和泉雅子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
いずみ まさこ
和泉 雅子
和泉 雅子
『映画情報』1965年2月号(国際情報社)より
生年月日 (1947-07-31) 1947年7月31日(76歳)
出生地 日本の旗 日本東京都中央区銀座
血液型 A
職業 女優歌手冒険家
ジャンル テレビ・映画
活動期間 1958年 -
主な作品
映画
非行少女[1](1963年)
『絶唱』[1](1966年)
男の紋章』シリーズ
舞台
『女の一生』[1]

二人の銀座』(1966年)
テンプレートを表示

和泉 雅子(いずみ まさこ、1947年昭和22年〉7月31日[1][2] - )は、日本の女優歌手冒険家真言宗僧侶東京都出身[1]。血液型はA型[2]。愛称は「マコ」。

1989年5月10日海氷上からでは日本人女性として、初めて北極点到達を果たした[3][4][5]

人物・経歴[編集]

1963年

東京都中央区銀座の三原橋の近くの寿司割烹店を営む家庭に生まれた。和泉家は、江戸時代は代々幕府御用達家具商を務めた[6]。また、戦国武将竹中半兵衛の末裔に当たる[6]明治維新後は魚介類卸売業に転じ、魚河岸を商った後、場外で煮干し屋を営み、戦後は三原橋に土地を購入して店を開いた[7]

精華学園女子高等学校[1]

10歳で劇団若草の子役になった(太田博之と同期)後、金語楼劇団に入り喜劇を志す。その後、テレビ番組ジェスチャー』に出演する柳家金語楼に鞄持ちとして随伴した際、同番組の共演者で日活プロデューサー水の江滝子スカウトされ、1961年に日活に入社した[1]

これ以降、青春映画に多数出演し、吉永小百合松原智恵子と合わせて「日活三人娘」と呼ばれ、絶大な人気を誇った[1]雑誌近代映画』の「オールスター投票・女優部門」では、1964年から1968年まで5年連続でベスト10入りし、特に1966年1967年には、吉永小百合に次いで2年連続で第2位にランクインしている[8]

なかでも、1963年上映の映画『非行少女』(浦山桐郎監督)の主演での演技力が認められ、エランドール新人賞や、ソビエト連邦時代のモスクワ映画祭金賞を受賞した。モスクワ映画祭の審査員を務めたフランスの俳優ジャン・ギャバンは「この子はすごい」と語った。日活作品でよく共演したのが高橋英樹であり、2人のコンビは「ポスト吉永小百合・浜田光夫」と言われた。

1965年10月1日に公開された日活映画『血と海』では、役づくりとして海女に挑戦した。

『トランクルームプリンスメイツ』

1966年に同じ日活の山内賢とのデュエット曲『二人の銀座』と、翌1967年も『東京ナイト』が大ヒットし、女性歌手としてレコードも何枚かリリースした。1971年に日活が成人映画に路線を転換したことにより、その後は本格的にテレビへ活動の場を移した。

テレビでは映画時代の清純なイメージから一転、1978年には、土曜ワイド劇場『女教師』にて同番組唯一のレイプシーンを演じた。

東京都港区白金台二丁目に『ホテルメイツ』を経営し居住。2005年11月27日をもってトランクルーム『トランクルームプリンスメイツ』に業態転換し、2014年10月まで営業した。

冒険家としての活動[編集]

極地への憧れ[編集]

小学生の頃から、南極越冬隊に憧れていた[9]

1983年12月から翌1984年1月にかけて、テレビ東京ドキュメンタリー番組のレポーターとして南極に行き[10][9][11]、壮大な自然の景色に感激した[注 1][注 2][13]

北極点到達初挑戦・断念[編集]

1984年、「地球の“てっぺん”に立ちたい」と北極点への挑戦を思い立った[14][15]北極圏スペシャリストである五月女次男[注 3]と出会い[注 4]、サポートを得られることとなった[17]

1985年1月28日、日本を出発し[18]、同年1月31日カナダレゾリュートに入った[19]3月21日、北極点への出発地点であるワードハント島[注 5]近くの氷上[注 6]ツインオッター機で降り立った[22][注 7]3月23日、北極点到達を目指して、5人の隊員[注 8]とともに、スノーモービル[注 9]で“そり”を曳いて同地から出発した[25][11]。なお、隊員のメンバーは、遠征途上で2回変更された[注 10]。しかし、気温の上昇に伴うリード(海面が表れた氷の割れ目)の拡大に前進を阻まれ、出発から62日目の同年5月23日、断念した[29][30][31]。北極点に最接近した地点は、5月22日北緯88度40分(北極点まで残り148km)であった[32][11]5月25日、ツインオッター機にピックアップ(収容)された[33]

ちなみに、北極点に向かっている途中で、映画植村直己物語』のロケのためレゾリュートを訪れていた西田敏行倍賞千恵子山本圭無線交信している[34][35]

この冒険に要した費用は1億円以上であり、多額の借金を抱えることとなった[注 11]

北極点到達再挑戦・成功[編集]

1989年2月1日、再度、北極点到達に挑戦するため、カナダレゾリュートに入った[36]。同年3月9日ツインオッター機でワードハント島近くの氷上に降り立った[37][注 12]3月10日、北極点を目指して、4人の隊員[注 13]とともに、スノーモービル[注 14]で“そり”を曳いて同地から出発した[40][13][15]。今回は、6回行われた補給フライトのたびに隊員のメンバーを入れ替えた[注 15]。同年5月10日午前6時30分、海氷上からでは日本人女性として初めて北極点到達に成功した[3][4][5][注 17][注 18]。奇しくも、4年前に断念したときと同じ、出発から62日目のことであった。なお、海氷上から女性として北極点に到達したのは、世界で2人目[注 19]であった[4][13]

その後[編集]

これ以降も、グリーンランドなどの北極地方に約50回行った[13]

もともと山歩きが好きであったことから、登山にも熱中し始めた。極地や登山に耐えられる体力をつけるために脂肪を増やし、その後も減量を行わず、また、極地の強い紫外線の影響により顔面に“しみ”が多くできたため、過去と現在との容姿の“落差”が一時期、バラエティー番組などでも話題となった。これに対して、和泉は、「“昔はきれいだった”とよく言われる」と明るく語っている。

出演[編集]

映画[編集]

非行少女』(1963年)
若草物語』(1964年)。左から浅丘ルリ子吉永小百合、和泉、芦川いづみ
青春の海』(1967年)
  • 荒城の月東宝、1958年8月26日)
  • 風花松竹、1959年1月3日) - 名倉さくら(少女時代)
  • 七人の挑戦者(日活、1961年7月9日)- 眉子
  • 暗黒街の静かな男 (日活、1961年10月14日)
  • 母あちゃん海が知ってるよ(日活、1961年11月19日)
  • ずらり俺たちゃ用心棒(日活、1961年12月24日)
  • ひとつのいのち(日活、1962年1月27日)
  • 銀座の恋の物語(日活、1962年3月4日)
  • 大氷原 (日活、1962年4月22日)
  • 若い爪あと(日活、1962年5月9日)
  • 若者に夢あり(日活、1962年05月27日)
  • 太陽と星(日活、1962年7月1日)
  • 若くて、悪くて、凄いこいつら(日活、1962年9月9日)
  • 激しい河 日活、1962年10月6日)
  • 海の鷹(日活、1963年1月11日)
  • 泥だらけの純情(日活、1963年2月10日) - 和枝
  • 空の下遠い夢(日活、1963年2月24日)
  • 非行少女 (日活、1963年3月17日)- 北若枝
  • 川っ風野郎たち(日活、1963年4月14日)
  • 交換日記 (日活、1963年5月26日)
  • 男の紋章(日活、1963年7月14日)- 晴子
  • エデンの海(日活、1963年8月31日)
  • 悪太郎(日活、1963年9月21日)
  • その人は遠く(日活、1963年10月27日)
  • 男の紋章(日活、1963年11月10日)
  • 泥だらけのいのち(日活、1963年12月8日)
  • 光る海(日活、1963年12月25日) - 葉山久美子
  • 男の紋章 風雲双つ竜(日活、1963年12月25日)
  • 成熟する季節(日活、1964年1月15日)
  • こんにちは赤ちゃん(日活、1964年2月23日)
  • 花嫁は十五才(日活、1964年3月25日)
  • 若い港 (日活、1964年5月13日)
  • 新・男の紋章 度胸一番(日活、1964年8月1日)
  • あゝ青春の胸の血は (日活、1964年9月9日)
  • 男の紋章 花と長脇差(日活1964年11月11日)
  • 男の紋章 喧嘩状(日活、1964年12月19日)
  • 若草物語(日活、1964年12月31日) - 四女・高村チエコ
  • 愛しながらの別れ(日活、1965年1月24日)
  • 北国の街(日活、1965年3月20日)
  • 男の紋章 喧嘩街道(日活、1965年4月3日)
  • 落葉の炎(日活、1965年4月14日)
  • 涙をありがとう(日活、1965年4月29日)
  • 渡世一代(日活、1965年7月3日)
  • 男の紋章 流転の掟(日活、1965年7月24日)
  • 悪太郎伝 悪い星の下でも(日活、1965年8月25日)
  • 血と海 (日活1965年10月1日)- ナミ
  • 男の紋章 俺は斬る(日活1965年10月8日)
  • 刺青一代 (日活、1965年11月13日)
  • 高原のお嬢さん(日活、1965年12月4日)
  • 四つの恋の物語(日活、1965年12月28日) - 三沢志奈子
  • 男の紋章 竜虎無情(日活、1966年1月14日)
  • 鉄火場仁義(日活、1966年2月12日)
  • 大空に乾杯(日活、1966年2月25日) - 工藤ミチ子
  • 哀愁の夜(日活、1966年3月27日)
  • 日本仁侠伝 血祭り喧嘩状(日活、1966年4月10日)
  • 友を送る歌(日活、1966年6月2日)
  • 日本仁侠伝 花の渡世人(日活1966年6月15日)
  • 絶唱(日活、1966年9月17日) - 小雪
  • 私は泣かない(日活、1966年10月29日)
  • おゆきさん (日活、1966年12月3日)- 石津裕紀子
  • 青春の海(日活、1967年1月3日)
  • 二人の銀座(日活、1967年2月25日)
  • 夕陽が泣いている(日活、1967年5月20日) - 伊吹洋子
  • 終りなき生命を(日活、1967年7月8日)
  • 花と果実(日活1967年8月26日)
  • 対決(日活、1967年9月6日)
  • 東京ナイト(日活、1967年10月7日)
  • 君は恋人(日活、1967年11月3日)
  • ザ・スパイダースの大進撃(日活、1968年1月3日) - 緒方ゆり子
  • 花の恋人たち(日活、1968年1月3日) - 仁村藤穂
  • 星影の波止場(日活、1968年2月1日)
  • 青春の風(日活、1968年3月30日) - 風見愛子
  • 娘の季節(日活、1968年5月18日)
  • 昭和のいのち(日活、1968年6月22日) - 本多晶子
  • あゝひめゆりの塔(日活、1968年9月21日) - 比嘉トミ
  • 花ひらく娘たち(日活、1969年1月11日)
  • 涙の季節(日活、1969年3月12日)
  • 夜の牝 年上の女(日活、1969年4月16日)
  • 博徒百人(日活、1969年5月14日)
  • あらくれ(日活1969年6月14日)
  • 荒い海(真珠舎、1969年10月15日)
  • 喧嘩博徒 地獄の花道(日活、1969年12月17日) - 宮島雪絵
  • 牡丹と竜(日活、1970年1月15日)
  • あばれ丁半(日活、1970年3月7日)
  • 花の特攻隊 あゝ戦友よ(日活、1970年5月16日)
  • 土忍記 風の天狗(日活、1970年11月14日)
  • 戦争と人間 第二部 愛と悲しみの山河(日活、1971年6月12日)
  • 逆縁三つ盃(日活、1971年7月31日)
  • 朝霧(日活、1971年9月18日)
  • きみは風のように(綜芸、1984年1月16日)

テレビドラマ[編集]

舞台[編集]

  • 女の一生

吹き替え[編集]

その他のテレビ番組[編集]

CM[編集]

ディスコグラフィー[編集]

シングル[編集]

発売日 レーベル 品番 タイトル 備考
1965年10月 東芝音楽工業 TP-1145 A めぐり逢う日は
B 幸せの花を咲かせよう
1966年2月 TP-1213 A ユー・アンド・ミー 山内賢とデュエット。
B エレキファンタジー 二人の虹 歌ではなく、ミニドラマの内容。山内賢と共演。
1966年3月5日 TP-1228 A やさしくしかってね
B あなたの背中
1966年8月5日 TP-1314 A 教えて欲しいの
B バラ色の太陽
1966年9月 TP-1346 A 二人の銀座 日活映画「二人の銀座」主題歌。山内賢とデュエット。
B 踊りたいわ 日活映画「二人の銀座」挿入歌。
1967年3月 TP-1421 A 星空の二人 山内賢とデュエット。
B かげぐち
1967年5月 TP-1478 A 二人の朝 山内賢とデュエット。日活映画「終わりなき生命を」主題歌。
B 雪割草の歌 日活映画「終わりなき生命を」挿入歌。
1967年9月 TP-1526 A 東京ナイト 山内賢とデュエット。日活映画「東京ナイト」主題歌。
B 三つの夢 日活映画「花と果実」主題歌。
1968年9月 TP-2046 A 燃える真珠
B いつか二人で
1969年3月 TP-2113 A 霧の灯り
B 愛のエンジェル
1969年5月 TP-2144 A 小さな恋の物語
B アルプの角笛
1969年9月 TP-2188 A 恋の口笛
B でもでも…
1970年 TP-2294 A 恋のめまい
B できごと
1971年2月 TP-2369 A 私はジュリエット
B 天使の約束
2008年9月24日 サザンシー エンターティメント QACL-10015 1 おとなの銀座 山内賢とデュエット。
2 東京ナイト 新録、山内賢とデュエット。

アルバム[編集]

発売日 レーベル 品番 タイトル 備考
2008年10月22日 サザンシー エンターティメント QACL-30021 おとなの銀座 全12曲中6曲が山内賢とデュエット、残り6曲は山内のソロ曲。

著書[編集]

単著[編集]

  • 『白いささやき : マコのおしゃべり読本』勁文社、1976年10月。 全国書誌番号:77009657
  • 『和泉雅子の南極 : 白いメッセージ'83~'84』和泉雅子(自費出版)、1984年6月。 [注 20]
  • 『私だけの北極点 : 北緯88度40分』講談社、1985年8月8日。ISBN 4062022141 [注 21]
  • 『めざせ 北極点 : マコは、がんばった : 北緯88度40分』講談社〈青い鳥文庫〉、1988年8月10日。ISBN 4061472488  - 児童書
  • 『笑ってよ、北極点』文藝春秋、1989年8月25日。ISBN 4163435700 
  • 『マコさん北極を行く : ネイチァリングスペシャル』全国朝日放送テレビ朝日)、1990年12月11日。ISBN 488131162X 
  • 『ハロー オーロラ! : 和泉雅子写真集』文藝春秋、1994年7月15日。ISBN 4166103504 [注 22]

共著[編集]

関連書籍[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「“何もない”魅力、突き当りのない景色にびっくり」し、「いっぺんで極地が好きになりました」と語っている[9]
  2. ^ 自著に「そこに一歩足を踏み入れた途端、私は極地のすばらしさ、豊かさ、たくましさに打たれてしまいました」、そして「今まで小さくコセコセ暮らしていた自分の情けなさを、いやというほど思い知らされました」と記している[12]
  3. ^ 極地ジャーナリスト1978年日本人初の北極点到達に成功した日本大学遠征隊に参加した[16]
  4. ^ 和泉に五月女次男を紹介したのは、故・植村直己の妻・公子である[16]
  5. ^ エルズミア島最北端の小島である[20]
  6. ^ 北緯83度15分、西経74度52分の地点である[21]。ここは、1978年植村直己犬ぞり単独行で北極点を目指して出発したコロンビア岬の近くである。
  7. ^ このときの気温はマイナス38℃であった[21]
  8. ^ 大谷映芳テレビ朝日ディレクター早稲田大学山岳部OBK2登頂者)、伊藤周左エ門登山家冒険家)、アムシ・アマゴリアック(イヌイット)、ピジャミニ・アブラハム(同)、オココ・カラック(同)である[23]
  9. ^ ヤマハ発動機製である[24][15]。これは、和泉が、日本人なので日本製にしたいと考え、ヤマハ発動機に協力を依頼したところ、社長(当時)の江口秀人が快諾し、5台のスノーモービルを提供してくれたものである[24][15]
  10. ^ 5月6日の物資補給時に、「隊を軽量化する」とのベースキャンプの判断[26]により伊藤周左エ門とピジャミニ・アブラハムが帰還し、和泉を含めて4人となった[27]5月19日の物資補給時に、五月女次男極地ジャーナリスト)が加わり、和泉を含めて5人となった[28]
  11. ^ 4年後の北極点挑戦までに完済した[13]
  12. ^ このときの気温はマイナス42℃であった[37]
  13. ^ 大谷映芳テレビ朝日ディレクター早稲田大学山岳部OBK2登頂者)、山主文彦(日本大学山岳部OB)、オココ・カラック(イヌイット)、ジョー・アマゴーリック(同)である[38]
  14. ^ ヤマハ発動機製の「エクセルIII」である[39]
  15. ^ 北極点到達時のメンバー以外の隊員は、笹原慎司(日本大学山岳部OB)[41]五月女次男極地ジャーナリスト[42]、フィリップ・マニック(イヌイット)[41]、ハミー・カラック(同、オココ・カラックの息子)[43]である。出発から北極点到達までを通して同行したのは、大谷映芳とオココ・カラックの2人である。
  16. ^ 伊藤は、5月5日、6回目の補給フライトで隊に加わった[44]。これは、前回の遠征途上で「隊を軽量化する」ため離脱を余儀なくされた伊藤の無念さを思いやり、和泉がどうしても伊藤に北極点に立ってもらいたかったからである[45]
  17. ^ 北極点到達時の隊員は、大谷映芳伊藤周左エ門登山家冒険家[注 16]、オココ・カラック、ジョー・アマゴーリックである[46]
  18. ^ 和泉の北極点到達は、人工衛星をベースとした「アルゴスシステム」によって確認された[47][48]
  19. ^ 世界初は、1986年、国際犬ぞり隊に参加したアン・バンクロフト(Ann Bancroft)英語版である[4][49]
  20. ^ 大きさは37cm、34ページの写真集である。発行部数は60,000部[50]
  21. ^ タイトルの『私だけの北極点』の“私”に「マコ」とルビが振られている。
  22. ^ 別タイトルは『Hello Aurora!』。アボット・コステロ/デザイン、関口聖司/AD
  23. ^ その他の著者は、大林宣彦落合恵子熊井明子さだまさし澤野久雄下重暁子菅原眞理子高橋幸子西村玲子野中ともよ林静一古山高麗雄増田れい子である。
  24. ^ 和泉雅子/著『私の折り返し点 : 北極点へのチャレンジ』が収録されている(全10ページ)。
  25. ^ この書籍は、第18回「手紙作文コンクール」(主催 : 郵政省財団法人日本郵便友の会協会)の小学校高学年の部において、郵政大臣賞を受賞した田上千枝の手紙作文を絵本にしたものである。和泉雅子が“返信”を書いている(全4ページ)。
  26. ^ 和泉雅子/著『無欲の勝利』が収録されている。
  27. ^ 和泉雅子による『発刊によせる』という文が収録されている(全1ページ)。
  28. ^ 『化けて大きくなったMIEと和泉雅子』と題する文が収録されている。
  29. ^ 和泉雅子との対談が収録されている。
  30. ^ 生命の大樹いのちの塔実行委員会、京都幼児フォーラム、禅文化研究所臨済宗連合各派布教師会。
  31. ^ 和泉雅子/著『すばらしい教え』と題する文が収録されている(全5ページ)。
  32. ^ 30cm、135ページ。
  33. ^ 石原裕次郎北原三枝宍戸錠芦田伸介吉永小百合、和泉雅子など、日活黄金時代のスターの実像と歴史に迫る長編ドキュメント。(「MARC」データベースから引用)
  34. ^ 『チャキチャキの江戸っ子女優、和泉雅子』と題する節が収録されている(全31ページ)。
  35. ^ 和泉雅子の写真が収録されている(全1ページ)。
  36. ^ 和泉雅子の写真が収録されている。
  37. ^ 『贅沢な、古きよき時代』と題する、和泉雅子へのインタビューが収録されている(全1ページ)。
  38. ^ 宍戸錠高橋英樹松原智恵子、和泉雅子らのインタビューエッセイ日活40作品の解説、鈴木清順自身の言葉などを収録。清順美学の入門書。鈴木清順レトロスペクティヴSTYLE TO KILL記念本。(「MARC」データベースから引用)
  39. ^ もっと人生を「毎日が自分流」に楽しんでみませんか? 「いきいき人生」を日々実践している人たち40名の日々の充実ぶりを紹介する。また、芳村真理、和泉雅子などの著名人は、「豊かに生きるヒント」を語る。(「MARC」データベースから引用)
  40. ^ 和泉雅子が掲載された月刊『明星』の表紙が収録されている。1964年11月号(三田明と共に)、1966年11月号(西郷輝彦と共に)、1967年11月号(三田明と共に)、1968年5月(西郷輝彦、渡辺茂樹と共に)、1968年9月号(布施明沢田研二山本リンダ由美かおる江美早苗、渡辺茂樹、ジュディ・オング萩原健一加山雄三と共に)。
  41. ^ ドラえファンインタビュー」という企画コーナーでインタビューに応じている。
  42. ^ 日本映画を代表する撮影監督・高村倉太郎を特集。映画テレビ作品の写真を多数掲載。生い立ちから映画撮影まで語ったインタビュー、関連俳優たちのエッセイ、本人のエッセイなどを収録。フィルモグラフィなど資料も充実。(「MARC」データベースから引用) 和泉雅子による、『先輩』と題するエッセイが収録されている。
  43. ^ 14人の子役体験者との対談集。和泉雅子との対談が収録されている(全21ページ)。目次に、「学校を休みたい一心で女優になったの。不純な動機なのよ」と和泉の言葉が記されている。
  44. ^ 『和泉雅子と伊藤周左エ門の北極行』という章が収録されている。なお、伊藤周左エ門は、登山家冒険家、山樽山荘主人であり、和泉の北極行に協力し、和泉とともに北極点に到達した。
  45. ^ 「ばっすいのつづり」と読む。
  46. ^ 18cm、128ページ。非売品である。
  47. ^ 和泉雅子/著『心の定年』が収録されている。
  48. ^ 和泉雅子ら84人の女優の写真が収録されている。
  49. ^ 2010年6月から2011年8月までの舟木一夫の活動に密着。劇場公演やコンサートの模様、楽屋裏などの写真が掲載。舟木一夫と和泉雅子の対談が収録されている。
  50. ^ スクリーン妖精 : 1960年代』と題する章で和泉雅子の肖像写真が掲載されている(全1ページ)。
  51. ^ 和泉雅子の言葉が紹介されている。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 別冊宝島2551『日本の女優 100人』p.71.
  2. ^ a b 和泉雅子”. 日本タレント名鑑. VIPタイムズ社. 2017年3月27日閲覧。
  3. ^ a b 自著『笑ってよ、北極点』 1989, p. 251.
  4. ^ a b c d 朝日新聞・東京版(朝刊1989年5月11日、1面『和泉雅子さん北極点に立つ : 800キロ62日目 ついにてっぺん』(レゾリュートカナダ)10日=田仲記者)。
  5. ^ a b 朝日新聞・東京版(朝刊) 1989年5月11日、31面『極北の空に躍る 白夜の成功無線 : めいの激励に返信 : サクラノカオリニヨロシク』(レゾリュート(カナダ)10日=田仲記者)。
  6. ^ a b 女学生の友』 1966年8月号(小学館)188-193ページ
  7. ^ 和泉雅子インタビュー 銀座地下街ラジオくんー第四配信・レトロ銀座特集
  8. ^ 『近代映画』の当時の記事による[要文献特定詳細情報]
  9. ^ a b c 12-13 風彩 ~和泉雅子さん - 熊本県”(PDF). 第1回熊本県生涯学習フェスティバルでの講演。 2020年5月1日閲覧。
  10. ^ 自著『私だけの北極点』 1985, p. 16.
  11. ^ a b c 和泉雅子 - 講師紹介”. エスエンタープライズ。 2020年5月1日閲覧。
  12. ^ 自著『私だけの北極点』 1985, p. 16-17.
  13. ^ a b c d e 和泉雅子 プロフィール - 講演依頼.com”. ペルソン。 2020年5月1日閲覧。
  14. ^ 自著『私だけの北極点』 1985, p. 17.
  15. ^ a b c d スノーモビルの北極点への挑戦”. ヤマハ発動機。 2020年5月1日閲覧。
  16. ^ a b 自著『私だけの北極点』 1985, p. 31.
  17. ^ 自著『私だけの北極点』 1985, p. 31-32.
  18. ^ 自著『私だけの北極点』 1985, p. 46.
  19. ^ 自著『私だけの北極点』 1985, p. 48.
  20. ^ 自著『私だけの北極点』 1985, p. 8.
  21. ^ a b 自著『私だけの北極点』 1985, p. 70.
  22. ^ 自著『私だけの北極点』 1985, p. 68-70.
  23. ^ 自著『私だけの北極点』 1985, p. 69.
  24. ^ a b 自著『私だけの北極点』 1985, p. 25-26.
  25. ^ 自著『私だけの北極点』 1985, p. 75-76.
  26. ^ 自著『私だけの北極点』 1985, p. 199.
  27. ^ 自著『私だけの北極点』 1985, p. 214.
  28. ^ 自著『私だけの北極点』 1985, p. 244-246.
  29. ^ 自著『私だけの北極点』 1985, p. 256-260.
  30. ^ 朝日新聞東京版(夕刊1985年5月24日、1面『奮闘62日 : 雅子さん無念』。
  31. ^ 朝日新聞・東京版(夕刊) 1985年5月24日、19面『頑張ったね マコ : 極点のドラマに終止符 : 同世代主婦ら拍手』。
  32. ^ 自著『私だけの北極点』 1985, p. 259.
  33. ^ 自著『私だけの北極点』 1985, p. 264.
  34. ^ 自著『私だけの北極点』 1985, p. 107.
  35. ^ 自著『私だけの北極点』 1985, p. 179.
  36. ^ 自著『笑ってよ、北極点』 1989, p. 11.
  37. ^ a b 自著『笑ってよ、北極点』 1989, p. 39.
  38. ^ 自著『笑ってよ、北極点』 1989, p. 42-43.
  39. ^ 自著『笑ってよ、北極点』 1989, p. 182.
  40. ^ 自著『笑ってよ、北極点』 1989, p. 41-44.
  41. ^ a b 自著『笑ってよ、北極点』 1989, p. 65.
  42. ^ 自著『笑ってよ、北極点』 1989, p. 160.
  43. ^ 自著『笑ってよ、北極点』 1989, p. 91.
  44. ^ 自著『笑ってよ、北極点』 1989, p. 233-236.
  45. ^ 自著『笑ってよ、北極点』 1989, p. 194.
  46. ^ 自著『笑ってよ、北極点』 1989, p. 246-251.
  47. ^ 自著『笑ってよ、北極点』 1989, p. 62-63.
  48. ^ 自著『笑ってよ、北極点』 1989, p. 250-251.
  49. ^ Ann Bancroft : Around the O” (英語). University of Oregon. 2023年10月17日閲覧。
  50. ^ 自著『私だけの北極点』 1985, p. 22.

外部リンク[編集]