男闘呼組
男闘呼組 | |
---|---|
別名 | OTOKOGUMI |
出身地 |
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ジャンル |
J-POP ポップス ロック ハード・ロック |
活動期間 | 1985年 (歌手デビューは1988年)- 1993年 |
レーベル | BMGビクター |
共同作業者 |
小竹正人(作詞) 小関純匡(ドラムス) 江口信夫(ドラムス) 平山牧伸(ドラムス) 田中厚(キーボード) |
メンバー |
成田昭次 高橋一也 岡本健一 前田耕陽 |
旧メンバー |
遠藤直人 土田一徳 守屋二郎 |
男闘呼組(おとこぐみ)は、1988年にジャニーズ事務所からデビューした4人編成のロック・バンド。ジャニーズ事務所としては珍しく、バンドの活動を中心とした[1]。メンバーは、成田昭次、高橋一也、岡本健一、前田耕陽の4人。1993年6月30日付で活動休止となり事実上の解散となった。
現在、ジャニーズ事務所に所属しているのは、岡本健一だけである。岡本の息子、岡本圭人はHey! Say! JUMPのメンバーである。
メンバー[編集]
プロフィール | 担当楽器 | |
---|---|---|
成田昭次 (なりた しょうじ) |
1968年8月1日(52歳)、A型、愛知県名古屋市熱田区出身 | ヴォーカル、リードギター |
高橋一也 (たかはし かずや) |
1969年5月20日(51歳)、O型、東京都世田谷区出身 | ヴォーカル、ベース |
岡本健一 (おかもと けんいち) |
1969年5月21日(51歳)、O型、東京都新宿区下落合出身 | ヴォーカル、リズムギター(結成当初はサイドギターと名乗っていた) |
前田耕陽 (リーダー) (まえだ こうよう) |
1968年8月16日(52歳)、A型、東京都八王子市出身 | ヴォーカル、キーボード (以前はドラムス) |
初期参加メンバー | プロフィール | 担当楽器 | 備考 |
---|---|---|---|
守屋二郎 (もりや じろう) |
1967年1月25日(53歳)、東京都出身 | ベース | 結成時に参加。すぐに脱退。 |
土田一徳 (つちだ かずのり) |
1969年6月28日(51歳)、北海道川上郡弟子屈町出身 | キーボード | 守屋と入れ替わりで参加。すぐに脱退。 |
遠藤直人 (えんどう なおと) |
1969年4月20日(51歳)、東京都足立区出身 | リズムギター | 結成時から参加していたが、「やはりダンスがしたい」とジャニー喜多川社長に頼み脱退。 |
守屋、土田、遠藤が抜けて、一時は成田・高橋・岡本の3人だけで活動していたが、すぐに「東京男組」時代から時折サポート的に参加してきた前田が正式加入した。
バンドサポートメンバー[編集]
- 小関純匡 (こせき すみただ。初代ドラマー。後に「ENDLICHERI☆ENDLICHERI」のバックミュージシャンに。現在は高橋、前田と「Midnight Angel」として活動)
- 江口信夫 (二代目ドラマー。松原秀樹らと共に「Vibes」のメンバーとしても活躍。)
- 平山牧伸 (三代目ドラマー。2009年夏ごろからはTHE TRIPLE Xのメンバーとしても活動している。愛称・ヒラぽん)
- 田中厚 (キーボード担当。 但しコンサートでのメンバー紹介の際には、バンド内にキーボードが2人も居るという矛盾点を不自然に思わせないよう、敢えて“ピアノ”と紹介されていた。)
概要[編集]
- グループの成り立ち及びデビュー前まで
- 1984年、事務所内で仲の良かった成田昭次と高橋一也の2人が、「でたらめロックバンド」というプライベートバンドを結成。
- 同年12月末、雑誌『マイアイドル』(1985年3月号分)の撮影に、成田・高橋・岡本の3名が初めて揃って「ジャニーズJr.」として参加。この3月号の誌上で、ジャニーズJr.の中から更に数名を集めてバンドグループを結成するという企画が発表された。
- 1985年になり、この3名に対して「東京」というグループ名をジャニー喜多川社長が命名。
- 新たに遠藤直人と守屋二郎が加わり、5人で出演した明治製菓のチョコレート「アーモンドゴールド」のCMが、同年2月からオンエア開始(CMソングは彼らの初オリジナル曲「誠 ほれたぜ」)。
- その後、「東京」の他に「東京男組」とも名乗るようになり、同時期に2つのグループ名が存在。そして補佐メンバーとして、前田耕陽が「東京男組」と名乗る時にのみ参加。
- 同年3月、サポートメンバーの前田も含めた6名でグループ名を正式に「男闘呼組」へと改名。(グループ名の名付け親は、ジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川から、「You、今度うちからロックバンドを出そうと思うんだけど、名前考えてくれない?」と打診された事務所の先輩、中村繁之。) しかし同月、守屋二郎が「大学受験の為」との名目で脱退。そして、ジャニー喜多川社長にスカウトされて事務所に入った土田一徳が、守屋との入れ替わりで加入しキーボードを担当。成田・高橋・岡本・遠藤・土田の5人で、同年4月3日からはテレビ朝日『欽ちゃんのどこまでやるの!』にも出演開始。しかしその後、土田がメンバーから外される。以後、土田は俳優活動に専念。
- 同年4月末、成田・高橋・岡本・遠藤に、前田耕陽を加えた計5名で「アーモンドゴールド」の新バージョンCMの撮影をする(放映開始は同年9月から)。
- やがて、リズムギター担当だった遠藤も脱退。以後、少年忍者のメンバーとなる。
- 元々の主要メンバーである成田・高橋・岡本の3名だけでの活動が少し続き、明治製菓のチョコスナック「おばけランド」のCMに出演。
- 「東京男組」の時から時折サポート的に参加していた前田が、ドラム担当として正式に男闘呼組に迎え入れられる。これにより、高橋の担当楽器がドラムからベースギターに変更。しかし、間もなくして前田の担当楽器もドラムからキーボードへと変わった。 その後は、2人のプロミュージシャン(ドラムとキーボード)をサポートメンバーとして迎え、6人編成のバンドスタイルで活動していく。
- 1986年1月、初の冠番組『アイドル花組おとこ組』放送開始。日本テレビ制作の音楽バラエティー番組である。
- 同年4月27日、名古屋市民会館にて念願だったファーストコンサートを開催。
- メディアへのメンバーの露出が多かったことや、事務所側の期待の大きさもあり、レコードデビューより1年半前の1987年3月の時点で、当時の音楽番組の雄であったフジテレビ『夜のヒットスタジオ』への初出演を果たしている。
- 光GENJI、男闘呼組、少年忍者の3グループの総称として少年御三家と名付けられ、1988年1月に初めて合同コンサート「少年武道館」を実施した。
- 1988年2月、長崎俊一監督の映画「ロックよ、静かに流れよ」にメンバー4人が主役として出演し映画デビュー。長野県松本市に一か月近く合宿して撮影を行った[2]。本映画は、キネマ旬報ベスト・テン4位[3]、第10回ヨコハマ映画祭ベスト10 第1位、作品賞、監督賞(長崎俊一監督に対して)、新人賞(男闘呼組に対して)を受賞するなど高い評価を得た。男闘呼組は音楽だけでなく演技面の才能にも恵まれており[3]本映画への出演によって、その名を一気に高めたと言われている[4]。
- デビューから活動休止まで
- 本格派ロックバンドをコンセプトとしていた。「DAYBREAK」(1988年発表シングル、オリコン最高チャート1位)でレコードデビュー。続いて「秋」「TIME ZONE」などの楽曲がヒットし、 1991年発表のシングル「ANGEL」からは自作曲が中心となる。
- 1988年に第30回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞。1989年には東京ドームでコンサートを行った。1998年及び1989年にはNHK紅白歌合戦に出場した。
- 1993年6月30日付けで、高橋一也がジャニーズ事務所から解雇されたことに伴い、突如グループが活動休止(実質的な解散)となる[5](同日NHK-BS特番「トップアイドルオンステージ」に男闘呼組は出演し、東京都渋谷区PARCO劇場で舞台「スラブボーイズ」の千秋楽でもあった)。
特色[編集]
- デビュー当時に同じ事務所に所属していた少年隊や光GENJIとはタイプを異にする本格派ロックバンドとしてデビューした。デビュー前からテレビ出演やコンサート活動などを通じて多くのファンをつかんで来た[6]。
- デビュー曲のDAYBREAKをはじめ、楽曲の随所でハーモニーが多用されている。主旋律を歌う高橋一也または岡本健一の声に途中からハスキーボイスの成田昭次の上ハモリが加わり、サビを成田がソロで歌いあげる展開が多い。前田耕陽は主に高音のハモリ(ファルセット)やコーラスを担当している。ジャニーズでは珍しい全てアカペラの「STAY WITH ME」では、四声ハーモニーを響かせている。他方、4人全員が、自身の作詞作曲によるソロ歌唱曲を有している。
- 1曲を高橋と成田の二人で、もしくは高橋、岡本、成田の3人でパート分けをして歌う、所謂スイッチボーカルの楽曲が多いことが特徴である。特に3人でスイッチボーカルを行うバンドは、極めて稀であると言われている[7]。
- ダイナミックな転調のある歌が多い。高橋和也(一也)は、「ボーカリストのkeyが違うので一曲の中で転調せざるを得なかった事がかえってバンドの独特の個性になっていた」と後に発言している[8]。
- ジャニーズ事務所内で、音楽志向の強いメンバーが集まって自主的に形成されたバンドが始まりである。デビュー当初は、プロの作詞家・作曲家から曲を提供されていたが、デビュー以前からメンバー自身が作詞作曲に取り組み、デビュー後は徐々に自作曲が増えていった。
- メンバー全員が作詞、作曲を手掛けている。各人の音楽的志向が異なり[9]、それが自作の楽曲にも表れている。高橋一也や成田昭次の作詞にはメッセージ性の非常に強いものが見られる。
エピソード[編集]
- グループ名の名付け親は、中村繁之とされる。中村がジャニー喜多川のお別れ会に参加した際のインタビューにて、ジャニーより「今度、楽器を弾いたちょっと男っぽいグループを作りたい。」ことを告げられ、中村より『男組』という漫画のタイトルより「男組なんていいじゃないの?」といい、決まったようである。尚、グループの漢字はジャニーが考えたとされる[10]。
- デビュー時のキャッチフレーズは「ジャニーズ事務所のおちこぼれ」であった。その理由は、メンバー全員がダンスを苦手としていたためである。ダンスレッスンをさぼる口実として音楽スタジオを借り、本格的に練習を始め、デビューにつながった[11]。
- デビュー前より音楽的志向が強く、後にコンサートにて「ペンライトは使うな」と呼びかけるようになった。そして、“所詮はジャニーズのアイドルバンド”との偏見や批判の声もあったが、4枚目のアルバム発表時からメンバー自身が作詞作曲を手掛けるのが常となってアーティスト色が強まったことから、アイドルバンドとの呼び声も消えていった。
- ビデオ撮影やレコーディング等のために度々グループで海外を訪問している。デビュー前の1987年に発売されたビデオ「Made in U.S.A.」はアメリカのニューヨークやロス等を舞台にロケが行われた。1988年発売のビデオ「Xing Point」はトルコで撮影され、1990年発売のアルバム「参」のレコーディングは1990年1月下旬から2月初旬にかけてロンドンで行われた。
- 1990年2月のローリング・ストーンズ初来日公演がテレビ放映された際、ジャンピン・ジャック・フラッシュの演奏中に最前列で盛り上がる高橋一也と岡本健一の姿が映され話題となった[12]。
- バンドのリーダーは前田耕陽である。これはデビュー会見で記者からの質問に対し、高橋が咄嗟にそう答えたことに端を発する。当時、男闘呼組のリーダーは決まっていなかったが、「リーダーのような大変なことは誰もやりたくなかった。誰よりも早く起き、きちんと朝食をとる耕陽がいいんじゃないかと思った」と後に高橋は語っている(2020年8月24日前田耕陽YouTubeチャンネル「Team54.ch」生ライブ配信にて)。
- TOKIOの城島茂がデビュー時の男闘呼組とドラマ出演など頻繁に行動を共にしていた。
- 光GENJIの諸星和己は、1986年1月に男闘呼組の冠番組『アイドル花組おとこ組』の出演者オーディションを受ける形でジャニーズ事務所に入所した。
- 従来、ジャニーズ事務所の合宿所には厳しい上下関係が存在していたが、男闘呼組は後輩である後のSMAPのメンバーらに対して上下関係を強いることをせず、優しい先輩として慕われていた。稲垣吾郎は、男闘呼組が『ベストテン』に初登場した日の夜、合宿所の応接室で寝てしまっていたが、帰宅したメンバーは稲垣を起こさないよう、小さな音量でビデオに録画しておいた自分たちの映像をチェックしていたという。また、木村拓哉も男闘呼組のメンバーに「果てしなく一緒に遊んでもらった」と語っている。木村、稲垣以外のSMAPメンバーも、みんな男闘呼組が大好きだったと話している[13]。
- 1989年に『紅白歌合戦』に出場した際には司会の武田鉄矢から「男の闘志を呼ぶ組」と紹介された。
- 成田と岡本は事務所の先輩の野村義男に師事してギターを学んだ(その後、SMAPの木村拓哉が岡本にギターを師事している)。
- 1991年に出演したテレビ番組「ナリキーばんど講座」(TBS)にて、各自のサウンドルーツとして以下を挙げている[9]。
- 成田昭次:子門真人、ベンチャーズ、クールス、ストレイ・キャッツ、マイケル・シェンカー・グループ、UFO、スティーヴィー・レイ・ヴォーン、ロバート・クレイ、マーク・ノップラー
- 高橋一也:渡辺真知子、ツイスト、キャロル、アナーキー、スターリン、セックス・ピストルズ、ローリング・ストーンズ、ジョン・レノン、ピンク・フロイド、ハンク・ウィリアムス Jr.、リンダ・ロンシュタット、リッキー・リー・ジョーンズ
- 岡本健一:エルビス・プレスリー、オスカー・ピーターソン、デュラン・デュラン、ピンク・フロイド、ラヴ・アンド・ロケッツ、グレイトフル・デッド、チェット・ベイカー、トム・ウェイツ
- 前田耕陽:オフコース、浜田省吾、デュラン・デュラン、ヴァン・ヘイレン、ジャーニー、ジョー・コッカー、ジェフ・レビン、リチャード・マークス
- 成田と岡本はジャニーズ事務所のタレントとしては異例なことであるが、男闘呼組時代に20代前半で結婚した。
- 2009年9月27日、成田は大麻取締法違反で、警視庁渋谷署に現行犯逮捕された[14]。以降、長らく消息不明の状態が続いた。
- 2016年9月18日放送のNHK大河ドラマ『真田丸』で、高橋と岡本が「院内感染」(1997年、読売テレビ制作)以来19年ぶりの共演を果たした。
- 2020年4月から、前田耕陽が自身のYouTubeチャンネル「Team54.ch」にてラジオ「Team54 Radio」を開始するとともに、男闘呼組のセルフカバーを発表している(一部の楽曲は、高橋和也も参加。他のメンバーのパートは歌いも演奏もせず空けている)。男闘呼組のデビュー32周年記念日である2020年8月24日には、前田と高橋によるスタジオからの生配信が行われ、岡本や成田からのメッセージや、メンバー全員が参加するグループLINEがあることが紹介された。
- 2020年11月3日、長らく音楽活動を休止していた成田昭次が、ビルボードライブ横浜で開催されたLittle Black Dressのライブに特別ゲストとして出演し、音楽活動を再開した[15]。
ディスコグラフィ[編集]
シングル[編集]
# | 発売日 | タイトル | 備考 |
---|---|---|---|
1 | 1988年8月24日 | DAYBREAK | 8月24日と31日の2週に渡り、カップリング曲とジャケットの 異なるバージョン4種を、2種類ずつ発売。カップリング曲は、「第二章 追憶の挽歌(フジテレビ系ドラマ「オトコだろッ!」主題歌)」「ロックよ、静かに流れよ~Crossin' Heart~(映画「ロックよ、静かに流れよ」主題歌)」「Midnight Train(テレビ朝日系「ギブUPまで待てない!! ワールドプロレスリング」エンディングテーマ)」「Stand Out(TBS系ドラマ「ぼくの姉キはパイロット!」主題歌)」 |
2 | 1988年12月27日 | 秋 | カップリング曲「LONELY… (映画「ロックよ、静かに流れよ」挿入曲)」 |
3 | 1989年2月28日 | TIME ZONE | カップリング曲「秋 -It's a ballad-(秋のバラードバージョン)」 |
4 | 1989年8月2日 | CROSS TO YOU/ROCKIN' MY SOUL | 両A面シングル。 |
5 | 1990年1月24日 | DON'T SLEEP | カップリング曲「MY LIFE」 |
6 | 1991年1月17日 | ANGEL | カップリング曲「TEARS」 |
7 | 1992年6月3日 | 眠りにつく前に | カップリング曲「やってるね」 |
8 | 1992年7月1日 | THURSDAY MORNING | カップリング曲「みんな仲良し」 |
9 | 1992年8月5日 | THE FRONT | カップリング曲「目で見ちゃだめさ」 |
10 | 1993年8月21日 | TOKYOプラスティック少年 | 活動休止後に発売。別作品からのシングルカット。カップリング曲「見えない虚像」 |
オリジナルアルバム[編集]
# | 発売日 | タイトル | 備考 |
---|---|---|---|
1 | 1988年9月26日 | 男闘呼組 | |
2 | 1989年6月28日 | 男闘呼組 二枚目 | |
3 | 1990年3月28日 | 参 | |
4 | 1991年2月21日 | I'm Waiting 4 You | |
5 | 1992年6月21日 | 5-1…非現実… | |
6 | 1992年7月22日 | 5-2…再認識… | |
7 | 1992年8月21日 | 5-3…無現実… | |
8 | 1993年8月21日 | ロクデナシ | 活動休止後に発売。 |
ベストアルバム[編集]
# | 発売日 | タイトル | 備考 |
---|---|---|---|
1 | 1992年12月2日 | BEST OF BALLADS | |
2 | 1994年11月23日 | NEW BEST 男闘呼組 | 活動休止後に発売。 |
3 | 1999年11月20日 | HIT COLLECTION | 活動休止後に発売。 |
参加作品[編集]
オムニバス『TOKYO 〜都制50周年記念アルバム〜』(1993年7月1日)
- TOKYOプラスティック少年(イントロの長いオリジナルバージョン。後にシングルカット。)
ソロ参加作品[編集]
- 成田昭次
- SHOOT THE GUITARIST (ギターインスト曲『DAD & SON』の作曲&演奏、1990年)
- 岡本健一
CD化されていない楽曲[編集]
- 誠 ほれたぜ (明治製菓「アーモンドゴールド」CMソング)
- ちょっと待ってどこまでやるの! (『欽ちゃんのどこまでやるの!?』テーマソング)
- TENSION! (当初のタイトルは「ZERO★TENSION」)
- 夜を撃て
- 『ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング』オープニングテーマとして使用。但し、同番組の為に作られた訳ではなく、それ以前からあった曲である。番組には一時期、男闘呼組も出演した。なお、やはり同番組のエンディングテーマとして使われた「Midnight Train」は、後に「DAYBREAK」のカップリング曲のひとつとなった。
- 勝負! (男闘呼組が作詞・作曲)
- 禁断のエロキューション
- DETARAMEクレイジーナイト (『ヤンヤン歌うスタジオ』テーマ曲、男闘呼組が作詞・作曲)
- 野性登場 (『ここんちプラネット』テーマ曲)
- 下から2番目の男 (成田ソロ曲)
- バッドボーイズブルース
- Sister Christian
他多数
ビデオ・DVD[編集]
- Made in U.S.A (1986年)
- BEST FRIEND (1987年)
- Xing point (1988年)
- 少年武道館 (1988年)
- 少年武道館II(1989年)
- ENDLESS TRIP (1989年9月6日)
- HELLO!! L.A. (1989年、グリコCM「アーモンドチョコレート」非売品メイキングビデオ)
- 男闘呼組 BIG TOUR '89 in DOME (1989年11月21日 東京ドーム BMG JAPAN)
- 男闘呼組 2,050,000秒の軌跡(1990年8月24日)
- 彼らと僕・私と自分はみんな仲よし(1992年11月1日)
- 男闘呼組 LIVE IN YOKOHAMA 1991 vol.1(2003年11月26日 横浜アリーナ BMG JAPAN)
- 男闘呼組 LIVE IN YOKOHAMA 1991 vol.2(2003年11月26日 横浜アリーナ BMG JAPAN)
写真集[編集]
- East meets West (ポニカ出版、1988年)
- ロック派宣言 LIVE ライヴ らいぶ (音楽専科社、1988年)
- BREAK THE SILENCE (音楽専科社、1989年)
- NON STOP GETAWAY (音楽専科社、1990年)
- ROUGH EDGES (音楽専科社、1991年)
主な出演作品[編集]
- ソロ出演作はそれぞれのメンバーの項目に記載。
テレビドラマ[編集]
- 野性誕生 (『ヤンヤン歌うスタジオ』内の5分枠ドラマ)
- Be!Boys - 未完成青春曲 (『ヤンヤン歌うスタジオ』内の5分枠ドラマ)
- ドラマ女の手記『写真狩人フォトハンターII』(1987年4月6日、テレビ東京)
- ぼくの姉キはパイロット!(1987年8月18日~9月22日、TBS、主題歌「STAND OUT」)
- オトコだろッ!(1988年7月21日~9月22日、フジテレビ、主題歌「第二章 追憶の挽歌」)
バラエティ番組[編集]
- 欽ちゃんのどこまでやるの!?(1985年4月3日 - 7月3日、テレビ朝日)
- おじゃまします(1985年9月17日 - 11月1日、TBS)
- アイドル花組おとこ組 (日本テレビ、1986年1月 - 同年3月。)
- ヤンヤン歌うスタジオ(テレビ東京、1986年11月 - 1987年9月)
- ここんちプラネッと! (テレビ東京、1986年4月 - 同年8月)
- ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング(テレビ朝日、1987年4月 - 7月)※オープニングテーマ、エンディングテーマも担当。
- 歌え!アイドルどーむ(テレビ東京、1987年10月 - 1988年9月)※主に前田、高橋が出演。
- 夜のヒットスタジオDELUXE (フジテレビ)
など
NHK紅白歌合戦出場歴[編集]
年度/放送回 | 回 | 曲目 | 出演順 | 対戦相手 |
---|---|---|---|---|
1988年(昭和63年)/第39回 | 初 | DAYBREAK | 03/21 | 工藤静香 |
1989年(平成元年)/第40回 | 2 | TIME ZONE | 03/20 | 中山美穂 |
- 注意点
- 出演順は「出演順/出場者数」で表す。
ラジオ[編集]
- いくぞ!男闘呼組(文化放送)
- Teen'sギャング男闘呼組(文化放送、1987年4月 - 9月。『東京っ子NIGHTお遊びジョーズ!!』 枠内のコーナー番組。)
- ワイルドKNIGHTS男闘呼組
- (文化放送、1987年10月 - 1988年3月までは『15はドキドキ ピンクコング』枠内コーナーとして、1988年4月からは再び『お遊びジョーズ!!』枠内のコーナーとして放送。)
- 男闘呼 DE NIGHT!(ニッポン放送)
- 男闘呼 DE NIGHT!ぶっちぎり爆走LIVE (ニッポン放送、1990年3月21日放送。XのTOSHIとTAIJIがLIVEにゲスト参加した。)
- ミッドナイト・スペシャル Part1(ABCラジオ、一夜限りの放送。翌日放送のPart2はSMAPが担当。)
映画[編集]
- ロックよ、静かに流れよ(1988年2月20日公開、東宝、主題歌「ロックよ、静かに流れよ(CROSSIN'HEART)」) スポニチグランプリ新人賞、第10回ヨコハマ映画祭ベスト10 第1位、作品賞、監督賞(長崎監督に対して)、新人賞(男闘呼組に対して)、第4回キネマ旬報ベスト・テン 第4位
- 少年武道館(1988年2月20日公開、東宝)
舞台[編集]
- スラブ・ボーイズ(The Slub Boys)(1993年6月5日 - 30日、PARCO劇場)
- 演出:ロバート・アラン・アッカーマン。「男闘呼組」として人前に出た最後の仕事。
CM[編集]
- 明治製菓「アーモンドゴールド」(1985年)
- 明治製菓 チョコスナック「おばけランド」(1985年)成田・高橋・岡本の3名のみ
- 服部セイコー 腕時計「AVENUE」(1989年)
- 江崎グリコ「アーモンドチョコレート」(1989年 - 1990年)
公演[編集]
ライブ[編集]
年 | タイトル | 公演日程・会場 | 備考 |
---|---|---|---|
1986 | 祭 男闘呼組 | ||
祭 男闘呼組 Part.2 | |||
男闘呼組 ライブ in 青山 | 8月24日 – 28日 青山円形劇場 | ||
1986 - 1987 | 男闘呼組 Winter コンサート | 12月22日 愛知厚生年金会館 12月28日 大阪厚生年金会館 1月10日・11日 東京厚生年金会館 |
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1987 | 男闘呼組コンサート | ||
夏!祭!男闘呼組コンサート | |||
男闘呼組 ライブ in 青山 | 8月24日・25日 青山円形劇場 | ||
1988 | 少年武道館 少年御三家新春一番歌い初め | 1月1日 日本武道館 | 光GNEJI、少年忍者と共に出演したジョイントコンサート。 |
New Year Special ‘88 | 1月4日・5日 東京厚生年金会館 1月7日 大阪厚生年金会館 1月9日・10日愛知厚生年金会館 |
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ロックよ、静かに流れよ 公開記念 『前夜祭だよ! 男闘呼組&光GENJI』 |
2月28日 東京宝塚劇場 | ||
男闘呼組コンサート ‘88春 | |||
少年御三家 春の陣 | 4月10日 大阪城ホール | 光GNEJI、少年忍者と共に出演したジョイントコンサート。 | |
少年御三家 武道館連続12回公演 | 8月16日 – 19日 日本武道館 | 光GNEJI、少年忍者と共に出演したジョイントコンサート。 | |
男闘呼組 ’88 夏コンサート | 7月26日・27日 愛知勤労会館 7月30日・31日 東京厚生年金会館 8月2日 郡山市民文化センター 8月5日 群馬県民会館 8月7日 日比谷野外音楽堂 8月11日 石川厚生年金会館 8月12日 京都会館 8月13日 松本社会文化会館 8月14日 沼津市民文化センター |
日比谷公演は、バンド初、そして唯一の野外での単独ライブ | |
1988 – 1989 | 男闘呼組 Winter Special ‘89 | 12月26日・27日 愛知厚生年金会館 1月5日・6日 1月14日 – 16日 大阪厚生年金会館 |
1月7日。8日は、昭和天皇崩御による公演自粛により中止、5月13日、14日に振り替えとなった。 |
1989 | 男闘呼組 ’89 Spring Concert | 4月8日 松山市民会館 4月9日 香川県民ホール 4月14日 上越文化会館 4月15日 石川厚生年金会館 4月16日 富山市公会堂 4月22日・23日 神戸国際会館 4月30日 大宮ソニックシティ 5月3日 熊本市民会館 5月4日 鹿児島市民文化ホール 5月6日 福岡よかとぴあホール 5月13日・14日 NHKホール 5月27日 岐阜市民会館 5月28日 長野県民文化会館 6月3日 静岡市民文化会館 6月4日 茨城県民文化センター 6月18日 宮城県スポーツセンター 6月17日 郡山市民文化センター 6月24日 群馬県民会館 |
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男闘呼組 夏・Big Tour ’89 | 7月27日 仙台市体育館 7月30日 富山テクノホール 8月5日 月寒グリーンドーム 8月9日・10日 愛知県体育館 8月11日 静岡市民文化会館 8月14日 広島サンプラザ 8月16日 愛媛県民文化会館 8月17日 高知県民体育館 8月19日 茨城県民文化センター 8月23日 北九州市立総合体育館 8月25日 神戸ワールド記念ホール 8月28日 東京ドーム |
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1989 – 1990 | 男闘呼組 LIVE ’90 | ||
1990 | ニッポン放送 男闘呼組でNIGHT 公開ライブ | 3月13日 横浜 | レギュラーラジオ番組企画の、X JAPAN(当時はX)のTOSHIとTAIJIとのジョイントライブ。抽選で選ばれた観客が招待された。 |
男闘呼組 LIVE ’90 | 3月17日 長野県民文化会館 3月18日 石川厚生年金会館 3月19日 富山市公会堂 3月20日 群馬県民会館 3月22日 千葉県文化会館 3月24日 鹿児島市民文化ホール 3月25日 福岡サンパレス 3月27日 熊本市民会館 3月29日 香川県民ホール 3月30日 松山市民会館 4月2日 徳山市文化会館 4月3日 福山市民会館 4月5日 神戸国際会館 4月6日 徳島県民会館 4月7日 倉敷市民会館 4月8日 広島郵便貯金会館 4月14日 岡崎市民会館 4月15日 一宮市民会館 4月21日 京都会館 4月28日 岐阜市民会館 4月29日・30日 大宮ソニックシティ 5月3日 岩手県民会館 5月4日 函館市民会館 5月5日 札幌市民会館 |
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1990 – 1991 | LIVE ANGEL | 12月21日 大阪城ホール 1月5日 – 7日 愛知厚生年金会館 1月?日 渋谷公会堂 |
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1991 | I’m Wating 4 You ’91 | 3月30日 名古屋レインボーホール 4月1日 大阪城ホール 4月4日 横浜アリーナ 4月18日 宇都宮市文化会館 4月19日 千葉県文化会館 4月26日 山梨県立県民文化ホール 4月27日 長野県県民文化会館 5月3日 福岡サンパレス 5月4日 九州厚生年金会館 5月6日 鹿児島市民文化ホール 5月12日 北海道厚生年金会館 5月24日 大宮ソニックシティ 5月25日 新潟県民会館 5月31日 宮城県民会館 6月3日 岐阜市民会館 6月4日 豊田市民文化会館 6月5日 四日市市文化会館 6月8日 広島メルパルクホール 6月10日 岡山市民会館 6月12日 神戸国際会館 6月13日 京都会館 6月15日 静岡市民文化会館 6月17日 群馬県民会館 |
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1992 | Live at CLUBCITTA’川崎 「そろそろやっか!」 |
5月20日・21日 クラブチッタ川崎 | アルバム「5-1」~「5-3」に関わった5バンドと共に出演したフェス形式のライブ |
THE OTOKOGUMI ‘92 | 7月17日 サンシティ越谷市民ホール 7月18日 千葉県文化会館 7月22日 神奈川県民ホール 7月24日 長野県松本文化会館 7月26日 山形市民会館 7月27日 宮城県民会館 7月29日 青森市文化会館 8月1日 大宮ソニックシティ 8月3日 栃木県総合文化センター 8月6日・7日 愛知厚生年金会館 8月9日 群馬県民会館 8月18日 神戸国際会館 8月19日 京都会館 8月23日 静岡市民文化会館 8月31日 米子市民会館 9月1日 広島アステールプラザ 9月2日 岡山市民会館 9月4日 大宮ソニックシティ 9月14日・15日 東京厚生年金会館 9月22日・23日 大阪厚生年金会館 9月26日 松阪市民文化会館 9月27日 半田市福祉文化会館 10月1日 鹿児島文化センター 10月3日 長崎平和会館 10月4日 福岡市民会館 10月6日 – 8日 東京厚生年金会館 |
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1993 | BMG VICTOR PRESENTS ariora MEETING 1993 |
5月15日 日本武道館 | 所属レーベル「アリオラ・ジャパン」の所属バンドが一堂に会して行われたイベントライブ。ライブの一部は、VHSビデオにてソフト化され、販売された。 |
THE OTOKOGUMI ‘93 | 全公演中止 |
舞台[編集]
- スラブボーイ 1993年6月5日 - 30日 パルコ劇場
でたらめロックバンド (前身)[編集]
1984年の夏か秋頃に結成されたプライベートバンドで、下記「東京」の前身に当たる。
- メンバー
東京 (前身)[編集]
1984年12月に成田、高橋、岡本の3名で結成された男闘呼組の前身バンド。間もなくして遠藤と守屋が参加。その後、「東京男組(とうきょうおとこぐみ)」と名乗る時もあり、その場合のみに前田がサポート参加。 最終的に7人編成のバンドにする予定だったがメンバーの脱退が相次いだ為、結局4人編成の男闘呼組となった。
- 主要メンバー
- サポートメンバー
- 前田耕陽 (「東京男組」と名乗る時のみに参加)
オリジナル曲[編集]
脚注・出典[編集]
- ^ その後1989年にTOKIOの前身に当たるTOKIO BANDがジャニーズ事務所所属のロック・バンドとして所属し、TOKIOに再編後も引き続き所属している。
- ^ “長崎俊一監督の新作「ロックよ、静かに流れよ」 男闘呼組が初主演”. 読売新聞東京夕刊. (1988年2月19日)
- ^ a b 寺脇研『昭和アイドル映画の時代』光文社、2020年、516頁。ISBN 978-4334787868。
- ^ “はじける人気、若さと躍動感!本格派ロックバンド「男闘呼組」”. 読売新聞夕刊. (1988年3月2日)
- ^ “NEWS手越だけではなかった!メンバー脱退で悲惨な最後を迎えたジャニーズの3グループ”. Business Journal. (2020年6月3日) 2020年10月18日閲覧。
- ^ “人気グループの男闘呼組が最初のシングル”. 読売新聞東京夕刊. (1988年9月1日)
- ^ “THE ALFEE、バンド継続の秘訣とあのヒット曲を語る”. ORICON. (2020年5月20日) 2020年10月26日閲覧。
- ^ “高橋和也の部屋(2015-10-28)”. (2015年10月28日)
- ^ a b “男闘呼組 ― 今こそ再評価したい80年代最強のアイドルハードロックバンド”. Re:Minder. (2020年5月20日) 2020年10月18日閲覧。
- ^ “「中村繁之 男闘呼組ネーミング秘話明かす ジャニーさん「字は僕が考える」”. デイリースポーツ. (2019年9月4日)[1]
- ^ 霜田明寛『ジャニーズは努力が9割(新潮新書)』新潮社、2019年、183頁。ISBN 978-4-10-610824-2。
- ^ “【インタビュー前編】高橋和也、ザ・ローリング・ストーンズ初来日公演とその想いを語る”. BARKS. (2015年11月11日) 2020年10月18日閲覧。
- ^ “SMAPが憧れ慕った「ジャニーズの先輩グループ」とは”. 日刊大衆. (2016年12月10日) 2020年11月14日閲覧。
- ^ “「男闘呼組」成田昭次容疑者、大麻所持で逮捕”. 読売新聞. (2009年9月28日)[2]
- ^ “Little Black Dress単独公演レポート、元・男闘呼組の成田昭次がゲスト登場” (Japanese). Rolling Stone Japan (2020年11月4日). 2020年11月5日閲覧。
関連項目[編集]
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