坂本九

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坂本 九
さかもと きゅう
Kyu sakamoto.png
1960年代初頭の坂本九
基本情報
出生名 坂本 九(さかもと ひさし)
出生 1941年12月10日
出身地 日本の旗 日本 神奈川県川崎市川崎区
死没 1985年8月12日(満43歳没)
日本の旗 日本 群馬県多野郡上野村
ジャンル 歌謡曲
ロカビリー
職業 歌手俳優タレント
担当楽器
ギター
活動期間 1958年 - 1985年
レーベル 日本ビクター(1959年)
東芝レコード・エキスプレス
(1960年 - 1984年)
ファンハウス(1985年)
共同作業者 ザ・ドリフターズ
ダニー飯田とパラダイス・キング
公式サイト www.sakamoto-kyu.com

坂本 九(さかもと きゅう、本名:大島 九(おおしま ひさし)、1941年12月10日 - 1985年8月12日[1])は、日本の俳優タレント歌手司会者神奈川県川崎市川崎区出身。愛称は九ちゃん(きゅうちゃん)

妻は女優柏木由紀子。柏木との間に娘が2人おり、長女は大島花子、次女は舞坂ゆき子。実祖父は茨城県田伏村(現:かすみがうら市)出身の坂本金吉。またサックス奏者の阿部薫は甥(姉の息子)。

上を向いて歩こう』や『見上げてごらん夜の星を』、『明日があるさ』など数多くのヒット曲を出し、全世界におけるレコードの売上は1500万枚以上に達した[2]。また、映画や舞台の俳優、テレビ番組の司会など活動は多岐に渡り、1985年(昭和60年)の日本航空123便墜落事故に巻き込まれるまで精力的な活動を続けた。

人物・来歴[編集]

思春期の坂本(右)と姉・八千代(1956年)

少年時代[編集]

川崎市の荷役請負業「丸木組」の社長・坂本寛と妻・いく(旧姓:大島)の第9子(後妻であった実母にとっては3番目)として誕生[1]。9番目に生まれて、そろそろ名前のネタが尽きてきたことから、「九」と命名されたという説がある。また、「九」の読みが「久」に通じるからとも言われている。

誕生日である1941年12月10日は、第二次世界大戦マレー沖海戦が起こった日である。第二次世界大戦中に幼少期を送り、戦争中は母の実家のある茨城県笠間市疎開した。また川崎在住時代、一時松あきら一家が坂本家の近所に転居・在住してきた時期があり、坂本は松とよく遊んであげたりしていたとのこと。

戦争中の1943年10月26日に発生した常磐線土浦駅列車衝突事故で川に転落し、多数の犠牲者を出した車両に、疎開のために笠間に向かっていた坂本は母と乗り合わせていた。ただ、事故の直前に他の車両に移っていたために遭難死を逃れる。成長して周囲の人々にこの一件を聞かされて知り、「笠間稲荷神社の神様が自分を救ってくれた」として、終生信仰していたという。後には、この笠間稲荷神社で結婚式を挙げる[1]。そして、飛行機事故で命を落とした時にも、笠間稲荷のペンダントが遺体の身元を特定する決め手となった。

高校生の時に両親が離婚。といっても家は近所で家族の交流は変わらなかった。九など下の兄弟は母親に引き取られ、姓は坂本から大島に。この前後からエルヴィス・プレスリーに憧れるようになり[1]、右に出る物が他にいなかったと言われるほど、プレスリーの物まねで仲間内の人気者となった。

バンド時代[編集]

1958年5月、日大横浜学園在学中にバンド・ボーイを経て、当時ロカビリーバンドとして活動していたザ・ドリフターズに加入し、ボーカルを担当。8月26日にはロカビリー歌手として第3回日劇ウエスタンカーニバルに初出演し、新人賞を受賞する[1]。半年後(11月)にドリフターズを脱退。12月にグループを移籍し、水原弘の抜けたダニー飯田とパラダイス・キングの一員[1]としてビクターレコードと契約。1959年6月に「題名のない唄だけど」でデビューしたが[1]、ヒットしなかった[3]

無名時代、平尾昌章ミッキー・カーチス山下敬二郎などが出演した、日劇ウエスタンカーニバルに事務所の意向を無視して無理やり出演。バックでギターを弾いていたが、全く知られることはなかった。

ソロ歌手に転向、そして世界的スターに[編集]

1960年7月に、東芝音楽出版(東芝レコード)に移籍。同年8月に、移籍後第1弾シングルとして発売した「悲しき六十才」[1]が10万枚[4]を売り上げ、初ヒットとなった(この曲は、日本航空123便墜落事故の慰霊式における鎮魂曲となる)。

1961年の「上を向いて歩こう[1]は日本国外でも大ヒットし、作詞の永六輔、作曲の中村八大と合わせて六八九トリオと呼ばれた。中でも1963年には、SUKIYAKIというタイトルでアメリカでもっとも権威のあるヒットチャート誌『ビルボード』の "Billboard Hot 100" で、3週連続1位を獲得した。"Billboard Hot 100" で1位を獲得した東洋人及び日本人アーティストは、2010年まで坂本だけである(2010年にメンバー全員がアジア系アメリカ人であるファーイースト・ムーヴメントが同チャートで1位を獲得した)。この曲は後に英語歌詞が付いたが、1位を獲得したのは坂本の歌う日本語版であり、その点でもこれまで唯一の例である。

また、この「上を向いて歩こう」は1964年に米国内でのレコード累計販売枚数が100万枚を超えたため坂本は日本人初の「ゴールドディスク」を受賞した[1][5]

「上を向いて歩こう」の海外でのヒットにより世界的に名前が知られたことで、国際的な活動も多かった。1964年第18回オリンピック東京大会のウェルカムパーティーにゲスト出演し、「サヨナラ東京」「君が好き」を歌った。

資金難だった東京パラリンピックチャリティコンサートで寄付金支援した。

1970年日本万国博覧会で若手芸能人の万国博委員に起用される[1]。さらに、読売テレビクイズEXPO'70』の司会にも起用された。

タレントとして、テレビの司会や映画、舞台でも活躍した。また、「あゆみの箱」運動[1]手話を広げる運動、障碍者福祉関係の慈善活動に積極的に参加していた。

1971年12月8日に女優の柏木由紀子と結婚[1]

「上を向いて歩こう」がヒットする最中、夕張市を中心に当時流行していた小児麻痺の為の「チャリティーショー」が1962年から札幌テレビ放送主催の下、札幌市で開かれ、坂本は無報酬で出演した。以来、毎年10年間北海道でチャリティーショーを続け、それをきっかけに1976年札幌テレビ放送制作の福祉番組「ふれあい広場・サンデー九」に取り組む[1]。月に2回北海道の施設を取材し番組は作られた。この番組は急逝まで9年間、日曜朝9時から30分間放送された。番組の中、コンサートでも披露されたが、日本初の手話の歌「そして想い出」を1979年発表。全国ろうあ者大会で披露した。

当時、坂本はヒットについて岡本太郎に声をかけられると、周囲からの重圧についての葛藤を泣きながら語っていたという[6]

航空機事故死[編集]

1985年にレコードレーベルをファンハウスに移籍。5月22日に移籍後第1弾シングル「懐しきlove-song/心の瞳」を発売して、再び歌手活動を本格化させようとしていた。8月9日には、中村八大のコンサートにて「もう一度、六・八・九としてやり直したい、歌手としてやり直したい」という意志を伝え、中村と再度の意気投合を誓っていたという。

8月12日、坂本はNHK-FM放送で『歌謡スペシャル 秋一番!坂本九』の収録[注 1]を行っており、これが生前最後の仕事となった[1]。この番組の中で坂本は、「ステキなタイミング」・「上を向いて歩こう(欧陽菲菲とデュエット)」・「For The Good Times」[注 2]・「We are the world」・「親父」・「見上げてごらん夜の星を」・「心の瞳」・「懐しきlove-song」を披露[注 3]したほか、同年6月8日に「古賀政男記念音楽大賞」で入賞[1]したことに触れ、「とても嬉しかった。これからも皆さんと一緒に、いつまでも歌い続けていきたい」と、将来への抱負を語っていた。なお、この番組は同年9月1日に放送され、冒頭で坂本の死去を伝えるアナウンスが流れた。

その後、大阪府にある友人(坂本の元マネージャー)の選挙応援として翌13日に行われる事務所開きに駆けつける途中[7]日本航空123便墜落事故に遭遇し死去した。43歳没。

坂本は本来、国内移動には日本航空ではなく必ず全日空を使っており、所属プロダクションや妻の由紀子も「手配は必ず全日空で」と指定していたほどだった[注 4]。しかし、当日は全日空便が満席で、飛行機やホテルなどを手配した招待側の側近はチケットを確保できず、仕方なく確保したのが日本航空123便であった[注 5][7]。事故の数日前、「全日空が満席で日航しか取れませんでした」という立候補者の側近からの謝りの電話が入っているが、当時電話をうけとった由紀子は忙しく、また勘違いをしていたこともあり、事故が起こるまで特に気に留めていなかった[10]。そのため、家族も乗客名簿が発表されるまで日航機に乗っているはずがないと信じていた。

しかし、乗客名簿の中に「オオシマ・ヒサシ」と「コミヤ・カツヒロ」(小宮勝廣、坂本が所属するマナセプロダクションのマネージャー)の名が出て、事故に遭遇したことは否定できない事実となった。この事故で運命をともにした小宮は早めに羽田空港へ行き、全日空便への振替を何度も交渉したが、盆という時節柄叶わず、やむを得ずこの事故機に乗ったという。坂本、そして小宮の両名は、政治家や著名人が利用することの多いボーイング747SR-100の2階席、右列の前方から4番目(64列)に搭乗していた[11]。坂本は、ハンティングワールドのボストンバッグを機内に持ち込んでおり、墜落現場で発見・回収された。その中に録音可能なテープレコーダーが入っていたため、家族は遺言が残っていないかと期待したが、何も録音されていなかった[10]

事故翌日の8月13日には、事前収録の坂本本人が出演する、フジテレビなるほど!ザ・ワールド』200回記念が放送された。この時点では安否不明の状態であったため敢えて放送され、番組の最後ではブラックバックに「坂本九さんの無事をお祈りします」というコメントが寄せられた。墜落から99時間後の16日、家族らによって遺体が確認された[7](遺体が発見されたのは14日頃)。

1985年8月17日放送のTBSキッチンパトロール』では、遺体が確認された翌日であったため、番組冒頭に坂本の死去を伝え哀悼の意を示すテロップ、収録日を示すテロップが番組の前半と後半に表示されつつ、元気な姿が放送された。

密葬は東京都目黒区の自宅で行われ、本葬は9月9日に港区増上寺で執り行われた。しかし、札幌テレビ放送で福祉番組『ふれあい広場・サンデー九』を担当していたこともあり、坂本の遺族と一緒に亡くなった小宮の遺族を札幌市内のSTVホールに招き、障害者とその家族だけを対象にした「偲ぶ会」という一般葬儀も執り行われた。

戒名は「天真院九心玄聲居士(てんしんいんきゅうしんげんせいこじ)」[7]。墓所は東京都港区西麻布二丁目の長谷寺[1]。墓には「見上げてごらん夜の星を」の歌詞の一部が刻まれている。

また、親交があった石倉三郎夫妻の媒酌人を由紀子と務めることになっていたが、結婚式直前に坂本が亡くなったため実現しなかった。

没後[編集]

坂本の不慮の死は、日本音楽界・歌手界にとって大きな損失と言われたほか、福祉界においても大きな損失と言われた。例えば、彼の死によって手話が市民権を得るのが5年は遅れたと言われている。

坂本は前述の「サンデー九」の一環で北海道栗山町と交流があったことから、逝去後栗山町に坂本九思い出記念館が設立され、関連の展示がなされている。

坂本を記念して、小惑星ナンバー6980の固有名はKyusakamotoと命名されている。ナンバーの6980も「六八九トリオ」に由来する。

坂本が最後に歌った「心の瞳」は、結果的に遺作となってしまったが、横山潤子などによって編曲され、現在では混声3部合唱として主に中学生に歌われている。また、「明日があるさ」は2000年8月より約1年半間にわたりジョージアコマーシャルに起用され、CMソングを歌ったウルフルズによる『明日があるさ』はオリコン4位を獲得し、出演する吉本興業所属タレント達によるRe:Japanが結成されるといった現象が起き、坂本の楽曲が再び注目されるようになった。

2007年3月4日より、ゆかりの地茨城県笠間市の中心駅である常磐線友部駅で「明日があるさ」・「上を向いて歩こう」・「幸せなら手をたたこう」のアレンジが発車メロディとして使用されている。笠間市(旧:友部町)が、坂本が戦時中の学童疎開で滞在し育った街であるということと、駅舎橋上駅舎に改築したことの記念という意味を込めて、遺族とレコード会社などの許諾を得て採用した、ということである。さらに2012年7月24日には、常磐線岩間駅の橋上駅舎完成に合わせ、「幸せなら手をたたこう」・「レットキス」の発車メロディーを導入している。2014年4月29日には、水戸線笠間駅でも岩間駅と同じ発車メロディーが導入された。

九の曲は、日本航空の機内オーディオサービスでは絶対にかけられない。雑誌報道によれば、事務所側が拒否しているのは勿論のこと、他のアーティストが歌っている「明日があるさ」がかかっただけでも、日航へ乗客からクレームが殺到したためと言われている。

2008年12月20日からは、「上を向いて歩こう」が坂本の出生地である神奈川県川崎市京浜急行電鉄京急川崎駅にて、電車接近メロディ(駅メロディ)に使用されている[1]

2012年現在、茨城県笠間市の一部(おもに笠間地区)では正午に「上を向いて歩こう」、午後5時に「見上げてごらん夜の星を」のメロディが流れている。

ドラマ化[編集]

没後20年にあたる2005年8月(放送日は8月21日)に、テレビ東京系列で『上を向いて歩こう〜坂本九物語〜』が放送された。坂本役を山口達也、由紀子役をともさかりえがそれぞれ演じた。なお、このドラマでは、次女の舞坂ゆき子が父の姉(舞坂にとっては父方の伯母)である遠藤八千代役で出演している。

主な楽曲[編集]

発売年は「坂本九 Official Web Site」などを参照した。 なお、原盤のアーティストクレジットは、*ダニー飯田とパラダイスキング(ソロクレジットなし)、**坂本九・ダニー飯田とパラダイスキング。

主なシングル曲[編集]

  • 題名のない唄だけど(1959年10月)**
    ビクターレコード発売のシングル何もいらない俺だけど*(ソロ増田多夢)のB面。
  • 悲しき六十才(1960年8月)*
    東芝レコード移籍後の第1弾シングルで、初のヒット曲。トルコのヒット曲「ムスターファ」のカバー
  • ステキなタイミング(1960年10月)*
    ビキニスタイルのお嬢さん*(ソロ石川進)のB面だが、A面をはるかに凌ぐ大ヒット。ジミー・ジョーンズの「A GOOD TIMIN'」のカバー。
  • 夢のナポリターナ(1960年12月)**
    遙かなるアラモ*(ソロ石川進、増田多夢)のB面。原曲はイタリアで歌唱されていた歌。ザ・ピーナッツとの競作。ただし歌詞違いであるため完全な競作とはなっていない。また、ザ・ピーナッツ版は原曲通り「ルナ・ナポリターナ」である。
  • 砂漠の恋の物語(1961年1月)**
  • GIブルース(1961年1月)**
    砂漠の恋の物語のB面。エルヴィス・プレスリーのヒット曲のカバー。
  • 九ちゃんのズンタタッタ(1961年3月)**
    青島幸男作詞・作曲。
  • カレンダーガール(1961年6月)**
    ニール・セダカのヒット曲のカバー。
  • 月夜に歩けば(1961年7月)**
  • 九ちゃん音頭~それが浮世と云うものさ(1961年10月)**
  • 上を向いて歩こう(1961年10月)
    世界中で発売された坂本の代名詞的ヒット曲。
    2008年12月20日から、出生地川崎市京浜急行電鉄京急川崎駅の電車接近メロディー(駅メロディー)として使用される。
  • モデル・ガール(1961年12月)**
  • 戦場に陽は落ちて(1962年2月)**
  • ボクの星(1962年8月)
    映画『九ちゃん音頭』主題歌。
  • レッツ・ゴー物語(ストーリー)(1962年10月)**
  • 一人ぼっちの二人(1962年11月)
  • 九ちゃんのツンツン節(1963年2月)
    作曲者不詳のメロディに坂本が作詞。
  • 見上げてごらん夜の星を(1963年5月)
  • 勝利の旗(1963年12月)
    東京映画『ミスタージャイアンツ・勝利の旗』主題歌。
  • 明日があるさ(1963年12月)
  • 東京五輪音頭(1964年1月)
    三波春夫三橋美智也橋幸夫らと競作。
  • 幸せなら手をたたこう(1964年5月)
    原曲はスペイン民謡
  • サヨナラ東京(1964年7月)
    東京オリンピックウェルカムパーティーで坂本が、各国選手団・外交使節団の前で歌唱した。
  • 君が好き(1964年7月)
    サヨナラ東京のB面。東京オリンピックのウェルカムパーティーで坂本が、各国選手団・外交使節団の前で歌唱した。
  • 夜明けの唄(1964年10月)
  • ともだち(1965年3月。1969年涙くんさよならのB面で再発)
    宮城県立西多賀養護学校の応援歌として制作された曲。また、『あゆみの箱』のテーマソングとなった。
  • レットキス(ジェンカ)(1966年9月)
  • 世界の国からこんにちは(1967年3月)
    競作。三波春夫のバージョンとともにヒットした。[要出典]坂本のバージョンは、作曲者の中村八大が編曲も手がけ、第19回NHK紅白歌合戦では坂本が歌った。
  • 涙くんさよなら(1969年7月)
  • 遠い昔の母の胸に(1969年8月)
    前々作「蝶々」(1969年6月)が理不尽な放送禁止(それ以前に、他の人が歌った卑猥な替え歌が広まっていたという理由であった)を受けたために、急遽、坂本がかねてから作っていた曲に歌詞をつけて発売された。坂本が歌いたいと願っていた「母の歌」でもある。
  • マイ・マイ・マイ(1970年7月)
  • 夕やけの空(1973年12月)
    NHK人形劇『新八犬伝』エンディング曲。
  • 何かいいことありそうな(1976年10月)
    北海道限定で発売されたシングル。札幌テレビふれあい広場・サンデー九』テーマ曲。
  • あの時の約束(1979年6月)
    • そして思い出(B面) - 当時まだ手話が聾学校でも使用が認められておらず、聴覚障害者の間で独自に発展していたことや、そのために健常者との本音でのコミュニケーションが取れないことに悩む子供が多かったことを憂いた坂本が「手話の歌を作りたい」と永六輔に持ちかけて、手話通訳者の丸山浩路が協力、中村八大が作曲した、世界で初めての「手話で歌うことを前提とした歌」である。
  • 親父(1982年2月)
    亡き父に捧げた曲で、坂本自ら作詞・作曲を担当した。
  • ぶっちぎりNO文句/おとなの童話〜今だからいうけれど〜(1983年11月)
    覆面歌手「XQS(エクスキューズ)」として発売。目と口だけ穴を空けた紙袋を被りスーツに黒タイツに革靴という出で立ちで踊りながら歌うプロモーション映像が「おはようスタジオ」や「歌う天気予報」などのテレビ番組に登場し、視聴者に強烈なインパクトを与えた。
  • 懐しきlove-song/心の瞳(1985年5月)
    ファンハウス(現在のアリオラジャパン)移籍後第1弾シングルとして発売されたが、3ヶ月後の日本航空123便墜落事故で結果的に遺作となった。

CD化[編集]

  • 上を向いて歩こう(1994年、VERY BEST OF KYU SAKAMOTOおよびメモリアルボックスと同時発売)
    カップリングはオリジナルと同じ。新たに録音されたカラオケ版を収録。
  • 明日があるさ(2000年)
    「明日があるさ」の楽曲がCMで起用されたことで、CMで使用されたウルフルズ版のCD化(2001年2月)に先駆けて急遽発売された。カップリングは「幸せなら手をたたこう」。

アルバム[編集]

オリジナル作品[編集]

  • 九ちゃんとパラキン(1961年2月)*
  • 九ちゃんとパラキン 第2集(1961年8月)*
  • 九ちゃんとパラキン 第3集(1962年3月)*
  • ボクの星 坂本九ヒット・ソング(1962年10月)
  • 九ちゃんの歌(1963年5月)
  • 九ちゃんの歌 第2集(1964年8月)
  • ミュージカル 見上げてごらん夜の星を(1964年12月)
  • 坂本九リサイタル(1966年10月)
  • 九ちゃん明治を歌う(1967年1月)
  • 九ちゃんのベスト・ヒット・パレード(1967年7月)
  • 坂本九オン・ステージ(1968年5月)
  • 九ちゃんと歌おう(1968年7月)
  • 坂本九 プレスリーを歌う(1972年7月)
  • ターニング・ポイント(1975年12月)
  • 689(1979年6月)

CD復刻版[編集]

紙ジャケット仕様

  • 九ちゃんの歌(2003年)
  • 九ちゃんの歌 第2集 (2008年)

ベストアルバム[編集]

レコード[編集]

  • 九・メモリアル(1985年10月19日 ファンハウス発売)
    追悼盤として急遽発売された。

CD[編集]

  • BIG ARTIST BEST COLLECTION 坂本九(1989年7月)
    1960年代の楽曲を中心に収録。これよりCD化。
  • VERY BEST OF KYU SAKAMOTO(1994年9月・2001年再発)
    「悲しき60歳」から「懐かしきLove-Song」までを選り抜いた25曲を収録。1970年代以降の収録楽曲は初CD化となる。
  • 坂本九メモリアルボックス(1994年9月、VERY BEST OF KYU SAKAMOTOと同時発売)
    全てのシングルス(カップリング含む)作品と、1960年代後半以降のアルバム楽曲の大半と、未発売楽曲を収録。近年まではEMI直営通販の「EMIミュージック・ジャパンショップ(現:UNIVERSAL MUSIC STORE)」にて販売していたが現在は廃盤。なお、アルバム楽曲についてはマスターテープが発掘できず、レコード盤の再生から収録したと断り書きがある。
  • 坂本九シングルス(1998年)
    「悲しき60歳」から「そして思い出」まで選り抜いたシングルス作品を収録。ライナーノーツの代わりとして、オリジナルのレコードジャケット(裏面の歌詞などを含む)を1枚ずつCDライナーサイズに縮小したものを封入。後年のシングル全集ではカットされた「新八犬伝のテーマ」もシングルレコード盤のままで収録されている。
  • 坂本九ゴールデン☆ベスト(2002年6月)
    ゴールデン☆ベストシリーズ。1960年代の楽曲を収録。
  • 坂本九シングル全集(2004年7月)
    シングルス全てをリマスタリングの上収録。6枚組で9999円と、九にちなんだ価格となっている。
  • 坂本九メモリアルベスト(2004年9月)
    シングル全集との連続企画で同作から選り抜いた19曲を収録。20曲目はボーナストラックとして、1961年にキャピトル・レコードで録音されて全米向けに発売された「CHINA LIGHT(支那の夜)」を日本向けとして初めて収録。
  • ベスト30(2005年)
    「悲しき60歳」から1966年までの楽曲を選り抜いた30曲を収録。紙ジャケット仕様。
  • 坂本九 CD&DVD THE BEST(2005年)
    1960年代から1970年代までの楽曲を選り抜いたベスト盤でDVDを同封。CD13曲目はボーナストラックとして、1984年頃に録音された坂本のボーカルをミキシングして編曲された、柏木由紀子とのデュエット「あの日の約束(坂本九作詞曲・三木たかし編曲)」が収録されている。なお同楽曲の初披露は2004年9月開催の「坂本九音楽祭」で行われている。
    DVDには、いわゆる蔵出しとして、1983年頃に撮影され事務所で保管されていた歌謡ショーの秘蔵映像から4曲分が収録されている。
  • ベスト坂本九99(2007年9月)
    ロカビリー系のリサイタル作品(メモリアルボックスと大半が重複)や、未商品・未CD化のテレビ番組やコンサートにまつわる音源を中心にリマスタリング処理のうえ収録。CD4枚組み。EMIミュージック・ジャパンへと社名が変わってから坂本九としての初作品である。ライナーノーツによればまだ商品化されていない楽曲が存在しているとのこと。
  • 坂本九アニバーサリー・ベスト 689コンプリート(2011年10月)
    オリジナルアルバム「689」(メモリアルボックスにてCD化)と、「上を向いて歩こう」「久しぶりのあなた」など六八九トリオによる楽曲全29曲を新たにリマスタリングのうえ収録。2枚組。

企画盤[編集]

出演作[編集]

映画[編集]

舞台[編集]

CM[編集]

ほか、多数

テレビ[編集]

NHK紅白歌合戦出場歴[編集]

年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手 備考
1961年(昭和36年)/第12回[1] 1 上を向いて歩こう 21/25 坂本スミ子
1962年(昭和37年)/第13回[1] 2 一人ぼっちの二人 12/25 吉永小百合
1963年(昭和38年)/第14回[1] 3 見上げてごらん夜の星を 20/25 梓みちよ
1964年(昭和39年)/第15回[1] 4 サヨナラ東京 24/25 ザ・ピーナッツ トリ前
1965年(昭和40年)/第16回[1] 5 ともだち 04/25 雪村いづみ
1966年(昭和41年)/第17回[1] 6 レット・キス(ジェンカ) 06/25 倍賞千恵子
1967年(昭和42年)/第18回[1] 7 エンピツが一本 14/23 中尾ミエ
1968年(昭和43年)/第19回[1] 8 世界の国からこんにちは 21/23 水前寺清子
1969年(昭和44年)/第20回[1] 9 見上げてごらん夜の星を(2回目) 10/23 岸洋子
1970年(昭和45年)/第21回[1] 10 マイ・マイ・マイ 04/24 日吉ミミ
1971年(昭和46年)/第22回[1] 11 この世のある限り 04/25 ちあきなおみ

(注意点)

  • 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
  • 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。
  • 備考のトリ等の次にある()はトリ等を務めた回数を表す

坂本九の持ち歌が紅白歌合戦で他の歌手によって歌唱された例[編集]

  • 坂本の死後も、多くの歌手によって坂本の持ち歌が歌い継がれている。
年度/放送回 歌手名 曲目 備考
1992年(平成4年)/第43回 デューク・エイセス 見上げてごらん夜の星を
1995年(平成7年)/第46回 南こうせつ 上を向いて歩こう 阪神・淡路大震災の被災者へのメッセージの意味を込めた特別企画として歌唱された。
2000年(平成12年)/第51回[1] 出場歌手全員 上を向いて歩こう 第一部終了後、坂本九の紅白出演時の映像のもと、出場歌手によって「上を向いて歩こう」が大合唱された。
2001年(平成13年)/第52回 ウルフルズRe:Japan 明日があるさ 「明日があるさ 新世紀スペシャル」のタイトルで、両者がコラボレーションした。
2003年(平成15年)/第54回 平井堅 見上げてごらん夜の星を 最新技術を用いた坂本のオリジナル映像との組み合わせで、平井と坂本の映像のデュエットが披露された。
2004年(平成16年)/第55回 出場歌手全員 上を向いて歩こう 第一部後半において、出場歌手によって「上を向いて歩こう」が大合唱された。
2005年(平成17年)/第56回 布施明ゴスペラーズ 上を向いて歩こう 企画コーナー「タイムスリップ60年 昭和・平成ALWAYS」内で歌唱。
2011年(平成23年)/第62回 松田聖子神田沙也加 上を向いて歩こう 東日本大震災の復興ソングとして、聖子のカウントダウンライブが行われていた東京体育館から中継で歌唱した。
2012年(平成24年)/第63回 徳永英明 上を向いて歩こう

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 当時のNHK505スタジオにて公開録音。『歌謡スペシャル』の司会であるうつみ宮土理が夏休み休暇をとっていたため、その代役を務めた。ゲストは欧陽菲菲、生ピアノ伴奏は羽田健太郎
  2. ^ 坂本が尊敬していたペリー・コモのヒット曲。
  3. ^ オンエアされなかったが、アンコールでは「明日があるさ」を披露している。
  4. ^ 柏木由紀子は著書の中で、「夫は日本航空の体質を常日頃から非難しており、それだからいつも全日空を利用していた」と記述している[8]。また、ドラマ『上を向いて歩こう〜坂本九物語〜』で坂本の父・寛を演じた古谷一行によると、生前の坂本本人から「飛行機で怖い思いをした」という話を聞かされたことがあったという[9]
  5. ^ 事故当日のダイヤでは、日本航空123便と同時刻・同区間で全日空39便も飛んでいた。

出典[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]