襟裳岬 (森進一の曲)
「襟裳岬」 | ||||
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森進一 の シングル | ||||
B面 | 世捨人歌 | |||
リリース | ||||
ジャンル | 演歌・フォークソング | |||
時間 | ||||
レーベル | ビクター | |||
作詞・作曲 |
岡本おさみ(作詞) 吉田拓郎(作曲) 馬飼野俊一(編曲) | |||
ゴールドディスク | ||||
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チャート最高順位 | ||||
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森進一 シングル 年表 | ||||
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特記事項:当初はAB面が逆になっていた
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『襟裳岬』(えりもみさき)は、1974年1月15日に発売された森進一の29枚目のシングル。
解説[編集]
- 作詞は岡本おさみ、作曲は吉田拓郎というフォーク全盛期を代表するコンビの作品。
- 日本ビクターの創立50周年、さらに同社音楽部門が分離独立してビクター音楽産業株式会社になった1周年記念として特別企画されたうちの一曲。同社の看板歌手10人、森進一、フランク永井、松尾和子、三浦洸一、鶴田浩二、青江三奈、橋幸夫らの新曲シングル盤を1974年1月に一挙発売しようという内容であった[1]。
- これらのレコードに限って担当制はなく、企画を採用された者が制作責任者になるという試みであった。森に関しては何か新しい発想のレコードをという方針で、当時まだ入社したてのディレクターだった高橋隆(元ソルティー・シュガーのメンバー、当時は高橋卓士)の案が採用された。高橋が、吉田拓郎から「森さんみたいな人に書いてみたい」という話を以前から聞いていて実現に至ったもの。しかし、ビクターレコード上層部や渡辺プロダクションのスタッフの反応は「フォークソングのイメージは森に合わない」「こんな字余りのような曲は森に似合わない」と評され、吉田もこれ以上直せないところまで推敲を重ねたものの、当初はB面扱いだった。当時の森は、母親の自殺や女性問題から苦境に立たされていたが、森と同様のスキャンダルに巻き込まれていた吉田からの思いやりと、この曲の3番の歌詞に感動した森が当時所属していた渡辺プロダクションのスタッフの反対を押し切り、両A面という扱いに変更して発売した[2][3][4]。
- 累計では約100万枚[5]のレコード売上を記録した。森は本作で1974年の第16回日本レコード大賞と、第5回日本歌謡大賞の大賞をダブル受賞。ライバルの五木ひろしに先を越されていただけに、その喜びようは尋常ではなかったという[6]。さらに同年の第25回NHK紅白歌合戦においてこの曲で4回目の白組トリおよび初の大トリを飾った。奇しくも紅組トリも島倉千代子の同名異曲の「襟裳岬」(1961年)であった[7][8]。ちなみに、その紅白では、レコ大からの移動で慌てていたこともあり、ズボンのファスナーを開けたまま舞台に出るというハプニングがあったが、間奏中に白組共演者たちに囲まれる中で閉め直し、滞りなく歌い上げた[9]。
- ヒットした当時、襟裳岬のあるえりも町の人々は、サビに登場する「襟裳の春は何もない春です」[10]という歌詞に、「何もない春」なんて無いと反感を持たれ、渡辺プロや作詞者の岡本宅への抗議の電話もあった[11]。しかし、襟裳の知名度アップに貢献したということでそういった反感も消え、後にえりも町から森に感謝状が贈られた[5]。反感を買ってしまった「何もない春」の部分であるが、実際は作詞した岡本おさみが襟裳に訪れた時に大変寒く、民家で「何もないですがお茶でもいかがですか?」と温かくもてなしされたことに感動して作詞したものであった。 1997年(平成9年)には、えりも町に元からあった島倉版の歌碑と並べる形で、この歌の記念歌碑が設置された。
- 『NHK紅白歌合戦』で「襟裳岬」は、初披露時の1974年の第25回に続いて、1997年の第48回、2010年の第61回、2013年の第64回と、合計4度歌唱されている。また、2005年の第56回での出場者選考アンケート「スキウタ」にも、「おふくろさん」と共にランクインした。
- フォーク界との連携による本作の成功は、以後の歌謡界に大きな影響を与えた。本作以降、フォーク系シンガー・ソングライターが歌謡ポップス系や演歌歌手に曲を提供するケースが目立って増えるようになった[12][13][14]。
収録曲[編集]
- 襟裳岬
- 世捨人唄
価格[編集]
- 発売当時の値段は500円
カバー[編集]
- 吉田拓郎 - 1974年のアルバム『今はまだ人生を語らず』でセルフカバー。森のバージョンとは違い、フォーク寄りのアレンジになっている。また、2002年のアルバム『Oldies』およびシングル「家へ帰ろう/襟裳岬」で再度セルフカバーした。
- テレサ・テン - アルバム『夜の乗客/女の生きがい』(1975年)
- 坂本九 - アルバム『ターニング・ポイント』およびシングル。曲名は「ELIMO」。(1975年、くわじまひろしの英語詞でのカバー。サビの一フレーズのみ日本語で歌唱)
- フォーリーブス - アルバム『LOVE FOREVER』(1978年)
- 森昌子 - アルバム『19歳の演歌〜港・桟橋・別れ唄〜』(1978年)
- キム・ヨンジャ - アルバム『旅情を歌う』(1993年)
- 香西かおり - アルバム『綴織百景 VOL.4 旅』(1994年)
- 寺内タケシ - アルバム『エレキで綴る昭和歌謡史 Vol. 1』(1996年)
- 田辺靖雄&九重佑三子 - アルバム『DUO〜やさしくしてますか〜』(1998年)
- 新沼謙治 - アルバム『愛妻 北挽歌~ふるさとを歌う~』(2000年)
- What's Love? - アルバム『温故知新』(2003年)
- あがた森魚 - アルバム『岡本おさみ アコースティックパーティーwith吉川忠英』(2003年、オムニバスアルバム)
- 水森かおり - アルバム『歌謡紀行IV』(2005年)
- 美空ひばり - CD-BOX『美空ひばりCD-BOX 〜絆〜』(2005年)
- 遠藤賢司 - CD-BOX『遠藤賢司実況録音大全 [第一巻] 1968-1976』(2007年、録音は1975年)
- 桑田佳祐 - DVD『昭和八十三年度!ひとり紅白歌合戦』(2009年、録音は2008年)
- 細川たかし - アルバム『名曲カバー傑作撰 細川たかし』(2009年)
- 野口五郎 - アルバム『GORO Prize Years, Prize Songs 〜五郎と生きた昭和の歌たち〜』(2010年)
- 高城れに(ももいろクローバーZ) - アルバム『5TH DIMENSION』(2013年、初回限定盤Aのみ)
- 吉井和哉 - アルバム『ヨシー・ファンクJr. 〜此レガ原点!!〜』(2014年)
- T字路s - アルバム『Tの讃歌』(2015年)
- 大月みやこ
- 八代亜紀
- 天童よしみ
- ボニージャックス
映画化[編集]
1975年4月1日公開 製作配給:日活。ヒット曲を元にした歌謡映画でもある[15]
内容[編集]
原宿のブティックで勤めている野々宮靖子は、ある日の買い物途中に杉山五郎という青年に出会う。やがて2人は恋に落ち、交際は順調に進むかに思われた最中、五郎が急病で倒れ亡くなってしまう。靖子は絶望に打ち拉がれる中葬儀を行い、五郎の友人の田口俊一と共に、五郎の故郷・襟裳岬に遺骨と遺品を持って埋葬しに行く。悲しみに暮れる靖子を田口は支えようとするが、靖子は五郎との思い出と共に生きていく事を決め、襟裳岬をあとにする。
スタッフ[編集]
キャスト[編集]
- 山口いづみ (野々宮靖子)
- 神有介 (杉山五郎)
- 夏夕介 (田口俊一)
- 天地総子 (瀬戸彩子)
- 熊谷みづえ (曽根久美子)
- 吉田由貴子 (竹内加代)
- 中森肇子 (手島菊枝)
- 高橋明 (青木)
- 金田龍之介 (田口修造)
- 吉井亜樹子 (女中)
- 山科ゆり (バーの女)
- ハナ肇 (靖子の父)
- 森進一 (本人役)特別出演
撮影[編集]
劇団こじかに籍を置き、子役として長く活躍していた山口いづみの映画初主演作[16]。山口はテレビドラマでは女子大生、若奥様役が多かったが、20歳になり、年齢相応の役に喜んだ[16]。1975年3月8日から北海道ロケ[16]。北海道新冠町の明和牧場でハイセイコーとの共演、襟裳岬での撮影があった[16]。
興行[編集]
当初は沢田研二主演の『ジュリー・オン・ステージ』と、春休み向け青春映画二本立てを予定していたが[17]、沢田のヨーロッパ旅行などでスケジュールが狂い、映画出演が不可能になった[17]。このため急遽、東映が9年前にお蔵入りさせた佐久間良子主演の『雪夫人絵図』を買い取り、本作と同時上映した[17]。日活と東映作品の併映は史上初[17]。
1975年のゴールデンウィークは、東宝が山口百恵主演の『潮騒』と和田アキ子主演の『お姐ちゃんお手やわらかに』、松竹が桜田淳子主演の『スプーン一杯の幸せ』と中村雅俊・檀ふみ共演の『想い出のかたすみに』、東映が志穂美悦子主演の『華麗なる追跡』と菅原文太主演『県警対組織暴力』とそれぞれ二本立てで、邦画界はほぼアイドル映画一色に染められ[18][19][20][21]、人気スターの映画での競演にマスメディアも大いに取り上げ、昨今ではまずない華やかな興行争いになった[19][21]。日活の通常プログラムは、人気を博していた日活ロマンポルノであったが、盆正月やゴールデンウィークには、時折一般映画を製作していた[22]。日活はこれに割り込み、山口を女の戦いに押し出した宣伝を展開させたが[21]、ヒットしなかったとされる[22]。
脚注[編集]
- ^ 猪俣公章 『酒と演歌と男と女』 講談社 1993年 p198-200。
- ^ 日刊ゲンダイ、連載 森進一「人生ひたすら」2007年4月10〜13日。
- ^ 長田暁二 『歌でつづる20世紀』 ヤマハミュージックメディア 2003年 p202、203。
- ^ アサヒ芸能、徳間書店、2009年6月25日号、p36-39。
- ^ a b 読売新聞社文化部『この歌この歌手〈上〉運命のドラマ120』社会思想社、1997年、313頁。ISBN 4390116010
- ^ 猪俣公章 『酒と演歌と男と女』 講談社 1993年 p198-200。
- ^ 森版の「襟裳岬」が出るまでは「襟裳岬」といえば、この島倉版であったが、その後全くその位置が逆転してしまった(池田憲一 『昭和流行歌の軌跡』 白馬出版 1985年 p35)。
- ^ 当初、島倉は紅白で未歌唱のデビュー曲「この世の花」を歌唱する予定だったが、森に対抗するため「襟裳岬」に変更した(合田道人『紅白歌合戦の舞台裏』。「この世の花」は1982年・第33回で初披露が実現)。
- ^ “話題に事欠かない森進一の紅白 森昌子と共演、チャック全開事件…”. スポーツニッポン (2015年12月5日). 2016年3月6日閲覧。、“森進一、初の大トリで大失態/紅白を語る”. 日刊スポーツ (2009年12月27日). 2016年3月6日閲覧。
- ^ 岡本が訪れたのは2月で雪で真っ白だったため
- ^ 『この歌この歌手〈上〉運命のドラマ120』312頁。
- ^ nikkansports.com> 日刊スポーツ> 吉田拓郎インタビュー
- ^ 歌謡曲とフォークの架け橋めざして~太田裕美さん(1) : 青春グラフィティ
- ^ 鈴木啓之 『昭和歌謡レコード大全』 白夜書房 2003年 p183、長田暁二 『歌でつづる20世紀』 ヤマハミュージックメディア 2003年 p202、203、池田憲一 『昭和流行歌の軌跡』 白馬出版 1985年 p35-36、五木ひろし『五木ひろし ファイティングポーズの想い』 日本放送出版協会 2004年 p147、148、『1946-1999 売れたものアルバム』 MediaView 東京書籍 2000年 p180-181。
- ^ 襟裳岬 | DVD・ブルーレイ | 日活
- ^ a b c d “『ハイセイコーに"ポ~ッ"山口でも怪物クンは知らん顔』”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 13. (1975年3月13日)
- ^ a b c d “山口いづみ初公開『襟裳岬』 春雪とかす雪のハダ 『緊張で眠れないヮ』”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 11. (1975年2月22日)
- ^ 藤木TDC「藤木TDCのヴィンテージ女優秘画帖(53)」『映画秘宝』2010年12月号、洋泉社、 101頁。
- ^ a b 「〈ルック〉 百恵ちゃんに辛勝した菅原文太」『週刊現代』1975年5月15号、講談社、 27頁。
- ^ “なになにッ! "跳び蹴り"でかせぐ2億円 東映の孝行娘・志穂美悦子”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 11. (1975年2月19日)
- ^ a b c “なになにッ! 花のアイドル"大学対抗"スクリーン黄金週間の激突”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 13. (1975年3月27日)
- ^ a b 寺脇研『ロマンポルノの時代』光文社、2012年、112-115頁。ISBN 978-4-334-03697-3。
参考文献[編集]
- 岡本おさみ「襟裳岬」〜「日本の名随筆-50・歌_加藤登紀子・編」作品社 1986年
- 池田憲一 『昭和流行歌の軌跡』 白馬出版 1985年
- 猪俣公章 『酒と演歌と男と女』 講談社 1993年
- 『1946-1999 売れたものアルバム』 MediaView 東京書籍 2000年
- 長田暁二 『歌でつづる20世紀』 ヤマハミュージックメディア 2003年
- 鈴木啓之 『昭和歌謡レコード大全』 白夜書房 2003年
- 五木ひろし『五木ひろし ファイティングポーズの想い』 日本放送出版協会 2004年
- 日刊ゲンダイ 〈連載 森進一「人生ひたすら」〉 2007年4月10〜13日
関連項目[編集]
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