襟裳岬 (森進一の曲)

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襟裳岬
森進一シングル
B面 世捨人歌
リリース
ジャンル 演歌フォークソング
レーベル ビクター音楽産業
作詞・作曲 作詞:岡本おさみ
作曲:吉田拓郎
ゴールドディスク
チャート最高順位
  • 週間6位(オリコン
  • 1974年度年間31位(オリコン)
  • 1975年度年間77位(オリコン)
森進一 シングル 年表
冬の旅
1973年
襟裳岬
(1974年)
さらば友よ
(1974年)
特記事項:当初はAB面が逆になっていた
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襟裳岬」(えりもみさき)は、1974年1月に発売された森進一シングルである。

解説[編集]

作詞は岡本おさみ、作曲は吉田拓郎というフォーク全盛期を代表する黄金コンビによる作品である。

日本ビクターの創立五十周年、さらに同社音楽部門が分離独立してビクター音楽産業株式会社になった一周年記念として特別企画された内の一曲。同社の看板歌手十人―森進一、フランク永井松尾和子三浦洸一鶴田浩二青江三奈橋幸夫らの新曲シングル盤を1974年1月に一挙発売しようというアィデアであった[1]

これらのレコードに限って担当制はなく、企画を採用された者が制作責任者になるという試みであった。森に関しては何か新しい発想のレコードをという方針で、当時まだ入社したてのディレクターだった高橋隆(元ソルティー・シュガーのメンバー、当時高橋卓士)の案が採用された。高橋が、拓郎から「森さんみたいな人に書いてみたい」という話を以前から聞いていて実現に至ったもの。しかし、ビクターレコード上層部や渡辺プロダクションのスタッフの反応は「フォークソングのイメージは森に合わない」「こんな字余りのような曲は森に似合わない」と評され、吉田もこれ以上直せないところまで推敲を重ねたが、当初はB面扱いだった。当時の森は、母親の自殺や女性問題から苦境に立たされていたが、当時森と同様のスキャンダルに巻き込まれていた拓郎からの思いやりと、この曲の3番の歌詞に感動した森が当時所属していた渡辺プロダクションのスタッフの反対を押し切り、両A面という扱いに変更して発売した[2][3][4]

累計では約100万枚[5]のレコード売上を記録した。森は本作で1974年の第16回日本レコード大賞と、第5回日本歌謡大賞の大賞をダブル受賞。ライバルの五木ひろしに先を越されていただけに、森の喜びようは尋常ではなかったという[6]。さらに同年の第25回NHK紅白歌合戦においてこの曲で4回目の白組トリおよび初の大トリを飾った。奇しくも紅組トリも島倉千代子の同名異曲の「襟裳岬」(1961年)であった[7][8]。また、その紅白では、レコ大からの移動で慌てていたこともあり、ズボンのファスナーを開けたまま舞台に出るというハプニングがあった(間奏中、白組共演者たちに囲まれる中で締め直し、特に突っ込まれることなく進行した)[9]

襟裳岬歌碑。左が本曲の、右が島倉千代子版の歌碑

ヒットした当時、襟裳岬のあるえりも町の人々は、サビに登場する「襟裳の春は何もない春です[10]という歌詞に、「何もない春」なんて無いと反感を持ち、渡辺プロや作詞者の岡本宅への抗議の電話もあった[11]が、やがて襟裳の知名度アップに貢献してそういった感情もなくなり、森はえりも町から感謝状を贈られた[5]1997年平成9年)には、えりも町にこの歌の記念歌碑が(元からあった島倉版と並べる形で)建設された。

NHK紅白歌合戦』で「襟裳岬」は、初披露時の1974年の第25回に続いて、1997年の第48回2010年第61回2013年第64回と、合計4度歌唱されている。また、2005年第56回での出場者選考アンケート「スキウタ」にも、「おふくろさん」と共にランクインした。

フォーク界との融合による本作の成功は、以後の歌謡曲界に大きな影響を及ぼした。本作以降、フォーク系シンガー・ソングライターが歌謡曲・ポップス系や演歌歌手に曲を提供するケースが目立って増えるようになった[12][13][14]

吉田拓郎も、1974年のアルバム今はまだ人生を語らず』でセルフカバーしている。こちらは、森のようなこぶしやしつこさはなく、拓郎の代表曲「旅の宿」のようなテイストのフォーク調の歌い方になっている。また2002年のアルバム『Oldies』で再度セルフカバーした。

収録曲[編集]

  1. 襟裳岬
  2. 世捨人唄
    • 作詞:岡本おさみ/作曲:吉田拓郎/編曲:馬飼野俊一

カバー[編集]

映画化[編集]

1975年4月公開 配給:日活。 ヒット曲を元にした歌謡映画でもある。

内容[編集]

原宿のブティックで勤めている靖子(山口)はある日五郎(神)と恋に落ち、2人の交際はこのまま順調に進むかに思われたが、五郎が急病で亡くなってしまう。靖子は絶望に打ち拉がれる中葬儀を行い、病院に居た五郎の友人の田口(夏)と一緒に五郎本人の願いだったの故郷・襟裳岬に遺骨と遺品を持って埋葬しに行く。悲しみに暮れる靖子を田口は支えようとするが、靖子は五郎との思い出と共に生きていく事を決め、襟裳岬をあとにする・・・。

スタッフ・キャスト[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 猪俣公章 『酒と演歌と男と女』 講談社 1993年 p198-200。
  2. ^ 日刊ゲンダイ、連載 森進一「人生ひたすら」2007年4月10〜13日。
  3. ^ 長田暁二 『歌でつづる20世紀』 ヤマハミュージックメディア 2003年 p202、203。
  4. ^ アサヒ芸能徳間書店、2009年6月25日号、p36-39。
  5. ^ a b 読売新聞社文化部『この歌この歌手〈上〉運命のドラマ120』社会思想社、1997年、313頁。ISBN 4390116010
  6. ^ 猪俣公章 『酒と演歌と男と女』 講談社 1993年 p198-200。
  7. ^ 森版の「襟裳岬」が出るまでは「襟裳岬」といえば、この島倉版であったが、その後全くその位置が逆転してしまった(池田憲一 『昭和流行歌の軌跡』 白馬出版 1985年 p35)。
  8. ^ 当初、島倉は紅白で未歌唱のデビュー曲「この世の花」を歌唱する予定だったが、森に対抗するため「襟裳岬」に変更した(合田道人『紅白歌合戦の舞台裏』。「この世の花」は1982年第33回で初披露が実現)。
  9. ^ 話題に事欠かない森進一の紅白 森昌子と共演、チャック全開事件…”. スポーツニッポン (2015年12月5日). 2016年3月6日閲覧。森進一、初の大トリで大失態/紅白を語る”. 日刊スポーツ (2009年12月27日). 2016年3月6日閲覧。
  10. ^ 岡本が訪れたのは2月で雪で真っ白だったため
  11. ^ 『この歌この歌手〈上〉運命のドラマ120』312頁。
  12. ^ nikkansports.com> 日刊スポーツ> 吉田拓郎インタビュー
  13. ^ 歌謡曲とフォークの架け橋めざして~太田裕美さん(1) : 青春グラフィティ
  14. ^ 鈴木啓之 『昭和歌謡レコード大全』 白夜書房 2003年 p183、長田暁二 『歌でつづる20世紀』 ヤマハミュージックメディア 2003年 p202、203、池田憲一 『昭和流行歌の軌跡』 白馬出版 1985年 p35-36、五木ひろし『五木ひろし ファイティングポーズの想い』 日本放送出版協会 2004年 p147、148、『1946-1999 売れたものアルバム』 MediaView 東京書籍 2000年

関連項目[編集]