いし、見事してもらうことに成功。松本は岡山さんにお礼を言いながら見送り感涙。ここにアポなしロケのスタイルが始まった。この辺りについて、最初からアポなしを趣旨としていたわけではなかったが、「事前に打ち合わせをしていなかったことが逆に感動を呼んだ」ことに土屋が気付いたからだと、後年「人生が変わる1分間の深イイ話」で明かされた。
森英恵にスタッフジャンパーを作ってもらいたい
番組開始から3か月ほど経ち軌道に乗りだした頃、松本と土屋が食事をしている時に松本が、「番組のスタジャン欲しいですね」といったところ土屋が「よし、森英恵に頼もう!」と発案し、松本は「エーッ!」と仰天したという。土屋は「絶対無理だろう」と内心確信しており、そのまま後日松本によりこのロケが実行された。ところが森は「いいじゃないの。やりましょう」と逆に面白がり、本当にスタッフジャンパーを作ってくれた。土屋はまさかの快諾に一番驚き、「これが最初の大物ロケの成功だった」と後に語っている。
入れ墨バンドに「バウバウ」って刺青を入れてほしい!
ライブ突入シリーズロケでの第1弾。盛り上がるライブ会場に松村とスタッフが突入。松村は舞台に上がり入れ墨をお願いしようとするが、会場スタッフに取り押さえられ、舞台下に下ろされて、警備員や観客にもみくちゃにされる。スタッフが必死に謝ってロケは終了した。突入から退散まで3分程度の非常に短いロケであったため、画面右上に秒数を表示させたうえノーカットで放送した。これ以降、ライブ突入はシリーズ化したが、各所で警戒されることが多くなり突入が難しくなっていった。
有名人の豪邸のトイレでウンコがしたい!シリーズ
1996年2月25日に初放送。松村がロケ弁を食べ、その後下剤を服用し便意を催したら有名人にトイレの利用を交渉。ロケ途中で失敗(脱糞)してしまうことの方が多かったが、峰竜太海老名美どり夫妻宅では成功している。
土屋は当時(1996年)、アポ無しロケに限界を感じて始めていたが、このVTRに久々に手ごたえを感じたという。よって、撮りだめをして小出し小出しで世間の目を電波少年に引きつけておいて、猿岩石の企画をスタートさせる目論見だった。PART7までシリーズ化され、2010年(平成22年)に発売されたDVDにも特典映像等で収録されている。
村山富市の長い眉毛を切ってあげたい!
当時、日本社会党委員長を務めていた村山富市の眉毛を切ろうと、松村がハサミ持参で社会党本部に乗り込んだ。突然の申し出に最初は難色を示すが、松村の必死の願いに最終的には笑顔で対応。見事成功し、数本の眉毛にハサミを入れるも切り落とした眉毛をなくしてしまう。このアポ無しロケの成功により、政治に対してナンセンスなこと(「大臣の椅子に座りたい」、「豪華な会議室で電波少年の会議がしたい」など)に挑戦していくこととなる。
アラファト議長とデュエットしたい!
パレスチナの当時の指導者でノーベル平和賞を受賞した頃のアラファト議長に、松本明子がアポ無しで携帯カラオケマイクを持って突撃し、てんとう虫のサンバの冒頭を替え歌にして「アラファト私が夢の国」と歌った。アラファトと一緒にデュエットで歌ってほしいという企画だったが、歌を知らないアラファトには歌ってもらえなかったものの、面会に通されて歓迎された。後年アラファトが逝去した際は、ナオト・インティライミとともに直接面会した数少ない日本人として松本に取材が殺到することになった。
一億円棋士、羽生善治と金銀飛車角桂馬香車歩落ちで戦いたい!
松村が羽生の自宅を突然訪問。「対決したい」との旨を伝えたところ了承してくれた。羽生は王しか使えないという最悪の条件だったが、それを覆して松村に勝利している。
フリーメイソンに入会したい!
松村が東京都港区芝公園にあるフリーメイソンの日本の本部に押しかけ、玄関のインターホンを鳴らして会員にしてくださいと繰り返した。年配の男性職員が対応したが会員にはしてもらえなかった。
吉本隆明に息継ぎの仕方を教えてあげたい!
海水浴場溺死しかけてニュースにもなった吉本の自宅に、水を溜めた魚用の水槽をもって押しかけた。吉本は愉快に応じて水槽に顔をつけて息継ぎの練習をした(アポなし訪問の主旨がよく伝わっておらず、実際は息をとめて顔をつけただけだった)。
明石康代表に明石焼を食べさせたい!
出川哲朗が成功させたロケ。
この高価なお茶碗で、ご飯が食べたい!
『人生が変わる1分間の深イイ話』2008年(平成20年)6月9日放送分で紹介。坂本瀧山(陶芸家)製作高級茶碗で松本がご飯を食べた。坂本曰く「用の美」(実際の使用時こそ、陶器の美しさそのものが最大限になる、という意味)。
ドラクエのバレエにスライムで出演したい!
松村がバレエ「ドラゴン・クエスト」の初演(1995年、スターダンサーズ・バレエ団)にスライム姿での出演を依頼するというものだが、結果は即座に拒否。因みにバレエ団関係者は松村の行為に怒り心頭だったという。
天才登山家・野口健が思わず登ってみたくなる大きな男になりたい!
放送当時亜細亜大学在籍で七大陸最高峰の内、エベレストを残し全ての登山成功で世間の注目を浴びていた野口健に登ってほしいと松村が頼み込み、成功させたロケ。

上記以外にも、経営が危なくなった新宿末廣亭を「広末亭に改名すればいい!」と、勝手に作った看板を持って山田花子が突撃するも、受付で門前払いされたり、フランスの作曲家ポール・モーリアを松本が訪れ、作曲を無理やり懇願。「ネコなんだもん」というタイトルで作曲してもらうことに成功するなどの企画も放送された。

その他の企画[編集]

渋谷のチーマーを更生させたい!
番組初期の名物企画。放送当時、社会問題になっていたチーマーたちを立ち直らせたいと、松村がチーマーに変装し、渋谷のセンター街へ。更生した若者には更生証明書を渡す準備をしていた。だが近づくやいなや、あっという間に大勢のチーマーに囲まれ、路地の奥へと引っ張り込まれていく。カツラをはぎ取られ松村であることが判明、また隠しカメラも見つかりチーマーは激昂する。皮ジャンをはぎとられた松村は、チーマーたちに腕をつかまれどこかへ強引に連れ去られようとするもなんとか腕を振り切りロケバスへ逃げ込み、辛うじて最悪の事態は免れた。この企画の影響で、不良少年達の間で松村の知名度が悪い意味で上がり、プライベートで住所や移動車のナンバープレートなどを割り出され、執拗な嫌がらせに苦しむこととなってしまう。
本当に強いのか体を張って確かめたい!シリーズ
ユン・ピョウは本当に強いのか体を張って確かめたい
日本テレビ本社前、仕事を終え車に向かおうとしていたユン・ピョウ(元彪)を待ち伏せしていた松村がハリセンで「ユン・ピョウ覚悟〜」と襲いかかる。しかしハリセンは届かず、周りの数人のボディーガードに捕まった挙句本気で蹴られ、ユン・ピョウからも攻撃を喰らうなど散々な目に遭う。当時のプロデューサーの篠木は「これはテロだ」と、オンエアに反対したが、スタッフでもう一度見直したところウケが良かったのでオンエアした。このあとジャッキー・チェン(成龍)、宮沢喜一とシリーズ化する。
牛のゲップを吸い切りたい(地球温暖化を食い止めたい)!
温室効果二酸化炭素の20倍もあるとされるメタンが多く含まれた牛のゲップを松村が吸い取る企画。さらには3年後、一人の力では温暖化が食い止められないとして、出川哲朗山崎邦正ウド鈴木の3人が加わった『牛のゲップを吸い切りたい(団体戦)』も行われた。なお、この企画が2008年(平成20年)6月8日放送の日本テレビ開局55年記念特番『Touch! eco 2008 明日のために…55の挑戦?スペシャル』のコーナーとして16年ぶりに復活し、松村と関ジャニ∞横山裕がこのロケに挑んだ。
NHK紅白に出たい!
元々アイドル歌手でもあった松本明子のはかない願いから、「紅白に出たい!」とNHKに猛アピール。頻繁にNHKに通っていた。紅白歌合戦の最中、NHK前で前述の「ネコなんだもん」を絶唱。紅白にも「入れてやれ」という意見が多く届いたという。2年後、遂に合唱団員として潜入し、その年の紅白のステージに立った。NHKのカメラに松本が映し出されたが、手には「紅白もらった」というがあった[5]。松本がNHKのバラエティ番組のゲストとして出演時に、必ずと言っていい程この映像が紹介される。ちなみに「ネコなんだもん」は『天才てれびくん』のエンディングテーマとしてNHKの電波に流れることとなった。
バツイチになりた〜い!
松村と実際に婚姻離婚する女性を番組で募集、プレゼントとして指輪婚約指輪扱い)が用意された。これに当時26歳の看護師(交際相手なし)が応募した。後日、松本が実際に中野区役所へ婚姻届を、3日後に離婚届を提出。これにより、松村は戸籍上「バツイチ」となっている。この企画の女性とはその後伊丹空港で偶然会った事がある。
松村の本名を変えたい!
放送当時はバルセロナオリンピックに沸く1992年(平成4年)。飛躍の年にすべく五輪にちなみ、「松村バルセロナ」に戸籍上の改名をしようと番組側が提案。実家に行き松村が父に「お父さん、ここでひとつ松村バルセロナという名前に改名しようと思うんです」と告げたところ、父は「そら、えかろうよ」「名前はお前のものだから」と何と了承。家庭裁判所に申請し、結果を待ったが家庭裁判所が却下したため、許可は下りなかった。ちなみに松村と裁判官のやり取りは、ニュースの裁判報道のように絵で表現した。
未成年の犯罪を防止したい!シリーズ
池袋西口公園(通称:池袋ナンパコロシアム)にたむろする若者達を松村が注意するシリーズ。第一弾の「男子中高生のナンパを注意したい!」ではナンパを注意しようとしたところ大量の若者に取り囲まれて肩をパンチされるなど散々な目に遭い、続編の「エアMAX狩りをやめさせたい!」では当時人気のナイキエアMAX95を履いた松村が、(しかも靴が目立つようにとパンツ一枚で)西口公園に1人で突入するも、すぐに人がたかり蹴られるなどの暴行を受ける。さらに、エアMAXを履いていることをチーマーたちに気づかれて一気に襲われたためにロケバスに戻ったが、靴を盗まれてボロボロになっていた。だが、接着剤で靴下の裏にくっつけていた靴底だけは死守したと満足げだった。
青島東京都知事に会いたい!
何かと理由をつけては「青島さんに会いたい!」と、当時東京都知事だった青島幸男に会うために東京都庁を突撃し、断られ続けていたが、十数回に渡るアタックの末、海外にてようやく対面。「電波少年迷惑でした?」という問いに青島は「いやいや、時間とってあげたいんだけど」と回答。一方で、都庁サイドからは「いい加減にしろ」と相当な圧力があったという。
アポなしサンタ
リースの掛かっている家に、サンタに扮した松本とトナカイに扮した松村がプレゼントを渡しに行く企画。プレゼントのおもちゃは松村・松本が玩具・ゲームメーカーに赴いて直接ゲットしたもの。電波少年にしては珍しく毒気の無い企画で「年に1度の心温まる企画」。1995年(平成7年)12月24日放送ではこの企画の1時間スペシャルが放送されている。『進め』終了後は『雷波少年』に移行。また、『進ぬ』でも小池栄子がプレゼントを持って「アンコールワットへの道の舗装」の応援へ向かう『小池栄子のアポなしサンタ in カンボジア』が行われた。
無敵のセールスマン
ふかわりょうカラオケボックス専用ゲームソフト、『電波少年的ゲーム』[6](開発はハドソン。後にセガサターンプレイステーションで全国発売)をセールスマンとして売り歩く企画。電波少年INTERNATIONALではマイクロソフトビル・ゲイツ会長にも自宅に赴き売り込みを図ったが、敷地にも入れず、さらには不審人物扱いされ失敗に終わった。この企画は『進ぬ』初期でも引き続き放送された。
48時間テレビ
1992年(平成4年)8月に、本家の『24時間テレビ』に対抗して電波少年独自で『48時間テレビ』と題したイベントを行った。この功績が本家に認められたのか、1993年(平成5年)の『24時間テレビ16「愛の歌声は地球を救う」』に松本・松村がチャリティーパーソナリティとして参加した(正式には「お手伝い」という名目)。
行くバウ来るバウ
1992年(平成4年)の大晦日、受験生の合格祈願を願って、除夜の鐘に合わせて松村の持ちギャグ「バウバウ」を108回受験生と一緒に叫ぶ、という企画。集客人数の見込みを大きく上回る1万人もの受験生が集まり開催が危ぶまれるが、無事決行された。しかし、あまりに人が集まりすぎたため用意していた合格祈願のお守りや豚汁を配ることが出来ず、余興として企画されていたカラオケ大会は中止せざるをえなかった。
電波少年刑事
ビビるが出演。ある事件の取材中に被害者女性宅をカメラで撮影し、110番通報されるトラブルが発生。取材は打ち切りとなり、警視庁からの抗議を受けた日本テレビから土屋が厳重注意処分を受けた。無敵のセールスマン同様、『進ぬ』初期に1回のみ放送された。後に『雷波少年』で『雷波少年刑事』という企画も放送された。

上記以外にも、番組から電波子(現:滝島梓)というアイドルタレントを生み出し、それの妹分・電波子2〜28号を登場させるという企画や、女性タレントの広告ポスターに対し「小便を漏らしているようだ」と抗議していた(地方)議員に、「それはお漏らしとは言わない」と松村が自らオムツ姿で出向き、実際にお漏らししているポスターを持っていった企画も放送された。

電波少年INTERNATIONAL[編集]

ヒッチハイクシリーズ[編集]

お笑いコンビが海外をヒッチハイクしながらゴールを目指すという企画。

のちの番組の顔となり、『!電波少年』でも『アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイク』(便宜上本項に含める)、『80日間世界一周』などとシリーズ化された。

ユーラシア大陸横断ヒッチハイク[編集]

1996年(平成8年)4月、番組オーディションに参加した当時無名のお笑いコンビ猿岩石有吉弘行森脇和成)が、土屋に「電波少年INTERNATIONAL」の香港会場で前説をするように頼まれて連れていかれた。しかし、番組の放送中に突然呼び出されて、そこで「ユーラシア大陸をヒッチハイクで横断、ロンドンがゴール」という壮大な目的を果たすよう告げられる。もともとTake2が本命として企画されたものであったが、深沢邦之が当時新婚であったため断られ、代わりに半年間のスケジュールが全く白紙だった猿岩石が起用された[7]

企画の推移[編集]

軽い気持ちで引き受けた2人だったが、中国入国の際にビザが必要であることを知らず、いきなり香港で数日足止めを食らうことになった[8]。所持金の10万円はすぐに底をつき、その後は日雇いアルバイトをしながら食費、交通費を稼ぎ心身ボロボロになりながらヒッチハイクを繰り返し西へと向かった。

インドを過ぎた辺りから高い人気が出始め、視聴率は急上昇。結果、他の企画が押されるはめとなり、松村降板にもつながった(後述)。爆風スランプによる応援歌「旅人よ」も発売されたり、ヒッチハイク時代を書いた『猿岩石日記』もシリーズ累計で250万部のベストセラーになったりと反響は大きかった。

一方で、猿岩石は全行程をヒッチハイクだけでゴールしたとされていたが、道中で3回ヒッチハイクでない飛行機を使っていたことが判明した。ルートの途中には国境での外国人入国禁止となった国や内戦や治安が悪いところがあり、大事をとって飛行機に乗ったものとしているが、番組では判明するまで全く触れていなかった。日本テレビの氏家齊一郎社長(当時)は「(バラエティという)番組の性質上、倫理とか道義的な責任はないと考える」とコメントし、各方面から非難を受けた。

また、バックパッカー経験者からは、番組中で猿岩石が「治安の悪い地域で野宿をする」「生水を飲む」といった実際の旅行者なら絶対に行わない行動をしていることから、「番組を真似した視聴者が実際にやれば命に関わる」と警告の声が出ている[9]

ゴール直後[編集]

幾度のリタイヤの危機を乗り越え、1996年(平成8年)の10月にゴール。この時は船越雅史(当時日本テレビアナウンサー)が実況レポートを担当し、当初は10月19日に生放送が予定されていたが、当日に読売ジャイアンツが出場する日本シリーズ第1戦の中継が入ったため、急遽10月22日の同時間帯での録画に切り替えられた。

ゴール直後、番組から「今度は南北アメリカ大陸縦断」と提案され、日本行きかスタート地点のマゼラン海峡行きのチケットのどちらか選択するよう迫られるが、二人は迷うことなくすぐに日本行きを選択。この件について、日本テレビへ抗議電話が殺到し回線がパンクする事態となった。結局猿岩石は日本行きを選択するが、後年「帰りの飛行機の中、(日本行きを選んだことに)スタッフ全員が怒り狂って一切口を聞いてくれず、その顔は般若だった」と語っている。なお、土屋は著書において「電波少年がお笑い番組なのに感動へ向かっていることに危機感を覚え、猿岩石は絶対に日本行きを選ぶと確信していたからこそ、予防注射をさせるなどの敢えてお馬鹿な演出をした」ことを明かしている。ちなみに、一方の選択肢だった「南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイク」の企画はドロンズに受け継がれ(後述)、猿岩石ほどではないが高い人気を博した。

猿岩石は帰国後、西武球場(現:西武ドーム)で凱旋帰国ライブを行ない(猿岩石本人には到着まで内緒)、超満員の客に迎えられた。『ゴッドタン』ドスベリサミットで有吉弘行が述懐したところによると、この時あくまで感動を味わいたかった客の前でネタを見せたが、スベるどころか怒りを買ってしまったという。

その後[編集]

2014年3月31日の『有吉反省会』2時間スペシャルに土屋は反省人として出演。司会の有吉を巻き込もうとするが、有吉は土屋に対して「日本縦断ヒッチハイク」を言い渡し、土屋自身の禊として「日本縦断ヒッチハイク」を決行[10]

2014年7月28日深夜(7月29日)の『SKE48 エビショー!』で土屋が登場し、谷真理佳と松村香織宗谷岬からSKE48劇場までヒッチハイクする企画が行われている[11]

この番組とは関係ないが、コンビ解消後[12]2007年(平成19年)、11月には有吉が「ブレイクしたころの輝きをもう一度取り戻すキッカケにしたい」という自らの希望で東北横断ヒッチハイクを行ない、DVDも発売された。また、2009年(平成21年)8月30日の『24時間テレビ』で、有吉がインドの恩人にヒッチハイクで会いに行く企画も放送された。

南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイク[編集]

1996年(平成8年)10月末、電波少年の前説を担当していたドロンズ大島直也石本武士(現:ドロンズ石本))に突然カンペが出され、南北アメリカ大陸の縦断ヒッチハイクを命ぜられる。ヒッチハイクといえば猿岩石のイメージが強いが、実際のところ1997年(平成9年)大晦日にゴールするまでにかかった日数は、猿岩石の倍である1年2カ月であった。

企画の推移[編集]

彼らの旅は常に出会いを大切にする旅であり、ドキュメンタリー色が強かった。アルゼンチンで、地元の人のアドバイスにより小学校でスペイン語を勉強し、日常会話に支障がないほどに習得する。その後、入院した病院で同行ディレクターに行動を強制されたことをきっかけに一度ギブアップを宣言するが、協議の結果和解が成立し終了の危機から脱する。ブエノスアイレス州のドロレス(en:Dolores, Buenos Aires)という街では「電波少年番外編」の企画としてはねだえりかとともにドロンズを探していた両親との再会を果たし、突然の出発で顔も合わせる暇がなかった家族に対し改めて旅の出発の挨拶をする。ペルーでは地元テレビ局のプロデューサーに気に入られ1カ月近くバラエティ番組『リサスイサルサ』(es:Risas y salsa)に出演し、アメリカではキャンピングカーで旅をしている男性に、体調不良になった大島直也の入院費を全額負担してもらうなど、人との触れ合いが多かった。一方、同行ディレクターが見知らぬ男に暴行される、ヒッチハイクした車がスピードの出しすぎで横転する事故に遭うなど、一歩間違えば生死に関わるようなトラブルも多かった[13]

なお、猿岩石の時と同様にテーマ曲が作られ、TUBE前田亘輝による応援歌「君だけのTomorrow」がヒットを記録した。書籍としても企画と並行して『ドロンズ日記』全5巻が、また旅の完結後にムック本「全ドロンズ―Whole lotta Dorons with comic」が発売された。

企画終了とその後[編集]

ゴールの模様は1997年(平成9年)12月31日の大晦日NHK紅白歌合戦の裏番組として生中継され、当時の紅白の裏番組としては最高視聴率である15.9%を記録。翌日1998年(平成10年)1月1日の元日には、特番『電波少年INTERNATIONAL14』がウッチャンナンチャンをゲストに迎えて放送されるが、ED時に「実は 進め!電波少年は本日をもって終了します」と書かれたボードを突然見せられ、ドロンズが呆然としたまま番組は終了する[14]

帰国後にドロンズは24時間凱旋帰国ライブを行なった(全24回だと知らされたのは1回目のライブ直後である)。その後新たにスタートした『雷波少年』にて、ロバのロシナンテとともに日本をヒッチハイクして縦断する企画に参加した(こちらを参照)。

これらの企画が終了したあと、ドロンズはフジテレビの『DAIBAッテキ!!』『DAIBAクシン!!GOLD』にていずれも司会を務めた。ちなみに、それらの番組に当時「チェキッ娘」として出演していた野崎恵は、その後「電波少年的15少女漂流記」に参加している。

アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイク[編集]

ヒッチハイク完結編。シリーズとしては唯一お笑いタレント以外による企画であり、朋友伊藤高史チューヤン(謝昭仁))が務めた。なおゴール時には、猿岩石・ドロンズがともにスタジオゲストとして出演し、ゴールの瞬間を見守った。

松村降板騒動[編集]

裏番組発言[編集]

1997年4月13日にテレビ朝日系列で放送された『ゴールデンナイター阪神×巨人戦(甲子園)に、朝日放送ABCテレビ)制作テレビ朝日系列全国ネットの中継に松村がゲスト出演。阪神ファンである松村は、阪神が勝利した喜びに興奮して、「この後、『サンデージャングル』を見て下さい!!」と発言。松村は、当時土曜日の『サタデージャングル』レギュラーであったことから、姉妹番組を応援する発言を行なった。

本来『サンデージャングル』は23時からの放送で、電波少年は22時半からの放送だが、その日は直前に放送されていた『おしゃれカンケイ』が60分スペシャルであったため、30分遅れで23時からの開始となっていた。このため、電波少年の裏番組を宣伝する発言をしたという理由で強制的に番組出演を自粛させられる。ただし、プロ野球中継が延長したためサンデージャングルは23時30分からの放送となっており、電波少年とは放送時間が重複しなかった。

テレゴングによる処遇[編集]

その後、松本だけでスタジオ収録が行なわれ、松村のロケのVTRはもちろん、過去のVTRにおいても松村の顔にモザイク処理を施すなどして、松村を徹底的に排除した放送が続く。この仕打ちに松村もまいり、スタジオ収録中の松本に謝罪と復帰を懇願する電話を入れ、松村に悪気がなかったことは認められたが、自粛中に視聴者から「松ちゃんを辞めさせないで!」という意見と、「よくぞ松村を辞めさせてくれた!」という意見が2通ずつ届き、松村に対する世論が拮抗したため、テレゴングによる視聴者投票によって松村の処遇を決めることとなった。

その結果、「許してあげる」:1,340,946票(49.2%)、「許してあげない」:1,383,836票(50.8%)となり、42,890票(1.6%)の差で「許してあげない」に決定した。

その後、視聴者から「松ちゃんを許してあげて!」という意見が多数寄せられたため、松村はすぐに復帰を果たす。ところが、今度は逆に「松村を許してんじゃねーよ!」などの苦情が殺到したとして、再度降板となる。すると、態度をはっきりしない日テレに対して「ふざけてんのか!」という苦情が寄せられるようになったとして、番組内で(木村匡也が軽薄な口調で)「ふざけてます(笑)」と回答、結局松村は復帰する。これにより、松村の降板騒動は再度炎上することとなった。

この間は「レギュラー司会者争奪サバイバルシリーズ!」と称して松村と当時の若手芸人とのVTR対決が行われていた。

突然の降板[編集]

しかし、1997年(平成9年)大晦日のドロンズゴール特番には出演するものの、翌日の新年特番にはなぜか出演しなかった。以降『進ぬ!』での出演もなく、大晦日が結果的に最後の出演となった。この突然の降板について番組や本人からは何の挨拶も説明もなく、その後の番組内でも松村について一切触れていなかったことから、土屋は降板騒動について「実はマッちゃんがノイローゼになったとか周囲から言われて心配していた」と語ったが、何の挨拶もなかったことについては「電波少年に花束はいらねぇだろう」の一言しかコメントしなかった。ちなみに、この松村の降板に対する抗議電話は一本もなかったという。

なお、『進め!』末期では一時期松村のロケしてきたVTRがほとんど放送されず、松村が「僕のロケ映像が全然放送されない」と言い、深夜のフィラーの時間に『松村邦洋のひとり電波』という5分程度のミニ番組が放送されたが、2回で打ち切りとなった。

真相について[編集]

後年、土屋は自身の著書の中で「番組改編であり、最初から決まっていた」と証言している。これは、以下の事情によるものである。

  • 番組が有名になったことで、アポなしをしても相手が歓迎してしまうという、今までのケースが成立しないロケも出てくるようになった。
  • 猿岩石の大成功から、「これからはヒッチハイクが主になる」と考えていた(前述も参照)。
  • アポなしの顔である松村も「豪邸でウンコ」シリーズなどで奮闘したが、結局「自分の出番が無い!」ということ自体が一番ウケていた。

これらのことから、「司会進行役の松本は残すにしても、その後の番組の構成上(松村は)外さざるをえなかった」としており、すなわち、「アポなし企画をやめる以上、(立場的にも)松村の降板は避けられなかった」というのが真相であった。したがって、前述の「サンデージャングル発言」は全くの無関係であり、松村も実際はただ台本に従って発言しただけであった。そして、テレゴングによる視聴者投票は、実はスタッフによって意図的に行われた物で、松村の処遇に対しての視聴者からの意見及び苦情も、あらかじめスタッフに用意された物であり、ひっかけも何も無かったことが明らかにされた。

しかし一方で、「『進め! 電波少年』といったら松村」と、土屋もその功績を認める発言をしている。

なお、猿岩石のデビューシングルが読売・日テレ系列のバップから発売されなかったことにより[15]、松村と猿岩石の所属事務所である太田プロと日本テレビの関係が悪化したことが原因であるという説もある。実際に『進ぬ!』以降、2003年(平成15年)3月1日の『恥ずかしながら帰って参りましたスペシャル』まで、電波少年シリーズと太田プロの絶縁状態が続いた[16]

降板後の松村[編集]

一方松村は、その後芸能人として一時期低迷し、当時レギュラー出演していた番組もいくつか降板している。その反面、本業のモノマネ芸を磨くことができたとも語っている。

後年、ABCテレビ朝日放送)の『ナンバ壱番館』に松村が出演した際は、「嫌がらせがなくなったが、自分が街に出ても相手にされなくなった」と紹介された。なお、同番組では具体的な番組名は出していないものの、「松村の発言で降板を余儀なくされた」という解説があった。

問題となった事例[編集]

  • 伊藤悟は、電波少年の企画で、松村が赤ちゃんの恰好で養子にしてくれと自宅に無理やり入ろうとした企画について、押し問答の末、その場でディレクターに抗議をし、映像化しないよう求めた。後に、伊藤はゲイのカップルは子供ができないからかわいそうという思い込みでアポなしを行ったことに驚き、暴力的な感じさえしたと述べている[17]
  • ペルーのアルベルト・フジモリ大統領(1995年当時)に離婚調停中ということで、当時レポーターをしていた宮前真樹が花嫁候補にしてほしいと詰め寄ったことについて、問題となった[18][出典無効]

エピソード[編集]

  • 初回の放送で、「イラン人AD募集」として日本語の流れないペルシャ語だけの映像を流した(映像の意図は後日判明する)。土屋は視聴率よりも視聴者を驚かせたい気持ちで流したらしい。実際に一人のADが採用された。
  • アポなしのロケに急遽抗議があり放送できなくなり、穴埋めとしてアルプスの美しい風景を1分ほど流したことがある。この手法は「進ぬ」以降も何度か行った(電波少年ヨーデル祭り)。
  • ゲストに明石家さんまが来た際、照明がないことや雪山を歩きまわる、動物と闘うといった番組のスタイルに驚き、「なんぼギャラ積まれてもやらん。あかん。」と語り言葉を失っていた。
  • 番組初期には当時物議を醸していた悪魔ちゃんや、構成作家のおちまさとの妻(当時)がなぜかゲスト出演したこともある。また、ゲストが決まっておらず急遽日テレ内にいるタレントにアポ無しで出演交渉をすることもあった。
  • 松村は「我々が行くところは安全じゃないけど、景色はいい」と語り、松本や土屋も同調している。現にアラスカでオーロラを見たり砂漠を彷徨ったり他番組では味わえないような貴重な景色に出くわしている。
  • 土屋は女優・高橋ひとみが番組の熱烈なファンと聞き、ゲストに呼んだ回で「おっぱい見せて欲しい」と番組でお願いしたが(当然ながら)通じる訳も無く、当の高橋はこの言葉にショックを受け、泣いて帰ってしまったという。その模様は放送されなかった。
  • 一方で番組スタッフはロケ後、謝罪を繰り返し、オンエアーにつなげた。長濱プロデューサーは「ディレクターや作家の力量もありますが、この番組成功のおおもとは人柄だと思います。僕らは何度も何度も広報の人に頭を下げてオンエアーできるようにがんばってきたんです。」と語っている。
  • 「松村が貴女のストーカー問題を解決します」として視聴者からの依頼を募集したことがあったが、結局その企画が放送されることはなかった。
  • 松本が日本テレビの連続ドラマに出演している時期、そのドラマに出演している俳優がゲストの回では必ずと言っていいほど最後に「先週の電波少年見た?」もしくは、「先週の猿岩石見た?」というセリフを言ってほしいというアポ無し企画があった。
  • 土屋は著書やDVDの中で、追いつめられる松村はチャーミングであると評し、この表情が見たいがために過酷なロケを繰り返したと語っている。このキャラクターだからこそ我々は大人のいじめっこにならずにすんだ、と松村の功績を高く評価している。
  • 他局の番組でもある『志村けんはいかがでしょう』に出演していた桑野信義に、コント中に志村けんに対して台本にないセリフとして「このハゲ」と言うように命じたことがある(その命令は実行され、その模様は実際に番組内でオンエアされた)。

放送リスト[編集]

各地方の放送時間[編集]

放送枠がローカルセールス扱いとなっている関係上、系列局であっても自社制作のローカル番組の放送や他系列局番組の遅れネットなどを優先して同時ネットしない地方局が存在した[19][20]

テーマ曲[編集]

オープニングテーマ[編集]

  • The Wall 〜長城〜(BEYOND

エンディングテーマ[編集]

  1. 「The Wall 〜長城〜」BEYOND(1992年7月5日 - 1993年3月28日)
  2. 「アポなしの恋」電波子・松村邦洋・松本明子(1993年4月4日 - 8月8日)
  3. 「ただ抱きしめるだけの愛で悲しませないつもりなんて」パーコパコ(1993年8月15日 - 1994年1月30日)
  4. 「ネコなんだもん」松本明子(1994年2月6日 - 3月20日)
  5. 「たとえば、ずっと…」松本明子(1994年3月27日 - )

スタッフ[編集]

  • 構成:小山薫堂、海老克哉、そーたに都築浩、田中直人、中野俊成、澤井康成、鮫肌文殊おちまさと(途中から参加) ほか
  • チーフプロデューサー:棚次隆(前期)、吉川圭三(後期)
  • 演出・プロデューサー:土屋敏男(1993年5月30日までは演出のみ、同年6月6日よりプロデューサー兼任)
  • プロデューサー:篠木為八男(1992年7月5日 - 1993年5月30日)、長濱薫(当時・NTV映像センター)、小西寛(当時・THE WORKS 現・K-max)
  • ディレクター:〆谷浩斗(当時・NTV映像センター)、香川春太郎、飯山直樹(現 K-max)、横井 仁、川端基浩、塩野智章、飯島冬貴、中西太中村元信読売テレビ)、山下柚樹、小笠原豪、似鳥利行、北村英樹など
  • TD:武藤慶一、寺西祥次、貫井克次郎
  • SW:若松忠彦、高梨正利、森本佳秀
  • CAM:清田彦太郎、渡辺茂雄、石井一雄
  • MIX:小池太郎、大島康彦、島田広行
  • VE:浅田昌、岡靖
  • LD:瀬尾泰宏、大川俊行、東城右二
  • 美術:石川啓一郎
  • デザイン:小林俊輔
  • 編集・MA:SonyPCL(千葉元志・河内憲統)・HAC・テレテックメディアパーク(須藤康則・藤田博之)
  • CG:コスモスタジオ
  • ナレーター:木村匡也
  • TK:山沢啓子
  • 音響効果:花岡英夫(CUBIC
  • 広報:織田弘美、阿部真一郎、高木雪
  • ロケ技術:NTV映像センター、スウィッシュジャパン
  • スタイリスト:高尾万寿子(松村担当)、稲葉加奈子
  • AP:中井信介、赤間佳彦
  • 制作協力:THE WORKSNTV映像センター
  • 製作著作:日本テレビ

脚注[編集]

  1. ^ 伝説の極悪P(土屋敏男元プロデューサー)が語る『電波少年』秘話とテレビの未来
  2. ^ “電波少年”は企画次第で視聴率が取れる革命的な番組だった
  3. ^ なお、『電波少年』に枠を取られた形となったウッチャンナンチャンの番組は『ウンナン世界征服宣言』→『ウッチャンウリウリ!ナンチャンナリナリ!!』→『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』とタイトルと放送時間帯を変えながら継続、こちらも90年代の日本テレビを代表する人気番組となった。
  4. ^ なお、このタイトルは後に中京テレビで「宮地佑紀生の電波将軍」として使われた。
  5. ^ [1],90'S チョベリー,2016年10月10日
  6. ^ 【オタク旦那と一般人嫁】電波少年的ゲーム2の謎
  7. ^ ホントは猿岩石じゃなかった!!”. 御影道. 2015年8月22日閲覧。
  8. ^ 当時香港はイギリス領であり、中国返還は翌年の1997年(平成9年)7月1日
  9. ^ 『猿岩石大ウソ日記』(鹿砦社、ヒッチハイク愛好会)
  10. ^ 有吉弘行いわく「20年越しの仕返し」。
  11. ^ SKEが猿岩石!? ヒッチハイクに挑戦 日刊スポーツ 2014年7月28日
  12. ^ 有吉はタレント活動を継続、森脇は実業家に転身し、一般女性と結婚。その後、営業職に転職するが2015年に離婚。同年、会社を辞めて芸能界に復帰し、タレント活動を再開。所属は辺見プロモーション。
  13. ^ 放送はされなかったが、アメリカでのヒッチハイクの最中通りすがりの車に銃で発砲されていたことを、2011年(平成23年)8月5日放送の『情報ライブ ミヤネ屋』に出演した石本が証言している。このときの様子は放送当時発売されたVHSソフトの第4巻「南北アメリカ大陸横断ヒッチハイク〜極北の夢 完結編」にもテレビ未公開映像として収録されており、道路脇の小屋に逃げ込み恐怖で震えが止まらない2人の様子が映っている。
  14. ^ ただしあくまでも演出であり(当日の新聞番組欄では最終回扱いとされておらず、[終]マークはついていなかった)、実際は11日より『進』としてリニューアル。後日談は『進ぬ』内で放送。
  15. ^ 白い雲のように」は、日本コロムビアから発売された。
  16. ^ しかしながら猿岩石は、朋友ゴール特番の際にはドロンズとともにゲスト出演している。
  17. ^ [フツーに生きてるGAYの日常 メディアと性的マイノリティ10●進め!電波少年の松村邦洋が赤ちゃんで・・・「今晩一晩、お宅のお子さんにしてください」
  18. ^ 宮前資料室 雑誌etc4 ]
  19. ^ 番組末期は地方の他系列局開局に伴う放送枠の移動やローカル番組の終了に伴い本番組を同時ネットに移行した系列局も存在した。
  20. ^ 現在当該枠で放送されている『日曜ドラマ』はNNN系列局全局同時ネットとなっている。
  21. ^ 『福島民報』、1994年04月03日朝刊、20面、テレビ欄に新番組マーク記載あり

参考文献[編集]

  • 土屋敏男「電波少年最終回」(日本テレビ放送網、2001年、ISBN 4-8203-9790-7

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

日本テレビ 日曜22時台後半
前番組 番組名 次番組
進め!電波少年
※1994年3月27日まで『笑撃的電影箱』枠