吉田拓郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉田 拓郎
出生名 吉田 拓郎
別名
  • よしだ たくろう
  • 入江 剣
生誕 (1946-04-05) 1946年4月5日(76歳)
日本の旗 日本鹿児島県伊佐郡大口町
(現在の伊佐市
出身地 日本の旗 日本広島県広島市
(現在の南区
学歴 広島商科大学(現在の広島修道大学)卒業
ジャンル
職業
担当楽器
活動期間 1970年 - 2022年〈予定〉
レーベル
事務所 竹田企画
共同作業者
公式サイト 吉田拓郎 avex official website
著名使用楽器

吉田 拓郎(よしだ たくろう、1946年昭和21年〉4月5日 - )は、日本シンガーソングライター音楽プロデューサー、俳優。本名同じ。旧芸名は平仮名のよしだたくろう。鹿児島県伊佐郡大口町(現在の伊佐市)生まれ[4][5][6]広島県広島市育ち[7][8][9]

人物[編集]

竹田企画(事務所)、avex trax(レコードレーベル)に所属。フォーライフ・レコードの第2代社長を務めた。楽曲提供者としては入江剣のペンネームを用いることがある[注 1]

妻は森下愛子1986年結婚)[11]。元妻は四角佳子1972年 - 1975年[12]浅田美代子1977年 - 1984年[13]

日本のシンガーソングライターの草分け的存在であり[7][8][14][15][16][17][18][19]、1970年代初頭、マイナーであったフォークロックを、日本ポップス界のメジャーに引き上げた歌手である[6][20][21][22][23][24][25][26]。また、大規模ワンマン野外コンサートラジオの活性化、CMソングコンサートツアープロデューサーレコード会社設立などのパイオニアとして、日本ポピュラーミュージック史において特筆すべき役割を果たした[2][8][12][27][28][29][30][31][32][33]日外アソシエーツ『ポピュラー音楽人名事典』は、「ニューミュージックを代表する音楽家」と掲載している[34]。2000年2月号の日経エンタテインメント!の特集「J-POPの歴史をつくった100人」で、“J-POPの開祖”と記される[35]

来歴[編集]

生い立ち[編集]

父親・吉田正廣朝鮮総督府農林官吏として勤務したため[5][36][37]、吉田家は戦前朝鮮京城で暮らした[4]。長女は小学校1年の時、病気により朝鮮で早世[4]。長兄1人、次女までは朝鮮で生まれ[4]敗戦により、1945年夏に朝鮮・京城から家族で引き揚げ[4]、拓郎のみ次男の末っ子として鹿児島県大口町(現在の伊佐市)で生まれた[4]1952年春、鹿児島郡谷山町(のちの谷山市、現在の鹿児島市)に転居し[4]谷山小学校に2年生まで在学した[4][5](歌手の西郷輝彦と同期生)。父は鹿児島県伊佐郡羽月村出身で堂前家から吉田家に養子に入った人物で、引き揚げ後に鹿児島県の郷土史家となった吉田正廣[5][38][注 2]。鹿児島時代は姉と同じ部屋で生活していたので、姉が大好きな歌謡曲をよく聴いていたことに、拓郎も大きな影響を受けた[5]。拓郎自身は両親の出自については詳細はよくわからず、母方の祖母が広島の出身と話している[5]1955年に両親が別居し、立教大学に進学した兄は上京、母親は姉と拓郎を連れて広島に転居し[4][5][7]、9歳小学校3年から広島県広島市南区西霞町で育った[8][39]。1955年4月、広島市立皆実小学校へ転校[7][40]。立教大学ジャズ研出身で、後にジャズピアニストになった兄が[4]、夏休み等に女性同伴で帰省したのがきっかけで音楽に興味を持つようになった[27][41][42][43]小児喘息の持病があり[8]、小学校から中学校にかけては出席日数が半分程度の目立たない子供だったという[8]。このため家にいることが多く、母に本を買い与えられていたが、安価なウクレレを買ってもらい[27][41]、小学校高学年か中学校に入って音楽を始めた[42][43][44]。皆実小学校[7]翠町中学校[7]の一学年上に長谷川和彦[45]1962年広島皆実高校に入学[8][30](後輩に奥田民生ら)[30][46][47]。友人の通う広島商業文化祭に誘われ、そこで同じ高校生のバンドエレキで演奏しているのを「これだ!」と確信し、「僕もこれをやろう!」と決めた[8]。自身もインストゥルメンタルバンドを結成し、ウクレレを担当した[48]。曲を作り始めたのは高校に入ってからで、好きな女の子が出来るたびに、曲を作って渡した[42]。拓郎は「僕が広島で過ごした高校、大学時代こそがその後50年以上続けて音楽をやって行く事になる言わば『すべての始まり』であり『僕を生み出した季節』」と述べている[8]

1965年に広島商科大学(現在の広島修道大学)に入学し[7]カントリー&ウエスタン部と応援団に入部した。中学の同級生と新たにビートルズを真似た4人編成のロックバンド・ザ・ダウンタウンズを結成[8][27][49][50][51][52]ボーカルギターを担当した[43][51][52]。当時はザ・ベンチャーズのコピーバンドが多く[43]、歌えるアマチュアバンドは珍しく[43]ライブハウス・広島ACBに出演した際には「歌うエレキ・グループ登場!」と書かれた[43]。同バンドは広島で最も人気があったグループ・サウンズ(GS)といわれ[52]、1965年年秋に初コンサートを開催[52]R&Bが主なレパートリーだったが[15][52]ビートルズのコピーほかオリジナル曲も10~15曲程度あった[43][52]。オリジナルの一つが拓郎作詞・作曲による「たどりついたらいつも雨ふり」の原曲「好きになったよ女の娘」である[50][52][53]。この年、メンバーと上京し渡辺プロダクションに売り込むがGSブームも未到来の時代であり、相手にされなかった[27][43][51][54]。天下のナベプロに断られたショックは計り知れず、フォークソング・ブームが始まった時代でもあり、「オレ、ギター一本でフォークソングやるわ」と決意するに至った[27][43]

アマチュア期[編集]

バンド活動と並行して独学でギターの演奏技術を磨き、ソロでもオリジナル曲を奏で歌った[8][51]1966年大学2年のとき、コロムビア洋楽部主催のフォークコンテストにソロで出場[42]。「テイク・ファイヴ」のリズムパターンに三里塚闘争から着想を得た歌詞を乗せた自作曲「土地に柵する馬鹿がいる」をボブ・ディランの写真を見て、ハーモニカホルダーを針金を使って自作し[55]、6弦のエレキギターを12弦ギターに改造して歌唱[42]、中国大会2位、全国3位となった[41][56]。『平凡パンチ』で「和製ボブ・ディラン」と紹介され[41][42]、広島市内の繁華街本通りを歩くだけで「拓郎だ! 拓郎だ!」と、人だかりができるほどの広島で有名人となったが[57]、広島の音楽仲間からは「あれはフォークでない」「広島を歌っていない」などと批判も出て居心地も悪く[58]、単身上京した[58]。 ザ・ダウンタウンズとして1967年に広島見真講堂で開催された『第1回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』中国地区大会ロック部門で優勝[52][59]米軍岩国基地でも定期演奏し[60][61]兵隊相手の演奏で初めて音楽の凄さを知った[62]。しかし、ベトナム戦争の侵略基地である岩国慰問が、参加資格のないプロの演奏と抗議が寄せられ、カワイ楽器在籍バンドでもあったことから、ヤマハの関係者から全国大会への出場を辞退してもらえないかと申し入れられ、出場辞退した[63]。翌1968年にも、『第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』に出場し[52]、オリジナル曲「好きになったよ女の娘」を歌い[52]、中国地区優勝[52][59]、ヴォーカル・グループサウンズ部門で全国4位となる[64]。また、吉田の発案で広島の3つのフォーク団体によるアマチュアフォークサークル『広島フォーク村』を結成[7][8][50][57][65][66]。レコードも出さないうちに、地元ラジオにリクエストが殺到し、NHK広島に出演したり、中国放送DJを担当したりした[67]。この頃激しい学園闘争が繰り広げられた広島大学バリケードで囲まれたステージで『イメージの詩』を歌う[41][68]。演奏終了後、白いヘルメット姿の学生に取り囲まれ激しいアジ(agitation)を浴びせられた[41][69][70]

1969年には、ギター教室のアルバイトをやっていた[57]カワイ楽器広島店[71]に就職内定したが[72]上智大学全共闘のメンバー[73]が自主制作(ユーゲントレーベル)で「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を制作することになり参加した[43][74]

1970年3月頃ユーゲントレーベルから『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を自主制作し、手売りで販売した[75]。またエレックレコードが、『イメージの詩/マークII』を無許可でシングルカットし関東広島地域でリリースしたが[55]、広島のレコード店で売っていることに驚いた拓郎が買って家で聞いたら、リズムが途中で裏になっていたりし[55]、拓郎の抗議で音源を録り直した[43][55]。そこでエレックレコードの浅沼勇に口説かれ[55]、「ザ・ダウンタウンズ」を解散して上京した[19][76]

よしだたくろう期(1970年 - 1974年)[編集]

エレック所属期[編集]

1970年4月に、インディーズレーベルのはしりであったエレックレコードに契約社員として就職した[43][77][78][79]。エレックはまともな仕事は取ってこられず[80]愛川欽也が司会をしていた子供番組のオーディションに参加し「イメージの詩」を歌って審査員の子供に落とされたり[81]NHKのオーディションで藤山一郎に落とされたりした[82][83]6月1日、当時のシングルとしては異例の7分弱の長尺シングル「イメージの詩/マークII」で正式にデビュー[84][85][86]。吉田拓郎と広島フォーク村は、この1曲によって世に知られるようになったとも言われる[81]6月27日に『広島フォーク村アルバム発売記念コンサート』を東京厚生年金会館で開催した際、客はほとんどいなかったが[87]、当時イベントの企画などを手がけていた後藤由多加の目にとまり、コンサートなどで起用された[88][89][90]。後藤はこれを機に重要なパートナーとなる[88]。12月15日公開の日活映画女子学園 ヤバい卒業』(夏純子主演・沢田幸弘監督)の劇中、「青春の詩」を歌唱[91]1971年8月7日9日、『第3回全日本フォークジャンボリー』に出演[6][11][46][78][92]10月、後藤とともに、アーティスト主体の音楽制作プロダクション[93]『ユイ音楽工房[注 3]』を設立[93][95]。11月には広島フォーク村の後輩・大久保一久が組んでいたアマチュアグループのために初の楽曲提供[96]

CBSソニー(オデッセイレーベル)所属期[編集]

1972年1月CBSソニーに移籍し、アーティスト兼プロデューサーとして契約を結んだ[97]。移籍と同時に発売した「結婚しようよ」がオリコンチャート3位、40万枚以上を売り上げた[11]。それまで長髪の若者たちの反体制的な音楽としてしか見られていなかったフォークが一躍普通の音楽として認知された[6][98]。それまでサブカルチャーだったフォークが、メインカルチャーへ浮上する分岐点になり[98]、画期的な「音楽シーン」を作り上げる第一歩を記した[99]。さらに「旅の宿」もヒットしたことで作曲の依頼が舞い込んだ。モップスに「たどりついたらいつも雨降り」や、に「雪」「地下鉄に乗って」を提供し[100]、拓郎はフォーク歌手としてだけでなく売れっこの作曲家となり、人気が高まった[101]。2月26日に公開された近代放映製作東宝配給映画百万人の大合唱』(須川栄三監督)の劇中、「今日までそして明日から」を歌唱[102]6月には長野県軽井沢の「聖パウロ教会」で四角佳子結婚式を挙げた[103]。「町の教会で結婚しようよ」など、若者の新しい生活様式を表現した歌は、ブライダル業界にも大きな影響を与えた[104]。同月、CBSソニーとプロデューサー契約を結び、ワンマンレーベル『Odyssey』を立ち上げ[6][105][106]、バックバンドだったをデビューさせたり[107]、ロックやフォーク、歌謡曲、演歌歌手に楽曲プロデュースを行うなど音楽プロデューサーとしての地位も上げていった[6][107][108][109]

1973年1月には、前年バックバンドを務めた柳田ヒロのグループを発展させ新六文銭を結成。5月23日に、4月18日の金沢公演の夜に女子大生に暴行されたと訴えられ、逮捕された[78]。8日間の拘留後、女子大生の虚偽であることが判明して不起訴となり[78]、6月2日に釈放された[108][110][注 4]。釈放の翌日に、神田共立講堂のステージに立つ[112]。しかし、マスコミのバッシングにあい、ツアーのキャンセル、曲の放送禁止、他人への提供曲も放送禁止、CMスバル・レックス富士重工)、テクニクス松下電器))の自粛といった処置がとられた[110]。そんな中でも「明星」編集部は、不起訴後、いち早く拓郎の独占自筆手記を掲載した[113]。この金沢事件で女性ファンは一気に減ったが[43]、デビュー直後に執拗な「帰れコール」を浴びせた男性ファンが戻ってきた[43]

拓郎は、梓みちよに「メランコリー」、1974年1月15日に、森進一に「襟裳岬」を提供する[21]。この「襟裳岬」は同年の第16回日本レコード大賞を受賞する快挙となったが[27][46][84]、当時国民的な大イベントであったレコード大賞の授賞式に拓郎は上下ともジーンズの普段着で登場し、平然と賞を受け取ったため物議を醸した[114]

吉田拓郎以降[編集]

フォーライフ・レコード設立[編集]

1975年には、かまやつひろしに「我が良き友よ」を提供、この曲もヒットした。1975年5月に、高額納税者番付1974年度納税分で、歌手部門にフォークシンガーとして井上陽水とともに初のランク入りとなった(拓郎5位、陽水7位)[115][116][117][118]

6月1日にCBSソニーの拓郎が、ポリドール井上陽水エレック泉谷しげるベルウッド小室等と共に、アーティストの手になる初めてのレコード会社[21][84][93]フォーライフ・レコード』を発起した[15][32][86][88][119][120][121]。これを機に「吉田拓郎」と改名した。12月に、オールナイトニッポン最終回で四角佳子との離婚を発表した[122]。この年森山良子に提供した「歌ってよ夕陽の歌を」は森山の新境地を切り開き"フォークの女王"に戻らせる[123]

8月2日から3日静岡県掛川市つま恋で、野外オールナイトコンサート吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」開催[15][21][27][46][84][120][124]

1976年3月28日TBSサンデースペシャル」「セブンスター・ショー」のトリを務めた(後述)。

4月にフォーライフ第1回新人オーディションでグランプリを獲得した川村ゆうこをプロデュースし、デビュー曲「風になりたい」を作詞作曲。本楽曲は拓郎自身「自分で作った曲で一番」と述べている[125]11月に、小室・拓郎・陽水・泉谷ら4人のスプリット・アルバムクリスマス』を初回プレス30万枚で発売し、オリコンで1週のみ1位となったものの、累計が10万枚にも満たず、フォーライフの屋台骨を揺さぶることとなった。翌年、フォーライフは2年目の決算で8億円の赤字を出す。6月には、小室に代わり、フォーライフ2代目社長に就任する[78]7月浅田美代子と2度目の結婚。9月10日に、井上陽水が大麻所持(大麻取締法違反容疑)で逮捕。社長として記者会見で平謝りし、嘆願書を集めて東京地検に日参するなど陽水の救済に尽力した[126]

70年代後半には、キャンディーズに「やさしい悪魔」、石野真子に「狼なんか怖くない」を提供。「やさしい悪魔」は、後年、町田ガールズ・クワイアがカバーした。1979年2月、『たくろうオン・ステージ第二集』(1972年12月発売)収録の「ポーの歌」が浜口庫之助の曲の盗作と報じられる。拓郎自身は初めからオリジナル曲とは言っていなかったが『たくろうオンステージ第二集』を無許可でリリースしたエレックが吉田拓郎作詞・作曲とクレジットしてしまったというのが真相である[127][128]

1979年『吉田拓郎 アイランド・コンサート in 篠島』が開催され、オールナイトで69曲、約8時間歌い、観客2万人動員した[84]。また、特別出演としてデビュー直後の長渕剛がステージに登壇した。

『TOUR 1980』では過去の曲を一切やらず、全て新曲で通すなど[129]、過去との決別を宣言し、初の海外録音作品『Shangri-La』を発表した[2][130]

1981年4月5日資生堂81夏のコマーシャルソングサマーピープル」リリース[131]

フォーライフ・レコード社長を退任[編集]

1982年6月に、ツアー最中の株主総会で、アーティスト業に専念するため、フォーライフ・レコード社長を退任すると発表された[84][78]

1983年6月、女優・森下愛子との不倫騒動が流れ、同年10月に浅田美代子が芸能界へ復帰した際は、共に自身2度目の離婚を否定していた。しかし翌1984年8月、浅田との協議離婚を発表した[78]

1985年6月15日には、国立競技場国際青年年 (IYY) 記念イベント「ALL TOGETHER NOW」を小田和正と共に企画運営し、司会を務めて、5万人の観客を動員した。同年、オールナイトライブ『吉田拓郎ONE LAST NIGHT IN つま恋』が開催された[78][84]

1986年に、映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』に高杉晋作役で出演[84]

1986年、日本民間放送連盟民放ラジオ放送30周年を記念して、この30年間を代表するスーパースターベスト10を選び[132]、総合ベスト10で、拓郎は、ビートルズ長嶋茂雄美空ひばりチャップリン王貞治エルビス・プレスリーに続く第7位に選ばれた[132](8位は山口百恵、9位はジョン・F・ケネディ、10位は高倉健[132]

1986年12月森下愛子と結婚。

テレビ出演の増加[編集]

1988年1月1日に、プライベート・オフィス「宇田川オフィス」を設立する[133]

この頃からテレビ出演が多くなり、1989年NHK総合テレビで放送された『愉快にオンステージ』にホストとして出演。さらに、1993年には、TBS系で放送されていたドキュメンタリー番組『地球ZIG ZAG』の3代目司会者に高橋リナとともに起用された。また、本人自ら出演した『サッポロ☆ドライ』に出演し話題となり[84]、CMソングとなった「すなおになれば」もヒットした。

1988年6月16日日清パワーステーションにて、ライブハウスでのコンサートを行った[84]

1989年2月8日、アルバム『ひまわり』を引っ下げて行われた全国ツアーがスタート。同年3月15日に、東京ドームでコンサートを行い、5万人を動員する[84]

新潟県吉田町の有志団体「若者共和国」からの依頼で、1992年4月に「吉田町の唄」を発売。2004年には吉田ふれあい広場に歌碑が建立される。

1994年8月16日に参加した『日本をすくえ'94 〜奥尻島、島原・深江地区救済コンサート〜』(日本武道館)はテレビ放送され、同年の大晦日には、『第45回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たす[78]

1996年に、まだCDデビュー前だったKinKi Kidsと共に『LOVE LOVE あいしてる』の司会を務め大きな話題を呼び[78]、翌年の1997年には『LOVE LOVE あいしてる』のバックバンドを務めたLOVE LOVE ALL STARS共に制作したセルフカバーアルバム『みんな大好き』が20万枚以上の売り上げを記録した。

フォーライフ・レコードの契約を解消から現在まで[編集]

1999年9月30日フォーライフ・レコードとの専属アーティスト契約を解消し[84]2000年4月インペリアルレコードに移籍した[84]。移籍したのは、交友のある飯田久彦テイチクエンタテインメント代表取締役社長に就任したからである。

2003年4月に、肺がん手術のためコンサートツアーは延期となったが[21][78]、手術は無事成功し、秋には復帰コンサートで全国に元気な姿を見せた[78]。ビッグバンドでのコンサートツアーはこの年から2006年まで毎年行われた。

2008年8月3日に母校の広島修道大学(旧広島商科大学)で在学中に作詞作曲した「今日までそして明日から」の歌詞と、1970年代の写真入りの歌碑が披露された。

2009年2月にavex traxに移籍する[15][78][注 5]6月21日には、生涯最後の全国ツアー『Have A Nice Day LIVE 2009』(10か所10公演予定)が始まったが、7月8日開催の大阪公演開始45分前に、体調不良による公演中止が決定した[78]。診察の結果、慢性気管支炎の悪化で約2週間の自宅療養を行うことになり、福岡、広島、神戸の3公演は中止となった。

7月23日にも、つま恋へ移動する車中で体調の異変を訴え、その日の内に残り2公演も中止となった[134]

2013年1月30日発売の、前年のライブを収録した『吉田拓郎 LIVE 2012』(Blu-rayDVDCD付DVD)が、オリコン週間DVDランキング総合6位となり、TOP10入り史上最年長(66歳10ヶ月)を記録する[135]

2017年3月8日に『ニッポン放送「春の新番組」パーソナリティ発表記者会見』にて、新番組『吉田拓郎 ラジオでナイト』をスタートすることが発表された[136]

2022年、本年を以て全ての音楽活動から引退する意思を明らかにした[21]。これにより同年6月29日発売のアルバム『ah-面白かった』が最後のCDリリースとなり、自身がパーソナリティを務めるニッポン放送『吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』も年内で終了する方向だという[21]。また、7月21日に『LOVE LOVE あいしてる 最終回・吉田拓郎卒業SP』(フジテレビ)が放送され、これを以て拓郎自身最後のテレビ出演とされた[137]

シンガーソングライターとして[編集]

音楽性[編集]

政治性を排除[編集]

自身の生き方や恋愛体験などをテーマにした拓郎の歌は[8][11]>[13][23][98][86][138][139]、従来のフォークファンからは“大衆に迎合して軟弱な歌を歌っている”“商業主義”“裏切り者”“堕落した”などと批判され、ジョイントコンサートなどの会場では激しい“帰れコール”[注 6]を浴び[43]、石を投げられることもあった[6][15][23][98]。「アングラこそがフォーク」と信じて疑わない人たちはレコードが売れるとそれだけで商業的だとその歌手を敵視した[143]

1972年4月22日日本武道館で行われた「フォーク・オールスター夢の競演音搦大歌合戦[注 7]」なるイベントでは、岐阜の山から降りて久しぶりにステージに立った岡林信康の後に登場した拓郎に激しい“帰れコール”が浴びせられ歌が聞こえないほどであった[27][145][146]。またビール瓶などモノを投げつけられ一曲も歌わず、本当に帰ることもあったという(慶應三田祭事件[6][147][148]日比谷野音[43])。当時は客席から罵声が飛ぶことは珍しくなく、拓郎のステージに罵声が飛ぶのは日常茶飯事だった[149]。拓郎ほど人気を得たアーティストはそれまでいなかった[23]。拓郎はフォークシンガーで初めて女性ファンが付いたスターで[13][19][101][150][151]、雑誌に「よしだたくろうのコンサートには、女学生が多くて、フォーリーブスのコンサートみたいで、とにかくムナクソ悪い」などと書かれた[152]。断ったが『月刊明星』から「表紙をやりませんか」と言われたこともあったという[5]。フォーク仲間からもあまりに「あいつはフォークじゃない」と非難されるので、拓郎は「そんなら、おれはフォークじゃなくていい」と居直った[6][12][51][130][153]。拓郎ほど世間と戦い続けた歌手はいない[119]

反体制、反商業主義こそが、フォークソングの本質という生硬なフォークファンからは大きな批判を浴びたが、拓郎はマーケットに迎合したわけではなく、日々の生活の中で抱くまったく個人的な心情を、より日常的な言葉で歌ったに過ぎない[13][33][154][155]。むしろそうすることで、旧態依然としたフォークソングの閉鎖性から訣別しようとしたのである[154]。フォークシンガーが内省的となる傾向のある中で、平凡でストレートに思いを表現する潔さがあったとされる[149]。罵声が飛んでも歌い続ける姿勢が支持者を増やし、時代の流れは確実に拓郎の提示した新しいスタイルに流れていった[6][11][149]。全ての若者がプロテスト系のフォークを支持しているわけではなく[156]、同世代の普通の若者からは絶大な支持を受けた[23][85][143][155][157][158][159]北中正和は「1972年に連合赤軍 あさま山荘事件が起こり、彼らのリンチ殺人事件が発覚すると、学生運動に何らかの共感を抱いていた人たちの気分も引いてしまった。1960年代の余燼はどんどん消えていった。吉田拓郎の人気浮上は、そんな世相の変化を感じさせた」と[160]寺島実郎は「吉田拓郎の『結婚しようよ』と井上陽水の『傘がない』を聴いたとき、『政治の季節』が終わったことを確認した」と論じている[161]。最初はメッセージ・フォークを歌っていて、1971年のフォークジャンボリーでは、同イベントの形骸化批判の口火を切ったにも関わらず[162]、その半年後には「結婚しようよ」をリリースするという拓郎の"変節"に関して、伊藤強は「1972年には日本はすでに政治の季節を終えていた。終わってしまった季節に対して何を言っても意味はない。吉田拓郎は時代の好みを鋭敏に嗅ぎとったのに違いない」[163]菊池清麿は「吉田拓郎の登場は、自作自演のスタイルはもちろんのこと、世代感をアピールする強烈なリアリティーを持つ新しい若者文化だった。これによってフォークの形態が大きく変わった」[164]高護は「吉田拓郎の登場によってフォーク・シーンは新たな展開を迎えることになる」と論じた[18]。拓郎の自作自演の歌や硬派な振る舞いは、現実や体制に打ちのめされた若者たちの心を「救済」していく[11][157]スポーツニッポンの音楽担当記者だった小西良太郎は、「吉田拓郎が1970年『イメージの詩』でシングル・デビューして、歌謡曲の歌い手がよくやるプロモーション行脚で僕を訪ねて来たのには不審の念を飲み込んだ。それまで会ったフォーク勢は、マスコミにも白い眼を向け、レコードが売れることを拒否、自作の宣伝など以ての外の筈だった。その後吉田が、反抗するメッセージ臭のかけらもない曲を連発すると、案の定戦闘的なファンから猛反発を受けた、がしかし、それらの曲が大ヒットすると吉田は時代を歌う旗手の一人になった。吉田はみんなの連帯ソングから"我が道をゆく"個人の精神を取り戻し、狙い撃ちでヒット曲を書き続けた。終始衰えを見せなかったのは、胸中の熱い血と歌声に色濃い覇気、作品にある鮮度、独自の姿勢を貫く意思の強さがあった」と評した[156]。60年代のカレッジフォークや社会派フォークとは全く異なる地平で自身の「うた」をクリエイトしていた拓郎の音楽が瞬く間に大衆に受け入れられたのは、旧来の〈フォークソング〉が〈フォーク〉へと変貌していく時代の要請であると同時に、ある種の必然でもあった[102]筒美京平は「吉田拓郎の『結婚しようよ』がヒットしたとき、初めて脅威を感じた」と述べている[165][166][167]萩原健太は「一大勢力を誇っていたメッセージ色濃い関西系フォークは、中津川フォークジャンボリーのあの忌まわしいイベントの失敗と相前後する形で姿を消した。代わって小さくて安全な夢に彩られた歌が人々の心を惹きつけ始めた。"フォーク"は"ニューミュージック"へと衣を替えていくが、吉田拓郎は時代の変わり様を全身で感じながら、ただ一人過激に疾走を続けた」と論じた[43]。馬飼野元宏は「フォーク史のいくつかの転換期の中でも、吉田拓郎の登場と、その後数年間の活動は日本のフォークシーン最大の山場といえる。拓郎がデビューから5年間に切り開いた功績と音楽シーンへの影響は計り知れないが、何よりプロテストソング全盛だったフォークシーンから時代の舵を奪い取ったことが大きいのではないか」と述べている[28]小森陽一は「吉田拓郎・井上陽水小椋佳松任谷由実の"反革命四人組"が垂れ流した徹底して自己完結した私生活主義的な歌世界が一気に社会全体を覆った」と論じた[168]。恩蔵茂は『ニッポンPOPの黄金時代』という2001年の著書で戦後の日本のポピュラー・ミュージック(ポップス)の歴史を、序章「ザ・ヒット・パレードの興亡」から11章に分け論じているが、第10章である最終章、1970年代から今日(2001年)までのタイトルを「拓郎からJ-POPへ」としている[169]富澤一誠は「吉田拓郎が出なければ、今のJ-POPはないといっても過言ではない」と述べている[170]

自作自演スタイルの一般化[編集]

ダンガリーのシャツにジーパンギブソンのアコースティック・ギター(1967年製のギブソンJ-45)、ハーモニカ・ホルダーを首にかけ[171]、歌詞カードを譜面台に乗せ座って歌う[172]、うつむいてボソボソと喋り、時々客席をむいて何かを叫ぶという拓郎のスタイルを多くの若者がまねた[173][174]。当時の拓郎たちフォークシンガーのイメージはパンタロン[175]泉麻人は「自分の身のまわりの、ほんのちょっとしたことを唄にしてもいいんだ、と、拓郎の出現によって、レコードを聴くばかりでなく、オリジナルの曲を作って唄ってみたい、と思った人は僕らの世代に多いはずだ。そういう身近さが吉田拓郎の何よりの魅力だった」と述べている[176]。「日本語って、こんな生き生きとメロディに乗せられるものだったのか!」と多くの若者は驚嘆した[151]。拓郎は一貫してメロディに乗せた"言葉"によって時代を吐き出し続けてきた[158]。拓郎ほどその生き様と歌がぴったり一致しているアーティストはいない[177]

それまで自作自演は一部のフォークだけだったが、拓郎以降、それが一般化した[139][151][178]。1970年代から、少なくともフォークやロックは自作自演であることが大前提になっていくが、拓郎はそのきっかけになった[19][179]桑田佳祐は「拓郎さん目標に、憧れて音楽やってきた人、私もそうですけど、いっぱいいます。私は高校1年の時ですよ、『元気です。』『人間なんて』…その風を真正面に受けて、夢を見せてもらいました」等と述べている[24]松井五郎は「自分でバンドを組んで音楽をやるようになったのは、井上陽水さんや吉田拓郎さんのようなシンガー・ソングライターによるフォーク・ムーブメントがきっかけで、拓郎さんのモノマネというか、身近な恋の話をテーマにした歌を作り始めました」と述べている[180]

拓郎の影響でギターダンガリーシャツジーパンが非常に良く売れた[181][注 8]。拓郎以前は外国人ミュージシャンのコピーが主流であったが、拓郎以降は拓郎をコピーする若者が増えた[158][183][184][185]。拓郎がフォークの大ヒットを出したことでブームは中学生にまで及んだ[100][186]。誰でも拓郎になれる、と当時の若者は信じた[187]。男の子は勿論、女性のギター人口「ギター女子」をも増やした[151]竹内まりやは「音楽の入り口は拓郎さんのデビュー曲『イメージの詩』だったんですよ。センセーショナルでしたよね!、当時の女の子はアイドル的にみんな拓郎さんが大好きでした」等と話している[101]

ニュー・フォーク[編集]

『YOUNG GUITAR』誌上で、拓郎のギターは従来のフォークにリズム&ブルースのフィーリングとビートが加わっただけで新しいものではないが、得意なギター伴奏に本当の心の歌を歌い上げている。素晴らしい詩人であり音楽家であり、とうとう日本にも真のフォーク・シンガーが生まれたと評された[188]。1972年頃の文献には、拓郎を「ニュー・フォーク」の旗手と紹介した記事が見られる[39]。『新譜ジャーナル』は、拓郎ら新たに台頭してきたフォーク・シンガーをまとめて"ニュー・フォーク-第三の流れ"と紹介した[189]。"第三の流れ"というのは、アングラフォーク、カレッジフォークに続く流れという意味である。1960年代のアングラに対して、1970年代の拓郎に始まる第3の波により、ニュー・フォークがメジャーとなった[190][191][192]。ニュー・フォーク以外にも、アウト・フォーク、ジーンズ・フォークなどの呼び方もされたが[153]、これらは拓郎登場以降の呼び方である[153]ミッキー・カーティスは、拓郎がブレイクした当時の『ニュー・ミュージック・マガジン』1972年5月号で、「今の吉田拓郎なんかにも日劇の熱狂が繋がっているよ。最初はプロモーションもなかったし、マスコミの力も強くなかったから、宣伝力じゃなく、歌手たち各個人個人が、それぞれの区域のジャズ喫茶で、一人づつ獲得していったファンの集大成だったんだ。若い人のエンタテインメントの過渡期で、ちょうど次のパターンの段階で、タイミング的にピッタシだった」と論じた[193]

拓郎がヒットを連発するに及んで、各レコード会社プロダクションも競ってシンガーソングライターの売り出しにかかった[100][157][194]。拓郎は当時のフォークファンの中では珍しく、若い女性ファンが多かった[195]

なぎら健壱は、「フォークは拓郎の登場を境に硬派路線とアイドル路線に分かれ、拓郎が新境地を次々と開拓して絶頂期を迎えると同時に、フォークは終焉を迎えた」[108]、「拓郎の成功以降、レコード会社もフォーク調の曲を出せば売れるということに目をつけ、各社こぞってアイドルや歌謡歌手にフォーク調の曲を提供し、フォークは気骨があった精神を希薄なものにしていった」と述べた[157]中川五郎は「1970年代に入ってフォーク・ソングが変わっていって、もちろん高石ともやさん、岡林信康さんとかの時代から乱暴な言い方をすれば吉田拓郎さんとかが出現して、井上陽水さん、かぐや姫とかフォーク・ソングがかなり違うものになって、呼び方もニューミュージックみたいになったりした。そうすると60年代のようなプロテスト・ソング、メッセージソングは時代遅れというか、『まだそんなの歌っているの?』って言われるようになった」と述べた[196]。拓郎は自身を中心とした1972年のフォークブームについて「フォークブームは起こるべくして起こったものだ。ファンが熱狂する場を作ったのがわれわれで、他の歌にはそんな要素がなかったってことだ」と述べた[197]森山良子は「吉田拓郎さん抜きでは私の中に日本のフォークは存在しません。若かりし頃の私が歌っていたのはあくまでもアメリカンフォークであって、それをコピーしていたに過ぎないのです。そんな私の前に現れた吉田拓郎は、この人、何をしようとしているんだろう? と若干脅威だった。吉田拓郎は、ここからフォークブームを表面ではなく、本当の自分を自分の言葉でハッキリ強く歌にしてメッセージを送った。日本の若者たちに音楽を通して揺さぶりを掛けた、そんなエネルギーに溢れていた」と評した[22]小室等は著書で「フォークが売れるというのは吉田拓郎から始まった」と述べている[198]井上陽水は「フォークシンガーは沢山いるが、それを全国区にしたのは吉田拓郎。みんなその後に続いている」と評した[22]エレックレコードで拓郎と二枚看板だった泉谷しげるは「吉田拓郎は旋風児で、アイドル的なものがあって、本人はアイドルになりたかったんじゃないかなって未だに思ってるね」と述べている[199]谷村新司は「我々の時代を切り開いて来てくれたかけがえのない先輩」と拓郎を評した[22]織田哲郎は「拓郎さんは圧倒的な存在。音楽業界というより、日本の若者文化の一番のスターだった」と評した[200]坂崎幸之助は「拓郎さん以降は、フォークギター持って歌っていてもフォークではないです。皆さんに愛されるPOPSです」と論じた[139]

1960年代後半の社会的な内容を含んでいるものが目立ったフォーク・ソングは、拓郎の登場で形態が大きく変わり[21][46]、拓郎以降、個人の心情や風景をうたう歌や、愛の歌が増え、次の時期のニューミュージックへの架け橋にもなっていく[100][120][155][201][202]中村とうようは「70年安保を境にシラケという語が広くささやかれ、フォークソングの商品化がさらに進んで吉田拓郎の「結婚しようよ」がヒットしたころには、フォークソングはニューミュージックへと変質をとげるに至った」と論じた[203]

影響を受けたミュージシャン[編集]

洋楽の原点
洋楽の原点はニール・セダカコニー・フランシスリック・ネルソンヘンリー・マンシーニなどアメリカンポップスとパーシー・フェイス夏の日の恋」など映画音楽だった[204]。アマチュア時代のダウンタウンズでのレパートリーはビートルズ、ローリング・ストーンズスペンサー・ディヴィス・グループサム&デイヴオーティス・レディングサム・クックウィルソン・ピケットや後年、拓郎のレコーディングに参加したブッカー・T&ザ・MG'sなどだった[2][205]
ボブ・ディラン
楽曲や生き方を含めてボブ・ディランの影響を強く受けたことはよく知られる[2][23][206][207]。拓郎は「ギター一本で自分の音楽を発表できることを知って人生変わった。ただし音楽スタイルやメロディが好きで、イデオロギーに憧れたのではない」と話している[208]
"フォークロックの神様"、"『風に吹かれて』のプロテストソングヒーロー"、"ビートルズドラッグを教えた反逆者"といったボブ・ディランのイメージは、拓郎が深夜放送のラジオでやたらボブ・ディランの凄さを語り、曲を流したことで日本人に植えつけられたもの、と中森明夫は述べている[209]。拓郎が「ディラン、ディラン」と叫び回ったため、CBSソニーから出ていたボブ・ディランのレコードが、以前の5倍以上売れたという[210]。日本におけるボブ・ディランの最大の普及者でもある[211]。中学の時、「吉田拓郎になろう」と決めたという浦沢直樹みうらじゅんは、拓郎を通してボブ・ディランを知ったと話している[212]。なおソニーは1973年に拓郎の選曲でボブ・ディランのベスト盤『BOB DYLAN; Gift Pack Series10』を発売している[213]
高校時代のマドンナのことを歌った「準ちゃんが与えた今日の吉田拓郎への多大なる影響」は、ボブ・ディランの「ハッティ・キャロルの淋しい死」の替え歌である[6][23]
山本コウタローが1975年、自著「誰も知らなかったよしだ拓郎」出版にあたり拓郎に「歌謡曲でも何でもいいから、好きな曲を3曲挙げてくれ」との質問には『デソレイション・ロウ (Desolation Row)』『ジャスト・ライク・ア・ウーマン』『アイ・ウォント・ユー』と全てボブ・ディランの曲を挙げたという[214]
パクリとアンチテーゼ
特に初期の楽曲はボブ・ディランの影響・パクリを取り沙汰される。拓郎自身「おいしいメロディがある」[215]等、昔からインタビュー等で「盗作した」とはっきり発言をしており[200][216]小室哲哉との対談でも盗作(パクリ)談義が盛り上がった勢いからか、「いっぱい盗作しましたけどね」とはっきり言ってしまっている[217]
デビュー当時、東京カレッジ・フォーク関西関西フォークがあったため[43][203]、「広島のフォークソングがあったっていいじゃないか」という強い思いがあった[43]。関西フォークは元々が嫌いだったから[218]、関西フォークを研究し[43]、関西フォークは、"私たち""ぼくたち""きみたち"という歌詞が多いことに気づき[43]、それで、"私""ぼく""きみ"という私的な、個的な歌詞の歌を作ろうと決めた[11][43][218]。『イメージの詩』は、「岡林の『私達の望むものは』に感動はしたが、「"私たちは"と言えない。俺は"俺"っていう歌を作りたい」という意図で作ったと話している[219]

作詞法[編集]

字余りの作詞法[編集]

曲作りに多用した字余り字足らずという作詞法は[17][19][86][220][221][222][223][224]、日本に於けるその元祖といわれ[21][225][226][227]、後のシンガー・ソングライターに多大な影響を与えた[33][179][222][227][228][229][注 9]。それまでの日本の歌謡曲やポップスは、音譜1つに1つの字、とぴったりハマっており、多少の字余り、字足らずは気にしない[221][231]言葉を自由にメロディに載せる、あるいは日本語の歌を強引に捻じ曲げるという手法は当時は革命であり、これは拓郎によって始まったものである[33][221][232][233]。字余りソングは当時顰蹙も買ったが、それはメロディを超えて、訴えたいことがたくさんあったからである[177]。そのオリジナリティは半世紀近いキャリアを経た現在でも、全く衰えることはない[234]

拓郎はこの字余り、字足らず詞の創作について、1974年の芸能誌で言及しており、「言葉が七五調にすっぽりおさまっちゃうというのは、どこかにインチキがあるんじゃないかな。それには当てはまらない心のつぶやきとか、はみ出してくる感情のたかまりというものがあるはずでしょう。それは字余り、字足らずでなきゃ表現できないと思う」と述べた[235]小田和正は「昔は見よう見まねで歌詞を書いていた。でもある時、字余りソングみたいなものが出てきた。その象徴が吉田拓郎で、新しいものが出てきた瞬間だったと思う」と述べた[236]。ミュージカル・ステーションの創業者・金子洋明は、1991年のインタビューで「日本のオリジナル曲も充実してきて、日本語と海外のサウンドという問題についていえば、日本語の壁は破れたんじゃないかと思います。拓郎が歌ってた時は"字あまり"っていわれてたけど、今、サザンが歌っても"字あまり"っていわないでしょう」と述べた[237]小林亜星は、阿久悠の著書内の「歌謡曲のことば」というテーマ、作曲家から客観的に見た歌詞のルール、歌詞とメロディーの結びつき、という考察において、「ニューミュージックの隆盛期以来、日本語の扱いが随分変わりました。これは日本歌謡史上の大革命だったんです。吉田拓郎や井上陽水がやった革命なんです。それまでの日本の歌は、一つのオタマジャクシに一つの日本語の発音がはめ込まれていた。日本語って随分不便な言葉だなあ、と吉田拓郎あたりが考えて、一つのオタマジャクシで『私は』と言ってしまった。こんな歌い方はそれまで日本にありませんでした。日本人の感覚にないんですね、これがニューミュージックです。ニューミュージック以後、こんなふうにして言葉の扱いが変わってきたんですね。日本語でロックやポップスを歌ってもかっこよくなりました。ですから拓郎さんなんかの努力で、歌謡曲が非常にカッコよくなりました。ニューミュージック革命以後、日本語の発音は英語風になっているんですよ」と論じた[238]

音楽通とされる志村けんは、「日本語って、やっぱりロックに合わないんだろうねえ。でも、日本語を英語っぽく歌って成功したのは吉田拓郎じゃないかと思うんだよね。桑田佳祐よりも前ですね。それと、拓郎のほうがビートルズっぽかったですね」と論じている[239]赤坂泰彦は「言葉を詰め込むというか、むしろ字余り的な、拓郎さんが書く曲から日本語の歌が変わっていって、後のサザンオールスターズ長渕剛さんなども影響を受けていると思う」と評した[33]

拓郎の「字余り字足らずソング」については、同業者の中に批判する者もあり、赤い鳥は1974年のインタビューで「ただ言いたいことを言いたいんだったらシャベればいいんであって、音楽を使ってやっているんだったら、それは音楽に対する冒涜」[240]成毛滋は「だいたい "字余りソング" なんていうのはリズム音痴だから平気でできるんで、リズム感のいい人だったら気持ち悪くて聞いてられない。だけど、それをお客もやる方も喜んでやってるんだから、リズム音痴に向いてる音楽じゃないかって思う」と批判した[241]

です・ます調の普及者[編集]

作詞やラジオパーソナリティとして多く用いた「〜なのです」「〜なのだ」「〜であります」「〜でありまして」「〜でありました」などの言い回しは、です・ます調(デス・マス調)と呼ばれ、松本隆とともにその「普及者」といわれる[221][242][243][244][注 10]

拓郎の場合は、曲作りだけでなく、多くのラジオレギュラーでもこのような言い回しを多用し、当時のフォーク少年にこの口調を真似られた[246]。拓郎自身は自著で「深夜放送でのシャベリ口調は言葉の遊びとしてやたら連発した」「その後、歌謡曲や小説、誌面の見出しなどに"です・ます調"が増えた」「僕は音楽シーンにおける"です・ます"はひとつの革命と信じる。確実に歌の世界が広くなった」 と述べた[247]。こうした言葉の使い方は歌謡界、職業作家にも影響を与えた。穂口雄右が手がけたキャンディーズの「春一番」は、他の穂口作品の中で色合いが違う"です・ます調"で作られており、拓郎からの影響を指摘する論調が出た[244][248][249]

その他[編集]

他の作詞法として、平坦な話言葉を使い歌詞を組み立てる、起承転結の形式を解体し独特の言葉の反復でリズムをつけていく、といった方法論も斬新で画期的であった[250][251]。他に「コードリズムの上に、歌詞をのせていくような」「メロディを歌うというよりも、詩を語っているような」「アドリブで歌っているような」という表現もされた[231]

南こうせつは「僕らが『ああ夕日が綺麗だね、君のこと愛してるよ』とかという詞が多かったのに『これこそはと信じられるものがこの世にあるだろうか!?~』って初めて聴いて、そんなことを詞に平気にして歌うっていう、カッコ良かったし、ショックでした。衝撃のシンガーソングライターでした」と拓郎を評した[252]小西康陽は「拓郎さんの『今日までそして明日から』をはじめて聴いたときのインパクトは凄かったです。ほかの作品とは比べものにならないくらい、言葉が入ってきたんですよ。僕はザ・フォーク・クルセダーズジャックス岡林信康も聴いていたんですが、それらとはまったく違うインパクトがありました」と述べた[253]ROLLY山本恭司は「『青春の詩』を初めて聴いた時、心の深いところに突き刺さった」等と述べている[180]かまやつひろしは「日本人は特にサウンド志向だから、僕なんかもサウンド志向でした。だからフォークはあまり知らなくて、60年代中頃に流行していたカレッジ・フォークが大嫌いで、いとこの森山良子に『ヤメロ』と何度言ったか分からないんです。ところが吉田拓郎さん以後のフォークの詞ってちょっとブラックでね、苦笑しちゃうような。そこに惹かれたんだな。だけどフォークがメジャーになるとは思いませんでした」と述べた[254]鮎川誠は「高田渡や吉田拓郎や友部正人たち、フォークの人たちが日本語で歌いよるの見とってね。僕らもブルースを深くまでかじって、これを生かして日本語のオリジナル曲を作った」等と述べている[180]小室哲哉は「英語を使わずに自由に表現する歌詞、何もかもかっこいい」と評している[180]

拓郎は篠島ライブを控えた1979年夏の芸能誌のインタビューで、当時世間からニューミュージックが「軟弱」とか「クラい」などと叩かれていたことに腹を立て、「篠島でやるのは、一晩、誰も知った奴のいない離れ島へ来れば、少しは親や家族などの周囲との関係も変わるんじゃないかと思ったことだ。篠島って海の中の小島から日本ってモンをもう一度見直せば、考え方にも何かの変化が起きるだろう。ようは自立しろ!ってことだ。若い連中、特に男が軟弱になっちまってるコトにイライラするんだ。今のニューミュージックっていわれてる連中のコンサートだって、聴きに来てるのは圧倒的に女だろ。男はどこへ行っちまったんだよ。そうしちまったのは、ミュージシャン側にももちろん責任はある。今のニューミュージックといわれる連中の歌の世界には、"ボク"と"アナタ"しか出て来ない。"オメエラ"の世界がないんだよ。それは主張、つまり主義=イズムが歌う側にないからだろ。イズムのない歌は演歌だよ。特に男の歌手が何で女言葉で歌うんだ?それは昔の演歌だよ。オレは聴いてられない。ニューミュージック何て名前が泣くよ。別に男だ女だとこだわるつもりはない。今はもう男も女も一緒よ。男が女性化してるんだ。だから"やさしさ"しかウケないんだな。この前『セイ!ヤング』に女の子からハガキがあって『拓郎さんのはウルサイ。最初から最後まで叫んでばかりいる』って書いてあってな。オレは納得しちゃったけどな。結局、快いやさしい声や音楽しか求めちゃいないんだ。歌には詩がある、なんてことをまるで考えちゃいないんだよ。オレは叫ぶ。それがオレの"歌"だからね」等と捲し立てた[255]。「ツッパリHigh School Rock'n Roll (登校編)」などの作者・横浜銀蝿は「一番影響を受けたのは詞の世界は吉田拓郎さん。拓郎さんの詞って温かくて好きなんだ」と述べた[180]

作曲法[編集]

「拓郎節」とも呼ばれる個性の強いメロディライン[編集]

拓郎のフォロワーが多く現れた理由としては、拓郎の曲がとっつきやすいといわれるテンションが少なくシンプルなコード進行であり、にもかかわらず非常に個性の強いメロディラインで構成されていることが考えられる[256][257][258]。フォークっぽい雰囲気を持ちながらポップでメロディアスな楽曲は[167][206][259][260]、オリジナル・ナンバーだけでなく、アーティストへの提供曲でも拓郎節が滲み出ている[93][163][222][261][262]

拓郎節、拓郎調とも称される独特のコード進行については、小室等との対談[263]や、小室哲哉との対談でその一端を言及している[264][注 11]近田春夫[265]は著書の中で、「無理のない曲で、シロウトにでも作れそうな、しかもプロを感じさせる作曲家こそ天才で森田公一と拓郎にそれを感じる」と述べている[266]喜多条忠は、拓郎を「当代一のメロディ・メーカー」と評価している[267]Charは「『Char meets ???? 〜TALKING GUITARS〜』での仲井戸麗市とのセッションで、JOHNNY, LOUIS & CHAR (PINK CLOUD) 1979年のライブ盤『フリー・スピリット』に収録されている「籠の鳥」という曲は、拓郎がよく使ったG#sus4から作った」と話している[268]小西康陽は、好きな作曲家として"歌謡曲作家としての拓郎"を挙げ[253][269]、「一発で拓郎の曲と分かる、オリジナルのメロディを持っている、素晴らしい才能」と評している[253]小林武史は、「あくまでこれは僕の見方ですけど、『吉田拓郎という作曲法』の人と言っていいんだと思う。何しろ、ものすごいオリジナリティがある。詞がウンヌンより曲作りがものすごい。それは『襟裳岬』一つ取っても分かる。拓郎さんもボブ・ディランから影響されているんだろうけど、Aメロ→Bメロ→サビじゃない構成も普通にあって、"何なんだろう、あれ?"って思う」と話している[270]福田和也は、「吉田拓郎はメロディメーカーとしても、すごい独特。『襟裳岬』は本当に"話し出す"みたいなどこにもないメロディラインで完璧にオリジナル山田耕筰のあとは吉田拓郎しかいないんじゃないか、と誰かが書いてた」と話している[271]佐藤良明は著書の中で、日本語によく馴染み、私的コミュニケーションの雰囲気を作りだす拍どりを「しゃべり拍」と名づけ、「これを1970年代の日本のうたに浸透させたのは、この拍どりを多用した拓郎らフォークシンガーの功績」と論じている[272]

歌唱法[編集]

山本コウタローは、声だけでなくビートの強さ、リズムの良さ、その上歌詞も素晴らしい一方で「イメージの詩」を歌いながら「マークII」のようなポップな曲も歌える幅の広さが衝撃的だったと話している。また自分の歌、メッセージ、スタイルを人にどう伝えられるか、どう守るかといった"自己プロデュース能力"が早くから秀でていたと話している[273]小坂忠久保田麻琴荒井由実などのバックでドラマーを務めた平野肇は、拓郎の『今はまだ人生を語らず』(1974年)のレコーディングに参加したが、「ペニーレインでバーボン」に於ける拓郎のボーカルスタイルに驚き、「こんなボーカルははじめてだった。ロックのセッションもずいぶんやったし、いろいろなタイプのボーカリストともやってきたけど、段違いのパワーを感じた。しかも日本語がこれほど突き刺さってくるという驚き。完璧にロックであり、ロックスピリッツに満ちた歌だった」と感想を述べている[274]織田哲郎は「日本のシンガーで声の説得力が最もあるのは拓郎さんであるというのが持論」と述べている[275]YO-KINGは「拓郎さんの男っぽさが魅力でした。独特の拓郎節とでもいうべきメロディー。そして、あの声はやっぱり凄いですよ。説得力というか、迫力というか。きれいに歌おうと思ってない。大声でしゃべっているような感じで歌っちゃうのが、かっこいいじゃんという啓示を受けた気がする」と述べている[276]。小栗勘太郎は「自分の周りの極私的なことしか描いていないのに、時代の雰囲気が伝わってくる。拓郎の歌のリアリティは、虚飾を排したシンプルな歌詞が直裁に伝わる旋律と拓郎の声の合わせ技の妙」と解説している[23]。拓郎自身は「東京に出てきた時、フォークソングというブームがあって、その中に入っていたので、フォークシンガーということになっちゃったけど、本来、僕はソウルシンガーだと自負している。シャウトを大事にしている」と話している[15]

こうした作詞法[注 12]や作曲法、テーマ設定[注 13]、楽曲アレンジ、歌唱法などは、その後の日本のフォークとロックに有形無形の影響を与えることとなった[注 14][12][24][46][158][180][200][206][258][292]渡辺プロダクションのお抱え編曲家だった東海林修は「旅の宿」が世に出たとき、ニューミュージックのパワーより、フォークやロックを回路して滲み出てきた日本の土着性を聴き分け「豆腐と障子紙以外に、はじめて日本のオリジナルが出た」と唸ったという。ナベプロにニューミュージックのセクションが創設されたのは「旅の宿」の大ヒットがきっかけ[293]。2022年6月13日放送のbayfmスージー鈴木とミラッキ大村の6の音粋』では、吉田拓郎の影響下にある楽曲を集めた「吉田拓郎のいない吉田拓郎特集」が組まれた[294]

多様な音楽ジャンルへのアプローチ[編集]

アマチュア時代は長くロックバンド(R&Bバンド)を組んでおり[2][41][49][59]ザ・ベンチャーズボブ・ディランサム&デイヴビートルズらを渉猟した拓郎は[295]、フォークのみに依拠したわけではない[2][3][160][296][297][298]田家秀樹は「フォークは吉田拓郎の登場で大きく変わったと思います。拓郎の曲には、ロックR&Bも入ってました」[299]高護は「吉田拓郎のサウンド・プロダクションはシンプルだったがフォーク・ロックを基調とする点で初期の岡林信康高石友也とは明らかに一線を画していた」と評した[18]佐藤剛は「吉田拓郎や井上陽水は、ロックやR&Bの洗礼を受けた新しい時代のシンガー・ソングライターたち」と論じている[100]。多様な音楽ジャンルの楽曲制作が認められるため[154]、元来、ポップス歌手でありフォークブームを巧みに利用したにすぎない、という論調もある[300]。吉田拓郎が初めてアイドル雑誌に取り上げられたのは『月刊平凡』1971年1月号と見られるが[301]、この記事に「吉田拓郎さんといっても、まだ知らない人が多いかも知れない。現在、広島商科大学に在学中の学生シンガーだ。(中略)今回のLP『青春の詩』は、作詞、作曲、ギター、歌、すべて彼ひとりの作品集。フォークとロックの絶妙なコントラストが、音楽界に新分野をもたらしている」と記述されており[301]、吉田拓郎はデビュー時から音楽性にロックの要素が含まれていたことは、後に音楽評論家が言及しただけではなく、当時のマスメディアからも認識されていた。拓郎は「僕自身、まったくフォークに心酔してなかったのに、岡林がフォークの神様って言われてたけど、それが何か僕の方へ押しよせてきた。しかも神様じゃなくてヒーローとして。広島から出てきたわけの分からん奴が、いきなりヒーローになってしまった。僕にはフォークっていうのは胡散臭く思えて仕方なかった。でもフォーク・ムーブメント自体、僕にはおいしかったんですよ」と話し[42]、1975年の小室等との対談では「『結婚しようよ』や『旅の宿』を作ったとき、(制作当時の)日本の音楽ファンは、耳ざわりな音より、快く耳に入ってくる音の方がいいと思った。ブラスがバンバン鳴って、エレキがギンギン入るより、アコースティックな感じで、音もなるべくシンプルにした方が、おそらく納得するだろうと思ったんだ」と述べており[302]、「僕はバンド出身なので、バンドサウンドにすごいこだわりを持っている」と話した[15]

中将タカノリは「それまでのフォークは弾き語りに毛の生えた程度の音楽が多かったんですが、拓郎さんはR&Bやロック・ポップスなどの知識に長けた人だったから、音楽的にも単なる弾き語りだけじゃなくバンドサウンドにこだわり、フォークをポップスに昇華する役割を果たしたと思う」[86]篠原章は「『青春の詩』で試みた反体制イディオムと青春歌謡を直結させる手法は新鮮で、後のロッカーもこの手法を無意識に踏襲している」[303]相倉久人は、1976年6月14日、21日号の「日本読書新聞」に掲載した「日本語ロック」に関する評論で「アメリカの物まねからスタートしたフォークが、吉田拓郎や泉谷しげるたちの成功によって、ロックやソウルにさきがけて、現代にふさわしい日本語的な表現に到達した」[304]スージー鈴木は「吉田拓郎は二面性があって、非常にポップで都会的な曲を作って、ビートルズの洋楽性を日本の音楽界にもたらした人間でもありながら、日本の土着性を表現した曲もたくさん歌っている」[30]北中正和は「吉田拓郎の音楽の衝撃は、短音階の曲とロック的なサウンドを結びつけたこと」と論じている[160]。矢沢保は「吉田拓郎は、もともと真のフォークソングとは何の関係もない歌手だが、全共闘の協力でLPを出したのを出発点に、CBSソニーという大資本に乗りかえて、自分の身体もろとも、フォークソングを売り渡し、すっかり『現代歌謡曲』にしてしまった。拓郎の場合は、かつて全学連委員長だった香山健一学習院大学教授におさまりかえって自民党走狗になり下っているのと、あまりにも似ているように思います」と批判した[305]牧村憲一は「拓郎さんは大きく分けるとフォークの世界の人なんですけど、彼の果たした役割というのは、サウンドの世界とフォークの世界のちょうど中間に立ってて、両方をうまく仲介できた」と述べている[306]イルカは「フォークもロックも、後ろで支えていた人たちは交流がありました。初期の矢沢永吉さんのスタッフの中には吉田拓郎さんを支えていた方が入り交じっていました」と述べた[307]スペクトラムの元メンバーで、KUWATA BANDのリーダーを務めた今野拓郎(今野多久郎)は、「吉田拓郎の歌に出会って"男"とはこうあるべきだということを、中学生の私は初めて考え、学んだように思う。『元気です。』のアナログ盤を四六時中聴き、ギターをかき鳴らした私はその後もずっと吉田拓郎の歌を"元"に人生を生きてきたと感じている」と述べた[158]スージー鈴木は「あくまで個人的意見として、日本の“ロック人”を3人に絞るとすれば、吉田拓郎、矢沢永吉桑田佳祐。そして、たった1人選ぶとすれば――桑田佳祐」と論じている[308]。但し、「吉田拓郎は矢沢永吉や桑田佳祐の登場以上の社会的現象だった」と述べている[309]。拓郎と陽水によって成されたフォークメジャー化の流れが[23][26][310]ニューミュージックジャパニーズロックへつながっていく[26]

桑田佳祐は、拓郎の歌謡曲的な部分、コマーシャルソングの音作りに共感したことを曲作りを始めるきっかけとして挙げている。

1988年に拓郎の「たどりついたらいつも雨ふり」をカバーした氷室京介は、物心ついて最初に聴き始めた音楽は、洋楽ではビートルズ、日本では吉田拓郎であるとあかし、自身の中で拓郎はロック歌手であり、ボブ・ディランとかニール・ヤングとかと変わらない存在であると話している[311]

スピッツ草野マサムネは、バンドを一時休止するほど、THE BLUE HEARTSに大きな衝撃を受けたと話しているが [312]、「THE BLUE HEARTSを最初に聴いたとき、自然な日常の言葉に拓郎みたいなものを感じて、大きなショックを受けた」と話している[312]

アルバム製作[編集]

ロックバンドと共同でのアルバム制作
1stアルバム『青春の詩』の製作にあたり、エレックレコードの専務兼プロデューサー・浅沼勇は自身が審査員を務めたヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト第2回のボーカルグループサウンド部門で優勝したマックス[注 15]を起用した[59]
スタジオ・ミュージシャンと呼ばれるプロが歌謡曲歌手の音作りを専門としていた当時では、ひとつのロックバンドがアーティストと綿密に打ち合わせをしながら音を作っていく、という画期的なレコーディングであった[313][注 16]
浅沼はマックスを起用した理由について「拓郎のフォークの荒削りな良さを消さず、拓郎ワールドを創っていけるタイトなリズムを持つバンドが必要と考えた」と述べている。
アルバム・セールス時代の先鞭
1972年7月21日にリリースしたLPレコード(アルバム)『元気です。』は、フォーク系、ニューミュージック系シンガーとして、またシンガーソングライターとしてオリコン史上初の1位獲得アルバムである。それまでの1位獲得アルバムは、演歌女性アイドルか、洋楽に限られていて、演歌以外の男性歌手としても初の1位獲得であった[21]。アルバムが売れない時代に[注 17]、1ヶ月間で40万枚を売り上げるというシングル並みのセールスを記録[23][316]、オリコンアルバムチャートで14週連続(通算15週)1位を独走しアルバム・セールス時代の先鞭をつけた[317]。アルバムがシングルレコードの寄せ集めではなく、アルバムとして一つの主張をもった作品として考えられるようになるのは、拓郎や小椋佳井上陽水らフォークシンガーの良質なアルバムの制作と大ヒットからである[318]
ライブ・アルバム
拓郎が人気者になった理由の一つに喋りの面白さが挙げられる[319]。また拓郎の独特の口調「○○でアリマス」などの言い回しもよく流行った[320]。1973年に本格的なブラス、ストリングスを加えて行われたライブを収録したアルバム『LIVE'73』は日本のレコード史上最初の本格的なライヴアルバムともいわれる[321][322]。このライブで歌われた楽曲は大半が新曲[220]。まだステージで一度も歌ったことのない新曲をライブで披露するという試みも前例のないものであった[323]。つまりライブ盤なのにスタジオ盤の気概を持つ[220]

ライブ形式の確立[編集]

プロデビュー以来"ライブの拓郎"としてライブの型を日本の音楽界全体に確立させた[324]

コンサート・ツアー
1973年10月[325]、タレント売り出しに何千万もかけてテレビ中心に売り込みをかける当時の業界への反発から、日本のミュージシャンで初めてPA、照明などのスタッフを帯同しての全国ツアーを敢行する[15][21][27][108][325][326][327]。当時はイベンターという職業はまだなく、当時のコンサートは地方の有力者などが主催し[15]、フォークソングといわれている人たち10組とかを寄せ集め、1人10分、15分の持ち時間で歌を歌わせていた[15][325]。拓郎は「主催者は音楽を分かってない。10分で吉田拓郎は分からない。そんな環境で歌えるか、最低でも2時間ぐらい歌わないと分かってもらえない」という反発心が、単独ツアーをやりたいという発想に結びついた」[15]、「旧態依然とした芸能界とか歌謡界が日本の音楽をつくってきたとしたら、そこに一つ区切りをつけて『これからは違う』というのをやってみせたかった」と話した[15][27]。当時、この手法は色々と困難であるという指摘を受けたという。実際、会場が取れないなどの軋轢も生んだが、やがてこのシステムが一般的となった[328]。このことは、従来地元の興行師が仕切って来た運営が縮小し、各地のコンサートプロモーターの誕生につながり[88]ぴあに代表されるチケット事業、情報サービス事業など、新たな産業を生み出した[329][330]後藤由多加は「1970年代の初めに、拓郎を中心に俺達の時代をこれからつくっていくんだと、地方のプロモーターの方々はみんな思ってくれていた」と述べている[88]。また、1973年11月2627日に東京中野サンプラザホールで行われたライヴ音源はアルバム「よしだたくろう LIVE '73」として発売されている[220]
大ホール連続公演
1973年10月に神田共立講堂で2日、渋谷公会堂で同じく2日と4日連続で行われた公演も今では珍しくない大ホール連続公演の日本でのさきがけと言われる。最初は日本武道館で1日だけと考えていたが、拓郎自身が「雰囲気もいや。音楽やるのに向いてない」と武道館を嫌い、別の同一会場で、当初1週間連続を計画したが、会場の都合が付かずこのような形態になった[331]
元祖夏フェス
1975年8月2日3日に開催された「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」は画期的なものだった[15][21][27][88][332][333][334]1985年7月27日から7月28日にかけて「吉田拓郎 ONE LAST NIGHT IN つま恋」を開催した。自身二度目のヤマハリゾートつま恋でのオールナイトコンサートで、1975年・2006年に同所で行われたコンサートがかぐや姫との共同であったのに対し、1985年は単独でのコンサートとなった。2006年9月23日、31年ぶりにつま恋かぐや姫と「吉田拓郎 & かぐや姫 Concert in つま恋 2006」を開催した。
離島イベント
1979年7月26日27日に行った篠島コンサートは、一つの離島を借切るというイベントで、日本のコンサートでは史上初の試みであった[注 18][15][335]。先のつま恋と合わせ、常識を覆して深夜に人を集めるという方法で成功を収めた[336]。ゲストに小室等長渕剛を迎え、2万4千人を集めた。デビュー2年目の長渕が一時の拓郎のように「帰れコール」を浴びながら最後までステージを押し通した話は長渕の有名なエピソードである[46][337][338]

音楽ビジネスへの影響[編集]

テレビ出演拒否[編集]

1972年「旅の宿」のリリース中に「テレビ出演拒否」を行った[14][23][32][83][234][339][340]。理由は、テレビを最大限利用した藤圭子のような既成のプロ歌手とは逆の「テレビを拒否したところにいるプロ歌手でいよう!」と考えた意地だったと述べている[341]。「テレビ出演拒否」は、拓郎を神格化させた大きな要素となるという見方もある[342]。また、紅白歌合戦の出演について、NHKは1972年にアプローチしたが出演を拒否した[197]。この年、若者に人気の拓郎に距離を置いていたNHKもにわかに注目[103]。NHK芸能局歌謡曲担当の藤村主管は[197]、1972年4月から「NHKの歌番組に出て頂きたい、『ステージ101』に出演して欲しい」と拓郎を口説いたが、「ついては局の内規でオーディションを受けて頂きたい」と頼んだため、以前藤山一郎に落とされている拓郎に「今更受け直すつもりはない」と蹴られた[103][197]。藤村はこの年、10月31日に神田共立講堂であった拓郎のリサイタルに足を運び、ますます拓郎に惚れ込み、11月6日に拓郎の歌の入ったテープの提出をもってオーディション合格の形を整えた[197]。折柄、紅白歌合戦のメンバー決定時期となって、拓郎に紅白出場を要請したが「"紅白"はお祭りだ、と考えようとしても無理がある。あの顔ぶれには年功序列的なものを感じるし、一種の同窓会じゃないのか。だったらぼくは同窓生じゃないから行く必要がない」と吹き、出演を拒否した[197]。以降、ニューミュージック系の歌は紅白では聴くことができないという常識が定着した[343]。藤村は粘りに粘り、紅白から『歌謡グランドショー』に切り替え、「企画コーナーとして5曲歌って欲しい」と提案[103][197]。拓郎は「5曲なら悪くない」と出演を承諾し、1972年12月12日放送の『歌謡グランドショー』でNHK初出演した[103][197]。1曲のみ拓郎の独演、4曲は井上堯之グループ(原文ママ)をバックに歌った[197]。番組視聴率は通常の1・5倍になった[103]。藤村は「彼は現代の英雄、フィーリングだけじゃなく、歌に対する姿勢、考え方が実にしっかりしている。歌謡曲歌手とはちょっと違いますね」と唸った[197]

『ゴールデン歌謡速報』(フジテレビ)出演時には、「1曲では僕が分ってもらえない」とし、3曲歌うことを条件に出演した。

歌番組への出演を拒否した拓郎のために、テレビサイドは異例のコンサート中継をオンエアした[344]。女性誌から週刊誌、月刊誌、ゴシップ誌、新聞と取材申し込みが殺到したが[341]、「自分のいいたいことが正確に伝わらない」とマスコミ取材拒否も行った[14][345]

「テレビ出演拒否」「マスコミ取材拒否」「人気絶頂期の結婚」など、拓郎はそれまでのタブーを破り、フォークにポリシーを持たせることで、歌謡曲とは違うという鮮烈なイメージを持たせ若者の心をとらえた[295][345][346]。拓郎のテレビ出演拒否を受け、フォークシンガーの多くが同様にテレビ出演を拒否した[341][347]。これは各所属事務所、あるいはレコード会社の戦略によるものであった[339][注 19]。拓郎のテレビ出演拒否は後のテレビ界に大きな影響を与えた。1978年から始まった『ザ・ベストテン』は、テレビに出ないニューミュージック系歌手の曲を紹介したいというコンセプトで始まった番組であったが[349]、『ザ・ベストテン』はこれを逆手に舞台裏の事情を逐一報道、芸能ニュース番組化することで話題を呼んだ[350]相澤秀禎は「テレビをあえて拒否し独自の道を進んだ吉田拓郎らニューミュージック系歌手のやり方は、それを貫いたことで成功し定着した。これは多様化しはじめた宣伝作戦の方向性を指し示していたといえる」と述べている[351]

1986年に『メリー・クリスマス・ショー』への出演オファーがなされたが、拓郎は「司会だったらやってやるよ」の一点張りだったため実現しなかった。桑田佳祐は拓郎に歌での出演を希望していた[352]

1996年から音楽バラエティー番組『LOVE LOVEあいしてる』にレギュラー出演し、ジャニーズ事務所アイドルKinKi Kidsと共に司会を担当したことで、他のミュージシャンの歯止めが取れたという側面もあった[353]。「出てもいい」と思った大きな理由として、かつては多かった横暴な芸能ディレクターは減り、ミュージシャンに対して理解のあるディレクターが増えたという「テレビの現場の変化」を挙げた[353]

フォークの地位の向上[編集]

フォークとロックをビジネスとして確立し、日本で自作自演の音楽を普及させる大きな原動力となった[6][18][100][354][355][356]。多くの改革により、今日では「普通」となったミュージシャン像を作り上げた[8][15]

1971年10月、アーティスト主体の音楽制作を目指し、拓郎と後藤由多加が中心となってプロダクション「ユイ音楽工房」を設立した[93][105][357][358]。最初に就職したエレックレコードは、専属アーティストではなく社員契約で[43]、レコードは何枚売れても関係なしの月給制会社員だった[43]。エレックは通信販売の会社だったため、自分のレコードを自分で梱包し宛名書きして郵送していた[43]。ステレオなどの新商品の全国キャンペーンに帯同して、機械の前座として店頭で歌うこともあった[81]。拓郎の作品には作詞作曲、歌唱の印税保証はなく[43]、後藤に聞かされ初めて歌にそういう権利(印税)がある事を知った[359]。当時のアーティストでそうした著作権関係を知る者はおらず[360]、会社から「お金のことを言うな」等と押さえ付けられていた時代[360]。当時の音楽業界はレコード会社の権限が圧倒的に強く、自作自演が中心だったフォークとは無縁のようでいて、年3枚のアルバム契約の縛りや、自身の意向とは無縁のシングル盤リリースなど、対レコード会社との力関係は圧倒的にアーティストに不利だった[361]。拓郎が1972年1月、CBSソニーに移籍した際、莫大な印税が振り込まれ驚き、アーティストの権利について初めて本気で考えたといわれる[361]。アーティストの権利意識とビジネスとしての確立はここに端を発す[361]朝妻一郎は「加藤和彦さんで1番大きかったのが僕に吉田拓郎さんを紹介してくれたことです。『朝妻さん、吉田拓郎って絶対売れますよ』って教えてくれたり。加藤くんからのインプットがなかったら、僕も今みたいになってなかったことは確かです」と述べた[362]

1976年2月15日からTBSの「サンデースペシャル」枠で、久世光彦企画による音楽番組「セブンスター・ショー」が、日曜日の19時30分〜21時というゴールデンタイムで、7週にわたって放送され[363]、7人(組)のトップスターがスタジオでワンマンライブを披露した[364][365]。第1週の沢田研二から、森進一西城秀樹布施明かまやつひろし荒井由実五木ひろしという並びで[364]、拓郎はシングルリリース直後の3月28日放送で"トリ"を務め[363]、フォークが市民権を得たことを如実に現した[365]マスメディアでの拓郎の露出の増大は、日本の音楽シーンでフォークの存在感を高め[366]、音楽誌でも従来の洋楽中心から次第に日本のアーティストのページを増やすこととなった[367][368]。「ヤング・ギター」初代編集長の山本隆士は「拓郎に出会わなかったら『ヤング・ギター』はなかったと思う」と述べている[369]。「ヤング・ギター」は、拓郎の才能をいち早く認め、デビュー前から頻繁に誌面で紹介し、強力に応援した[370][371]。小説家の盛田隆二は「いつか拓郎の本を作りたい」とぴあに入社し、拓郎が出演した映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』(1986年公開)と連動した『THE BOOK OF Ronin』(ぴあムック・1986年刊)を企画し編集長を務めたという。『新譜ジャーナル』最後の編集長だった大越正実は、「高校時代に聴いた拓郎のアルバム『ともだち』から自身の拓郎大バカ人生が始まり、それが高じて編集長まで務めてしまった」と話している[372][373]

拓郎を入口に音楽の世界に導かれた人物は、出版、音楽関係者[374]、ミュージシャンなど数多いが、テレビの音楽関係者の代表的な人物がきくち伸である[375][376]

コマーシャルソング[編集]

ニューミュージック系歌手によるCMソング製作のはしりである[377][378]。早くからCMソングを自作自演し、反商業主義のプロテストソングと一線を画した[295][379]1960年代の異議申し立ての運動と連動していたフォークにおいては、CMソングを作り歌うなどということは、商業的で否定されるべきことだった。拓郎にはそんなこだわりはなく、フォークソング対CMソングといった対立は、まったくなかった[380]

僕の旅は小さな叫び
CMソング第一号は1971年歌唱のみの「僕の旅は小さな叫び」[381][382]松下電器産業Technics」の立体オーディオ「4チャンネルステレオ」(SC-1550N) の発売に伴い、当時松下電器の宣伝事業部の堀川靖晃が、作詞・山川啓介、作曲・編曲を渋谷毅に依頼してCMソングを製作することになった。本CMソングは、「僕の旅は小さな叫び」という曲であり、作詞期間4週間、制作費約100万円と当時のCMソングとしては多額の費用がかかった[381]
この年は他にSEIKOタイアップシングル「サヨナラ僕は気まぐれ」(作詞・作曲・唄。B面「青春の終わり」は作詞・作曲が拓郎で、唄がピピ&コット、三越とのタイアップシングル、非売品)を手がけた他[381]中外製薬の『新グロンサン』のCMソングを歌い、ACC全日本シーエム放送連盟)全日本CM フェスティバル・シンギング部門で入賞[383]
HAVE A NICE DAY
1972年には「旅の宿」のヒットに目をつけたフジ・フイルムが拓郎にCMソングの製作を依頼し、拓郎作詞・作曲・歌によるCMソング「HAVE A NICE DAY」を放送した(背景には1970年から国鉄の“ディスカバー・ジャパン”キャンペーンが始まっていたことがある)[378][382][384][385]。彼のしゃべり言葉をそのまま生かし、歌に合わせて若者が自由にポーズをとるという内容が、この広告をヒットさせる大きな要因となった[386]。"HAVE A NICE DAY"は流行語にもなった[387][388][389]。『Have A Nice Day』第一弾(気ままに写そう編)に続き、『Have A Nice Day』の第二弾(天然色写真編)は、全編広島弁の歌詞で歌われており、方言で歌われたCMソングとして先駆的なものとなる[386]。CMの作詞作曲料は85万円[381]

1972年、「僕の旅は小さな叫び」で前年に続きACC全日本CMフェスティバル入賞[390]。同年、りりぃ山発産業フェミニンのCMソングを提供し、スバル・レックス富士重工)のCMで「僕らの旅」を自作歌唱した[382][384]。このスバル・レックスのCMもテレビ・ラジオで大量露出し、当初はソノシートの非売品だったが反響が大きく、後にレコード盤が製作された[381][391]

これら全てのCMソングのソノシート、あるいはレコードは、全てステレオ購入者のオマケや、懸賞のプレゼントなどの非売品で、正規にレコード発売された物はない。当時はCMソングをレコード化して商売として売り出すという発想がまだない時代であった[381]

これらをきっかけに企業はフォーク・シンガーをCMに起用するようになった[392]広告の世界とは交流のなかったフォークやロックのアーティストがCMに関わるようになったのは「HAVE A NICE DAY」が成功してからである[387][393][注 20]

小川博司は、「吉田拓郎がこの時期手掛けたCMソングはフォークの日常感覚により活性化された。逆に、商業主義的なものとは無縁の存在で、そこに自らの存在理由を見出していたフォークは、CMの世界に一歩踏み込み、ここでも方向転換をとげた。この後フォーク対歌謡曲、広告音楽対レコード流行歌といった区分は、ますます曖昧なものとなり、CMソングがレコード化されることも頻繁になった」と論じている[396]

桜井哲夫も、「吉田拓郎が『フォーク』と『歌謡曲』の区分を壊したこと、CMソングに進出したこと、この二つの点こそが拓郎以後を特徴づけることになった。フォーク対歌謡曲、CM音楽対レコード流行歌といった区分は揺らぎ、融合してゆくことになった」と論じている[397]

音楽プロデューサーとして[編集]

ミュージシャン系プロデューサーの先駆[編集]

小室哲哉つんくのプロデュース活動が活発になった頃、ミュージシャン系プロデューサーの先駆者としても紹介された[398]。拓郎は"日本初のミュージシャン兼プロデューサー"と評される[108]。拓郎がフォーライフを設立した理由もミュージシャンがプロデュース権を強く持つ、プロデューサーシステムの確立を目指してのものであったし[399]、拓郎自身、プロデューサー業を手掛け始めた1972年頃からすでにプロデューサー業に対する強いこだわりを持ち、1976年の自著『明日に向かって走れ』でも、プロデューサーとは何かとの持論が長く語られている。職業作詞家との多くのコラボレーションは拓郎が初めてである。現在では見られないR&B+ 浪花節をベースとするコンポーザーである[400]

楽曲提供だけではなく、他のアーティストプロデュースとしての最初の仕事といえるのは、同じ事務所に所属していたかぐや姫の1972年4月、実質デビューアルバム『はじめまして』と、同年7月、CBSソニーとアーティスト兼プロデューサーとして契約を結んで、個人レーベル『Odyssey』を立ち上げ[84][97][106]、同じレコード会社ソニーのをプロデュースしたのが最初[6]

特に積極的だったのが女性アイドルのプロデュース[401]。「東京へ出てきてからの音楽活動で何が楽しかったって、アイドルの作曲ほど楽しいものはなかった。アイドルたちと一緒にスタジオに入って作業する。『歌って、こういうふうに歌うんだよ』なんて教えるときの気持ちよさといったら、もう」等と述べている[401]

新旧の音楽界の交流の活性化[編集]

森進一に提供した「襟裳岬」の大ヒットをきっかけに渡辺晋は、拓郎の楽曲の実力を買って、キャンディーズなど多くの自社所属歌手への楽曲提供を拓郎に依頼した[402]渡辺プロダクションは、これを機に布施明小椋佳の「シクラメンのかほり」(1975年)、三木聖子荒井由実(1976年)の「まちぶせ」など、他社に先駆け積極的にニューミュージック系ミュージシャンの起用を行った[356][403][404]。これ以降、楽曲を媒介にして旧勢力と新勢力の両者は交流を始め、演歌界を含む歌謡界がニューミュージック系ミュージシャンの楽曲を取り上げることがブームになり定着していった[405][406]。これはニューミュージックという言葉をより曖昧なものとしてしまった原因の一つでもあるが、この後阿久悠筒美京平のように歌謡曲側の作家が、それぞれ桑名正博Charのようなニューミュージック側の人に曲作りをするという現象も多くなった[407][408]。またCMソング作家だった小林亜星が作曲し、阿久悠が歌詞に「です・ます」調を取り入れた[242]北の宿から」が1976年第18回日本レコード大賞等を受賞するというようなケースも出てきた[409]。「襟裳岬」の前までは演歌系歌手は演歌系作家が作る、のようなはっきりした図式があった[410]。これらはフォークが歌謡曲に取り込まれた、歌謡曲化したともいえるが、フォークがアンダーグラウンドから脱し市民権を得たともいえる[405][411]。「襟裳岬」が世に送り出されていなければ、今日のJ-POP自体がかなり異なったものになっていた[261]。「襟裳岬」は両者が邂逅した記念碑的作品であった[405]。拓郎は同年、浅田美代子に「じゃあまたね」を小柳ルミ子にも「赤い燈台」を書き下ろし、シンガーソングライターとアイドルの蜜月という架橋を同時に築く。歌謡曲の進化をもたらした異業種混合のコラボレートの歴史は拓郎の偉業から始まる[242][400][412][413][414][415]。この後、"日本初のアーティストによる"レコード会社フォーライフを立ち上げ、原田真二をプロデュースして、ロックのアイドル化、メジャー化にも貢献[416][417][418]

かまやつひろし
かまやつひろしとのコラボレーション、1974年、デュエットシンシア」、1975年のオリコン1位「我が良き友よ」は、拓郎ファンだったかまやつが「一緒にやろう」と長年、拓郎を口説いて実現させたもの。
こうしたロック、演歌やアイドル歌手を含む歌謡曲、子供番組などとのコラボレーションを含めて異種組み合わせの突破口を開いた先駆者でもあった[400][419][420]。「シンシア」は、拓郎がファンだった南沙織へのオマージュ曲で[421]、同時代に活躍したアイドルの名前・愛称をタイトルに付けて唄うという珍しい楽曲[422]。『ミュージックフェア』で共演もしている。
キャンディーズ
1977年、渡辺晋から「キャンディーズを大人にしてやってくれ」という依頼を受け[86]キャンディーズ の「やさしい悪魔」と「アン・ドゥ・トロワ」のシングル2曲を含む4曲の作曲を手がけた。
もともと拓郎はキャンディーズファンで、キャンディーズのブレイク直前に自身の番組『吉田拓郎のオールナイトニッポン』にゲストで呼んだり(1975年3月4日、ミキちゃんは風邪で欠席)、特にスーちゃんファンで[423]、やはり『オールナイトニッポン』」にスーちゃんを単独でゲストに呼んだこともある[424]。またキャンディーズが解散宣言をした時「アン・ドゥ・トロワ」のレコーディング中、「本当に解散するの?」と聞いたら、3人口をそろえて「申し訳ありません、事務所を通して下さい」と言われたと自著に書いている。ただし拓郎のアルバム『ぷらいべえと』のジャケットの女の子の絵は、拓郎が週刊誌で見たランちゃんを書いたと言われている[425]。女の子は「やさしい悪魔」のジャケットのランちゃんに似ている[426][427]
「やさしい悪魔」は音域の広い難曲で、歌のうまいキャンディーズもレコーディングに苦戦した。これはキャンディーズファンだった拓郎が、レコーディングでキャンディーズに歌唱指導をしたいがために、わざと難しくしたと噂が出た[86][428][注 21]。「やさしい悪魔」は、それまでのキャンディーズの清楚なイメージを一新、“デビルサイン”を含めた斬新な振り付け、“大人化計画”に応えた詞曲で、キャンディーズ最大のヒットになった(最終的には「微笑がえし」、「わな」に次ぐ3位)[430]。キャンディーズ自身はこの曲を「私たちの代表曲」と話した[428]。後期キャンディーズは、拓郎抜きに語れない[261][431]。拓郎も「やさしい悪魔」を自身のアルバム『ぷらいべえと』で、「アン・ドゥ・トロワ」は『大いなる人』でセルフカバー、後者はキャンディーズが解散宣言(1977年7月)した直後のリリースだったため、サブ・タイトルに「ばいばいキャンディーズ」と付け、歌のラストで「さよならキャンディーズ」と歌った[432][433]
このシングル2曲の他に、「やさしい悪魔」のB面「あなたのイエスタデイ」、1977年暮れに発売された5枚組アルバム『キャンディーズ1676DAYS』に収録された「銀河系まで飛んで行け![434]」(いずれも『GOLDEN☆BEST キャンディーズ』に収録)を提供。なお「銀河系まで飛んで行け!」は、事務所の先輩・梓みちよが気にいり、同曲を自身が先にシングルカットしてしまったため、キャンディーズがシングルで出せなかったとされる。
1980年代の松田聖子とシンガーソングライターのコラボは、「独創的なシンガーソングライターとアイドルのコラボは予想を超えた新しい世界を生み出す」という、この拓郎とキャンディーズのコラボの方法論を踏襲したもの[435]
梓みちよ
梓みちよのレコーディングでは「アナタは歌がうまいから困るんです。僕としては、もっと下手に、そう、思い切って下手クソにやってほしいんです」と言うと、梓は『メランコリー』を目一杯下手クソに歌って一言、「これでいいわけ。フン、変なの、アンタたちの音楽」と言ったという[436][437]。この曲の作曲は拓郎だが「緑のインクで手紙を書けばそれはさよならの合図になる」と書かれた喜多条忠の作詞もヒットした。それまでフォークの作詞家だった喜多条に「お前に歌謡曲の作詞はムリだろ?」と言う拓郎の挑発に喜多条が奮起して作詞を手掛けたもの[438]1976年、梓も紅白歌合戦で歌う際、この曲の短縮を要求されNHKともめたが出場した[439]
原田真二
フォーライフ第1回新人オーディション(1976年)に応募してきた原田真二は選考段階では不合格であったが、興味を示した拓郎が課題を再提出させ[440][441]、原田の高校卒業と上京を待って1977年10月、拓郎プロデュースにより「てぃーんずぶるーす」でデビューさせた[78][84][86][416][417]。デビューにあたり原田の部屋探しから、原田の曲作りのため松本隆瀬尾一三を交えて合宿させたり[442]、プロの作曲家というものが、いかに綿密な計算をしたうえで楽曲を創作しているかを説明するため筒美京平を盛んに聴かせたり[441]、もともとギターを弾いていた原田を当時は珍しいピアノの弾き語りに変えたり、拓郎自身が始めた「ニューミュージック系の人達はテレビに出ない」という風潮の時代に、原田には一転、パブリシティのためラジオ・テレビの出演や雑誌の取材を積極的に用意した[443][444][445]
こうした戦略が功を奏し、シングル3曲が同時にオリコンベスト15位入り[注 22]、ファーストアルバム「Feel Happy」が史上初のオリコン初登場第1位(4週連続)を獲得する快挙を達成し[84][447]、フォーライフの危機をも救った[448][449]。また原田はヤマハ出身の世良公則&ツイストとともに、女子中高生を中心に爆発的人気を呼び、それまでの"日本のロック系ミュージシャン"には付いていなかった女性ファンを開拓し新たな潮流を生み出した[444][450]。"日本のロック"のメジャー化に多大な貢献があった[418][451]アミューズは、渡辺プロダクションを退職した大里洋吉が、原田を売り出すために設立したもの[452][453][454]
石野真子
石野真子については、阿久悠が他のアイドルとは違う売り方を考え拓郎に作曲を依頼した[455]。石野はフォークソングが好きで拓郎のファンだった[456]。「狼なんか怖くない」のレコーディングでは、唄えば唄う程上手くなると石野を徹夜で励まし、デビューに賭けたスタッフからは、レコーディングが終了すると大歓声が上がった[457][458]。曲の音程の上がり下がりが難しくレコーディングに8時間かかったと石野は話している[459]。拓郎の曲は難しいとキャンディーズも話していた。
吉田は石野真子に対して、デビューシングル「狼なんか怖くない」「ひとり娘」、2作目「わたしの首領」「いたずら」、そのほか「ぽろぽろと」、「ジーパン三銃士」(すべて作詞は阿久悠)を提供した。
なかにし礼
1977年、なかにし礼にアルバム製作を依頼し、なかにしが全曲作詞・作曲・歌唱したアルバム『マッチ箱の火事』がフォーライフから発売された。このアルバム中の「時には娼婦のように」が翌年、シングル・カットされ、なかにし歌唱の盤と黒沢年男の盤との競作となり、いづれも大ヒットした[460][461]。歌詞が際どい内容で、黒沢も尻込みして嫌がる程であったが「賛同者は拓郎一人だけだった」となかにしは話している[461]。本曲は、すべてのテレビで放送禁止扱いになるなど物議を醸した[462]

ラジオ・パーソナリティとして[編集]

しゃべり (MC) の魅力[編集]

ソノシート制作のきっかけとなった1970年6月の広島フォーク村アルバム発売記念コンサートで拓郎を初めて見たという「ヤング・ギター」初代編集長の山本隆士は、「しゃべりが面白く『歌えて、しゃべりも出来る』というスタイルは拓郎が最初じゃないかな」と述べている[463]田家秀樹は「それまではレコード会社専属の作詞家、作曲家、歌手が音楽を手掛けるのが主流だったが、ラジオ番組がフォークシンガーたちに曲を発表する場所を提供したことで、吉田拓郎らがラジオで一時代を築いた結果、話が面白くて、曲が魅力的であれば誰でも世の中で注目を集められるようになった」と論じている。竹内まりやは「拓郎の話が面白くてラジオをずっと聞いていた。それまでラジオで話が面白い人はいなかった。そこもセンセーショナルだった」などと話している[101]。拓郎は1970年のデビューシングル「イメージの詩/マークII」(両A面)から、ラジオの深夜放送では曲がよくかかっていた[176]。しかし当時のテレビの歌番組は、深夜ラジオ出のお里が知れない新鋭を敬遠するようなムードがあり、テレビサイドから出演依頼の声がかかることはなかった[176]。有名なテレビ出演の拒否は、2年後に「旅の宿」が大ヒットしたことで、それを無視できなくなったテレビサイドからの出演依頼に対する反撥であったため、それまでの拓郎は、コアなモノ好きの若者の支持を集める「深夜世界のカルト・スター」だったのである[176]

拓郎のファンになったきっかけとして長渕剛のようにギターやハーモニカを掻き鳴らして唄う姿に痺れたという人や、ルックスに惚れた、とにかく曲がよかったという人など色々だが、その他、コンサートでの"シャベリ"、"しゃべり"今でいう"MC"の面白さや歌唱時の声とは違う、喋るの時の低音でよく響く声の魅力を挙げる人も多い[107][464][465]

ホリプロで井上陽水の初期のマネージメントを担当した川瀬泰雄は『拓郎らはしゃべりが上手で、コンサートの半分はしゃべりで客をわかせたりしていた。ところが陽水はぜんぜん受けず。たまにコンサートでポツリと受ける言葉をメモして陽水に渡した。ともかく客に受けることで必死だった』と話している[466]

初期の拓郎の "しゃべり (MC)" は長く、持ち時間50分のステージでたった2曲を演奏し、残り40分がMCというようなこともあった[467]。こうした拓郎の "しゃべり" を当時のアマチュアもよく真似た。この頃のフォークシンガーは自分の思ったこと、「バカ野郎、テメエ、この野郎」「テメエ、ブッ殺してやる」とか、あっさり平気で言っていた[468]。上京直後は、酒気を帯びてステージに上がることがあり、ステージマナーが悪いと叩かれた[469]。拓郎は1972年5月の「guts」のインタビューで「日本のフォークの連中はレコードは最高だけどステージがおもしろくない」と話しており[340]、後年始めたコンサートツアーと共にこうしたコンサート/ライブでの演出スタイル、ステージングに於いても草分けであった[6][21][470][471][注 23]。これは後、多くのレギュラーを持ったラジオパーソナリティでさらに活かされることになる。

ミュージシャン・パーソナリティ[編集]

1971年10月にパックインミュージックパーソナリティに就任したのを皮切りに、担当した多くのラジオ番組と合わせ深夜放送のミュージシャン・パーソナリティのスタイルを確立した[8][17][32][474][475][476]。深夜放送のDJを「パーソナリティと」いう呼び方に変え始めたこの頃から、各局はこぞってフォークシンガーを起用[292][367][477]。これは巨大メディア化するテレビに対して、若者のパーソナル・メディアとしての存在に生き残りをかけていたラジオと、この後テレビを出演拒否する拓郎をはじめとするフォークシンガー達が、ステータスを維持するための利害関係が一致した結果であった[478][479][476]。それは商業的にも大きな可能性を秘めた市場の開拓であった[478][480]

亀渕昭信は「深夜放送ブームと並行しまして、ちょうどフォークソングも全盛期を迎えました。吉田拓郎さん、南こうせつさん、さだまさしさん、松山千春さんといった、非常にしゃべりのうまい方をラジオのパーソナリティに起用したんですね。深夜放送ブームが去ってからも彼らの力によってラジオ番組は生き延びていったと言えるでしょう」と述べている[481]。また、「中島みゆきさんにしろ、吉田拓郎さんにしろ、自分の内面や生き方を、ちゃんと番組の中で晒していたから、パーソナリティーとリスナーの距離が近くて濃密な関係を築けた。生き方を晒していたことが、曲づくりにもつながって、ファンもそれを支持していた。キャラクターが強く、人間性が出ていたから、長い間アーティストとしての影響力を保てた」などと評している[482]赤坂泰彦は「中学校の頃に、吉田拓郎さん、泉谷しげるさん、谷村新司さんなど、フォークの方々がラジオでレギュラー番組を持っていたんです。なので、世代的にラジオとフォークソングというのがリンクしていますね。喋りの面白い方たちというイメージがありました(笑)」などと話している[33]

楽曲のプロモーション[編集]

ラジオでレギュラー番組を持ち、ヒットを出すやり方は、その後のニューミュージック系歌手の常套手段となった[483]。また拓郎の場合は自作曲の売り込みだけでなく、フォーク、ロック普及のため、他のアーティストを広く紹介したという功績もある。

先に挙げたようにボブ・ディランを広く紹介したという功績は大きいし、ガロの「学生街の喫茶店」やふきのとうの「白い冬[484]ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「スモーキン・ブギ」の大ヒットは拓郎が自身のラジオ番組でプッシュしたのが大きな理由だった[483][484][485]

ディスコグラフィ・楽曲提供・書籍[編集]

出演[編集]

現在の出演[編集]

テレビ[編集]

ラジオ [編集]

過去の出演[編集]

テレビ[編集]

ラジオ[編集]

映画[編集]

CM[編集]

関連書籍[編集]

  • 気ままな絵日記/吉田拓郎著/角川文庫(1983年)
  • 明日に向って走れ/吉田拓郎著/ 角川文庫(1983年)
  • 俺だけダルセーニョ―いまもどりたい自由な世界/吉田拓郎著/ 集英社(1984年)
  • 自分の事は棚に上げて / 吉田拓郎著 /小学館(1992年)
  • 自分の事は棚に上げて ふたたび/吉田拓郎著/小学館(1994年)
  • 吉田拓郎*お喋り道楽/吉田拓郎著/徳間書店(1997年)
  • もういらない / 吉田拓郎著]/祥伝社(2002年)
  • 晴れときどき拓郎 : Younger than yesterday / 吉田拓郎著 ; 文化放送「セイ!ヤング21」編 /小学館(2003年)
  • 豊かなる日々 : 吉田拓郎2003年の全軌跡 / 田家秀樹著 /ぴあ(2004年)
  • 吉田拓郎 / 田家秀樹監修 /改訂版/TOKYO FM出版(2007年)
  • 吉田拓郎終わりなき日々/田家秀樹著/角川書店(2010年)
  • 誰も知らなかった吉田拓郎 / 山本コウタロー著 /イースト・プレス(2009年)
  • 吉田拓郎とつま恋と僕 / 木下晃著 /講談社(2010年)
  • いつも見ていた広島 : ダウンタウンズ物語 / 田家秀樹著 /小学館(2007年)

NHK紅白歌合戦出場歴[編集]

年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手 備考
1994年(平成6年)/第45回 外は白い雪の夜[486] 11/25 松田聖子 後半トップバッター

関連人物[編集]

主な共演者・サポートミュージシャン(レコーディングを含む)[編集]

あ行

か行

さ行

た行

な行

は行

ま行

や・ら・わ行

グループ

外国人

結婚[編集]

配偶者[編集]

四角佳子
最初の四角佳子との結婚は、拓郎が路上で4人を相手にケンカしてメチャクチャにぶちのめされたのを四角が介抱したのがきっかけ[340]。四角との間には三度の結婚歴で唯一の子供(娘・一般人)がいる[487]
二人の結婚式は1972年6月、軽井沢の教会で行われたが、婚約発表も自身のラジオ番組、パックインミュージックの中だけ、マスコミの取材・会見も一切しなかった。おめでたい結婚でマスコミを拒否するということも当時の常識では考えられないことだった。当時はスターが結婚したら人気は間違いなく落ちる、というのも世の常識だったが逆に人気が上昇した。拓郎の酒癖の悪さは有名で、上京当時は酔って週に1度はケンカをやったという[340]。離婚報告はオールナイトニッポン生放送で一方的にリスナーに報告しただけで[121][441]、マスメディアの取材は一切受けなかった[441]
浅田美代子
二人目の妻となった浅田美代子は拓郎自身もファンで、当時21歳で人気絶頂期だった浅田を自分の持ち番組にゲストで呼び、その後結婚した[488]。最初にこの二人の交際報道が出た時は、まだ四角との離婚は成立しておらず、この結婚には内田裕也樹木希林夫妻の奔走があったという[489]
森下愛子
その後再び同じパターンで森下愛子とも結婚した。二度目のオールナイトニッポンのゲストで呼んだ時、森下は警戒し親友の竹田かほり(現在は甲斐よしひろの妻)と一緒にやって来た。森下は当時、根岸吉太郎との結婚が噂されていたが急転、拓郎と再々婚した[128]
オシャレ30・30」に出演(1988年5月15日)した森下の話では、ラジオにゲスト出演した2、3年後に偶然?美容室で(当時、アンドレ・ザ・ジャイアントみたいな頭をしていた)拓郎に会って「今レコーディングやってるんで、見に来ませんか」と誘われて行ったのが付き合い始めた切っ掛けという[490]。他に古舘の「拓郎さんみたいな人を相手にするの大変でしょう?」という質問に対して森下は「いいえ、前のお二人が角を取って下さったみたいで、今はとても扱いやすいですよ」と答えていた。これらもフォーク・ロック系ミュージシャンとアイドル、あるいは女優との結婚の先駆けであった[491][492]

その他[編集]

自分の持ち番組に、自身がファンのアイドル・女優をゲストで呼び、その後結婚というパターンを長渕剛石野真子との結婚の時にした[261][493][494]。こちらをセッティングしたのは当時、オールナイトニッポンの構成作家をしていた秋元康[456]。ハワイの教会で行われた長渕と石野の結婚式の仲人を務めたのは拓郎と浅田夫妻(当時)であった[456]

交友関係[編集]

ミュージシャン[編集]

浅川マキ
浅川マキのファンだった拓郎は、アマチュア時代に広島から上京し、渋谷ジァン・ジァンで唄う浅川を見に来ていたという[495]。拓郎のブレイク直前には二人でジョイントコンサートも行っている[496]。写真家・TAMJIN(田村仁)が拓郎の写真を長く撮り続ける切っ掛けとなったのは、田村が撮った浅川マキのファーストアルバム『浅川マキの世界』の写真を拓郎が気に入り撮影の依頼をしたのが始まりで、中島みゆきも同じ理由[497]
浅川マキは著書『幻の男たち』の中で拓郎とのエピソードを書いている。1980年代半ばに雑誌で拓郎の「女ともだち」を拓郎自身が写真で撮るという企画があって、拓郎は田村と共に浅川の部屋を訪れ浅川を撮った。撮影後、拓郎が「前にこの部屋に来た、新宿で一緒に飲んだ帰りだった」といった。しかしこれは拓郎の記憶違いで、拓郎が来たのは拓郎の深夜放送にゲストで呼ばれた日の後、と書いている[495]
THE ALFEE
1981年、オールナイトニッポンの番組企画で、拓郎のメドレー曲の製作を依頼された"墨田川高校の拓郎"こと坂崎幸之助(覆面バンド・BE∀T BOYS)は「待ってました」「俺しかできないだろ」と、遊びで製作に励み、歌も生ギターの弾き方もMCもコピーする徹底ぶりを見せた。高校時代の青春・拓郎と仲良くなれた坂崎は、「僕のフォーク人生はこれで終わってもいい」と思ったという。この完成度から、1988年に形を変えて復活した際は大人気となり、レコード発売や全国ツアーを行った[46][179][498]
高見沢俊彦が、現在のようにピンでテレビやラジオに出演するのは『T×2 Show』(テレビ朝日系、2000年10月 - 2002年9月)の司会を拓郎と担当してから。それまでは積極的にテレビには出ず、出演依頼も断り、場を仕切るなど考えもしなかったが、高見沢の面白さに目を付けた拓郎から「お前はテレビが性に合う」「将来必ず財産になるから」「俺の横にいるだけでいい」などと説得されやむなく出演した。ところが進行役は全てやらされたという。しかし、今では心の底から拓郎さんには感謝している、と述べている。また高見沢の“王子”キャラは拓郎がそう呼んだのがきっかけで始めたもの[499]。高見沢は“王子”キャラの元祖である[500]アルフィーにとっても拓郎はキーパーソンとなる[501]
飯田久彦
拓郎と同じく歌手出身のレコード会社社長経験者という共通点もあり、懇意にしている。
拓郎がフォーライフ・レコードからインペリアルレコードに移籍したのは、飯田がテイチクエンタテインメント代表取締役社長に就任したからである。また、飯田がエイベックスの取締役に就任した後、拓郎も飯田を慕いエイベックスに移籍した[502]
泉谷しげる
泉谷は、エレックレコードの後輩で、エレックを抜けた拓郎の代わりに売り出されたスターだった。世の中が泉谷の歌を下手だと言った時も「うまい、うまい」と褒めてくれたという。エレックが倒産しフォーライフを設立した時も、拓郎は泉谷を引き入れ、フォーライフが内部抗争を始めて泉谷が辞める時も懸命に引き留めた[503]
1999年のかまやつひろし還暦を祝うパーティーで、その泉谷やユーミン井上陽水堺正章桃井かおりアルフィー今井美樹石井竜也NOKKOらが集まって[504]東京飯倉のキャンティで会食したおり、拓郎が酔って「お前らみんな音楽を愛していない」などと延々とまわりに絡むので、泉谷が「しつこいぞ」とブチ切れ、フォークを持ってテーブルを乗り越え拓郎に掴みかかり大乱闘となった[505]。まわりの男は、堺正章や、かまやつひろしのような小僧ばかりで(拓郎談)誰も止められず、ユーミンからは「やれ!やれ!」とケンカをけしかけられるわで引くに引けず(泉谷談)、ようやく森山良子が「外でおやんなさいよ」と一喝、ケンカをやめさせた[506][507]。この、かまやつひろしの誕生日パーティーで、拓郎が酔ってネチネチカラんで泉谷とケンカ→森山良子が一喝、という流れはフォーライフから泉谷が抜けた1970年代後半頃にもあり、最後のケンカの1999年以来、泉谷と拓郎は断絶状態になっていたが2011年7月、12年ぶりにラジオで再会し和解した[507]
忌野清志郎
拓郎は、1971年7月からライブハウス渋谷ジァン・ジァンで定期コンサートを始めたが、当時拓郎の前座をよく務めていたのが「ぼくの好きな先生」や「2時間35分」などをアコースティックでやっていたRCサクセションだった。忌野清志郎は当時、拓郎が嫌いで出番が終わると顔も見ないで帰っていたという[508]。拓郎は清志郎が好きだったようで、NHK-AM若いこだま』 のDJ等を務め、1970年代のニューミュージック系ミュージシャンの売り出しに功績のあった吉見佑子が1970年代の後半、まったく売れていなかったRCサクセションの廃盤になっていたアルバム『シングル・マン』の再発に業界を奔走した時も、拓郎は「オレはRCが好きだ」と自身の番組「セイ!ヤング」でRCの曲をプッシュした[509]
清志郎は『LOVE LOVEあいしてる』にもゲスト出演(1998年12月5日)しており、アルバム『Hawaiian Rhapsody』で拓郎に「こころのボーナス」を提供した[510]
清志郎がテレビで奥田民生と初共演した時には、「オマエ広島(出身)かぁ 何だ、それで吉田拓郎に顔が似てるのかぁ〜」とムチャを言ったこともあった。
小田和正
同期でもある小田は、拓郎を盟友と呼び認めている[511][512]。初めて会ったのは、コンサート会場の通路。ギターの弦が切れて予備がないため、面識のない拓郎に頼むと「あ、いいよ」と快く貰えたのがきっかけ[511]。小田が売れたのはずっと後だが、拓郎は既に大スターだった。初期の拓郎について小田は「ラジカルなイメージだけかと思えば、実はそうではなく、すごくロマンチックでナイーブな、でも強い言葉を持ってるシンガー」と評していた[511]。付き合いが少々濃くなったのは、前記の1982年に小田が"日本グラミー賞"を作ろうと奔走したときから。結局この構想はミュージシャン仲間の賛同が得られず頓挫したが、これは1985年国際青年年(IYY)記念イベント"ALL TOGETHER NOW"(6月15日、国立競技場)の下敷きとなり、亀渕昭信の音頭取りもあって、これの運営に拓郎と小田は大きく関わった。コンサートのオープニングアクトでもあった拓郎のバックバンドはオフコースが務めた。
この後、1994年の長崎・普賢岳噴火災害救済コンサート(3月13日、長崎市公会堂)、「日本をすくえ'94」(8月16日、日本武道館)、1996年の阪神・淡路大震災救済支援コンサート(9月14、15日、神戸ワールド記念ホール)と、三度のチャリティコンサートを拓郎と小田、泉谷しげるで企画運営[注 24]。復興支援を目的とした「スーパーバンド」の発案は拓郎という[507]。長崎・普賢岳噴火災害救済コンサートは、ギター・泉谷、ベース・拓郎、キーボード・小田、ツインドラム・浜田省吾大友康平が基本メンバーのスーパー・バンドを結成し、井上陽水忌野清志郎さだまさし南こうせつなどのゲストミュージシャンの曲を演奏するというものだったが、即席バンドで短期間の合宿ではなかなか上達せず、どんどんコードが簡略化されて、さらに拓郎が「親しくない奴と2日以上いられない」とダダをこねたりでピンチを迎えた[514]。しかし、なんでも弾ける坂崎幸之助がこのピンチを救い、無事開催できたという。同じ1994年8月16日には、日本武道館で「スーパーバンド」による「日本をすくえ'94」チャリティコンサートが行われた。このコンサートのドキュメンタリー番組「日本をすくえ'94」が、小田和正のナレーションで同年9月14日にテレビ朝日系『水曜特バン!』枠でテレビ放送された[515]。この中で拓郎の傍若無人ぶりにオロオロする泉谷と小田がテレビに映し出された。長崎でやった「スーパーバンド」のメンバーが全員揃うということで拓郎は引き受けたのだが、うち数人が参加出来ないという話になって、さらに出演が確定していないミュージシャン、出演交渉もしていないミュージシャンの名前がスポーツ新聞に出てしまい、各所属事務所から苦情の電話が掛かり出演交渉が暗礁に乗り上げ拓郎が激怒、「まわりに迷惑をかけてまでやることはない」「コンサートは中止だ」などと泉谷と小田に迫った。泉谷は「オレと拓郎、小田、伊勢正三、大友康平の5人だけでもやりたい」と「何とか開催したい」という二人の意見を却下し続け、最後に小田が「流そう(中止しよう)」と言うと、それまで散々中止すると言っていたのに拓郎は「やる。俺が決めた」と言い出した。泉谷は「拓郎は、いざ練習が始まると、この曲はイヤだ、あれは歌わないって言い出す。あまりにわがままなんで、そこまで言うならオレと小田さんで会見やって武道館は中止と発表しようと。ところが、やめると言うとイヤだと言うんだよ。あれは振り回された小田さんもショックだったんじゃないか」と当時の思い出を話した。日本武道館時の「スーパーバンド」は、この後メンバーを加えたもの。こうして拓郎と小田は苦労を共にした間柄となって、打ち上げの席で酔った拓郎が小田の膝枕で寝るということもあったという[516]。それでも泉谷は拓郎を引っ張り出して、東日本大震災支援ライブのため「スーパーバンド」を蘇らせたいという。
2000年4月3日放映の「LOVE LOVE あいしてる」にゲスト出演した際、小田は拓郎を「コイツ、コイツ」と呼び「拓郎さんをコイツと呼べる人がいるなんて」とKinKi Kidsを驚かせた。他に1994年の対談でも小田は「拓郎の曲っていうのが、近い将来、また"くる"と思う」と話してい[517][518]
2013年12月25日放映された、小田がMCを務める『クリスマスの約束』(TBS)に拓郎が初出演し、小田は「1970年代、多くの若者が背伸びして何かを求めていたあの時代、歌には強いメッセージが求められていました。そこに、カリスマと呼ばれるシンガーがいました」と拓郎を紹介した[519]
かぐや姫
山田パンダは師と仰ぐ拓郎を年上と思っていたが、年下と分かり、デビュー時に自ら一歳さばを読み、拓郎と同学年としてきた。彼をずっと同い年だと思ってきた拓郎は会うたび「おい!馬鹿野郎!」と呼び続けてきた。パンダは、30年以上たった2005年還暦を迎えた際、年齢詐称していたことを公表した。2000年に、かぐや姫が22年ぶりに再結成したのは、1999年の「南こうせつ サマーピクニック」で、井上陽水とゲスト出演した拓郎が、南こうせつと伊勢正三を見て「陽水も俺もいる。何でかぐや姫がいないんだ?」と、山田パンダを無理やり東京から九州まで呼びつけたのがきっかけだった[520]
まだ3人が高円寺の風呂のない部屋に3人別々に住んでた時に、拓郎はすでにスターになっていて豪華マンションに住んでいた。3人は「神田川」みたいに拓郎のマンションの前を通って風呂屋に本当に行っていたが、ある日、拓郎がベランダで長い髪なびかせて、朝ブローをしてるのを目撃し、山田パンダは「あんなマンションに住んで、朝ブローして。あれが夢だ、こうせつ」と南こうせつにプレッシャーをかけていた。また、かぐや姫の最初のアルバムに拓郎が参加したが、かぐや姫のアルバムなのに3人の写真より拓郎の写真のほうが大きく掲載されており、「吉田拓郎プロデュース」という字が大きく載っていた。
加藤和彦安井かずみ
加藤との出会いは1971年、拓郎がセルフプロデュースしたアルバム『人間なんて』のレコーディングに加藤が参加してから。これは木田高介の紹介だったと思うという。このレコーディングで加藤は、拓郎が知らなかったボトルネック奏法ジェームス・テイラー奏法などを披露し拓郎を驚かせた。このアルバムの制作に先立ち、拓郎がスリーフィンガーで作った「結婚しようよ」を「パックインミュージック」で弾き語りで流したところ、大きな反響があり、シングル化の予定をしていた。ところが、この「結婚しようよ」の弾き語りバージョンは「今日までそして明日から」によく似ていて、「同じだとつまらない、何か他のアレンジはないか」と考えていたため、この「結婚しようよ」や「どうしてこんなに悲しいんだろう」「自殺の詩」などの編曲(アレンジ)を加藤に頼むことにした。
加藤はまだ売れていなかった頃の拓郎を認め、大切なギター (GIBSON J-45) を15万円で[521]譲った[522]。この2人は非常に仲がよかった[523]
小田和正が、1982年に"日本グラミー賞"を作ろうと奔走し、六本木で拓郎やユーミン矢沢永吉さだまさしらを集めて飲み会をした時、加藤が「拓郎は生意気なのは許せるけど松山千春が生意気なのは許せない」と怒って帰ったというエピソードがある[80][524]
安井かずみとは、加藤と知り合う以前から付き合いがあり、仕事を一緒にしたのは、1973年のの「戻ってきた恋人」の作詞を頼みに行ったのが最初[354]。拓郎は安井に気に入られ、柳田ヒロ加賀まりこを交えた4人で毎晩、六本木ディスコに行っていたという[525]。安井の自宅は「川口アパート(プール付き)」(川口松太郎が造った高級マンション)と呼ばれ加賀まりこ野際陽子コシノジュンコや当時のトップモデル・シャロン宮田、ナンシー村井ら多くの業界人が集った。そこは大使館のような世界で、拓郎はカルチャー・ショックを受けた[526]。誰にも紹介してもらえず、「絶対に東京に負けてはならない」との思いをさらに強くした。同業者だった安井には「あなたたちが来てから日本はすごくつまらなくなった」「芸能界はもっとチャーミングな世界なの!ジュリーを見倣いなさい!」[83]「あなたの詩って男のエゴばかり、女のことなんか何も分かってない」等と言われ大ゲンカとなり泣かれて、「拓郎にいじめられた」と言い触らされたこともあったという。
安井と加藤が結婚してからは家族ぐるみで付き合いがあり、1986年には、安井と加藤のプロデュースによりアルバム『サマルカンド・ブルー』を出した[354]。ただ、拓郎はこの二人の作品は自分のイメージと違うので、本当はやりたくなかったが、「NYでレコーディングするから」「(拓郎が好きな)ホイットニー・ヒューストンに会わせてあげるから」などと口説かれて仕方なくやったと話している。そのときは結局、シンディー・ローパーに会わされて終わった[354]
1994年に安井が亡くなり、拓郎は「安井の言葉はとても響き、すごい大事な人を失った感じがある」と述べている[527]。1年後に加藤が中丸三千繪と再婚してからは、拓郎は加藤とは疎遠となり、以後は、全く付き合いがなかった[354][528]。これは加藤が中丸のために、安井に近かった人を意図的に遠ざけたためである。加藤と付き合いはなくなっても拓郎は、「若者たちが自分の手でつくる『日本の若者のポップシーン』の先駆けとなったのは、フォーク・クルセダーズであり加藤和彦に間違いない」と、まわりに話し続けていたという[529]
2009年10月、加藤和彦が亡くなった後、拓郎は「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」で加藤を追悼し、加藤との思い出を話した。
かまやつひろし
拓郎は、「東京へ来てから女、アルコールなど軟派系の遊びは全部かまやつさん。今日の僕があるのは、かまやつさんのおかげ。身体はガタガタですけど」と言う。かまやつは、当時流行の最先端を行っていた業界人らと付き合い、拓郎を安井のマンション「川口アパート(プール付き)」等、そういう人達が集う場所に連れて行った[354]
KinKi Kids
KinKi Kidsとの出会いは音楽バラエティ「LOVE LOVE あいしてる」(1996年 - 2001年)での共演がきっかけで、度々テレビやラジオで共演し、プライベートでも交流をするほど仲良くなった[375][376]。「LOVE LOVEあいしてる」で、KinKi Kidsへのギター指導を企画されたときは全くその気にならなかったというが[41]、彼らが休憩の合間の時間に階段で一生懸命練習しているのを見かけ、それ以来熱心に指導したという[530]。番組の企画を通じて二人のギター・作詞法・作曲法は数年かけながらも徐々に上達していき、2000年には堂本光一作曲・堂本剛作詞・吉田拓郎プロデュースのシングル「好きになってく 愛してく」を発売するまでに至った。「オレがギターをマジで教えた弟子」と話している[41]
堂本光一は「拓郎さんとの出会いが音楽を教えてくれた」「番組で拓郎さんに、いきなり『曲を作れ!』と言われて。初めて作った曲を持っていったときに『よく作ったね』って言ってくれたのは、今も忘れない」「拓郎さんは俺たちに『あ、自分にも、曲が作れるんだ』って思わせてくれた」「今、俺が曲を作っているのも、あの当時のことがキッカケ。たぶん、あの出会いがなかったら、今まで作った曲たちも生まれていなかったと思うよ」等と話している[531]
堂本剛も「自分の思ったことを歌詞にしてメッセージとして投げるという男の人生を目の当たりにして、音楽の自由を感じた[532]」「拓郎さんと出会ったことにより楽器を弾くことにも繋げて頂いた」等と話している[533]
武田鉄矢
拓郎に憧れて上京し、エレック・レコードに入った[326]。ところが入った途端、拓郎はCBSソニーに移籍してしまった。付き合いが始まったのは、だいぶ後の武田が映画を撮り始めてからで、1982年からの映画『刑事物語』の主題歌「唇をかみしめて」を拓郎が手掛けたり、1985年、映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』に拓郎は高杉晋作役で出演した。これは坂本竜馬を演じた武田が「ずっと背中を追いかけてきた拓郎に一回、こっち側を向いて勝負して欲しい」と相手役として遮二無二拓郎を説得したもの。最初は「お前、頭からアブラをかぶっているのか?頼むから近づくな!」と酷く嫌われていたという[534]。また武田は拓郎を高杉晋作役で起用した理由について、「拓郎の声はアジテーターの声であり、たった一声で千とか万の若者が後について行くような声。それは高杉晋作もそんな声だったんじゃないかと思うという持論で、俳優では出せないと思い拓郎にお願いした」と説明している[326][535]
武田はテレビドラマへの進出について「僕は吉田拓郎さんみたいな歌手になりたかった。でも、どうあがいてもなれなかった。それで仕方なく横に流れたんですね。それはテレビに出るということだったんです」と話している[536]
中島みゆき
中島は拓郎を尊敬しており[537]、彼女の楽曲に数曲、拓郎調の楽曲があるといわれることもある[538]1980年8月10日NHK-FMで『拓郎105分』という特番が放送された。この番組は長年(プロデビュー10周年)音楽業界に貢献してきた拓郎を讃え、他のミュージシャンが拓郎に感謝状を贈るという内容であった。この番組で、学生時代に拓郎の追っかけをしていた中島みゆきが、拓郎のことを「よた、よた」と呼んでいた[539][540]。与太者の意味か与太郎の意味か、または、「よしだたくろう」の姓と名の頭文字(「よ」と「た」)を取った呼称であるという説もあるが理由は不明。
拓郎も中島を尊敬していると公言している。彼女のライブでバックミュージシャンとしてギターを弾きたいと数年前からオファーしているが実現しておらず、彼女がオールナイトGOLDにゲスト出演した際に直接オファーを試みたが、ライブの間じっと演奏してられるかなど質問返しされて結局YesともNoとも答えてもらえなかった。拓郎によると「どうしても『悪女』を歌う中島みゆきのバックでギターを弾きたい」らしい。この時のゲスト出演について、中島に「瀬尾さんが行くって言うから来た」とコメントされると「なんだよそれー!」と拗ねていたらしい模様が放送された。拓郎は、自身のソングライティングが不調に陥った1995年、中島に直に楽曲提供を依頼。拓郎が詞曲の両方を他人に依頼したのは初めてのことで[541][注 25]、渡された曲が「永遠の嘘をついてくれ」で、拓郎からの当初のリクエストは「夢のない遺書のような曲を」であったが、全く逆の疾走感に溢れる実年ソングとなった[543]。この曲の歌詞が中島の拓郎に対する感情を思わす内容であったため、両方のファンから様々な憶測をよんだ。2006年のつま恋コンサートで、シークレットゲストとして登場した中島がこの曲で拓郎とデュエット、このコンサートの名シーンの一つとなった[544][545]
長渕剛
長渕剛が本格的に音楽の道を志すきっかけになったのは、フォークコンサートでトリを務めた拓郎の歌を聴いて大きなショックを受けてからで、「拓郎はカッコ良かった。オレたちの世代にとっては、みんなの憧れだった」と話している[546][547]。長渕が最初にユイ音楽工房に所属したのは拓郎がいたからである[548]
1979年愛知県篠島で行われた拓郎のオールナイトコンサートに出演した長渕が、拓郎ファンから「帰れコール」を浴びながらも歌い続けたエピソードはよく知られる[46][337][547]。長渕は「あのステージがなかったら今はなかった」と話している[337]
ただ、1994年に長渕と桑田佳祐が揉めたときは、拓郎は桑田の方の肩を持つ発言を行い、長渕をトーンダウンさせた[549]。2012年の拓郎の3年ぶり復活ライブの最終日(NHKホール)の際には自ら拓郎の楽屋を訪ね、久々の再会を果たしている。そのことが後日、坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLDで語られた(その場には山下達郎&竹内まりや夫妻や南こうせつもいたらしい)。
桑田佳祐原由子
桑田佳祐は1985年の著書『ロックの子』の中で、「フォークは大嫌いだったが唯一、拓郎が好きだったのは、拓郎の歌謡曲的な部分だった、拓郎のコマーシャルソングの音作りに共感したことが、自身が曲作りを始めるきっかけ、拓郎を聴いて『これなら曲が作れる』と思った」などと述べており[24]、1980年8月10日にNHK-FMで放送された『拓郎105分』では、一番影響を受けた拓郎の曲として「Have a Nice Day」[388](1972年富士フイルムCMソング)を挙げた[384]。1985年のサザンオールスターズのアルバム『KAMAKURA』には、拓郎からの影響を思わせる『吉田拓郎の唄』という楽曲を収録している[24][229][550][119]。2003年夏に拓郎が癌治療で休業中には、『吉田拓郎の唄』の批判めいた歌詞部分を大幅に変更、拓郎をより賛美する内容にしてライブで歌唱し、遠い地から拓郎にエールを送った[24][119][551]。拓郎は、2008年2月24日の「俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル」の放送で療養中、桑田から復帰を願いギターのテレキャスターを贈ってもらったエピソードを披露した。桑田も、同年3月11日の「桑田佳祐のオールナイトニッポン」で、その経緯について触れ「ふらっと入った楽器店にあったギターを見た時、拓郎さんがバーンと浮かんだ。拓郎さんにこれを弾いてもらいたいと思った」「高校の頃、色んなフォークが流行ってたんだけど、拓郎さんだけが輝いて見えた。私が今ここにいられるのも拓郎さんが物凄く大きな切っ掛けになっている」などと話した[552]。1986年ごろに拓郎の自宅へ招かれ、酔っぱらって無断でビートルズのピクチャーレコードを持ち帰ってしまい、のちにこのことを後悔し前述のフェンダーテレキャスターを送る共にそのピクチャーレコードを拓郎本人に返したが、レコードについては拓郎が「君とのいい思い出にしよう」という理由で送り返したというエピソードがある[553]
一方の拓郎も桑田及びサザンオールスターズの才能や影響力を称えており、良好な関係が続いている[554]
原由子も拓郎の大ファンで[24]、中学の時、深夜放送で拓郎の四角佳子との結婚宣言を聞き、布団で泣いたという[555]
浜田省吾
広島フォーク村時代からの先輩・後輩である浜田省吾とは、師弟関係にある[556]。拓郎は、1970年にプロデビューして上京した後も、広島フォーク村のイベントなどに出演するため、度々帰郷。この頃は、スーパーの階段の催し場やレコードショップの横、などで歌うこともあった[557]。こうした折に付いてまわったのが浜田で、空港までの送り迎え等も浜田の仕事であった[558]。浜田らが「愛奴」を結成してCBSソニーのオーディションを受ける際も拓郎の自宅を訪れ相談。「愛奴」プロデビュー前の1974年、拓郎の全国ツアーのバックバンドに「愛奴」を起用し浜田はドラムを担当した[559][560]。「愛奴」の起用はザ・バンドに断られたため回ってきたもの[2]。拓郎はツアーの直前にボブ・ディランとザ・バンドのコンサートをロサンゼルスまで観に行き、そこでザ・バンドを真ん中に、ディランがステージの端で歌うステージングに驚き、同じように「愛奴」を真ん中に、拓郎が端で歌うというステージングをやったが、浜田のドラムがヘタ過ぎて目立ち、同じようには出来なかったという[101]
浜田は、1997年に拓郎の50歳を祝って拓郎のデビュー曲「イメージの詩」をカバーした(拓郎自身も、コーラスとアコースティクギターで参加している)。ちなみに1985年に開催された『吉田拓郎 ONE LAST NIGHT IN つま恋』でもドラムでゲスト参加していたりと、長きに渡って交流を持ち続ける[561]
松本隆
職業作詞家としてデビューしたての松本隆にCBSソニーの、これまた若いディレクター/プロデューサーだった白川隆三から担当の新人歌手・太田裕美売り出しのため作詞依頼がきた。これに拓郎は「お前ら(太田+松本+白川のトリオ)は売れない」と酔って松本に毒付いた。結局このトリオ+作曲家筒美京平での4曲目のシングルが大ヒットした「木綿のハンカチーフ」で無事拓郎を見返せた。太田は拓郎をいっぱいいじめたという[562]
拓郎はその後、原田真二の売り出しに松本隆を起用した他1978年、初の二枚組アルバム『ローリング30』制作にあたり、ほぼ全曲の作詞を松本に依頼し二人で箱根の山に篭り、一人の作詞家との完全な共作がどれ程のものになるのか、という試みを行っている[224][563]。松本はこの時の拓郎との共同作業を通してより物語性を深め、1980年代アイドルのヒットメーカーとして本格的に花開くことになる[564]。松本にとってもマイルストーン的な作品となっている[565]
森山良子
森山は、まだ無名時代の拓郎を自身のラジオ番組(キョーリン・フォーク・カプセル、ラジオ関東?)に度々呼ぶなど、拓郎を可愛がったという。
森山は1971年から1972年にかけて結婚、長女(森山奈歩)出産のために休養した。そのブランクのために1973年はパッとせず。この時代になると拓郎らシンガーソングライターが台頭してきて当時、"歌謡曲歌手"というイメージがついていた森山は、アルバムが売れない状況になっていた。1974年の賛美歌アルバムの完成と「ある日の午後」のヒットで盛り返した森山に1975年、「襟裳岬」を大ヒットさせた拓郎が前記の恩を返す形で「歌ってよ夕陽の歌を」を提供。曲もヒットしたことで森山のイメージは再び"フォークの女王"に戻った(同曲でNHK紅白歌合戦に出場)[566]
山下達郎竹内まりや
山下達郎は拓郎について「僕と拓郎なんてある意味、今の音楽界で両極端、対極じゃないか」と過去に発言している[567]。山下は拓郎がプロデュースした1975年のTBSドラマ『あこがれ共同隊』の主題歌「風の街」に、山田パンダコーラスとしてレコーディングに参加した。この時、拓郎にそのコーラスの歌唱指導をされて以来、拓郎とは一回も口を聞いたことがないと話していた[568]
2012年8月13日の「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」で、坂崎から「拓郎さん、日本ではどんな音楽が好きなんですか?」という話題が出た中で、「みんな意外なところでね、俺、山下達郎とか好きなんだよ、あいつのボーカルが好きなんだよ、達郎の声とか(彼の)奥さんの竹内まりやの声は、かなり俺(胸に)クるんだな。あそこの夫婦のファンだね。これ、このラジオで本邦初公開だけど」と告白した。この発言がきっかけとなり、同年10月1日の同番組で、お互いソロアーティストとしての立場で初共演を果たした[569][570]。この放送で山下は"私的吉田拓郎史"を言わせてもらえば2時間は喋れると話し、18歳の時、東長崎のレコード店でアルバイトをしていた時、ちょうど拓郎のアルバム『元気です。』(1972年)が出た頃で、その『元気です。』とカーペンターズの「ア・ソング・フォー・ユー」の2枚が飛ぶように売れて10枚問屋に注文しても1枚しか来なかったという思い出や、前述の「風の街」のレコーディングで拓郎に歌唱指導された話、その時のしこりで1975年のつま恋にもコーラスとして参加を要請されたが「絶対イヤ」と断った話などをした。拓郎の方はそんな話はまったく知らず、山下を認識したのは1980年代になってから、毎年行くハワイで「LOVELAND, ISLAND」(1982年)を聴いて、こんなウェストコースト風サウンドを歌いこなせる日本人ボーカリストがいるのか、と感激したのが最初と話した[569]。ちなみに、この日の出会いがきっかけとなり、番組後には互いのメルアド交換をし、夫妻ともどもメールするほどの仲になっている[571]
2013年6月24日には竹内が「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」に単独出演し、番組内で拓郎の名曲「どうしてこんなに悲しいんだろう」を竹内のアレンジにより3人で演奏した。
その他ミュージシャン[編集]

イルカは、2007年他界した夫の神部和夫ともども、最も古くからのフォーク仲間で全国をドサ回りした間柄。当時は2人が所属したシュリークスが非常に人気があり、拓郎のほうが前座だった。神部はいい声の持ち主だったが、拓郎が出てきてから「もう自分がうたっているような歌の路線はこれからはダメだ。綺麗にうたっていくんじゃなくて自分のメッセージをガンガンうたっていく世の中に変わったな、これからは俺の時代じゃない」と話していたという[572]。イルカがソロデビューして曲作りを始めた時、拓郎は自宅の居間で親身になってアドバイスしたという[573][574]。シュリークスの持ち歌で、イルカのレパートリーでもある「クジラのスーさん空を行く」は、神部の詞、拓郎の作曲。

古井戸の金崎芳樹(加奈崎芳太郎)が1971年8月頃、エレック・レコードに入社が決まり、一度会社に挨拶に行こうと事務所を訪ねると、部屋の隅でダンボールの梱包をしているオジさんと、奥の机で電話している拓郎がいて、拓郎に「社長さんはどこですか?」と聞いたら梱包をしているオジさんが社長で、拓郎は電リクをしていた[575]。加奈崎も仲井戸麗市も、拓郎さんには可愛がってもらいましたと述べている[576]

1971年11月6日、慶應義塾大学で行われたコンサートは、俗に"慶應三田祭事件"と呼ばれる。これは頭脳警察伝説として有名だが、はっぴいえんどの事務所と確執のあった頭脳警察が観客をアジりながら、えんえんと演奏を続けて居座り、次に出たはっぴいえんどの大滝詠一が「前のバンドが僕らのぶんもやってくれたので」と言ったため観客が反撥、石の飛ぶ中1曲だけ「はいからはくち」をやって帰ってしまったもの。その次の出番だったのが拓郎で、一人で全部を受けとめる羽目となり、ビール瓶が飛んで来て1曲も演奏できないまま引き下がった。このことを全く知らなかった大滝は後で拓郎に「お前らよお、あれ、あの後も観客を静めるのに大変だったんだぜ、俺は」と散々言われたという。拓郎は頭脳警察にも憤慨していたが、その後、PANTAと話す機会を得て好意を持ちパックインミュージックで『頭脳警察セカンド』からシングルカットされた「いとこの結婚式」という拓郎のヒット曲を意識したような曲をプッシュしたり、頭脳警察をゲストで呼んだりしたがこの曲はヒットしなかった[577][578]

小室等が1972年頃、グループを組もうと女性ボーカルを捜してりりィを決めかけていたが、その後りりィは長い旅に出てうやむやに。りりィはあの時、連絡がついていたら「今頃は私が拓郎と結婚してたんじゃないかな」と話している(小室と拓郎が非常に近い関係のため)[579]

丸山圭子は1972年、コンテストで優勝するとCBSソニーエレックレコードからスカウトが来た。当時ソニーは郷ひろみ天地真理らがいてばりばりアイドルの時代。普通だったらソニーを選びそうだが、エレックは拓郎がいて、まわりから(これからは)シンガーソングライターみたいに曲をつくりながら歌っていったほうがいいよと言われてエレックに入ったという[580]。しかしまもなく拓郎はソニーに引き抜かれる。

山本コウタローは1973年、一橋大学卒業時に「たくろう・スーパースター」という拓郎をテーマにした卒論を書いた。しかし内容に不満が残ったため、プロデビュー後、鹿児島や広島にまで足を運んで取材し、2年後に出版したのが「誰も知らなかったよしだ拓郎」という題名の本である[181][581]。"現役ミュージシャンが書いた現役ミュージシャンの伝記" という非常に珍しい本で[582]特にアマチュアだった広島時代について詳しく書かれており、拓郎について書かれた文章の多くは、かつてはこの本を参考にしていた[577]。何故、吉田拓郎でなければいけなかったかについては、日本の音楽を変えていく、次の世代に大きな波及力を残していくアーティストは、吉田拓郎以外には考えられなかったと述べている[149][583]

加川良との交遊。→「加川良の手紙」。この他、加川は拓郎の「金沢事件」を揶揄した『2分間のバラッド』という曲を作っている[584]

井上陽水石川セリが出会ったのは、石川と松任谷由実がゲストで出ていたラジオの生放送(TBSラジオ、林美雄パックインミュージック、1975年11月26日)のスタジオに、石川のファンだった陽水と拓郎が酔って乱入したのが最初[585][586]。陽水は「あの時、オレたちは赤坂でウロウロしてて、拓郎の頭の中に"今日はユーミンがラジオに出てる"というひらめきがなければ、まったく違った人生をオレは歩いていたでしょう」と話している[587]NSP高専仲間の3人組となったのは、拓郎が1971年に組んだ3人組のミニバンドの路線を狙ったのがきっかけ。NSPは当初ロック志向であったが、フォークブームでロックがまったく受けず、フォークグループに転換した。オリジナルを作り始める前のレパートリーは拓郎の曲が中心だったという[588]。NSP1973年のデビューアルバムに収録された「僕の夏休み」というオリジナル曲に"ギターを弾いてマークツーを二人で歌うはずだったのに"という歌詞が出る。きくち伸はその歌詞に出てきた「マークII」ってどんな曲なんだろう?、と本屋で調べて、よしだたくろうを知り、以降拓郎を追いかけるようになったと話している[376]

岡本おさみの詞を使うことになったのは、岡本からの売り込みによるもの[589]。岡本との曲作りは手紙や電話でのやりとりで、プライベートでのつき合いはほとんどなかった[590][591]。岡本が送ってきた詞に数年後、拓郎が曲を付けて世に出ることがあったという。「襟裳岬」に関しては、拓郎にかなり歌詞を変更されたため共同作業だったと思うと岡本は述べている[592]。1970年代半ばに、よくペニーレインなどで拓郎と飲んでいたガロ大野真澄は、拓郎から「一人でやれ、一人でやれ」といつも言われていたため、ガロの解散、所属レコード会社の倒産もあって1976年、フォーライフ入りした。この頃大野は、新曲より水原弘服部メロディなど、昭和の歌謡曲のカバー・アルバムを作りたかった。ところが当時は全編カバー集を作っても売り方がわからない時代、スタッフから「そんなの作ってどうするの?」と言われ実現しなかった。ところが翌年1977年、拓郎が有名なカバー・アルバム『ぷらいべえと』を出したため大野は「別に僕のアイデアを使ったとは思わないけどね」と述べている[593]1976年ペドロ&カプリシャスに在籍時の髙橋真梨子と酒を飲み、ソロになると聞いて盛り上がり、「一緒にやろうよ」などとフォーライフに来ないかと熱心に口説いた[15]。拓郎の自宅近くまで二人で歩き、高橋は「フォーライフに入る」と約束した[15]。ところがその後高橋が所属した事務所が、レコード会社はビクターと決めていて「お願いしますフォーライフで」と頼んでも社長から「ダメ!」と言われ、それっきり縁がなくなった[15]。拓郎は「それはビクターに行かれてよかったと思います。フォーライフに来てたらえらいことになってた」と話した[594]

松任谷由実は、デビューしたての頃(その当時の姓は「荒井」) "女拓郎" と呼ばれたと[595][596]。このため、それまで聴いたことがなかった拓郎の曲を聴いた。感想は、「私のやったことは拓郎やかぐや姫とは違う。私のつくった曲は今までにない新しいものと思った。拓郎らの音楽とは違う、これを区別する例えとして"四畳半フォーク"って言葉を自分が考え出した」と自著で述べている[595]松任谷正隆は、1971年の拓郎のアルバム『人間なんて』にミュージシャンとして参加しプロデビューした[597]

中村雅俊とは、1975年俺たちの勲章』の挿入歌「いつか街で会ったなら」のレコーディング以来の付き合い[598]。『俺たちの勲章』は、中村主演の『われら青春!』と同じプロデューサーで、気心知れていたため、大ファンだった拓郎に音楽を頼めないかと、中村がプロデューサーにお願いしたもの[599][600]。中村雅俊がニューミュージック寄りのイメージがついたのは拓郎の楽曲提供が切っ掛けだった[601]。「拓郎は憧れ以上の存在だった」と中村は話している[599]1999年7月25日には『吉田拓郎&中村雅俊の蘇れ青春!広島の旅!』という番組がTBSで放送された。

矢沢永吉とはキャロル時代から付き合いがあり、矢沢はソロデビューした1970代後半に、フォーライフの社長となった拓郎にマネジメントのことを聞きに夜よく電話してきたという[602][603]。こうした関係からか、当時は拓郎以上にテレビもラジオも出なかった矢沢が拓郎のラジオ「セイ!ヤング」(1979年7月7日放送)と「オールナイトニッポン」(1981年6月6日放送)の2度ゲスト出演した。「オールナイトニッポン」では、拓郎が矢沢を「永ちゃん」「永吉君」「永吉」「オマエ」(矢沢も拓郎を「拓郎」「オマエ」(矢沢が年下))と呼んだ。

拓郎に憧れ多大なる影響を受けたと語る所ジョージ[604]は、『LOVE LOVEあいしてる』に三度ゲスト出演した。1997年11月29日に初めてゲスト出演した際、拓郎の曲の中で「恋の唄」が好きだから、もう歌わないならを自分が作詞・作曲したことにさせてほしい、その代わりに自分の曲を10曲あげる、と交換条件を申し出た[605]。「恋の唄」は、拓郎自身も一番好きな歌と公言していたが、所の申し出を承諾し、所はお返しに「精霊もどし」という、グレープの「精霊流し」をパロディにした曲を渡した。二度目のゲスト出演した際、所は、自分が作った曲のことを「拓郎さんもすごい歌を作りますね」とネタにして笑わせた[606]。後に、この曲を、所に返した[607]。所は「恋の唄」の2番を書き加えた曲を、1999年、自身のアルバム『洗濯脱水』に収録している[604]。所はJASRACに登録されている作詞者・作曲者名も書き換えようとしたが、認められなかったという。所は拓郎曲のパロディ楽曲を複数発表している(『LIVE 絶滅の危機』)。

19で現3B LAB.☆S岡平健治の父親は、拓郎らと広島フォーク村に参加したミュージシャンであった[608]。広島フォーク村の実質の活動期間は2年程であったが、1978年に第II期広島フォーク村として再び活動を行った。この時に参加したミュージシャンには上綱克彦(元柳ジョージ&レイニーウッド)や原田真二村下孝蔵らがおり、広島フォーク村の拓郎の一応の後輩となる[609]

拓郎のフジテレビ系音楽番組「夜のヒットスタジオ」への初出演は1980年6月30日[610]。その約8か月前の1979年11月12日に出演が予定されていたが、直前になって曲目等の件でスタッフと折り合いがつかなくなりキャンセル。この時に拓郎の代役として「夜ヒット」初出演を果たしたのが、まだレコードデビューして間もなかったCHAGE and ASKAであり、この出演を機に一気に彼らの知名度が上昇し翌80年の「万里の河」大ヒットの土壌が育つこととなった。彼らも拓郎、陽水を聴いていた世代。飛鳥涼は「いまだに陽水さんに会うと緊張するし、拓郎さんに至っては話もできない」と話している[611]

「テレビ出演拒否」のきっかけを作った布施明からは[46][83][384]、30年後に正式に謝罪を受けた。ただし最近も布施サイドから曲の依頼があるが「俺は絶対に書かない」と言っているという話もある[612]。また2006年、つま恋の復活コンサートの大成功で、この年の『紅白歌合戦』の目玉とも言われた拓郎が出場を辞退したのは布施が出るからとも言われた[613]

松山千春は「拓郎が嫌い」とラジオや自著で発言[614]。これを聞きつけた拓郎も「松山が嫌い」と発言する事態となり[615]、犬猿の仲ということになっていた。2000年7月29日に「LOVE LOVEあいしてる」に松山がゲスト出演。並んで座ったが2人の会話はなく拓郎は終始無言で、松山の独演会となった。拓郎嫌いの理由については、岡林信康が好きだったが岡林のあと[注 26]、拓郎派と加川良派に分かれ、加川良のほうが好きになったため、好きの反対なら「拓郎→嫌いだろ」と説明した[617]。松山以外にも拓郎は「LOVE LOVEあいしてる」、注目の第1回放送(1996年10月5日)のオープニングで、唐突に「さだまさし嫌い」と発言した[618]。1997年9月20日放送の同番組で、さだまさしがゲスト出演したとき、拓郎はさだが嫌いな理由を「ヴァイオリンを弾くから」と説明している。

高橋ジョージが最も影響を受けた番組は、拓郎が司会を務めていた「バイタリス・フォークビレッジ」(ニッポン放送)という。このラジオとは別に、テレビに出た拓郎がレコードとはまったく違うアレンジで「旅の宿」を弾くと頭の中が真っ白になるほどのショックを受け「こんなスゴいことができるなんて...これはギターを買わないとダメだ!」と急いで通販でギターを買ったのが本格的に音楽を始めた切っ掛けという[619]

篠原ともえとは、「LOVE LOVEあいしてる」で共演する前に、番宣番組で共演しているが、篠原の濃いキャラに嫌悪感を抱いた拓郎は完全無視を決め込み、それでもめげない篠原に「なんだお前!?触るんじゃねぇ!!」と激怒し、追い払った。さらに「LOVE LOVEあいしてる」に篠原もレギュラー出演することを聞いた拓郎は、「アイツが出るなら、俺は番組を降りる!!」と断言。しかし、それを知らない篠原は、ほぼ毎日のように拓郎と接触し、何とかして仲良くなろうと思っていた。その努力が実ったのか、拓郎の口p.から「お前はウルサイけど、いないと寂しい。」との言葉が出て以来、仲が深まるようになった。ちなみに篠原は拓郎のことを「音楽の大先生」として尊敬しているが、初めて会ったときにブチ切れされた時、篠原は「もう芸能界で生きていけない」と思ったらしい。

YO-KINGは拓郎ファンとしてよく知られ[298]、私設のファンクラブにも入っていたという[276][620]。YO-KINGは「僕の世代には、拓郎さんをそんなに聞き込んだ人はいない。だから、そこがおもしろがられているんだと思います。それでデビューから20年以上もやってこられたんじゃないかと思います」などと話している[276]。YO-KINGも一番好きな曲という「流星」を2001年にカバーしている。

レミオロメン藤巻亮太は、落ち着く時間は「吉田拓郎の曲を聴いている時」と話している[621]

あいみょんは、2001年の映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』のエンディング近くに流れた「今日までそして明日から」を聴いてファンになったという[622]

ミュージシャン以外[編集]

明石家さんまは拓郎の大ファンで[46][623]、さんまが音楽番組「LOVE LOVEあいしてる」に出演した(1996年11月9日)[624]のは拓郎が司会だったから。拓郎の凄さをもうひとつ理解していないKinKi Kidsに、拓郎の素晴らしさを一生懸命説明したという[625]。この後、拓郎が『さんまのまんまスペシャル2001』(2001年12月28日)にゲスト出演したのも、さんまからの強いオファーがあったため。さんまは「"イメージの詩"を人生の教科書とし(拓郎をまねて)ハイライトを吸って生きてきた。今はマルボロですけど」と話し、自身がカラオケで歌うのは「イメージの詩」ぐらいという。ところが拓郎は「体のこと考えて軽いフロンティアに変えたんですよ」「僕の作る歌、全部ウソだから。信用してる人がおかしい」などと話し、さんまと拓郎ファンをがっかりさせた[5][626]

志村けんとよく飲み、電話で呼び出せる仲良し[627]。志村の著書のあとがき・解説を拓郎が書いている[628]

爆笑問題太田光は「泣ける名曲」として拓郎の「流星」(1979年)を挙げている[629][630]。太田は拓郎に会って「この曲は僕の曲にしてください!」って頼んだら、拓郎に「そういえば武田鉄矢もおんなじようなこと言ってたな」と言われたという[630]。「流星」は「時代を越えて愛され続ける名曲」と評される[631]。歌詞は拓郎の唯一の子供である四角佳子との間にできた娘のことを歌ったものといわれている。ピース又吉直樹は、創作活動の原点となるほど拓郎から影響を受けたと話しており[632]カラオケでも拓郎の曲をよく歌うという[633][634]リットン調査団の水野透も拓郎の大ファン[635]。他にダチョウ倶楽部も拓郎ファンという[632]

秋吉久美子1972年高校三年生の時、将来を決めかね追い詰められた気持で夜中、ラジオで拓郎の深夜放送を聞いていると、拓郎が夏休み1ヶ月で四国に行って『旅の重さ』を作るのでヒロインを募集する、と言うのを聞き、"ああ、ちょうど夏休み1ヶ月間か、どっかに行っちゃいたいなあ"と思いオーディションを受けたのが芸能界入りしたきっかけだったという[636]。秋吉は"あたしは岡林信康、吉田拓郎、泉谷しげる、などで育った"と話している[637]。秋吉のデビュー作・映画『旅の重さ』は音楽を拓郎が担当した。拓郎はこの『旅の重さ』のヒロインオーディションに審査員として参加したが秋吉に最低得点を付け、高橋洋子には気づかなかったと話している。

高橋洋子も拓郎のファンで[638]、同じ日の放送を聴いてオーディションに応募した[638]

仲村トオルは、将来の目標が見出せなかった大学時代の夏休みに、友人に誘われて行った拓郎の1985年のつま恋オールナイトコンサートに感銘を受け、俳優として生きていくと決意したという[639]

江口寿史は「マークII」(1985年)という拓郎に心酔する高校時代の自身を描いた短編を書いているが[46][640]レコード・コレクターズ増刊「日本のフォーク/ロック アルバム・ベスト100 1960-1989」で、拓郎のアルバム『元気です。』を私のベスト1に挙げ、「レコード・コレクターズでは拓郎の評価が低い。ほぼ黙殺に近い」と、同誌に対する皮肉を述べた上で、「このレコードとの出会いがなかったら今の自分はないという意味で断然1位であります」と話している[641]

柴門ふみは「ある世代の人々にとっての美空ひばり、ある世代の人々にとっての石原裕次郎が特別な意味合いを持っように、私たちの世代にとってのその人は、よしだたくろうである。たくろうが衝撃だったのは、そのストレートなダミ声と、かわいい笑顔であった。それまでのフォークシンガーの貧乏臭い顔(岡林信康とか高石ともや)と比較して、まるで太陽の明るさの邪気のない笑顔であった。オカッパ頭の、人なつっこい丸顔のたくろうに、当時の女の子はみんなシビレたのだ。駄々っ子のようなたくろうのダミ声を復刻版で久しぶりに聴き直す。すると、当時私のまわりにいたボーイフレンドの誰よりもたくろうを愛していたことを確認した。徳島時代の同級生の男の子たちの誰も現在の私の作品に影響を与えていないが、たくろうの歌のいくつかは、私ののちの作品につながるものを感じさせてくれる」[642][643]「『イメージの詩』に14歳の私のハートは打ち抜かれました。毎日毎日聞き続け、その言葉は40年たった私の体の芯の部分に残っていて、今でもふとした瞬間に立ち上がってくることがあります」などと話している[643][644]

漫画家では他に喜国雅彦業田良家[645]らが拓郎の大ファンで、喜国は拓郎のカバーバンド「マサ拓Z」としても活動している[646]。業田は「拓郎さんを通じて表現する喜びを知ったことが、創作の原点」と話している[645]

みうらじゅんの名前がひらがな表記なのは、吉田拓郎の初期の名義が「よしだたくろう」だったことに由来している[173][647][648]。みうらが50代半ばにしてまだロン毛にしているのも、あの頃の拓郎さんを引きずっているからという[173][648][649]。みうらは拓郎の初エッセイ集「気ままな絵日記」がバイブルといい、自身の文体はどんな文豪より拓郎の影響を受けていると話している[173][648][650]。みうらは「昔は吉田拓郎に憧れて、髪の毛のばして、ギターを弾くってのが大概のルールだったんですけどね。それはスチャダラパーあたりでなくなっちゃった」「80年代は吉田拓郎さんの話を熱く語るのって絶対ダメだったね。何だか話しちゃマズイような雰囲気があった。やっと出来るようになったのは真心ブラザーズ倉持君からですよ」と解説している[651]。みうらもえのきどいちろうも「拓郎さんを選んでなかったら、今の仕事はしていない」と話している[652]

泉麻人も、今の仕事をするキッカケを与えてくれた一冊は、拓郎の著書「気ままな絵日記」で、「こういうエッセーみたいな文章なら書ける」「こんな本だったら出してみたい」と思ったと話している。

中学時代の中森明夫は「オールナイトニッポン」の拓郎の扇動にすっかり感化され、「つま恋オールナイトコンサート」は、その拓郎から招集をかけられたようなものだったと話している。行くか行くまいか最後まで迷ったが、18歳未満の終夜観客は不可とのお達しが出たことで断念したという。中森にとって「東京は、拓郎らフォーク歌手やアイドルが棲む街」で、つま恋の行われた1975年に初めて上京し、原宿のペニーレイン[653][注 27]などにも行き東京を感じた。「1975年に上京していなければ、私は表現者になっていない」と話している。中森は拓郎を「かつて体制と闘った若者のカリスマが、時代を経て、今や老いた団塊の星として病と闘っている」と述べている[656]

森達也も拓郎の深夜放送を夢中になって聴いたという[657]

拓郎と矢沢永吉ファンという重松清は「拓郎や矢沢は、地方に住む僕たちに『上京の物語』を与えてくれた」と話している[658][659]。映画「恋妻家宮本」は重松の「ファミレス」であり、映画の中で拓郎に言及する真面がある。映画「恋妻家宮本」の挿入歌(エンディング)は「今日までそして明日から」で、出演者全員で歌唱する場面がある。雑誌「すばる」2010年3月号では拓郎にインタビューを行い、ディープな内容を聞き出すことに成功している。

箭内道彦は、松山千春や吉田拓郎に憧れ、中学二年からギターを始めたという[660]

任天堂専務取締役情報開発本部長でゲームクリエイター宮本茂は、大学時代に拓郎にハマったと話している[661]

2013年サッカー日本代表内田篤人が「拓郎の曲を聴き込んでいる」との新聞記事を読みCDを大量にプレゼントした[662]。内田の一番好きな拓郎曲は「外は白い雪の夜」という。

若い世代のファンとしては、親の影響でファンになったという奈緒[663]扇久保博正らがいる[664]。扇久保は「コンサートの古い音源から何からオークションで買いまくる拓郎マニアで、「他の吉田拓郎ファンには負けないです」と豪語している[664]

この他、江田憲司[665]高須基仁[666]佐々部清[667]逢坂誠二[668]森永卓郎[669]山本一力[670]古舘伊知郎[671]木村匡也[46]らが、拓郎から特に大きな影響を受けたと話している[5]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 好きだったモデル・入江美樹小澤征爾の妻)と好きだった女の子の名前(準ちゃんと思われる)を足したもの[10]
  2. ^ 吉田正廣は郷土史研究のため、鹿児島に単身赴任していたが[39]、仕事も一段落つき、広島に戻る予定の矢先に亡くなった[39]。拓郎のブレイク直前のことだったという[39]
  3. ^ 社名は小室等の愛娘・こむろゆいに因む[94]
  4. ^ この時、吉田拓郎を弁護し、早期の釈放・不起訴へと促したのが、後に企業弁護士として著名となる久保利英明である[111]
  5. ^ 20歳近く年下の松浦勝人社長に「avexでは若い人のアルバムをたくさんつくってヒットさせてきたけれど、これからやめようという人の音楽は初めてです」と言われ「面白いことを言う男だ」と好感を持ち移籍した。
  6. ^ 客が“帰れコール”を浴びせたり、ステージに上がってわめいたりするのが1970年代に流行したのは1971年8月の第3回の中津川フォークジャンボリーでの暴動から。その後のコンサートで、このときのマネをする勘違いが流行った[140]。耳を澄まして聴く歌詞に共感できれば拍手をし、気に入らなければ“帰れコール”を浴びせる。フォークと聴衆の関係はそのようなものという考え方があった[141]。当時は“帰れ”というためだけにコンサートに来る者もいた[142]
  7. ^ 1972年4月22日日本武道館、音楽舎主催。文献によっては「音搦大歌合(おとがらみだいうたあわせ)」とするものもある[144]。拓郎、岡林信康以外の出演者は、三上寛六文銭ガロはっぴいえんど遠藤賢司かまやつひろし加川良五つの赤い風船山下洋輔トリオほか。
  8. ^ 本来フォークとは民謡という意味を持つため、日本のフォークとは趣旨もニュアンスも違うと考えた番組製作者が「ジーンズサウンズ」という名称をラジオ番組のタイトルに付けたことがある。これは拓郎を始め当時のフォークシンガーがジーンズを穿く者が多かったため[182]
  9. ^ 桑田佳祐は自著「ロックの子」の中で、拓郎の"字余り"や"コマーシャルソング"にはまったと話している[230]
  10. ^ 音楽界に於ける、です・ます調の"創始者"については『新譜ジャーナル』1977年のユーミンと松本隆の対談で以下のやりとりがある。ユーミン「松本さんの始めたデスマス体(この文献の表記)っていうのは、ゼッタイ新しかったわけでしょ。そういうのを浸透させたっていうのは、拓郎なんかも一端になっているかもしれないけど、松本さんがすごいインパクトを持っていたと思うの」(中略)松本「同時進行で僕と、遠藤賢司とか高田渡が始めていたね」と述べている[245]
  11. ^ 小室哲哉との対談は2008年11月5日の日本経済新聞朝刊の社説、1面コラムの春秋にも引用された。
  12. ^ 吉田拓郎のそれまでになかった、話し言葉のような歌が若者たちの心をとらえた[277]。歌詞の中で、自分のことを「おいら」と呼ぶのも拓郎が始まりと思われる[278]。1組の男女の別れを切なく描いた詞が、最後の最後に「年老いた男」の俯瞰の目線に変わるこれまでにない詞の展開、方法論を持つ「マークII」[279]など。
  13. ^ 武部聡志は「『イメージの詩』は言いたいことが沢山あって、8番だか10番まであった。それがあったからこそ吉田拓郎というアーティストは評価され、強烈なインパクトを与えることができたんだと思う」と述べている[280]。この他、拓郎は、形態こそギターを弾きながら自作曲を歌うという、それまでのフォークと同じスタイルをとりながらも、歌う内容は全く変わっていた。自分の思ったことを歌う、歌いたいことだけを歌うというマイペースの姿勢に変わりはないが、社会問題をテーマにするのではなく、自分の身近な私生活をテーマにした[281]、反体制イディオムと青春歌謡を直結させる手法は新鮮で、現在のロッカーもこの手法を無意識に踏襲[282]、「旅の宿」「襟裳岬」等に共通する"和"の世界 "ジャパネスク"路線も、後のシンガーソングライターたちに無意識下に下敷きにされる[283]、例えば、田上雅充の「春うらら」は「旅の宿」をベースに春歌的趣味を加えたもの[284]、フツーの男が、とてもマガオでは言えないような話を平気で自然に歌に出来る力強さ[285]、といった論調がある。
  14. ^ 織田哲郎は「演歌にも通じる日本人の歌心に新しいスタイルを提示した人」と評している[286]笠井潔は「ユーミン、陽水の前史として拓郎がある。拓郎は自身が考えていること、感じていることを、そのまま歌にして歌うという近代的な表現意識を、非常に直接的に、シンプルな形で典型的に確立した。大衆歌謡としての自己表出という非常に明瞭な方法意識を確立させた。陽水にしても、中島みゆきにしても、60年代歌謡の水準をそのまま高次化したわけではなくて、いったん吉田拓郎に体現されているような近代的表出意識を転回点にした上で、もう一度60年代歌謡の位相に戻ってくるという形をとっている」と論じた[287]。拓郎は演歌の歌唱法と歌詞法を超えて、身近な言葉を音(メロディ)に乗せえたいちばん最初の人。中島みゆきは、好むと好まざるとに関わらず、拓郎たちが領土化した発声と発想の路線上から出発した[288]、小室等は、「日本のフォークソングには拓郎と陽水という二つの大きな流れがある。それはアーティキュレイション(Articulation)でありフレーズ。拓郎の方が陽水よりポピュラリティがあって、日本のわらべ歌民謡に非常に近いものがある。また言葉に対する感性のセンスがいい。陽水のほうはもっと英語に近いアーティキュレイションでの日本語。拓郎と陽水がやったことの成果、功績は大。二人がいなかったら日本語の歌って違った形になっていたと思う。だからユーミンには失礼だと思うけれど、拓郎と陽水がいなかったら、ユーミンがああいう形であったかどうかって、僕はそう思ってしまう。勿論、ユーミンも才能のある人だから、何らかの発見をしたかも知れないけども、でも拓郎と陽水という実績の上に、今のユーミンがあると思うし、日本の歌もその上にあると思うね」[289]、「陽水、ユーミン、小田和正といった人たちが、非常に洋楽的なエッセンスと日本語の感性をドッキングさせる才能に長け、日本語としての生命力を保ちつつ曲を作るという意味で、エポック・メイキングだった人たちだった思う。拓郎辺りまでは、まだ七五調な日本語感性に踏みとどまっていたが、その後日本の音楽は限りなく英語感性に寄り添っていったと思う」[290]と論じた。南田勝也は「フォークからプロテスト性をそいだ形で「自分の思ったことを自分の言葉で歌う」というテーゼだけを保持し、自身の「私生活」を表現」と論じた[291]
  15. ^ ドラムは再建後のエレックレコード社長・萩原克己
  16. ^ 同時期にはっぴいえんどが岡林信康のバック演奏を務めたことは有名だが、レコーディングは、はっぴいえんど主導で行われたといわれている[314]
  17. ^ 当時はシングルは売れても、アルバムは3千〜5千枚売れたらいい方であった[315]
  18. ^ 外国では、イギリスのワイト島フェスティバルが有名。
  19. ^ 泉谷しげるは「拓郎が『商業主義に染まりたくないからテレビには出ない!』なんてかっこよくいうもんだから、俺たちも『おおっ』ってなっちゃって。気がついたら振り上げた拳を下ろせなくなってさ。『弱っちゃったな、別にテレビ、嫌いじゃないんだけど』」と述べた[348]
  20. ^ 1970年代初頭ではまだ、テレビCMの世界で自らのサウンドスタイルを崩すことなく音楽制作を聞かせることができたのは、拓郎と大滝詠一だけであったといわれる[394]。「Cider'73」からはじまる大滝詠一が手掛けた三ツ矢サイダーの名作シリーズは、拓郎の「HAVE A NICE DAY」に対抗するため、当初サクラカラーはっぴいえんどにCMソングを依頼したもので、はっぴいえんどの解散でこれは流れたが担当者が大滝の楽曲を気にいり、大滝個人に三ツ矢サイダーのCMが持ち込まれたもの[395]
  21. ^ 拓郎はランちゃんが苦戦したのは、その日が生理だったからとマネージャーに言われたと著書に書いている[429]
  22. ^ 「てぃーんずぶるーす」6位、「キャンディ」10位、「シャドーボクサー」14位(期日不明)[446]
  23. ^ 近年のコンサート/ライブでは、こうしたMCも重要な構成要素とされるが、小室等は1980年に出した著書の中で「歌と直接関係を持たない、お客さん用のおしゃべりのような、くだらないことを拓郎にやらせた、覚えさせたのはファンに半分責任がある」と、MCに対する問題提起をしている[472](ほぼ同じ内容の記述)[473]
  24. ^ 当初は泉谷が1人で募金ライブを敢行、これに拓郎が「スーパーバンド」という概念を加え、その後泉谷と拓郎、小田が軸となって「スーパーバンド」としてチャリティコンサートを行う[513]
  25. ^ 最初は詞だけの依頼だったが、拓郎に今さら頭が上がらず、色々注文を付けられ詞も曲も書くことになったと中島は話している[542]
  26. ^ 岡林は、はっぴいえんどとロックをやり始めたため、怒ったフォークファンが怖くなり対人恐怖症になって歌を辞めると宣言し渡米、帰国後も京都の寒村に穏棲したりし表舞台に立たなくなった[616]
  27. ^ ペニーレインは原宿にあった伝説のバー。当時、ユイ音楽工房社長だった後藤由多加が飲食店事業の一環として1974年に立ち上げた。拓郎の楽曲「ペニーレインでバーボン」で有名になり、修学旅行のコースにもなった"1970年代原宿の象徴"ともいわれる名店[654]。休日は終日満員となり、マッチが一日500個消えていき、地方から上京したヤングが地元に持ち帰るマッチはプレミアムがついて売れたという[655]。1990年に閉店、2006年に復活した。

出典[編集]

  1. ^ a b 吉田拓郎(ヨシダタクロウ)の情報まとめ”. OKMusic. OKWAVE. 2021年11月30日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h Takuro Yoshida: Shangri-La - The Band Website (英語)
  3. ^ a b c d Apple Musicの「吉田拓郎 : 隠れた名曲」”. Apple Music. 2021年11月30日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j 坂根2, pp. 130–132.
  5. ^ a b c d e f g h i j 「ロングインタビュー 吉田拓郎 家族・時代・仕事をめぐる対話 〈聞き手・重松清〉」 『すばる集英社、2010年3月号、122-150頁。 
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n 柳井康弘「吉田拓郎が日本のフォークソングに与えた偉大なる影響 : 私生活フォークの成立と「僕の歌」をめぐって(芸術のロケーション)」『Booklet』第12巻、慶應義塾大学学術情報リポジトリ(KOARA)、2004年1月31日、 83-92頁、 NAID 110004646497
  7. ^ a b c d e f g h 吉田拓郎 シンガーソングライター よしだたくろう”. NHK人物録. NHKアーカイブス. 2020年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月7日閲覧。音楽活動にピリオド 原点は広島… 吉田拓郎に捧ぐ! “広島フォーク村” は永遠なり…”. RCCニュース. 中国放送 (2022年7月19日). 2022年7月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月25日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o “第77回中国文化賞受賞に寄せて 吉田拓郎氏エッセー”. 中国新聞デジタル (中国新聞社). (2020年11月4日). オリジナルの2020年11月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20201103154811/https://www.chugoku-np.co.jp/column/article/article.php?comment_id=695728&comment_sub_id=0&category_id=450 2021年3月20日閲覧。 西村文 (2020年11月3日). “第77回中国文化賞受賞 シンガー・ソングライター 吉田拓郎氏(74)=東京都 「等身大」歌った先駆者”. 中国新聞デジタル (中国新聞社). オリジナルの2020年11月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20201102214940/https://www.chugoku-np.co.jp/column/article/article.php?comment_id=695820&comment_sub_id=0&category_id=450 2021年3月20日閲覧。 
  9. ^ 吉田拓郎プロフィール”. タワーレコードオンライン. タワーレコード (2016年12月27日). 2021年11月13日閲覧。吉田拓郎 - Music Store”. Music Store. LISMO. 2021年11月13日閲覧。吉田拓郎”. ナタリー. ナターシャ. 2021年11月6日閲覧。実力派多し!広島出身アーティスト10選!”. TSUTAYA MUSIC PLAYLIST. カルチュア・コンビニエンス・クラブ (2017–05–19). 2018年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月19日閲覧。吉田拓郎 これからも元気です”. 中国放送 (2001–02–10). 2021年6月19日閲覧。きくち伸 (2004–09–10). “レポート サンスポ 連載:きくち伸話”. フジテレビジョン. 2021年6月19日閲覧。
  10. ^ 吉田拓郎3, pp. 164–165.
  11. ^ a b c d e f g 高堀冬彦 (2022年7月21日). “引退「吉田拓郎」と学生運動 広島大で運動家から「やめろ!」と吊るしあげられた過去”. デイリー新潮. 新潮社. p. 2. 2022年7月25日閲覧。
  12. ^ a b c d 【歌手引退】吉田拓郎、52年の活動を振り返ってみえた「日本音楽史のレジェンド」になれたワケ”. 週刊女性PRIME. 主婦と生活社 (2022年7月18日). 2022年7月25日閲覧。
  13. ^ a b c d 「独りぼっちは寂しくない」吉田拓郎76歳の「終活」 森下愛子に生前贈与、事務所を清算”. 週刊文春電子版. 文藝春秋. p. 2 (2022年7月20日). 2022年7月25日閲覧。
  14. ^ a b c オリコン芸能人事典-ORICON STYLE よしだたくろう吉田拓郎|アーティスト|株式会社フジパシフィック音楽出版 (archive)、| 吉田拓郎 | Museum of Modern Music (archive)
  15. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s nikkansports.com> 日刊スポーツ> 吉田拓郎インタビュー(archive)、【こんな人】テレビ見納め吉田拓郎 帰れコールに悪びれず、キャンディーズ曲依頼受け「勝った」吉田拓郎 Takuro Yoshida4 (archive) 吉田拓郎 Takuro Yoshida5 (archive)上田融 (2022年4月17日). “「つま恋」「全国ツアー」「フォーライフ」……。吉田拓郎、本紙に語る”. 東京新聞 (中日新聞東京本社). オリジナルの2022年4月17日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220417000523/https://www.tokyo-np.co.jp/article/171933 2022年4月23日閲覧。 “吉田拓郎“風穴”とシャウトの軌跡(前編)ピストルを鳴らした「KinKi Kids」の存在”. 日刊ゲンダイデジタル (日刊現代). (2022年4月22日). オリジナルの2022年4月21日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220421213514/https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/304273 2022年4月23日閲覧。 
  16. ^ “拓郎最後のツアー9公演3万枚が即日完売”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2009年4月5日). オリジナルの2015年10月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151022133745/http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20090405-479041.html 2015年10月22日閲覧。 弾き語り&トーク、吉田拓郎の魅力が凝縮したラジオ!『吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』”. radiko. radiko (2021年7月9日). 2021年7月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月6日閲覧。ナタリー - 拓郎から星野源まで、男性シンガーソングライター名盤紹介DIGAとオヤジと音楽と。 ブルーレイ/DVDレコーダー (archive)
  17. ^ a b c シンコーミュージック3, p. 6.
  18. ^ a b c d 【コラム】木田高介の果たした大きな役割|HMV ONLINE
  19. ^ a b c d e Museum of Modern Music70'sバイブレーション! なぎら健壱インタビューp.3 (archive)、なぎら健壱インタビューp.4 (archive)
  20. ^ Jロック&ポップスCD名盤ガイド編集委員会, p. 19; シンコーミュージック3, p. 6; 馬飼野元宏, pp. 118–120.
  21. ^ a b c d e f g h i j k l m "吉田拓郎「リタイアしたい」76歳 日本フォークの旗手、芸能活動年内終了へ 来月フジ特番が最後のテレビ". Sponichi Aneex. スポーツニッポン新聞社. 25 June 2022. 2022年6月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月25日閲覧元尾哲也 (25 June 2022). "拓郎の"店じまい"シャイであるうちに、実にまともで紳士的な人物だった". Sponichi Aneex. スポーツニッポン新聞社. 2022年6月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月25日閲覧
  22. ^ a b c d BS日テレ - 「地球劇場〜100年後の君に聴かせたい歌〜」#3 ウタビト 吉田拓郎谷村さんの投稿 吉田拓郎登場!! - 谷村新司 Shinji Tanimura Official site『フォークソングの時代』 曲目メモ by 森山良子 - ハイレゾ音源配信サイト井上陽水、唯一無二の世界観で魅せた「UNITED COVER2」東京公演
  23. ^ a b c d e f g h i j k 【吉田拓郎「元気です」】 日本の音楽のあり様に革命を起こす - ダイヤモンド・オンライン発売1ヶ月で40万枚を売り上げた吉田拓郎のメジャーデビュー作『元気です。』フォークソングをメジャーに!吉田拓郎 「元気です」 ロック・ポップス/国内ロック・ポップス、70年代の名盤の口コミ井上陽水の吉田拓郎評「こうなんだと前面に言い放っている感じ」40年前、吉田拓郎と井上陽水に人生を変えられた若者たちの証言
  24. ^ a b c d e f g “桑田佳祐「吉田拓郎、偉大です。ファンでございます」活動区切りで感謝コメント”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2022年6月29日). オリジナルの2022年6月25日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220625150030/https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202206250001694.html 2022年7月5日閲覧。 桑田佳祐、22年ぶりオールナイトニッポン復帰、ロックの子、1985年、桑田佳祐、講談社、p.89
  25. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus 百科事典マイペディア - 吉田拓郎 コトバンクApple Musicの「はじめての吉田拓郎」”. Apple Music. 2022年5月4日閲覧。今日は一日 三昧(ざんまい)(archive)]
    iTunes - ミュージック - 吉田拓郎「よしだたくろう 青春の詩」
    BS-TBS「SONG TO SOUL〜永遠の一曲〜」 結婚しようよ/吉田拓郎 2008年1月24日放送
    田家秀樹 日本ライブ伝説(1)吉田拓郎と1970年代 野外へ放たれた叫び (archive)
    吉田拓郎は青春の反抗者だったのか - 旅行人編集長のーと第105回:「ロックと日本の60年」第6章 クイーンを筆頭に、まばゆきロック・アイドルの時代へ(archive)
  26. ^ a b c 「いま、ふたたびのフォーク!! 拓郎・陽水でメジャー化したフォーク史」『ダカーポ』、2007年3月21日号、マガジンハウス、pp.107-119
  27. ^ a b c d e f g h i j k l 池内亜希 (2022年7月3日). “今も消えぬ“ギターだこ”…吉田拓郎「音楽はやっぱり最後まで一緒にいる存在ですよ」”. 読売新聞 (読売新聞社): p. 3. オリジナルの2022年7月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220702215254/https://www.yomiuri.co.jp/culture/music/20220701-OYT1T50136/ 2022年7月5日閲覧。 
  28. ^ a b 馬飼野元宏, pp. 118–120.
  29. ^ 吉田拓郎さん“最後のアルバム” アーティスト活動締めくくる”. NHKニュース. 日本放送協会 (2022年6月29日). 2022年6月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月5日閲覧。吉田拓郎をApple Musicで アーテイストプレイリスト”. Apple Music. Apple. 2021年11月13日閲覧。「あの年この歌SP「日本の音楽を変えた4人」あの年この歌〜時代が刻んだ名曲たち〜BSジャパン、2016年1月16日放送、小川真一 (2020年9月9日). “フォークソングを愛する人に甦る全盛期の記憶 社会現象には背景があり、歌にも行程があった”. 東洋経済オンライン. 東洋経済新報社. 2021年11月13日閲覧。高堀冬彦 (2022年7月21日). “引退「吉田拓郎」と学生運動 広島大で運動家から「やめろ!」と吊るしあげられた過去”. 週刊新潮. 新潮社. p. 3. 2022年7月25日閲覧。
  30. ^ a b c d マキタスポーツスージー鈴木/佐保圭 (2018–11–10). “奥田民生&吉田拓郎で、鉄道に乗ってさすらいの旅へ 吉田拓郎のDNAを継承する奥田民生の「旅歌」”. 日経トレンディネット. 日経BP. 2021年11月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月13日閲覧。マキタスポーツスージー鈴木/佐保圭 (2018–11–10). “Vol.14 奥田民生&吉田拓郎で、鉄道に乗ってさすらいの旅へ”. ザ・カセットテープ・ミュージック. BS12 トゥエルビ. 2020年9月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月19日閲覧。BS12 トゥエルビ ザ・カセットテープ・ミュージック 第25回 『吉田拓郎の歌詞が好き』
  31. ^ すべては吉田拓郎から始まった―吉田拓郎展. TAKURO YOSHIDA ARTIST GALLERY TAKURONICLE 1970 >>> Just now126ch SUPER LEGEND 名盤チャンネル 吉田拓郎- Music Bird (archive)、【時代のサカイ目】現代CMソング考 求められる視覚と聴覚への“瞬間刺激” - ZAKZAK読売新聞、2010年1月1日2月にエイベックスへ移籍した『吉田拓郎』にインタビュー!!(archive)吉田拓郎 3年ぶりの首都圏ライブ開催決定 | Musicman-NET (archive)、5月1日 ゲスト:富澤一誠さん - ドコモ団塊倶楽部1月23日の放送は~|J-POP LEGEND FORUM|FM COCOLO1972年1月21日吉田拓郎「結婚しようよ」がリリース~「闘う歌」から「暮らしの歌」への大転換となった歴史的な一曲 鈴木耕- 大人のミュージックカレンダー、大編集後記その八。吉田拓郎が教えてくれた。 | 雑誌・昭和40年男日本における黎明期のロックコンサートとフェスティバル--1950〜70年代前半を中心に井上陽水「能古島の片想い」に見る片想いの美学 | Bizコンパス(archive)、島崎今日子『安井かずみがいた時代』集英社、2013年、pp.281-283, 381
  32. ^ a b c d 田井裕規 (2019年10月19日). “米津玄師に見る現代の“カリスマの条件”、マスとコアを行き来する絶妙なバランス感覚”. オリコン. pp. 1-2. 2019年10月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月17日閲覧。
  33. ^ a b c d e f 田中隆信 (2021年6月7日). “インタビュー ラジオDJ・赤坂泰彦が語る、吉田拓郎と谷村新司が変えたフォークソングのイメージ”. HOMINIS. スカパーJSAT. 2022年5月11日閲覧。
  34. ^ 『ポピュラー音楽人名事典』日外アソシエーツ、1994年、p.661、ISBN 978-4816912238
  35. ^ 日経エンタテインメント!、日経BP社、2004年2月号- pp.28-29より
  36. ^ 坂根2, pp. 83–101.
  37. ^ 吉田拓郎さんの父の功績伝える評伝…拓郎さんの姉も「父の仕事のことは知らなかったので驚いた」
  38. ^ 坂根, pp. 83–101.
  39. ^ a b c d e 「シリーズおふくろ 第34回 訪問者 毒蝮三太夫 『よしだたくろう(26歳)の母 吉田朝子さん(65歳)」『週刊平凡』1972年8月31号、平凡出版、 152-157頁。
  40. ^ 坂根, pp. 130–132; 田家秀樹, p. 160.
  41. ^ a b c d e f g h i 高堀冬彦 (2022年7月21日). “引退「吉田拓郎」と学生運動 広島大で運動家から「やめろ!」と吊るしあげられた過去”. デイリー新潮. 新潮社. 2022年7月25日閲覧。
  42. ^ a b c d e f g 「ロングインタビュー 吉田拓郎 すべてを語る」 『AERA in FOLK あれは、ロックな春だった!』朝日新聞社、2006年4月5日号、40-45頁。 
  43. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 「宝島ロングインタビューⅡ吉田拓郎 「今、人生を語る」 インタビュー・構成 萩原健太」『宝島』1983年7月、宝島社、 63-77頁。
  44. ^ 公式ブログ2017/02/17(archive)
  45. ^ 「対談 長谷川和彦×相米慎二」 『シナリオ日本シナリオ作家協会、1980年8月号、8-17頁。 
  46. ^ a b c d e f g h i j k l m 公式blog – 2019年6月1日 – 木村匡也(きょうやブログ)ThePowerOfVoices
  47. ^ 奥田民生×吉田拓郎「高校同窓ミュージシャンが語る広島時代」井上陽水が対談仲介
  48. ^ 田家秀樹3, p. 10.
  49. ^ a b ザ・ダウンタウンズ時代の吉田拓郎。秘蔵音源お聴きのがしなく。
  50. ^ a b c 佐藤剛 (2021–04–08). “~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第16章(3)(4)】”. mysoundマガジン. ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス. 2021–04–08時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年9月27日閲覧。
  51. ^ a b c d e 今、なぜ吉田拓郎なのか? ボブ・ディランと共鳴する“稀代のメロディメーカー”の歩み
  52. ^ a b c d e f g h i j k 黒沢進 『日本ロック紀GS編 コンプリート』「地方GS 広島 ダウン・タウンズ」シンコー・ミュージックISBN 9784401631506、2007年、120頁
  53. ^ 芳根京子&Nomura Taiki出演「畑うまれのやさしいミルク」のCMソングは?”. CDジャーナル. 音楽出版社 (2022–04–05). 2022年4月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月27日閲覧。
  54. ^ 豊かなる日々 吉田拓郎、2003年の全軌跡、田家秀樹、2004年、ぴあ、p.123
  55. ^ a b c d e 「特集 巻頭スペシャルインタビュー 吉田拓郎 カリスマが沈黙を破って語る『'70年代の僕と音楽』 今、青春の詩(うた)を語ろう 聞き手 瀬尾一三 進行&構成 田家秀樹 撮影田村仁」 『ラピタ 月刊「吉田拓郎」』小学館、2003年9月号、20-26頁。 
  56. ^ ニッポンのうた漂流記、飯塚恆雄、2004年、河出書房新社、p.107
  57. ^ a b c 【歌手引退】吉田拓郎、52年の活動を振り返ってみえた「日本音楽史のレジェンド」になれたワケ”. 週刊女性PRIME. 主婦と生活社 (2022年7月18日). 2022年7月25日閲覧。
  58. ^ a b 田家秀樹3, pp. 144–145, 165–206.
  59. ^ a b c d 公式ブログ2019/11/11(archive)。同窓会公式ブログ2019/11/11(archive)
  60. ^ 田家秀樹3, p. 278.
  61. ^ LOVE LOVE あいしてる
  62. ^ profile97 | www.morinaga-hiroshi.com book - 森永博志
  63. ^ 田家秀樹3, pp. 291–298.
  64. ^ 田家秀樹3, pp. 349–360, 422–431.
  65. ^ ケータイde中国新聞 ケイタイでも読める「広島フォーク村」(archive)、吉田拓郎、ふたつの50年 広島フォーク村と深夜放送と蔭山敬吾ブログ Welcome to GRACELAND & Keigo Kageyama's LABELあの時の歌は…学都遠く - 暴走族 (archive)
  66. ^ 田家秀樹3, pp. 415–418, 432–438.
  67. ^ 谷口由記「広島出身ミュージシャン年代記(クロニクル)EX FLASH」、光文社、2001年1月30日号、pp.96-98
  68. ^ 『70年代ノート 〜時代と音楽、あの頃の僕ら〜』、田家秀樹著、毎日新聞社、2011年、p.39
  69. ^ 石原信一, pp. 27–28.
  70. ^ 読むJ-POP 1945-1999私的全史、1999年、田家秀樹著、徳間書店、p.121
  71. ^ カワイミュージックショップ広島 (archive)
  72. ^ 吉田拓郎5, pp. 64–66.
  73. ^ ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p.47
  74. ^ 音楽出版社, pp. 27–28.
  75. ^ シンコーミュージック2, p. 40.
  76. ^ “天風録 上京物語の、その先は”. 中国新聞 (中国新聞社). (2022年6月26日). オリジナルの2022年6月26日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220626012852/https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/179720 2022年7月25日閲覧。 
  77. ^ 田家秀樹3, p. 7.
  78. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 【歌手引退】吉田拓郎、52年の活動を振り返ってみえた「日本音楽史のレジェンド」になれたワケ 吉田拓郎が駆け抜けた半生 〜現在までの年表〜”. 週刊女性PRIME. 主婦と生活社 (2022年7月18日). 2022年7月25日閲覧。
  79. ^ R−S20夜明け前?-エレックレコード社長のべらんめえブログ、FOR LIFE RECORDS -PARADISE DIGITAL (archive)
  80. ^ a b 田家秀樹, pp. 141–142.
  81. ^ a b c イメージの詩〜吉田拓郎の運命を切り拓いた一曲
  82. ^ ツアーMC
    本田 路津子・特別インタビュー(archive)
  83. ^ a b c d 吉田拓郎の『報ステ』出演に東国原氏が感慨「元気で良かった!!」
  84. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 吉田拓郎プロフィール | FOR LIFE MUSIC ENTERTAINMENT,INC.TAKURO YOSHIDA (吉田拓郎) avex official website PROFILE(archive)
  85. ^ a b 吉田拓郎「イメージの詩」【Music Store】powered by レコチョク
  86. ^ a b c d e f g h 中将タカノリ・橋本菜津美 (2022年7月21日). “2022年で活動に終止符 吉田拓郎の功績と名曲を回顧 『LOVE LOVE あいしてる』では若きKinki Kidsの育成も”. ラジトピ. ラジオ関西. 2022年7月25日閲覧。
  87. ^ 別冊宝島編集部, p. 77.
  88. ^ a b c d e f 「音楽文化・産業論 2008 I」 講師:後藤由多加 「インディーズ創世記」中西健夫ACPC会長連載対談 Vol. 23 後藤 豊(フォーライフミュージックエンタテイメント代表取締役社長)”. 会報誌 ACPC navi. コンサートプロモーターズ協会 (2018年). 2021年5月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月18日閲覧。
  89. ^ 田家秀樹5, pp. 52–53.
  90. ^ 夢のあがり―ニューミュージックの仕掛人たち―1983年4月、富澤一誠著、音楽之友社、pp.41-42, 51-52。
  91. ^ 佐藤剛 (2020年1月7日). “佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」 vol.124 まだ無名だった吉田拓郎(よしだたくろう)が突然、大きなスクリーンに映し出された瞬間の記憶”. WHAT's IN? tokyo. 2020年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月20日閲覧。高護(ウルトラ・ヴァイブ)「澤田幸弘インタビュー 聞き手 本田隆一・高護」 『日本映画名作完全ガイド 昭和のアウトロー編ベスト400 1960‐1980』シンコーミュージック、2008年、88頁。ISBN 9784401751228 
  92. ^ “斜面(7月1日)吉田拓郎の後ろ姿 【あとがき帳あり】”. 信濃毎日新聞 (信濃毎日新聞社). (2022年7月1日). オリジナルの2022年7月5日時点におけるアーカイブ。. https://archive.ph/C6EeS 2022年7月5日閲覧。 第3回全日本フォークジャンボリーから47年目の夏の日 | ニッポン放送ナタリー - 日本初フェス「フォークジャンボリー」映画40年ぶりDVD化あの「中津川フォークジャンボリー」38年ぶり復活へ
  93. ^ a b c d e 『ポピュラー音楽人名事典』日外アソシエーツ、1994年、p.661、ISBN 978-4816912238
  94. ^ 1月30日 ゲスト:小室等さん、こむろゆいさん - ドコモ団塊倶楽部
  95. ^ 夢のあがり―ニューミュージックの仕掛人たち―、pp.60-63
  96. ^ ヤング・ギター・クロニクル Vol.1 吉田拓郎 これが青春、2007年、シンコーミュージックエンタテイメント、p.225
  97. ^ a b 吉田拓郎2, p. 191.
  98. ^ a b c d 田家秀樹特集 1970年代フォークソングの季節 サブカルチャーから若者文化の主流へ」『週刊昭和48年』第21巻、朝日新聞出版、2009年5月3日、 14-16頁。
  99. ^ BS-TBS「SONG TO SOUL〜永遠の一曲〜」 #結婚しようよ
  100. ^ a b c d e f 吉田拓郎によって始まったニューミュージックの時代を象徴するシンプルな名曲「どうしてこんなに悲しいんだろう」
  101. ^ a b c d e ニッポン放送「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」2013年6月24日放送、竹内まりや感激!拓郎と初共演「アイドルでした」(archive)
  102. ^ a b 佐々木淳・丹治史彦編『唄えば天国 - ニッポン歌謡映画デラックス 地の巻』メディアファクトリー、1999年、p.227
  103. ^ a b c d e f “【1972年8月】旅の宿/よしだたくろう 幸せの絶頂期にリリースしたヒット曲”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2011年8月7日). オリジナルの2013年7月19日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130719062815/https://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/08/kiji/K20110807001361850.html 2022年4月27日閲覧。 [ ]
  104. ^ 読売新聞、2009年12月9日、13面
  105. ^ a b jinz bar - 前田 仁の「歌たちよ、どうもありがとう」第2回[リンク切れ]
  106. ^ a b あがた森魚が語る「ベルウッド・レコード」と、伝える技術の話
  107. ^ a b c 【歌手引退】吉田拓郎、52年の活動を振り返ってみえた「日本音楽史のレジェンド」になれたワケ”. 週刊女性PRIME. 主婦と生活社. p. 2 (2022年7月18日). 2022年7月25日閲覧。
  108. ^ a b c d e 「'70年代ヒットパレード大特集 あのとき僕らの言葉が歌になった! 吉田拓郎が駆け抜けた節操なき10年」『FLASH臨時増刊 Extime(エクスタイム)』、光文社、2007年10月10日、 28-34頁。
  109. ^ シンコーミュージック2, p. 185.
  110. ^ a b プレイバック芸能スキャンダル史 吉田拓郎「金沢事件」 女子大生の狂言でCM自粛、放送禁止に(archive)
  111. ^ 島地勝彦 (2015年2月28日). “久保利英明 第4回「総会屋からはよく『こら久保利! ヤクザモンでも着ないような服着やがって!』と罵倒されました」”. 現代ビジネス. 講談社. 2022年7月4日閲覧。
  112. ^ シンコーミュージック, p. 126.
  113. ^ 月刊明星、1973年8月号、集英社、〈独占!よしだたくろう1800字自筆手記〉、pp.82-85
  114. ^ 石原信一2, pp. 76–77.
  115. ^ 『ラインダンス』、井上陽水、新潮社、1982年、p.130
  116. ^ 日本経済新聞、1975年5月2日、p.16、朝日新聞、1975年5月2日、p.23
  117. ^ ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p.102
  118. ^ 矢沢保, p. 249.
  119. ^ a b c d 吉田拓郎さんの〝終活〟宣言と桑田佳祐さんの生涯現役宣言で思い出す(1/1ページ)
  120. ^ a b c “【日本のフォークソング】学生運動を経て大衆に受け入れられたその歴史とは”. うたびと (チャンネル銀河). (2022年4月8日). オリジナルの2022年4月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220408030635/https://www.utabito.jp/news/11132/ 2022年4月17日閲覧。 
  121. ^ a b 【歌手引退】吉田拓郎、52年の活動を振り返ってみえた「日本音楽史のレジェンド」になれたワケ”. 週刊女性PRIME. 主婦と生活社 (2022年7月18日). 2022年7月25日閲覧。
  122. ^ 人気ラジオ番組「緊急ハプニング集」! | アサ芸プラス第90回 新田 和長 氏 5. 加藤和彦氏との音楽的な日々| Musicman-NET
  123. ^ 青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p.160
  124. ^ 拓郎&かぐや姫の“元祖日本の夏フェス”映像がDVD化! - Barks
  125. ^ 日本経済新聞、2006年4月12日、20面
  126. ^ 新宿ルイード物語、1988年、富澤一誠、講談社、pp.151-155。アサヒ芸能、2009年7月9日号、p.39
  127. ^ 封印歌謡大全、2007年、石橋春海、太田出版、pp.150-151
  128. ^ a b 別冊宝島編集部, p. 34.
  129. ^ 石原信一2, p. 228.
  130. ^ a b 80年代ノート・花開いたj-POP 「俺はフォークじゃない」 1980年 渡米し録音、拓郎の挑戦
  131. ^ 資生堂 キャンペーンソング - MySound
  132. ^ a b c 「びっくり記録 "スーパースター"ベスト10」『週刊サンケイ』1986年11月12日号、産業経済新聞社、 101頁。
  133. ^ 吉田拓郎4, p. 97.
  134. ^ 吉田拓郎、再度ツアー中止を発表 「つま恋」「追加公演」払い戻しへ
  135. ^ 【オリコン】吉田拓郎、66歳でDVD最年長TOP10 P.マッカートニー記録抜く
  136. ^ "吉田拓郎 ムッシュさん名曲「我が良き友よ」秘話語る「とにかくヒットを」". Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社. 8 March 2017. 2018年6月11日閲覧
  137. ^ “吉田拓郎が最後のテレビ出演、KinKi Kidsとの「LOVE LOVE あいしてる」が復活”. 音楽ナタリー (株式会社ナターシャ). (2022年6月25日). https://natalie.mu/music/news/482986 2022年6月30日閲覧。 
  138. ^ 清川仁 (2015年8月6日). “戦後70年 ここから変わった(4)…シンガー・ソングライター”. 読売新聞 (YOMIURI ONLINE). オリジナルの2015年10月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151022141137/http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20150806-OYT8T50105.html 2015年10月23日閲覧。 
  139. ^ a b c “THE ALFEE 坂崎幸之助さん、フォークソングを語る!”. エフエム東京. (2014年8月17日). オリジナルの2015年10月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151022145954/http://www.tfm.co.jp/hv/?itemid=84316 2015年10月23日閲覧。 
  140. ^ 頭脳警察、2004年8月・須田諭一著・河出書房社、pp.231-232
  141. ^ ロックミュージックの社会学、南田勝也、青弓社、p.132
  142. ^ 宝島、1983年7月号、p.74
  143. ^ a b 黒沢哲哉『ぼくらの60〜70年代熱中記』、いそっぷ社、2012年、pp.98-101
  144. ^ サンデー毎日、1972年6月25日号、p.43
  145. ^ 田家秀樹, p. 163.
  146. ^ サンデー毎日、1972年6月25日号、p.43
  147. ^ 「ドキュメンタリー 頭脳警察」公開記念イベント11月11日編 - BARKS
  148. ^ 矢沢保, pp. 38–40.
  149. ^ a b c d 60年代フォークの時代 - 日本のフォーク&ロック・ヒストリー1、p.194
  150. ^ イエスタディ '60's - '80's ―音楽記者の取材ノートから―、1989年、永井晶子、CBS・ソニー出版、pp.77-78
  151. ^ a b c d “小貫信昭のコラム 名曲!言葉の魔法 第55回 吉田拓郎「今日までそして明日から」”. 歌ネット (ページワン). (2017年1月5日). オリジナルの2017年6月19日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170619233703/https://www.uta-net.com/user/column/55.html 2022年4月9日閲覧。 
  152. ^ シンコーミュージック 1992, p. 14.
  153. ^ a b c 小西良太郎「日本のフォークは、いま... "フォーク"という四文字言葉、それは一体何なのだ」『ニューミュージック・マガジン』、ミュージック・マガジン、1974年8月号、pp.24-27
  154. ^ a b c 学研ホールディングス 2001, p. 19.
  155. ^ a b c 富澤一誠のライブ・カルテ! 第44回 : 「岡林信康と吉田拓郎は特別な存在」
  156. ^ a b 小西良太郎『昭和の歌100 ―君たちが居て僕が居た』、幻戯書房、2016年
  157. ^ a b c d 重見吉徳 (2020年10月16日). “吉田拓郎と重なる 中銀の投資家救済”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). オリジナルの2020年10月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20201016120416/https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65008910U0A011C2000000/ 2022年4月17日閲覧。 
  158. ^ a b c d e 今野多久郎 (2004–04–12). “【特別寄稿】吉田拓郎というアーティストから得たこと”. BARKS. ジャパンミュージックネットワーク. 2020年6月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月11日閲覧。
  159. ^ 70歳になった吉田拓郎が「SONGS」初登場!”. ザテレビジョン. KADOKAWA (20215-09-01). 2022年5月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月11日閲覧。NHKネットクラブ 番組詳細(SONGS「吉田拓郎~今だから人生を語ろう」)(archive)、吉田拓郎が「SONGS」初登場「いくつになってもラブソングを歌い続けたい」、『ぼくらの時代、ぼくらの歌』、田川律著、思想の科学社、p.110
    『アグネス・ラムのいた時代』、長友健二+長田美穂、中央公論新社、pp.155-156
    『NEW MUSIC '81 ニューミュージック事典』、学習研究社、p.19
  160. ^ a b c Jポップを創ったアルバム 1966〜1995、北中正和平凡社、2008年、pp.40-43
  161. ^ 日本総合研究所 || 寺島実郎の発言 問いかけとしての戦後日本-(その5)日本人の心を映し出す歌謡曲の変遷 (archive)
  162. ^ にほんのうた 戦後歌謡曲史、北中正和、新潮社、p.165-166
  163. ^ a b 伊藤強『TV世代に夢をつれてきた 日本の歌手“50+1”人』、日本テレビ放送網株式会社、1990年、ISBN 9784820390152、pp.265-269
  164. ^ 日本流行歌変遷史―歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へ、菊池清麿論創社、2008年
  165. ^ 自由現代社編集部『魂のフォーク・ソング大全集』、自由現代社、2011年、ISBN 9784798217468 p.48
  166. ^ 第80回ボーナストラック:吉田拓郎ペンタの衝撃!”. ザ・カセットテープ・ミュージック. BS12 トゥエルビ (2021年1月10日). 2021年1月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月27日閲覧。
  167. ^ a b 相田毅 (2020–11–06). “もしあのBIGアーティストが「文春砲にやられた」歌詞を書いたら 吉田拓郎の詞世界においては、風が吹いても桶屋は儲からない。”. 幻冬舎plus. 幻冬舎. 2020年11月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月27日閲覧。
  168. ^ 岩崎稔上野千鶴子北田暁大小森陽一成田龍一「上野千鶴子×小森陽一×成田龍一 ガイドマップ60・70年代」『戦後日本スタディーズ(2) ……60・70年代』、紀伊国屋書店ISBN 9784314010511、2009年、pp.28-29
  169. ^ 恩蔵茂, pp. 3–5.
  170. ^ 5月1日 ゲスト:富澤一誠さん - ドコモ団塊倶楽部ディランがいなければ、吉田拓郎は「文学者」になっていただろう - iRONNA(archive)
  171. ^ 針金を曲げてハーモニカ・ホルダーを作り、首にかけるスタイルも日本では拓郎が最初といわれる(『徳光和夫のトクセンお宝映像!』帰ってきたフォークソング伝説2、BS日テレ、2012年3月14日放送)。
  172. ^ ステージに譜面台を持ち出したのも、ニューミュージック界では拓郎が最初といわれる(あいつのクシャミ、1980年、富澤一誠、飛鳥新社、p.49)。
  173. ^ a b c d 週刊現代、2013年3月5日号 pp.136-137 「わが人生最高の10冊」
  174. ^ 芸能界でコーヒー・ブレイク:私の音楽評論はラブレターだった、吉見佑子、八曜社、1980年、p.10
  175. ^ 毛糸だま編集部編『70年代に編み物ファッションの原点があった』日本ヴォーグ社、2011年、p. 32。 ISBN 978-4-529-04958-0
  176. ^ a b c d 泉麻人『僕の昭和歌謡曲史』、講談社、pp.132-138
  177. ^ a b 富澤一誠『あいつの切り札―松山千春から吉田拓郎まで36人』、音楽之友社、1981年、pp.224-228
  178. ^ Jロック&ポップスCD名盤ガイド編集委員会, p. 19; 坂崎幸之助, pp. 60–74.
  179. ^ a b c 坂崎幸之助, pp. 60–74.
  180. ^ a b c d e f さんまP『漁港の肉子ちゃん』主題歌は10歳人気子役・稲垣来泉が歌唱 吉田拓郎の名曲カバー堂本兄弟、2004年2月29日【氷室京介】『WOWOW presents KYOSUKE HIMURO 25th Anniversary TOUR古舘伊知郎チャンネル(公式) 2022年6月3日、【昭和ロックを語る時が来た】鮎川誠が明かす博多に現れた内田裕也さんとの秘話Toshiya Ohno (2021年10月17日). LOUDNESSの高崎晃が語る、80年代メタル全盛期と世界進出. (インタビュー). CCCミュージック・ラボ. Rolling Stone Japan.. https://rollingstonejapan.com/articles/detail/36649 2021年11月14日閲覧。 横浜銀蝿「中森明菜ちゃん、ピンク・レディーさん、三原じゅん子さん…」今だから話せる80年代秘話竹内まりや感激!拓郎と初共演「アイドルでした」(archive)、完全引退へ!小室哲哉が“負けを認めた”アーティストとはROLLY、セルフカバー作を語り尽くす「ミュージシャンと音楽ファンの両方の気持ちがある」夫人へのプロポーズは吉田拓郎の「結婚しようよ」‥ノーベル賞の吉野教授 | CBCテレビ動画ニュースサイト【CBC NEWS(CBCニュース)】 (Archive)、道草ばかりの私の研究 - 関西大学作詞家・秋元康氏の原点は「高3の夏休みのニッポン放送レコード室」初の自選歌詞集が発売「恋妻家宮本」吉田拓郎の代表曲が劇中歌に、エンディングで阿部寛や天海祐希が合唱「作家で聴く音楽」第六回 松井五郎「『エヴァ』作詞家と言われるのは飽きました」 及川眠子が語る、作詞家人生と時代の変化SION - Key Person 第25回 -自分で歌を書くようになってから音楽を好きになった俳優・升毅、料理の腕前はプロ級。自宅マンションで友人が集う“居酒屋風”憩いの場ひらくハードロック! ROLLY(寺西一雄) 山本恭司 Webマガジン 月刊チャージャー(Internet Archive)、EPICソニー名曲列伝:THE真心ブラザーズ「どか~ん」にみる吉田拓郎イズムとは?中村正人(DREAMS COME TRUE) - J-Wave(Archive)、竹原ピストルが吉田拓郎&ビートたけしの名曲をカバー『The Covers』3・30放送堂本剛「出会えて本当によかった」吉田拓郎への熱い思い【菅田将暉 機材紹介】2018.2.27@渋谷CLUB QUATTRO “菅田将暉 Premium 1st TOUR 2018”aimyongtterの2016年10月27日21時40分のツイート- Twitter 「吉田拓郎さんのライブに行ってきた。震えた」、阿部嘉昭ファンサイト: 再帰性と再帰性が反射する--三村京子について(Internet Archive), 石崎ひゅーい×須藤晃「アタラズモトオカラズ」インタビュー (1/4) - 音楽ナタリー
    小野瀬雅生 インタビュー|MUSICSHELF(archive)、インタビュー:意識よりも“衝動”に忠実な全12曲を収録! andymori「日本語のすごさ」に気づいた、吉田拓郎の楽曲は…go!go!vanillas・牧が明かすマキタスポーツ「20代の挫折」経て気づいた才能 器用さを褒められても素直に受け止められずdps 『タイムライン』 音楽の本質やルーツを閉じ込めた奥行きのある作品に
  181. ^ a b 山本コウタロー, p. 4.
  182. ^ 永遠のJ-POP、2004年、島敏光、学習研究社、pp.229-230
  183. ^ 別冊宝島編集部, pp. 5, 20–21.
  184. ^ 7 - _... moment ...._
  185. ^ 浦沢直樹 - ルーフトップギャラクシーw
    あの時代の風
    「佐野史郎、はっぴいえんどと音楽を語る」 PART 2 of SPECIAL INTERVIEW
    時代に合った新しい映画を出していきたい - INTERNET Watch
    4 - sotozen-net (archive)
  186. ^ 放送禁止歌手 山平和彦の生涯、p.9
  187. ^ ラヴ・ジェネレーション1966-1979 新版 日本ロック&フォークアルバム大全、田口史人湯浅学北中正和監修、1996年、音楽之友社、p.43
  188. ^ シンコーミュージック, pp. 4–7.
  189. ^ 矢沢保, pp. 44–85.
  190. ^ 矢沢保, p. 61,133.
  191. ^ 新版 日本流行歌史 下、古茂田信男、矢沢寛、島田芳文、横沢千秋、社会思想社、1995年、pp.63-64
  192. ^ 菊池清麿『日本流行歌変遷史―歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へ、論創社、2008年、pp.245-246
  193. ^ 福田一郎「特集 日本のロック史を再検討する 福田一郎×ミッキー・カーティス×加藤和彦 (司会)中村とうよう」『ニュー・ミュージック・マガジン』1972年5月号、ミュージック・マガジン、 49–50頁。
  194. ^ Museum of Modern Music70'sバイブレーション! なぎら健壱インタビューp3(archive)なぎら健壱インタビューp4(archive)
  195. ^ 五つの赤い風船とフォークの時代、なぎら健壱、アイノア、2012年、pp.194-195
  196. ^ 中川五郎が語る、フォーク・ソングとの出会いからコロナ禍までを描いた自叙伝
  197. ^ a b c d e f g h i j 「よしだたくろうのデッカイ変身紅白はふったが、NHKに初出演」『週刊明星』1972年12月10日号、集英社、 45–47。
  198. ^ 小室等 『小室等対談集 ポップス談議』ヤマハ音楽振興会、1975年9月10日、8頁。 
  199. ^ 泉谷しげるデビュー50周年、エレックからフォーライフへの変遷を本人と振り返る p.2
  200. ^ a b c “【ダイアモンド✡ユカイ×織田哲郎 対談・中編】音楽少年の人生を変えた長戸大幸さんとの出会い”. 東京スポーツ (東京スポーツ新聞社). (2021年6月30日). オリジナルの2022年4月10日時点におけるアーカイブ。. https://archive.ph/OzNFp 
  201. ^ 坂崎幸之助, pp. 69–70, 110–114.
  202. ^ 日本流行歌変遷史、2008年、論創社菊池清麿、pp.218-219, 245-246
    日本のフォーク&ロック史―志はどこへ―、1982年9月・田川律著・音楽之友社、pp.72-73
    アグネス・ラムのいた時代、長友健二+長田美穂、中央公論新社、p.149, 152-153
    60年代フォークの時代、シンコーミュージック、pp.201-206, 214
    70's STAR・DUST、1996年、陣馬虫太郎、ヒット出版社、p.113
    わが青春の流行歌、1990年、池田憲一、白馬出版、p.107
    ザ・サクセス・ストーリー 矢沢永吉からY・M・Oまで、1981年、塩沢茂、冬樹社、p.10
    音楽する社会、1988年、小川博司、勁草書房、pp.49-50
  203. ^ a b 中村とうよう (2008年11月5日). “〈文化〉 40年前 <政治の季節>を再考する フォークソングの時代 『学生』と『関西』が二大勢力だった 新宿西口の集会で社会現象に”. 毎日新聞 (毎日新聞社): p. 16 
  204. ^ 吉田拓郎5, p. 217.
  205. ^ 吉田拓郎, pp. 48–50; 田家秀樹3, p. 151.
  206. ^ a b c Apple Musicの「はじめての吉田拓郎」”. Apple Music. 2022年5月4日閲覧。
  207. ^ club willbe(クラブ・ウィルビー):インタビュー 加藤和彦さんは ...
  208. ^ 日本経済新聞、2006年4月12日夕刊、p.20
  209. ^ 週刊現代、2012年2月25日号、p.90
  210. ^ 山本コウタロー, p. 3.
  211. ^ Gauguin(ゴーギャン)、2008年4月号・東京ニュース通信社、p.17
  212. ^ ディランを語ろう、浦沢直樹・和久井光司、p.38
    Gauguin(ゴーギャン)、2008年4月号・東京ニュース通信社、p.38
    【みうらじゅん インタビュー5 米国音楽界の巨人 ボブ・ディラン特集
    みうらじゅん インタビュー6 日経トレンディネット
    みうらじゅんの「あぁ、青春ノイローゼ」な10曲|音楽|HMV ONLINE
    日本崖っぷち大賞、1998年、みうらじゅん泉麻人山田五郎安斎肇毎日新聞社、p.183
    浦沢直樹 - ルーフトップギャラクシーw
  213. ^ ディランを語ろう、浦沢直樹・和久井光司、p.48
  214. ^ 山本コウタロー, pp. 64–65.
  215. ^ AERA in FOLK あれは、ロックな春だった!、2006年、朝日新聞社、p.43
  216. ^ 1973年12月の対談(小室等対談集、1975年、小室等、財団法人ヤマハ音楽振興会、p.18)。
  217. ^ 小室哲哉音楽対論 Vol.2、p.40
  218. ^ a b 田家秀樹5, pp. 44–45.
  219. ^ 別冊宝島編集部, p. 47; 矢沢保, pp. 27–28.
  220. ^ a b c d “楽庫・ライブ 吉田拓郎「よしだたくろう LIVE '73」(ソニーミュージック)”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2020年7月18日). オリジナルの2020年7月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200718070327/https://mainichi.jp/articles/20200718/dde/012/070/007000c 2022年5月11日閲覧。 
  221. ^ a b c d Go!Go!GUITAR特別編集『初めて弾いたこの一曲』ヤマハミュージックメディア、2009年、ISBN 9784636846928、p.19
  222. ^ a b c Sony Music Shop | 吉田 拓郎・吉田拓郎 スーパー・ヒット・CD・DVD
  223. ^ ディランから教わった「字余り」「字足らず」 吉田拓郎が思い語る えんび服で授賞式は想像できない吉田拓郎「僕はディランのモノマネ」70歳での初ツアー終了加川良の歌「教訓 Ⅰ」の時代をこえたリアリティ | 【es】エンタメステーション本当の「プロの歌」を聴きたい 演歌「復権」の背景とは : J-CAST【インタビュー】中村雅俊「折り返し地点はとっくに過ぎたかなと。だから、先を目指すのではなく、今日をどう生きるか」@ぴあ/インタビュー 大橋卓弥 - チケットぴあSISTER JETのそれ行け!カバーボーイ 第二回 Page.2 - プレイリスト伊勢正三、オール新曲16年ぶりアルバム発売へ「拓郎さんにも歌ってもらえたら」
  224. ^ a b 松崎真人 (2021年7月29日). “「字あまりではなく言葉がグルーブしている」よしだたくろう「イメージの詩」は日本語ロックの金字塔”. radiko news. radiko. 2021年7月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月8日閲覧。
  225. ^ 毎日新聞、1998年11月20日7面
  226. ^ 音楽出版社 2008, pp. 60.
  227. ^ a b 米大統領選に影響も…「反体制」の象徴、ボブ・ディランがノーベル文学賞 吉田拓郎は「彼がいたから今日がある」 (2/2ページ)
  228. ^ 山田兼士 字余りソングの詩的リズムについて 吉田拓郎の言語革命『洪水』14号、阿部嘉昭ファンサイト: 再帰性と再帰性が反射する--三村京子について(archive)
  229. ^ a b 時代は変われど転がり続けて - 日高新報 Web Hidaka (archive)
  230. ^ ロックの子、1985年、桑田佳祐、講談社、p.89
  231. ^ a b guts、表現技術出版、1972年8月、p.16
  232. ^ 坂崎幸之助, pp. 64–65; シンコーミュージック, p. 6; 馬飼野元宏, pp. 118–120.
  233. ^ アーティストインタビュー:斉藤和義”. JOYSOUND.com. エクシング. 2017年5月17日閲覧。
  234. ^ a b シンコーミュージック, p. 6.
  235. ^ 「冬の夜の長話 対談 森進一・よしだたくろう 『ほんとの寂しさがわかる同志なら…』」『月刊明星』1974年3月号、集英社、 148–149頁。
  236. ^ 今、歌うために走っている――小田和正74歳、これからに向けて鍛え直す日々”. Yahoo!ニュースオリジナル特集 (2021年12月22日). 2021年12月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月9日閲覧。
  237. ^ 村田久夫・小島智編「金子洋明インタビュー」 『日本のポピュラー史を語る―時代を映した51人の証言』シンコーミュージック、1999年10月14日、88-91頁。ISBN 4-401-613-40-6 
  238. ^ 言葉の達人たち、阿久悠扶桑社、1993年、pp.201-226
  239. ^ 志村けんと音楽の密接な関係 ハードロックからソウルフリークになったきっかけとは?”. エキサイトニュース. エキサイト. p. 5 (2020年4月2日). 2022年5月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月25日閲覧。
  240. ^ フォーク対談集、1974年、富澤一誠、アロー出版社、pp.141-160
  241. ^ 「ニューミュージック・マガジン」1972年11月号、p.100
  242. ^ a b c 馬飼野元宏 (2021–06–15). “セクシー歌謡全盛時代(5)”. リットーミュージック. 2022年4月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月25日閲覧。
  243. ^ ニューミュージック白書、1977年、p.54
  244. ^ a b よい子の歌謡曲、1983年、よい子の歌謡曲編集部編、冬樹社、pp.116-119
  245. ^ 『新譜ジャーナル・ベストセレクション'70s』pp.290-291
  246. ^ 江口寿史の正直日記、2005年、江口寿史、河出書房新社、p.73
  247. ^ 吉田拓郎3, pp. 146–148.
  248. ^ 石原信一2, p. 97.
  249. ^ 定本 はっぴいえんど、1986年、白夜書房、p.222
    はっぴいえんどコンプリート、2008年、シンコー・ミュージック・エンタテイメント、p.87
    失われた歌謡曲、1999年、金子修介、小学館、p.203, 206
    「Have A Nice Day LIVE2009 吉田拓郎フォト&ロングインタビュー集」p.26
  250. ^ 別冊宝島編集部 2006, pp. 36–37.
  251. ^ 坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、pp.182-183
  252. ^ ゲストとのLOVE LOVEなトーク #079 HomePageだけの特別編集版 南こうせつ編
  253. ^ a b c 木村ユタカ編著『俺たちの1000枚 10 Artists × 100 Albums』、シンコーミュージック・エンタテイメント、2016年、ISBN 978-4-401-64350-9、pp.222-244
  254. ^ サエキけんぞう「ムッシュのなせる業―ムッシュかまやつ」 『サエキけんぞうのマニョマニョトーク』河出書房新社、1994年12月28日、100-101頁。ISBN 4-309-40435-9 
  255. ^ 「インタビュー・吉田拓郎 『みんな親の保護から飛び立て!」『月刊明星』1979年8月号、集英社、 78頁。
  256. ^ シンコーミュージック3.
  257. ^ 別冊カドカワ 井上陽水、角川グループパブリッシング、2009年12月、p.194
  258. ^ a b 【発掘!流行り歌 徒然草】椎名林檎「ここでキスして。」(1999年) 年配には受け入れにくい「違和感」は大化けの予兆 デビュー秘話 (2/2ページ)
  259. ^ 吉田拓郎「古希」初ツアー 「そこらの70歳よりも元気なつもり」(archive)
  260. ^ 音楽出版社, pp. 64–68.
  261. ^ a b c d 昭和歌謡 勝手にベストテン、宝泉薫、彩流社、2009年、pp.48-51
  262. ^ 別冊宝島編集部, pp. 21–22.
  263. ^ 小室等対談集、1975年、小室等、財団法人ヤマハ音楽振興会、pp.15-20
  264. ^ 小室哲哉音楽対論 Vol.2、pp.38-40
  265. ^ 歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39、1998年、アスペクト、p.234-239
    筒美京平を否定する人たちがいた1980年代はじめ、近田が「筒美京平はすごい」と言ったことが筒美神話の始まり(その意味は 考えるヒット4、2001年、近田春夫文藝春秋、p.161)。
  266. ^ 定本 気分は歌謡曲、1998年、近田春夫文藝春秋、p.25
  267. ^ この街で君と出会い、1975年、喜多条忠、立風書房、p.145
  268. ^ Char meets???? TALKING GUITARS〜Char×ギタリスト対談集〜vol.1、シンコーミュージック・エンタテイメント、2009年、p.127
  269. ^ 歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39、アスペクト、p.9
  270. ^ 別冊カドカワ 井上陽水、角川グループパブリッシング、2009年12月、p.98
  271. ^ SPA!、2009年8月4日号、p.143、扶桑社CIRCUSKKベストセラーズ、2009年12月号、p.89
  272. ^ J-POP進化論 「ヨサホイ節」から「Automatic」へ、1999年、佐藤良明平凡社、p.170
  273. ^ 別冊宝島編集部, pp. 64–68.
  274. ^ 『僕の音楽物語 1972-2011 名もなきミュージシャンの手帳が語る日本ポップス興亡史』、平野肇、祥伝社、pp.98-99
  275. ^ 吉田拓郎の古希祝いトリビュートに民生、ミセス、鬼束、ポルノ - ナタリー
  276. ^ a b c 読売新聞、2010年10月22日夕刊、p.14
  277. ^ テレビ仕掛人たちの興亡、1990年、田原総一朗、講談社、p.202
  278. ^ 日本崖っぷち大賞、1998年、みうらじゅん泉麻人山田五郎安斎肇毎日新聞社、p.180
  279. ^ アサヒ芸能、2009年7月16日号、p.189
  280. ^ Musicman'sリレー 第66回 武部聡志
  281. ^ 音楽する社会、1988年、小川博司、勁草書房、p.49
  282. ^ J-ROCKベスト123 1968-1996、1996年、講談社、p.61
  283. ^ 歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39、アスペクト、p.122
  284. ^ 決定版「一発屋」大全、2001年、宝泉薫、彩流社、p.166
  285. ^ 歌謡曲という快楽 雑誌『よい子の歌謡曲』とその時代、2002年、宝泉薫+ファッシネイション、彩流社、p.26、ファンに激震!人生、最後ツアー決定|吉田拓郎
  286. ^ 織田哲郎ロングインタビュー
  287. ^ ポスト歌謡曲の構造、1986年、足立里見著、五月社、pp.20-21
  288. ^ 中島みゆき その愛と歌の行方、1991年、菅間勇、春秋社、pp.210-212
  289. ^ 石原信一『俺たちが愛した拓郎』pp.90-91
  290. ^ ジェネレーションF―熱狂の70年代×フォーク、2001年、小室等他、桜桃書房、p.27
  291. ^ ロックミュージックの社会学、2001年、南田勝也、青弓社、p.139、ロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p.69
  292. ^ a b 嘉門達夫 | OGな人びとVol.27 - OCN TODAY (archive)
  293. ^ 渡辺プロダクション社史「抱えきれない夢〜渡辺プログループ40年史〜」、1999年、「渡辺プロ・グループ四〇年史」編纂委員会、p.345
  294. ^ スージー鈴木とミラッキ大村の9の音粋!#115“吉田拓郎のいない吉田拓郎特集”6/13の選曲リスト”. 9の音粋. bayfm (2022–06–13). 2022年6月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月25日閲覧。
  295. ^ a b c 恩蔵茂, pp. 221–226.
  296. ^ はっぴいえんど、拓郎、ユーミン…Jポップ創始者たちが唄う“春の名曲”5選、日本ロック大系、白夜書房、〈上巻〉p.194、ミッキー・カーチス、おれと戦争と音楽と、亜紀書房、p.207
  297. ^ 田家秀樹3, p. 19.
  298. ^ a b EPICソニー名曲列伝:THE真心ブラザーズ「どか~ん」にみる吉田拓郎イズムとは?
  299. ^ スペシャルインタビュー - MOMM | MusicMusic Scene VOL.02 田家秀樹(archive)
  300. ^ 流行歌 気まぐれ50年史、1994年、矢沢寛、大月書店、p.103
  301. ^ a b 月刊平凡、1971年1月号、平凡出版、〈YOUNG MUSIC RADER 〉「フォーク界に新風を 吉田拓郎さん」、p.124
  302. ^ 小室等 『小室等対談集 ポップス談議』ヤマハ音楽振興会、1975年9月10日、8-9頁。 
  303. ^ J-ROCKベスト123-1968-1996、篠原章講談社、1996年、p.61
  304. ^ 相倉久人『相倉久人の70年代ロック&ポップス教養講座』音楽出版社〈CDジャーナルムック〉、2007年、pp.228-234
  305. ^ 矢沢保, p. 51,52.
  306. ^ 70'sバイブレーション!Museum Talk Museum of Modern Music 1960 牧村憲一(音楽プロデューサー) × 松山猛(エッセイスト)× 高橋靖子(スタイリスト)4(archive)
  307. ^ 「70年代の唄に会いに行くー日本がいちばん輝いていた時代 イルカ×山田パンダ 『永ちゃん、オフコース、裕美ちゃん、よく朝まで歌ったよね』」『週刊現代』2014年5月24日号、講談社、 198頁。
  308. ^ スージー鈴木 (2022年1月29日). “ロックンロールとしてのベースボール 桑田佳祐は「日本ロック界の長嶋茂雄」である… 名曲『栄光の男』から推察する、ミスターへの応援メッセージとは”. Sports Graphic Number Web. 文藝春秋. 2022年1月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月23日閲覧。
  309. ^ 日曜カルチャー「ライブ盤でたどる日本ポップス史」(2)”. カルチャーラジオ. NHKラジオ第2放送 (2022年4月10日). 2022年1月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月23日閲覧。
  310. ^ 中川五郎が語る、フォーク・ソングとの出会いからコロナ禍までを描いた自叙伝”. Rolling Stone Japan. ローリング・ストーン (2022年5月1日). 2022年5月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月11日閲覧。山上たつひこ (2021年7月9日). “COLUMN 第五十八回 《春助、それから、のち》(2)”. GQ JAPAN. コンデナスト・ジャパン. p. 5. 2021年7月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月11日閲覧。
  311. ^ ぴあMOOK「氷室京介ぴあ」ぴあ、2013年8月20日発売、p.13
  312. ^ a b 渋谷陽一 『スピッツ』ロッキング・オン、1998年、369頁。ISBN 9784947599575 
  313. ^ 『エレックレコードの時代』2006年9月、アクセス・パブリッシング、p48
  314. ^ 日本ロック大系、月刊オンステージ編集部、白夜書房、1990年8月、〈上巻〉pp.120-121
  315. ^ ラヴ・ジェネレーション1966-1979 新版 日本ロック&フォークアルバム大全、音楽之友社、p.282
  316. ^ Lapita 月刊吉田拓郎、小学館、p.34
  317. ^ ニッポンのうた漂流記、河出書房新社、p.134
    ビジュアル版・人間昭和史⑦ 大衆のアイドル、1986年、講談社、p.233
    アサヒ芸能、2009年7月2日号、pp.36-37
    guts、表現技術出版、1973年1月、p.31
    「伝説のメロディ 甦る!日本のフォーク フォークル、岡林信康、吉田拓郎、かぐや姫...」BS朝日、2010年4月25日
    ラガー音楽酒場 / 村上“ポンタ”秀一(ドラマー) | WEBマガジン e-days (archive)
  318. ^ 消費社会の広告と音楽、林進・小川博司・吉井篤子、有斐閣、1984年、pp.40-41
  319. ^ シンコーミュージック3, p. 7.
  320. ^ 田家秀樹3, p. 25; 石原信一, pp. 203–204.
  321. ^ 田家秀樹3, p. 31.
  322. ^ 豊かなる日々 〜吉田拓郎、2003年の全軌跡〜、2004年6月、田家秀樹著、ぴあ、p.7
  323. ^ 田家秀樹5, pp. 142–143.
  324. ^ 「ピリオド 吉田拓郎 7月21~28日"つま恋"コンサートを最後にライブ活動から引退 もうあの『人間なんて』をボクらは永遠に"体感"することができないのか?」『週刊明星』1985年4月11日号、集英社、 162頁。
  325. ^ a b c “拓郎いざ最終章 1年5カ月ぶり歌声”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 18. (2009年3月12日). "全国ツアー バンドだけでなく照明、PA(拡声効果)など多くの固定スタッフとチームを組んで各地を回るコンサート方式。全国どこでも同一の音源、演出を観客に提供できる。今では一般的なものだが、1972年10月、吉田拓郎が初めて導入。それまでは複数の歌手、グループが一緒に各地を回り、順番にステージに立つスタイルが多く、拓郎は「ほかの人のファンの前で歌うのがいやだったから」と始めた理由を語っている。" 
  326. ^ a b c 【LOVE LOVE あいしてる:トーク】
  327. ^ 地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、TOKYO FM出版、p.8
  328. ^ 吉田拓郎5, pp. 158–162.
  329. ^ 「求められる仕事を探り続けよ」 矢内廣が語る仕事―3 情報には色をつけない - asahi.com(朝日新聞社):就職・転職ニュース (archive)
    『ぴあ』の時代、掛尾良夫著、キネマ旬報社、2011年、pp.64-66
    『70年代ノート 〜時代と音楽、あの頃の僕ら〜』、pp.116-117
    渡辺芸能ビジネスを創った男、新潮社、pp.153-160
    読むJ-POP 1945-1999私的全史、田家秀樹著、徳間書店、1999年、pp.143-146
    明日に向かって走れ、pp.136-137
  330. ^ 田家秀樹, p. 27、146.
  331. ^ ヤング・ギター・クロニクル, vol. 2『かぐや姫 青春という夢・恋・歌』、p.76
  332. ^ 拓郎&かぐや姫の“元祖日本の夏フェス”映像がDVD化! - Barks町田和洋 (2013年9月6日). “「つまごい」を訪ねて(4) - ことばマガジン”. 朝日新聞 (朝日新聞デジタル). オリジナルの2016年12月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20161224030150/http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/moji/2013090600001.html 2022年4月23日閲覧。 「俺たちが音楽の流れを変える!〜フォーライフ 4人の冒険〜」”. アナザーストーリーズ 運命の分岐点. NHK BSプレミアム (2022年3月1日). 2022年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月11日閲覧。
  333. ^ カルチャーエリア - 富澤一誠の55歳の決心! 234〜240/ Slownet SNS(archive)
  334. ^ 吉田拓郎 - おんがく日めくり | YAMAHA(archive)
  335. ^ 田家秀樹4, pp. 10–11.
  336. ^ ビジュアル版・人間昭和史⑦ 大衆のアイドル、1986年、講談社、p.233
  337. ^ a b c しゃべくり007』、日本テレビ、2013年3月18日放送(Techinsight » 【エンタがビタミン】「帰れって言う、お前らが帰れ!」長渕剛が伝説の“帰れコール”について真相語る。
  338. ^ 俺らの旅はハイウェイ、1990年2月、長渕剛、八曜社、pp.185-198
    吉田拓郎 Island Concert in 篠島
  339. ^ a b 中将タカノリ橋本菜津美 (2022年2月14日). “商業主義への反抗? 吉田拓郎、中島みゆき、松山千春… 昭和のポップスターたちがテレビ拒否に至った理由”. ラジオ関西. オリジナルの2022年2月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220214110637/https://jocr.jp/raditopi/2022/02/14/413016/ 2022年4月9日閲覧。 “(一語一会)音楽評論家・田家秀樹さん 雑誌編集長からの言葉”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2022年3月17日). オリジナルの2022年3月17日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220317122713/https://www.asahi.com/articles/DA3S15236747.html 2022年5月30日閲覧。 泉谷しげる - TKMC ARCHIVES NON EDIT TALK
  340. ^ a b c d guts、1972年5月号、pp.8-11
  341. ^ a b c 吉田拓郎3, pp. 131–135.
  342. ^ 音楽出版社, p. 48.
  343. ^ 紅白歌合戦と日本人、太田省一、筑摩書房、2013年、pp.123-126、サンデー毎日、1972年12月10日号、p.40、1976年12月12日号、pp.33
  344. ^ ロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p.48
  345. ^ a b 富澤一誠『ニューミュージックの衝撃』共同通信社、1979年、pp.178-181
  346. ^ 夢のあがり―ニューミュージックの仕掛人たち―、pp.64-66
    ぼくの歌・みんなの歌、森達也、講談社、p.59
    わが青春の流行歌、池田憲一、白馬出版、p.110, 148
    Jポップとは何か、2005年、烏賀陽弘道岩波書店、pp.70-71
    ロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p.48
  347. ^ サンデー毎日、1974年10月6日号、「井上陽水のフォークの世界」pp.150-151、戦後世論のメディア社会学、佐藤卓己柏書房、2003年、p.183、サザンオールスターズ「タイニイ・バブルス」歌謡曲を制したロックバンド
  348. ^ 週刊現代2013年9月7日号、「スペシャル対談 大竹しのぶ×泉谷しげる 痛快!居酒屋で人生を語ろう」
  349. ^ ザ・ベストテン、山田修爾ソニー・マガジンズ、2008年、pp.188-189
  350. ^ テレビだョ!全員集合、長谷正人/太田省一、青弓社、2007年 p.75、週刊朝日、1978年12月29日号、p.37
  351. ^ アイドル工房―夢のつむぎ方―、1995年、相澤秀禎スコラ、pp.121-122
  352. ^ 週刊文春 2020年2月13日号 P115
  353. ^ a b 田家秀樹2, pp. 164–165.
  354. ^ a b c d e f 島崎今日子『安井かずみがいた時代』集英社、2013年、pp.281-299
  355. ^ 吉田拓郎登場!! | フォーラム - 谷村新司 SHINJI TANIMURA(archive)
  356. ^ a b スージー鈴木 (2020–09–14). “布施明――賑やかだった1970年代音楽界の象徴。”. 歌謡ポップスチャンネル. WOWOWプラス. 2020年9月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月27日閲覧。
  357. ^ 牧村憲一さんへのインタビュー - デジタルサウンドシンポジウム@浜松
  358. ^ 昭和フォーク&ロック音楽堂、中村よお、青幻舎、2008年3月、p.53
    TV博物誌、1997年、荒俣宏、小学館、pp.189-190
    フォークソング運動、2001年、辻俊一郎、新風舎、p.73
    戦後ポピュラー日誌、1982年、柴田勝章、八曜社、pp.130-131
  359. ^ 夢のあがり―ニューミュージックの仕掛人たち―、p.63
  360. ^ a b 泉谷しげるデビュー50周年、エレックからフォーライフへの変遷を本人と振り返る p.4
  361. ^ a b c 馬飼野元宏, pp. 245.
  362. ^ 音楽本特集第一弾、朝妻一郎が語る音楽にまつわる権利と日本のポピュラー音楽史
  363. ^ a b 沢田研二が27歳で挑んだ歴史的な『セブンスターショー』の映像
  364. ^ a b 音楽出版社, p. 5.
  365. ^ a b 小川真一「J-45名盤案内」 『ギブソンJ-45永久保存ガイド』晋遊舎〈晋遊舎ムック〉、2011年8月1日、88-91頁。ISBN 978-4-86391-312-7 
  366. ^ 晃が語る「フィンガー5」とその時代(4)ロス留学後、かつての勢いを取り戻せず78年にグループは解散”. 日刊ゲンダイDIGITAL. 日刊ゲンダイ (2022年5月13日). 2022年5月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年3月18日閲覧。
  367. ^ a b 【ああ懐かしの雑誌黄金時代】『深夜放送ファン』 フォークシンガーがスターだった証し
  368. ^ 日本ロック大系、月刊オンステージ編集部、白夜書房、1990年8月、〈上巻〉p.193
    われらフォーク世代、1975年、三橋一夫、山本コウタロー他著、荒地出版社、p.177
    ニューミュージック白書、1977年、エイプリル・ミュージック、p.175
    NEW MUSIC '81 ニューミュージック事典、学習研究社、p.19
    ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p.49
  369. ^ シンコーミュージック2, p. 71.
  370. ^ 吉田拓郎 これが青春 |シンコーミュージック・エンタテイメント(archive)
  371. ^ 馬飼野元宏, pp. 192–198.
  372. ^ 別冊宝島編集部, p. 19.
  373. ^ 日本のベストアルバム―フォーク&ロックの25年―、1992年、田家秀樹監修・シンコー・ミュージック、p.232
  374. ^ 元祖フォーク評論家の立志を後押しした「今日までそして明日から」〜富澤一誠 第2回(archive)、第1回 からだが溶ける至福の体験 ブルガリアン・ヴォイス(archive)
    最強のミュージックマンが音楽を語る!!-ORICON STYLE ミュージック(archive)
    庄司明弘インタビュー(archive)
    あの時代の風(archive)
    BS-TBS「SONG TO SOUL〜永遠の一曲〜」|番組スタッフが選ぶわたしの一曲(archive)
    大人のためのフォークギター入門: 紀伊國屋書店BookWeb(archive)
    磯田秀人ピンポイントフォーラム 倍音浴(archive)
  375. ^ a b 近藤正高 (2022年7月21日). “「若いがゆえに『はなもちならない生き物』だった」吉田拓郎(76)が、盟友・KinKi Kidsに贈った“言葉”とは 7月21日は吉田拓郎、最後のテレビ出演の日”. 文春オンライン. 文藝春秋. 2022年7月25日閲覧。
  376. ^ a b c レポート - フジテレビMusicman'sリレー きくち伸インタビュー2012年11月 - きくちPの音組収録日記 - フジテレビLOVE LOVEあいしてる(19) - きくちPの音組収録日記 - フジテレビ(archive)
  377. ^ ニューミュージック′80 すばらしき仲間たち、立風書房、1980年、p.88
  378. ^ a b 【時代のサカイ目】現代CMソング考 求められる視覚と聴覚への“瞬間刺激” - ZAKZAK
  379. ^ 音楽する社会、1988年、小川博司、勁草書房、p.50
  380. ^ メディア時代の広告と音楽 変容するCMと音楽化社会、小川博司、粟谷佳司、葉口英子、小田原 敏、小泉恭子、増田聡、新曜社、2005年、pp.28-29
  381. ^ a b c d e f ヤング・ギター・クロニクル Vol.1 吉田拓郎これが青春、2007年、シンコーミュージックエンタテイメント、p.216
  382. ^ a b c 大好評だった「秘蔵音源」スペシャル!
  383. ^ ニューミュージックの本―日本のフォーク&ロック FM fan コレクション★POPS(2)、1978年、富澤一誠監修、共同通信社、p.61
  384. ^ a b c d 【歌手引退】吉田拓郎、52年の活動を振り返ってみえた「日本音楽史のレジェンド」になれたワケ”. 週刊女性PRIME. 主婦と生活社 (2022年7月18日). 2022年7月25日閲覧。
  385. ^ フォークソング運動、2001年、辻俊一郎、新風舎、p.76
  386. ^ a b ブレーン別冊『キャッチフレーズ3000選 戦後30年のヒット広告とコピー発想法』島森路子他、マドラ・グループ編著、誠文堂新光社、1976年、p.65, 128
  387. ^ a b HIT SONG MAKERS 〜栄光のJ-POP伝説〜 BSフジ 「CMの中のJ-POP」2005年3月11日(archive)
  388. ^ a b 富士フイルムのあゆみ 第4章ワールドエンタープライズを目指して アマチュアカラー写真市場の拡大
  389. ^ 現代風俗史年表、若森繁男、河出書房新社、p.244
    テレビだョ!全員集合 自作自演の1970年代、長谷正人、太田省一編著、p.148
    タイアップの歌謡史、洋泉社、p.87, 136
  390. ^ ニューミュージックの本、富澤一誠監修、pp.61-63
  391. ^ Lapita 月刊吉田拓郎、2003年9月号、小学館、p.38
  392. ^ フォーク名曲事典300曲、富沢一誠著、pp.208-209
    みんなCM音楽を歌っていた、田家秀樹著、徳間書店、p.46
    すばらしき仲間たち ニューミュージック′80、立風書房、1980年、p.88
  393. ^ 『70年代ノート 〜時代と音楽、あの頃の僕ら〜』、pp.122-123
  394. ^ 文藝別冊 大瀧詠一―総特集 大瀧詠一と大瀧詠一のナイアガラ30年史、河出書房新社、2005年11月、pp.176-177
  395. ^ はっぴいえんど伝説、1983年、萩原健太、八曜社、pp.158-159、牧村憲一『ニッポン・ポップス・クロニクル 1969-1989』スペースシャワーブックス、2013年、p.63、ほぼ日刊イトイ新聞 - 大瀧詠一さんと、トリロー先生の話を。第4回
  396. ^ 消費社会の広告と音楽、林進・小川博司・吉井篤子、有斐閣、1984年、pp.40-44, 57
  397. ^ 思想としての60年代、桜井哲夫、講談社、1988年、p.128
  398. ^ シンコーミュージック, p. 185.
  399. ^ 『新譜ジャーナル・ベストセレクション'70s』、自由国民社、2003年、pp.222-223、明日に向かって走れ、pp.191-198、もういらない、pp.94-95
  400. ^ a b c 歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39、アスペクト、pp.122-125, 194
  401. ^ a b 近藤正高 (2022年7月21日). “「若いがゆえに『はなもちならない生き物』だった」吉田拓郎(76)が、盟友・KinKi Kidsに贈った“言葉”とは 7月21日は吉田拓郎、最後のテレビ出演の日”. 文春オンライン. 文藝春秋. p. 3. 2022年7月25日閲覧。
  402. ^ アサヒ芸能徳間書店、2009年6月25日号、p.39、2009年7月23日号、p.189
  403. ^ 別冊宝島編集部, p. 24.
  404. ^ アグネス・ラムのいた時代、長友健二+長田美穂、中央公論新社、pp.157-158
  405. ^ a b c 別冊宝島編集部「音楽誌が書かないJポップ批評26」、別冊宝島804、2003年 宝島社、p.140
  406. ^ 日本のフォーク&ロック・ヒストリーー(2) ニューミュージックの時代、シンコーミュージック、1993年、pp.27-28。田代俊一郎 (2020年2月3日). “アイドル編<450>フォークとのハイブリット”. 西日本新聞社. オリジナルの2020年2月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200204093821/https://www.nishinippon.co.jp/item/n/581006/ 2022年4月9日閲覧。 音楽CD検定公式ガイドブック(下巻)、音楽出版社、2007年、p.111
  407. ^ ホットドッグ・プレス、1980年2月号、講談社、p.105
  408. ^ 『阿久悠 命の詩〜『月刊you』とその時代〜』、講談社、2007年、pp.112-113
  409. ^ 矢沢保, p. 22.
  410. ^ イエスタディ '60's - '80's ―音楽記者の取材ノートから―、1989年、CBS・ソニー出版、pp.94-95
  411. ^ 消費社会の広告と音楽、p.41
  412. ^ シンコーミュージック, p. 12.
  413. ^ 歌謡曲とフォークの架け橋めざして〜太田裕美さん
  414. ^ 失われた歌謡曲、1999年、金子修介、小学館、p.89
    FM雑誌と僕らの80年代、恩蔵茂、2009年、河出書房新社、pp.40-41
    青二才の頃 回想の70年代、p.105
    すばらしき仲間たち ニューミュージック′80、立風書房、1980年、p.93
    週刊朝日1975年12月26日号、pp.35-41
  415. ^ スーパーテレビ情報最前線 「吉田拓郎 『復活』への全軌跡」日本テレビ、2003年10月27日放送(archive)
  416. ^ a b 原田真二 アルバム『OUR SONG』 インタビュー PAGE2/音楽情報サイト: hotexpress(archive)
  417. ^ a b 原田真二セレクトのプレイリスト(MUSICSHELFインタビュー)(archive)
  418. ^ a b 織田哲郎ロングインタビュー第13回|織田哲郎Project2007
  419. ^ 別冊宝島編集部, p. 38.
  420. ^ ムッシュ!、2002年、ムッシュかまやつ日経BP社、pp.141-153
    青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p.142, 152
    「FM雑誌と僕らの80年代 『FMステーション』青春記」、恩蔵茂、河出書房新社、2009年、pp.41-42
    「隔週刊 青春のうた ベストコレクション43」、2007年9月18日、p.605, 608
  421. ^ 第7回 吉田拓郎が曲を捧げた〝シンシア〟南 沙織(歌手)ヘルシーな美貌で大人気「異色のアイドル」南沙織がかわいすぎた…!
  422. ^ 地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、p.128
  423. ^ 吉田拓郎、田中好子さんとの思い出秘話 - 芸能 - SANSPO.COM (archive)
  424. ^ さよならのメッセージ、1978年、キャンディーズ勁文社、p.188、GO!GO!キャンディーズ― キャンディーズ革命、1977年、文化放送編、ペップ出版、p.188
  425. ^ 石原信一, p. 120.
  426. ^ [1]
  427. ^ [2]
  428. ^ a b 小室等の音楽夜話、FM東京、1977年8月12日
  429. ^ 吉田拓郎『ふたたび自分の事は棚に上げて』pp.121-122
  430. ^ 1977年発行 キャンディーズ ファンクラブ会報 No.9
  431. ^ 自動改札のアイドルPOP考 VOL.2 - プレイリストから新たな音楽を発見 (archive)
  432. ^ 地球音楽ライブラリー吉田拓郎、TOKYO FM出版、p.158, 159, 209, 210
  433. ^ あの解散宣言の2ヶ月後にリリースされたキャンディーズ「アン・ドゥ・トロウ」、GO!GO!キャンディーズ― キャンディーズ革命、1977年、文化放送編、ペップ出版、p.254
    失われた歌謡曲、1999年、金子修介、小学館、p.203
  434. ^ 失われた歌謡曲、1999年、金子修介、小学館、p.90
  435. ^ 水原空気; 若松宗雄 (2021年1月23日). 松田聖子の80年代伝説Vol.8 乙女心がおしゃれなWジャケットにギュッと詰まった6thアルバム『Candy』. (インタビュー). マガジンハウス. ginzamag.column.. オリジナルの2021-01-23時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210123132018/https://ginzamag.com/column/seikomatsuda-80s-08/ 2021年11月6日閲覧。 松田聖子とSMAPが音楽史において別格な理由 時代を変えた「アイドル」の共通点とは”. AERA dot.. 朝日新聞出版 (2021–11–24). 2021年10月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月6日閲覧。
  436. ^ 吉田拓郎4, pp. 119–120.
  437. ^ LINE MUSICで聴ける秋の気分にひたれる歌謡曲集
  438. ^ “「神田川」作詞家・喜多條忠さん死去、74歳 吉田拓郎と数々のヒット曲”. 日刊スポーツ. (2021年12月1日). オリジナルの2021年11月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211130152118/https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202111300000658.html 2022年5月18日閲覧。 吉田拓郎公式ブログ20170601(archive)
  439. ^ スキャンダル 紅白歌合戦、竹中労、みき書房、1979年、p.186
  440. ^ オデッセイ★原田真二編、1978年、ペップ出版、pp.65-66
  441. ^ a b c d 石原信一, pp. 145–152.
  442. ^ 原田真二インタビュー (archive)
  443. ^ 石原信一, pp. 146–147.
  444. ^ a b 第62回 ニューミュージックもテレビをメインに新戦略(archive)
  445. ^ FLASH臨時増刊 Extime、p.34
  446. ^ 青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p.213、日本のベストアルバム―フォーク&ロックの25年―、1992年、田家秀樹監修、シンコー・ミュージック、p.92
  447. ^ 『Jロック&ポップスCD名盤ガイド』立風書房 p.61
  448. ^ 矢沢保, pp. 151–152.
  449. ^ 地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、TOKYO FM出版、p.10。アサヒ芸能、2009年7月9日号、pp.39-40
  450. ^ 1970音楽人大百科 日本のフォーク/ニューミュージック/ロック、学習研究社、p.165
    どうにもとまらない歌謡曲 −七〇年代のジェンダー、舌津智之、2002年、晶文社、p.145
    日本ロック大系〈下巻〉、1990年、月刊オンステージ編集部、白夜書房、p.415
    別冊太陽 日本のロック 50's〜90's、1993年、平凡社、pp.105-106
    現代風俗史年表、若森繁男、河出書房新社、p.300
    青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p.213
    Media View 1970-1999 売れたものアルバム、2000年1月、東京書籍、p.199
    Jロック&ポップスCD名盤ガイド 2001年 立風書房 p.60, 200, 237
  451. ^ 音楽CD検定公式ガイドブック(下巻)、音楽出版社、2007年、p.11、日本ロック大系〈下巻〉、月刊オンステージ編集部、白夜書房、pp.415-417
    Jロック&ポップスCD名盤ガイド、立風書房 p.200
    J-ROCKベスト123 1968-1996、講談社、pp.158-160
    新宿ルイード物語、1988年、富澤一誠、講談社、pp.155-157
    「隔週刊 青春のうた ベストコレクション43」、2007年10月16日、pp.634-636, 639
  452. ^ 第25回 大里洋吉 氏 | Musicman-NET
  453. ^ 田家秀樹, p. 47,48,55,56.
  454. ^ 「隔週刊 青春のうた ベストコレクション43」 デアゴスティーニ・ジャパン、2007年10月16日、p.635
  455. ^ 歌謡曲の時代 歌もよう人もよう、阿久悠、2004年9月、新潮社、p.207
  456. ^ a b c アイドルという人生、石川順恵、1998年1月、メディアワークス/主婦の友社、p.41
  457. ^ 吉田拓郎4, p. 121.
  458. ^ 石野真子さん(2/3) - インタビュー - ひと - どらく (archive)
    歌謡コンサートブログ:NHKブログ | スタッフだより | 『時代の歌(archive)
  459. ^ 日刊スポーツ、2008年3月26日、p.17
    アサヒ芸能、2009年7月23日号、p.189
  460. ^ 「昭和歌謡黄金時代 作詞家 なかにし礼の世界」NHK BS2、2012年8月8日放送、なかにし礼「時には娼婦のように」 世間の常識にノン(archive)、【1978年5月】時には娼婦のように/ヤバすぎてテレビで歌えない?黒沢年男 事故で予感
  461. ^ a b 「特集 昭和ですよ!」『kotoba』2013年冬季号、集英社、p.43
  462. ^ 放送禁止歌森達也光文社、2003年、pp.70-71
  463. ^ シンコーミュージック2, p. 57、71; 別冊宝島編集部, p. 78.
  464. ^ 総武線猿紀行 総武線猿紀行第282回SISTER JETのそれ行け!カバーボーイ 第四回 Page.2 - プレイリストen-taxi 第21号、2008年、扶桑社、p.94
  465. ^ 吉田拓郎'70-'90ヒストリーブック、p.89
  466. ^ Et Tu BRUTE? (archive)
  467. ^ ヒットの種、2008年、サエキけんぞう東京ニュース通信社、p.125
    日本崖っぷち大賞、1998年、みうらじゅん泉麻人山田五郎安斎肇毎日新聞社、p.180
  468. ^ ニュー・ミュージックマガジン1972年11月号、ミュージック・マガジン、p.94
  469. ^ guts、表現技術出版、1970年8月、p.12
  470. ^ シンコーミュージック2, p. 197.
  471. ^ 別冊宝島1637 音楽誌が書かないJポップ批評60 THE ALFEE、宝島社、2009年、p.123
    アサヒ芸能、2009年7月16日号、p.190
    SISTER JETのそれ行け!カバーボーイ 第四回 [Page.2] - プレイリスト(archive)
  472. ^ 出会いは旅のなかで、小室等著、晶文社、1980年2月、p.146
  473. ^ 新譜ジャーナル ベストセレクション'70s、2003年、自由国民社、p.66
  474. ^ 弾き語り&トーク、吉田拓郎の魅力が凝縮したラジオ!『吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』”. radiko. radiko (2021年7月9日). 2021年11月6日閲覧。オールナイトニッポンドリームウィーク
  475. ^ 音楽CD検定公式ガイドブック(下巻)、音楽出版社、2007年、p.29
  476. ^ a b 別冊カドカワ 井上陽水、p.205
  477. ^ 60年代フォークの時代 - 日本のフォーク&ロック・ヒストリー1』、p.116
    NEW MUSIC '81 ニューミュージック事典、学習研究社、p.19
    フォークソング運動、2001年、辻俊一郎、新風舎、p.77
    ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p.120
    セイ!ヤング&オールナイトニッポン70年代深夜放送伝説、pp.22-29, 56-58
  478. ^ a b 日本のフォーク&ロック・ヒストリーー(2) ニューミュージックの時代、シンコーミュージック、1993年、pp.25-27
  479. ^ 別冊宝島編集部, p. 85.
  480. ^ タイアップの歌謡史、2007年、速水健朗著、洋泉社、p.83
  481. ^ 言葉の達人たち、阿久悠扶桑社、1993年、p.174
  482. ^ - MOMM | Music Scene 亀渕昭信03 (archive)
  483. ^ a b 日本ロック大系、月刊オンステージ編集部、白夜書房、1990年8月、〈上巻〉p.194
  484. ^ a b 「青春の総直撃ワイド ブーム誕生50年、名曲はこうして生まれた!あの素晴らしい〈フォークソング〉をもう一度」『アサヒ芸能』2021年4月1日号、徳間書店、 40頁。あの素晴らしい〈フォークソング〉をもう一度<山木康世(ふきのとう)「白い冬」>デビュー曲のラジオ初オンエアに万歳三唱
  485. ^ Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.6、p.83, 87
    関西フォーク70'sあたり、2003年、中村よお、幻堂出版、pp.76-78
    アサヒ芸能、2009年1月29日号、pp.70-71、アサヒ芸能、2010年11月11日号、p.71
    大野真澄 連載 - なこと一覧
  486. ^ バックバンドは宮川泰(キーボード)、日野皓正(トランペット)、日野元彦(ドラム)、大西順子(ピアノ)、石川鷹彦(アコースティックギター)、渡辺香津美(エレキギター)、金沢英明(ウッドベース)、吉田建(ベース)、さらにバックコーラスとして五木ひろし森進一前川清という豪華の顔ぶれのステージとなった。
  487. ^ たくろうLIVE'73」ライナーノーツより
  488. ^ 「まだ19歳だし、相手がミュージシャンだなんてあり得ない」吉田拓郎からのプロポーズに両親は大反対…浅田美代子の背中を押した樹木希林の言葉 『ひとりじめ』より#2
  489. ^ 【1973年5月】赤い風船/浅田美代子 危なっかしが“いい宣伝”に ...
  490. ^ OSHARE 30・30 VOL2、日本テレビ放送網、1989年6月、pp.186-187
  491. ^ 週刊朝日、1982年2月12日号、p. 136
  492. ^ 歌謡曲という快楽 雑誌『よい子の歌謡曲』とその時代、2002年、宝泉薫+ファッシネイション、彩流社、p.172
  493. ^ 矢沢保, pp. 112–123.
  494. ^ 俺らの旅はハイウェイ、1990年2月、長渕剛、八曜社、pp.214-215
    よい子の歌謡曲、1983年、よい子の歌謡曲編集部編、冬樹社、pp.120-121
    歌謡曲という快楽 雑誌『よい子の歌謡曲』とその時代、2002年、宝泉薫+ファッシネイション、彩流社、p.19
  495. ^ a b 浅川マキ、幻の男たち、講談社、1985年、pp.151-158
  496. ^ 吉田拓郎と浅川マキ・ジョイントコンサート1972年
  497. ^ TAKURO YOSHIDA ARTIST GALLERY. TAKURONICLE 1970-Just nowパンフレット、pp.14-15
  498. ^ 音楽的日乗 スローハンドVol.2、p.17
    地球音楽ライブラリー アルフィー、2004年、TOKYO FM出版、pp.336-339
    別冊宝島1637 音楽誌が書かないJポップ批評60 THE ALFEE、p.34
  499. ^ 【ビジョン】THE ALFEE、高見沢俊彦の本音「今さら路線変更できない」(archive)、実は「王子」に抵抗があった : タカミー王子の秘密 : 生き方!(archive)、【エンタがビタミン♪】「ロックには見た目も大事」。高見沢俊彦、堂々宣言。還暦になっても王子を貫く!
  500. ^ 別冊カドカワ 総力特集 高見沢俊彦、2007年、角川ザテレビジョン、pp.12-13, 31
    あきらめない夢は終わらない、2004年、高見沢俊彦幻冬舎、pp.181-183, 201-203
  501. ^ 別冊宝島1637 音楽誌が書かないJポップ批評60 THE ALFEE、p.18, 34
  502. ^ 坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD内の発言より
  503. ^ わが奔走―IT'S MY LIFE、1988年、泉谷しげる、ロッキング・オン、pp.59-60, 90-96
    泉谷しげるの治外法権、1994年、泉谷しげる著、徳間書店、pp.61-63
    坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p.27
  504. ^ ま、いいか、1999年、森山良子毎日新聞社、pp.234-235
  505. ^ 【歌手引退】吉田拓郎、52年の活動を振り返ってみえた「日本音楽史のレジェンド」になれたワケ”. 週刊女性PRIME. 主婦と生活社 (2022年7月18日). 2022年7月25日閲覧。
  506. ^ 泉谷しげると吉田拓郎の喧嘩にも遭遇…ムッシュかまやつ『ARTiST』で秘話明かす吉田拓郎と泉谷しげるが12年ぶりに和解 ラジオで大げんか懐かしむ ORICON STYLE森山良子が語る「泉谷しげると吉田拓郎のケンカ」伝説の真相
  507. ^ a b c 兎猫豚(うびょうとん)のみらい日記 2011年07月12日 スーパーバンド!
  508. ^ 小室哲哉音楽対論 Vol.2、pp.313-314<TKMC ARCHIVES NON EDIT TALK
  509. ^ 芸能界でコーヒー・ブレイク、吉見佑子、八曜社、1980年、pp.98-105
  510. ^ きくち伸インタビュー
    Musicman'sリレー 第68回 吉田建氏
    JP MUSIC - CD詳細・試聴
  511. ^ a b c YES-NO 小田和正ヒストリー、小貫信昭、角川書店、2000年、pp.86-87
  512. ^ 吉田拓郎、小田和正と30年ぶりラジオ! - 芸能 - SANSPO.COM (archive)
  513. ^ アサヒ芸能、2009年8月20日号、p.97
  514. ^ Archive(アーカイブ)普賢岳チャリティライブ | Echofield
  515. ^ アーティスト ファイル UNION MUSIC OFFICE ユニオン音楽事務所 (archive)
  516. ^ 吉田拓郎3, p. 62.
  517. ^ 田家秀樹, pp. 140–151.
  518. ^ TIME CANT' WAIT、1990年、小田和正、朝日新聞社、pp.67-69
    YES-NO 小田和正ヒストリー、2000年、小貫信昭、角川書店、pp.85-86, 132, 148-152, 240, 262
    Complete Shogo Hamada―浜田省吾事典、TOKYO FM出版、p.205
    LOVE LOVE あいしてる
    吉田拓郎・お喋り道楽、pp.90-91
    風のようにうたが流れていた、小田和正、宝島社、pp.122-123, 126-127
    坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p.74
    シンプジャーナル ベストセレクション'80s、pp.160-163, 166-167
  519. ^ 【ライヴレポ】小田和正『クリスマスの約束』で、吉田拓郎と共演。ミスチル桜井とは新曲を共作し披露(archive)
  520. ^ 坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、pp.142-145, 149
  521. ^ 吉田拓郎; pp120-121.
  522. ^ このギターから石川鷹彦の演奏で知られる「リンゴ」等、多くの楽曲が生み出された(アサヒ芸能、2009年7月2日号、pp.36-38、マニア・プチ対談「吉田拓郎のギターを語る」)。
  523. ^ 日本ロック学入門、1986年、相倉久人、新潮社、p.88
  524. ^ TIME CANT' WAIT、1990年、小田和正朝日新聞社、pp.67-69、YES-NO 小田和正ヒストリー、2000年、小貫信昭、角川書店、pp.148-151
  525. ^ 文藝別冊 追悼特集加藤和彦、河出書房新社、2010年、p.196
  526. ^ 晴れときどき拓郎 Younger than yesterday、2003年7月、小学館、pp.280-282
  527. ^ 吉田拓郎・お喋り道楽、1997年10月、徳間書店、pp.80-88
    晴れときどき拓郎 Younger than yesterday、p.292
  528. ^ 文藝別冊 追悼特集加藤和彦、p.177
  529. ^ 地球音楽ライブラリー吉田拓郎、pp.24-25, 66-67
  530. ^ ラブ ラブ KinKi Kids、スタッフKinKi、1997年、太陽出版、pp.12-24
  531. ^ ポポロ』2009年4月号、麻布台出版社、p.124
  532. ^ 2011年11月12日NHK-FM「今さらですが突然KinKi Kids生放送」
  533. ^ 堂本剛が開拓したジャニーズ「アーティスト路線」 - Real Sound
  534. ^ アサヒ芸能、2009年7月30日号、p.187
  535. ^ 吉田拓郎・お喋り道楽、pp.159-176
  536. ^ プレイボーイの人生相談 1966-2006』、週刊プレイボーイ編集部集英社、2006年、p.123
  537. ^ 中島みゆき“2年半の沈黙”の理由は? 親交のあるプロデューサーが語る”. デイリー新潮. 新潮社. p. 3 (2022年7月18日). 2022年7月25日閲覧。
  538. ^ 中島みゆき読本、pp.132-133
  539. ^ 中島みゆきデータブック、1995年、落合真司青弓社、p.20
    魔女伝説―中島みゆき、1982年、こすぎじゅんいち、CBS・ソニー出版、p.80
    中島みゆき・言葉の向こう側、1998年、落合真司、青弓社、p.92
  540. ^ 音楽出版社, pp. 72.
  541. ^ 地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、p.83、 212、産経新聞、1996年9月25日夕刊、p.8
  542. ^ 満月みゆき御殿 『GB』中島みゆきファイル from 1980、1999年、萩原健太他著・ソニー・マガジンズ、p.287
  543. ^ 中島みゆき読本、音楽出版社、2009年、p.128
  544. ^ 地球音楽ライブラリー 中島みゆき、2006年、財団法人ヤマハ音楽振興会監修・TOKYO FM出版、pp.194, 217-218
  545. ^ 音楽出版社, pp. 52.
  546. ^ 俺らの旅はハイウェイ、1990年2月、長渕剛、八曜社、pp.8-9, 75-85
    NEXT、1984年1月、富澤一誠、潮出版社、p.106-108
    長渕剛インタビュー
    堂本兄弟、2004年2月29日
  547. ^ a b 吉田拓郎 Island Concert in 篠島
  548. ^ 第90回 新田 和長 氏 4. 歴史の瞬間と渦の中で〜「目利き」であることの重要性| Musicman-NET
  549. ^ 長渕剛vs桑田佳祐、矢吹光、1995年3月、三一書房、p.154
  550. ^ 「“エリー”って誰?」意外と知らないサザントリビア10( トリビア ... - 女性自身)
  551. ^ 吉田拓郎の闘病中に桑田佳祐が励ましの唄を歌った伝説ライブパフォーマンスとは? 2017年11月17日 エキサイトニュース
  552. ^ 2008年3月11日「桑田佳祐のオールナイトニッポン
  553. ^ 桑田佳祐と吉田拓郎との隠された過去。今日までそして明日から。 - Techinsight 2011年3月
  554. ^ 大衆に寄り添うサザンの真骨頂見せつけた『無観客ライブ』 その圧倒的パフォーマンスは今後のさまざまな方向性示した東京中日スポーツ 2020年7月23日配信 2020年10月18日閲覧
  555. ^ 原由子『娘心にブルースを』1998年、ソニーマガジンズ、p.171
  556. ^ 別冊宝島編集部「音楽誌が書かないJポップ批評26」、別冊宝島804、2003年 宝島社、p.28
  557. ^ Complete Shogo Hamada―浜田省吾事典、1996年、TOKYO FM出版、p.379
  558. ^ あいつのクシャミ、1980年、富澤一誠、飛鳥新社、pp.24-25
  559. ^ 第137回 高橋信彦氏 | Musicman-NET
  560. ^ Complete Shogo Hamada―浜田省吾事典、pp.26-27
    「Have A Nice Day LIVE2009 吉田拓郎フォト&ロングインタビュー集」pp.48-49
  561. ^ 坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、pp.70-71
  562. ^ 松本隆対談集 KAZEMACHI CAFE、ぴあ、p.70
    アサヒ芸能、2009年7月23日号、p.189
  563. ^ 地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、p.41
  564. ^ 音楽出版社, p. 84.
  565. ^ 地球音楽ライブラリー、p.43
  566. ^ 青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p.160
    和田誠インタビュー その三、1989年、和田誠話の特集、pp.122-142
  567. ^ どーもとドーモ、2000年、KinKi Kids新潮社、p.177
  568. ^ 山下達郎のJACCS CARDサンデーソングブック2002/5/26
  569. ^ a b ナタリー - 山下達郎、本日ANNで吉田拓郎とメディア初共演
  570. ^ 今夜よる10時からの『坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』に山下達郎初登場!何と吉田拓郎さんとメディア初共演が実現!
  571. ^ 吉田拓郎×竹内まりや、ラジオで初共演! (archive)
  572. ^ 坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p.102
  573. ^ ここは私の学校、2003年11月、祥伝社、p.66
  574. ^ とんがらし、1975年9月、八曜社
  575. ^ 音楽的日乗 スローハンドVol.1、2006年、自由国民社、pp.103-104
  576. ^ フォーク対談集、1974年、富澤一誠、アロー出版社、p.178
    坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p.118
  577. ^ a b 田家秀樹, p. 156.
  578. ^ 頭脳警察(2004年8月・須田諭一著・河出書房新社)pp.164-166
    定本 はっぴいえんど、1986年、白夜書房、p.60, 139-140, 193
    吉田拓郎・お喋り道楽、pp.219-220
    関西フォーク70'sあたり、2003年、中村よお、幻堂出版、p.78
    ロックミュージックの社会学、南田勝也、青弓社、p.122
    ロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p.89
    ナタリー - ドキュメンタリー頭脳警察公開記念イベントで貴重発言続々
    haruomi hosono 1971
  579. ^ 小室等対談集、1975年、小室等、財団法人ヤマハ音楽振興会、p.122
  580. ^ _... m o m e n t ...._丸山圭子ロングインタビュー
  581. ^ ゆるふわ愛され音楽ニュースサイト - ナタリー 山本コウタローの名著「誰も知らなかった吉田拓郎」文庫化
  582. ^ われらフォーク世代、1975年、三橋一夫、山本コウタロー他著、荒地出版、pp.35-36
  583. ^ 音楽出版社, p. 67.
  584. ^ 加川1974年のアルバム『アウト・オブ・マインド』に収録
  585. ^ 石川セリ公式サイト Seri Ishikawa Official
    もう書いてもいいですね。、2005年、廿楽正治、有朋書院、p.170
  586. ^ 別冊宝島編集部, p. 72.
  587. ^ 井上陽水 FILE FROM 1969、pp.180-181
  588. ^ NSP『八月の空に翔べ』、八曜社、1978年、pp.29, 148-149
  589. ^ この歌 あの歌手(下)、読売新聞社文化部、1997年、社会思想社、p.108
  590. ^ 朝日新聞、2010年12月4日、be on Saturday-e1、2、うたの旅人:新婚旅行で書いた詞 「旅の宿」、BS朝日 - うたの旅人 旅の宿 2010年12月4日放送
  591. ^ うたのことばが聴こえてくる、1984年、岡本おさみ、八曜社、p.165
    AERA in FOLK あれは、ロックな春だった!、朝日新聞社、p.44
  592. ^ 旅に唄あり、1980年10月、岡本おさみ、八曜社、p.14-15
  593. ^ 音楽的日乗 スローハンドVol.2、2006年、自由国民社、p.29
  594. ^ 「吉田拓郎 YOKOSO」NHK BSプレミアム、2013年6月12日放送
  595. ^ a b 松任谷由実、ルージュの伝言、1984年5月、角川書店、pp.8-11
  596. ^ 週刊朝日、1979年3月12日、p.16、【yumiyoriな話】第36回 最終回 井上陽水さん(archive) YOMIURI ONLINE読売新聞、2011年8月13日17面)
  597. ^ 妻・ユーミンに知られぬよう深夜の自宅で歌入れした松任谷正隆…名手4人で初アルバム「SKYE」Musicman-NET 第87回 松任谷正隆氏.3
  598. ^ 吉田拓郎・お喋り道楽、1997年10月、徳間書店、pp.270-285
  599. ^ a b 俳優、音楽、人生...尽きぬ話が語り明かされる!明日4日(水)BSプレミアムで放送『吉田拓郎YOKOSO "中村雅俊"』 (archive)
  600. ^ 中村雅俊、坂口良子さんとの思い出語る - 芸能社会 - SANSPO.COM (archive)、テレビ東京『L4 YOU!』2013年4月10日放送、「L4YOU!」- ゲストトーク〜中村雅俊〜 (archive)
  601. ^ 青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p.161
  602. ^ 矢沢保, p. 154.
  603. ^ アサヒ芸能、2009年7月2日号、pp.38-39
  604. ^ a b LOVE LOVE あいしてる:1999/06/19
  605. ^ LOVE LOVE あいしてる:1997/11/29
    坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p.100
  606. ^ LOVE LOVE あいしてる:1998/09/26
  607. ^ 坂崎幸之助のJ-Friends1、p.100
  608. ^ 19インタビュー (archive)
  609. ^ 青い瞳のステラ、1962年 夏.../柳ジョージ&レイニーウッド - 広島FM 食卓ON楽
    中国新聞、2007年7月29日、p.10
    AERA in FOLK あれは、ロックな春だった!、朝日新聞社、p.82
    広島フォーク村(archive)
  610. ^ 水着姿が眩しかったアイドル河合奈保子
  611. ^ 小室哲哉音楽対論 Vol.1、p.105
  612. ^ FLASH臨時増刊 Extime、p.30
  613. ^ 週刊新潮、2006年12月14日、p.44
  614. ^ 「らいぶ」、学習研究社、1996年6月、p.29
  615. ^ 石原信一2, p. 53.
  616. ^ バンザイなこっちゃ!、2005年・岡林信康著・ゴマブックス、p,227, 278、ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p.127
  617. ^ 【LOVE LOVE あいしてる:トーク】
  618. ^ トーク 特別編集版 - 【LOVE LOVE あいしてる:トーク】
  619. ^ 東北ロックンロール物語、2008年、高橋ジョージワニブックス、pp.61-62
  620. ^ 真心ブラザーズ4週連続企画 『YOUNGER THAN YESTERDAY』 - 第3週目ラジオ「PLATOn」出演記 - C-faculty - 中央大学エコレゾトーク - エコレゾ ウェブ
  621. ^ FLYING POSTMAN PRESS 2008年1月号、p.2
  622. ^ あいみょんインタビュー あいみょん 愛を伝えるための7つのキーワードミュージックソムリエ 吉田拓郎から衝撃を受けたことから始まった、あいみょんの歌吉田拓郎さんのライブに行ってきた。震えた吉田拓郎 (@aimyonGtter) - Twitter
  623. ^ “明石家さんま、吉田拓郎に憧れたばこ始めるも「たばこやめたんだ」に衝撃「蹴ろうとした」”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2022年7月21日). オリジナルの2022年7月25日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220725093938/https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202207210001434.html 2022年7月25日閲覧。 
  624. ^ 【LOVE LOVE あいしてる:トーク】
  625. ^ 「LOVE LOVEあいしてる」完全読本、1999年、キンキ・オールスターズ、飛天出版、pp.84-85
  626. ^ || KTV || 関西テレビ放送 [ 番組 さんまのまんま : バックナンバー
  627. ^ 有名人同士の意外な交友関係(2011/05/04) | コブス横丁 | COBSキャリア(archive)
  628. ^ 変なおじさん、新潮社、2002年、p.38
  629. ^ 決定!これが日本のベスト (archive)
  630. ^ a b テレビ朝日|ストライクTV 2011年11月7日放送
  631. ^ フォーライフレコード設立35周年記念!井上陽水・吉田拓郎・小室等ら、70年代後半の名曲をコンパイルした高音質コンピ盤発売!新企業CMに俳優の向井理さんを起用 / ニュースリリース | リコー(archive)
  632. ^ a b 648038257750478849のツイート- Twitter
  633. ^ 痛快!明石家電視台、2011年2月14日放送 (archive)
  634. ^ ピース『憧れの人・ダウンタウンへの想いや、青春時代のベストソングを語る!!』-ORICON STYLE (archive)
  635. ^ 「今死んでも悔いはない」。「リットン調査団」水野透61歳が貫く流儀
  636. ^ TALK SHOW | 中村のん プレゼンツ、[地球は私の仕事です] 女の仕事、朝日新聞社、1997年9月、pp.230-231
  637. ^ 勝手にさせて、秋吉久美子著、河出書房新社、1986年3月、p.52
  638. ^ a b 中野由喜 (2022年3月13日). “女優生活50年・高橋洋子が明かす松田優作さんの思い出 「いつもとんがっていました」”. ENCOUNT. Creative2. 2022年3月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月11日閲覧。
  639. ^ 仲村トオルさん(3/3) - インタビュー - ひと - (どらく)(archive)
  640. ^ 江口寿史のお蔵出し、1994年4月、自著、イーストプレス、pp.13-27に収録
  641. ^ レコード・コレクターズ増刊「日本のフォーク/ロック アルバム・ベスト100 1960-1989」、2010年11月、ミュージック・マガジン、p.41
  642. ^ 青春とはなんだかんだ、柴門ふみの'70s青春記、柴門ふみ小学館、1994年、p.813
  643. ^ a b 柴門ふみ「あのころの熱をもう一度 フォークの季節 拓郎に恋をした」 『東京人都市出版、2011年9月号、75頁。 
  644. ^ 70年代、青春のスーパースター・吉田拓郎を熱く語る 「吉田拓郎・これが青春」 柴門ふみ (archive)
  645. ^ a b DETAIL 漫画家・業田良家氏、代表作『自虐の詩』のタイトルに影響与えた吉田拓郎ソング”. NEWSポストセブン. 小学館 (2022年7月9日). 2022年7月25日閲覧。
  646. ^ 『シンプジャーナル・ベストセレクション'80s』p.376、2013年10月28日 | 午後まりブログ:NHK - NHKオンライン6F)マサ拓Z - Live Bar X.Y.Z.→A LIVE SCHEDULE
  647. ^ みうらじゅん インタビュー5 米国音楽界の巨人 ボブ・ディラン特集みうらじゅん インタビュー6 日経トレンディネット
  648. ^ a b c ほぼ日刊イトイ新聞- じゅんの恩返し12
  649. ^ 第三回 : アレ?ここウチの地元? テーマ曲 「伽草子」 吉田拓郎
  650. ^ en-taxi 第21号、2008年、p.100
    みうらじゅんの「サブカルジェッター」
    日本崖っぷち大賞、1998年、みうらじゅん、泉麻人山田五郎安斎肇毎日新聞社、p.174, 183
  651. ^ みうらじゅん対談集 正論。、みうらじゅん、コアマガジン、2009年、p,231, 234
  652. ^ みうらじゅんの「サブカルジェッター」〜2番目がいいんじゃない」、TBSラジオ、2008年1月26日放送、番組公式サイト ジェッター回顧録2008年1月
  653. ^ 石原信一, p. 46.
  654. ^ 原宿ペニーレインを舞台化!! - 文化通信.compennylane | あの頃僕らはペニーレインで公式サイト ペニーレインとは『Vol.14 フォークソング+朗読劇 レコード会社の新しい試み』拓郎名曲の舞台 主演に“インディーズの歌姫”抜てき
  655. ^ 週刊サンケイ、1975年5月8日号、pp.38-40
  656. ^ 週刊現代、2011年8月13日号、p.126
  657. ^ 放送禁止歌手 山平和彦の生涯、p.247
  658. ^ 茅ヶ崎ロータリークラブ 創立50周年記念講演 直木賞作家・重松清『命を語ることば』重松清さん×糸井重里さんの対談|作家による読書の楽しさを伝える対談(archive)
  659. ^ 週刊現代 講談社 2009年10月17日号、p.71
  660. ^ 10月23日放送 「クリエイティブディレクター箭内道彦さん」
  661. ^ 社長が訊く『Wii Music』 - 任天堂
  662. ^ サッカー・内田篤人選手、吉田拓郎さんの曲でコンフェデ杯へ闘志 - FNN(archive)、内田、吉田拓郎ソングで士気アップ!プレゼントCD持参(archive)
  663. ^ 奈緒、憧れの芸能人を告白「もう大好きですね」”. ザテレビジョン. KADOKAWA (2020年10月25日). 2020年10月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月11日閲覧。幸せです。とにかく好きしかなかったです。今宵は拓郎さんのバッチと一緒に乾杯します。吉田拓郎 (@naonotubu) - Twitter
  664. ^ a b 【大激闘・元谷友貴戦】扇久保博正インタビュー「KO負けしてもいいや!って」”. Dropkick:『Dropkick』チャンネル(Dropkick編集部). ニコニコチャンネル (2019年8月12日). 2021年10月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年9月4日閲覧。
  665. ^ 「月刊ミュージックスター」にインタビュー記事掲載 - 江田けんじNET
    吉田拓郎・・・我が青春|江田 けんじオフィシャルブログ Powered by Ameba
  666. ^ 内外タイムス - 高須基仁のメディア国士無双 (archive)
  667. ^ ほぼ日刊イトイ新聞 - あのひとの本棚。
  668. ^ 総務大臣政務官、週刊現代 2009年10月17日号、p.71、en-taxi 第21号、pp.96-99
  669. ^ ライオンのごきげんよう』(2012年6月15日放送分)より。価格.com - 「ライオンのごきげんよう」2012年6月15日(金)放送内容森永卓郎の俺が震えた1曲、吉田拓郎「人間なんて」 | アサ芸プラス
  670. ^ 【お題】「老後は家内と」を叶えたい 妻への愛情表現の第一歩は?
  671. ^ 古舘伊知郎チャンネル(公式) 2022年6月3日

参考文献[編集]

著書[編集]

  • 吉田拓郎 『気ままな絵日記』立風書房、1972年。 
  • 吉田拓郎 『明日に向かって走れ』八曜社、1976年。 
  • 吉田拓郎 『俺だけダルセーニョ』集英社、1984年。 
  • 吉田拓郎 『ふたたび自分の事は棚に上げて』小学館〈BIG ORIGINAL BOOKS〉、1994年。ISBN 978-4093653220 
  • 吉田拓郎 『もういらない』祥伝社、2002年4月。ISBN 4-396-42035-8 
  • 吉田拓郎 『晴れときどき拓郎―Younger Than Yesterday.』小学館、2003年6月。ISBN 978-4093796224 

解説書等[編集]

  • 石原信一 『吉田拓郎 挽歌を撃て』八曜社、1980年。 
  • 矢沢保 『フォーク俺たちのうた』(改訂新)あゆみ出版、1980年。 NCID BN11565436 
  • 石原信一 『俺たちが愛した拓郎』八曜社、1985年。ISBN 978-4-8270-0082-5 
  • シンコーミュージック 『フォーク黄金時代(1969〜1978) (CUT-UP-FROM YOUNG GUITAR)』シンコーミュージック、1992年。 
  • 田家秀樹 『吉田拓郎ヒストリー1970-1993』ぴあ〈ぴあbook. ぴあmusic collection ; 4〉、1994年1月。 
  • キンキオールスターズ 『「LOVE LOVEあいしてる」完全読本』飛天出版、1999年10月。ISBN 978-4894401594 
  • 田家秀樹 『J-POP時評 1989-2001 音楽の向こうに現代が見える』ヤマハミュージックメディア、2001年8月15日。ISBN 4-636-20982-6 
  • Jロック&ポップスCD名盤ガイド編集委員会 『Jロック&ポップスCD名盤ガイド』立風書房、2001年。ISBN 4-651-82048-4 
  • 恩蔵茂 『ニッポンPOPの黄金時代』KKベストセラーズ、2001年11月。ISBN 4-584-12025-0 
  • 坂崎幸之助 『坂崎幸之助のJ-POPスクール』岩波書店〈岩波アクティブ新書, 60〉、2003年。ISBN 4007000603 
  • 別冊宝島編集部 『音楽誌が書かないJポップ批評44 拓郎&陽水と「フォーク黄金時代」』宝島社〈別冊宝島1346〉、2006年8月。ISBN 978-4796654258 
  • 田家秀樹 『吉田拓郎』TOKYO FM出版〈地球音楽ライブラリー〉、2007年1月15日。ISBN 978-4-88745-179-7 
  • シンコーミュージック 『吉田拓郎これが青春』シンコーミュージック・エンタテイメント〈ヤング・ギター・クロニクル, vol. 1〉、2007年1月31日。ISBN 9784401630851 
  • 田家秀樹 『いつも見ていた広島 : ダウンタウンズ物語 : 小説吉田拓郎』小学館、2007年9月。ISBN 9784093797122 
  • 音楽出版社 編 『吉田拓郎読本』音楽出版社、2008年。ISBN 978-4-86171-041-4 
  • 山本コウタロー 『誰も知らなかった吉田拓郎』イーストプレス、2009年12月11日。ISBN 978-4-7816-7016-4 
  • 田家秀樹 『70年代ノート 時代と音楽、あの頃の僕ら』毎日新聞社、2011年。ISBN 978-4-620-32046-5 
  • シンコーミュージック 『日本の男性シンガー・ソングライター』シンコーミュージック・エンタテイメント〈ディスク・コレクション〉、2013年9月。ISBN 9784401638857 
  • 馬飼野元宏 『日本のフォーク完全読本』シンコーミュージック・エンタテイメント、2014年6月30日。ISBN 978-4401639724 

ウェブサイト[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]