三里塚闘争

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Camera-photo Upload.svg 画像提供依頼:デモ風景や団結小屋などの画像提供をお願いします。2009年9月

三里塚闘争(さんりづかとうそう)は、千葉県成田市農村地区名称である三里塚とその近辺で継続している、地元住民及び新左翼活動家らによる新東京国際空港(現成田国際空港)建設に反対する闘争およびこれに関連する事柄のことを指す。成田闘争(なりたとうそう)とも呼ばれる。

空港計画浮上前の三里塚周辺[編集]

御料牧場[編集]

千葉県の北部は古代から野生馬の産地として知られており、江戸時代には小金五牧及び佐倉七牧が設けられ、軍馬の飼育生産が行われていた。

20世紀に入り、殖産興業を推進していた明治政府は佐倉七牧の一つであった取香牧付近に近代牧畜による羊毛自給を目指して牧羊場を設けた。この牧羊場が後に宮内庁下総御料牧場(以下、御料牧場)となる。

三里塚の街は牧場関係の商売で潤い、八百屋魚屋仕立て屋といった商店は飛ぶ鳥を落とす勢いであったという[1]。しばしば御料牧場を訪れる皇族も住民らにとっては身近で親しみを感じる存在であり、春先になると遠方からも大勢が花見に訪れるほどの見事な桜並木をはじめ明媚な牧場は、住民にとって物心両面で欠くべからざるものであった。

古村[編集]

下総台地が削られてできた谷地では谷津田と呼ばれる湿田で古くから農作が行われていた。そこで農業を営む江戸時代から続く集落は古村と呼ばれ、強固な村落共同体が形成されていた。

開拓部落[編集]

三里塚地区や東峰地区等は、戦後開拓の一環として御料牧場や県有林の一部であった土地が払い下げられたことで入植が始まった地区である。そこに入植した者の多くは、元満蒙開拓団員の引揚者戦闘による荒廃米国による統治等により帰郷ができなくなってしまった沖縄出身者等であった。彼らはほとんど身一つでこの地で開墾を始めたため、その暮らしぶりは極めて貧しかった。開墾は困難を極め[2]、入植者らは昼間は古村での小作で収入を得て、その後月明かりの下で開墾作業を行った。炊飯の頻度を最小限にして少しでも開墾に時間を充てるため、4日分の米を纏めて炊き、空気に触れて腐りやすい部分を削いで食べながら、あばら家で生活をしていたという。

入植地では農家としての生き残りをかけた土地争いも発生し、過酷な環境に耐えられなかった入植者が次々脱落していった。結果、この地に残ったのは脱落者から農地を買い取り生計を立てられるだけの規模を確保した者達だった。

紛争発生の経緯[編集]

逼迫する航空需要[編集]

1960年代初頭、経済成長と所得水準の向上の後押しを受けて日本の航空産業は航空交通は著しい発展を見せており、旅客需要の伸びと航空機の発着回数の増加傾向がこのまま推移すれば、1970年頃に東京国際空港(羽田空港)の能力の限界に達すると予想された。当時の港湾土木技術では「羽田マヨネーズ層」と呼ばれる堆積したヘドロの層がある東京湾沖合への拡張はほぼ不可能とされ、更に米軍が管理していた東京西部空域との兼ね合いもあったことから、羽田空港の拡張性が見込めなかったため首都圏第二空港の開設が急務とされた。

そこで政府は、来るべき国際化に伴う航空(空港)需要の増大に備え、羽田空港に代わる本格的な国際空港の建設計画の策定に着手した。

新空港計画の策定と富里空港案[編集]

運輸省が作成した冊子『新東京国際空港』(通称、「青本」)で示された当初計画での新空港は、超音速旅客機用主滑走路(4000メートル)2本、横風用済走路(3600メートル)1本、国内線用滑走路(2500メートル)2本を具備し、総敷地面積は約2300ヘクタールと、当時の羽田空港(350ヘクタール)はおろか他国の主要空港(ヒースロー空港1100ヘクタール、オルリー空港1600ヘクタール、ニューヨーク国際空港(現・JFK)2000ヘクタール)と比較しても先進的なものであった。

建設地についても検討が進められ、候補地としては千葉県浦安沖・印旛沼木更津沖・富里村(現・富里市)附近、茨城県霞ヶ浦周辺・谷田部等が挙げられた。

1963年頃には、管制空域の確保・都心との連絡・気象条件等を総合的に勘案した結果として、富里地区が新空港建設候補地として最も有力とされた。しかし、巨大な空港の面積は富里村の半分に匹敵しており、空港周辺に展開されるであろう開発も考慮すれば、その実現は近代牧畜の発祥の地[3]であり末廣農場をはじめ日本の農場経営のモデルケースとされてきた村がほとんど消滅することを意味していた。当時、現在に比べれば航空機の利用は大衆に浸透しておらず、空港は単なる迷惑施設としか認識されなかったこともあり、突如突きつけられた計画に対し地元住民らは激しい反対運動を展開したうえ、根回しがされなかった自治体からも反発を呼んだ。

舞台は三里塚・芝山に[編集]

1966年になっても富里空港反対派のデモ隊が千葉県庁に乱入するなど、反対運動が収束する気配はなく、新空港建設計画自体が頓挫する恐れが出てきた。このことを懸念した佐藤栄作内閣は友納武人千葉県知事と水面下で交渉を進め、富里案を縮小、更に位置を約4キロメートル北東に移動させて国有地である総御料牧場を建設地に充て収用を最小限に抑えることで両者は合意した。なおこのとき、三里塚地区の貧しい開拓民が相手であれば「買い上げ価格を相当思い切ってやりさえすれば、空港建設は可能である[4]」との思惑があり、古村を避けてなるべく開拓部落に収まるように空港のレイアウトを決めたと言われる[5]

同年6月22日に、佐藤首相が三里塚・芝山地区での空港建設案を発表する。今回は県のトップとは調整が行われていたものの、地元住民の意見聴取等は行われておらず、寝耳に水の状態で閣議決定を報道で知った三里塚・芝山地区の住民らは、富里と同様に猛反発した。

切迫する航空需要を受けて開港を急ぐ政府は、空港計画そのものへの交渉行為に応じぬまま、7月4日に、新空港の位置及び規模(平行滑走路4,000メートル・2,500メートル、横風用滑走路3200メートル、総敷地面積1065ヘクタール)を閣議決定した。この時の決定内容は現在の成田国際空港の基本計画となっている[6]

新しい空港計画は富里案に比べ大幅に縮小されてはいたが、それでも御料牧場の面積は空港予定地の4割に満たず、ここでも民有地(670ヘクタール、325戸)の取得が課題となり、用地交渉の対象者は千数百人に上った。

紛争の経過[編集]

初期の三里塚闘争[編集]

反対同盟の結成[編集]

閣議決定直後の成田市及び芝山町はほぼ反対一色となった。空港建設に反対する地元住民らは富里村と同様に政府と対決することを決意し、自発的に各地区で反対運動団体を組織した。

開拓部落の住民は住宅資金や営農資金の返済が終わり農業がようやく軌道に乗り始めた時期に当たっていたことから、降って湧いた空港建設計画をこれまでの努力を否定するものと捉え、政府側の期待に反して強く反発した。他にも、先祖代々の古村を守ろうとする芝山地区等の住民や、皇室ゆかりの御料牧場に強い思い入れを持つ戦前派ら、県が推進していた「シルクコンビナート計画」に応じて養蚕用のの栽培を始めたばかりにも関わらず計画を反故にされ憤る農家等、様々な背景を持つ者が反対運動に合流した。

1966年7月20日に「三里塚空港反対同盟」及び「芝山空港反対同盟」が合同し、「三里塚芝山連合空港反対同盟」(以下、反対同盟。)が結成された[7]。ここに本格的な三里塚闘争が始まった。

初期段階での反対同盟は農民を中心に用地外も含め1500戸の世帯により構成された。下部組織として少年行動隊、青年行動隊、婦人行動隊、老人行動隊が組織され、反対派の世帯は一家総出で反対運動に臨んだ。

条件派の動き[編集]

閣議決定に前後して、行政や新たに設立された新東京国際空港公団(以下、空港公団)により、空港の意義や移転補償内容について住民説明が行われた。

このとき県の「国際空港相談所」所長は、買い取りに応じない地権者への強制収用の実施を匂わせつつも、

  • 畑一反100万円を基準として用地は高額で買い取り、現金で支払う
  • 買取額を代替地購入に充当すれば耕地面積を1.5倍に増やせるように調整する
  • 離農する地権者には廃止補償を出す
  • 家屋建て替えの費用は新築見合いで算出する
  • 騒音地域内の農耕地に対しては、国費で畑地灌漑施設を整備する(成田用水

等と説明をしており[8]、「買い上げ価格を相当思い切ってやる」とする政府側の意向が反映された補償方針が示された[9]

これを受けて条件次第によっては移転に応じても良いとする条件賛成派に転向する地権者が相次ぎ、成田市議会及び芝山町議会も当初可決した反対決議を白紙撤回した。

1968年4月6日には中曽根康弘運輸大臣立ち会いのもと、空港公団と条件賛成派4団体との間で「用地売り渡しに関する覚書」が取り交わされ、空港公団は空港用地民有地の89%(597ヘクタール)を確保した。

覚書での反当たりの買取価格は、畑:140万円、田:153万円、宅地:200万円、山林原野115万円であった[10]。畑の代替地基準価格は90万円とされ、代替地の耕作地の価格は買取額の2/3程度に抑えられたものの、希望者に対して必要な代替地自体が十分に確保できなかったために移転先の耕地面積が移転前よりも却って減少するなど、問題がないわけではなかった[11]

移転を機に専業農家を辞めた元地権者らの多くは空港公団の斡旋を受けるなどして警備業や店舗経営等の空港関連の業種に転職したため、彼らにとっては新たな生活を営む上で新空港の早期開港が切実なものとなった。

測量クイ打ち阻止闘争と革新政党の離反[編集]

政府側の硬軟織り交ぜた働きかけを受けても反対同盟に留まった者達の決意は固く、用地を細分化して空港用地買収交渉を困難にする目的で、土地一坪を地権者相互に売買し合う「一坪運動」が展開された。

当初は、空港反対運動に革新政党も参加していたが、日本社会党は友納知事と紳士協定を結び初期段階でこの運動から離脱した[要出典]。また日本共産党も、1967年8月16日に反対同盟が「あらゆる民主勢力との共闘」として、自党と敵対する新左翼党派(反代々木派)の受け入れを表明したことで関係が悪化した。

8月21日に友納知事が土地収用法に基づき空港公団が土地の立入調査を行う旨を通知した。 この間に反対同盟は陳情デモなどの様々な抗議運動を行うが芳しい成果は上がらなかった。

10月10日の早朝に、外郭測量用のクイを打つため、空港公団の職員が機動隊に守られながら空港建設予定地に現れる。これに対し反対派は座り込みによる阻止を試みたが、暴力的に排除されてしまう(測量クイ打ち阻止闘争)。このとき、同盟員の先頭に立っていた共産党と民青の部隊は早々に座り込みをやめて隊列を離れ、「がんばろう」を歌いながら、機動隊と反対農民らの衝突を傍観[12]した。同盟員は政府の横暴と共産党の「裏切り」に驚愕し、憤った。更にその後、共産党が反対同盟幹部の寝返りの噂を流して主導権を取り戻そうとしていたことが露見し、反対同盟との対立は決定的となった。

一方、この日は1本でもクイを打ち込めれば成功と考えていた空港公団では、3本とも打ち込めた予想外の成果に「空港建設への突破口が開けた」と今後を楽観視した。しかしながら、それは長期に亘る苛烈な実力闘争の幕開けであった。

政府の仕打ちに激怒した反対同盟は、暴力を厭わない実力闘争に舵を切る決意を固めると同時に、12月15日に共産党の支援と介入を排除する声明を発表した。反対同盟の共産党に対する拒絶は、共産党を支持したり共産党員の家族がいる世帯に対する村八分が古村で行われるほど徹底していた[13]。これをもって革新政党による反対同盟への協力は失われた。革新政党は反対運動を利用して党勢の拡大を図ったため、農民たちに不信感を持たれたとも分析されている[14]

新左翼党派の介入[編集]

測量クイ打ち阻止闘争で機動隊の威力を目の当たりにした農民たちは、決別した革新政党の替わりとして同時期に発生した羽田事件で機動隊と渡り合った新左翼党派に期待し、「支援団体は党派を問わず受け入れる」という姿勢を取った。一方、反国家権力闘争を掲げる新左翼各派にとっても、三里塚闘争はベトナム戦争反戦運動[15]や佐藤内閣への反発の象徴的な対象として映り、双方の思惑が一致した。ただし、新左翼党派の中でも階級闘争至上主義の革マル派は三里塚闘争を「小ブルジョア農民の自己保身」と揶揄したことから、運動から追放された。

最終的に反対同盟は、武装闘争路線の新左翼である中核派共産同社青同解放派が主導する三派全学連の全面的な支援を受けることになった。これに伴い、機動隊との衝突を始めとする実力闘争は次第に過激さを増していった。

開港までの闘争ではクリスチャンで地区の教会の信徒だった戸村一作反対同盟代表が活動をリードし、共通の敵である政府に打撃を与えるため、地元住民[16]と新左翼各派の活動家らとが互いに協力もしくは利用し合いながら呉越同舟の形で活動を行っていった。

反対同盟は様々な新左翼党派を受け入れたことで武闘派の支援者を大動員して政府勢力と対抗することには成功した。しかし、それは後に新左翼党派間の反目や新左翼党派との関係性のあり方についての地元住民での意見の相違を産み、反対同盟の分裂に繋がっていくこととなる。

闘争の激化、開港[編集]

こうした反対闘争が高まる中、政府は一貫した非妥協の姿勢で建設計画を遂行し、1971年2月22日に建設予定地で第1次行政代執行を敢行し、反対同盟と機動隊が衝突した。同年9月16日にも建設予定地で第2次行政代執行があり、激しい闘争によって機動隊員3名が死亡(東峰十字路事件)した他、双方に多数の負傷者を出した。

同年10月1日、青年行動隊主要メンバーの1人が「空港をこの地にもってきたものをにくむ。」「私は、もうこれ以上、たたかっていく気力を失いました。」などと記した遺書を残して自殺し、反対同盟内に衝撃が走った。

1972年3月15日反対同盟はA滑走路南端、アプローチエリア内の岩山地区に高さ63メートルの鉄塔(通称:岩山大鉄塔)を建設し、飛行検査を中止に追い込んだ。

1977年1月11日、福田内閣は閣議で年内開港を宣言。航空機の飛行を敢然と拒む岩山大鉄塔を撤去するため、同年1月19日重機を運び込む道路建設に着工した。4月17日には三里塚第一公園に2万3000人が結集して「鉄塔防衛全国総決起集会」が開催された。

同年5月2日空港公団は航空法四十九条一項違反として、鉄塔撤去の仮処分申請を千葉地裁に提出。5月4日千葉地裁は書面審理のみで仮処分を決定。5月6日午前3時ごろ2100人の機動隊が鉄塔周辺を制圧した。4時過ぎ現場に到着した北原鉱治事務局長(当時)に千葉地裁執行官が鉄塔の検証終了と鉄塔の撤去を一方的に通告、反対派を周辺から排除し午前11時過ぎ鉄塔の撤去を完了。航空法違反部分だけでなく、鉄塔を根元から切断撤去した[17]

この日の午前5時ごろから反対派と機動隊の衝突が続き、5月8日には大規模な衝突が発生。「三里塚野戦病院」前でスクラムを組んでいた支援者A(27歳)が頭部にガス弾の直撃を受けて意識不明の重体となり、2日後の5月10日死亡。Aの両親は「機動隊の催涙ガス弾が原因」と国と県に約9400万円の損害賠償を求めて提訴した(東山事件)。

5月9日にはこれに対する報復と見られる襲撃により、警察官1名が死亡した。(芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件

上記のような過程を経て一期地区工事は推し進められ、滑走路1本の片肺ではあるものの、新東京国際空港は1978年3月30日に漸く開港することとなった。しかし、この政府の威信をかけた開港を目前に控えた3月26日に、第四インターナショナル(略称:第四インター)、プロレタリア青年同盟戦旗・共産主義者同盟等が空港を襲撃し、これに呼応して地下に潜んでいた別働隊が空港敷地内のマンホールから飛び出して空港管理ビルに突入、管制塔を占拠し各種設備を破壊した(成田空港管制塔占拠事件)。このため開港延期を余儀なくされた政府は、いわゆる成田新法を制定して秩序の回復を図った。

この開港遅れの期間中に、納車されたまま定期運用が無い状態だった京成電鉄スカイライナーAE形(初代)放火される事件が起きた(京成スカイライナー放火事件)。さらに5月19日にも京成本線で同時多発列車妨害事件、運輸省航空局専用ケーブルの切断事件を起こすなど、新左翼党派らによる闘争は先鋭化していった。

管制塔襲撃から2ヶ月後の5月20日に、新東京国際空港は周辺での激しい衝突や周辺の関連施設への襲撃などを受けながらも開港を果たした。このときの関係者の思いは、福永健司運輸大臣が式典で述べた「難産の子は健やかに育つ」との言葉に凝縮されている。

開港後の動き[編集]

日本の玄関口となった成田[編集]

成田国際空港の検問所。2017年現在、検問は行われていない。

開港時点においてもなお反対運動が活発であったことから、来港者全員に対する検問が実施され[18]、当時としては世界でも稀にみる警備体制が敷かれる空港としてスタートした新東京国際空港であったが、開港翌年の1979年には日本人出国者数が前年比14.6%増の403万8298人を記録し、初めて400万人の大台を超える等、最新設備を具備した大型空港が開港したことで日本の国際化は大きく進展した[19]

2002年に至るまで滑走路一本のみで運用されたとは言え、空港には世界各地からジャンボジェット機が飛来し、成田は国際線の拠点として長らくアジアの中でも中心的な役割を果たしていった。それと同時に、空港関連事業で働く多くの労働者が周辺地域に流入し、地元住民やその親族の多くも経済的に空港へ依存するようになったことや、自治体もその財政を空港によって得られる税収や交付金に頼るようになったため、反対運動に対する世間の関心が薄れていく中、反対派は地域においても「空港との共生・共栄」の声に押されて次第に孤立していくこととなる。

反対同盟の分裂と過激化する新左翼[編集]

「開港絶対阻止」をスローガンに活動を進めてきた反対運動は、空港開港により当初のスローガンを「空港廃港・二期工事阻止」に転換せざるをえなくなった。空港の存在が既成事実化するにつれ、条件闘争への転向や反対同盟から離脱する者が続出しただけでなく、反対同盟自体も闘争方針をめぐって数派に分裂し、初期の反対運動を牽引していた地元農民らは次第に実力闘争から離れていった。

一方で、開港後においても10.20成田現地闘争を始めとする新左翼活動家らによる暴動・破壊行為だけでなく、東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件千葉県収用委員会会長襲撃事件のような関係者を標的とした左翼テロが横行し、更には反対運動を断念して空港公団に土地を売却し移転した農家への放火等嫌がらせや新左翼党派間での内ゲバも発生した。

和解と現状[編集]

1990年代に入ると、B滑走路を含む二期工事を進めたい政府と反対運動の風化を懸念した反対同盟熱田派のメンバーの間で話し合いの機運が生まれ、合意形成の場として成田空港問題シンポジウム及び成田空港問題円卓会議が開催された。

それらを契機として、1995年平成7年)に当時の内閣総理大臣村山富市日本社会党)が行った反対同盟に対する謝罪をはじめ、政府・官僚・空港公団からの過去の過ちに対する謝罪が得られたことや空港東側の住民への補償として芝山鉄道線の建設が約束されたこと等により、菱田地区等の多くの地権者が集団移転に応じることとなった。

現在では、当初B滑走路建設の予定地とされていた東峰地区[20]の農家や一坪地主などの用地買収に応じていない地権者が若干名残っている状況である。成田国際空港株式会社によると、2015年8月末の空港用地内の未買収地は、敷地内居住者2件1.7ヘクタール、敷地外居住者4件0.6ヘクタール、一般共有地3件0.5ヘクタール、一坪共有地2件0.1ヘクタールで、合計2.9ヘクタールとなっている[21]

脚注[編集]

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  1. ^ 福田克彦[2001], p.46。
  2. ^ 開拓地のほとんどは耕作向き土地ではなかったが、特に困難だったのが地下茎が張り巡らされていた竹林が分配された東峰地区であったという。
  3. ^ 大久保利通が取香牧で牧畜を行うことを決めたのが現在の富里市両国といわれる。
  4. ^ 福田克彦[2001], p.70。『文藝春秋』1971年6月号記載の友納知事発言の伝聞供述として引用。
  5. ^ 福田克彦[2001], p.69。
  6. ^ ただし、横風用滑走路については、「航空機の飛行性能が著しく進歩し、成田空港の運用実績においても横風を含む強風等の理由で他空港へダイバートした便の比率は過去10年間で0.03%と極めて少ないことから、(中略)必要性は低くなっている」として成田国際空港株式会社が2016年(平成28年)に撤回している。また、2017年(平成29年)現在検討が進められている第3滑走路はこの計画に含まれていない。
  7. ^ 反対同盟の結成は8月22日とする記録も多数あり、いずれが正しいか定かではない。 参考:http://clio.seesaa.net/article/133048321.html 2017年1月14日閲覧。
  8. ^ 福田克彦[2001], p.78。
  9. ^ 比較として、1945年9月21日に行われた羽田空港の拡張では、終戦間もない頃にGHQが出した指令によるものとはいえ、僅かな補償金のみを渡された住民は48時間で立ち退きを強いられた。
  10. ^ コトバンク『用地売り渡しに関する覚書』、2017年2月4日閲覧。
  11. ^ 福田克彦[2001], p.79。
  12. ^ 共産党員らは農民に対し「警察の挑発に乗るな」などと訴えたが、土地の防衛に必死な彼らが応じるはずもなかった。
  13. ^ 福田克彦[2001], p.95-100。
  14. ^ 【戦後70年 千葉の出来事】成田闘争(上) さながら白昼の市街戦”. 産経新聞 (2015年8月2日). 2015年8月3日閲覧。
  15. ^ 新左翼は新東京国際空港が「日帝の海外侵略基地」・「軍事空港」であるとした(警察庁『焦点』第269号 第2章)。開港以降の使用状況を鑑みると突飛な主張に見えるが、ベトナム戦争当時は羽田空港に多数の米軍のチャーター機が飛来していたことも事実ではある。空港公団は左派系の地元団体と軍事使用を否定する覚書を交わしており、現在でも燃料不足を理由として米軍チャーター機が臨時着陸した際には詳細の明示と軍事不使用の再認を空港会社が求められるなど、強い監視下にある。
  16. ^ 空港問題が持ち上がる前は、自民党の票集めをするなど保守的な農民が元来多かったという。農地死守という目的を鑑みても、根本的な構図としては三里塚闘争はもともと伝統保守による経済保守に対する抵抗であったといえる。伝統保守と新左翼の組み合わせの象徴として、1968年4月18日に宮内庁請願が行われた際、「明治大帝の偉業達成せし下総御料牧場の存続を訴う」という横断幕を持ち、襟元に新左翼から配られた毛沢東バッジをつけた老人行動隊長のミスマッチな出で立ちに学生らが衝撃を受け、唖然としたり嘲笑したりしたというエピソードがある。
  17. ^ 成田空港問題シンポジウム記録集
  18. ^ 来港者への検問は2015年3月まで実施された。
  19. ^ トラベルボイス『1980年代に海外旅行が急拡大した理由 -海外渡航自由化50年の歴史』、2017年2月閲覧。
  20. ^ 現在の成田空港ではこの地区を避けて北側に延長することでB滑走路を2500m化している。
  21. ^ 成田国際空港株式会社『成田空港~その役割と現状~ 2016年度』2016年11月、155p

参考文献[編集]

  • 尾瀬あきらぼくの村の話
  • 戸村一作『わが三里塚風と炎の記録』田畑書店、1980年。
  • 朝日新聞成田市局『ドラム缶が鳴りやんで―元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』四谷ラウンド、1998年。
  • 福田克彦『三里塚アンドソイル』平原社、2001年
  • 隅谷三喜男『成田の空と大地』岩波書店 1996年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]