三里塚闘争

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Camera-photo Upload.svg 画像提供依頼:デモ風景や団結小屋などの画像提供をお願いします。2009年9月

三里塚闘争(さんりづかとうそう)は、千葉県成田市農村地区名称である三里塚とその近辺で行われた(行われている)、新東京国際空港(現成田国際空港)建設に反対する闘争およびこれに関連する事柄のことを指す。成田闘争(なりたとうそう)とも呼ばれる。

闘争発生の経緯[編集]

1960年代初頭、来るべく国際化に伴う航空(空港)需要の増大を見越し、政府は羽田の東京国際空港に代わる本格的な国際空港の建設を計画した。1963年昭和38年)の案では、現空港の4km南にある富里地区を候補に上げた。しかし、富里は農場経営のモデルケースだったことから激しい反対運動が勃発し、2年後に富里地区建設案は白紙撤回された。その後、候補地は四転五転したがいずれも反対運動にあったため建設計画自体が頓挫する恐れが出てきた。このことを懸念した佐藤栄作内閣は、1966年(昭和41年)6月に御料牧場があった三里塚・芝山地区を候補地として、同年7月4日に閣議決定した。御料牧場は空港予定地の4割弱しか占めていなかったにもかかわらず、政府は地元から合意を得るどころか事前説明すら怠り、代替地等の諸準備が一切なされていなかったことから農民を中心とした地元住民の猛反発を招いた。政府は閣議決定であることを盾にして一切の交渉行為を行わなかったために、地元農民達は7月20日に「三里塚芝山連合空港反対同盟」を発足させ、三里塚闘争が始まった。

紛争の経過[編集]

初期の三里塚闘争[編集]

農民たちは空港用地買収交渉を困難にすべく用地を細分化する目的で、土地一坪を地権者相互に売買し合う「一坪運動」を展開した。三里塚・芝山地区には戦後入植して農民となった人が多く、そうした入植者は元満蒙開拓団員の引揚者が主体となっており、農民としての再起をかけて行った開拓がようやく軌道に乗り始めた時期に当たっていた。反対同盟は、当初は農民を中心に1500戸の世帯を組織し、その中には少年行動隊、青年行動隊、婦人行動隊、老人行動隊が存在していた。

当初は、空港反対運動に革新政党も参加したが、日本社会党は、千葉県知事と紳士協定を結び、早々に運動から離脱。日本共産党は、反対同盟が新左翼党派と共闘関係を結んだことに反発して、反対同盟との対立を深めて運動から離脱した(形式的には反対同盟の総会の決定によって排除された)。これらの政党が反対運動を利用して党勢の拡大を図ったため、農民たちが不信感を持ったとも分析されている[1]。その結果、農民たちは「支援団体は党派を問わず受け入れる」という姿勢を取り、新左翼団体の介入につながっていく。

新左翼セクトの介入[編集]

闘争勃発後の翌年1967年(昭和42年)には早くも新左翼各派が反国家権力闘争、特にベトナム戦争反戦運動や佐藤内閣への反発の象徴的な対象として活動に介入を始め、闘争は次第に過激さを増していった。クリスチャンで地区の教会の信徒だった戸村一作反対同盟代表が活動をリードし、地元農民と新左翼活動家とが互いに協力もしくは利用し合いながら呉越同舟で活動を行っていた。しかし新左翼セクト間の反目、運動方針や新左翼セクトとの関係性のあり方についての意見の相違から、反対同盟が「小川派」「熱田派」「北原派」等のいくつかの派閥に別れて活動を行うようになっていった。階級闘争至上主義の革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)も、「成田闘争は、小ブルジョア農民の自己保身」と揶揄したことから、運動から追放されていた。三里塚芝山連合空港反対同盟は、武装闘争路線の新左翼党派およびその影響下にある三派全学連の支援を受けることになった。

闘争の激化、開港[編集]

こうした反対闘争が高まる中、政府は一貫した非妥協の姿勢で建設計画を遂行し、1971年(昭和46年)2月22日に建設予定地で警察を用いて第1次行政代執行、反対同盟と機動隊が衝突した。同年9月16日にも建設予定地で第2次行政代執行があり、激しい闘争によって双方に死者と多数の負傷者を出した。

1972年3月15日反対同盟はA滑走路南端、アプローチエリア内の岩山地区に高さ63メートルの鉄塔(通称:岩山大鉄塔)を建設し、フライトチェックを中止に追い込んだ。

1977年1月11日、福田内閣は閣議で年内開港を宣言。航空機の飛行を敢然と拒む岩山大鉄塔を撤去するため、同年1月19日重機を運び込む道路建設に着工した。4月17日には三里塚第一公園に2万3000人が結集して「鉄塔防衛全国総決起集会」が開催された。

同年5月2日空港公団は航空法四十九条一項違反として、鉄塔撤去の仮処分申請を千葉地裁に提出。5月4日千葉地裁は書面審理のみで仮処分を決定。5月6日午前3時ごろ2100人の機動隊が鉄塔周辺を制圧した。4時過ぎ現場に到着した北原鉱治事務局長(当時)に千葉地裁執行官が鉄塔の検証終了と鉄塔の撤去を一方的に通告、反対派を周辺から排除し午前11時過ぎ鉄塔の撤去を完了。航空法違反部分だけでなく、鉄塔を根元から切断撤去した[2]

この日の午前5時ごろから反対派と機動隊の衝突が続き、5月8日には大規模な衝突が発生。野戦病院前でスクラムを組んでいた支援者A(27歳)が頭部にガス弾の直撃を受けて意識不明の重体となり、2日後の5月10日死亡。Aの両親は「機動隊の催涙ガス弾が原因」と国と県に約9400万円の損害賠償を求めて提訴した。

当初計画の滑走路3本から1本に大幅変更しながらも、1978年(昭和53年)4月の開港に漕ぎ着けるところまできた。しかし、開港を目前に控えた3月26日第四インターナショナル(略称:第四インター)、プロレタリア青年同盟戦旗・共産主義者同盟によって結成された行動隊がマンホールから飛び出して空港ビルに突入。管制塔を占拠し各種設備を破壊した(成田空港管制塔占拠事件)。4月の開港予定を延期せざるを得ず、政府の威信は失墜した。さらにはこの開港遅れの期間が生じたことによって、納車されたまま定期運用が無い状態だった京成電鉄スカイライナーAE形(初代)に放火される事件が起きた(京成スカイライナー放火事件)。こうした激しい闘争の一方で、さらに5月19日にも京成本線で同時多発列車妨害事件、運輸省航空局専用ケーブルの切断事件を起こすなど、闘争は先鋭化していった。空港は2ヶ月後の5月20日に、空港周辺での激しい衝突や周辺の関連施設への襲撃などを受けながらも開港を果たした。

開港後の動き[編集]

「開港絶対阻止」をスローガンに活動を進めてきた反対運動は、空港開港により当初のスローガンを「空港廃港・二期工事阻止」に転換せざるをえなくなった。空港の存在が既成事実化するにつれ、条件闘争あるいは反対同盟から離脱する者が続出し、闘争方針をめぐって反対同盟も数派に分裂した。そして、1995年平成7年)に当時の内閣総理大臣村山富市日本社会党)が行った反対同盟に対する謝罪によって、菱田地区など反対派の多くの農家が集団移転に応じた。現在[いつ?]では新滑走路予定とされている東峰地区の農家や一坪地主など用地買収に応じていない地主が若干名存在する。

脚注[編集]

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  1. ^ 【戦後70年 千葉の出来事】成田闘争(上) さながら白昼の市街戦”. 産経新聞 (2015年8月2日). 2015年8月3日閲覧。
  2. ^ 成田空港問題シンポジウム記録集

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]