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三里塚闘争

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三里塚闘争
NaritaAirportHelmet.jpg
日時 1966年6月22日から現在
場所 千葉県成田市及び芝山町
北緯35度45分55秒 東経140度23分08秒 / 北緯35.76528度 東経140.38556度 / 35.76528; 140.38556座標: 北緯35度45分55秒 東経140度23分08秒 / 北緯35.76528度 東経140.38556度 / 35.76528; 140.38556
原因 日本国政府が地域住民との合意形成を軽視して強硬な空港建設を推進したため
手段 デモ活動座り込み暴動テロ
参加集団
指導者
死傷者数
死者


警察官4人
東峰十字路事件(3人)
芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件(1人)

工事作業員2人
東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件

収用委員会会長1人
千葉県収用委員会会長襲撃事件の後遺症を苦にした自殺

航空機メーカー役員の家族1人
日本飛行機専務宅放火殺人事件

反対派活動家3人
東山事件(1人)
成田空港管制塔占拠事件(2人、うち1人は刑事施設での拘禁反応で発症した精神疾患による自殺。)

反対派農民1人

→自殺

三里塚闘争(さんりづかとうそう)とは、千葉県成田市農村地区名称である三里塚とその近辺で継続している、成田市・芝山町の地元住民及び新左翼活動家らによる新東京国際空港(現成田国際空港)の建設・存続に反対する闘争のことを指す。成田闘争(なりたとうそう)とも呼ばれる。

空港の建設地が現在の位置に決定するまでの経緯もあり、空港用地内外の民有地取得問題や騒音問題等をめぐって地元住民らが革新政党指導の下で「三里塚芝山連合空港反対同盟」を結成し、反対運動を行った。更に開港を急ぐ政府による機動隊投入等の強硬策に対抗するために新左翼党派と合同したことで、反対運動が過激化した。激しい反対運動によって開港が当初予定より大幅に遅れただけでなく、政府側と反対派の双方に死者を出す惨事となった。

開港後も過激派によるテロ事件や強固な反対運動が継続し空港の拡張が停滞したため、1986年から10年間連続して世界1位の国際貨物取扱量[1]を誇っていた成田空港も各国間の空港開発競争で次第に劣勢となり、日本の経済に甚大な損失を与えることとなった。また、住民間の対立など地域社会にも爪痕を残している。

一方で、この闘争は国内外に大きな衝撃を与え、公共事業のあり方を一変させた[2][3]

空港計画浮上前の三里塚周辺[編集]

三里塚闘争の位置(成田国際空港内)
一鍬田
一鍬田
堀之内
堀之内
本城
本城
西三里塚
西三里塚
南三里塚
南三里塚
三里塚御料
三里塚御料
大清水
大清水
小菅
小菅
長田
長田
吉岡
吉岡
川上
川上
菱田
菱田
大里
大里
成田国際空港周辺の地区
Yellow pog.svg 古村を中心とした地区
Orange pog.svg 戦後開拓を中心とした地区
Green pog.svg 明治・大正開墾を中心とした地区

御料牧場[編集]

千葉県の北部は古代から野生馬の産地として知られていた。江戸時代には小金五牧及び佐倉七牧が設けられ、軍馬の飼育生産が行われる。

20世紀に入り、殖産興業を推進していた明治政府は佐倉七牧の一つであった取香牧付近に近代牧畜による羊毛自給を目指して牧羊場を設けた。この牧羊場が後に宮内庁下総御料牧場(以下、御料牧場)となる。

三里塚の街は牧場関係の商売で潤い、八百屋魚屋仕立て屋といった商店は飛ぶ鳥を落とす勢いであったという[4]。しばしば御料牧場を訪れる皇族も住民らにとっては身近で親しみを感じる存在であった。裕仁親王(後の昭和天皇)成婚を記念して植えられた竹の美林に隣接する御料牧場には春先になると遠方からも大勢が花見に訪れる日本有数の桜並木があり、三里塚は千葉県随一を誇る景勝の地と言われた[5]

また、高村光太郎が、『春駒』と題する「三里塚の春は大きいよ」から始まる詩で、在りし日の御料牧場の様子を詠んでいる[6]

「御料牧場を知らない奴は空港に反対する根拠がない」「本当のとこをいうと、(空港建設で)御料牧場がなくなるっていうんで、ここらの人はみんな気がおかしくなったのだ」と地元住民が後に語った程[4]、御料牧場は近隣で生活を営む住民にとって物心両面で欠くべからざるものであった。

古村[編集]

下総台地が削られてできた谷地では谷津田と呼ばれる湿田で古くから農作が行われていた。そこで農業を営む江戸時代から続く集落は古村(こそん)と呼ばれ、強固な村落共同体が形成されていた。芝山の集落の多くがこの古村であり、成田側でも取香や駒井野がこれに該当する[7] [8]

なお、駒井野には水野葉舟が居住しており、開墾の様子を「我はもよ野にみそきすと しもふさの あらまきに来て土を耕す」と謳っている[6]

また、1914年には農民組合が組織されていた芝山町(当時は千代田村二川村に分かれていた)は農村の階級支配に対する過去数々の争議が行われてきており、県内でも農民運動が最も盛んな地域であった[9]

開拓部落[編集]

第二次世界大戦敗北直後である1946年に、戦後開拓の一環として御料牧場の敷地のうち約1000町歩が農地として開放された[5][10]他、県有林の一部であった土地が払い下げられたことで入植が始められた。天浪・木の根・東三里塚・古込・東峰等、成田側の耕作地はこの時に開墾が始められたものが多く、入植者は元満蒙開拓団員で満州国からの引揚者や、戦闘による荒廃米国による統治等により、帰郷ができなくなってしまった沖縄県出身者等で占められていた。

彼らはほとんど身一つでこの地で開墾を始めたため、その暮らしぶりは極めて貧しかった。開墾は困難を極め[11]、入植者らは昼間は古村での小作で収入を得て、その後月明かりの下で1本で開墾作業を行った。炊飯の頻度を最小限にして少しでも開墾に時間を充てるため、4日分の米を纏めて炊き、空気に触れて腐りやすい部分を削いで食べながら、"オガミ"と呼ばれる三角形の粗末な藁小屋で生活をしていたという[12][13][14][15]

入植地では、農家としての生き残りをかけた土地争いも発生し、過酷な環境に耐えられなかった入植者が次々脱落していった。結果として、この地に残ったのは、脱落者から農地を買い取り、生計を立てられるだけの規模を確保した者達だった[12]

それ以前にも1923年に宮内省御料牧場の2000町歩が払い下げられるなどしており[5]、天神峰・横堀・十余三等、明治大正期に原野を開墾して成り立った部落もあった。それらの地区は過去には小作料の上納をめぐり東京豪商と争ったことなどもあるが[16]、空港建設が決まった頃には家督が二代目・三代目に移っており、営農も比較的安定してきていた。

紛争発生の経緯[編集]

逼迫する航空需要[編集]

1960年代初頭、経済成長と所得水準の向上の後押しを受けて日本の航空産業は著しい発展を見せており、旅客需要の伸びと航空機の発着回数の増加傾向がこのまま推移すれば、1970年頃に東京国際空港(羽田空港)の能力が限界に達すると予想された。

しかし、羽田空港は以下の理由で拡張性が見込めなかったため、首都圏第二空港の開設が急務とされた。

  • 西側に隣接する大田区地域が建物の密集地であるうえ既に航空機騒音問題が発生しており、南側は多摩川河口に面しているため[17]、拡張できるのは東の東京湾沖合しかないこと
  • 当時東京港には船舶が殺到してパンク状態となっており、沖合いへの拡張は海上輸送に著しい支障をきたすこと[18]
  • 当時の港湾土木技術では水深20メートルにある海床の埋め立てが困難とされたこと[18][19]
  • 在日米軍が管理している東京西部空域他、軍用飛行場群が有する空域との兼ね合いがあること[20]

そこで政府池田内閣)は、来るべき国際化に伴う航空(空港)需要の増大に備え、羽田空港に代わる本格的な国際空港の建設計画の策定に着手し、1962年11月16日に第2国際空港建設方針が閣議決定される[21]

新空港計画の策定と富里空港案[編集]

新空港の青写真と航空審議会答申[編集]

新東京国際空港計画案(当初)

運輸省が作成した冊子『新東京国際空港』(通称「青本」)で示された「当初計画での新空港」は、超音速旅客機用主滑走路(4,000メートル)2本、横風用済走路(3,600メートル)1本、国内線用滑走路(2,500メートル)2本を具備し、総敷地面積は約2,300ヘクタールと、当時の羽田空港(350ヘクタール)はおろか、世界の主要空港(ヒースロー空港1,100ヘクタール、オルリー空港1,600ヘクタール、ニューヨーク国際空港(現・JFK)2,000ヘクタール)と比較しても先進的なものであった。

1963年頃から建設地についても本格的な検討が進められ、候補地としては千葉県浦安沖、印旛沼木更津沖、富里村(現・富里市)・八街町(現・八街市)附近、茨城県霞ヶ浦周辺、谷田部白井等が挙げられた[22]

1963年12月11日航空審議会が最も有力な3候補地について綾部健太郎運輸大臣に以下のように答申し、富里村附近が最も候補地として適当であるとした。

  • 浦安沖は公衆の利便の点では最も魅力的であるものの、羽田との管制上の関係[23]や埋め立てに伴う造成経費[24]が難点であり、気象条件についても臨海工業地帯の造成がさらに進んだ場合はスモッグによる障害が懸念される。
  • 霞ヶ浦沖周辺は航空自衛隊百里飛行場の影響がある。
  • 富里村附近は気象条件から滑走路の方向を弾力的に決定でき、地形・都心との距離の両面において霞ヶ浦沖よりも優れている。

なお、航空審議会は「この際中途半端な空港を作ることはかえって将来に禍根を残すことになるので、可能な限り能力の大きい空港とすることを基本的態度として考えるべきである」としている[25]

建設省・党人派との対立[編集]

上記航空審議会答申では、候補の一つだった木更津附近が羽田空港の進入出発経路の要衝となっているため候補地から除外されている[25]。木更津案は建設省河野一郎が推進していたものであり、特に河野が羽田空港を廃止してでも東京湾を埋め立てて新空港を建設すべきと主張して譲らず、これに田中角栄大蔵相や赤城宗徳農林相も同調するなど、答申後も攻防が続いた[26]。これは運輸・建設両省間の縄張り争いであるだけでなく、自由民主党内の官僚派党人派の駆け引きでもあり、さらにその背景には浚渫工事や土地売買を巡る利権が控えていた[26][27]。管制の面から下総台地こそが理想の立地と考えながらも政治力のない運輸省がこのような実力者の動向に気を遣うあまりに、地域住民の存在がないがしろにされたとの指摘もある[21][27][28]

富里案の一時内定[編集]

1965年11月18日佐藤栄作内閣は同年に実施されたボーリング調査の結果、霞ヶ浦が候補地として適当でなかった[27]として空港建設地を富里に関係閣僚懇談会で内定し、橋本登美三郎官房長官記者会見で「関係閣僚協で新空港を富里にすることに内定した。あす閣議決定する」と突如発表した[29]。木更津案を強力に推していた河野の急逝と、内陸案に難色を示していた友納武人千葉県知事の病気療養による不在を奇貨としたのではないかとの指摘もある[29]

巨大な空港の面積は富里村の半分に匹敵しており、空港周辺に展開されるであろう開発も考慮すれば、その実現は近代牧畜の発祥の地[30]であるとともに末廣農場を始めとする日本の農場経営のモデルケースとされてきた村がほとんど消滅することを意味していた。

当時、現在に比べれば航空機の利用は大衆に浸透しておらず、騒音等の外部不経済の負担が大きい空港は単なる迷惑施設としか世間で認識されていなかったこともあり[31]、既に富里が候補に挙がった段階で「日本一の農耕地」を自負する農民らは反対運動を行っていたが[32]、突如突きつけられた内定に対し、地元住民らは革新政党と連帯して更に激しい抗議活動を展開するようになった。根回しがされなかった地方公共団体[33]からも反発を呼び、閣議決定は結局延期となった。千葉県には「富里に決定したら命をもらう」「ベトコン作戦で徹底的に戦う」などの脅迫まがいの電話や直談判が殺到した[34]

これまで地元の陳情・請願を受けて飛行場を造ることが殆どであった運輸省当局は[35]、用地取得に関する地元住民との話し合いをどうするかも全く決めておらず、住民対策として「用地買収の条件」「代替地」「転業対策」「騒音対策」の4条件を提示して抗議してきた千葉県側に対しても、「新東京国際空港公団法を次の国会に出して、その公団に各省から人を出してもらい、相談してもらう」とした。地元は政府の決めたことに従えばいいと言わんばかりの運輸官僚のこのような態度は、更に火に油を注ぐこととなった[36]。なお、後述する1966年7月4日の閣議決定の前夜に、地元農民への対処について農林事務次官に問われた運輸事務次官が「運輸省が飛行場をつくるときには上の方で一方的に決めて、農民はそれに従うのが一般的原則である。これまでもこの方式で飛行場を建設してきたのであって、一度も問題になったことはない。」と答えたとされる[37][38]

三里塚・芝山の登場[編集]

水面下の調整[編集]

1966年になっても富里空港反対派のデモ隊が千葉県庁に乱入するなど、反対運動が収束する気配はなく、新空港建設計画自体が頓挫する恐れが出てきた。このことを懸念した佐藤内閣は若狭得治運輸事務次官に友納千葉県知事との水面下での交渉を行わせた[39]川島正次郎自由民主党副総裁の斡旋等もあった結果、富里案を縮小、更に位置を約4キロメートル北東に移動させて国有地である下総御料牧場を建設地に充て収用を最小限に抑える方向で調整された(なお、御料牧場は既に富里案での移転農家向けの代替地として検討されていた)[40]。この計画は羽田空港の存続を前提とした技術的な見地を重視する運輸省と「運輸省はじめ、航空関係者は空ばかり見て、地に足がついていない」と批判してきていた"現実政治家"との妥協の産物ともいえる[27]。なおこのとき、三里塚地区の貧しい開拓農民が相手であれば「買い上げ価格を相当思い切ってやりさえすれば、空港建設は可能である[41][42]」との思惑があり、古村を避けてなるべく開拓部落に収まるように空港のレイアウトを決めたと言われる[43]

一方運輸省では、富里案こそが理想の新空港の形であり、三里塚案は"つなぎ"・"暫定案"という認識が残っていた。既に三里塚案での調整が政府・千葉県の間で進められていた同年6月21日に、中村寅太運輸相が「新空港は富里・八街以外にない」と記者会見で述べており、7月12日には新設される空港公団の総裁に指名された成田努が「地元農民の賛成があれば(現行案以上に)拡張したい」と述べている[40]

閣議決定と動揺する地域[編集]

中村運輸相が「富里・八街以外にない」と述べた翌日である6月22日に、佐藤首相が三里塚・芝山地区での空港建設案について友納千葉県知事と協議し、その内容が報道される[44]。今回は県のトップとは調整が行われていたものの、地元住民の意見聴取等はやはり行われていなかった。富里での空港建設を対岸の火事と思い、空港建設による経済的恩恵さえ期待していた三里塚・芝山地区の住民らは、寝耳に水の状態で空港建設の内定を報道で知ると富里と同様に猛反発した。日本共産党日本社会党の指示を受けて、富里の反対運動を支援していた両党のオルグ団や反対派の富里住民らが直ちに現地に駆け付け、動揺する住民らに対して「富里と同じように闘えば、かならず空港を追い払うことができます」「俺らが勝ったんだから、あんたらも勝てる」と謳った[45][46][47]

切迫する航空需要を受けて開港を急ぐ佐藤内閣は、空港計画そのものへの交渉行為に応じぬまま、2週間後の7月4日に新空港の位置及び規模(平行滑走路4,000メートル・2,500メートル、横風用滑走路3200メートル、総敷地面積1065ヘクタール)を閣議決定した。この時の決定内容は現在の成田国際空港の基本計画となっている[48]

新しい空港計画は富里案に比べ大幅に縮小されてはいたが、それでも空港建設用地は成田市・芝山町・大栄町多古町に跨る1065ヘクタールもの広大なものであり、御料牧場等の面積は空港予定地の4割(国有地は243ヘクタール、公有地は152ヘクタール)に満たず、ここでも民有地(670ヘクタール、325戸)の取得が課題となり、用地交渉の対象者は千数百人に上った[22]

しかし、この時政府は空港建設をまだ楽観視しており、あくまで「5年間で完成させるプロジェクトチーム」として各方面からの寄せ集めの人員で新東京国際空港公団を立ち上げている[49]。後に一律に定められた補償額等の制約や激しい反対の中で、空港公団職員らは必死の用地買収交渉を行うこととなるが、省庁などから出向してきた職員らの中には横柄な態度で地権者に接し不評を買った者もおり、「民間業者に任せればもっと早かったと思う」と振り返る空港公団OBもいる[50]

1966年12月12日に運輸省が空港公団に指示した基本計画では、1971年春に滑走路1本と西側半分の施設(一期地区)で開港することとし(工事を1970年度中完成)、残りの施設(二期地区)を1973年度末までに完成することを目標としていた[51]

紛争の経過[編集]

初期の三里塚闘争[編集]

反対同盟の結成[編集]

反対同盟少年行動隊が用いていた旗(成田空港 空と大地の歴史館展示)

閣議決定直後、空港建設用地と騒音地域の大部分を占める成田市及び芝山町はほぼ反対一色となった。空港建設に反対する地元住民らは富里村と同様に政府と対決することを決意し、富里の反対運動組織や現地に団結小屋を建てて常駐した革新政党オルグらの指導を受けながら各地区で反対運動団体を組織した[46][52][53]

当時、戦後開拓で入植した農民らにとっては、住宅資金や営農資金の返済が終わって農業がようやく軌道に乗り始めており、これまでの労苦の成果が実りつつある時期に当たっていた。また食糧不足の東京に農作物を供給し復興を影で支えていたという自負もあり[54][55]、自分たちを標的とした三里塚案に大いに自尊心を傷つけられた[56]。兵役・開拓・空港と国に翻弄されてきた農民からは「三度目の赤紙だ」との声も上がった[15]。したがって、彼らは降って湧いた空港建設計画をこれまでの努力を否定するものと捉え、政府側の期待に反して強く反発した。

他にも、古村を開発や騒音から守ろうとする芝山地区等の住民や、皇室ゆかりの御料牧場に強い思い入れを持つ戦前派ら、行政が推進していた東山地区営農改善計画(シルクコンビナート計画)に応じて養蚕用のの栽培を始めたばかりにも関わらず計画を反故にされ憤る農家[57]等、様々な背景を持つ者が反対運動に合流した[58][59]

1966年7月から8月にかけて「三里塚空港反対同盟」及び「芝山空港反対同盟」が合同し、「三里塚芝山連合空港反対同盟」(以下、反対同盟。)が結成された[60]。ここに本格的な三里塚闘争が始まった。

初期段階での反対同盟は、農民を中心に用地外も含め約1200戸・約1500人で構成された。各部落には独立性が認められていたが、反対同盟の下部組織として少年行動隊・青年行動隊・婦人行動隊・老人行動隊が組織されたことにより各世代間での横でのつながりが生まれ、反対派の世帯は一家総出で反対運動に臨んだ[61]

条件賛成派の動き[編集]

閣議決定に前後して、県・運輸省[62]・新たに設立された新東京国際空港公団(以下、空港公団)等により、空港の意義や移転補償内容について住民説明が行われた。

このとき県の「国際空港相談所」所長は、買い取りに応じない地権者への強制収用土地収用法による行政代執行)の実施を匂わせつつも、

  • 100万円(相場の4倍から5倍程度であり、当時の国家公務員初任給は2万円程度[63]。)を基準として用地は高額で買い取り、現金で支払う
  • 買取額を代替地購入に充当すれば耕地面積を1.5倍に増やせるように調整する
  • 離農する地権者には廃止補償を出す
  • 家屋建て替えの費用は新築見合いで算出する
  • 騒音地域内の農耕地に対しては、国費で畑地灌漑施設を整備する(成田用水

等と説明をしており[64]、「買い上げ価格を相当思い切ってやる」とする政府側の意向が反映された補償方針が示された[65]

また、閣議決定においても土地等の補償[66]・代替地の確保[67]・騒音対策[68]・職業転換対策[69]・インフラ整備[70]等を県当局の要望に沿って行うことが掲げられていた。県の要望によって閣議決定の内容に地元との交渉条件が含まれるのは極めて異例な措置であった[22]

これを受けて、閣議決定後の数か月で地権者の8割が「条件次第によっては、国策に沿って移転もやむなし」とする条件賛成派に転向し[71][72]、成田市議会及び芝山町議会[73]も当初可決した反対決議を白紙撤回した。古村では部落の有力者の影響が強い傾向があり、特に成田側の駒井野・取香では有力者が条件賛成派に転じると部落全体も宗旨替えをした[7]

1968年4月6日には中曽根康弘運輸大臣及び友納知事立ち会いのもと、空港公団と条件賛成派4団体との間で「用地売り渡しに関する覚書」が取り交わされ、空港公団は空港用地民有地の89%(597ヘクタール)を確保した[74]

事前に行われていた条件賛成派団体との交渉の結果、覚書では反当たりの買取価格が当初の説明よりもさらに上昇しており、畑:140万円、田:153万円、宅地:200万円、山林原野115万円となった [75][74]。また、畑の代替地基準価格は90万円とされ、当初の説明内容に沿う形で代替地の耕作地の価格は買取額の2/3程度に抑えられたほか(他の地目でも同じ比率)、空港公団が用地提供者に対し空港内の営業を優先的に考慮することや、代替地を早急に造成し速やかに引き渡す努力をすることが約された[76]

希望者に対して必要な代替地自体が十分に確保できなかったために移転先の耕地面積が移転前よりも却って減少するなど、問題がないわけではなかった[77]が、相場以上の土地の買い取り価格と手厚い補償が提示された結果、9割の地主が一定の理解を示し移転に応じる形となった[78]

用地買収に応じた者の心情として、小川プロダクションの取材で条件賛成派となった農民らが、

  • 共産党や社会党に援農などで恩を着せられると反対運動から抜けるに抜けられなくなるが、このままいったら国や県の援助を得られず代替地もいいところをとられてしまう
  • 圧力を覚悟で声を上げたところ、実は条件賛成派になりたかったが近所手前のことで声を上げられなかったとする者が半数以上いた
  • 既に空港公団との売買に応じていても、反対運動がすごく、下手な口をきいたら殺されてしまうのでみんなに話せなかった
  • 来客があっても自分の塩梅を見に来たと思い、腹の底からじっくり安心して話ができなかった
  • (疑心暗鬼で)ずいぶん辛い思いをした。この精神補償ももらいたいくらいだ
  • 自分は空港反対だが部落がそうなった以上は条件賛成派に入らなければ生活が成り立たない
  • 物価の上昇等も考えると条件賛成派になったのはうまくなかったな(売却を先延ばした方が土地を高く売れた)、という感じはあるものの、自分の身の振り方を考えた時には空港が来てよかったと思っている

等とそれぞれの思いを語っている。なお、この取材記録は同プロダクションの映画作品には使われていない[64]

また、古村を中心とする地権者らが結成した条件賛成派団体である成田空港対策地権者会の会長は、「先祖伝来の貴重な土地を国家要請で売り渡さなければならない農民の気持ちは複雑だった。売った以上は立派な国際空港を一刻も早く作ってほしいと思った」と語っている[79]

移転を機に専業農家を辞めた元地権者らの多くは、空港公団の斡旋を受けるなどして警備業や店舗経営等の空港関連の業種に転職したため、彼らにとっては新たな生活を営む上で新空港の早期開港が切実なものとなった。また、警備業に就いた元地権者の中には測量や代執行を行う空港公団を守る警備員となった者もおり、反対派として闘争を継続する親族と対峙する事態も発生した[80]

条件賛成派に対する反対派の怨嗟は少なからずあり、支援学生が提案してきた条件賛成派との再共闘が反対派の会議で一蹴されたり、闘争で荒んだ反対派農家が条件賛成派農家の農作物を荒らすことなども起きた[81]。反対同盟の資料では「佐藤内閣のお先棒かつぎ」「警察の犬」等の言葉を用いて条件賛成派が批判されている[82]。闘争初期において反対派が多かった古村で条件賛成派農家への村八分が行われ、その農家が人権擁護局に訴えたこともあった[83][84]

測量クイ打ち阻止闘争と革新政党の離反[編集]

立木トラストの明認札(成田空港 空と大地の歴史館展示)。社会党の佐々木更三成田知巳、三里塚平和塔の建立にかかわった佐藤行通の名前が見える。
反対同盟が用いていた連絡用のドラム缶成田空港 空と大地の歴史館展示)。叩く音で同盟員を招集していた。

政府側の硬軟織り交ぜた働きかけを受けても反対同盟に留まった1割ほどの者達の決意は固く、更なる反対運動が続けられた。

百里飛行場への反対運動等を参考に、用地を細分化して空港用地買収交渉を困難にする目的で、革新政党主導の下で土地一坪を地権者や支援者が相互に売買して登記する「一坪運動」や立木一本一本を売買して表札を掲げる立木トラストが展開された[85]。一坪運動は1966年8月29日から始まり、用地内で33か所の2.1ヘクタールが共有地に充てられ、所有者は1300人余りに及んだ。これらの登記には社会党議員らも名を連ねている[86][87][88]

当初より空港反対運動の組織・指導にかかわっていた革新政党であるが、反対同盟が1967年8月16日に「あらゆる民主勢力との共闘」として敵対する新左翼党派(反代々木派)の受け入れを表明したことで、共産党との関係に亀裂が生じ始めた[85]

8月21日に、友納知事が土地収用法に基づく空港公団による土地の立入調査が行われる旨を通知した。この間に反対同盟は陳情デモ署名運動解職請求などの様々な抗議運動を行うが芳しい成果は上がらなかった[89]。このころの反対派の中には自民党支持者も多く、自民党議員への陳情も行われたが、陳情後も空港賛成の言動が継続されることを見て取ると離れていった[46]

10月10日の早朝に、外郭測量用のクイを打つため、空港公団職員らが警視庁千葉県警察神奈川県警察機動隊に守られながら空港建設予定地に現れる。これに対し反対派は進路上での座り込み等による阻止を試みたが、道路交通法違反等として警告を受けた後に機動隊に暴力的に排除されてしまう(測量クイ打ち阻止闘争[90][91]。このとき、同盟員の先頭に立っていた共産党と民青の部隊は早々に座り込みをやめて隊列を離れ、労働歌がんばろう」を歌いながら、機動隊と反対派住民らの衝突を傍観[92]した。

同盟員は政府の横暴と共産党の「裏切り」に驚愕し、憤った。一方共産党は、同年11月14日大橋武夫運輸大臣及び空港公団総裁が反対同盟代表の戸村一作らと座談会を開いたことについて、「同盟の大方針に反するばかりでなく、同盟を一部の人々でひきまわす非民主的なやり方」と糾弾したうえ、その後も反対同盟幹部の寝返りの噂を流して主導権の取り戻しを図ったことで、反対同盟との対立は決定的となった[85]

一方、この日は1本でもクイを打ち込めれば成功と考えていた空港公団では、3本とも打ち込めた予想外の成果に「空港建設への突破口が開けた」と今後を楽観視した[93]。 しかしながら、それは長期に亘る苛烈な実力闘争の幕開けであった。政府の対応に激怒した反対同盟は、暴力を厭わない実力闘争に舵を切る決意を固めると同時に、12月15日に共産党の支援と介入を排除する声明を発表した。反対同盟の共産党に対する拒絶は、共産党を支持したり共産党員の家族がいる世帯に対する村八分が古村で行われるほど徹底していた[94]

社会党はその後もしばらく支援を続けていたが、闘争開始から3年程度で反対運動の隊列から消えていき、一坪共有運動に参加していた者も反対同盟に通告もしないまま土地を空港公団に売却した[95][96]

革新政党は反対運動を利用して党勢の拡大を図ったため、反対派住民らに不信感を持たれたとも分析されている[97]

新左翼党派の介入[編集]

新左翼党派や反対同盟員が用いたヘルメット等装備(成田空港 空と大地の歴史館展示)

折しも反対同盟が機動隊の威力を目の当たりにした1967年は、70年安保と連なる日本の学生運動が勃興しつつある時期と重なっていた。

反対同盟は、測量クイ打ち阻止闘争と同時期に発生した羽田事件で機動隊と渡り合った学生ら(新左翼党派)に期待し、「支援団体は党派を問わず受け入れる」という姿勢を取った[78]。一方、反国家権力闘争を掲げる新左翼各派にとっても、三里塚闘争はベトナム戦争反戦運動[98]や佐藤内閣への反発の象徴的な対象として映り、双方の思惑が一致した[85][99][100]

翌1968年2月26日及び3月10日には、成田市内で空港公団分室への突入を図った学生集団と機動隊との間で激しい衝突があり、反対派住民らは抗争力を発揮した学生らを自宅に招いて歓待した。このことや反対同盟代表の戸村一作が2月26日の衝突で機動隊に殴打されて負傷したことを切っ掛けに、反対同盟は武装闘争路線の新左翼である中核派共産同社青同解放派が主導する三派全学連の全面的な支援を受けることになった[91]。この反対派住民らの熱狂ぶりは「おばさんや青年や老人たちの間では、農民の為に血を流してくれた闘う中核(派)が大もて」等と報じられた[85]

ただし、新左翼党派の中でも階級闘争至上主義の革マル派は三里塚闘争を「小ブルジョア農民の自己保身」と揶揄したほか、内ゲバや地元の食堂での無銭飲食など素行の悪さが目立ったため[101]1970年1月に反対同盟の幹部会で「現地闘争に主体的に参加せず、他派に対する誹謗のみを目的とした」として、運動から追放された[102]。その後、革マル派は三里塚闘争への妨害活動を続けている[101]

反対同盟は新左翼各派の支援を受けつつ、座り込み・空港公団職員から強奪した調査用具の損壊・投石バリケード構築・空港関係者の自宅への嫌がらせなど様々な手段を用いて空港公団や機動隊を相手に実力で対抗した[103][104]

開港までの闘争では戸村代表の指導の下、共通の敵である政府に打撃を与えるため、現地に乗り込んだ新左翼各派の活動家らと古村・開拓部落の反対派住民[105][106]らとが互いに協力又は利用し合いながら呉越同舟の形で活動を行っていった[78]

反対同盟は様々な新左翼党派を受け入れたことで武闘派の支援者を大動員して政府勢力と対抗することには成功した。しかしそれは後に、新左翼党派間の反目や、新左翼党派との関係性のあり方についての地元住民間の意見の相違を産み、反対同盟の分裂・闘争の泥沼化に繋がっていくこととなる[107][108]

闘争の激化、開港[編集]

一期地区の収用[編集]

空港公団は移転補償費を算出するため、同意した条件賛成派の不動産に対して「百日調査」と呼ばれる調査を1968年4月20日から7月19日にかけて実施したが、これに新左翼党派だけでなく農民が空港公団職員や機動隊に対して角材をふるったりスクラムを組むなどして抵抗した。このときデモや乱闘で条件賛成派の家屋や畑が破壊されている[104][109]

また、1969年8月18日には御料牧場の閉場式が挙行されたが、反対同盟が乱入したうえ青年行動隊が会場を破壊し、青年行動隊隊長が全国指名手配されている[110]

警察側でも、これらの動きに対して、同年 11月12日に反対同盟が工事用道路に座り込んでブルドーザーを阻止した際に戸村代表以下13名を逮捕するなど、断固とした措置をとるようになった[111]

1970年には、収用委員会への強制収用申請に必要な土地調書及び物件調書を作成するために、空港公団が土地収用法第35条に基づく未買収地への立入調査を実施した[112]。反対派はこれに対して屎尿クロルピクリンの投擲・投石竹槍等で対抗した。更に反対派は、強制収用を困難なものにするため、空港公団に買収された土地での不法耕作や条件賛成派の畑から盗み出した作物の処分により得た資金や、御料牧場から盗み出した材木等を使い、強固な団結小屋である「砦」や地下要塞の構築にも乗り出した[113]

こうした反対闘争が高まる中、政府は一貫した非妥協の姿勢で建設計画を遂行し、1971年2月22日に建設予定地で第一次行政代執行を敢行し、反対同盟と機動隊が衝突した。その後反対派が立てこもる地下壕や「農民放送塔」が撤去された他、同年9月16日にも建設予定地で第二次行政代執行がなされた。これらの激しい闘争によって臨時編成の機動隊の3名が死亡(東峰十字路事件)した他、双方に多数の負傷者を出した[114]。なお、この間に青年行動隊等により日本幻野祭が開催され、多くの若者が現地を訪れている。

同年9月20日、この日は代執行をしないとの千葉県知事友納武人による前日の発表に反して、突如警察の機動隊と作業員らが現れ、庭で脱穀をしていた小泉(大木)よねを排除して住居を撤去した。空港建設での行政代執行としては最初で最後となる民家への実施をもって、第二次行政代執行が終結した[114]

同年10月1日、青年行動隊の中心メンバーであった三ノ宮文男が「空港をこの地にもってきたものをにくむ。」「私は、もうこれ以上、たたかっていく気力を失いました。」などと記した遺書を残して自殺し、反対同盟内に衝撃が走った[114][115]

膠着期[編集]

岩山鉄塔の鉄塔跡

1972年3月15日、反対同盟はA滑走路南端、アプローチエリア内の岩山地区に高さ60.6メートル鉄塔(通称:岩山大鉄塔)を鳶職の協力のもと建設し、飛行検査を中止に追い込んだ。更に千葉港から航空燃料を空港に輸送するためのパイプライン建設が経由地での反対運動や技術的問題によって停滞し、代替としての鉄道輸送(暫定輸送)も自治体との調整が難航した。そのため、滑走路等施設の建設は進められたものの、開港自体は先延ばしが続いた[116]

反対同盟側も、代執行阻止闘争での大量逮捕により打撃を受けており、反対同盟結成時に320戸あった用地内反対派農家は代執行前後には45戸、1976年には23戸にまで減少していた[116]

一方、この期間に戸村代表の第10回参議院議員通常選挙出馬や有機農業(ワンパック運動)の導入などの取り組みがあった[116]

妨害の中での開港[編集]

一期地区のみでの運用が続く成田空港(1989)

1977年1月11日、「さあ働こう内閣だ」と自称した福田赳夫内閣閣議で年内開港を宣言。1月17日には関係閣僚協議会が開かれて閣僚からは積極的発言が相次ぎ、福田も「年内開港を目指す。『有言実行』を唱える福田内閣が言った以上は実現しなければならない」と改めて決意を述べて大号令を発した[117]

同年1月19日に、航空機の飛行を敢然と拒む岩山大鉄塔を撤去するため、重機を運び込む道路の延長工事が始まるなど、早くも空港建設に向けた動きがあり、反対派も4月17日に闘争史上最大となる1万7500人[118]を結集し「空港粉砕,鉄塔決戦勝利,仮処分粉砕全国総決起集会」を三里塚第一公園で開催した[119]

同年5月2日、空港公団は航空法第49条1項違反として、鉄塔撤去の仮処分申請を千葉地方裁判所に提出。5月4日千葉地裁は書面審理のみで仮処分を決定。5月6日午前3時ごろ、2,100人の機動隊が鉄塔周辺を制圧した。4時過ぎ現場に到着した北原鉱治事務局長に、千葉地裁執行官が鉄塔の検証終了と鉄塔の撤去を一方的に通告、反対派を周辺から排除し午前11時過ぎ鉄塔の撤去を完了。航空法違反部分だけでなく、鉄塔を根元から切断撤去した[120]

この日の午前5時ごろから反対派と機動隊の衝突が続き、5月8日には大規模な衝突が発生。「三里塚野戦病院」前でスクラムを組んでいた支援者A(27歳)が頭部にガス弾の直撃を受けて意識不明の重体となり、2日後の5月10日死亡。Aの両親は「機動隊の催涙ガス弾が原因」として、政府と千葉県に約9,400万円の損害賠償を求めて提訴した(東山事件[121]

5月9日には、これに対する報復と見られる襲撃により、警察官1名が死亡した(芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件[121]

上記のような過程を経て一期地区工事は推し進められ、滑走路1本の片肺ではあるものの、新東京国際空港は翌1978年3月30日に漸く開港することとなった。しかし、政府の威信を賭けた開港を目前に控えた3月26日に、第四インターナショナル(略称:第四インター)、プロレタリア青年同盟戦旗・共産主義者同盟等が空港を襲撃し、これに呼応して地下に潜んでいた別働隊が空港敷地内のマンホールから飛び出して空港管理ビルに突入、管制塔を占拠し各種設備を破壊した(成田空港管制塔占拠事件)。このため開港延期を余儀なくされた政府は、いわゆる成田新法を制定して秩序の回復を図った。

この開港遅れの期間中であった5月5日に、納車されたまま定期運用が無い状態だった京成電鉄スカイライナー用車両放火される事件が起きた(京成スカイライナー放火事件)。さらに5月19日にも京成本線で同時多発列車妨害事件、運輸省航空局専用ケーブルの切断事件を起こすなど、新左翼党派らによる闘争は先鋭化していった[122]

管制塔襲撃から2ヶ月後の5月20日に、新東京国際空港は周辺での激しい衝突や周辺の関連施設への襲撃などを受けながらも漸く開港を果たした。このときの関係者の思いは、福永健司運輸大臣が式典で述べた「難産の子は健やかに育つ」との言葉に凝縮されている。この時点で未成の二期地区内には反対派農家17戸が残され、うち15戸が反対同盟で占められた。開港に前後して過激派によるゲリラ事件も頻発した[123][124]

開港後の動き[編集]

日本の表玄関となった成田[編集]

成田空港の検問所。検問は2015年3月に廃止された。
成田を拠点にしたノースウエスト航空の747-200
大型機で混雑する成田空港

開港時点においてもなお反対運動が活発であったことから、来港者全員に対する検問が実施され[125]、当時としては世界でも稀にみる警備体制が敷かれる空港としてスタートした新東京国際空港であったが、開港翌年の1979年には日本人出国者数が前年比14.6%増の403万8298人を記録し、初めて400万人を超える等、最新設備を具備した大型空港が開港したことで日本の国際化は大きく進展した[126]。開港から10年目の節目である1988年度には成田の国際線日本人旅客数が1000万人の大台を突破している[127]

2002年に至るまで滑走路一本のみで運用されたとは言え、空港には世界各地からジャンボジェット機が飛来し、限られた発着枠の配分を待つ乗り入れ希望の航空会社が引きも切らない状態が続いた[128]。本邦社のみならずノースウエスト航空等の以遠権を行使するアメリカの航空会社が太平洋路線とアジア路線の結節点として成田をハブ空港にしたことから、成田は国際線の拠点として長らくアジアの中でも中心的な役割を果たしていった。

周辺地域には空港関連事業で働く多くの労働者とその家族が流入し、地元住民やその親族の多くも経済的に空港へ依存するようになったことや、自治体もその財政を空港によって得られる税収や交付金に頼るようになったため、反対運動に対する世間の関心が薄れていく中、反対派は地域においても「空港との共生・共栄」の声に押されて次第に孤立していくこととなる[124][129][130][131]

反対同盟の分裂と過激化する新左翼[編集]

「開港絶対阻止」をスローガンに活動を進めてきた反対運動は、空港開港により当初のスローガンを「空港廃港・二期工事阻止」に転換せざるをえなくなった。反対運動の中心人物であり精神的支柱でもあった戸村代表の病死とともに空港の存在が既成事実化するにつれ、条件闘争への転向者や反対同盟から離脱者が続出した。初期の反対運動を牽引していた地元農民らは次第に実力闘争から離れていき、反対同盟の支援者であったはずの新左翼党派が運動を掌握するようになった[54][131][132]

反対同盟幹部らは事態を危惧し、過激派等の攻撃から運営中の空港を守りながら強制収用を実施することは不可能と考える警備当局や空港公団関係者らからも二期地区の整備を絶望視する声があったことから、開港と前後して反対派と政府側との間で水面下での交渉が模索された。中には覚書の締結にまで漕ぎつけたものもあったが、情報漏洩により不成功に終わった[133]

そのような中で二期地区内の未買収地での一坪運動をさらに進める「一坪再共有化運動」の是非や支援党派との関わり方を巡って反対派同士の対立が深まり、反対同盟は数派に分裂した[54][131][132]

一方で、開港後においても10.20成田現地闘争を始めとする新左翼活動家らによる暴動・破壊行為だけでなく、東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件千葉県収用委員会会長襲撃事件のような関係者を標的とした左翼テロが横行し、更には反対運動を断念して空港公団に土地を売却し移転した農家への放火等嫌がらせや新左翼党派間での内ゲバも発生した[134]

和解と現状[編集]

1990年代に入ると、B滑走路を含む二期工事を進めたい政府と反対運動の風化を懸念した反対同盟熱田派のメンバーの間で話し合いの機運が生まれ、合意形成の場として成田空港問題シンポジウム及び成田空港問題円卓会議が開催された。

それらを契機として、1995年平成7年)に当時の内閣総理大臣村山富市(社会党)が行った反対同盟に対する謝罪をはじめ、政府・官僚・空港公団が過去の過ちを認めたことや空港東側の住民への補償として芝山鉄道線の建設が約束されたこと[135]等により、菱田地区等の多くの地権者が集団移転に応じることとなった。

空港公団の民営化に伴い成田国際空港に空港名を改められた現在においても、当初B滑走路建設の予定地とされていた東峰地区[136]の農家や一坪地主などの用地買収に応じていない地権者が若干名残っている状況である。空港公団の後身である成田国際空港株式会社(以下、空港会社)によると、2016年8月末の空港用地内の未買収地は、敷地内居住者2件1.7ヘクタール、敷地外居住者4件0.6ヘクタール、一般共有地3件0.5ヘクタール、一坪共有地2件0.1ヘクタールで、合計2.9ヘクタールとなっている[137]。もはやごく僅かとなった反対同盟を他の地域に居住しながら未だ支援し、地域を犠牲にしてでも政治闘争や反権力闘争を続けようとする新左翼党派に対しては元反対派からも批判の声がある[138]

2011年6月23日に空港会社が三里塚闘争を後世に伝えるための施設として「成田空港 空と大地の歴史館」を開館した[139]

脚注[編集]

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  1. ^ 世界の国際線空港ランキング”. 成田国際空港振興協会. 2017年8月29日閲覧。
  2. ^ 大島悠亮 (2015年8月3日). “【戦後70年 千葉の出来事】成田闘争(下) 公共事業のあり方一変”. 産経新聞 (産経新聞社). http://www.sankei.com/region/news/150803/rgn1508030020-n3.html 2017年8月29日閲覧。 
  3. ^ 朝日新聞成田支局[1998]111-112頁。
  4. ^ a b 福田克彦[2001], 46頁。
  5. ^ a b c 宇沢弘文(1992)72頁。
  6. ^ a b 航空科学博物館-成田空港滑走路先端”. 今日は近くの図書館 (2012年2月). 2017年10月9日閲覧。
  7. ^ a b 伊藤睦[2017]172頁。
  8. ^ 後に代執行で住居を収用されたことで知られる小泉よねは、取香地区の住民であるものの夫とともに移り住んできた開拓者であり、古村の住民として扱われていなかった( 大木 よね”. コトバンク. 2017年11月11日閲覧。)(朝日新聞成田支局[1998]46-47頁。)。
  9. ^ 大坪景章(1978年)50-51頁。
  10. ^ 1954年11月6日の国会では、革新政党の仲立ちのもと、開拓農民らが更なる牧場解放を求めて請願を行っている。このとき牧場の経営について「はなはだ粗放で、いかなる駄農も驚く拙劣な営農ぶりで、赤字だらけの経営を続けている」としたうえで、日本の食料困難解決への貢献を大義名分としている。朝鮮特需後に食糧難が解消されたこともあり、実行されなかったが、請願にかかわった農民は「御料牧場を残したことが空港を招く要因となった」と主張している。(福田克彦[2001]42-43頁)
  11. ^ 開拓地のほとんどは耕作向きの土地ではなかったが、特に困難だったのが地下茎が張り巡らされていた竹林が分配された東峰地区であったという。(朝日新聞成田支局[1998]17-20頁、福田克彦[2001]59-60頁)
  12. ^ a b 福田克彦[2001], 35・58-67頁。
  13. ^ 朝日新聞成田支局[1998]17-20頁。
  14. ^ 企画展示”. NAA歴史伝承委員会. 2017年8月29日閲覧。
  15. ^ a b 朝日新聞成田支局[1998]284頁。
  16. ^ 福田克彦[2001], 31頁。
  17. ^ 2010年、最先端の土木技術と約6000億円を投じて埋立・桟橋ハイブリッド構造のD滑走路が河口付近の海上に設置された。
  18. ^ a b 大坪景章(1978年)16-17頁。
  19. ^ 更に1970年代に東京都から「ごみ戦争宣言」が出され、浚渫土の投棄が行われたことで「羽田マヨネーズ層」と呼ばれる超軟弱なヘドロの堆積層ができてしまい、強固な地盤が求められる空港建設がより一層困難なものになった。( 羽田空港の不幸”. 港湾空港総合技術センター. 2017年3月閲覧。
  20. ^ 新東京国際空港公団[1987年],164頁。
  21. ^ a b 大和田武士 鹿野幹夫[2010年]105-109頁。
  22. ^ a b c 成田国際空港株式会社『成田空港~その役割と現状~ 2016年度』2016年11月、136-138頁。
  23. ^ 新空港の能力を優先すると羽田空港の年間限界能力が1/6程度にまで低下し、風向きによっては使用不能となる。
  24. ^ 近接する人家密集地帯の騒音対策で2キロメートル沖に埋め立て地点を選ばざるを得ないとすれば、内陸の場合に比較して用地造成経費が2倍以上となる。
  25. ^ a b 成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会『成田空港問題シンポジウム記録集 資料編』1995年、8-9頁。
  26. ^ a b 大坪景章(1978年)22頁。
  27. ^ a b c d 藤田忠『交渉力の時代』PHP文庫、1984年、1427-1579/2884
  28. ^ 朝日新聞成田支局[1998]20頁。
  29. ^ a b 大坪景章(1978年)28頁。
  30. ^ 大久保利通が取香牧で牧畜を行うことを決めたのが、現在の富里市両国といわれる。
  31. ^ 成田空港問題が起きた当初、地元の老人が「あの飛行機というのはすごくて、一反歩もあるようなものが降りてくんだぞ。そんなもの降りてきたらどうすんだ」と述べていたという。(伊藤睦[2017]143頁)
  32. ^ 富里農家の平均耕地面積は県平均の約1.5倍であり、農業粗収入も51万5千円と県平均(36万9千円)を大幅に上回っていた。(大坪景章(1978年)21頁)
  33. ^ 1965年2月に佐藤首相は「事前に相談する」としていたが、胃潰瘍手術の病後療養のため熱海温泉にいた友納知事や、千葉県選出で早期から空港問題の調停にあたっていた川島自民党副総裁は、事前相談なく内定を知らされ激怒したとされる。(稲毛新聞『成田国際空港「血と涙の歴史」4』2004年10月8日、2017年3月閲覧。)
  34. ^ 大坪景章(1978年)29頁。
  35. ^ 大坪景章(1978年)32頁。
  36. ^ 稲毛新聞『成田国際空港「血と涙の歴史」4』2004年10月8日、2017年3月閲覧。
  37. ^ 宇沢弘文(1992年)78頁。
  38. ^ 山口幸夫「三里塚と脱原発運動」高草木光一・編『一九六〇年代〜未来へつづく思想』岩波書店 2011年 235頁。
  39. ^ 大坪景章(1978年)35頁。
  40. ^ a b 福田克彦[2001], 74-77頁。
  41. ^ 福田克彦[2001], 70頁。
  42. ^ 事業認定取消訴訟控訴審での1990年11月8日の若狭得治証言。(成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会『成田空港問題シンポジウム記録集 資料編』1995年、22頁。)
  43. ^ 福田克彦[2001], 68頁。『文藝春秋』1971年6月号から千葉県企画部空港調査室長の証言を転載。自民党政調会交通部局の案を千葉県が手直しし、取香などの古村を避けるように敷地を削ったとしている。
  44. ^ なお、後に反対運動擁護の記事で反対同盟支援を続けた朝日新聞も、6月23日には「(政府は)友納知事に、強行すれば流血の惨事も起こりかねないという現地(富里)の情勢を聞いたうえで、国有地を活用し移転農家を最小限にとどめ、これによって紛糾を避けるという道を選んだ」と三里塚案に理解を示す記事を掲載している。(前田伸夫[2005]46頁、朝日新聞1966年6月23日(12版)1面)
  45. ^ 福田克彦[2001], 129頁。
  46. ^ a b c 朝日新聞成田支局[1998]26-27頁。
  47. ^ なお、社会党は後に自らが主張していた米軍基地への移設案について調査したところ実現困難なことがわかり、結局具体的な対案を出せなかった。(藤田忠『交渉力の時代』PHP文庫、1984年)
  48. ^ ただし、横風用滑走路については、「航空機の飛行性能が著しく進歩し、成田空港の運用実績においても横風を含む強風等の理由で他空港へダイバートした便の比率は過去10年間で0.03%と極めて少ないことから、(中略)必要性は低くなっている」として成田国際空港株式会社が2016年(平成28年)に撤回している。また、2017年(平成29年)現在検討が進められている第3滑走路はこの計画に含まれていない。(成田空港の更なる機能強化に関する調査報告について(その3)”. 成田国際空港株式会社 (2016年9月). 2017年8月15日閲覧。
  49. ^ 前田伸夫[2005]47頁。
  50. ^ 大和田武士 鹿野幹夫[2010年]90-96頁。
  51. ^ 原口和久[2000年]254-255頁。
  52. ^ 伊藤睦[2017]16-17頁。
  53. ^ 飯高春吉[1976]7頁。
  54. ^ a b c 大和田武士 鹿野幹夫[2010年]72-78頁。
  55. ^ 朝日新聞成田支局[1998]20頁。
  56. ^ 福田克彦[2001], 70-71頁。
  57. ^ 1966年の日本蚕糸事業団法施行以降、各地で同様の養蚕団地の取り組みが行われていたが、1973年の第一次オイルショック以降、価格の暴落などから衰退を続け、1979年には収繭量1トン以上の大規模養蚕農家だけでも15,497戸あったところ、2016年には全国の養蚕農家数は349戸にまで減少している。(矢口克也 (2009年10月). “現代蚕糸業の社会経済的性格と意義 : 持続可能な農村社会構築への示唆”. 国立国会図書館. 2017年11月13日閲覧。養蚕の動向”. 関東農政局. 2017年11月13日閲覧。
  58. ^ 福田克彦[2001], 47-52・390-394頁。
  59. ^ 伊藤睦[2017]170-172頁。
  60. ^ 両反対同盟連合の日付は文献によって異なる。(三里塚・芝山連合空港反対同盟の結成日付の謎”. 日夜困惑日記@望夢楼 (2009年11月16日). 2017年11月9日閲覧。
  61. ^ 伊藤睦[2017]173-175頁。
  62. ^ 「七人の侍」と呼ばれる、運輸省の係官7人が現地入りし、現地説明を行った。(大坪景章[1978年],52-54頁)
  63. ^ 国家公務員の初任給の変遷(行政職俸給表(一))”. 人事院 (2016年8月8日). 2017年4月17日閲覧。
  64. ^ a b 福田克彦[2001], 78-86頁。
  65. ^ 比較として、1945年9月21日に行われた羽田空港の拡張では、終戦間もない頃にGHQが出した指令によるものとはいえ、僅かな補償金のみを渡された住民は48時間で立ち退きを強いられた。
  66. ^ 新東京国際空港建設予定地の土地取得、物件移転等の補償については、土地代及び家屋等の物件の移転費、移転に伴う離農料、営業補償等の通常生ずる損失について個別的に算定する建前のもとに、千葉県知事の意向を十分尊重して決定する。
  67. ^ (1) 営農を継続する意思のある農民に対しては、国は県の協力を得て、移転先等につき申出者の希望を尊重して所要の代替地を用意し、営農が円滑に行なえるよう資金および技術等の援助をする。(2) 商工業を営む者についても、これに準じた措置を講ずる。(3) 下総御料牧場並びにその従業員については、国が責任をもって措置することとする。
  68. ^ (1) 騒音対策については、今回建設が予定される新空港の性格にかんがみ、現在国が実施している騒音対策の基準等を勘案して、一定ホン以上のものについて格別の配慮を行なう。なお、地元関係者を含めた「騒音対策委員会」を設置する。(2) 騒音対策区域内の住家及び店舗で移転を希望するものについては、実情に応じ、移転先のあっせん、移転料の支払等について国が所要の措置を講ずる。学校、病院については国費をもって措置する。(3) 騒音対策区域内の農耕地については、必要なものにつき畑地かんがい施設を建設し、農業収入の増大を図る。
  69. ^ 離職者の職業あっせんについては、住民の希望を徹し、国が責任をもって空港の事業、関連事業等に就業せしめるよう措置する。殊に、空港における構内営業は、地元民に優先的に開放する。
  70. ^ 道路・鉄道・用排水・新都市計画
  71. ^ 福田克彦[2001], 71頁。
  72. ^ 飯高春吉[1976]42頁。
  73. ^ 芝山町の初期の反対運動は農協を中心に展開され、一時は寺内元助町長以下町役場職員が「空港絶対反対」の鉢巻きを巻いて執務をしていた。(大坪景章[1978年],51-52頁)
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  83. ^ 村八分にあった家は隣人から口もきかれず、物も売ってもらえない状態となった。本来村八分は葬式と火事を例外とするが、その家の家人が死亡した際、たまたま反対同盟からの動員がかかったこともあり、故人は長らく地域の小学校の校長等を務めた人物であったにも関わらずその家の葬式には誰も訪れずに出棺もままならず、更には「葬家の犬」と大書きした嫌がらせの看板が出される始末であった。結局、人権擁護局も手出しができず、その家は追われるように村を離れた。(飯高春吉[1976]45-46頁、朝日新聞成田支局[1998]21頁)
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  92. ^ 共産党員らは反対派住民に対し「警察の挑発に乗るな」などと訴えたが、土地の防衛に必死な彼らが応じるはずもなかった。(朝日新聞成田支局[1998]29頁)
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  98. ^ 新左翼は新東京国際空港が「日帝の海外侵略基地」・「軍事空港」であると決めつけて闘争対象とした(警察庁『焦点』第269号 第2章)。開港以降の使用状況を考えると突飛な主張に見えるが、ベトナム戦争当時は羽田空港に多数の米軍のチャーター機が飛来していたことも事実ではある。空港公団は左派系の地元団体と軍事使用を否定する覚書を交わしており、現在でも燃料不足を理由として米軍チャーター機が臨時着陸した際には詳細の明示と軍事不使用の再認を空港会社が求められるなど、強い監視下にある。また、反対同盟北原派は現在でも第3滑走路建設の動きを軍事転用のためのものであるとして集会参加を呼びかけている。
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  105. ^ 空港問題が持ち上がる前は保守的な農民が多く、反対派の中には過去に自民党の票集めをしていた元自民党員もいた。保守的な農民と新左翼の組み合わせの象徴として、1968年4月18日に宮内庁請願が行われた際、「明治大帝の偉業達成せし下総御料牧場の存続を訴う」という横断幕を持ち、「南無遍照金剛」と書かれたたすきをかけ、襟元に新左翼から配られた毛沢東バッジをつけた老人行動隊長のミスマッチな出で立ちに学生らが衝撃を受け、唖然としたり嘲笑したりしたというエピソードがある。(福田克彦[2001], 51・163頁。)(大坪景章(1978年)43・51頁)
  106. ^ 古村からの開拓部落に対する差別意識もあった。(伊藤睦[2017]94頁)
  107. ^ 伊藤睦[2017]122-127頁。
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  109. ^ 福田克彦[2001], 135頁
  110. ^ この時は親同盟や婦人行動隊は会場入り口に留まり、実力闘争に参加していない。(福田克彦[2001], 141-145頁)
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  129. ^ 成田市の2017年度予算では空港会社からの周辺対策交付金が約11億、空港関連の固定資産税が約117億円である。(機能強化策の陰で/下 広がる周辺9市町の格差 交付金増額で明暗 /千葉”. 毎日新聞 (2017年7月7日). 2017年10月9日閲覧。
  130. ^ 平成27年度の財政力指数では、成田市は1.26、芝山町は0.97であり、いずれも全国の市町村と比べて非常に高い数値を示している。(平成27年度地方公共団体の主要財政指標一覧”. 総務省. 2017年11月9日閲覧。
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参考文献[編集]

  • 飯高春吉『北総の朝あけ―成田空港闘争と警備の記録』千葉日報社出版局、1976年
  • 東京新聞千葉支局/大坪景章 編『ドキュメント成田空港』東京新聞出版局、1978年
  • 戸村一作『わが三里塚風と炎の記録』田畑書店、1980年
  • 新東京国際空港公団『新東京国際空港公団 20年のあゆみ』、1987年
  • 宇沢弘文『「成田」とは何か』岩波書店、1992年
  • 隅谷三喜男『成田の空と大地』岩波書店、1996年
  • 北原鉱治『大地の乱 成田闘争―三里塚反対同盟事務局長の30年』 お茶の水書房、1996年
  • 朝日新聞成田支局『ドラム缶が鳴りやんで―元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』四谷ラウンド、1998年
  • 原口和久『成田空港365日』崙書房、2000年
  • 福田克彦『三里塚アンドソイル』平原社、2001年
  • 前田伸夫『特命交渉人用地屋』アスコム、2005年
  • 大和田武士 鹿野幹夫『「ナリタ」の物語』崙書房、2010年
  • 伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]