要注意歌謡曲指定制度
要注意歌謡曲指定制度(ようちゅういかようきょくしていせいど)は、放送禁止をはじめとする3種類の扱いを定めた日本民間放送連盟(民放連)による取り扱いを定めた内規による制度である。10項目の審査基準からなる。指定を受けた曲は要注意歌謡曲と呼ばれる。
正確には民放連における「放送音楽などの取り扱い内規」[1]の中の一節として1959年に定められた。
なお同制度自体は1983年に廃止された。最終的な要注意歌謡曲の消滅時期に関しては、民放連の公式見解[1]である1987年とするのが一般的である(1983年に最後の改訂が行われ5年の経過期間を置くことから1988年とする資料[2]もある)。
民放連によるガイドラインの一つに過ぎず、法的な拘束力はないが、制度が廃止された現在でも、指定された曲への自主規制が続き、放送されていない場合が多い。
概要[編集]
1959年(昭和34年)7月制定。「毎年発売される膨大な数の歌を民放各局の担当者が個別にチェックするのは手間がかかり無駄が多い」という事情に加え、「放送は認可事業だから(各局の基準に)バラつきがあってはよろしくないだろう」という意見からリストが作られたとされる[2]。
要注意歌謡曲の指定は指定から5年間有効となっていたが、1983年11月に同制度を廃止するなどの内規の改正が行われた。それ以前に同制度の指定対象となっていた歌については経過措置として引き続き指定が有効とされていたが、5年間の有効期間が切れると共に次々と指定対象の歌は減り、最終的に1987年ないし1988年に、要注意歌謡曲は消滅した[2]。
この制度の廃止以後も、放送局間の情報交換は必要との認識から定期的に民放連において懇親会が開かれていたが[3]、その後この懇親会は自然消滅し、業界での不祥事などを理由に情報交換は民放連で行われなくなった[2]。
本制度の策定と適用に参加していない日本放送協会(NHK)でも、類似した基準で独自に放送禁止曲を指定することがあり、 『NANA』(チェッカーズ。歌詞の性行為を連想させる表現が理由)や、『雨音はショパンの調べ』(小林麻美。歌詞の麻薬の使用を連想させる表現が理由)が放送禁止曲となっていた。
審査基準[編集]
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放送基準各条にくわえて、10項目からなる判断基準とした。ここでは5項目の要約にとどめる[4]。
対処[編集]
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審査基準により問題があるとされた楽曲は以下の3種類のいずれかの処置が取られる。
- A・放送しない
- B・旋律(メロディ)は使用可能
- C・不適切な表現を修正することで放送可能。ただし著作権者の了承を取ること
またこれ以外にも「『時間帯・視聴対象により要配慮』として考査情報により周知した曲」という分類が存在する。[2]
指定期間[編集]
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特に必要と認められる曲を除いて、指定後5年間とされた。
審査期間と審査方法[編集]
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つボイノリオは制度を試すために『快傑黒頭巾』の歌詞カードから「近藤ムサシ、憎い」の語りを載せなかったところ、指定を受けなかったためレコードを聴かず審査していると確信、だが放送で流れるとすぐ指定されてしまっている[5]。
受容[編集]
制度はあくまでもガイドラインに過ぎず、強制力はなく放送してもペナルティもなく最終判断は各放送局に委ねられていたが業界ではいつの間にか失効していたことも周知されず、民放連が規制の主体と思いこまれていた[2]。森達也は1990年代にフジテレビ番組審議室考査部長への取材時、現場にいるような人にまで制度の失効が周知されていないことを聞くと教育が徹底されおらず先輩が無自覚に臭い物に蓋をする体質が染み付いてしまったのは否定できず大きな失点だと釈明した[6]。
北島三郎のデビュー曲『ブンガチャ節』は「キュキュキュー」の合いの手がベッドの軋みを連想させるとして放送禁止指定を受けるが、森はジョークだとしても程度が低く、それなら『オバケのQ太郎』が規制されないのはなぜかと否定的で[7]、1970年代半ばには生放送のワイドショーに出演したWBC世界ライト級王者ガッツ石松が当初『長崎は今日も雨だった』を歌う予定だったが突然ガッツが「尊敬する高倉健さんに捧げたい」と曲を『網走番外地』に変更、楽譜の用意もなく勘を頼りにバンド演奏が始まりフルコーラスが歌われたが、出演者やスタッフはこの曲が放送禁止指定を受けていることを知らず番組終了間際にプロデューサーがその事実を知り蒼白になったが、テレビ局内で処分を受けた人間はおらず問題には発展しなかった[8]。また、網走番外地と同じくヤクザの曲である藤純子の『緋牡丹博徒』や北島三郎の『仁義』は審査されたが指定は受けなったことから、制度の基準に対して疑問が呈された[9]。
森が1990年代に放送禁止指定を受けた『悲惨な戦い』を流している有線放送のディレクターに取材すると放送禁止に指定された事実は知っているが使用しているのは禁止されたスタジオ録音盤ではなくライブ音源であり、ライブでは歌詞にある「NHK」を「イヌHK」と発音しているため放送していると言われ、森も「かえって失礼では」と聞くと「そういうものなんですよ」と返され森はなるほどとなったが、有線放送は民放連非加盟なため通達や規制を受けないことをお互い認識していなかった[10]
森は網走番外地の事例を「いかにも放送禁止歌らしいエピソードだ」、悲惨な戦いの取材を「理解していない双方が手さ探りと推測で話すとこういうことになる。こうして臆測はいつのまにか増幅され、やがて既成の事実となって定着する。この会話はその好例だろう」としている[11]。
森は『時には娼婦のように』や『後ろから前から』などの方が扇情的だがそれらの多くは指定から外れて時代とともに緩和されてきた制度だが指定され続けた『悲惨な戦い』や『大島節』はどれだけ贔屓目に見ても選曲や判断のバランスが悪く本作が指定されるなら他にも同じ扱いをされる作品もあるはずだと疑問を呈し、2000年前後にはそれを聞いても答えられる人は制度の主体である民放連にはもういないと返答されているが、それぞれの楽曲を審議する人間が思考停止に陥っていたのではないかと考え、何かのはずみで残り続け担当者の引き継ぎが行われても考察をせずそのまま申し送りすることが繰り返された可能性を指摘している[12]
脚注[編集]
- ^ a b 放送倫理/日本民間放送連盟 放送基準にて現在の条文が参照可能。
- ^ a b c d e f 「放送禁止歌」(森達也著、光文社刊、2003年)pp.65-73
- ^ 「放送音楽などの取り扱い内規」には、現在も民放連の内部機構として「放送音楽事例研究懇談会」を設置し、「歌謡曲など特定の曲を放送に使用することの適否について、放送音楽事例研究懇談会の意見を求めることができる」ことが定められている。
- ^ 歌謡曲流行らせのメカニズム(吉野健三著、晩聲社刊)p.113
- ^ 『つボイ正伝「金太の大冒険」の大冒険』扶桑社、2008年、p.74。ISBN 978-4-594-05841-8。
- ^ 森達也『放送禁止歌』p.76
- ^ 森達也『放送禁止歌』p.28
- ^ 森達也『放送禁止歌』p.113
- ^ 『歌謡曲 流行らせのメカニズム』pp.128-129
- ^ 森達也『放送禁止歌』pp.111-112
- ^ 森達也『放送禁止歌』pp.112-113
- ^ 森達也『放送禁止歌』p.108
参考文献[編集]
- 発禁放禁歌集(ルック社、1977年)
- 歌謡曲 流行らせのメカニズム(吉野健三著、晩聲社、1978年)
- 放送禁止歌(森達也著、光文社、2003年) ※放送禁止歌(解放出版社、2000年)を加筆修正し文庫化したもの
- 封印歌謡大全(石橋春海著、三才ブックス、2007年)
- 実録放送禁止作品(三才ブックス、2008年)