岡田有希子

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おかだ ゆきこ
岡田 有希子
Okada Yukiko.jpg
1984年撮影
プロフィール
愛称 ユッコ
生年月日 1967年8月22日
没年月日 1986年4月8日
没年齢 18歳(数え20)
出身地 愛知県名古屋市熱田区
死没地 東京都新宿区四谷
血液型 O
瞳の色
公称サイズ(1985年時点)
身長 / 体重 155 cm / 44 kg
BMI 18.3
スリーサイズ 86 - 58 - 84 cm
カップサイズ E
活動
デビュー 1983年
ジャンル アイドル歌謡曲
活動期間 1983年 - 1986年
事務所 サンミュージック
レーベル キャニオンレコード
主な出演作 禁じられたマリコ
主な楽曲 ファースト・デイトくちびるNetwork
受賞歴 日本レコード大賞日本歌謡大賞他、最優秀新人賞多数
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岡田 有希子(おかだ ゆきこ、1967年8月22日 - 1986年4月8日)は、日本アイドル歌手女優である。本名、佐藤 佳代(さとう かよ)。愛称は「ユッコ」。身長155cm、体重44kg、B86cm(公称84cm)・W58cm・H84cm、血液型O型、視力左右0.1以下[1]

愛知県名古屋市熱田区出身。名古屋市立高蔵小学校、名古屋市立沢上中学校名古屋市立向陽高等学校から堀越高等学校へ編入、卒業。サンミュージックに所属していた。1980年代中期に活動したアイドル歌手のひとりであり、「ポスト松田聖子」としても期待されていたが[2]、人気絶頂だった1986年昭和61年)に飛び降り自殺した。報道に端を発した若者の相次ぐ自殺は、大きな社会問題となった[3]。当時のこの現象を「ユッコ・シンドローム」と呼ぶこともある[4]

経歴[編集]

1967年(昭和42年)8月22日愛知県一宮市にて、2人姉妹の次女として生まれる。母親が辺縁性胎盤による帝王切開も検討されるほどの難産で、産まれたときは身長47センチ、体重2700グラムの未熟児だった[5]。命の危険があり、脳に重い後遺症が残る可能性もあったが、幸いにも胎児に異常はなかった[5]。1969年、2歳の時に名古屋市熱田区に引越し、上京するまでを過ごす[2]。幼少期は、言語障害ではないものの「さ行」が全く言えず、先生を「い」、三輪車を「んりんゃ」としか話せなかった[6][7]。親が叱ろうとすると、その前に押入れに逃げ込んでしまい、引っぱり出すのに苦労したという[5]。また、顔の割りに耳が大きく目立つことから「ダンボ耳」とからかわれたため、耳を隠す髪形をしていた[8]。道具を使って工作や組み立てをすることが大好きで、「プレゼントに何が欲しい?」と聞かれ「大工道具セット」と答えている。[9]。幼稚園に入ると、姉が通っていたYMCAの体育教室に通い始め、器械体操キャンプスキースケートに専念するが[10]、お転婆になると同時に自身の運動神経のなさを自覚するという思慮も体験した[11]

小学生になると描く(書く)職業に憧れ、小学3年生の作文では「画家漫画家小説家」を挙げている[11]。特に画家に強い憧れを持ち、YMCAをやめて小学4年生から水彩画を習い始める。このとき母親に「一年経って、先生から才能があると言われたら芸大に進みたい」と話している[12]。小学5年生のとき、朝日新聞社主催の写生大会で入選。小学6年生のとき、熱田神宮の写生大会で宮司賞(一等賞)を獲る。中学生になると油絵日本画も習うとともに、本格的にデッサンから学び始める[11]ルノワール『ロメーヌ・ラコー嬢の肖像[13]』『ピアノに寄る少女たち[14]』、フラゴナール『読書する娘(未完成)[15]』、ダ・ヴィンチモナ・リザ[16]』等の模写を描き残している。中学2年生の夏休みの課題では、ファンである河合奈保子肖像画を油絵で描き、中学校内の展覧会で金賞を獲る。彼女はその作品を河合に送ろうと、本気で考えていた[17][注釈 1]

その一方で、芸能タレントにも憧れを持つようになる[注釈 2]。小学2年生から合唱部に入り、小学6年生の時「部員の一人」として地元のテレビラジオ番組に出演する[11]。また、同じく小学6年生の時、学芸会音楽劇浦島太郎』で乙姫役を演じる[18]。その役作りのために、当時人気があったテレビアニメベルサイユのばら』の主人公の1人「マリー・アントワネット」の話し方や歩き方をつぶさに研究し、さらにマリー・アントワネットのを買ってきて熱心に読んでいた[2]。この演劇は、校長が走って見に来たほどだった[11]。これらがきっかけとなり、中学生になると『ホリプロタレントスカウトキャラバン』やテレビドラマなど、様々なオーディションに応募するようになる[2]。連続テレビドラマ『中学生日記』(NHK名古屋局)にエキストラとして出演するが[14]、ドラマのチーフディレクターが大切な役を任せようと思った矢先に辞めてしまう[19]。中学2年生の1981年8月、姉が購読していた雑誌『高一時代』(旺文社)に載っていたオーディション『ニコン フレッシュギャルコンテスト』に応募し、準グランプリに選ばれる。写真は月刊誌写楽』(小学館)1982年3月号に掲載され、特大ポスターが各所(地元・名古屋では「サカエチカ[2])に貼り出されただけでなく、副賞としてグアム旅行も獲得する。中学3年生の1982年の夏休みには、大阪城で開催された『ニコン 中・高生のためのカメラ教室』の写真モデルになっている[14]。しかし、いずれも本格的な芸能界入りにはつながらなかった。

中学3年生の1982年6月、一年前に応募していたオーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ)の予選会通知が、中京テレビから届く。彼女は「中学2年生で出場して、中学3年生でデビューする」という計画を立てていたが、1年遅れの通知だった[10]。「出場するなら内申書を書かない」と担任教諭に反対される中、学校を無断欠席して名古屋地区予選に出場。北原佐和子の『マイ・ボーイフレンド』を歌い、決戦大会への切符を掴む[20]。しかし、担任教諭だけでなく祖父や家族にも反対された[21]ため、12月の決戦大会出場を断念[20]ハンストを起こし、食事をせず自分の部屋に閉じこもる[21]。数日後、見るに見かねた母親が、芸能界入りの条件として「学内テストで学年1位になること、中部統一模擬試験で学内5位以内に入ること、第一志望の向陽高校に合格すること」の3つを提示する[22][23]。普段から通信簿で「5」並びの成績[24]だったものの、それでもクリア不可能と思われる条件だった。しかし彼女は猛勉強の末、それらの条件を全てクリアする[22]。さらに、地区予選に立ち会っていた芸能事務所サンミュージック専務・福田時雄と番組プロデューサー金谷勲夫が家族へ説得したこともあり[25]1983年(昭和58年)3月の決戦大会への出場を許された[26]3月30日、『スター誕生!』の第46回決戦大会で中森明菜の『スローモーション』を歌う。結果は、後日発表されることとなった[注釈 3]

芸能活動[編集]

1983年(昭和58年)4月、向陽高校に入学。それからしばらくして、『スター誕生!』決戦大会の「合格」通知が電話で伝えられる。彼女は電話口で絶句し、泣いてしまったという[22]芸能事務所は『サンミュージック』と『研音』、レコード会社は『キャニオンレコード』と『VAP』の合計4社に指名され、桜田淳子が長く在籍している『サンミュージック』と、田原俊彦が在籍している『キャニオンレコード』との契約が決まった[2]。すぐに東京へ転校することになるため、部活動は他の生徒に影響が無いマネージャーとしてサッカー部に所属。しかしスコアの付け方がわからず、部員のユニフォームを洗うなど雑用の毎日だった[17]。高校生活の傍ら、5月12日から地元・名古屋を舞台にした映画アイコ十六歳』のオーディションを受けるが、7月11日、最終選考である第五次選考で落選する[27]。ここでは富田靖子主演)や松下由樹、のちに堀越高校で同級生となる宮崎萬純らが選ばれている。

7月17日、名古屋を拠点とする霊能者姓名判断師の沖紘子[28]によって、芸名岡田晴子(晴は目へんに青)[27]』『岡田佳代子』『岡田有希子』が候補に挙がる。「“晴子”はサンミュージックの先輩・桑田“靖子”と名前が似ている」「“佳代子”は性格的に弱い名前で、厳しい芸能界では負ける」との理由で不採用となり、最終的に「望をする」ということで『岡田有希子』に決まった[29][30]

8月25日、上京[27]。サンミュージック社長・相澤秀禎宅(東京都世田谷区成城)に下宿する。同居人には、一年先輩の桑田靖子と『スター誕生!』合格者の滝里美がおり、滝とはルームメイトとなる[31][32]。芸能界での目標は「松田聖子山口百恵のような、日本を代表するトップスターになること」だった[33]。9月1日、名古屋の向陽高校から東京の堀越高校へ編入。向陽高校は一学期だけの在籍だった。堀越高校の同級生には、前出の桑田靖子や宮崎萬純のほか、石野陽子本田美奈子倉沢淳美田中久美長山洋子南野陽子永瀬正敏などがいた[34][注釈 4]。10月16日から、ラジオ番組『とびだせ!ポップシティ』(ニッポン放送)、同『サトミ・ヒトミ・ユキコの何かいいことないか仔猫ちゃん』(毎日放送)のパーソナリティとなり、タレント活動をスタートする。11月18日、東京大学の学園祭「東大駒場祭」に『アイドルニューフェイス』として出演し、チャリティーオークションのアシスタントを行う[35][注釈 5]。12月18日、バラエティ番組ヤンヤン歌うスタジオ』(テレビ東京)に「報道部のお茶汲みおばさん」役として、テレビ番組に初登場する[36]

岡田のタレント活動と並行して、「アイドル歌手デビューの準備が進められた。キャニオンレコードのプロデューサー渡辺有三は、岡田のイメージを「六大学野球を観に行く山の手のお嬢さん」と定め、デビューの制作を竹内まりやに依頼する[37][注釈 6]。竹内は、デビュー曲候補である「ファースト・デイト」「リトル プリンセス」「-Dreaming Girl- 恋、はじめまして」の「学園恋愛三部作」、「気まぐれTeenage Love」「さよなら・夏休み」「憧れ」の、テーマが「ティーンエイジ・ラブ」である6曲を作詞作曲する[40]1983年12月10日、竹内もコーラスとして参加[37]する中、初めてのレコーディングが行なわれた[41][注釈 7]。デビュー以降も竹内の楽曲提供は続くこととなり、その数は作詞のみも含めて11曲に及ぶ。それは、岡田が提供を受けた数、および竹内が提供した数、ともに自己最多である[43]。デビュー曲は、1984年1月11日にトラックダウンされた[44]

1984年(昭和59年)1月10日、若年男性向け情報誌スコラ』(スコラ)から、アイドルとして初めての取材を受ける[44]。3月11日、東京明治神宮絵画館前で、ラジオ番組のイベント『とびだせ!ポップシティ お菓子フェア』が開催され、アイドルとして初めてステージに立つ。岡田は観客の声援に驚き、とても感動したという[45]。3月20日から4月8日まで、交流会『集まれYukikoフレンズ』が名古屋(プリンセスガーデンホテル)を皮切りに全国7都市[注釈 8]で開催される。これはティーパーティ形式で、ファンとの交流とステージショーを行なうものだった。3月25日放送の音楽番組ザ・ヒットステージ』(TBS)最終回、4月14日放送のバラエティ番組ヤンヤン歌うスタジオ』(テレビ東京)と音楽バラエティ番組『アイドルパンチ』(テレビ朝日)で、「歌手」としてテレビ出演する[36]

4月21日シングルファースト・デイト」で歌手デビューする。キャッチフレーズは「いつまでも、一緒にいてね。」「ステキの国からやって来たリトル・プリンセス」。グラビア雑誌BOMB!』(学習研究社)は、名古屋のキャンペーン活動に10時から23時まで、13時間密着取材する。岡田は日産ギャラリーのキャンペーン、中日スポーツ記者からの取材、CBCラジオ東海ラジオFM愛知の番組ゲスト出演をこなしている[46]。歌手デビューしてからは、サンミュージックの先輩・松田聖子と比較され、「岡田有希子は第二の松田聖子」「ポスト聖子の第1候補」と言われるようになる。それに対し「やっぱり自分は自分だから、本当はあまり言われたくない。松田聖子の物真似にはなりたくない」と語っている[39]。また、インタビューで「目標とする歌手は誰か」と問われ、「岡田有希子」と答えている[35]

5月31日、音楽番組ザ・ベストテン』(TBS)のスポットライト・コーナーに、菊池桃子とともに初出演。この時の邦楽ランキングは21位だった(菊池は22位)。岡田が登場していきなり、司会久米宏はデビュー曲「ファースト・デイト」を「ファースト・レディ」と間違えて紹介し、黒柳徹子も芸名「おかだゆきこ」を「おかだうきこ」と呼び間違えている[39]。7月29日、サンミュージック公設ファンクラブ結成。京王線新宿駅で一日駅長を務めた後、8両編成の特別列車「リトルプリンセス号[注釈 9]」で、ファン2,500人と会場のよみうりランドに移動[47]。会場では、4,000人のファンと結成式を行った[35]。9月24日に大阪大阪厚生年金会館)、9月30日に東京日本青年館)で、岡田自身初のコンサート恋はじめまして』が開催される。10月8日から翌1985年10月7日まで、ラジオ番組『ちょっとおあずけ』(ニッポン放送)が放送される。この番組は、多くの投稿を紹介したい岡田の希望により、コーナーは設けられていなかった。また、アイドルがパーソナリティを務める番組には珍しく、楽曲選定も岡田自身が全て行なっていた[48]。10月15日に音楽番組『ザ・トップテン』(日本テレビ)で8位、10月18日に音楽番組『ザ・ベストテン』で10位となる。これらの番組に10位以内で出演する事は、岡田が歌手になっての一番の目標だった[35]

この年は、新人賞を吉川晃司、菊池桃子、荻野目洋子SALLY、田中久美、長山洋子、神野美伽一世風靡セピアらと争い、『日本レコード大賞』最優秀新人賞をはじめ音楽祭の賞を総なめにした[注釈 10][注釈 11]。『日本歌謡大賞』ほか、5つの音楽祭の最優秀新人賞は、吉川と同時受賞する[49]オフは1日だけで、名古屋での仕事が終わったら実家に直行したという[50]

1985年(昭和60年)2月9日・14日・15日、グラビア雑誌『BOMB!』と『DUNK』(集英社)は、岡田の1日の芸能活動を密着取材した。2月9日は仙台で8時から21時まで13時間[51]、14日は東京で10時から22時まで12時間[52]、2月15日は9時から23時まで14時間[53]、イベント出演、テレビやラジオ番組の収録、ドラマ撮影、取材などのタレント活動をこなす。体調不良のため途中に病院診察を受け、風邪過労診断にも関わらず点滴を打ちながら仕事をこなす[52]。取材した『DUNK』の記者は「その忙しさを毎日こなすなんて、我々には無理」と感想を述べている[54]

3月25日から5月26日まで、全国コンサート『ハートにキッス』が札幌札幌市民会館)を皮切りに全13都市[注釈 12]で開催される。岡田自身の曲だけでなく、小泉今日子中森明菜河合奈保子らのヒットメドレーマドンナの『ライク・ア・ヴァージン』を、激しい踊りつきで歌う[55]。4月3日の名古屋愛知厚生年金会館)では、岡田の母親と小学生時代の恩師が鑑賞している[2]。6月5日から一週間、堀越高校の修学旅行北海道に滞在[56]する予定だったが、3日目の6月8日にヨーロッパへ出発。スイスチューリッヒからアルプス山脈ユングフラウヨッホを経由してジュネーブまでを鉄道で廻り、カペル橋ルツェルン)、インターラーケン城(インターラーケン)、シヨン城モントルー)、ノートルダム大聖堂ローザンヌ)などで、プロモーションビデオ写真集CMなどの撮影を行なった。ユングフラウヨッホでは、6月で気温氷点下10度のため、1分ほど撮影して体を温めることの繰り返しだったという[57]。6月23日に帰国。7月25日から10月26日まで、全国コンサート『ファンタジアン』が新宮(新宮市民会館)を皮切りに全23都市(東京郵便貯金会館)ほか、追加の7都市を含む)[注釈 13]で開催される。

11月5日から翌1986年(昭和61年)1月28日まで放送の連続テレビドラマ禁じられたマリコ』(TBS)で、岡田は「連続テレビドラマ」で初主演をする。その撮影は、コンサート期間中の1985年9月19日から同年12月いっぱいまで、毎日のように行なわれた。スケジュールの関係で8時間休憩がなかったり[58]、時には撮影が深夜に及ぶこともあった[59]。それでも岡田は、NGをほとんど出していなかった[58]

1986年(昭和61年)1月29日、シングル「くちびるNetwork」が発売され、オリコンチャートで初登場1位となった。この曲は、当時妊娠により休業中だった松田聖子初の提供作品(作詞)であり、作曲は坂本龍一という、異色のコンビにより誕生した。松田が岡田のために、自身の歌声を吹き込んだデモテープを制作しただけでなく、坂本とともに録音スタジオを訪れたことに、岡田は感激したという[60]。岡田と同じ1984年デビューの沢口靖子イメージキャラクターとした、カネボウ化粧品「レディ80BIO カラーネットワーク」「86年春のバザール」のCMソングとして使用された。2月11日から3月2日まで、握手会イベント『くちびる・ときめきネットワーク』が全5都市[注釈 14]で開催される。初日の東京(後楽園ホール)では、二部構成で合計4,000人のファンを動員している[61]

3月3日、堀越高校を卒業。4月4日、世田谷区成城の相澤社長宅を出て、港区南青山マンションで一人暮らしを始める。ここは、オートロック方式のマンションが見付かるまでの仮住まいだった[2]。4月5日、全国コンサート『Heart Jack』全5都市(東京名古屋豊橋鶴岡大阪)がスタートする。4月10日からは、テレビ朝日のドラマ収録なども控えていた[62]

急死[編集]

全国コンサートがスタートして3日後の4月8日自宅マンションでリストカットを行いガス自殺未遂。2階上のマンション住民がガス臭に気づき、管理人が110番東京ガスに通報した。レスキュー隊が駆けつけたとき、岡田は押入れの下段でうずくまり、泣いていたという[2]。現場から程近い北青山病院にて治療した後、芸能事務所に戻った直後の12時15分、事務所が入居しているビル(東京都新宿区四谷)の屋上から飛び降り自殺し、全身強打で即死した。享年20(18歳[4]遺書とみられる、鉛筆書きの便箋が残されていた[63][注釈 15]

同日夜、真成院(四谷霊廟、同新宿区)で親族のみによる仮通夜。4月9日、太宗寺(同新宿区)で通夜。4月10日、宝仙寺(同中野区)でサンミュージック社葬として葬儀告別式が営まれた。最優秀新人賞を争った吉川晃司、番組で多数共演したロックバンドSALLY杉山洋介と岡田尚、岡田がファンだった舘ひろしをはじめ、多くの業界関係者や全国からのファンが参列している[64][65]。そして、代々幡斎場(同渋谷区)で荼毘に付された[66]。地元の名古屋でも、4月11日に東本願寺名古屋別院(名古屋市中区)、4月15日に観聴寺(同熱田区)で告別式が行われた[67]

墓所成満寺(じょうまんじ、愛知県愛西市)。法名侑樂院釋尼佳朋(ゆうぎょういんしゃくにかほう)。祥月命日である4月8日は佳桜忌(かおうき)と呼ばれている。[68]

1987年(昭和62年)7月、「サンミュージック代表、相澤秀禎」名義で慰霊碑が寄贈され、の隣に建立された。そこには岡田有希子の直筆で書かれた詩(題名:プライベートタイム[69])、芸歴・受賞歴、相澤の哀悼の意が刻まれている。ファンからの献花が絶えることはなく、毎年の祥月命日には成満寺だけでなく、岡田が倒れた東京・四谷の現場にも全国からファンが集まり、献花と黙祷が行われている[70][71][72]。海外から訪れるファンもおり、模様は生活情報番組ノンストップ!』(2016年4月11日放送、フジテレビ[73]バラエティ番組YOUは何しに日本へ?』(2016年6月6日放送、テレビ東京[74]で放送された。東京では黙祷が終了したら花を全て回収し、夕刻までに愛知の成満寺へ輸送。改めて墓前の献花が行われた後、住職によるファンへの法話が執り行われる[74]。法話は、2006年平成18年)から続けられている[75]

影響とその後[編集]

1986年4月8日、事件の直後に現場へ駆けつけた報知新聞記者・細貝武と芸能リポーター梨元勝の取材に対し、サンミュージック専務・福田時雄は、「岡田が何に悩んでいたかは分からない。でも、躁鬱の激しい子だった」と答えている[2][76]。その模様は同日、梨元がレギュラー出演していたワイドショー酒井広のうわさのスタジオ』(日本テレビ)で放送された。その一方で朝日新聞は、担当者がみな岡田のことを知らなかったため、自殺未遂発覚の時点では記事にしない予定であった[77]。同日夜に放送された報道番組ニュースステーション』(テレビ朝日系列)では、岡田の死については一切触れず、番組終了時にメインキャスター久米宏が「連鎖反応を起こす心配があるので、今日は自殺の報道を控えました」とコメントしている[78]。明けて4月9日、全ての放送局のワイドショー番組で事件が大々的に取り上げられた[79]。報道番組やワイドショーは、現場に横たわった生々しい遺体を撮影したり、動画をテレビのワイドショーで放送するなどしたため、視聴者に衝撃を与えた[4]ウェルテル効果とみられ、後に「ユッコ・シンドローム」とも呼ばれる若者の相次ぐ自殺が、この頃から顕著となる[4][80]

芸能界では4月8日14時、岡田が初めてレギュラー出演したバラエティ番組『ヤンヤン歌うスタジオ』(テレビ東京)では、4月13日放送分の追悼特集が収録され、司会のあのねのねが岡田の人柄について語っている[81]。4月15日には4月20日放送分の収録に、岡田を可愛がっていた共演者の近藤真彦中森明菜も出演した。二人は岡田との思い出を語るとともに、視聴者に対して自殺を思いとどまるよう訴えている[82]。4月10日、音楽番組ザ・ベストテン』(TBS)のエンディングでは黒柳徹子が、視聴者に向けて涙ながらに語っている。4月19日、北極に近いカナダレゾリュートに滞在していた和泉雅子は、「自分自身の身近な目標と、ガンバルという意思を持てば、毎日がもっと楽しくなる。あなたの“北極点”を持ってほしい」と呼びかけた[83]。4月20日放送の音楽バラエティ番組歌謡ドッキリ大放送』(テレビ朝日)では、収録の4月4日に岡田が出演している(これが最後のテレビ出演だった)ため、収録日と哀悼の意を表すテロップが表示された。4月21日にはサンミュージックの先輩・森田健作が、ワイドショー『おはよう!ナイスデイ』(フジテレビ)の緊急特集に出演し、若者に後追い自殺をやめるよう訴えている[84]

岡田の死は、国会でも取り上げられた[4]。4月9日、国会の衆議院文教委員会江田五月が話題として取り上げ、当時の文部大臣海部俊樹が所感を述べている[85][86]。この時点では、事態をほとんど把握できていなかった。しかし、同年2月1日に『中野富士見中学いじめ自殺事件』が起こっていたこと、若者の自殺の連鎖が止まらないこともあり、政府は事態を無視出来なくなる。4月25日、衆議院文教委員会と参議院特別委員会で「青少年問題」として議題に取り上げ、最善策を本格的に審議されることとなった[87][88]。1986年(昭和61年)の日本国内における若者の自殺は、800件を越えている[3]

コンサートは、4月5日の東京(渋谷公会堂)と4月6日の名古屋(名古屋市民会館)の2都市で行われていた。4月12日の豊橋公演では、サンミュージックの先輩・早見優アメリカでの仕事をキャンセルして代役を務めた[2]が、鶴岡大阪は公演が中止となる。5月14日に発売予定だったシングル花のイマージュ」と、コンサートの模様を収めたビデオは、商品化が中止となった。サンミュージック側が予定通りの発売を要請したのに対し、キャニオンレコード側が難色を示したためである[32]。「花のイマージュ」は13年後の1999年CDアルバム『メモリアルBOX』に収録、発売された。その一方、コンサート映像は2015年8月現在も商品化されていない。

書籍でも、アルバム『ヴィーナス誕生』と同名の写真集が、扶桑社から1986年4月1日に発売されたばかりだったが、全て回収された[89]。また、雑誌『中一時代』(旺文社)1986年4月号から、岡田が執筆した小説を連載予定であったが、打ち切りとなった。岡田が小学生の頃から憧れた職業の一つ「小説家」として、ラジオ番組で共演した青木小織里をモデルとした作品だった。しかし、完成したのは3作品。世に出たのは岡田が死去する前、3月発売の4月号に既に掲載されていた1作品だけだった[90]。作品は全てムック『さよなら…有希子』(Cookie1986年6月号別冊、シーズ)に収録された。

その一方で、岡田のプロマイドの販売は続けられ、ランキングの上位5位から落ちたことはない。プロマイド販売の老舗マルベル堂』の常務・三ツ沢博は、「第二の赤木圭一郎になるだろう」と語っている[34][注釈 16]

自殺の原因を巡っての様々なが巷で飛び交い、「大手芸能プロダクションIの俳優Kが失恋相手だった」「妊娠を苦に自殺した」「本当は殺された」など、都市伝説として広まったことがあったが[4]、真相は闇の中でよくわかっていない[4]。岡田有希子の死から14年後の2000年(平成12年)には、岡田の元チーフマネージャーであった取締役制作部長が、同じビルのトイレ首吊り自殺をしている[4]

2013年(平成25年)12月10日放送の単発特別番組枠カスペ!』(フジテレビ)では、サンミュージック社長・相澤の死去10日前から没するまでを追ったドキュメンタリー『独占! 昭和芸能界の真実 アイドル発掘王・相澤秀禎』が特集され、“伝説美少女アイドル”として岡田の話題も採り上げられた。そこでは、相澤が岡田の死を止められなかったことを生涯悔やんでいたこと、岡田が生前、酒井法子にプレゼントしていたサイン入り写真パネルを、酒井から譲り受けて芸能事務所の社長室で飾られていること、毎年手帳を新調するごとに岡田の写真を表紙裏に貼り、絶えず持ち歩いていたことが紹介されている[91]

2016年(平成28年)3月16日、東海ラジオ深夜放送ドットーレ山口のドキドキラジオ'84』が4月2日から放送されることが発表された[92]。この番組は、岡田が1984年4月9日から1985年10月7日まで同放送局でパーソナリティを務めた深夜放送『奈美子・有希子・小緒里のドキドキラジオ』と同じタイトルを掲げ、岡田をトリビュートした番組として、岡田関連を中心に取り上げるプログラムとなっている[93]ナビゲーターは、医師でパーソナリティの“ドットーレ山口”こと山口悟(ナグモクリニック名古屋院長 医学博士)が務める[94]

没後30年以上経ってもファンに愛される理由について、堀越高校の同級生だった南野陽子は「アイドルとしての彼女が裏切ることがないからではないか。劣化したと思われることもなく、誰かと結婚したわけでもない。彼女が変わらないでいるからこそ、愛され続けるのだと思う」と述べている[95]

人物[編集]

エピソード[編集]

  • 好きな男性芸能人は、同じ名古屋市出身の舘ひろし[96]。テレビドラマ『西部警察』(テレビ朝日系列)を見て「ステキ」と思い、1984年10月15日放送の歌番組『ザ・トップテン』で初めて会ってから、すっかりファンになったという。後に雑誌『明星』(集英社)の対談で、岡田は「舘のレコードカセットテープを買い集めていた」こと、「対談前にテレビ朝日広報に行って、舘主演のテレビドラマ『ただいま絶好調!』のポスターを貰ってきた」ことを語っている。それを聞いた舘は喜びながらも「僕のレコードなどはあげるから、お金を貯めなさい」と貯蓄することをすすめ、仕事に関しては「仕事は頑張ると良い所がなくなる。仕事を遊びわがままを通し、好きなようにやったほうがいい」とアドバイスしている[97]
  • 岡田は、成績向上に繋がった勉強方法として、各教科とも問題集を一冊に絞って丸暗記したことを紹介している。「カメラマンシャッターを押すように、精神統一して1ページ1ページ真剣に頭に入れていく。そうすれば思い出すとき、不思議と一枚の写真のように頭によみがえる」と語っている[98][24]。また、芸能界入りに大反対していたはずの母親が一転して、猛勉強中に毎日欠かさず夜食を持ってきたという。その理由について「夜食で私をブタ並みに太らせ、『スター誕生!』の決勝を落とそうとする母の魂胆だった」と語っている[22]
  • 体型(スリーサイズ)を気にしており、「もっと痩せたい。バストは発育し過ぎたから、もっと小さくしたい」と考えていた[99]。また、水着撮影の時はが出ているのを嫌い、1日1回しか食事をしなかった[100]
  • 視力は左右ともに0.1以下のため、プライベートではかなり度の強い眼鏡を使用していた[101][102]。その様子について、小泉今日子は「仕事じゃないときはいつも牛乳瓶の底みたいな分厚い眼鏡をかけていた。レンズを通して小さくなった目がなんとも可愛かった[103]」、親友の田中久美は「眼鏡はまるで牛乳瓶の底。かけた姿は可愛いというか、面白いというか[104]」と回想している。逆に、タレント活動中はコンタクトレンズや眼鏡など矯正具を一切使用していない。そのことについて田中久美は「遠くで手を振っていても知らん顔で、かなり近付いたらやっと気付いてもらえた。コンタクトレンズをするのが怖かったのかもしれない」と回想しており[104]、岡田も「いつもいろんな人が出入りしている所だと、あいさつのこと考えて疲れちゃうの。“あの人には、もうあいさつしたかな?無視しちゃったかな?…”なんて考えちゃうから」と語っている[7]プロモーションビデオ撮影のとき、離れたビデオカメラに向かってまっすぐ歩くことが出来ず、ふらつくことが多かったという[105]
  • 岡田と同じ1984年4月21日メジャーデビューした音楽ユニットTM NETWORK』のリーダーで、音楽プロデューサー小室哲哉が初めて手掛けた提供曲は、岡田のアルバム『十月の人魚』に収録されている『Sweet Planet』『水色プリンセス』(いずれも作曲のみ)である。『水色プリンセス』はクラシック調の壮麗なメロディで難しい曲だったが、岡田は無事に歌いこなしている[106]
  • 1985年10月16日放送の『夜のヒットスタジオDELUXE』(フジテレビ系列)に出演した時、急遽番組内で阪神タイガースセントラル・リーグ優勝の瞬間まで生中継をすることとなった。中継が終わるまで司会芳村真理古舘伊知郎、出演者の五木ひろし藤井フミヤらと共に野球観戦をすることになり、阪神の優勝を見届けることとなった[107]。岡田は、優勝した阪神タイガースでも地元・名古屋の中日ドラゴンズでもなく、読売ジャイアンツのファンだった[39]
  • サンミュージック社長・相澤秀禎宅で同居していた先輩の桑田靖子・同期の滝里美・後輩の橋本美加子によると、「ユッコ(岡田有希子)は芸能活動のかたわら勉学にも手を抜かず、テスト時はほとんど寝ていなかった。普段から、仕事で遅く帰ってきた後もダイエット痩身)運動や雑用をしており、いつの間にか床の上で寝ていた」という。また、岡田の恋愛について「男の人とおつき合いしたことはないと思う。前の学校(向陽高校)でも憧れの人はいても、おつき合いしたことはないと言っていた」と語っている。さらに、「舘ひろしが大好きで、テレビで見るたびはしゃいだり、出版社企画で対談[97]したことをとても嬉しそうに話していた」とのこと。しかし3人とも、岡田が悩んでいることには全く気付かなかったという[32]

交友関係[編集]

音楽[編集]

シングル[編集]

No. タイトル 発売日 最高位 備考
01 レコード
1984年4月21日
20位 グリコ協同乳業「カフェゼリー」CMソング
02 レコード
1984年7月18日
14位
03 レコード
1984年9月21日
7位 江崎グリコ「セシルチョコレート」CMソング。
04 レコード
1985年1月16日
4位 東芝「レッツチャット」CMソング。
05 レコード
1985年4月17日
5位 グリコ協同乳業「カフェゼリー」CMソング。
06 レコード
1985年7月17日
7位 月曜ドラマランド『かぐや姫・とんで初体験?! 』(1985年7月1日放送、フジテレビ)主題歌。
07 レコード
1985年10月5日
5位 江崎グリコ「セシルチョコレート」CMソング。
08 レコード
1986年1月29日
1位 カネボウ化粧品「レディ80BIO カラーネットワーク」「86年春のバザール」CMソング。
09 CD
2002年12月4日
63位 CD/DVD-BOX『贈りものIII』の発売にあたり、先行シングルとして発売。
オリジナル曲のボーカルのみを抽出し、作曲編曲家服部隆之オーケストラアレンジを施したもの。

発売中止[編集]

No. タイトル 発売予定日 備考
01 レコード
1986年5月14日
1999年3月17日発売のアルバム『メモリアルBOX』に初収録。

オリジナルアルバム[編集]

No. タイトル 発売日 備考
01 レコードカセット
1984年9月5日
CD
1984年12月21日
02 レコード・カセット・CD
1985年3月21日
収録曲「二人だけのセレモニー」は、同名シングルに収録している物とはミキシングが異なる。(以降、曲名に「Single Version」「Album Version」を付け、区別する。)
03 レコード・カセット・CD
1985年9月18日
04 レコード・カセット・CD
1986年3月21日

ベストアルバム[編集]

No. タイトル 発売日 備考
01 レコード・カセット
1984年11月28日
レコードとカセットで曲順が異なる。
カセットのみ、シングルA面3曲のオリジナルカラオケが追加収録されている。(カラオケ含む全10曲収録)
CDは未発売。
収録曲「Believe In You」は、東芝パソピアIQ」CMソング。2002年12月4日、同名でシングル化。
02 レコード・カセット
1985年12月5日
CD
1985年12月15日
歌手デビュー前、一番初めにレコーディングされた「小羊NOTE」[42]が収録されている。
03 CD
1999年3月17日
ベストアルバム『贈りもの』『贈りものII』、オリジナルアルバム『ヴィーナス誕生』に、1986年5月14日に発売予定だったシングル『花のイマージュ』を加えた4枚組。
各アルバムの収録曲は、先に発売されているものと全く同じ内容である。
04 CD
2002年5月15日
2002年3月1日 - 3月31日、ポニーキャニオンのサイト内で人気投票が行われた。
そこで選ばれた上位15曲と、CD化されていなかった「二人だけのセレモニー (Single Version)」「恋のエチュード」が収録されている。
05 CD+DVD
2002年12月18日
2002年12月30日付週間アルバムランキング、初登場87位。
CD6枚とDVD1枚がセットになったスペシャルBOX。各スタジオアルバムごとに、ボーナストラックが収録されている。
「二人だけのセレモニー」は、アルバムバージョン(Disc2)とシングルバージョン(Disc5)の両方を収録。
「Fly Up! Angel」「Believe In You (2003 Present-Mix Version)」は、このBOXのみの特典(Disc5に収録)。
06 CD
2012年11月21日
8枚のシングルAB面16曲と、「花のイマージュ」「Believe In You (2003 Strings Version)」が収録されている。
同内容のオリジナルカラオケが同梱されている。
07 CD
2014年7月30日
8月11日付週間アルバムランキング、初登場79位。初登場TOP100入りは11年7ヶ月ぶり[114]
『花のイマージュ』を含む、9枚のシングルレコード盤AB面を完全収録。
CDパッケージは、シングルレコードサイズの見開きダブル紙ジャケット。すべてのシングルレコードジャケットの表紙と歌詞面をほぼ原寸で復元したブックレットが付属されている。

ハイレゾ[編集]

No. タイトル 発売日 備考
01 ダウンロードUHQCD
2015年9月16日
9枚のシングルと4枚のオリジナルアルバムの全56曲を、アナログのマスターテープから新たにリマスタリングされている。
ハイレゾ化には、1984・1985年当時のレコーディング担当ディレクターだった国吉美織(旧姓:飯島)が、マスタリング作業に参加[42]
オリジナルアルバム『シンデレラ』『FAIRY』『十月の人魚』『ヴィーナス誕生』、新編集のアルバム未収録曲集『プレゼント』の計5枚で復刻され、ダウンロード版とUHQCDで同日発売された[注釈 18]
オリジナルアルバム単位での再発売は今回が初めてであり、それぞれボーナストラックとして、シングルのB面曲が追加収録されている[43]
UHQCDは、シングルレコードサイズの紙ジャケット仕様。LPレコードの歌詞カードや盤面デザイン、ステッカーは紙質まで忠実に再現されている[115]
02
03
04
05
06 ダウンロード
2015年9月16日
上級者向けのパッケージ。
「二人だけのセレモニー」のような完全なバージョン違いまでとは言えないものの、微妙な音の違いがある「シングル用」「アルバム用」のマスターテープから、5曲のシングル用マスターテープをハイレゾ化[116]
ファースト・デイト」「リトル プリンセス」「丘の上のハイスクール」は、アルバムバージョンとLRが逆になっている。
哀しい予感 」「くちびるNetwork」は定位の違いはなく、特定の楽器のイコライジング(周波数特性の補正等)やエフェクトが微妙に異なる[116]

レコーディング参加ミュージシャン[編集]

カバーしたアーティスト[編集]

出演[編集]

テレビドラマ[編集]

バラエティー番組[編集]

ラジオ[編集]

  • とびだせ!ポップシティ(1983年10月16日 - 1984年3月25日、ニッポン放送
  • サトミ・ヒトミ・ユキコの何かいいことないか仔猫ちゃん(1983年10月16日 - 1984年3月9日、毎日放送
  • 百万人の英語(1984年2月9日、文化放送
  • 奈美子・有希子・小緒里のドキドキラジオ(1984年4月9日 - 1985年10月7日、東海ラジオ他)
  • ちょっとおあずけ(1984年10月8日 - 1985年10月7日、ニッポン放送)
    • 多くの投稿を紹介したい岡田の希望により、コーナーは設けられていない。アイドルがパーソナリティを務める番組には珍しく、楽曲選定も岡田自身が全て行っている[48]
  • 夜遊びしナイト!(中途より最終回まで「有希子・章子麻里の―」1985年10月13日 - 1986年4月6日、ニッポン放送系)

CM[編集]

ビデオ[編集]

  • Yukiko in SWISS(1985年8月21日、ポニー
  • Memories of Switzerland(1985年12月5日、ポニー)

DVD[編集]

  • Memories in Swiss(2002年12月18日、ポニーキャニオン
    • 上記のビデオ2作品を1枚のDVDに収めた物。

ポスター[編集]

  • 神田警察署「年末年始防犯広報」
  • 防衛庁自衛官募集」 - 3等陸尉の女子制服姿で三隊の若手自衛官6人に抱え上げられている図案。
  • 消防庁「火災予防運動」

書籍[編集]

テーマにした書籍[編集]

評論[編集]

写真集[編集]

  • 岡田有希子special(撮影:瀬志本邦彦・野々村智夫、1984年、近代映画社)
  • 岡田有希子写真集・あなたとふたりきり…(撮影:瀬志本邦彦、1985年、近代映画社)
  • もっと逢いたい…有希子(撮影:野村誠一、1985年、講談社ISBN 978-4061016217
  • SWEET LOVE DREAM(撮影:武藤義、1985年、音楽専科社
  • さよなら…有希子(Cookie1986年6月号別冊、シーズ)
  • SWEET LOVE DREAM(復刻版、2002年12月、音楽専科社) ISBN 978-4872791204

受賞歴[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 1985年10月21日放送の音楽番組ザ・トップテン』(日本テレビ系列)で河合奈保子と共演したとき、初めて本人の前で作品を披露した。
  2. ^ その時期について、トーク番組三枝の爆笑美女対談』(フジテレビ系)1984年12月9日放送では「小学4年生」、新書『アイドルコミックス・実録まんが岡田有希子』(学研、1984年)では「小学5年生」、グラビア雑誌BOMB!』(学研)1984年6月号では「小学6年生」と語っている。
  3. ^ スター誕生!』第46回決戦大会は、病気などの理由でいままで出演できなかった、地区予選合格者のための臨時大会として行われた。そのため、1983年1月から始まった7週勝ち抜き制ではなく、出場を断念した1982年12月当時に行われていた「合否判定」方式で結果が決められた[2]
  4. ^ 堀越高校同級生 桑田靖子石野陽子岡村有希子河上幸恵菊地陽子本田美奈子倉沢淳美柴田くに子高部知子森奈みはる田中久美長沢ゆりか長山洋子松尾久美子松本友里南野陽子宮崎萬純片岡孝太郎永瀬正敏(再入学)。
  5. ^ 雑誌『ポパイ』(マガジンハウス)1983年10月25日号(No.161)の紙面で「期待の新人」として紹介され、それを見た東京大学の学生が、サンミュージックに出演依頼をしたことによる。
  6. ^ 竹内まりやが曲の制作依頼を断り、岡田が竹内に直談判したところ制作を快諾した」という話がある[38]が、当時のキャニオンレコードのレコーディングディレクターだった国吉美織(旧姓:飯島)によると、この話は「ガセ」である[37]。また、岡田はこの件について音楽雑誌よい子の歌謡曲』(よい子の歌謡曲編集部)のインタビューで、「最初から断られてもいないし、普通に頼んで作ってもらった。曲は、会う前に作ってくれた」と答えている[39]
  7. ^ 一番初めにレコーディングされたのは「小羊NOTE」(作詞:康珍化、作曲:山川恵津子、編曲:大村雅朗)である[42]
  8. ^ 交流会開催地 名古屋大阪仙台札幌福岡広島東京
  9. ^ ヘッドマーク京王資料館に展示されている。通常は一般非公開。
  10. ^ 1984年の新人賞受賞者 吉川晃司菊池桃子荻野目洋子SALLY田中久美長山洋子神野美伽一世風靡セピア渡辺桂子辻沢杏子山本ゆかり、小椋幸子、清水宏次朗青木美保、君津旭、岸浩太郎、出本浩、山本陽一、椎菜、若山かずさ芦屋雁之助三門忠司斎藤誠滝里美麗美、播束和彦、松本友里鮎川麻弥中村あゆみ、池田幸司。[49]
  11. ^ SALLY一世風靡セピアは『日本レコード大賞』『日本有線大賞』を除く、菊池桃子は『日本レコード大賞』を除く、全ての新人賞を辞退している[49]
  12. ^ コンサート『ハートにキッス』開催地 札幌苫小牧仙台秋田名古屋大阪福岡大宮京都郡山沼津磐田
  13. ^ コンサート『ファンタジアン』開催地 新宮紀伊田辺名古屋鹿児島熊本都城福岡金沢大阪秋田遠野水戸新宿徳島松山広島。(追加公演)伊勢崎甲府小倉防府千葉東村山
  14. ^ 握手会イベント『くちびる・ときめきネットワーク』開催地 東京大阪札幌名古屋福岡
  15. ^ 峰岸さんにふられた」「もう一度お会いしたかった…勝手なことをしてごめんなさい」といったことが書かれた遺書があり、サンミュージックの金庫に保管されているという[4]
  16. ^ 週刊現代』(講談社2013年6月29日号「悲劇のアイドル岡田有希子を語ろう」によれば、2013年5月現在もベスト10入りしている。
  17. ^ 当初は2015年8月25日に出演予定だったが、台風が九州を直撃したために名古屋へ移動できず、番組に出演することが出来なかった[112]
  18. ^ 「Fly Up! Angel」「Believe In You (2003 Strings Version)」「Believe In You (2003 Present-Mix Version)」は含まれていない。
  19. ^ a b グリコ・森永事件」発生時は、CMの放送を自粛している。
  20. ^ 吉川晃司の単独受賞だったが、優秀新人賞がなかったため、岡田有希子にも最優秀新人賞が贈られた。

出典[編集]

  1. ^ 『近代映画 岡田有希子Special』近代映画社、1984年、34頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 上之郷利昭『岡田有希子はなぜ死んだか』新森書房、1986年[要ページ番号]
  3. ^ a b 齋藤友紀雄 (2012年7月25日). “自殺急造前の対策を振り返る (PDF)”. 平成24年度 自殺対策ネットワーク協議会 議事次第. 自殺予防総合対策センター. pp. 2f. 2016年8月27日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i 「不可解な自殺をした者たち――岡田有希子」(芸能人犯罪 2012-09, p. 110)
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  6. ^ BOMB!学研、1984年6月号、14-15頁。
  7. ^ a b DUNK集英社、1986年1月号、204頁。
  8. ^ 『瞳はヒミツ色』ワニブックス、1985年1月、102-105頁。
  9. ^ 『岡田有希子 愛をください』74頁
  10. ^ a b DUNK』1984年12月号、84-85頁。
  11. ^ a b c d e 『BOMB!』1984年6月号、16-17頁。
  12. ^ 『岡田有希子 愛をください』79頁。
  13. ^ 『岡田有希子 愛をください』28頁。
  14. ^ a b c d 『岡田有希子 愛をください』107頁。
  15. ^ 『岡田有希子 愛をください』29頁。
  16. ^ 『岡田有希子 愛をください』35頁。
  17. ^ a b 『アイドルコミックス・実録まんが岡田有希子』学研、1984年。
  18. ^ 『岡田有希子 愛をください』98頁。
  19. ^ 『中日新聞 夕刊』2014年4月9日、7頁。
  20. ^ a b 『BOMB!』1984年6月号、18-19頁。
  21. ^ a b 『岡田有希子 愛をください』81頁
  22. ^ a b c d 『BOMB!』1984年6月号、20-21頁。
  23. ^ 朝倉喬司『自殺の思想』太田出版、2005年7月、386頁。ISBN 978-4872339451
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  25. ^ CD/DVD-BOX『贈りものIII』(2002年)ブックレット
  26. ^ 『瞳はヒミツ色』ワニブックス、1985年1月、64-65頁。
  27. ^ a b c 『岡田有希子 愛をください』155頁。
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  29. ^ 『岡田有希子 公設ファンクラブ会報「YUKIKO」創刊号』サンミュージック内ファンクラブ、1984年8月号、8頁。
  30. ^ 「アイドル一番星 岡田有希子」『月刊ラジオマガジンモーターマガジン社、1985年1月号、26-29頁。
  31. ^ 『岡田有希子 愛をください』84頁。
  32. ^ a b c 「特別座談会 岡田有希子さん四十九日忌」『週刊明星集英社、No.24.25 合併特大号、1986年6月5日・12日、27-31頁。
  33. ^ 『岡田有希子 愛をください』156頁。
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  35. ^ a b c d 『BOMB!』1985年4月号、26-29頁。
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  41. ^ 『岡田有希子 愛をください』162頁。
  42. ^ a b c 美馬亜貴子 (2015年9月16日). “希代のアイドル・岡田有希子さんが遺した全56曲に宿る “世界観”を余すところなく伝えるハイレゾ音源が登場”. e-onkyo music. オンキヨー&パイオニアイノベーションズ. 2016年7月29日閲覧。
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  53. ^ 『DUNK』1985年4月号、178-179頁。
  54. ^ 『DUNK』1985年4月号、175-179頁。
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参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]