三里塚闘争

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三里塚闘争
日時 1966年6月22日から現在
場所 千葉県成田市及び芝山町
北緯35度45分55秒 東経140度23分08秒 / 北緯35.76528度 東経140.38556度 / 35.76528; 140.38556座標: 北緯35度45分55秒 東経140度23分08秒 / 北緯35.76528度 東経140.38556度 / 35.76528; 140.38556
原因 日本国政府が事前説明抜きに、一方的かつ強硬に空港建設を推進したため
手段 デモ活動座り込み暴動テロ
参加集団
指導者
死傷者数
死者


警察官4人
東峰十字路事件
芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件

工事作業員2人
東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件

収用委員会会長1人
千葉県収用委員会会長襲撃事件の後遺症を苦にした自殺

航空機メーカー役員の家族1人
日本飛行機専務宅放火殺人事件

反対派活動家3人
成田空港管制塔占拠事件(長期拘留でのノイローゼによる自殺含む)
東山事件

反対派農民1人

→自殺

三里塚闘争(さんりづかとうそう)とは、千葉県成田市農村地区名称である三里塚とその近辺で継続している、住民及び新左翼活動家らによる新東京国際空港(現成田国際空港)建設に反対する闘争のことを指す。成田闘争(なりたとうそう)とも呼ばれる。

空港の建設地が現在の位置に決定するまでの経緯もあり、空港用地内外の民有地取得問題や騒音問題等をめぐって地元住民らが革新政党指導の下で「三里塚芝山連合空港反対同盟」を結成し、反対運動を行った。更に開港を急ぐ政府による機動隊投入等の強硬策に対抗するために新左翼党派と合同したことで、反対運動が過激化した。激しい反対運動によって開港が当初予定より大幅に遅れただけでなく、政府側と反対派の双方に死者を出す惨事となった。

開港後も過激派によるテロ事件や強固な反対運動が継続し空港の拡張が停滞したため、1986年から10年間連続して世界1位の国際貨物取扱量[1]を誇っていた成田空港も各国間の空港開発競争で次第に劣勢となり、日本の経済に甚大な損失を与えることとなった。また、住民間の対立など地域社会にも爪痕を残している。

一方で、この闘争は国内外に大きな衝撃を与え、公共事業のあり方を一変させた[2]

空港計画浮上前の三里塚周辺[編集]

御料牧場[編集]

1930年当時の宮内省下総御料牧場

千葉県の北部は古代から野生馬の産地として知られていた。江戸時代には小金五牧及び佐倉七牧が設けられ、軍馬の飼育生産が行われる。

20世紀に入り、殖産興業を推進していた明治政府は佐倉七牧の一つであった取香牧付近に近代牧畜による羊毛自給を目指して牧羊場を設けた。この牧羊場が後に宮内庁下総御料牧場(以下、御料牧場)となる。

三里塚の街は牧場関係の商売で潤い、八百屋魚屋仕立て屋といった商店は飛ぶ鳥を落とす勢いであったという[3]。しばしば御料牧場を訪れる皇族も住民らにとっては身近で親しみを感じる存在であった。裕仁親王(後の昭和天皇)成婚を記念して植えられた竹の美林に隣接する御料牧場には春先になると遠方からも大勢が花見に訪れる日本有数の桜並木があり、三里塚は千葉県随一を誇る景勝の地と言われた[4]。 御料牧場は住民にとって物心両面で欠くべからざるものであった。

古村[編集]

芝山町の谷津田(2009年4月)

下総台地が削られてできた谷地では谷津田と呼ばれる湿田で古くから農作が行われていた。そこで農業を営む江戸時代から続く集落は古村と呼ばれ、強固な村落共同体が形成されていた。芝山の集落の多くがこの古村であり、成田側でも取香や駒井野がこれに該当する。

開拓部落[編集]

開拓農家の例。それぞれの家ごとに四角い区画を有しているのが特徴である。

第二次世界大戦敗北直後である1946年に、戦後開拓の一環として御料牧場の敷地1000町歩が農地として開放された[4]他、県有林の一部であった土地が払い下げられたことで入植が始められた。成田側の耕作地(三里塚や東峰等)はこの時に開墾が始められたものが多く、入植者は元満蒙開拓団員で満州国からの引揚者や、戦闘による荒廃米国による統治等により、帰郷ができなくなってしまった沖縄県出身者等で占められていた。

彼らは殆ど身一つでこの地で開墾を始めたため、その暮らしぶりは極めて貧しかった。開墾は困難を極め[5]、入植者らは昼間は古村での小作で収入を得て、その後月明かりの下で開墾作業を行った。炊飯の頻度を最小限にして少しでも開墾に時間を充てるため、4日分の米を纏めて炊き、空気に触れて腐りやすい部分を削いで食べながら、"オガミ"と呼ばれる三角形の粗末な藁小屋で生活をしていたという[6][7][8]

入植地では、農家としての生き残りをかけた土地争いも発生し、過酷な環境に耐えられなかった入植者が次々脱落していった。結果として、この地に残ったのは、脱落者から農地を買い取り、生計を立てられるだけの規模を確保した者達だった[9]

1923年にも、宮内省御料牧場の2000町歩が払い下げられており[4]明治大正期に原野を開墾して成り立った天神峰等の部落もあった。それらの地区は過去には小作料の上納をめぐり東京豪商と争ったことなどもあるが[10]、空港建設が決まった頃には家督が二代目・三代目に移っており、営農も比較的安定してきていた。

紛争発生の経緯[編集]

逼迫する航空需要[編集]

1960年代初頭、経済成長と所得水準の向上の後押しを受けて日本の航空産業は著しい発展を見せており、旅客需要の伸びと航空機の発着回数の増加傾向がこのまま推移すれば、1970年頃に東京国際空港(羽田空港)の能力が限界に達すると予想された。

しかし、羽田空港は

  • 西側に隣接する大田区地域が建物の密集地であるうえ既に航空機騒音問題が発生しており、南側は多摩川河口に面しているため[11]、拡張できるのは東の東京湾沖合しかないこと
  • 当時東京港には船舶が殺到してパンク状態となっており、沖合いへの拡張は海上輸送に著しい支障をきたすこと[12]
  • 当時の港湾土木技術では水深20メートルある海床の埋め立ては困難とされたこと[13][12]
  • 在日米軍が管理している東京西部空域との兼ね合いがあること

などにより拡張性が見込めなかったため、首都圏第二空港の開設が急務とされた。

そこで政府は、来るべき国際化に伴う航空(空港)需要の増大に備え、羽田空港に代わる本格的な国際空港の建設計画の策定に着手した。

新空港計画の策定と富里空港案[編集]

新空港の青写真と航空審議会答申[編集]

新東京国際空港計画案(当初)

運輸省が作成した冊子『新東京国際空港』(通称「青本」)で示された「当初計画での新空港」は、超音速旅客機用主滑走路(4,000メートル)2本、横風用済走路(3,600メートル)1本、国内線用滑走路(2,500メートル)2本を具備し、総敷地面積は約2,300ヘクタールと、当時の羽田空港(350ヘクタール)はおろか、世界の主要空港(ヒースロー空港1,100ヘクタール、オルリー空港1,600ヘクタール、ニューヨーク国際空港(現・JFK)2,000ヘクタール)と比較しても先進的なものであった。

1963年頃から建設地についても本格的な検討が進められ、候補地としては千葉県浦安沖・印旛沼木更津沖・富里村(現・富里市)・八街町(現・八街市)附近、茨城県霞ヶ浦周辺・谷田部白井等が挙げられた。

1963年12月11日に航空審議会が最も有力な3候補地について綾部健太郎運輸大臣に答申し、

  • 浦安沖は公衆の利便の点では最も魅力的であるものの、羽田との管制上の関係[14]や埋め立てに伴う造成経費[15]が難点であり、気象条件についても臨海工業地帯の造成がさらに進んだ場合はスモッグによる障害が懸念される。
  • 霞ヶ浦沖周辺は航空自衛隊百里飛行場の影響がある。
  • 富里村附近は気象条件から滑走路の方向を弾力的に決定でき、地形・都心との距離の両面において霞ヶ浦沖よりも優れている。

として、富里村附近が最も候補地として適当であるとした。

なお、航空審議会は「この際中途半端な空港を作ることはかえって将来に禍根を残すことになるので、可能な限り能力の大きい空港とすることを基本的態度として考えるべきである」としている[16]

建設省・党人派との対立[編集]

上記航空審議会答申では、候補の一つだった木更津附近が羽田空港の進入出発経路の要衝となっているため候補地から除外されている[16]。木更津案は建設省河野一郎が推進していたものであり、特に河野が羽田空港を廃止してでも木更津案を採用すべきと主張して譲らず、答申後も攻防が続いた。これは両省間の縄張り争いであるだけでなく、自由民主党内の官僚派党人派の駆け引きでもあった[17][18]。政治力のない運輸省がこのような実力者の動向に気を遣うあまり、地域住民の存在がないがしろにされたとの指摘もある[17]

富里への内定[編集]

1965年11月18日佐藤栄作内閣は同年に実施されたボーリング調査の結果、霞ヶ浦が候補地として適当でなかった[17]として空港建設地を富里に関係閣僚懇談会で内定し、橋本登美三郎官房長官記者会見で「関係閣僚協で新空港を富里にすることに内定した。あす閣議決定する」と発表した[19]。木更津案を強力に推していた河野の急逝と、内陸案に難色を示していた友納武人千葉県知事の病気療養による不在を奇貨としたのではないかとの指摘もある[19]

巨大な空港の面積は富里村の半分に匹敵しており、空港周辺に展開されるであろう開発も考慮すれば、その実現は近代牧畜の発祥の地[20]であるとともに末廣農場を始めとする日本の農場経営のモデルケースとされてきた村が殆ど消滅することを意味していた。

当時、現在に比べれば航空機の利用は大衆に浸透しておらず、騒音等の外部不経済の負担が大きい空港は単なる迷惑施設としか世間で認識されていなかったこともあり、突如突きつけられた計画に対し、地元住民らは激しい反対運動を展開したうえ、根回しがされなかった地方公共団体[21]からも反発を呼び、閣議決定は延期となった。千葉県には「富里に決定したら命をもらう」などの脅迫まがいの電話や直談判が殺到した[22]

このとき運輸省当局は、用地取得に関する地元農民との話し合いをどうするかも全く決めておらず、「用地買収の条件」「代替地」「転業対策」「騒音対策」の4条件を提示して抗議してきた千葉県側に対しても、「新東京国際空港公団法を次の国会に出して、その公団に各省から人を出してもらい、相談してもらう」とした。地元は政府の決めたことに従えばいいと言わんばかりの運輸官僚のこのような態度は、更に火に油を注ぐこととなった[23]。なお、後述する1966年7月4日の閣議決定の前夜に、地元農民への対処について農林事務次官に問われた運輸事務次官が「運輸省が飛行場をつくるときには上の方で一方的に決めて、農民はそれに従うのが一般的原則である。これまでもこの方式で飛行場を建設してきたのであって、一度も問題になったことはない。」と答えたとされる[24][25]

舞台は三里塚・芝山に[編集]

水面下の調整[編集]

1966年になっても富里空港反対派のデモ隊が千葉県庁に乱入するなど、反対運動が収束する気配はなく、新空港建設計画自体が頓挫する恐れが出てきた。このことを懸念した佐藤内閣は若狭得治運輸事務次官に友納千葉県知事との水面下での交渉を行わせた[26]。この結果、富里案を縮小、更に位置を約4キロメートル北東に移動させて国有地である下総御料牧場を建設地に充て収用を最小限に抑える方向で調整された。この計画は羽田空港の存続を前提とした技術的な見地を重視する運輸省と「運輸省はじめ、航空関係者は空ばかり見て、地に足がついていない」と批判してきていた"現実政治家"との妥協の産物ともいえる[17]。なおこのとき、三里塚地区の貧しい開拓農民が相手であれば「買い上げ価格を相当思い切ってやりさえすれば、空港建設は可能である[27][28]」との思惑があり、古村を避けてなるべく開拓部落に収まるように空港のレイアウトを決めたと言われる[29]

閣議決定と動揺する地域[編集]

同年6月22日に、佐藤首相が三里塚・芝山地区での空港建設案について友納千葉県知事と協議し、その内容が報道される。今回は県のトップとは調整が行われていたものの、地元住民の意見聴取等は行われておらず、寝耳に水の状態で対岸の火事と思っていた空港建設の内定を報道で知った三里塚・芝山地区の住民らは、富里と同様に猛反発した。富里の反対運動を支援していた日本共産党日本社会党オルグ団が直ちに現地に駆け付け、動揺する住民らに対し「富里と同じように闘えば、かならず空港を追い払うことができます」と謳った[30][31]

切迫する航空需要を受けて開港を急ぐ佐藤内閣は、空港計画そのものへの交渉行為に応じぬまま、7月4日に新空港の位置及び規模(平行滑走路4,000メートル・2,500メートル、横風用滑走路3200メートル、総敷地面積1065ヘクタール)を閣議決定した。この時の決定内容は現在の成田国際空港の基本計画となっている[32]

新しい空港計画は富里案に比べ大幅に縮小されてはいたが、それでも御料牧場の面積は空港予定地の4割に満たず、ここでも民有地(670ヘクタール、325戸)の取得が課題となり、用地交渉の対象者は千数百人に上った。

紛争の経過[編集]

初期の三里塚闘争[編集]

反対同盟の結成[編集]

閣議決定直後の成田市及び芝山町はほぼ反対一色となった。空港建設に反対する地元住民らは富里村と同様に政府と対決することを決意し、富里の反対運動組織や革新政党の指導を受けながら各地区で反対運動団体を組織した[33][34]

この時期、戦後開拓で入植した開拓農民らは住宅資金や営農資金の返済が終わって農業がようやく軌道に乗り始めており、これまでの労苦の成果が実りつつあった。また食糧不足の東京に農作物を供給し復興を影で支えていたという自負もあり[35][36]、自分たちを標的とした三里塚案に大いに自尊心を傷つけられた[37]。したがって、彼らは降って湧いた空港建設計画をこれまでの努力を否定するものと捉え、政府側の期待に反して強く反発した。

他にも、古村を開発や騒音から守ろうとする芝山地区等の住民や、皇室ゆかりの御料牧場に強い思い入れを持つ戦前派ら、県が推進していた「シルクコンビナート計画」に応じて養蚕用のの栽培を始めたばかりにも関わらず計画を反故にされ憤る農家等、様々な背景を持つ者が反対運動に合流した。

1966年7月20日に「三里塚空港反対同盟」及び「芝山空港反対同盟」が合同し、「三里塚芝山連合空港反対同盟」(以下、反対同盟。)が結成された[38]。ここに本格的な三里塚闘争が始まった。

初期段階での反対同盟は農民を中心に用地外も含め1500戸の世帯により構成された。下部組織として少年行動隊・青年行動隊・婦人行動隊・老人行動隊が組織され、反対派の世帯は一家総出で反対運動に臨んだ。

条件賛成派の動き[編集]

閣議決定に前後して、行政や新たに設立された新東京国際空港公団(以下、空港公団)により、空港の意義や移転補償内容について住民説明が行われた。

このとき県の「国際空港相談所」所長は、買い取りに応じない地権者への強制収用の実施を匂わせつつも、

  • 100万円(相場の4倍から5倍程度であり、当時の国家公務員初任給は2万円程度[39]。)を基準として用地は高額で買い取り、現金で支払う
  • 買取額を代替地購入に充当すれば耕地面積を1.5倍に増やせるように調整する
  • 離農する地権者には廃止補償を出す
  • 家屋建て替えの費用は新築見合いで算出する
  • 騒音地域内の農耕地に対しては、国費で畑地灌漑施設を整備する(成田用水

等と説明をしており[40]、「買い上げ価格を相当思い切ってやる」とする政府側の意向が反映された補償方針が示された[41]

また、閣議決定においても土地等の補償[42]・代替地の確保[43]・騒音対策[44]・職業転換対策[45]・インフラ整備[46]等を県当局の要望に沿って行うことが掲げられていた。閣議決定の内容に地元との交渉条件を含むのは極めて異例な措置であった。

これを受けて、閣議決定後の数か月で地権者の8割が条件次第によっては移転に応じても良いとする条件賛成派に転向し[47]、成田市議会及び芝山町議会も当初可決した反対決議を白紙撤回した。

1968年4月6日には中曽根康弘運輸大臣及び友納知事立ち会いのもと、空港公団と条件賛成派4団体との間で「用地売り渡しに関する覚書」が取り交わされ、空港公団は空港用地民有地の89%(597ヘクタール)を確保した。

覚書では、反当たりの買取価格が当初の説明からさらに上昇して、畑:140万円、田:153万円、宅地:200万円、山林原野115万円となった [48]。また、畑の代替地基準価格は90万円とされ、当初の説明内容に沿う形で代替地の耕作地の価格は買取額の2/3程度に抑えられたほか(他の地目でも同じ比率)、空港公団が用地提供者に対し空港内の営業を優先的に考慮することや、代替地を早急に造成し速やかに引き渡す努力をすることが約された[49]

希望者に対して必要な代替地自体が十分に確保できなかったために移転先の耕地面積が移転前よりも却って減少するなど、問題がないわけではなかった[50]が、相場以上の土地の買い取り価格と手厚い補償が提示された結果、9割の地主が一定の理解を示し移転に応じる形となった[51]

移転を機に専業農家を辞めた元地権者らの多くは、空港公団の斡旋を受けるなどして警備業や店舗経営等の空港関連の業種に転職したため、彼らにとっては新たな生活を営む上で新空港の早期開港が切実なものとなった。また、警備業に就いた元地権者の中には測量や代執行を行う空港公団を守る警備員となった者もおり、反対派として闘争を継続する親族と対峙する事態も発生した[52]

条件賛成派に対する反対派の怨嗟は少なからずあり、支援学生が提案してきた条件賛成派との再共闘が反対派の会議で一蹴されたり、闘争で荒んだ反対派農家が条件賛成派農家の農作物を荒らすことなども起きた[53]。闘争初期において反対派が多かった古村で条件賛成派農家への村八分が行われ、その農家が人権擁護局に訴えたこともあった[54][55]

測量クイ打ち阻止闘争と革新政党の離反[編集]

政府側の硬軟織り交ぜた働きかけを受けても反対同盟に留まった1割ほどの者達の決意は固く、用地を細分化して空港用地買収交渉を困難にする目的で、土地一坪を地権者相互に売買し合う「一坪運動」が展開された。

空港反対運動の組織にかかわっていた革新政党であるが、反対同盟が1967年8月16日に「あらゆる民主勢力との共闘」として敵対する新左翼党派(反代々木派)の受け入れを表明したことで、関係が悪化した。

8月21日に友納知事が土地収用法に基づき空港公団が土地の立入調査を行う旨を通知した。 この間に反対同盟は陳情デモなどの様々な抗議運動を行うが芳しい成果は上がらなかった。

10月10日の早朝に、外郭測量用のクイを打つため、空港公団の職員が機動隊に守られながら空港建設予定地に現れる。これに対し反対派は座り込みによる阻止を試みたが、暴力的に排除されてしまう(測量クイ打ち阻止闘争)。このとき、同盟員の先頭に立っていた共産党と民青の部隊は早々に座り込みをやめて隊列を離れ、労働歌がんばろう」を歌いながら、機動隊と反対農民らの衝突を傍観[56]した。同盟員は政府の横暴と共産党の「裏切り」に驚愕し、憤った。更にその後、共産党が反対同盟幹部の寝返りの噂を流して主導権を取り戻そうとしていたことが露見し、反対同盟との対立は決定的となった。一方、この日は1本でもクイを打ち込めれば成功と考えていた空港公団では、3本とも打ち込めた予想外の成果に「空港建設への突破口が開けた」と今後を楽観視した。しかしながら、それは長期に亘る苛烈な実力闘争の幕開けであった。政府の対応に激怒した反対同盟は、暴力を厭わない実力闘争に舵を切る決意を固めると同時に、12月15日に共産党の支援と介入を排除する声明を発表した。反対同盟の共産党に対する拒絶は、共産党を支持したり共産党員の家族がいる世帯に対する村八分が古村で行われるほど徹底していた[57]

社会党はその後もしばらく支援を続けていたが、闘争開始から3年程度で反対運動の隊列から消えていき、一坪共有運動に参加していた者も反対同盟に通告もしないまま土地を空港公団に売却した[58][59]

革新政党は反対運動を利用して党勢の拡大を図ったため、農民たちに不信感を持たれたとも分析されている[60]

新左翼党派の介入[編集]

1968年に東大闘争が発生するような学生運動が盛んで新左翼が台頭していた時代背景もあり、国の分厚い補償にも反対の姿勢を変えなかった1割ほどが留まった反対同盟は、次第に暴力闘争路線に移行する。 測量クイ打ち阻止闘争で機動隊の威力を目の当たりにした農民たちは、決別した革新政党の替わりとして同時期に発生した羽田事件で機動隊と渡り合った新左翼党派に期待し、「支援団体は党派を問わず受け入れる」という姿勢を取った[51]。一方、反国家権力闘争を掲げる新左翼各派にとっても、三里塚闘争はベトナム戦争反戦運動[61]や佐藤内閣への反発の象徴的な対象として映り、双方の思惑が一致した。

ただし、新左翼党派の中でも階級闘争至上主義の革マル派は三里塚闘争を「小ブルジョア農民の自己保身」と揶揄したほか、内ゲバや地元の食堂での無銭飲食など素行の悪さが目立ったため[62]1970年1月に反対同盟の幹部会で「現地闘争に主体的に参加せず、他派に対する誹謗のみを目的とした」として、運動から追放された[63]。その後、革マル派は三里塚闘争への妨害活動を続けている[62]

最終的に反対同盟は、武装闘争路線の新左翼である中核派共産同社青同解放派が主導する三派全学連の全面的な支援を受けることになった。これに伴い、機動隊との衝突を始めとする実力闘争は次第に過激さを増していった。

開港までの闘争ではクリスチャンで地区の教会の信徒だった戸村一作反対同盟代表が活動をリードし、共通の敵である政府に打撃を与えるため、現地に乗り込んだ新左翼各派の活動家らと反対派住民[64]らがと互いに協力もしくは利用し合いながら呉越同舟の形で活動を行っていった[51]

反対同盟は様々な新左翼党派を受け入れたことで武闘派の支援者を大動員して政府勢力と対抗することには成功した。しかしそれは後に、新左翼党派間の反目や、新左翼党派との関係性のあり方についての地元住民間の意見の相違を産み、反対同盟の分裂に繋がっていくこととなる。

闘争の激化、開港[編集]

一期地区の収用[編集]

こうした反対闘争が高まる中、政府は一貫した非妥協の姿勢で建設計画を遂行し、1971年2月22日に建設予定地で第一次行政代執行を敢行し、反対同盟と機動隊が衝突した。同年9月16日にも建設予定地で第二次行政代執行があり、激しい闘争によって臨時編成の機動隊の3名が死亡(東峰十字路事件)した他、双方に多数の負傷者を出した。

同年9月20日、代執行をしないとの千葉県知事友納武人による前日の発表に反して、突如警察の機動隊と作業員らが現れ、庭で脱穀をしていた小泉(大木)よねを排除して住居を撤去した。空港建設での行政代執行としては最初で最後となる民家への実施をもって、第二次行政代執行が終結した。

同年10月1日、青年行動隊の隊長である三ノ宮文男が「空港をこの地にもってきたものをにくむ。」「私は、もうこれ以上、たたかっていく気力を失いました。」などと記した遺書を残して自殺し、反対同盟内に衝撃が走った。

妨害の中での開港[編集]

岩山鉄塔の鉄塔跡

1972年3月15日、反対同盟はA滑走路南端、アプローチエリア内の岩山地区に高さ60.6メートル鉄塔(通称:岩山大鉄塔)を鳶職の協力のもと建設し、飛行検査を中止に追い込んだ。

その後、滑走路等の建設は進められたものの開港については先延ばしが続いた。

1977年1月11日、「さあ働こう内閣だ」と自称した福田赳夫内閣閣議で年内開港を宣言。同年1月19日に、航空機の飛行を敢然と拒む岩山大鉄塔を撤去するため、重機を運び込む道路建設に着工した。4月17日には三里塚第一公園に2万3000人が結集して「鉄塔防衛全国総決起集会」が開催された。

同年5月2日、空港公団は航空法第49条1項違反として、鉄塔撤去の仮処分申請を千葉地方裁判所に提出。5月4日千葉地裁は書面審理のみで仮処分を決定。5月6日午前3時ごろ、2,100人の機動隊が鉄塔周辺を制圧した。4時過ぎ現場に到着した北原鉱治事務局長に、千葉地裁執行官が鉄塔の検証終了と鉄塔の撤去を一方的に通告、反対派を周辺から排除し午前11時過ぎ鉄塔の撤去を完了。航空法違反部分だけでなく、鉄塔を根元から切断撤去した[65]

この日の午前5時ごろから反対派と機動隊の衝突が続き、5月8日には大規模な衝突が発生。「三里塚野戦病院」前でスクラムを組んでいた支援者A(27歳)が頭部にガス弾の直撃を受けて意識不明の重体となり、2日後の5月10日死亡。Aの両親は「機動隊の催涙ガス弾が原因」として、政府と千葉県に約9,400万円の損害賠償を求めて提訴した(東山事件)。

5月9日には、これに対する報復と見られる襲撃により、警察官1名が死亡した。(芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件

上記のような過程を経て一期地区工事は推し進められ、滑走路1本の片肺ではあるものの、新東京国際空港は1978年3月30日に漸く開港することとなった。しかし、政府の威信を賭けた開港を目前に控えた3月26日に、第四インターナショナル(略称:第四インター)、プロレタリア青年同盟戦旗・共産主義者同盟等が空港を襲撃し、これに呼応して地下に潜んでいた別働隊が空港敷地内のマンホールから飛び出して空港管理ビルに突入、管制塔を占拠し各種設備を破壊した(成田空港管制塔占拠事件)。このため開港延期を余儀なくされた政府は、いわゆる成田新法を制定して秩序の回復を図った。

この開港遅れの期間中に、納車されたまま定期運用が無い状態だった京成電鉄スカイライナーAE形(初代)放火される事件が起きた(京成スカイライナー放火事件)。さらに5月19日にも京成本線で同時多発列車妨害事件、運輸省航空局専用ケーブルの切断事件を起こすなど、新左翼党派らによる闘争は先鋭化していった。

管制塔襲撃から2ヶ月後の5月20日に、新東京国際空港は周辺での激しい衝突や周辺の関連施設への襲撃などを受けながらも開港を果たした。このときの関係者の思いは、福永健司運輸大臣が式典で述べた「難産の子は健やかに育つ」との言葉に凝縮されている。

開港後の動き[編集]

日本の表玄関となった成田[編集]

成田国際空港の検問所。2015年3月で検問を廃止した。

開港時点においてもなお反対運動が活発であったことから、来港者全員に対する検問が実施され[66]、当時としては世界でも稀にみる警備体制が敷かれる空港としてスタートした新東京国際空港であったが、開港翌年の1979年には日本人出国者数が前年比14.6%増の403万8298人を記録し、初めて400万人を超える等、最新設備を具備した大型空港が開港したことで日本の国際化は大きく進展した[67]。開港から10年目の節目である1988年度には成田の国際線日本人旅客数が1000万人の大台を突破している[68]

2002年に至るまで滑走路一本のみで運用されたとは言え、空港には世界各地からジャンボジェット機が飛来し、限られた発着枠の配分を待つ乗り入れ希望の航空会社が引きも切らない状態が続いた。本邦社のみならずノースウエスト航空等の以遠権を行使するアメリカの航空会社が太平洋路線とアジア路線の結節点として成田をハブ空港にしたことから、成田は国際線の拠点として長らくアジアの中でも中心的な役割を果たしていった。

周辺地域には空港関連事業で働く多くの労働者とその家族が流入し、地元住民やその親族の多くも経済的に空港へ依存するようになったことや、自治体もその財政を空港によって得られる税収や交付金に頼るようになったため、反対運動に対する世間の関心が薄れていく中、反対派は地域においても「空港との共生・共栄」の声に押されて次第に孤立していくこととなる。

反対同盟の分裂と過激化する新左翼[編集]

「開港絶対阻止」をスローガンに活動を進めてきた反対運動は、空港開港により当初のスローガンを「空港廃港・二期工事阻止」に転換せざるをえなくなった。空港の存在が既成事実化するにつれ、条件闘争への転向や反対同盟から離脱する者が続出しただけでなく、反対同盟自体も闘争方針をめぐって数派に分裂し、初期の反対運動を牽引していた地元農民らは次第に実力闘争から離れていった。

一方で、開港後においても10.20成田現地闘争を始めとする新左翼活動家らによる暴動・破壊行為だけでなく、東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件千葉県収用委員会会長襲撃事件のような関係者を標的とした左翼テロが横行し、更には反対運動を断念して空港公団に土地を売却し移転した農家への放火等嫌がらせや新左翼党派間での内ゲバも発生した。

和解と現状[編集]

1990年代に入ると、B滑走路を含む二期工事を進めたい政府と反対運動の風化を懸念した反対同盟熱田派のメンバーの間で話し合いの機運が生まれ、合意形成の場として成田空港問題シンポジウム及び成田空港問題円卓会議が開催された。

それらを契機として、1995年平成7年)に当時の内閣総理大臣村山富市(社会党)が行った反対同盟に対する謝罪をはじめ、政府・官僚・空港公団からの過去の過ちに対する謝罪が得られたことや空港東側の住民への補償として芝山鉄道線の建設が約束されたこと[69]等により、菱田地区等の多くの地権者が集団移転に応じることとなった。

空港公団の民営化に伴い成田国際空港に空港名を改められた現在においても、当初B滑走路建設の予定地とされていた東峰地区[70]の農家や一坪地主などの用地買収に応じていない地権者が若干名残っている状況である。空港公団の後身である成田国際空港株式会社(以下、空港会社)によると、2016年8月末の空港用地内の未買収地は、敷地内居住者2件1.7ヘクタール、敷地外居住者4件0.6ヘクタール、一般共有地3件0.5ヘクタール、一坪共有地2件0.1ヘクタールで、合計2.9ヘクタールとなっている[71]

2011年6月23日に空港会社が三里塚闘争を後世に伝えるための施設として「成田空港 空と大地の歴史館」を開館した。

脚注[編集]

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  1. ^ 世界の国際線空港ランキング”. 成田国際空港振興協会. 2017年8月29日閲覧。
  2. ^ 大島悠亮 (2015年8月3日). “【戦後70年 千葉の出来事】成田闘争(下) 公共事業のあり方一変”. 産経新聞 (産経新聞社). http://www.sankei.com/region/news/150803/rgn1508030020-n3.html 2017年8月29日閲覧。 
  3. ^ 福田克彦[2001], 46頁。
  4. ^ a b c 宇沢弘文(1992)72頁。
  5. ^ 開拓地のほとんどは耕作向きの土地ではなかったが、特に困難だったのが地下茎が張り巡らされていた竹林が分配された東峰地区であったという。(朝日新聞成田支局[1998]17-20頁)
  6. ^ 福田克彦[2001], 35・58-62頁。
  7. ^ 朝日新聞成田支局[1998]17-20頁。
  8. ^ 企画展示”. NAA歴史伝承委員会. 2017年8月29日閲覧。
  9. ^ 福田克彦[2001], 61-62頁。
  10. ^ 福田克彦[2001], 31頁。
  11. ^ 2010年、最新の土木技術を集結して埋立・桟橋ハイブリッド構造のD滑走路が河口付近の海上に設置された。
  12. ^ a b 大坪景章(1978年)16-17頁。
  13. ^ 更に1970年代に東京都から「ごみ戦争宣言」が出され、浚渫土の投棄が行われたことで「羽田マヨネーズ層」と呼ばれる超軟弱なヘドロの堆積層ができてしまい、強固な地盤が求められる空港建設がより一層困難なものになった。( 羽田空港の不幸”. 港湾空港総合技術センター. 2017年3月閲覧。
  14. ^ 新空港の能力を優先すると羽田空港の年間限界能力が1/6程度にまで低下し、風向きによっては使用不能となる。
  15. ^ 近接する人家密集地帯の騒音対策で2キロメートル沖に埋め立て地点を選ばざるを得ないとすれば、内陸の場合に比較して用地造成経費が2倍以上となる。
  16. ^ a b 成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会『成田空港問題シンポジウム記録集 資料編』1995年、8-9頁。
  17. ^ a b c d 藤田忠『交渉力の時代』PHP文庫、1984年
  18. ^ 大坪景章(1978年)22頁。
  19. ^ a b 大坪景章(1978年)28頁。
  20. ^ 大久保利通が取香牧で牧畜を行うことを決めたのが、現在の富里市両国といわれる。
  21. ^ 1965年2月に佐藤首相は「事前に相談する」としていたが、胃潰瘍手術の病後療養のため熱海温泉にいた友納知事や、千葉県選出で早期から空港問題の調停にあたっていた川島自民党副総裁は、事前相談なく内定を知らされ激怒したとされる。(稲毛新聞『成田国際空港「血と涙の歴史」4』2004年10月8日、2017年3月閲覧。)
  22. ^ 大坪景章(1978年)29頁。
  23. ^ 稲毛新聞『成田国際空港「血と涙の歴史」4』2004年10月8日、2017年3月閲覧。
  24. ^ 宇沢弘文(1992年)78頁。
  25. ^ 山口幸夫「三里塚と脱原発運動」高草木光一・編『一九六〇年代〜未来へつづく思想』岩波書店 2011年 235頁。
  26. ^ 大坪景章(1978年)35頁。
  27. ^ 福田克彦[2001], 70頁。
  28. ^ 事業認定取消訴訟控訴審での1990年11月8日の若狭得治証言。(成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会『成田空港問題シンポジウム記録集 資料編』1995年、22頁。)
  29. ^ 福田克彦[2001], 68頁。『文藝春秋』1971年6月号から千葉県企画部空港調査室長の証言を転載。
  30. ^ 福田克彦[2001], 129頁。
  31. ^ なお、社会党は後に自らが主張していた米軍基地への移設案について調査したところ実現困難なことがわかり、結局具体的な対案を出せなかった。(藤田忠『交渉力の時代』PHP文庫、1984年)
  32. ^ ただし、横風用滑走路については、「航空機の飛行性能が著しく進歩し、成田空港の運用実績においても横風を含む強風等の理由で他空港へダイバートした便の比率は過去10年間で0.03%と極めて少ないことから、(中略)必要性は低くなっている」として成田国際空港株式会社が2016年(平成28年)に撤回している。また、2017年(平成29年)現在検討が進められている第3滑走路はこの計画に含まれていない。(成田空港の更なる機能強化に関する調査報告について(その3)”. 成田国際空港株式会社 (2016年9月). 2017年8月15日閲覧。
  33. ^ 伊藤睦[2017]16-17頁
  34. ^ 飯高春吉[1976]7頁
  35. ^ 大和田武士 鹿野幹夫『「ナリタ」の物語』崙書房、2010年、73頁。
  36. ^ 朝日新聞成田支局[1998]20頁。
  37. ^ 福田克彦[2001], 70-71頁。
  38. ^ 反対同盟の結成は8月22日とする記録も多数あり、いずれが正しいか定かではない。 参考:http://clio.seesaa.net/article/133048321.html 2017年1月14日閲覧。
  39. ^ 国家公務員の初任給の変遷(行政職俸給表(一))”. 人事院 (2016年8月8日). 2017年4月17日閲覧。
  40. ^ 福田克彦[2001], 78頁。
  41. ^ 比較として、1945年9月21日に行われた羽田空港の拡張では、終戦間もない頃にGHQが出した指令によるものとはいえ、僅かな補償金のみを渡された住民は48時間で立ち退きを強いられた。
  42. ^ 新東京国際空港建設予定地の土地取得、物件移転等の補償については、土地代及び家屋等の物件の移転費、移転に伴う離農料、営業補償等の通常生ずる損失について個別的に算定する建前のもとに、千葉県知事の意向を十分尊重して決定する。
  43. ^ ①営農を継続する意思のある農民に対しては、国は県の協力を得て、移転先等につき申出者の希望を尊重して所要の代替地を用意し、営農が円滑に行なえるよう資金および技術等の援助をする。②商工業を営む者についても、これに準じた措置を講ずる。③下総御料牧場並びにその従業員については、国が責任をもって措置することとする。
  44. ^ ①騒音対策については、今回建設が予定される新空港の性格にかんがみ、現在国が実施している騒音対策の基準等を勘案して、一定ホン以上のものについて格別の配慮を行なう。なお、地元関係者を含めた「騒音対策委員会」を設置する。②騒音対策区域内の住家及び店舗で移転を希望するものについては、実情に応じ、移転先のあっせん、移転料の支払等について国が所要の措置を講ずる。学校、病院については国費をもって措置する。③騒音対策区域内の農耕地については、必要なものにつき畑地かんがい施設を建設し、農業収入の増大を図る。
  45. ^ 離職者の職業あっせんについては、住民の希望を徹し、国が責任をもって空港の事業、関連事業等に就業せしめるよう措置する。殊に、空港における構内営業は、地元民に優先的に開放する。
  46. ^ 道路・鉄道・用排水・新都市計画
  47. ^ 福田克彦[2001], 71頁。
  48. ^ 用地売り渡しに関する覚書”. コトバンク. 2017年2月4日閲覧。
  49. ^ 新東京国際空港公団『新東京国際空港公団 20年のあゆみ』(1987年)40-41頁。
  50. ^ 福田克彦[2001], 79頁。
  51. ^ a b c 【利用客10億人突破】闘争と共存共栄の成田空港”. ホウドウキョク (2017年7月29日). 2017年8月3日閲覧。
  52. ^ 朝日新聞成田支局[1998]53頁。
  53. ^ 福田克彦[2001], 133-134頁。
  54. ^ 本来、村八分は葬式と火事を例外とするが、たまたま反対同盟からの動員がかかったこともありその農家の葬式には誰も訪れなかった。結局、人権擁護局も手出しができず、その農家は追われるように村を離れた。
  55. ^ 福田克彦[2001], 94頁。
  56. ^ 共産党員らは農民に対し「警察の挑発に乗るな」などと訴えたが、土地の防衛に必死な彼らが応じるはずもなかった。
  57. ^ 福田克彦[2001], 95-100頁。
  58. ^ 朝日新聞成田支局[1998]200頁。
  59. ^ 北原鉱治[1996]44-45頁
  60. ^ 【戦後70年 千葉の出来事】成田闘争(上) さながら白昼の市街戦”. 産経新聞 (2015年8月2日). 2015年8月3日閲覧。
  61. ^ 新左翼は新東京国際空港が「日帝の海外侵略基地」・「軍事空港」であると決めつけて闘争対象とした(警察庁『焦点』第269号 第2章)。開港以降の使用状況を考えると突飛な主張に見えるが、ベトナム戦争当時は羽田空港に多数の米軍のチャーター機が飛来していたことも事実ではある。空港公団は左派系の地元団体と軍事使用を否定する覚書を交わしており、現在でも燃料不足を理由として米軍チャーター機が臨時着陸した際には詳細の明示と軍事不使用の再認を空港会社が求められるなど、強い監視下にある。また、反対同盟北原派は現在でも第3滑走路建設の動きを軍事転用のためのものであるとして集会参加を呼びかけている。
  62. ^ a b 北原鉱治[1996]54頁
  63. ^ 三里塚闘争概略”. 2017年8月19日閲覧。
  64. ^ 空港問題が持ち上がる前は保守的な農民が多く、反対派の中には過去に自民党の票集めをしていた元自民党員もいた。保守的な農民と新左翼の組み合わせの象徴として、1968年4月18日に宮内庁請願が行われた際、「明治大帝の偉業達成せし下総御料牧場の存続を訴う」という横断幕を持ち、「南無遍照金剛」と書かれたたすきをかけ、襟元に新左翼から配られた毛沢東バッジをつけた老人行動隊長のミスマッチな出で立ちに学生らが衝撃を受け、唖然としたり嘲笑したりしたというエピソードがある。(福田克彦[2001], 51・163頁。)(大坪景章(1978年)43・51頁)
  65. ^ 成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会『成田空港問題シンポジウム記録集』1995年、332頁。
  66. ^ 来港者への検問は2015年3月まで実施された。
  67. ^ 1980年代に海外旅行が急拡大した理由 -海外渡航自由化50年の歴史”. トラベルボイス (2014年11月11日). 2017年9月7日閲覧。
  68. ^ JATAニュースレター”. 日本旅行業協会 (2014年6月19日). 2017年9月7日閲覧。
  69. ^ 朝日新聞成田支局[1998]245-246頁。
  70. ^ 現在の成田空港ではこの地区を避けて北側に延長することでB滑走路を2500m化している。
  71. ^ 成田国際空港株式会社『成田空港~その役割と現状~ 2016年度』2016年11月、155頁。

参考文献[編集]

  • 戸村一作『わが三里塚風と炎の記録』田畑書店、1980年
  • 朝日新聞成田支局『ドラム缶が鳴りやんで―元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』四谷ラウンド、1998年
  • 福田克彦『三里塚アンドソイル』平原社、2001年
  • 隅谷三喜男『成田の空と大地』岩波書店 1996年
  • 宇沢弘文『「成田」とは何か』岩波書店 1992年
  • 東京新聞千葉支局/大坪景章 編『ドキュメント成田空港』東京新聞出版局、1978年
  • 北原鉱治『大地の乱 成田闘争―三里塚反対同盟事務局長の30年』 お茶の水書房、1996年
  • 伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年
  • 飯高春吉『北総の朝あけ―成田空港闘争と警備の記録』千葉日報社出版局、1976年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]