野菊の墓 (映画)

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野菊の墓
監督 澤井信一郎
脚本 宮内婦貴子
原作 伊藤左千夫
製作 高岩淡
相澤秀禎
出演者 松田聖子
桑原正
音楽 菊池俊輔
主題歌 松田聖子
花一色〜野菊のささやき〜
撮影 森田富士郎
編集 西東清明
製作会社 東映東京サンミュージック
配給 東映
公開 日本の旗 1981年8月8日
上映時間 91分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
配給収入 8億円[1]
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野菊の墓』(のぎくのはか)は、伊藤左千夫同名小説を原作とし、1981年8月8日に公開された東映東京撮影所サンミュージック製作、東映配給の日本映画である。松田聖子の初主演作、及び澤井信一郎の初監督作品。

概要[編集]

1955年の『野菊の如き君なりき』(監督:木下惠介)、1966年の『野菊のごとき君なりき』(監督:富本壮吉)に続く3度目の映画化。初めて原作と同名タイトルで映画化された。

スタッフ[編集]

キャスト[編集]

主題歌[編集]

作詞:松本隆 作曲:財津和夫 編曲:瀬尾一三

製作[編集]

企画経緯[編集]

本映画の製作は、松田聖子郷ひろみとの噂が立ち始めたため[2]、その対応策として松田の所属事務所サンミュージックと所属レコード会社CBS・ソニーとで話し合いがもたれ、CMを持っていた資生堂から「噂が立てば、レコードの売り上げが落ちることは否定できません」と示唆され[2]、松田を郷のイメージに固定させないために企画された[2]山口百恵三浦友和のように、映画やテレビドラマの共演を切っ掛けに、恋人関係に発展したケースも多く、またファンもそのように見ることも多いことから[3]、それを期待したものと考えられる[4]

企画発表[編集]

1981年2月10日東映本社8階会議室で、岡田茂東映社長、高岩淡東映常務、吉田達東映プロデューサー相澤秀禎サンミュージック社長、澤井信一郎監督、松田聖子の6名が列席し、企画発表が行われた[5]。岡田東映社長は「相澤氏の全面協力を受け、松田聖子の主演でお盆作品として期待している。この作品を東映の新たな進路としてヤングを総動員してみたい」と話した[5]。相澤サンミュージック社長は「松田聖子を東映に全面的にあずけた。最初は原作ものを考えていたので、この『野菊の墓』はぴったり。主題歌になるようなものも考えている」と話した[5]。松田聖子は「デビューして1年になるが、素晴らしい役が出来てうれしい。前作は見ていないが、原作を読んで民子に感激した。映画は初めてなので、一生の思い出になるように、頑張っていい作品にしたい」と話した[5]。サンミュージックは『野菊の墓』1本だけではなく、今後も積極的に協力したいと岡田東映社長に申し入れ、両者は松田聖子を東映の盆暮(夏休みと正月興行)の看板にしたいと構想した[6]。関係者は「『野菊の墓』の成否により、今後の聖子の動向が決まる」と見ていた[2]

ヤング指向路線[編集]

"アイドル映画"は東映は得意と言えず[7]東宝松竹の方が実績があった[8]。松田の所属事務所であるサンミュージックの先輩タレント、森田健作桜田淳子は、松竹が製作するケースが多かった[8]。「東映が最も東映らしからぬ映画[要追加記述]を製作すること自体が驚き」と言われた[8]。監督の澤井信一郎にオファーがあったときには、既に『野菊の墓』をやることが決まっていた[9]

ポスト百恵[編集]

松田聖子の相手役を一般公募するパターンは、東宝の百恵・友和コンビが歩んだ道を踏襲したものであった[6]。製作発表が行われた1981年2月の時点で松田は"ポスト百恵"と目される人気ナンバー1歌手と評されており[5]、「山口百恵引退後、アイドル歌手ナンバー1の座についた松田聖子が、映画の世界でも"ポスト百恵"をめざした主演第一作」と宣伝された[10]。デビュー直後の松田聖子は、歌手と女優の両面で語られる山口百恵のような存在になることを[11]、当初は目指していたものと考えられる[6][12]。松田自身もそれを意識していたといわれる[12]。山口百恵は、1975年の正月映画『伊豆の踊子』から、1981年の正月映画として引退記念映画『古都』が公開されるまで、5年の間、ホリプロと東宝で年2本、主演映画がコンスタントに製作され、興行の重要期間である正月とゴールデンウイークか、夏休みに公開された。岡田東映社長は、「東宝が山口百恵で売っていた8月を今度は東映で頂く。人気絶大となった松田聖子を夏の勝負どころに出す」などと話した[13]

キャスティング[編集]

政夫役は一般公募オーディションで16歳から22歳までの男性と規定され[5]、2万人の中から選ばれた当時16歳の高校生・桑原正(くわはら まさし)。当時の『キネマ旬報』にも2万1000人の中から選ばれたと書かれているが[10]、監督の澤井信一郎は、何故か「"2000人"くらいの応募で[14]、書類選考で100人くらいを選び、自身が桑原を選んだ」と話している[14]。松田聖子の大ファンだったクリス松村も同じオーディションを受けたが落ちたという。

監督[編集]

澤井は助監督歴20年、42歳にして初監督作[15]。30歳を過ぎた頃から、本作のプロデューサー・吉田進らに何度も監督昇進を打診されていたが、企画が気に入らないと何度も見送って「断り魔」のようになり、さらに1970年代後半から大作主義が来て、東映も自社製作が減り、監督をするチャンスは減った[15]。この年、吉田達プロデューサーより、「松田聖子でやるんだけど、新人監督でいきたいんだけど、やってみないか」と言われ承諾した[9]。東映社員の新人監督抜擢は1976年横浜暗黒街 マシンガンの竜』の岡本明久以来だった[9]木下惠介監督の『野菊の如き君なりき』が好きだったこともあり引き受けた[9]。澤井は「全編に渡り、木下さんの物真似にならないよう、どこまで木下さんから離れるか苦労した」と述べている[9]

脚本[編集]

脚本の宮内婦貴子は、山口百恵主演の『風立ちぬ』(1976年)の脚本を書いていることからの起用であるが、澤井とはかなり揉めた[9][16]

衣装[編集]

本作で松田聖子を演出するにあたり、大きな問題となったのがカツラ[14]。『野菊の墓』は明治時代の設定で、しかも農家の娘では断髪もままならない。澤井は、すっぽりと被る全カツラでなく、おでこの生え際の毛を生かし、自然に見えるカツラにしたいと考えたため、おでこは全て見えることになる。しかし松田は当時、日の出の勢いで「聖子ちゃんカット」と呼ばれるヘアスタイルが大人気。常に前髪をたらし、決しておでこを見せないという神話の中にいた[14]。松田も広いおでこは自身の欠点と分かっていて、おでこをさらけ出すのは屈辱的に感じ、おでこの出るカツラを嫌がった[17]。プロデューサーの吉田は、松田の所属事務所に遠慮し、おでこを見せてくれとは言い辛く、前髪をたらしたカツラでもいいんじゃないかと提案したが、澤井が「毅然とした態度で緒戦に望まないと、後で雪崩現象を起こす」と、松田との初顔合わせのとき、はっきり「おでこを見せますよ」と伝えた[14]。松田も所属事務所も理解してくれ、松田聖子が初めておでこを見せた、などと新聞に取り上げられるほどのニュースになった[14]

撮影[編集]

松田のスケジュールも長野県などに泊りがけで行けるように理解を示し、一週間のうち、3日、4日続けて時間を取り、これを二か月の間、数週に分けて計19日間[14]、22日間[17]を確保してくれた。山口百恵の主演デビュー映画『伊豆の踊子』で山口の撮影にあてられた期間は僅か一週間だった[18]

1981年5月3日東映東京撮影所クランクイン[19]。初日は松田の雑巾がけのシーンの収録が行われたが、雑巾がけは縁のない世代で苦労した。しかし松田は何度もNGを出しながら根性でやりきり、スタッフにも好感を持たれた。ロケシーンは肉体的にもハードな撮影が続いたが、松田は歌手の仕事では味わえないファミリー的な雰囲気を喜んでいたという[19]。1981年5月24日報知新聞朝刊一面に「聖子、郷、結婚へ」という見出しの記事が掲載された[19]。その日松田はクライマックスの綿畑の収録のため、長野県松本市にいた。

カメラ[編集]

東映東京撮影所にも多くのカメラマンがおり、新人監督の作品に他社からカメラマンが来ることは本来有り得ないが[9]森田富士郎は、東映で吉田喜重の仕事が流れ、本作に参加した[9]。澤井は自分の知らない光と影の使い方に驚いたと話している[9]。1971年の大映倒産後フリーだった森田は、本作以降、翌年の『鬼龍院花子の生涯』など、東映の文芸大作を多数手がけた。

ロケ地[編集]

※茄子畑は甘楽の山地に新たに開墾し茄子畑を作った。政夫の家も実物の角材などで製作。テレビドラマでは味わえない凝り方に松田も感心していたという[17]

編集[編集]

主題歌をどこかで入れないといけないという事情から、澤井が劇中で流すのが嫌で最初に入れることにした[14]。当時の日本映画は超大作以外は、最後にタイトル・ロールが流れるものはほとんど無く、劇中で流さなければ最初に入れるしかなかった[14]

プロモーション[編集]

1981年8月3日放送の『夜のヒットスタジオ』では、松田聖子が桑原正を横に座らせて映画の主題歌「花一色〜野菊のささやき〜」を歌った。

興行[編集]

午後3時以降の夜の入りが極端に悪かったが[20]、東宝の超大作『連合艦隊』(配給収入19億円)、松竹『男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎』(配給収入13.1億円)を向こうに回しての配給収入8億円は[1]、年間を通じ不振だった東映にあってはまずまずのヒット[21][注 1]。東宝に比べて投資効率がよく成功といえた[20]

評価[編集]

  • 山根貞男は「胡散臭さを百も二百も承知の上で、古典的な共通感覚の共通性をとことん信じ切っているふりをして、古典的な画面を作り上げた」と評した[23]。同時上映は真田広之主演の『吼えろ鉄拳』であったが、映画館へつめかけたファンのほとんどは、自分のお目当てのアイドルが出る映画だけ観て、もう1本の方は観ないで帰ったといわれた[23]。山根は「これは二つの映画が比較され選択されているわけではなく、あくまで松田聖子と真田広之が、比較・選択の対象になっているだけだからである。スター目当てに映画を観るという現象は、石原裕次郎の映画や寅さん映画などと現象はそっくりだとはいえ、それらの視線が同時に映画そのものにも向けられていた現象とは似て非なるもの」などと評した[23]
  • 寺脇研は「描写の細やかさで感嘆させられる。古典的な少年と少女の悲恋ものでありながら、主役の二人は、ヒーロー然、ヒロイン然として輝くことがない。役柄相応に持つべきスター性が、まるで欠けている。『政夫さんはりんどうのような人だわ』という科白が失笑しか呼ばないのは、それゆえだ。スターだったらどんな気障な科白だって似合うものだ。代わりに描写の細やかさが映画を支えている。映像、演出、傍役や小道具の使い方。スター性を欠く両主演者も、"小道具"として、上手く使われている」と評価[24]
  • 立川健二郎は「山口百恵が男性、女性に人気があったオールマイティとすれば、松田聖子の場合は女性に人気が無い。百恵との比較論であるが、企画よりも前に、人気歌手を引っ張り出し明らかにタレント優先の映画であるだけに、この差はかなり大きい。だから"ポスト百恵"というのは、おこがましい」などと評した[25]
  • 浜野優は「どう見ても、これが監督昇進第一回の作品とは思えない。まるでベテラン監督がソツなく作り上げた手慣れた巧さを感じる。悪く言えば、若々しい熱気と実験性に乏しく、新人監督に期待する挑戦の意気込みに欠ける。松田聖子というスター歌手を"ポスト百恵"の商魂で売り出す一番手の重責を、澤井信一郎は、まずは如才なく切り抜けたといってよい。しかし『民さんは野菊のような人だ』のような科白が、今日の独善的なヤング世代にどのように受け入れられるのだろうか。気の効いた恋愛パロディとして哄笑される予感さえする。思えば『伊豆の踊子』にしても『絶唱』にしても古典的ともいい得る純愛のメロドラマが、日本の可憐な新人女優を売り出す登龍門的意味を持つのはなぜだろうか。犯すべからず的精神愛の悲劇も、もうそろそろ世代交代がなされてもいいのではなかろうか。青春物の一環としての恋愛劇が、このように古色蒼然とした内容に下降していく部分と、新しい女優を生み出す上昇作業のイメージとが、どうもしっくりこないのだ。この作品においても、松田聖子のキャラクターの魅力は完全に形骸化され、生き生きとした"なま"な女優の若い息づかいはどこを押しても感じられない。定型の中で定型通り演じる、いわば人形芝居といえよう。一層のこと、伊藤左千夫の原作を完全に解体し、"澤井の『野菊の墓』"に再構築する意気込みが欲しかった。それだけの力を持っているだけに惜しい」などと評した[26]
  • その他、白井佳夫や松田政男らも澤井の職人的演出を高く評価したが[27]、大勢としては黙殺されかけていた[27]

影響[編集]

作品や澤井演出に関しては評価された『野菊の墓』に続いて[28]、1982年の東映の正月映画に松田聖子と沖田浩之の二枚看板で映画離れ著しいヤングを呼び戻す青春路線の構想が存在したが[29]角川映画/キティ・フィルム提携作品『セーラー服と機関銃 』の配給が東宝から東映に変更された影響を受ける[30][31][32]。結局、松田の正月映画は立ち消えになり[22][30]、松田の2作目『プルメリアの伝説 天国のキッス』は2年後に東宝で製作された[32]

1981年11月号の『話の特集』で蓮實重彦が「『野菊の墓』のフィルム的繊細さを融知するにはそれが映画だとつぶやくだけで充分である」という本作の映画評を載せると評価が高まった[33][注 2]。澤井は「蓮實さんには生涯足を向けて寝られない、心底そう思った」「この批評がなければ、次作薬師丸ひろ子の『Wの悲劇』のオファーは来なかったのではないか」などと述べている[27]

政夫役を演じた桑原正は本作出演の後、早稲田学院から早稲田大学に進み、卒業後俳優になりたいと澤井に相談に来たが、やめた方がいいと忠告されサラリーマンになったという[14]

同時上映[編集]

吼えろ鉄拳

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 東映58期(1980年9月 - 1981年8月)に公開された番組の中では第3位[22]
  2. ^ 『シネマの記憶装置』(1985年)、『映画狂人シネマの煽動装置』(200年)に収録。

出典[編集]

  1. ^ a b 竹入栄二郎「アイドル映画 データ分析」、『キネマ旬報1983年昭和58年)8月下旬号、キネマ旬報社1983年、 41頁。
  2. ^ a b c d 魔性のシンデレラ 1989, p. 155.
  3. ^ 「私の次回作 野菊の墓 澤井信一郎」、『キネマ旬報1988年昭和63年)1月上旬号 p.91、キネマ旬報社
  4. ^ アイドル映画 2003, pp. 35-39.
  5. ^ a b c d e f 「製作発表」、『キネマ旬報1981年昭和56年)3月下旬号 p.179、キネマ旬報社
  6. ^ a b c 「映画・トピック・ジャーナル "たのきん""松田聖子"等のアイドル・タレントを起用しての映画作りへ走る邦画各社 邦画3社がヤング指向路線確立」、『キネマ旬報1981年昭和56年)3月下旬号 pp.166-167、キネマ旬報社
  7. ^ アイドル映画 2003, pp. 68-73.
  8. ^ a b c 「1981年度決算映画・トピック・ジャーナルワイド座談会 82年邦画界の展望を語る 黒井和男他」、『キネマ旬報1982年昭和57年)2月下旬号 pp.204-210、キネマ旬報社
  9. ^ a b c d e f g h i 映画の呼吸 2006, pp. 130-134.
  10. ^ a b 「グラビア 野菊の墓」、『キネマ旬報1981年昭和56年)8月下旬号 pp.36-37、キネマ旬報社
  11. ^ アイドル映画 2003, pp. 28-47.
  12. ^ a b 聖子と明菜 2007, pp. 162-166.
  13. ^ 活動屋人生 2012, p. 150、154-156頁.
  14. ^ a b c d e f g h i j 映画の呼吸 2006, pp. 134-147.
  15. ^ a b 「私の次回作 野菊の墓 澤井信一郎」、『キネマ旬報1981年昭和56年)6月下旬号 p.185、キネマ旬報社
  16. ^ 宮内婦貴子「野菊の墓 創作ノート」、『月刊シナリオ』1981年昭和56年)10月号 p.94、日本シナリオ作家協会
  17. ^ a b c 魔性のシンデレラ 1989, pp. 163-169.
  18. ^ 西河克己「『伊豆の踊子』のころの山口百恵」、『キネマ旬報1977年昭和52年)8月上旬号 pp.60-61、キネマ旬報社
  19. ^ a b c d e f g 魔性のシンデレラ 1989, pp. 163-172.
  20. ^ a b 「映画・トピック・ジャーナル 前年並を維持した"夏場興行"」、『キネマ旬報1981年昭和56年)9月下旬号 pp.176-177、キネマ旬報社
  21. ^ シネアルバム 1982, p. 191.
  22. ^ a b 「興行価値」、『キネマ旬報1981年昭和56年)12月上旬号 p.176、キネマ旬報社
  23. ^ a b c シネアルバム 1982, pp. 0-15.
  24. ^ シネアルバム 1982, pp. 178-179.
  25. ^ 「興行価値 日本映画 今夏の注目の2番組 東宝『連合艦隊』 東映『野菊の墓』『吼えろ鉄拳』」、『キネマ旬報1981年昭和56年)8月下旬号 p.174、キネマ旬報社
  26. ^ 「MOVIE 批評 REVIEW 日本映画 野菊の墓」、『キネマ旬報1981年昭和56年)9月下旬号 pp.165-166、キネマ旬報社
  27. ^ a b c 映画の呼吸 2006, pp. 151-191.
  28. ^ 監督全集 1988, pp. 185-186.
  29. ^ 「邦画新作情報」、『キネマ旬報1981年昭和56年)7月下旬号 p.184、キネマ旬報社
  30. ^ a b 「映画・トピック・ジャーナル 東西2館で実施された『ブルージーンズメモリー』の変則興行により、東宝と角川映画が決裂!! 角川事務所、東宝に対して怒る」、『キネマ旬報1981年昭和56年)8月下旬号 pp.172-173、キネマ旬報社
  31. ^ 「製作発表 セーラー服と機関銃」、『キネマ旬報1981年昭和56年)8月下旬号 pp.184-185、キネマ旬報社
  32. ^ a b 中川 2014, pp. 147-148.
  33. ^ シネアルバム 1982, pp. 162-165.

参考文献[編集]

外部リンク[編集]