ザ・モップス

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モップス
出身地 日本の旗 日本
ジャンル ロック
グループ・サウンズ
活動期間 1966年 - 1974年
レーベル 日本ビクター
1967年-1968年
東芝エキスプレス
1969年
東芝リバティー
1970年-1974年
メンバー 鈴木ヒロミツ (ボーカル
星勝 (ボーカル、ギター
三幸太郎 (ギター、ベース
スズキ幹治 (ドラムス
旧メンバー 村上薫 (ベース)

モップス(The Mops)は、かつて存在した日本のグループサウンズ、ロックバンドである。日本のサイケデリック・ロックにおける草分け的存在として知られる。

メンバー[編集]

概要[編集]

1966年埼玉で星、三幸、村上、スズキ幹治の四人によりインストゥルメンタルバンド「チェックメイツ」として結成。そこへスズキ幹治の実兄である鈴木ヒロミツがボーカルとして加わり五人組バンドとして本格的な活動が開始された。アニマルズエリック・バードンに心酔する鈴木ヒロミツ[1]の「黒っぽい」ロック、ブルース・ロックを指向する。バンド名の由来や理由に「(メンバーの)頭髪がモップみたいだった」、「人々の心を音楽でモップのように綺麗にしてあげたい」などと、鈴木ヒロミツは後年説明している。

都内のゴーゴー喫茶などで活動中にスカウトされ1967年、ホリプロと契約。同年11月、日本ビクターよりシングル「朝まで待てない/ブラインド・バード」でデビュー。いわゆるアイドル人気グループサウンズ(GS)とは異なり主としてジャズ喫茶、米軍キャンプなどでの演奏で活躍。

デビューに際しては「日本最初のサイケデリック・サウンド」を標榜したが、これは67年夏、アメリカ旅行でサイケデリック・ムーヴメントを目の当たりにしたホリプロ社長・堀威夫の発案を、メンバーが受け入れてのものだった。統一したユニホームでジャズ喫茶、プールやデパート屋上にスーツ着用でナイトクラブ営業演奏する機会が多かった1967年のグループサウンズ中堅グループでは異色異端で、アングラ(風俗)ヒッピーを意識した各人ばらばらの奇抜な衣装[2]、ドラムセットを客席にたいして横向きステージには縦並びに置き目隠しをして演奏、サイケデリック・パーティーの開催では報道を招きLSDパーティを挙行(LSDは不使用、バナナの皮を粉末にした擬似薬[3]などで「トリップ」を真似た)、日本に輸入され間もない装置を使ったライト・ショーなど、サイケのイメージを徹底して演出した。また、1968年4月には、現代音楽の一柳慧の公演に加わるなど、前衛芸術的な活動を繰り広げている[4]。しかし1968年の暮れには日本でのサイケデリック・ムーヴメントも退潮を迎え[5]、モップスも本来のシンプルなR&B、ロックンロール志向に回帰する[6]

1968年アルバムの選曲において所属レコード会社のビクターからアイドルの「モンキーズの曲をやれ!」と言われたが、断固として「アニマルズゼムをやりたい」と譲らず対立[7]。ビクターから解雇され、東芝レコードに移籍した[8]1969年には、プロ活動の先行き不安を理由にベース担当の村上が脱退。メンバーの補充はせずに三幸の担当をそれまでのリズム・ギターからベースへ変えて四人のまま活動を続け、東芝傘下のエクスプレス・レコードから「眠り給えイエス」(1971)[9][10]1970年に入り日本のロック草創期、いわゆる「ニュー・ロック」のバンドの1つとして活躍し、「御意見無用」(1971)、ヒット曲「月光仮面」(同)などをリリース。1972年の吉田拓郎作「たどりついたらいつも雨ふり」はラジオでさかんにオンエアされ、若者に支持された。また、星勝はグループ在籍中から編曲家・作曲家としても大活躍し[11]ザ・ピーナッツなどの良質な和製ポップスや、井上陽水フォーク勢に楽曲を提供し、ヒットさせた[12]。 しかし歌謡曲とフォークブームに追いやられたロック音楽でバンド活動限界とそれぞれの活路へ[13]1974年5月に解散、アルバム「イグジット」が同年7月に発売された。鈴木ヒロミツが俳優やタレントとして、その後星勝は前述に加えテレビ番組などの音楽を担当、1974年10月放映のドラマ夜明けの刑事では鈴木ヒロミツが出演者、星勝は音楽担当として「再会」している。鈴木幹治はモップス解散直後から愛奴とソロ活動に移行した浜田省吾を支えた。三幸太郎はマネージメント業に転じ活躍していたが2011年頃から音楽活動を再開し、三幸太朗Badboys&girlsとして演奏活動を行っている。

ヒット曲「月光仮面」は、ジャズ喫茶[14]で演目の一つだった。1969年にはブルース(実際はブルース・ロック)が流行しゴールデン・カップスなども取り上げていたが一般には新奇で、ジョン・メイオールのカバー演奏など元々得意にしていたモップスが、耳馴染みの無い観客へ「ブルース」を説明するため「月光仮面」を取り上げアレンジしたのが始まり。やがてリクエストに応え「月光仮面」を「タンゴ」では、「ロックン・ロール」の場合は・・・、と演奏するうち、星勝がリード・ボーカルを取り鈴木ヒロミツがコミカルなMCを挟む様子が評判になりレコード化される。グループサウンズ(GS)ブーム後期で、欧米ロックを追求したモップスは、鈴木ヒロミツと星勝の個性に負う部分が大きく、アルバム『サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン』は堀威夫の意表作為を超え[15] 、その後、阿波踊りを取り入れたハード・ロックの「御意見無用」などの高い音楽性を誇ったが、この「月光仮面」はバンドの知名度を高めた反面、コミックバンドのイメージが付き纏う結果となった。

1980年代からの再発(リイッシュー)ブーム、再評価作業以降、サイケデリック期の楽曲については、欧米のガレージ・ロックファンから評価されるようになった。「ブラインド・バード」などの楽曲は複数の海賊盤コンピレーションに収録され、アメリカでは1stアルバム「サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン」が何百ドルというプレミアつきで販売されていたという(1994年当時)[16]

世界的なガレージロック・コンピレーションアルバム「Nuggets」シリーズの「Nuggets II:Original Artyfacts From The British Empire And Beyond[Disc4]」の5曲目にザ・モップスの「アイ・アム・ジャスト・ア・モップス」が収録されている。 モップスは、後年国内ではグループ・サウンズ、海外からサイケデリック・ロックガレージ・ロックの分野から再評価されたが、歴史上70年代初期の「日本のロック・バンド」として重要な存在[17]だったが、この点は現在も見過されたまま経過している。

ディスコグラフィー[編集]

シングル[編集]

  • 朝まで待てない/ブラインド・バード(1967年11月10日・victor)
A面「朝まで待てない」は後年、東芝で制作したベスト・アルバム用に再録された(日本ビクター音源が使用出来なかったため)。
小山卓治(1983年発売のアルバム「NG!」に収録)や近田春夫&ハルヲフォンにカバーされた(1994年発売のアルバム『「ハルヲフォン・メモリアル』に収録)。
B面の「ブラインド・バード」は歌詞に放送禁止用語が含まれているために、最初のアルバム『サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン 』(1968) は、1978年の装丁変更の再発版で途絶え2014年、"初のCD完全復刻版"という名目のもと36年の時を経て正規再発された。日本国内で再発売が見送られた期間には海外でモップスの代表曲とされ、80年代半ば以降に海外から出たグループ・サウンド・コンピレーション(ブートレグ)では"Please_Kill_Me"として収録、違法ながら逆輸入された時期もあった[18]
シングル両面ともに作詞はまだ駆け出しの頃の阿久悠である。
  • ベラよ急げ/消えない想い(1968年3月5日)
A面「ベラよ急げ」のシタール伴奏は日本のボサノヴァ草分けで、ジャズ・ギタリストの伊勢昌之
  • お前のすべてを/熱くなれない(1968年8月5日)
  • 眠り給えイエス/週末の喪章(1969年11月10日・Express)
  • ジェニ・ジェニ'70/パーティシペイション(参加)(1970年5月5日・Liberty)
  • 朝日のあたる家/ボディー・アンド・ソウル(1970年8月25日)
  • 御意見無用/アローン(1971年1月25日)
  • 月光仮面/アジャ(1971年3月25日)
  • 森の石松/まるで女の様に(1971年9月25日)
  • なむまいだあ─河内音頭より─/サンド・バッグの木(1972年2月5日)
  • 雨/迷子列車(1972年5月5日)
B面「迷子列車」は英語詩曲「パーティシペイション(参加)」を日本語詩(翻訳ではない)で歌いなおしたもの。
A面「気楽に行こう」は鈴木ヒロミツのソロ扱い。モービル石油CM曲。
  • 晴れ時々にわか雨/俺らの追分(1973年3月5日)
  • あかずの踏切り/生まれた時から王様だった(1973年12月1日)

アルバム[編集]

ザ・モップスVINTAGE_COLLECTION(1989年6月7日VDR‐28017・日本ビクター)初CD化、前述の通り「ブラインド・バード」は省かれている。
サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン(1996年PLP-7727・P-VINE・日本ビクター)アナログ再発盤「ブラインド・バード」省略。
サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン(2014年4月30日VICL-64159・ビクターエンタテインメント)CD盤「ブラインド・バード」を含む14曲収録。

オムニバス[編集]

  • ロックンロール・ジャム'70
  • S.O.S.コンサート〜フォークとロックの大合同演奏会・渋谷公会堂における実況盤 (1971年4月・東芝音楽工業 ETP-7512~3) 2曲収録「ザ・タウン・ザット・アイ・ウォズ・ボーン」「御意見無用(いいじゃないか)」

その他[編集]

映画出演[編集]

「ベラよ急げ」とタイトル不曲の演奏シーン出演(映画用のオリジナル収録)、
劇中にて「Participation (参加)」を演奏(レコード音源)。また和田アキ子の「ボーイ・アンド・ガール」を伴奏。
劇中にて「アイ・アム・ジャスト・ア・モップス」を演奏。
モップス役で出演。「御意見無用」をトラックの上で演奏(メンバーではない付き人の一人がパーカッション、和太鼓として加わっているがレコード音源)。

ドラマ出演[編集]

劇中にて「森の石松」「御意見無用」を演奏。

脚注[編集]

  1. ^ 現役時代スポークスマンとして、解散後回想コメントのほとんどを代弁している。
  2. ^ 各自が自由に着飾る傾向はブーム退潮の1968年末以降は一般的になり米国風カジュアルな傾向が目立った。
  3. ^ 「バナナの皮には幻覚作用成分がある」という流布デマが存在した。ドノヴァンメロー・イエローの一節はこのデマを皮肉ったもの。
  4. ^ 黒沢(2007)、pp.15-16
  5. ^ 黒沢(2007)、p.20
  6. ^ 黒沢(2007)、p.16
  7. ^ 解散後ラジオ番組など鈴木ヒロミツによる複数の発言。日本ビクターと紛糾した事情はプロダクションの意向が大きく作用した。日本ビクターではモップス、ザ・ダイナマイツザ・サニー・ファイブら所属プロダクションがそれぞれ異なる3組を同時デビューで送り出した。従来の大手レコード会社が歌謡曲(ポップス)で一枚のシングル盤を発売する際には演奏者 歌手、楽曲作者という分業制が敷かれていた(シングル盤に長らく残った表記で、一例「歌と演奏:ローリング・ストーンズ」はこの名残り)。分業から楽曲は専属か契約の作詞作曲家だけが曲を提供する不文律の協定が存在し日本コロムビアではペンネーム弾厚作で自作曲を作り自分で演奏し発売した加山雄三が問題視され新興企業で協定が曖昧な東芝音工に移籍を余儀なくされた。レコード会社ではグループサウンズなど自作曲を歌うアーティストの扱いにはこの協定が通用しない配給提携の海外レーベル・ブランド名を拝借してその傘下から発売し問題回避に努め、日本ビクターではザ・スパイダース森山良子などをフィリップス・レーベルから発売し、この日本ビクター・ブランドのダイナマイツ、サニー・ファイブ、オックスの場合、レーベルが契約する橋本淳ら作詞・作曲家の楽曲、洋楽カバー曲、グループの自作曲を混在させる協定妥協策に従う一方、モップスは加えて営業戦略や企画案をプロダクション主導で作詞家はプロダクション側後押し外部から新人でオフィス・トゥー・ワンに所属する阿久悠を起用など日本ビクター側の意向が通り難い存在だった。事務所の合併でホリプロ所属になったオックスは営業上の成果をあげ双方良好な折り合いをつけ、翌年日本ビクターブランドからレーベル独自契約の神戸で活動するローカルグループでブルース・ロックに傾倒し外国曲カバーを含むサイケデリック、荒削りガレージ音楽のザ・ヘルプフル・ソウルを送り出している。(星勝がアレンジャーとして行ったモップス以外の初仕事は井上陽水『断絶』・執筆者川瀬泰雄”. 大人のミュージックカレンダー (2015年8月19日). 2015年8月19日閲覧。)
  8. ^ ホリプロモップス担当マネージャー川瀬泰雄が数社へ売り込み、東芝音工ディレクター高嶋弘之との合意で決まった。
  9. ^ 東芝のリバティ・レーベル部門ディレクター安海勲が担当し次作からリバティ・レーベルに移った。
  10. ^ 安海は星勝の声を気に入りA面をフィーチャリング星まさるの「眠り給えイエス」と鈴木ヒロミツの「週末の喪章」として制作した
  11. ^ 1971年の「雨」(発売は1972年5月)は星勝にとって初のフル・バンド・オーケストラのアレンジとなった。クニ河内からの知遇を得、借りた各楽器の音域表を参考に編成している。
  12. ^ 音楽家として頭角を現した星勝は70年代の井上陽水サポートなどで才能を発揮する。
  13. ^ 同級生同士で結成した前身グループのチェックメイツに中途加入した年長者鈴木ヒロミツとの確執が存在し、活動末期には音楽家として日々成長を遂げていた星勝は鈴木ヒロミツの歌唱スタイルを身につけそっくりに歌いまたバンド外で活動するなど他メンバーとは音楽才能格差は否めない状態になっていた。
  14. ^ 共演することが多かったフィフィ・ザ・フリーフルート奏者をゲストにトラフィックをカヴァー演奏することもあった。フィフィ・ザ・フリーもジョン・メイオールをカヴァーで取り上げている。
  15. ^ 同時代で内田裕也とザ・フラワーズのアルバム『チャレンジ!』と類似点が多い。内田裕也が全采配を振ったこのアルバムと異なり、楽曲作者や制作スタッフを交え作り上げたこと、モップスの演奏独自性を尊重し楽器の音色も多様でより完成された作品となった。
  16. ^ 黒沢(2007)、pp.22-26
  17. ^ 日本語ロック論争参照
  18. ^ 80年代海外からモップスを再評価した音楽マニア達は英米60年代のガレージ・ミュージック再評価を終えた主にファズ・ギターファンのレコード・コレクターだった。同時期、国内でグループ・サウンズを研究する黒沢進や音楽評論家をはじめ一般マニアはB面曲で知名度も低く、中古購入から収録シングル盤は入手容易でモップス他楽曲ほど注目していなかった。「ブラインド・バード」が海外で"Please_Kill_Me"として人気になっている状況を日本のマニア達多くが認知したのは90年代以降だった。
  19. ^ 鈴木博三「すずき・ひろみつの気楽に行こう」

参考文献[編集]

関連項目[編集]