山岳ベース事件

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山岳ベース事件
場所 群馬県 榛名山迦葉山妙義山
日付 1971年 - 1972年
概要 リンチ殺人事件
死亡者 12名
犯人 連合赤軍
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山岳ベース事件(さんがくベースじけん)とは、1971年から1972年にかけて連合赤軍が起こした同志に対するリンチ殺人事件。当時の社会に強い衝撃を与え、同じく連合赤軍が起こしたあさま山荘事件とともに新左翼運動が退潮する契機となった。

概要[編集]

1960年代以前の日本では学生や労働者による政治運動や政治活動が盛んであった。そんな中、学生を中心とした新左翼諸派は、1967年頃より急速にその活動を先鋭化させていった。その中でも最過激派の代表格が、1969年9月に公然と登場した共産主義者同盟赤軍派、及びほぼ同時期に過激な闘争を開始した日本共産党(革命左派)神奈川県委員会で、同年10月の国際反戦デー闘争や同11月の佐藤首相訪米阻止闘争で新左翼主流武闘派や全共闘が壊滅し政治運動が穏健化する中、彼らはハイジャックよど号ハイジャック事件)やダイナマイト闘争などを行い、その活動をより先鋭化させていった。

1971年に入ると、革命左派は銃砲店を襲撃し銃で武装するようになり、赤軍派は金融機関襲撃による資金獲得を行うようになる。彼らに対する警察の取り締まりは一段と厳しくなり、また革命左派や赤軍派も警察に対して「殲滅戦」(殺害)を企てるようになっていった。一方、この頃から中核派等の新左翼主流派勢力やノンセクト・ラジカルも過激な闘争を復活・先鋭化させるようになり、交番爆破や東峰十字路事件のような機動隊員の殺害事件も起こるようになった。

1971年に入って共闘関係を結ぶようになっていた赤軍派と革命左派は、やがて「連合赤軍」の結成を宣言したが実態は無く、その一方で両派とも警察の厳しい追及によって活動に行き詰まっており、「殲滅戦」においても他党派に遅れをとるようになっていた。両派は事態を打開するため合同の軍事訓練を行い、指導部会議を重ねていたが、その最中、「総括」として暴行・極寒の屋外に放置・食事を与えなかったことなどにより短期間に29名のメンバー中12名を死に至らしめ、自ら組織を弱体化させたのが「山岳ベース事件」である。[注釈 1]

なお、1971年8月には革命左派において山岳ベースを脱走したメンバー2名を「処刑」する印旛沼事件が起こっており、同志殺害という一線は既に越えられていた。[注釈 2]

連合赤軍の山岳ベースへの集合[編集]

連合赤軍の母体の一つである革命左派は、テロを行ったメンバーの多くが指名手配されていたために都市部で自由な行動ができなくなっていた。そこで、警察の目の届かない山岳地帯に軍事訓練や今後のテロ作戦のための拠点となる「山岳ベース」と呼ばれるアジトを築いた(山岳ベースは、脱走者の発生、他人に目撃される等の事情で、各地を転々とした。名称は「榛名ベース」のように「地名+ベース」で呼ばれた)。連合赤軍のもう一つの母体である赤軍派も、都内アジトを拠点としつつ山岳ベースの設置を目指すようになった。1971年7月に名目上結成された連合赤軍は、同年12月初頭に赤軍派の新倉ベース(山梨県)で初の合同軍事訓練を行った。一方でこの頃から革命左派の非合法部(山岳ベースメンバー)と合法部の意見の相違が目立ちはじめ、12月18日柴野春彦一周忌への対応を巡り対立は決定的となった。12月20日頃から革命左派の榛名ベース(群馬県)で両派の指導部会議が始まると、合法部との決別と両派による「新党」の結成が宣言され、両派のメンバーが山岳ベースに集合することとなった。山岳ベースに集まったメンバーはのべ29人(内、女性は10人)であった。

総括[編集]

榛名ベースでの「新党」においては、「総括」と称する内部でのメンバーに対する批判や自己批判がエスカレートするようになった。総括とは、本来は過去を振り返る「反省」を意味し、当時の左翼の政治運動家の間で好んで使われた思考法であった。

連合赤軍において、総括対象者は最初は作業から外されるだけだったが、間もなく「総括に集中させるため」として、長時間の正座、食事を与えないなどされ、ついに殴打が加えられるに至った。この際に連合赤軍の最高幹部の森恒夫は、殴って気絶させ、目覚めたときには別の人格に生まれ変わり、「共産主義化」された真の革命戦士になれるという論理を展開した。この暴行はあくまで「総括」のための「援助」であるとされた[注釈 3]。暴行の対象者は日を追うごとに増えていき、死者を出すに至ったが、森らはこれを「総括できなかったための敗北死」とし、方針が改められなかったため、死者が続出することになった。被害者らの死因は殴打による内臓破裂や、氷点下の屋外にさらされたための凍死、食事を与えられなかったことによる衰弱死などであるとされる。

一部のメンバーは森により「組織に対する裏切り」と断定され、「死刑」を宣告された。この「死刑」は相手を殺害することを目的としたもので、アイスピックやナイフで刺された後に絞殺された。

1971年12月末からの約2ヶ月半の間に死亡したメンバーは12人にも上った。犠牲者の中にはメンバー同士で恋仲であった者、兄弟であった者もいた。中には妊娠していた女性メンバーもいた。証拠隠滅のため遺体はすべて全裸で土中に埋められた。


連合赤軍事件の他にも多くの政治的過激派組織による殺人事件は発生しているが、当事者による事件の詳細な経緯の発表はほとんど行われておらず、事件の実態は闇の中となっている場合が多い。そのような中にあって、本事件は事件を批判的に捉え返した詳細な記録が複数の当事者により発表されており、事件の実像に迫りやすいという点でも特異な事件である。

事件の経過[編集]

概略[編集]

1971年12月初旬、新倉ベース(赤軍派のベース)における赤軍派・革命左派両派の合同軍事訓練が行われ、革命左派メンバーによる赤軍派メンバーの批判を皮切りに両派各メンバーが各々の問題点を相互批判・自己批判を通して「総括」していく体制が構築される。合同軍事訓練後の12月20日、赤軍派の森恒夫らが両派の指導部会議のために革命左派の榛名ベースを訪れると、同時期に起きた両派の合法部・非合法部間の軋轢をきっかけに両派の非合法部が合同する路線が作られる。これにより森と革命左派の永田洋子を中心とした革命左派メンバーの「共産主義化」のための「総括」要求が強化され、「総括」要求されたメンバーは正座の強要や食事を与えないなどされ、やがて「暴力による総括援助」が行われるようになる。この過程で新倉ベースに残っていた赤軍派メンバーも榛名ベースに呼び寄せられ、暴力・絶食・極寒の屋外で束縛されたこと等により、死者が続出。死亡したメンバーは「総括できなかったところの敗北死」とされ、「総括」要求は続行された。こうして1972年2月までの約2ヶ月の間に12名が死亡。内2名は組織への「裏切り」等を理由に「死刑」とされ、ナイフやアイスピックで刺された上で絞殺された。残されたメンバーの脱走・逮捕により組織が壊滅するという形で事件は終結した。[注釈 4]

1971年12月以前[編集]

1971年8月 - 革命左派が山岳ベースを脱走したメンバー2人を殺害(印旛沼事件)。脱走発覚直後、革命左派の永田洋子坂口弘(永田の内縁の夫)が赤軍派の森恒夫に2人の脱走を話すと、森は赤軍派において脱走未遂をして警察に通報しようとしたメンバーの処刑を検討していることを明かし、「スパイや離脱者は処刑すべきではないか」と言ったという。永田と坂口にはこう言った森だったが、赤軍派は処刑を実行せず、森は2人目の殺害を坂東國男から聞くと、「またやったのか! もはやあいつらは革命家じゃないよ!」と動揺したという[1]

8月末 - 印旛沼事件に運転手として関わった小嶋和子は事件後精神的に不安定になり、衝動的にベースを逃げようとし、「私も殺して埋めてよ」と叫ぶなどする[2]が、結局脱走はせず。

9月 - 革命左派メンバーで印旛沼事件の実行犯の1人でもあったAが脱走未遂。これを知った吉野雅邦はAを殴り、胸ぐらをつかみながら「何で、何でだよ、殺されちゃうんだぞ」と涙声で詰問。

10月22日頃 - 赤軍派(森)と革命左派(永田、坂口、寺岡恒一)による指導部会議。両派による合同軍事訓練の開催で合意。この時点で革命左派の山岳ベースは丹沢ベースであったが、赤軍派は山岳ベースを未設置だった。

10月24日頃 - 革命左派のAとBが丹沢ベースから脱走し名古屋で逮捕される(A脱走問題)。

10月25日 - Aの逮捕を受けて、革命左派は丹沢ベースを放棄し、大井川上流の井川への移動を開始。同時にAも計画に関わっていた福島県の交番襲撃計画も断念された。

10月27日頃 - 井川に到着した革命左派は八木尾又付近の廃屋をアジトとする(井川ベース)。また、安倍川上流の牛首峠東の造林小屋を拠点に、さらに奥に小屋の設営を開始(牛首ベース)。

11月1日 - 早川支流の黒柱河内川上流の飯場を赤軍派がアジトにする(新倉ベース)。

11月3日 - 赤軍派と革命左派が共同軍事訓練について打ち合わせをし、赤軍派の山岳ベースでの開催が決まる。

11月中旬 - 人に見られたため牛首ベース(建設中)を放棄し、革命左派は井川ベースに戻る。

11月21日 - 革命左派の是政アジトが摘発され、加藤能敬・C・D・他1名が逮捕され、アジト近くで川島豪の妻が逮捕される(是政大量逮捕問題)。

11月24日 - 革命左派は榛名湖の温泉旅館跡を拠点とし、さらに奥に小屋の設営を開始(榛名ベース)。

11月末 - Aの脱走により小嶋の消耗は顕著になっていた。これを受けて坂口は突然小嶋を川に連れ出し、「夢中になって洗濯しろ!」と命令。永田は後に、坂口によるこの洗濯の強要と、A脱走未遂時の吉野による暴行を「暴力的総括要求の萌芽」と位置付けている[3]

「総括」要求の開始[編集]

12月2日 - 革命左派の軍事訓練参加組が新倉ベースへの山道に到着する。革命左派の者達が水筒を持っていなかったために、出迎えた赤軍派の植垣康博がベースに水筒を依頼した。

12月3日 - 早朝、植垣が革命左派の昼食のための握り飯をベースに依頼。赤軍派(山崎順・進藤隆三郎)は午前中に水筒を届けに来たが、水筒を用意していなかった革命左派を批判した(水筒問題)。昼に握り飯を届けに来た赤軍派(E)も、水筒問題で革命左派を批判する。こうした赤軍派メンバーによる相次ぐ水筒問題への批判は森の指示によるものだったという[1]。革命左派は午後に新倉ベースに到着するが、出迎えた森らは水筒問題で革命左派を批判。永田は水筒問題について自己批判を行う。

夕食後に赤軍派9名(森・坂東・山田孝・行方正時・遠山美枝子・植垣・山崎・進藤・E)、革命左派9名(永田・坂口・寺岡・吉野・金子みちよ(吉野の内縁の妻。妊婦)・大槻節子・F・G・H(寺岡の内縁の妻))による顔合わせ全体会議が行われた。赤軍派の9名は逮捕者を除いた同派非合法部の全メンバー。山田、遠山、行方は入山して間もなかった。革命左派の9名は同派非合法部の選抜メンバー。多くのメンバーは榛名ベースに残され、この時はベースの建設作業をしていた。

12月4日 - 朝、合同軍事訓練開始。森は永田を呼び止め2人で会議。森は赤軍派の合同軍事訓練参加メンバーが「革命戦士として戦っていける」と評価した上で永田に革命左派が保有していた銃を赤軍派に譲渡することを要請。永田はこの要請を保留し、赤軍派の遠山が合法時代と同じ指輪をしていたことを「革命的警戒心が足りない」として批判し、遠山の革命戦士としての資質に疑問を投げかける[3]

夜の全体会議にて赤軍派は米子闘争を自己批判。森は革命左派にAの脱走と是政大量逮捕の総括を要求した。

12月5日 - 森は革命左派にAの脱走と是政大量逮捕の総括を再度要求する。永田は前日森に指摘していたにも関わらず遠山が指輪をしていたことに気づき、他の革命左派メンバーと一緒に遠山の身なりや闘争に対する姿勢を批判した(遠山問題)[注釈 5]。山崎が「差し出がましいようですが、何が問題なんですか」と革命左派メンバーに尋ねた他、赤軍派メンバーの多くには遠山の何を問題とされているのかがわからなかったという[1][4][5]。最終的に永田は赤軍派批判を始め、「赤軍派は苦労してないのよ」「このままではとても一緒にやっていけない」と言って寝てしまう[5]

12月6日 - 赤軍派メンバーのみで遠山問題を話し合う。森は革命左派の遠山批判は赤軍派全体に対する批判でもあり、メンバー全体で責任を持って解決していくこと、遠山自身もこの批判に責任を持って応えていく必要があることを主張。この中で森は革命左派がベースを脱走したメンバーをすでに殺害している(印旛沼事件)ことを赤軍派メンバーに明らかにし、これを踏まえて「山を降りたものは殺す」と宣言。

森は革命左派に対して赤軍派が革命左派の遠山批判を受け入れ、遠山が総括できるまで山から降ろさず、山を降りる者は殺すと確認したと表明する。これを受けて永田は「言葉だけではなく必ず総括させてほしい。総括できるまで山から降ろさないでほしいし、なるべく早く総括してほしい」と答える。森はここで永田が言った「なるべく早く」という言葉を重く受け止め、以降の総括要求において「総括期間は短期間でなければならない」と考えるようにったという[4]。森はこれに続いて、「作風・規律の問題こそ革命戦士の共産主義化の問題であり、党建設の中心的課題」であるとし、「各個々人の革命運動に対するかかわりあい方を問題にしなければならない」と表明[3]。赤軍派メンバーは夕食後に遠山を、森は行方を批判。

12月7日 - 共同軍事訓練最終日。全員が軍事訓練の感想を言い、感激した意見が続き、「全体に団結の雰囲気が盛り上がった」[5]。森は自身の生い立ちから第2次ブントにおける敵前逃亡の総括まで長時間に渡り語る中で感極まって泣き出し、もらい泣きする者も出、坂口も胸を熱くしたという[6]が、永田にはその涙の理由がよくわからなかったといい[3]、坂東も泣いて感動するほど団結したとは思えず戸惑ったという[1]。永田・坂口を除く革命左派メンバーは夕方に新倉ベースを去る。森、永田に対し進藤を批判。

12月8-10日- 森は永田・坂口や赤軍派メンバーに「銃による殲滅戦」のための主体の共産主義化の必要性を説く。森による遠山と進藤と行方への批判は続き、森は3人に雪の降る屋外での射撃訓練を命じる。9日に、次回指導部会議を赤軍派都内アジトまたは革命左派榛名ベースで12月20日に開催することが決定される。永田と坂口は10日に新倉ベースを後にする。

12月14日 - 山田が上京。森は進藤・遠山・行方を山田の足跡消しに向かわせた後、植垣らに進藤たちの逃亡の警戒の必要性を説き、彼らのナイフや金銭を取り出し、弾薬を隠すよう指示[5]

12月中旬 - 是政アジトで逮捕された加藤能敬・Cが釈放される。

この間も、新倉ベースでは遠山・進藤・行方に対する総括討論と射撃訓練が続けられた。森は3人の総括を聞き、「総括しつつある」あるいは「総括しうるだろう」と判断して坂東と共に榛名ベースに向かう[4]。森は榛名ベースへ出発する際に植垣とEに、進藤たちを厳しく監視すること、遠山が植垣を「たぶらかして取り入ろうとするかも知れない」から注意することを指示[5]

12月17日 - 永田達は18日の十二・十八柴野春彦虐殺弾劾追悼一周年集会で主催者名がこれまでの「京浜安保共闘と革命戦線」ではなく「革命左派と赤軍派」になっている事[注釈 6]を尾崎から知り、これを軍に確認せずに独断で決めた革命左派獄中指導部(川島豪ら)を批判。十二・十八集会にFとIを派遣し、軍としての発言を要求することを決める。

12月20日 - 森と坂東が榛名ベースに到着。森は遠山らは総括したと報告し、小嶋和子と金子を除く革命左派メンバー(特に尾崎)を批判し、徹夜で会議を開催した。

12月21日 - 十二・十八集会に参加していたFとIが帰還し、集会での軍としての発言を合法部に拒否されたことを報告する。森はモップルを批判し、銃と連合赤軍による「共産主義化」の追求の重要性を発言。これに共感した永田は赤軍派と革命左派が「我々になった」と発言し、森もこれに同意。両派の合同する路線が定まった。永田は「我々になった」ことを受けて森に革命左派のメンバーを指導することを要望し、森はこれを承諾。「我々になった」ことが公にされた全体会議において一人一人が発言する中で小嶋が「2人の時(印旛沼事件において脱走メンバー2名を殺害したこと)にいてよかった」と発言し、森は小嶋を批判。この時、印旛沼事件に関しては実行メンバーと幹部を除く大半の革命左派メンバーがその存在を知らなかった。

加藤能敬とGが夜に榛名ベースに到着し、大槻・Gの連名と加藤能敬・Cの同意で十二・十八集会に関して永田ら革命左派獄外指導部への意見書[注釈 7]を提出するが、この意見書は永田に批判され、加藤能敬とGは意見書について自己批判をする[注釈 8]

山本順一が妻と子供を連れ榛名ベースに到着するが、山本は自分一人の判断で妻と子供を連れてきたことを自己批判。

永田は、加藤能敬が取り調べ中に雑談したこと、尾崎充男が警察によるベース発見を懸念して銃の埋めてある場所の地図を救対に渡したことを聞いて2人を批判し、加藤能敬に総括を要求する。尾崎が自己批判する。

12月22日 - 森は小嶋と加藤能敬が革命左派被指導部の歌をリードしているのを問題視してこの歌を批判し、寺岡が被指導部に歌をやめさせる。夜になって、加藤能敬は取調べでの雑談を自己批判し、森に追及される。森は各自に総括を要求。指導部会議(森・永田・坂口・坂東・寺岡・吉野。23日から山田も加わる)は未明前に終了。

12月23日 - 朝、指導部会議が始まる。夕方、山田が榛名ベースに到着。指導部会議は夕食後に再開され、未明近くに森は小嶋と加藤能敬を批判して指導部会議は終了した。

12月24日 - 昼に始まった指導部会議で、森は革命左派の最高指導者であった川島豪を批判し、自身の七・六問題(1969年7月6日のブント内ゲバでの戦線逃亡)を総括。夜遅く、被指導部が加藤能敬のリードで歌を歌っているのを森が再び問題視し、寺岡に歌をやめさせる。森による加藤能敬と小嶋に対する批判を受けて、永田が加藤能敬と小嶋を討論させて総括させることを提案すると、森は加藤能敬と小嶋を作業から外し総括させることを決定。

12月25日 - 指導部会議において森は川島豪を改めて批判。森は加藤能敬と小嶋を別々に正座させ、食事を与えないことを決定。

12月26日 - 指導部会議にて共産主義化の観点から山田がタバコをやめると表明すると、坂口もこれに続く。森は寺岡と吉野にタバコをやめるよう指示するが、永田と森はタバコをやめないと表明。森、自身の妻子を入山させる意思を語り、山田にもこれを要求する。山田、承諾。川島豪を批判した森は、革命左派に彼との決別を迫る。

暴力による「総括援助」[編集]

12月26日 - 永田は小嶋に加藤能敬から夜な夜な変なことをされると訴えられるが、永田は小嶋にも問題があるとし[注釈 9]、指導部会議で「神聖な『我々』の場をけがした」と2人を強く批判する。森は「殴ることは指導である」と、総括のために加藤能敬を殴って気絶させることを提起。森は学生時代に剣道の試合で気絶した時に「目覚めた時新鮮な気持ちになって全てを受け入れられるような状態になった」経験を話し、加藤能敬にもそれが可能であることを強調した。森が加藤を殴ると宣言すると、吉野と寺岡も加藤を殴ると宣言した。これを受けて森は坂口と坂東に小嶋を殴るよう指示するが、永田は「小嶋は女が殴るべき」と主張。その上で「私は思いっきり殴れそうにない」と言った永田に、森は「それはそれでいいから」と答えた。山田が森に殴る意義を再度確認。森が共産主義化を勝ち取るための新しい指導であることを主張すると山田はこれを受け入れた。こうして加藤能敬と小嶋が殴られる事が決定され、指導部及び被指導部による2人への殴打が始まる。永田は小嶋や実弟である加藤倫教加藤元久にも加藤能敬を殴らせる。呆然としたまま動けない加藤倫教に対し、永田は1971年3月に加藤倫教が他メンバーらとともに大阪で無抵抗のまま逮捕されたことを持ち出し、これを克服するためにも「殴らねばならない」と言ったという[7]。しばらく殴られた後で正座させられた小嶋はトイレに行くことを希望するが、森はこれを認めず、小嶋はその場で排泄させられた。加藤能敬への追求と殴打は夜が明け始めるまで続き(結局2人が気絶することはなかった)、加藤能敬は坂東と寺岡と吉野に縛られる[注釈 10]。永田は加藤能敬と小嶋に食事を与えるように指示を出す。

12月27日 - 加藤能敬を批判した森は束縛を総括に集中させるためと説明し、殴ることを「同志的援助」と位置づけ、小嶋と尾崎の批判も行った。他にも小嶋を批判する者が数名いた。加藤倫教が「殴るということではなく、他に総括させる方法はないだろうか」と述べると、永田は「他に方法があるなら言ってよ」とこれを即座に撥ねつけた[7]

吉野は1970年に組織の金を私的に使ったことを告白し、自己批判。KとHが昼前に大槻を連れ榛名ベースに帰還すると、大槻は意見書について自己批判。

指導部会議が始まると、森は革命左派に川島豪との決別・暴力的分派闘争を迫り、革命左派は川島豪との決別・分派闘争を受け入れ、「新党」の結成を確認した。川島との結びつきが強かった坂口は最後までこれを受け入れられずにいたが永田の促しによって最終的に承諾した[3][8]

森は夜の全体会議で加藤を殴る際に「よくも俺のことをプチブル主義者と言ったな」と言った尾崎を「同志的な対応のあり方ではない」として批判。吉野は加藤殴打の際途中から殴るのをやめたことを森に指摘され、吉野が森に「自分も同じ問題があると思った」というと、森は「だったら余計殴らなあかんやないか」と言った[2]。未明まで続いた指導部会議で、新倉ベースの元赤軍派メンバーを呼び寄せる事に決まった。

12月28日 - 森は小嶋の束縛を決め、小嶋は朝食後に束縛される。森は永田に対して小嶋がガラス戸を見ているのは逃げることを考えているためだと断定し、それを見抜けていないとして永田を批判。

坂東・寺岡・山本が新倉ベースへ出発。

夕食後の全体会議で、尾崎は十二・十八闘争で日和った事、軍が逮捕された時のことを想定して銃の隠匿場所を合法部メンバーに教えたことを森に追及され、自己批判して正座する。全体会議後の指導部会議は朝まで続き、森は尾崎が銃の隠匿場所を教えたことを敗北することを前提とした敗北主義として批判し、尾崎の闘争歴から日和見主義を問題視した。

12月29日 - 森は尾崎の日和見主義克服のため十二・十八闘争に見立てて尾崎を警官役と決闘させることを提起。この警官役に坂口が名乗り出て決闘が行われるが、尾崎がほぼ一方的に殴り返され続ける形で決闘は終了。森は「よくやった」と尾崎を評価するが、これに「おやじさん(森の愛称)ありがとう」と答えた尾崎を永田は「甘えるな」と批判。この決闘の最中に金子がその場を離れたため、森が決闘後にそのことを追及すると、金子は「あんなことしても尾崎君が立ち直るはずがないから」と反論した。

その後行われた指導部会議の最中、尾崎が大槻に「ちり紙をとって」と言ったのを聞いた森は「甘えている」と批判。「総括する態度ではない」として指導部全員で尾崎を殴り、立ったまま総括させる。この頃には「暴力的総括援助」を課せられたメンバーに対する総括進展状況の判断基準に肉体的限界状況下での「態度」に重きが置かれるようになっており、事件の終結までこの観点は維持された[4]

森は尾崎の「決闘」時に加藤能敬が「頑張れ!」と励ましていたことを評価し、彼の総括を聞く。加藤はかつての自分が日和見主義であったこと、女性同士に対するこれまでの言動は革命戦士として許されることではないと自己批判し、縛られてから何度かロープを解いて逃げることを考えたが、今では革命戦士になる決意であることを森に語る。森は加藤が「逃亡を考えた」ことを問題視し一層厳しい態度をとる必要があると考えたという[4]

森、買い物に出かけていた大槻が美容室で髪を切ってきたことを批判し、大槻はこれを受けて自己批判。Hは「革命戦士として自立するため」として寺岡との離婚を表明し、森はこれを評価する。金子も吉野との離婚を表明するが、永田に反対される。

(新倉ベース)坂東・寺岡・山本が新倉ベースに到着。坂東、赤軍派メンバーに赤軍派と革命左派による新党の結成を報告し、榛名ベースへの移動を促す。遠山・進藤・行方の総括が完了していないという山崎の発言を受けて寺岡の提案によりその場で各々の総括を検討することにする。3人の総括を聞いた坂東と寺岡は「基本的に総括できている」と評価し、坂東と山本が3人を連れて榛名ベースに出発。植垣と山崎は指紋消しのため新倉ベースに残り、寺岡とEは任務のため上京。

12月30日 - 午前の指導部会議において尾崎の見張りをしていた吉野が「何度も横にならせてくださいと言うなど総括をする態度ではない」と報告。森は尾崎を縛ることを提起し、森と指導部は尾崎を殴り、彼を立たせて縛る。夕方の指導部会議の後に全体会議。

午後、加藤能敬の腕にロープで長時間縛られていることによる水泡が出来ているのを見た森は動揺するが、山田との相談の末、「腕の1本や2本なくなっても革命戦士になったほうがよい」と再び態度を硬化。

加藤能敬と共に逮捕されていたCがGとFに連れられてベースに帰還。Cは取り調べ中に刑事が出した食べ物を拒否せず飲食したことを自己批判。永田はCに対してその夜の総括中の者の見張りを永田とともにすることを命じただけで、それ以上の追求はしなかった。加藤倫教は加藤能敬とこのCへの扱いを比べて不公平に感じたという[7]

相次ぐ「敗北死」[編集]

12月31日 - 夕方、メンバーが食事の準備をしている傍らで尾崎が「すいとんすいとん」とつぶやくのを聞いた森は尾崎を批判。尾崎の腹部を殴り気絶させることを提起するが、森達に腹部に膝蹴りをされた尾崎は気絶しなかった。膝蹴りを中止した後、森は尾崎が気絶しないことを批判したが、その日の夜、尾崎の死が確認される。最初の犠牲者。森はその場で全員に報告することはせず、山田と協議した結果、尾崎の死を「総括できなかったところの敗北死」とする。森は永田に尾崎の「敗北死」を全体会議で報告させることを決定。永田は2人が聞いているところで尾崎の死を話すべきでないとの判断から加藤能敬と小嶋を小屋の外に出すことを提起し、加藤能敬と小嶋は小屋の外に出され、屋外の木に縛りつけられた。森は尾崎の遺体を埋める吉野の補助としてFを、屋外に縛った加藤と小嶋を見張る山田の補助としてGを指定。FとGには尾崎の死と、事件に関与したメンバー[注釈 11]と幹部しか知らなかった革命左派の脱走メンバー殺害(印旛沼事件)が伝えられた。Gは印旛沼事件の被害者の1人であるPとは中学時代からの友人であり、尾崎とは大学の寮の同じ部屋で面倒を見てもらっていた関係であったため、親しかった人物2人の死を同時に聞かされたことになり、大きなショックを受けたという[9]

永田が尾崎の「敗北死」を全体会議で報告。「彼の敗北死を乗り越えて前進する決意を我々自身がより固めていかなければならず、食事が食べられないということもあってはならない」として全員で食事をとった。

坂東・山本と共に遠山・行方・進藤が榛名ベースに到着。坂東が遠山らのことを森に報告すると、森は「甘い」と坂東を批判。森は坂東に対して進藤は逃げようとしていると断定的に語った[1]。森の目には、進藤は「縛られている三名の事を気にして態度に落ち着きがなく」、遠山は「旧革命左派の女性同士に対するライバル的な態度が抜け切ってはいず」、行方は「非常に神経質な様子で軽いノイローゼ的な様子」に見えたという[4]。森は榛名ベース到着時に「3人は総括した」と言った前言を翻し、「全く総括できてない」と批判するが、永田と坂口は同意しなかった。

1972年1月1日 - 「ベースに来てから縛られているメンバーや戸口の方ばかりを見て落ち着きがなかった」[4]進藤を森は追求。進藤の総括要求の討論が始まる。森は進藤の問題として、赤軍派に加わる前の「ルンペンプロレタリア的無政府的体質」からの脱却が図れていないこと、数々の女性問題、中でも赤軍派坂東隊の準メンバーとして進藤が活動に加わらせたNが進藤との組織脱走や警察への引渡しを図ろうとしたことに対し没主体的であったことを指摘した。進藤が自ら「縛ってくれ」と言うのを森は「我々は自らの意思で縛るのだ」と拒否し、両手を後ろ手に縛った上で指導部の者や被指導部の者と一緒に進藤を殴る。殴られる過程で進藤は「革命戦士になるためになんでこんなことが必要なんだ」と異議を唱えるが、森は「何故こうされているのかよく考えてみろ、頑張って総括するのだ」と言って顔や腹部を殴り、やがて進藤は「頑張ります」と言って殴られるままになった。森は遠山と行方にも進藤を殴らせる。躊躇した遠山が森らに迫られて進藤を殴ると、進藤は「ありがとう」と言った。夜明け後に進藤への殴打は終了。森は坂口と坂東らに加藤能敬と小嶋が縛られている屋外に進藤を縛らせた。森は吉野の進藤に対する暴行を見て「やっと、すっきりしたみたいだな」と褒め、吉野は「総括姿勢あり、とみなされた」と考え安堵したという[2]。その直後、進藤の死が確認される。2人目の犠牲者。進藤は死の直前に「もう駄目だ」と言ったといい、森は進藤の死を革命戦士になる気力すらなくなったことによる「敗北死」として、全体会議で永田に報告させる。森は会議の後、指導部に対して「腹を殴ったのがまずかったな、これからは腹はやめよう」と発言。

雨が降ってきたことを受けて加藤能敬と小嶋はベースの床下に移される。森は小嶋の「こんなことをするんなら殺してよ」と言ったことや食事を与えた際に「また後で頂戴ね」と言った態度を批判。一方で「寒さで総括に集中できないから」と縛られていた柱に頭を自ら打ち続けていた加藤能敬を評価し、小屋の中に入れさせてから縛った。森は加藤元久と永田の「小嶋は闇を恐れる」という意見により小嶋に目隠しをさせる。その後、小嶋は様態が急変し、加藤倫教に知らされて森・山田らが小嶋の蘇生のため人工呼吸を行うが、Jによって小嶋の死が確認された。3人目の犠牲者。指導部会議で山田が「死を突きつけても革命戦士にはなれない」と森に指摘、これに対し森は「死の問題は革命戦士にとって避けて通ることのできない問題」であり「精神と肉体の高次な結合が必要である」[注釈 12]と反論、山田はこれを受け入れる。森は小嶋の死を加藤能敬だけが屋内に入れられたことによる絶望感と死への恐怖による「敗北死」と規定し、夜の全体会議で永田に小嶋の「敗北死」を報告させる。

1月2日 - 寺岡とEが東京での任務を終えてベースに帰還。

森、午前中の指導部会議で遠山と行方を批判。

Fに連れられて植垣と山崎が午後1時頃に榛名ベース到着。森は植垣と山崎に対し、榛名ベースメンバーは2人よりも「はるかに進んでおり」、2人は圧倒的に「遅れている」と言った[5]。植垣の提起した大槻との結婚について森は一旦は評価したが、永田の批判を受けて批判に転じる。山崎、女性問題と車の運転手に安住していたこれまでの活動でのあり方を自己批判。全体会議で大槻が植垣との結婚受け入れを表明。森、指導部に対し「総括よりも男女関係を優先している」と大槻を批判。その後、植垣は永田に呼び止められ、「あんた、大槻さんと結婚したいならしなさいよ。ただし、二人ともちゃんと総括してからよ」と言われたという[5]

森と被指導部による遠山への追求がはじまる。追求が詰問に変わっていく中で遠山は「死にたくない」「とにかく生きていたい」と発言。森は「我々にとって生きるとは革命戦士になって生き抜くことしかない」「『死にたくない』とはブルジョア的な死への恐怖心であり、革命戦士にとっては必ず払拭しなければならないものである」と指摘。小嶋の死体を埋めさせるという永田の提案に森は同意し、遠山が小嶋の死体を埋め行方がそれを手伝うよう指示。1月3日午前1時頃に、森・永田・加藤能敬を除くメンバーが小嶋の死体を埋めに出かけた。この道中、榛名ベースの雰囲気に圧倒されていた植垣が坂東に対して「こんなことをやってていいのか」と尋ねると、坂東は「党のためだから仕方ないだろう」と答えた[5]

1月3日 - 森、加藤能敬から総括を聞き、これを批判し総括を認めなかったものの、「自分はどの様な過酷な条件を与えられても必ず革命戦士になる」と言った加藤を評価した森は「ロープを解く日も近いだろうがそれまで頑張るように」と告げる。

寺岡、小嶋の死体を「死んでも反革命の顔をしている」としてメンバーに殴らせる。午前3時頃に小嶋を埋めに行っていたメンバーが帰還すると、寺岡が小嶋を殴らせたことを山田から報告され、森は寺岡が小嶋の「敗北死」を「反革命の死」としたことを問題視し、寺岡に総括を要求する。この件に関して坂口は後に自著において、寺岡は前日にベースに戻ってきたばかりで「敗北死」の説明を聞いておらず、そもそも「敗北死」自体を知らなかったと指摘している。[8]

遠山は「死体は恐ろしかったが、自分がそれをやらなければ死への恐怖に敗北し、革命戦士になり切れないんだ、と思って運んだ」という総括を語るが、遠山がかつて親族の死を経験していることを確認した森は「単なる死体として小嶋さんを見ていたに過ぎない。革命戦士の敗北の死として見ていたならば総括ができるはずだ」としてこの総括を認めず。小嶋の遺体の埋葬をやりきったことにより自信に満ちていた遠山の表情は森が総括を認めなかったことにより次第に暗くなっていったという[8]。森はさらに遠山に対し遠山の親友である重信房子[注釈 13]を批判。遠山も重信を批判したが、森はそれも認めず。森は「ブルジョア的な女性としてのプライドなどの属性を解体する」[4]ために遠山に自分で自分を殴るよう要求し、遠山は30分程自らを殴らされた。永田は遠山に自分で殴った顔を鏡で見させる。森は植垣・山崎・Eに遠山を縛り逃亡防止のために髪を切るよう指示。永田は朝食後の指導部会議で遠山を着替えさせることを提起し、森の同意を得られた為に遠山の縄を解き着替えさせてから再び縛った。

昼食後の指導部会議で行方を批判した森は、夕食後の指導部会議において元赤軍派の森・山田・坂東、元革命左派の永田・坂口・寺岡・吉野達による中央委員会(CC)の結成と、森・永田・坂口の3名を政治局(PB)とする事を提起。夜9時頃の全体会議で、森のCC結成と7人の立候補の構想を坂口に伝えさせて他のメンバーからCC結成の支持が得られた。この時の発言を森に批判された行方は自己批判するが認められず、森はE・山崎・植垣に行方を縛らせる。加藤能敬はCC結成を支持するが、坂口に黙らされた。

1月4日 - 森と永田は屋内に移されてから真剣に総括を深めようとしなくなったとして加藤能敬を追及。加藤が周囲を眺め回していたことから逃走を考えていると判断した森は、逃走防止のために加藤の髪を切らせた。森は逃走を疑って加藤を追及しながら殴り、立たせたまま縛った。森は中央委員会の場でも加藤能敬批判を繰り返したが、間もなく加藤能敬の死が確認される。4人目の犠牲者。実兄能敬の死に加藤元久は「こんなことをやったって、今まで誰も助からなかったじゃないか!」と泣き叫んで外に飛び出し、加藤倫教は永田の肩に顔を埋めて泣き出した。加藤倫教は兄の死を受けて、脱走も考えたという[7] 。森によって加藤能敬の死は森に逃亡が見抜かれた絶望感による「敗北死」と総括され、永田に被指導部に対して報告させる。

森による寺岡批判が行われた中央委員会は夕食後も続けられ、森は植垣とEとFとKとLを党員にする計画を告げた。

1月5日 - 午後、森は六・一七闘争で手榴弾を投げなかったことに関してEに総括を要求するが、永田にやめさせられる。夕方、森は植垣に「大槻はダメだ」と発言[5]。山田・寺岡らが死体の埋め直しに午後9時頃に出発。山田らは1月6日早朝に帰還した。寺岡は山田の「不必要な警戒心」を批判。

1月6日 - 遠山を座って縛るという永田の提案に森が同意し遠山は縛り直される。Eと植垣と山崎達は夕食後に、行方の縄をほどいて立たせてから追及するように森から指示される。追及の中で行方は「半ばあきらめ切った風に全ての事実を認め」[4]、警察に知られているアジトを非合法の仲間に教えて行かせようとしたこと、かつて逮捕された時にもう少し留置されていたら全て自供していたこと、さらに森に逃亡について問われると車で他の場所に移される時に逃走しようと思っていたことを認めた。森は逃亡防止のため行方の肩胛骨と大腿部を殴る事にして、殴る森に山田達と植垣らも続き、寺岡は行方を薪で殴った。植垣ら、森の指示により行方を逆えび型に縛る。

この行方への追求の間、遠山が「お母さん、あたし頑張るわ」「今にお母さんを幸せにするから待っててね」「手が痛い。誰か手を切って。誰か縄をほどいて」「いいの。縄をほどかなくていいの。美枝子頑張る」とつぶやく。森、縄をほどき連れて来られた遠山を追及し、他の者も続いた。永田、遠山の恋愛遍歴を追求。「今はおやじさん(森)が好きです」と答えた遠山に対し、永田は「保身のためにリーダーを好きになる」と遠山を批判、それに森が気づいていなかったことも批判。遠山を殴りつつ追及を続けた森は、遠山を「行方と同じように殴って縛」ることを指示し、遠山の肩胛骨と大腿部を殴打した山田達によって遠山は逆えび型に縛られた。森の指示によって足の間に薪をはさんで縛らせた遠山を見た寺岡の「×××××みたいに足を拡げろ」という発言に男性メンバーらは笑い出すが、永田に批判される。森は中央委員会で寺岡の発言を批判し、寺岡に小嶋の死体を殴らせた件とHとの離婚を受け入れなかった件に関して総括を要求する。遠山と行方は逃亡防止のために髪を切られる。

永田、全体会議で殲滅戦の準備のための山岳調査などを行うことを告げる。

1月7日 - 夕方の全体会議で井川・名古屋へ行くメンバーが決意を語ったが、永田が遠山の衰弱を確認したために坂東と山田が遠山の縄をほどき人工呼吸を行う。吉野も2人を手伝った。遠山に酒を飲ませるという森の指示に、永田は暖めた酒を飲ませようとするが、酒を一升瓶ごと暖めるのか飲ます分だけ暖めるかで坂口と永田が対立。坂口はこの間も全体会議を継続しようとした永田を遠山の蘇生に消極的であるとして批判するが激昂した永田に反論されて逆に自己批判を要求される。これに対し坂口は「CCを辞任したい」というが受け入れられず、結局永田への批判を撤回し謝罪する。その直後、坂東達により遠山の死亡が確認(5人目の犠牲者)されたために全体会議を中断して中央委員会議が行われ、遠山の死は森によって「敗北死」とされた。全体会議は夕食後に再開され、永田は遠山の「敗北死」の総括をした。

金子は「吉野の足を引っ張っているから」と吉野と離婚する事を告げたがその必要はないと永田に否定される。永田は「頭がよすぎることがかえってマイナスになっている」「無意識に男に媚びている」と大槻を批判、総括を要求する。植垣は金子と大槻を活発に活動しており、指導力もあったため、2人がなぜ評価されないのか理解できなかったという[5]

1月8日 - 山崎・山本の妻・C・I・K・O達が井川ベースの整理に、E・FがMらのオルグのために東京に、G・JがD(小嶋の妹)の呼び戻しのために名古屋にそれぞれ出発。Fはこの時にオルグの対象として会った黒ヘルメンバー達を山にいるメンバーと比較して「こいつら総括することがありすぎるんじゃないか」「なんで、そういうのを連れて来いというのか」と感じたという[10]

午後、行方が「夕やけこやけの赤とんぼ」と歌い出したり、「ジャンケンポン、アイコデショ」「悪かったよー、自己批判するようー、許してくれようー」と言い出し、それを聞いた植垣は同情しつつも総括しようとする態度ではないとして「悪かったでは総括にならねえだろう」と言ったという[5]

坂口は総括への疑問・不満を永田に言うが、永田は総括は必要なこととして取り合わなかった。永田は中央委員会で坂口のこの発言を明らかにしたが、森はこれに対し何も言わなかった。

森は金子を「主婦的」、大槻を「女学生的」と批判。

1月9日 - 午前1時頃、森によって行方の死亡が確認された。6人目の犠牲者。森は朝に行方の死を報告したが、行方の死に関する会議は開かれなかった。

山岳調査の検討は昼に行われ、井川ベースの整理に行っていた山崎らは夕方に戻ってきた。夜、山田・坂東・寺岡・吉野、山本運転の車で遠山と行方の死体を埋めに出かける。

1月10日 - 山田ら、早朝に帰る。森は夕食後の全体会議でこれまでの6人の死を「高次な矛盾」と総括する。

1月11日 - 植垣とH(迦葉山へ)、吉野とK(赤城山へ)は夜明け前に山本の運転する車で山岳調査に出かける。昼の中央委員会で、森、関西のある救対メンバーに共産主義化を要求し、応えない場合は殺すという発言・仕草をし、永田に批判される。森、坂東・寺岡に日光方面の山岳調査を指示し、また寺岡に総括を要求する。

1月12日 - 早朝、坂東と寺岡は山岳調査に出発。森、坂東に寺岡の山岳調査中の逃亡を警戒するよう指示。昼、永田の毛沢東批判に森は同意したが、坂口は黙っていた。森はあるグループをオルグするために山田に上京する指示を出した。

1月13日 - 森は妻を入山させる意思を語った山田を批判。山田は森に催促され上京する。帰還したEがMのオルグ失敗等を報告。

この頃、上京してきた山田と会った赤軍派メンバーは軍に復帰するつもりで山田と話すが、山田は「今は来ない方がいい」と言い、このメンバーが入山することはなかった。彼は後に「山田さんに命を救われた」と思ったという[11]

1月14日 - 朝、森、名古屋滞在中のIらと連絡を取るため山本運転の車で伊香保に向かう。夕方、森らが帰還。森、山本の車の運転を批判するが、山本は反論。

森、改造弾の作り方をE・山崎・大槻・金子らに教える。森、永田に対して金子らが笑いながら改造弾を作っているのを批判。永田もこれに追随。

夜、会議。森は小嶋の「敗北死」を「反革命の死」としたことに関して「党内の矛盾を反革命とするのはスターリン主義である」として寺岡を批判し、永田・坂口も同意。森、永田に寺岡の活動歴を聞く。森、寺岡がかつて出した革命左派の「改組案」[注釈 14]や革命左派から赤軍派への理論的乗り移りを寺岡の「分派主義」的傾向と批判し、寺岡への総括要求を提起。永田・坂口も同意。

1月15日 - 夕方、山田が帰還。森、山田に寺岡への総括要求を伝え、山田は同意し寺岡を批判。

1月16日 - 森・永田・坂口・山田、寺岡問題をまとめ、寺岡の過去の言動を全て分派主義とする。夕方、吉野とKが帰還、ベース候補地が見つからなかったことを報告。森、吉野に寺岡への総括要求を伝える。吉野、同意し寺岡の過去の言動を批判、森・永田、寺岡への批判を強める。この頃、山岳調査中の寺岡、坂東に「総括ということがよく分からない」と相談、坂東は「総括は必要なことだと思う」と答える。[1]

「死刑」[編集]

1月17日 - 朝から午後にかけ、寺岡への総括要求についての話続く。夕方、坂東・寺岡と植垣・Lが山岳調査から帰還。森、坂東に寺岡が逃げようとしなかったか聞く。森、寺岡の総括を批判し、追及を開始。寺岡、追及への答えの中で「(永田や坂口が)逮捕されればよいと思った」と答え、これに永田と吉野が怒り、吉野が寺岡を殴る。森、寺岡を批判し、指導部メンバーへの人物評を要求。寺岡、各メンバーの人物評を語る。批評された者はこれに反発せず。寺岡、総括のために「殴ってほしい」と発言。森、寺岡の指示で殴ることを拒否。永田、寺岡を全体で追及することを提起し、植垣に他メンバーを起こすよう指示。1月18日午前1時頃、被指導部集まる。全員による寺岡への追及の中で、寺岡への殴打始まる。追及の中で寺岡は坂東との山岳調査の際に坂東を殺して逃亡しようと考えていたが坂東に隙がなかったからできなかったと答える。実際は寺岡と坂東の山岳調査の際、寺岡が眠れずにいた傍らで坂東は眠り、翌朝になってから坂東は寺岡に起こされているため、実際には「坂東を殺す隙」はあり、この発言に坂東は違和感を持ったがこのことを誰にも言わなかったという[1]。森、寺岡に権力との関係を追及するが寺岡はこれを否定。森、寺岡の足をナイフで刺し、永田とともに権力との関係を再度追及。寺岡、これを再度否定。森は寺岡の行為を「反革命」と断じ、寺岡に対し「死刑」を宣告。森は寺岡に対し「おまえのような奴はスターリンと同じだ」と言い、森が「最後に言うことはないか」と問うと、寺岡は「革命戦士になりたかった」と答えた。森がアイスピックで寺岡の胸を刺すが寺岡は絶命せず。他何人かがアイスピックで寺岡を刺すが寺岡は絶命せず。坂口、寺岡の首を締めるよう指示。午前7時頃、寺岡が絶命。7人目の犠牲者

1月18日 - 朝食後、中央委員会。森、寺岡処刑を「テロリズムとの闘い」とし、寺岡を刺した坂東・E・植垣を評価。森、スターリンを批判し、寺岡とスターリンが同じであるとする。永田・坂口・吉野、これに同意も反対もせず。夕食後、会議継続。森、寺岡処刑を「分派主義との闘争」とする。午後9時頃、全体会議。永田、森の指示で森のメモに基づき寺岡処刑の総括を告げる。森、寺岡処刑へのかかわりを発言するよう全体に対し要求。山本、元革命左派メンバーの中で唯一スターリン主義に触れる。森、指導部に対しこれまで中国教条主義に基づいた発言しかしてこなかった山本がスターリン主義に触れたことを問題視。森、大槻の寺岡処刑へのかかわりを「女を売り物にする態度」と批判。

森、寺岡の処刑に消極的だった山崎を問題視し、山崎への追及を開始。森は山崎が寺岡の追及の際に避けるような態度をとっていたことに加えて、利害を計算して動いていること、組織関係を利用して異性と関係を持ったことを批判。山崎、「自分の問題が寺岡と似ていたので、自分も殺されると思った」と発言。森はこの発言を問題視し、山崎は自己批判。森、金子・大槻・山崎・植垣に総括要求。

この日頃、名古屋の喫茶店でGがJに逃亡を宣言し立ち去る。最初の離脱者(1972年3月出頭)。

1月19日 - 午前中、中央委員会。森、山崎を中央委員会に呼び出し追及。午後1時頃、Jが帰還、山崎はGがいないことに対して「逃げたな」と発言。森、山崎に正座を指示しE・Fに山崎の見張りをさせる。J、Dと連絡が取れなかったこと、Gが逃亡したことを報告。

永田、ベース移動の必要を述べる。森、Gは警察に行かないとしてベース移動の必要はないとする。この頃、ラジオで元坂東隊メンバーのN(進藤の元恋人)の逮捕が伝わり、坂東隊がかつて高崎にアジトを設置していたことからベース移動の必要性が確認され、移動先は植垣の報告から迦葉山方面とする(迦葉ベース)。山崎、この頃までに髪を切られ縛られる。森、永田に対しベース移動の際に山崎を処刑することを示唆。永田、山崎にニセ死刑宣告を行い様子を見ることを森に提起し、森は賛成、中央委員会でも承認。森、山崎に「死刑」を宣告し、森・坂東・吉野・坂口、山崎にナイフを突きつける。森、山崎に総括要求し、縛るよう命じる。

森、山田に山本の妻と共にMのオルグ等のための上京を指示し、二人は夕方出発。深夜1時頃、坂口・坂東・吉野・植垣、山本運転の車で寺岡の死体を埋めに行く。

1月20日 - 早朝、坂口らが帰還。

昼頃、森、永田に対し「何かもう安心した様な感じで深刻な総括を要求されているという態度ではなく」[4]なっていた山崎を批判。中央委員会において森、山崎の足にアイスピックを刺し総括要求することを提起。永田・坂口、同意し、森の「寺岡の時刺さなかった奴がいる」との発言を受けて、坂口がアイスピックで刺すことを名乗り出る。森、山崎への追及を開始。坂口、山崎の足にアイスピックを刺す[注釈 15]。後に他のメンバーも追及に加わる。森、山崎に対しメンバーの人物評を要求。人物評をされた者はこれに反発せず。森、山崎への殴打を開始し、他の者も続く。追求の中で山崎はベース移動の際に車から逃げ出し警察に逃げ込もうと思ったこと、これまでの7名の死に関しては自分は縛られていたので関わっていないと言おうと思ったことを話す。森、これを受けて山崎への死刑を宣告。森が「言い残すことはないか」と問うと、山崎は「革命戦士として死にたかった」と答え、森が「本当にそうか」と問うと、山崎は「死にたくない」と答えた。これに森は「駄目だ」と答え、アイスピックで山崎の胸を刺す[5]。植垣・坂東続く。山崎は絶命せず。E・植垣、山崎をナイフで刺す。山崎は絶命せず。坂口、山崎の首を締めるよう指示し、吉野・坂東・F・山本ら、山崎の首をロープで締め、山崎が絶命。8人目の犠牲者。中央委員会。森、山崎死刑を総括し、寺岡の問題と山崎の問題が同質であることを強調。

「敗北死」・脱走・逮捕による組織崩壊と事件の終結[編集]

1月20日 - 森、金子が懐中電灯の電池を隠したと批判。午後8時、全体会議。永田、金子を懐中電灯の電池の件で追及。金子、これを否定、森は何も言わず。永田、全体会議中のタバコ制限の撤廃を提起、他のメンバーは何も言わず。永田、森の指示で山崎の死刑の総括を報告。大槻が自身の総括を行うが、永田は「頭で考えすぎ」と認めず。森・Kも大槻を批判。Kは植垣にも大槻に対する発言を求め、植垣は「総括できていない大槻さんは好きではない」と答える[5]。森、金子が内縁の夫である吉野から自分に乗り移ろうとしていると主張し、CCに対し金子を批判、他のCC、被指導部も続く。森、吉野に対し金子批判を要求。吉野、「金子さんに足を引っ張られたりはしない」と金子との離婚を表明。

午後11時頃、山田と山本の妻、Mを連れて帰還。M、自己紹介。

1月21日 - 森、Mに入山の決意表明を求め、Mを評価し、入山しなかったOを批判。

中央委員会。森、ベース建設の期間(1週間)と人の割り振り(ベース建設:坂東・吉野・植垣・F・H・J・C・加藤倫教・加藤元久。ベース間連絡:E・山本。榛名ベースの荷物整理:K・山本の妻。大槻と金子は榛名ベースで総括させ、森・永田・坂口・山田は榛名ベースに残る)を決定。

中央委員会にて、森が吉野に対し金子を批判。吉野、金子を批判的に語る。

1月22日 - ベース建設メンバー、順次出発。森、永田に対し金子を批判。

1月23日 - 森、Mに対し山田を批判。夕方、Eと山本が帰還。森、ベース建設の目処について答えられなかったEを批判。森、坂口にベース建設に加わるよう提起、坂口同意。夜、坂口・山田・E・K、山本の妻運転の車で山崎の死体を埋めに行く。

1月24日 - 午前7時過ぎ頃、坂口らが帰還。ベース近くで車が路肩の溝にはまり、レッカー車で引き上げる必要があることを報告。森、同意し、運転免許を持っているMに対し、山田と共に出かけるよう指示。朝食後、山田とM、出かける。夕方遅く、山田とMが帰還、車が直ったことを報告。

1月25日 - (迦葉ベース)朝、山本が車をぬかるみにはめる。坂口が山本を批判するが、山本はこれを認めず。夜、全体会議。坂口、山本を批判・追及し正座させる。山本、「山崎君の処刑の際、私は物理的に足を抑えることを援助しただけだ、今までの事は全てCCに云われたのでやってきたが、総括できない。今後はついていけないと思う」と発言。この発言を他メンバーも批判・追求。坂東と吉野、山本を見張る。

(榛名ベース)午前8時頃、車調達のため山田上京。森、大槻が懐中電灯の電池を隠していると主張、永田に荷物を調べさせるが見つからず。森、金子がタオル・さらしを大量に持っていると主張、永田に荷物を調べさせるが見つからず。夕食後、森、大槻と金子を追及。森、大槻の総括を認めず追及を続ける。金子は森の批判を認めず。大槻、植垣について話そうとするが永田、これを認めず。森、大槻にP(山岳ベースから脱走したため印旛沼事件で殺害。事件直前まで大槻と恋人関係にあった)とベース逃亡後に接触していたこと[注釈 16]を追及し、大槻がこれを認めたため、永田、大槻を批判。森、金子と大槻を縛ることを提起。永田、同意も反対もせず。森、妊婦である金子がタンスに自由に寄りかかれるよう縛り、食事にも配慮するとし、永田、縛ることに同意。この頃26日夜明け。森、大槻と金子を縛る。

1月26日 - (榛名ベース)朝食後、森、金子を柱に縛る。森、大槻と金子にミルクを与える。森、金子を批判し前日の発言を翻し当面食事を与えないことを決定。森は金子に対して「出産を控えた一主婦と何ら変わらない態度をとり、妊娠や出産に対する我々の同士的な援助を逆手にとって、多く甘える、開き直る態度にでている」「妊娠の事実を自己の未総括の合理化の手段にしている」と考え、その「怒り」から「産まれ出てくる子供は、すでに彼女や某さん(引用者注・吉野)の私的な所有物ではなく、我々全体のものである」と考えるに至ったという[4]。そんな中、坂口・E・Mが帰還。坂口、山本問題を報告。森、山本を殴って縛るべきと主張。永田・坂口、これに同意。永田、坂口に大槻と金子を縛ったことを報告。昼食後、森、永田と坂口に対し金子を批判。永田、これに同意(以降、金子に食事は与えられず)。永田、大槻におしるこを与え総括を聞くが、森、この総括を認めず(以降、大槻に食事は与えられず)。坂口・K・M、迦葉ベースに出発。

(迦葉ベース)山本を一日中正座させて総括させることを決定。夜、坂口帰還後、全員で山本を追及し殴った後縛る。坂口、榛名ベースにおいて大槻と金子が総括のために縛られていることを報告。植垣、大槻との関係についてメンバーから追求される。大槻が縛られた以上自分も縛られるべきだと考え追求が終わった後も正座をしていた植垣であったが、坂東に「明日の作業があるからもう寝ろ」と促されて眠る[5]

1月27日 - (榛名ベース)昼頃、KとM来訪し、K、山本を殴り縛ったことを報告。森、小屋完成前のベース移動を提起。森、永田と連名での坂口への手紙[注釈 17]を書き、永田に見せずにKに渡す。

森、Mから高崎で山田と風呂に入ったことを聞く。夕方前、KとM、迦葉ベースへ出発。森、永田に対し風呂の件で山田を批判し、山田への総括要求を決定。

夕方、森、永田に対し金子を批判し、金子がお腹の子供を私物化していると主張、子供を取り出すことを考えなければならないとする。永田、金子への積極的な総括要求を主張し、森は同意。

1月28日 - (榛名ベース)午前中、坂口・坂東・M来訪。坂口、山本の件を報告。森は、大槻は真面目に総括しようとしているため逃亡の心配はないが、金子には総括する姿勢が見られず、逃亡の危険性があるとして、金子を殴り髪を切ることを提起。坂口・坂東・永田、これに同意。森、輪にした針金で金子を殴る。永田・坂口・坂東も続く。金子、殴打に抗議し、「私は山に来るべき人間ではなかった」と発言。森・坂口・坂東、金子を殴り、E・山本の妻・Mがこれに続く。森、金子にベース移動時に声をあげたり等しないよう要求し、金子は同意。森、金子の髪を切るよう指示。夕方、車に荷物を運び、その後大槻・金子を運ぶ。午後7時頃、M運転の車で山本の妻・森・永田・坂口・坂東・山本の子供を連れ迦葉ベースへ出発(Eは榛名に残る)。

(迦葉ベース)Mが山中に落とした運転免許証を近隣の猟師が発見し、メンバーに届ける。吉野・植垣らは猟師から警察にベースの存在が知られる懸念について話しあう。警察が来た場合は「殲滅戦」を行うことでメンバーは合意。吉野は猟師が来た場合も警察が変装している可能性もあるとして「殲滅戦」の対象とすべきと主張。29日午前1時頃、森ら迦葉ベース入り口に到着し、迦葉ベースメンバーの「殲滅戦」計画を知る。森、「殲滅戦」計画について吉野を批判し、吉野は釈明。

1月29日 - 森ら迦葉ベースに移動。山本・金子・大槻、小屋の床下に縛られる。森、山本に対し「総括もできず自殺もできないのか」と言い、山本は舌をかもうとする。永田、金子と大槻に総括要求し大槻は同意。森、Eに山本の様子を見させ、山本に水を与え猿轡をさせるよう指示(山本は水を飲まず)。午後11時過ぎ、中央委員会。森、山本の件について坂口らに報告。

1月30日 - 夜中のうちに山本死亡。9人目の犠牲者。森、山本の死を「敗北死」とする。永田、森と坂口に山本への総括要求と死について山本の妻に説明することを提起、森ら同意し山本の妻に経緯を説明。中央委員会で山本の「敗北死」を確認。

森、迦葉ベースに来てから総括に真面目に取り組まなくなったとして大槻を批判し、他のCCも同意、永田は同意も反論もせず。森、山田がMと風呂に入ったことを批判し、山田への総括要求を決定、他のCCも同意。

夕方、永田、大槻に睨まれたと会議で主張。森、大槻を殴ることを決定し、他のCCも同意。永田、植垣とH(大槻と旧知の仲であった)に大槻を殴らせることを提起し、森は同意。永田、森の指示で被指導部に大槻の殴打決定を伝え、大槻を批判、植垣とHに大槻を殴るよう要求。植垣ら、大槻が縛られている床下に向かい、大槻が既に死亡していることを確認。10人目の犠牲者。森、大槻の死を殴打決定の声が聞こえたことによる「ショック死(敗北死)」とする。永田、森の指示で大槻の「ショック死」を全体に伝える。

1月31日 - 早朝、KとM、山田を連れて帰還。山田、車のカンパに失敗したこと等を報告。森、カンパ失敗を問題視し山田は反論。森が山田に対してMと風呂に入ったことを問題視すると、山田は「未だ革命戦士化し切っていないメンバーを風呂に入れるべきではなく、自分一人で行くべきだった」と発言。森はこの発言を官僚的であるとして批判。山田はこれに対して「僕は官僚的でも傲慢でもなく真面目だと思っている」と反論。森はこの問題について総括を要求し追及を終える。

森、金子を権威主義的であると断定して「女寺岡」と批判し、お腹の子供がおりてしまわないか調べることを主張。夕方、看護学生であるCらと医大生であるEが金子のお腹を調べ、床下に戻される。

2月1日 - 朝食後、坂口・坂東・吉野、Mの運転で山本・大槻の死体を埋める場所を探しに出発。夕方前帰還、埋める場所を見つけて穴を掘ったこと、警察が大勢いたこと、指名手配のポスターが大量にあったことを報告、この日の死体の埋葬は行わず翌日坂東が様子を見にいくことを決定。

森と永田、山田の総括を聞く(永田は途中で退席)。昼近く、森、永田に対し山田が話の途中で逃げたと言う。昼食後、森、山田を批判し、森と山田は無言で対立。

森、「金子が総括しない時には子供を取り出す必要がある」と話し、いざという時は自分が子供を取り出すと言う。永田と吉野、子供を取り出すことへの参加を表明。森、子供を「組織の子として育てる」とする。永田、金子を小屋に入れ食事を与えることを提起し、坂口らも同意。夕食後、永田、森の指示により、被指導部に対し金子を批判、いざという時は子供を取り出すことを告げる。E、この計画に異議を唱えるも取り合われず[8]。永田、女性らで金子の体をきれいにすることを提起、金子の縄をほどいて部屋に上げ、体をふき新しい服を着せ、土間に縛る。

中央委員会において森、山田を追及。森、山田の赤軍派復帰[注釈 18]を繰り返し追及。山田、CC辞任を申し出る。森、山田のCCからの除名を告げ、山田、こたつから出て正座する。森の山田への追及続く。

2月2日 - 森、Eに金子のお腹の子供について質問し、婦人科の医学書を買ってくるよう指示。この間金子、永田にミルクを要求、永田は金子を殴りミルクを与える。

森、山田が総括できていないとし、以降山田に食事を与えず。朝食後、中央委員会。森、山田を批判。午後、中央委員会。森、山田を批判し、雪の上に座らせることを提起、永田・坂口・吉野、同意。森ら、雪の台を作り、その上に山田を正座させる。これを見た植垣が思わず「またか」と言うと、側にいたEも「いやだなあ」と言ったという[5]。夕方、森、山田が総括しようとしていないとし、小屋の中に入れることを提起、永田らは同意、山田を小屋の中で正座させる。森が山田を総括しようとしていないと批判すると、永田は山田に薪拾いをさせることを提起。森、山田の総括は「0.1パーセントの可能性」とし、一日水一杯で薪拾いをさせることを決定。森、植垣とEとCに山田を24時間監視させることを決定。EとCが山田の監視を開始。夕食後、永田、森の指示で山田への総括要求について全体に話す。森、山田の問題を指摘。森、山田にCCからの除名を伝え、一日水一杯で薪拾いをするよう通告。

午後10時、坂口・坂東・吉野、M運転の車で山本と大槻の死体を埋めに出発。午前4時頃、坂口らが帰還し、森・永田・坂口の大きな指名手配署が随所に大量に張ってあったことを報告。

2月3日 - 朝食前、森、E・H・Mに榛名の残りの荷物の運搬を指示、またEに婦人科の医学書の購入を指示。朝食後、Eら出発。

森、山田に水一杯を与え薪拾いを指示、植垣とK見張りにつく。中央委員会。森、車のカンパの必要性を強調。昼過ぎ、坂東、山田らを迎えに行く。森、Kと植垣から報告を聞き、山田が総括できていないとする。

金子、トイレを要求し、永田は金子をトイレに行かせることを提起。森、黙る。永田、金子をトイレに行かせることを繰り返し提起し、森はこれを認める。永田とCら、金子の縄をほどくが間に合わず。永田ら、金子の下着を替え柱に縛ろうとするが金子は立てず。永田、金子を寝かせることを提起。森、金子が敵対することを考えなければならないとし、金子を寝かせて縛る。

夕方、坂東と植垣、山田を連れ帰還。森、坂東と植垣からの報告を受けて山田が総括しようとしていないとし、山田を殴り、逆えびに縛ることを決定。森、山田を追及し、殴る。他のメンバーも続く。E・H・Mが帰還、追及に加わる。金子の様子が変わり、永田と森、金子の様子を確認。山田への追及と殴打を再開。森、山田の総括の可能性が0.01パーセントであるとし、植垣らに山田の束縛を指示。皆で山田を縛る。

夜、吉野は永田から金子にミルクを与えること、森から金子の見張り役2組を決め夜番をさせることを指示される。吉野がこれを受けて被指導部メンバーに対して夜番をするよう呼びかけると、見張りをされる当人であるはずの金子が名乗りを上げ、吉野は戸惑うがすぐに森らの目を意識して「うるさい、黙ってろ」と一喝。その後決まった2組に対してどちらが前半をするかじゃんけんで決めさせようとすると、金子がじゃんけんが行われる傍らで「じゃんけんぽん、あいこでしょ」と声に出した。動転した吉野は冷静を装いメンバーに指示を出して寝床に入った。吉野が金子にミルクを与え忘れていたことに気づいたのは翌朝、金子がすでに死亡してからだった。[12]同じ日、寝ようとしていた植垣は金子に「植垣君、ミルクちょうだい」と言われたが、すでにミルクは与えられたものと思っていた植垣は「うるさい、早く寝ろ」と言って寝てしまったという[5]

2月4日 - 午前6時半頃、坂口ら、金子が既に死亡していることを確認。11人目の犠牲者。森、金子のお腹の子供を取り出すことを断念、金子が自分に対して死ぬことを隠していたと批判。森、「子供の私物化と闘えなかった」、「子供の私物化を許したのはCCが躊躇したから」としそのことを自己批判すべきとする。永田、森の指示で被指導部に対し「子供の私物化を許したのはCCが躊躇したから」ということを自己批判。

朝食後、中央委員会。永田、山田の総括について「食事の有無は総括に関係ない」「丸太敷きの上に逆エビでは厳しすぎる」と主張。坂口ら賛同し、山田を柱に縛ることとし、食事を与える。

夕方、森と永田、車と資金の調達のため東京に出発(以後、15日まで都内アジトに潜伏)。深夜、坂東と吉野と植垣、金子の死体を埋めに出発(運転M)。

2月5日 - 早朝、坂口・山田・山本の妻・Cを除くメンバー、榛名ベースの解体に出発。

2月6日 - (迦葉ベース)午前、Cと山本の妻、荷物を取りにベースを出発。直後に山本の妻脱走(1972年3月出頭)。

Cから報告を受けた坂口は山本の妻が子供の奪還のために警察とベースに戻ってくることを警戒。坂口は山田に対して警官が来たらどうするかを問い、山田は「手製爆弾を投げて自爆する」と回答。これに対し坂口が「なぜ『銃を持って闘う』といわないんだ」と反論すると山田は「銃を持って闘います」と答え、坂口はこれを受けて「総括は終了した」として山田の縄を解き、銃を渡す。山田の手足は凍傷により動かなくなっていた。

夜、坂口はCに現金を渡し、榛名ベースに行ったメンバー達に妙技山に移動することを伝えに行くよう要請。C、山本の子供を連れて榛名ベースに出発。

2月7日 - (榛名ベース)解体を終えたメンバーは迦葉ベースへ移動を開始。バス停でバスを待つ間にFが脱走(1972年3月出頭)。

同日、榛名ベースに向かうためタクシーに乗ったCを心中目的と思ったタクシー運転手が警察に通報。保護される(翌日、友人に迎えられて警察署を出た後、翌々日に山本の子供を友人に頼み消息を絶つ。1972年3月出頭)。

(迦葉ベース)榛名からメンバー帰還。坂口、Fの脱走とメンバーがCと合流していないことを知る。坂口がEに車を借りに行くよう要請している間に山田は再び縛られる。

2月8日 - 迦葉山メンバー、妙義山へ出発。坂口、森にC・F・山本の妻の脱走、妙義山へ移動すること、山田の束縛を解いたことを電話で報告。報告中に坂東が坂口から電話を代わり、山田が「爆弾を使って自爆する」と言ったことを報告する。森は永田に対して山田の縄を解いた坂口を批判。永田が坂口との離婚を検討すべきか話すと森は「それしかないだろう」と回答[3]

2月9日~11日 - ベースの候補地を探索。裏妙義の籠沢の洞窟にベースを決定し移動(妙義ベース)。この間、山田は縛られたまま放置されており徐々に衰弱していった。

2月12日 - 山田が死亡。最後の犠牲者。山田は死の直前に「総括しろだって? ちくしょう」と言ったという。坂口、森に山田の死を電話で報告。森、山田の死を「悲しそうに伝えた」として永田に対して坂口を批判。永田、坂口を擁護するが、森はそれを批判。森、自身の妻にも問題があるとして森と永田が結婚するのが「一番正しい」と永田に告げる[3]

2月13日 - 都内のアジトに森と永田を訪ねた坂口に対して永田が坂口と離婚し森と結婚することを報告。永田は坂口に山田の縄を解いた問題を総括するように告げる。坂口、これを了承。山田の死体をまだ埋めていないことを知った森はすぐに埋めるよう坂口に要請。

2月14日 - アジト近くの喫茶店にて坂口、永田に総括についての意見を改めて問う。永田が共産主義化のために必要であるとの認識を答えると 、坂口は「俺は総括が何だか分からなくなった」と告げ、妙義山に戻る。妙義ベースに戻った坂口は、森と永田が結婚することになったことをメンバーに告げ、「自分は辛いが運動の発展のために受け入れる」と発言。[7][注釈 19]

2月15日 - 午前、榛名ベース跡地が警察に知られたことを新聞で知った森と永田は妙義山へと移動を開始。

妙義山ベースで「気がゆるんでいる」として、坂口・坂東主導による総括会議が行われる。坂口が山田の縄を解いた件に関して自己批判をした後「私を批判してほしい」と言うが、誰も発言せず。坂口に指名されてKが発言するが、後に続くものはなかった。その後、坂口が各自の総括を促し、各自自分の総括を行なっていたが、植垣が自分の総括を行なっていた際に坂口も坂東も居眠りをしていることに気がつき、「もうやめた」「みんなも寝よう」と言ってそのまま皆眠ってしまう[5]

深夜、坂口・吉野・植垣・E・Mで山田の死体を妙義山中に埋める。

2月16日 - 妙義ベースに移動中の森と永田は山狩り中の警察官に職務質問を受けるが身元が発覚することなく解放される。このことを受けて、最短距離でベースに行くルートを主張する永田と警察の山狩りを警戒して迂回してベースに行くルートを主張した森とで意見が割れたが、森が主張する迂回ルートを選択する。

同じ日の午前、坂口らも榛名ベース跡地が警察に知られたことを知り、長野県方面に避難することとする。合流地点設定のため、植垣・E・H・Mが先発隊として車で出発。坂口も森と永田への電話連絡のため同乗。その道中で警察の職務質問を受けた[注釈 20]ため、坂口は指名手配されていないHとMをこの場に残して植垣・Eと共に警察の隙を盗んで逃走することを決定。残されたHとMは車内に9時間篭城した後、逮捕された。

妙義ベースに戻った坂口らは山越えで長野県佐久市側に抜けるルートを行くことにする。

2月17日 - 森・永田、妙義ベースにたどり着くが、坂口らは出発した後だった。やがて山狩りの警察官に発見され、格闘の末、森・永田、逮捕される。ラジオのニュースでこれを知った坂口たちは驚くが、2人の奪還に向けての決意表明を行う。

2月19日 - 坂口ら、山越えの結果長野県軽井沢にたどり着く。

午前、買出しに出かけた植垣・E・J・K、軽井沢駅で逮捕される。

植垣らの逮捕をラジオのニュースで知った坂口・坂東・吉野・加藤倫教・加藤元久は逃走の末、この日の午後より、あさま山荘に管理人の妻を人質として篭城(あさま山荘事件)。

2月28日夕方、機動隊の突入により坂口・坂東・吉野・加藤倫教・加藤元久逮捕される。これにより脱走者を除く生存メンバー全員が逮捕されることとなった。

事件の発覚[編集]

警察の捜査[編集]

警官隊の山狩りの結果、山岳ベースの一つ、迦葉山ベースが発見される。焼けてしまった榛名ベースと違い、大量の証拠品が残されていた。迦葉山ベースで警察は、屎尿にまみれ、さらに切断された衣服を発見、証拠品として押収した。人間は、窒息などの死亡時、屎尿を垂れ流す。さらに、死後硬直した死体から衣服を脱がすにはナイフなどで切断するしかない。つまり、この衣服がここで「殺人」が起こった証拠品となった。

相次ぐ供述による事件発覚[編集]

2月19日、永田は弁護士に対し、「山で大変な闘争があったが、誰にも話してはいけないことで、弁護士にも話せない」とした上で、森が話してしまわないかを心配して「森さんにあのことは言ってはいけない、と伝えてほしい」と依頼。これを弁護士から聞いた森は黙っていたという。

3月5日、妙義ベースで発見された山田の衣服の写真を警察の取調べで見せられたMが山田の殺害を供述。翌3月6日には加藤倫教・加藤元久も事件を供述。3月8日、森が「遺体を遺族に返すため」として前橋地方裁判所に事件の全容を書いた「上申書」を提出。森としてはこれは裁判所に提出したものであるため、「自供」には当たらないと考えていたようであった[8]が、他メンバーの多くにとっては「黙秘」を厳命していたはずの森による「全面自供」に他ならなかった。永田は後に自著で「いかなる自供も許さなかった『共産主義化』に反することであった。(中略)共産主義化への確信の何かがその上申書を見てすぐガラガラと崩れる落ちるように感じ」[13]たと記し、坂口は「権力に対する森君の屈服とみなし、総括を主導した人物の重大な裏切りとみなした」[8]と記している。何より、森は死亡したメンバーの埋葬に一度も立ち会っていないため死体の場所を一切知らず、「遺体を遺族に返す」には他メンバーの自供が必要であり、森の「上申書」は他メンバーの「自供」を促す性質すら持っていた。[14]。これにより、植垣・Eら他メンバーの自供が相次ぎ、妙義山迦葉山榛名山麓で計12人の遺体が発見され、事件の全貌が明らかになった。こうした相次ぐ自供に森は困惑した。事件が明るみになる過程で脱走していたG・F・C・山本の妻も相次いで出頭、逮捕された。こうして生存メンバー17人全員が警察に逮捕された。警察当局により遺体の捜索及び発見現場がメディアに公開され、一部メディアにより性別もわからないほどやせ細った遺体の写真も公開された。僅か2ヶ月足らずの間に同じグループ内で12人も殺害した凄惨極まりない事件は、社会に大きな衝撃を与えた。さらに事件の全容を一部のメンバーしか知らなかった合流前の革命左派メンバーによる同士粛清事件である印旛沼事件も吉野らの供述により明らかになり、2人の遺体が発見された。

黙秘を続けていた永田・坂口・坂東も4月以降、相次いで自供を始めた。永田の自供は「同志殺害は精神異常者の犯行でなく、革命の問題だという主張をするために統一公判を要求しないと」という検察官の論理に乗せられ、統一公判要求の供述書を書いたことがきっかけであった[13]。最後まで黙秘を続けていた坂口も金子と胎児が横たわった遺体の写真を見せられたことにより、「黙秘を維持できなくな」り、「検事の取り調べに屈服」する形で供述書の執筆は拒否したものの「手記」を執筆した[8]

あさま山荘事件終結後も、日本社会党の議員や左派系マスメディアの中には、連合赤軍を擁護する主張・言動を続けていた者が少なからず見られた。しかし、あさま山荘事件とその直後に発覚した山岳ベース事件の真相と連合赤軍の実態が明らかにされるにつれて、連合赤軍を擁護した者たちの面目と社会的信用は丸つぶれとなった。かくて、左派として行動・主張してきた者たちもことごとく一斉に手の平を返し、赤軍を批判する側へと回っていった。

日本国内では、これまで新左翼運動を否定的に見ていた人間はもちろん、新左翼運動を好意的に見ていた人間も、この事件によって新左翼(極左)を嫌悪するようになっていった。それまで世論の一部に存在していた連合赤軍に同調する動きもまた、一気に冷却・縮小していった。

左翼党派の反応については、以下の通り。

日本共産党革マル派
連合赤軍を強く非難。
日本共産党および革マル派は、元々自党派以外の左翼党派を全否定しており、連合赤軍についても当初より全否定していた。
日本共産党はこの事件を中国共産党批判に、革マル派は中核派批判に利用した。
日本共産党は、街宣車で連合赤軍を非難して回るなどした。
第四インター
「大衆不在」であるとして、連合赤軍を強く非難。
中核派
沈黙を守った。
毛沢東主義諸党派
ほぼ沈黙。
革命左派(連合赤軍の母体の一つ)
一連の事件を「反米愛国路線の放棄」と総括し、自分たちの指導に従わなかったのが原因だとした。
ブント系諸党派
発言と沈黙を繰り返した。
蜂起派
激しい議論が起こり、情況派等でも議論が交わされた。
RG派
一連の事件を新左翼全体に突きつけられた自分たち自身の問題とし、連合赤軍を支持した。
赤軍派(連合赤軍のもう一つの母体)
連赤総括を巡って激論が交わされ、分裂状態に陥った。

その後・裁判経過[編集]

起訴に際して検察は「処刑」された寺岡・山崎に対するものは明確な殺意があるとし、残りの10名の犠牲者に対する殺意を取り調べの中でメンバーに追求した。結果として最初に死亡した尾崎に対するもののみ傷害致死罪として起訴され、それ以降の犠牲者に関しては死亡することが予測出来ながら暴行をやめなかったとして殺人罪として起訴された。後の裁判においてもこれが認められ、本事件は1件の傷害致死事件と11件の殺人事件として扱われた[13]

裁判においては印旛沼事件あさま山荘事件などの各メンバーが関与した事件も本事件と併せて扱われた。

1972年4月~5月 - 森恒夫は400字詰め原稿用紙500枚に及ぶ「自己批判書」を書き上げる。事件の全貌を明らかにし、事件の責任を自身と永田にあるとし、自らを断罪しようとするものであった。

5月 - 坂口弘は革命左派の準メンバーとして復帰。永田洋子は革命左派の最高指導者である川島豪による「反米愛国路線の放棄」を事件の原因に求める総括に納得できずにいながらも10月に革命左派に復帰。

10月 - 森は「権力への敗北に他ならない」として先に書いた「自己批判書」を全面撤回。

11月 - 吉野雅邦が森に促されて統一公判へ参加を表明。加藤倫教も同じ頃に統一公判への参加を表明。これにより、森・永田・坂口・坂東國男・吉野・加藤倫教の6名で統一公判が行われることとなった。

6月〜12月 - 森と坂口の間で手紙のやり取りが行われる。

坂口「君が革命左派の反米愛国路線を攻撃するのは構わない。だが、彼等に対して様々な中傷を加え、暴力の行使まで宣言したことはどんな理由をつけても正当化できるものではない」

森「反米愛国路線を放棄したから粛清を引き起こしたなどという革命左派メンバーの主張は絶対に受け入れられない」

坂口「のぼせ上がるのもいい加減にしてほしい。君は山岳ベースであれほど過酷な要求をメンバーに課して置きながら、獄中での態度はなんだ! 『上申書』は書く、『自己批判書』は書く、自供はする。こんな筋の通らないことをした君が、他組織のことをむやみに批判する資格があるのか!」

森「断固たる批判を待ちます! 君の批判については、一片の弁護もなく認めるものだと思います」(12月27日付)

1973年1月 - 森が東京拘置所首吊り自殺。統一公判の開始を間近に控えた中での自死だった。

坂東宛遺書「ぼくの『自己批判』は新党への道を擁護し、単なる『方法の誤り』とするものでしかなかった」「(引用者注・革命左派の唯銃主義などを)ぼくはあとから論理化しているのです。(中略)ぼくは党主義でそれを純化していったことに、そしてその間の君(引用者注・坂東)の意見を多く抑えてきたことに、粛清の道があったと思います。(中略)それはぼく自身のその論理化、純化、変質の決定的責任を抜きにして発せられるべき問いではないのです」「元旦になってしまいました。いい天気です。山田さん(引用者注・死亡した山田孝の妻)が入れてくださった花が美しく咲いています。一年前の今日の何と暗かったことか。この一年間の自己を振り返ると、とめどもなく自己嫌悪と絶望が吹き出してきます」

森の自殺を受けて各メンバーは後に以下のように振り返っている。

永田「森氏が死刑攻撃をはじめあらゆる非難、中傷に耐えながら、連赤問題を総括し自己批判しぬいていくという困難な闘いから逃げたと思い、卑怯だと思わざるを得なかった」[13]

坂東「『弱さ』を共にして、変革しあっていくというベクトルを持たない分、(中略)負い目を感じている森同士をそこまで追い込んでいった(中略)『指導すべき』という建前を彼におしつけ、責任をおしつけていく私のあり方が(中略)弱音や本音をはかせない構造へと組織をおいやった」[1]

2月 - 東京地裁は裁判の迅速な進行のためとして、統一公判組の審理期日を予め100回分指定。これに反抗して出廷拒否を続けた末、統一公判組の4人(永田・坂口・坂東・吉野)[注釈 21]が初出廷。坂口は統一公判で革命左派の方針に則って進めようとし、これに従わない吉野に「統一公判から出て行け!」と迫るなどし、統一公判組の中で裁判方針の齟齬が次第に浮き彫りになっていった[13]

1974年 7月 - 永田は「共産主義化」の問題に答えようとしない革命左派のあり方に疑問を感じ革命左派を離党。赤軍派指導者の塩見孝也が結成した赤軍派(プロレタリア革命派)に植垣・坂東と共に参加[13]。翌1975年には武装闘争の必然性を感じなくなっていた坂口となおも武装闘争の必要性を説く川島が反目。川島により革命左派を除名された坂口であったが、永田たちに合流することはなかった[8]

1975年8月 - 日本赤軍が起こしたクアラルンプール事件における釈放要求によって坂東が超法規的措置釈放・国外逃亡。このとき坂口も釈放要求の対象になっていたが「武装闘争は間違った闘争と結論を出しています」と出国を拒否した。坂東は現在も国際指名手配されている。

坂東がいなくなったことにより、統一公判組の対立が悪化。坂口は総括理由に触れることは犠牲者に鞭打つことになると事実関係に触れることに反対、吉野は事実は事実として明らかにし歴史の批判を受けるべきとの立場をとった。結果として吉野と加藤倫教は1977年に裁判方針の違いを理由に統一公判を離脱、分離公判で裁判に臨むこととなった。残された統一公判組において、このころから坂口が永田に対して個人攻撃をはじめる[13]

1977年9月 - 日本赤軍がダッカ事件を起こし、東アジア反日武装戦線のメンバーらと共に植垣が釈放要求の対象になるが、植垣は「連赤事件の総括のため」として出国を拒否。

1979年3月 - 分離公判組の吉野に無期懲役、加藤倫教に懲役13年の判決。

1980年7月 - 永田と植垣が塩見と訣別。塩見が事件の原因を永田の個人的な資質に求める「女性蔑視的な」総括をしたため[13]

1982年6月 - 統一公判組の一審判決。永田と坂口を死刑、植垣を懲役20年とするものだった。判決では「あくまで被告人永田の個人的資質の欠陥と森の器量不足による」とされ、「自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格とともに強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を有していた」永田の性格にあるとした。

1986年 9月 - 控訴審判決。永田・坂口は控訴棄却。植垣は懲役20年。坂口については「被告人坂口の反省の情については見るべきものがある。(中略)犯した罪の深さを自覚し、(中略)国外からの脱出の呼びかけにも応ぜず、(中略)被害者、その遺族に自らの反省の情を綴った反省の書簡を送り(中略)真摯さは疑う余地のない」とされたが、森・永田に次ぐナンバー3の立場にありながら2人を制止出来なかった責任を重く見られ、死刑判決は覆らず[8]

1993年2月 - 最高裁判決。永田と坂口の死刑、植垣の懲役20年が確定。坂口の17人の殺人への関与(本事件での12人、印旛沼事件での2人、あさま山荘事件での3人)は死刑囚としては当時の戦後最悪の数字であり、オウム真理教事件で27人殺人(司法認定は26人殺人と1人逮捕監禁致死)を犯した麻原彰晃の死刑判決が2006年9月に確定するまで破られなかった。

永田は確定死刑囚として東京拘置所に収監されたが、2011年2月5日脳腫瘍のために獄中死。 坂口は現在も確定死刑囚として東京拘置所に、吉野は千葉刑務所にそれぞれ収監されている。 なお、坂口の死刑が執行される見通しは立っていない(共犯者である坂東が逃亡中であり、その裁判が終了していないため)。

連合赤軍事件によって世論の新左翼に対する好意的な見方は一気に縮小したが、その後新左翼主流派は血で血を洗う内ゲバにのめり込んでいった。内ゲバの凄惨さは、質においても量においても連合赤軍事件をはるかに上回るまでになり、学生運動・新左翼運動は殺人と同義と見なされ世間から更に見放されるようになった。

事件の原因[編集]

山岳ベース事件における大量殺人の原因については、様々な意見がある。

「共産主義化 」[編集]

本事件において当事者たちが異口同音に証言するキーワードとして「共産主義化」がある。本事件における実質的な主導者であった連合赤軍最高幹部の森恒夫は、「銃による殲滅戦」(警官殺害・銃の強奪を目的とした交番襲撃)の遂行のため、「革命戦士の共産主義化」の必要性を説いた。「革命戦士の共産主義化」とは、赤軍派において1969年大菩薩峠事件における大量逮捕からの自供によるさらなる逮捕者が発生したことの総括として提示されていたものであり、森はその実践のために革命左派が赤軍派との合流前から自然発生的に行っていた「自己批判-相互批判」の討論形式を取り入れたのだという[4]

後に連合赤軍幹部の吉野雅邦は森が言うところの「共産主義化」された兵士像を、「警官狙撃を何のためらいも畏怖感もなく、欲求として実行でき、非情なる殺人者となり、自らの死を恐れず、どんな苦難、苦境にも平然と耐え、乗り越え、全感情を革命戦争の遂行・勝利に服属させ、一切の非革命的心情を払拭しきった『悟り』に達した戦闘員といったもの」であったと推測している[12]

森は事件直後に書いた「自己批判書」において、「共産主義化」のための総括要求の論理を、

  • 短期間に個々人の内在的総括をなし切らねばならない
  • 暴力による指導、暴力による同志的援助が必要である
  • 総括し切れない者には、命がけの状況(ロープで柱に縛りつけ、食事も与えない)を強要して総括させ、決して甘やかしてはいけない
  • 縛られた者は、たとえ片腕を失くしても革命戦士になろうとする気概をもって総括すべきである
  • 縛られた者が総括し切るという事は0から100への一挙的な飛躍である

といった論理が次々と作られていったとしているが、森に準ずる形で事件を主導していた永田洋子をはじめとして多くのメンバーが森の理論を正確に理解できないまま事件に関わっていたことが彼らの手記から窺える。総括要求されたメンバーの中には、永田ら指導部メンバーや総括要求された当人すら何が問題とされているか分からない者もいたという。

連合赤軍被指導部の加藤倫教は後に総括討論の様子をこう振り返っている。

物言えばやられるのだが、物を言わないわけにはいかない。それもどのように言えば森や永田に認めてもらえるのか、誰にも分からなかった。何が基準なのか分からない「総括」要求と暴力に、森と永田以外の者は怯えていた。(中略)その恐怖心をかろうじて押さえ込んでいたものは、革命を実現するためには「銃による殲滅戦」を行なうしかないという信念、それだけだった。[7]

連合赤軍被指導部のFはインタビューにおいて森らの追及の様子を聞かれてこう答えている。

「本人は闘えると思っているからやって来たんだから、『やります』とか答えるんだけど、そんなじゃ総括になってないと言われ続ける。具体的な問題を問うんではなくて、『あのときこう考えただろう』と訊かれて、実際はそうではないのに、何度も問われるうちに、『思ったかもしれない』とポロッと答えたら、『それがおまえの問題だ』と追及される。最終的にやってもないことを問題にされる」[10]

「連合赤軍事件の全体像を残す会」の会員として、事件の当事者との交流もある椎野礼仁は「完全な私見」として、事件の原因に連合赤軍がたまたま銃を大量に所持していたことを上げている。爆弾が「人が死ぬことの因果関係が蓋然的」で「投げれば、必ず人が死ぬわけではない」のに対し、銃は「引き金を引く時、必ず人は死ぬ、あるいは重傷を負わせることになる」ため、連合赤軍では「個人個人がその銃を撃つことができるのか」が問われ、それが共産主義化の論理と相まって悲劇に繋がっていったのではないかと指摘している[10]

連合赤軍幹部の坂口弘は「極論すれば、山岳ベース事件は、森恒夫君の観念世界の中で起きた出来事なのであった」と述べている[8]。永田らは裁判においても本事件がただの「リンチ殺人事件」や「内ゲバ事件」ではなく、「共産主義化の闘争」の結果であったことを裁判において訴え続けたが彼らの主張はほとんど認められなかった[13]

メンバーの多くが少なくとも事件当時は「銃による殲滅戦」とそのための「共産主義化」の必要性を感じていたことが各々の手記から窺える。総括対象に対する暴行も、「党の方針であるから」、「遅れている」自身を克服するため、あるいは「日和ってはいけない」との思いから加担していたという。暴行に対する疑問を抱いたメンバーも少なくなかったようであるが、異議を唱えることに対する恐怖や、「共産主義化というこの論理を僕らは突破するものを持っていなかった」(植垣)「よりよい方針が出せなかった」(F)[11]ため異議を唱えることができなかったのだという。

連合赤軍幹部の坂東國男は森を含む指導部が事件において「動揺」していたことを逮捕後の各々の手記で知ったといい、永田が自著『十六の墓標』で書いている「動揺」は事件時には気づかず、周囲には「動揺しない、感情のない鬼ババア」にしか見えなかったとし、「動揺」していた坂東自身もまた周囲には「鬼のように冷酷」に見えていただろうとしている。その上で全員が「動揺」していたのだから、誤りを修正する「真の革命の勇気」が必要であったとする。それができなかった原因に「指導者は優れていなければならない」という論理が虚勢を生み、本音を隠し、建前が横行し、失敗を他者(総括対象者)のせいにしていったことを上げている[1]

Fは、指導部における森への反論の可能性について問われ、こう答えている。

「言えたのは、赤軍の幹部だった山田(孝)ぐらいだろうけど、彼は山に入る前のところで、一度組織を離れている。だから、それを森から突かれるんだよね。 坂口も『おかしい』と態度では示しているんだけど、どこがおかしいのか言葉にはできない。山田は言えるんだけど、日和っていた弱みを持っている。もともとは、森と山田だと、山田のほうが赤軍の組織のなかでは上にいたんだけど、組織が大変なときに長期休暇をとっていたもんだから、立場が弱くなっていた。吉野は、行動力があって頑張るんだけど、論理は足りないというか。坂東は、森の用心棒みたいなやつだったし」[10]

遠山問題[編集]

多くの当事者の認識として、1971年12月初旬に行われた合同軍事演習における永田ら革命左派メンバーによる赤軍派の遠山美枝子批判が、総括要求の発端と位置付けられている。

合同軍事訓練において永田は森に対して遠山が合法時代と同じ指輪をしていたことを批判。髪型・装飾品・歩き方など、警察に覚えられやすい特徴は合法活動から非合法活動へ移る際に変えるべきだという主張によるものだった。これに対して森は「女性のことには気がつかなかった」と弁明するが、永田は「そんなの許されない」とし、森は了承した[3]。赤軍派では幹部の夫人は特別扱いされており、遠山も当時獄中にいた幹部メンバーと内縁関係にあったため、森も遠山に指摘できずにいたとされる。

翌日になっても遠山が指輪をしていたのを見た永田は全体会議の場で遠山を批判。これに追随する形で他の革命左派メンバーも遠山を批判しはじめた。

金子みちよやHら革命左派の女性メンバーも山岳ベース入山当時、永田に「あなたたち、なんでそんなに化粧に時間がかかるの?」「あなたたち、化粧を楽しんでいるのよ。自分が(異性の気を惹くように)きれいに見えるようにお化粧しているのよ」と批判されており、革命左派の女性メンバーによる遠山批判は永田により植えつけられていた「修養的な押し付け」も背景にあったという[12]

永田は男性中心の非合法活動に関わる中で、「女性としての生き方」を否定し、性差を超越し、自由恋愛を批判するに至ったといい、事件中の女性メンバーへの批判や恋愛にまつわるメンバーへの批判もそうした考えに立脚するものであったと主張している[3]。遠山も以前は永田と同様の考えで闘争に関わっていたが、女性性を否定することは「中性の怪物」による「人間味のない政治」に繋がると考えるようになり、女性らしく生きる中で人間らしさを見出そうとしていたことを永田は逮捕後に知り、逮捕前の永田自身こそ「中性の怪物」であったと考えたという[3]

この革命左派メンバーによる遠山批判は赤軍派メンバーには何が問題とされているのかよくわからなかったといい[4][1][5]、革命左派メンバーのGも理解できなかったという[9]

裁判認定[編集]

1979年石丸俊彦裁判長による判決文では、大量虐殺は「絶対的な権威と権力と地位を確保した森と永田が、その権威と権力と地位を維持確保せんとする権勢欲から、部下に対する不信感、猜疑心、嫉妬心、敵愾心により」行われたとされた。1982年の中野武男裁判長による判決文ではこれに加え、更に永田について「女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」が加わった、とした。

メンバーの認識[編集]

連合赤軍最高幹部の森恒夫は、一切の責任は自身と永田にあるとした[4]。但し後に、革命左派(川島豪ら獄中指導部を含む)に事件の原因を求めることもしている。遺書では、革命左派の誤りを自身が純化させてしまった(革命左派内では適切な党運営により誤りが純化されることは無かった)のが原因だとしている。

連合赤軍幹部の永田洋子・坂口弘・坂東國男は、いずれも事件を主導したのは森だとしている。但し、森は権力欲から総括を行ったのではなく、自身の作った総括の理論にのめり込み、そこから抜け出せなくなったのだとしている。永田・坂口・坂東は、いずれもそれぞれの立場から石丸判決・中野判決を批判している。

一方で連合赤軍幹部の吉野雅邦は「悲劇の発端」に「『下部の離反、逃亡など、革命左派を統制できなくなった』永田洋子が、他組織の森恒夫の指導力に頼っていったこと」があるとし、「暴力的総括要求」は「共産主義化」などではなく、「内部統制のための暴力に他ならなかった」としている。その上で「永田は森と等しい役割を果たした」としながら、「組織内で脆弱な基盤しか持たなかった永田の『指導者としての不安心理』」に重きを置いて「永田個人の責任にすることはできない」としている。[11]

事件の原因については、永田の他のメンバー(特に女性メンバー)に対する嫉妬が原因だとされることもある。連合赤軍被指導部の植垣康博は、当初そのような分析を行っていたが、永田にそうではないと指摘され取り下げている。Fや加藤倫教は「そういう一面を持っていた」(F)、「嫉妬のようなものがなかったとは言い切れない」(加藤)としている[10]。永田自身は遠山・大槻・金子ら女性メンバーへの追求について、自身が女性として男性中心の非合法活動を続けていく中で「女性としての生き方」を批判的に考えるようになっていったことが、「女性らしさ」を維持し続けようとしていた遠山らを批判することに繋がったとしている[3][13]

赤軍派と革命左派が両派の路線の違い(赤軍派は広義のトロツキズム、革命左派は毛沢東思想)を無視して野合したことに事件の原因を求める意見もある(植垣『兵士たちの連合赤軍』など)。これに対して坂東は、両派の路線は内実をなしていなかったとしている。[1]

加藤倫教は「あのとき、誰かが声をあげさえすれば、あれほど多くのメンバーが死ぬことはなかった」「しかし、私にはそれができなかった。それよりも「革命」という目標を優先し、それに執着してしまったのだ」と述べている[7]

Fは「主観的な行動とうすうす感じつつも武装闘争に殉じたいと思い、それを達成させるための「粛清」を違和感を感じつつも受け入れてしまった(原文)」「仲間を殺すことに耐えられなくなった時、私は脱落した」と述べている[15]


本事件に関しては、1987年に「連合赤軍事件の全体像を残す会」が元革命左派メンバーや元赤軍派メンバーが中心となって結成され、事件を後世に伝えること、犠牲者の追悼、そして事件の「総括」をすることを目的として、当事者の証言を集める活動やシンポジウム等が定期的に行なわれている。懲役を終えて出所した事件当事者である植垣やE・Fらも活動に参加して各所で事件当時のことを証言している。その一方で未だに事件当時のことを語りたがらないメンバーも多くいるという。

死亡メンバー[編集]

死亡メンバー
死亡日 メンバー 生まれ年 学籍 旧所属 総括事由(植垣) 死因
1971年12月31日  尾崎充男 1950年 東京水産大学 革命左派 敗北主義 餓えおよび寒さ
1972年1月1日 進藤隆三郎 1950年 日仏学院 赤軍派 ルンペン・プロレタリアート 内臓破裂?
1972年1月1日 小嶋和子 1949年 市邨学園短期大学 革命左派 小ブル急進主義 餓えおよび寒さ?
1972年1月4日 加藤能敬 1949年 和光大学 革命左派 防禦的、受動的、啓蒙主義 餓えおよび寒さ?
1972年1月7日 遠山美枝子 1946年 明治大学 赤軍派 古い赤軍派 餓えおよび寒さ?
1972年1月9日 行方正時 1949年 岡山大学 赤軍派 非軍事的 餓えおよび寒さ?
1972年1月17日 寺岡恒一 1948年 横浜国立大学 革命左派 小ブルテロリズム 窒息死(死刑)
1972年1月19日 山崎順 1950年 早稲田大学 赤軍派 全共闘的体質 窒息死(死刑)
1972年1月30日 山本順一 1943年 北九州大学 革命左派 外在的、日和見主義 餓えおよび寒さ?
1972年1月30日 大槻節子 1948年 横浜国立大学 革命左派 日和見主義 餓えおよび寒さ?
1972年2月4日 金子みちよ 1948年 横浜国立大学 革命左派 権威主義 餓えおよび寒さ?(妊娠8ヶ月)
1972年2月12日 山田孝 1944年 京都大学 赤軍派 官僚的、理論主義的 餓えおよび寒さ?

※総括事由(植垣)……森恒夫の行った批判の植垣康博によるまとめ。(永田洋子『続 十六の墓標』より)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ その後、その残党である5名が長野県軽井沢町の別荘「あさま山荘」に立てこもり、警察と銃撃戦を繰り広げ、警官2名と民間人1名を射殺する「あさま山荘事件」を起こすことになる。
  2. ^ 当時、この事件は両派幹部内での秘密であったが、革命左派の被指導メンバーには「処刑」に感づいていた者がいたとされている。
  3. ^ メンバーの一人は暴行を加える際に「俺のことを小ブル主義者と呼んだだろ」と口走ったことで、個人的な怨みで暴行を行っているとされ、総括要求された。
  4. ^ 脱走したメンバー4名も1972年3月中に全員警察に出頭・逮捕された。
  5. ^ 元赤軍派メンバーの証言によれば、合法部時代の遠山は元々質素な格好をしており、それが入山前の遠山に会った際にいままでしていなかった化粧をするなど見た目に大きな変化があったという。彼はこのことから遠山の山での派手な身なりは「彼女なりの偽装」だったのではないかと指摘している(連合赤軍事件を残す会編『証言 連合赤軍』)
  6. ^ 京浜安保共闘と革命戦線はそれぞれ革命左派と赤軍派のデモや勧誘活動などの合法活動を行う組織で、永田や森らが所属する非合法部隊である「軍」とは切り離されていた。ここで「革命左派と赤軍派」とされたことは軍部も含めた主催ということになり、これを独断で決められたことは彼らにとっては重大な問題であった
  7. ^ ①十二・十八集会の主催を「革命左派と赤軍派」としたことは死亡した柴野春彦が革命左派メンバーであったから当然であること、②獄内指導部(川島ら)・合法部・非合法部(永田・坂口ら)は互いに連携を深めるべきであること、③十二・十八集会で発言を拒否されたFとIが合法部に対して「分派活動だ」と言ったことを自己批判すべきであることを主張した
  8. ^ 吉野は「逮捕後知ったこと」として、加藤は完全に合法メンバーの意見に賛同し、「弟らを取り戻す」とさえ語って山に戻っていたことを明かしている(「吉野雅邦からの手紙」「実録・連合赤軍」編集委員会+掛川正幸編『若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』収録)
  9. ^ 永田の証言。坂口、坂東、吉野、加藤次男の証言では永田は加藤能敬と小嶋が接吻しているところを目撃したと言った、としている。森は以前の2人の接吻について小嶋が「そうされた」とした、としている。
  10. ^ 吉野は加藤能敬を縛るよう命じたのは永田だと証言。永田はこれを否定
  11. ^ 吉野、寺岡、A、金子、大槻、H、小嶋
  12. ^ 永田はこの「精神と肉体の高次な結合」を、総括できていれば餓死も凍死も銃で打たれても死なないと言っているようなもので荒唐無稽なものであったと後に回想しているが、当時はこの森の理論を無批判に受け入れたという(永田洋子『十六の墓標 下』)
  13. ^ 赤軍派創設時からのメンバーで、森と反目し合う形で中東に渡り、後に日本赤軍を結成
  14. ^ 永田と坂口を党の責任者から外し、永田を機関紙編集専従、坂口を合法部統括、寺岡自身を軍の委員長と党の責任者にするというもの。永田に反論されすぐに撤回した
  15. ^ 後の裁判において、最初に山崎を刺した人物を坂口と証言したのは坂口自身とEのみで、他の当事者は森が刺したと証言したという(坂口弘『続 あさま山荘1972』)
  16. ^ 大槻はこの接触の際のPの言動から警察へのベース発覚を危惧し、永田にPの言動を「共通の友人から聞いた話」として報告しPの殺害を提起した
  17. ^ 金子の子供を取り出す計画が書かれており、坂口は絶句したという。(坂口弘『あさま山荘1972』)
  18. ^ 山田は元々赤軍派の政治局員で赤軍派における当初の立場は森より上であった。その後逮捕・釈放を経て、組織をしばらく離れた後、1971年の秋に「一兵卒からやり直す」として赤軍派に復帰した
  19. ^ 植垣の手記では坂口による森と永田の結婚に関する言及があったのは2月17日の2人の逮捕をラジオのニュースで知った時とされている(植垣康博『兵士たちの連合赤軍』)
  20. ^ この時坂口たちは警察官に「アベックを見かけませんでしたか?」と尋ねられたが、森と永田の逮捕を報じるラジオのニュースを聞くまでその「アベック」が森と永田を指すことに気がつかなかった(坂口弘『あさま山荘1972 下』)
  21. ^ 統一公判への合流を希望していた加藤倫教であったが、一度却下され、この時は参加できなかった。加藤が「統一公判でなければ出廷しない」と通告したこともあり、1974年5月より統一公判に合流することとなった(加藤倫教『連合赤軍少年A』)

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 坂東國男『永田洋子さんへの手紙』
  2. ^ a b c 「吉野雅邦からの手紙」「実録・連合赤軍」編集委員会+掛川正幸編『若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』収録
  3. ^ a b c d e f g h i j k 永田洋子『十六の墓標 下』
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n 森恒夫「自己批判書」
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 植垣康博『兵士たちの連合赤軍』
  6. ^ 坂口弘『あさま山荘1972下』
  7. ^ a b c d e f g 加藤倫教『連合赤軍 少年A』
  8. ^ a b c d e f g h i j 坂口弘『続あさま山荘1972』
  9. ^ a b 連合赤軍事件の全体像を残す会編『証言 連合赤軍11ーGの証言』皓星社、2017年。※タイトルにはGの実名が入る
  10. ^ a b c d e 朝山実『アフター・ザ・レッド 連合赤軍 兵士たちの40年』
  11. ^ a b c 連合赤軍事件の全体像を残す会編『証言 連合赤軍』
  12. ^ a b c 吉野雅邦「省察ーー連合赤軍私史」連合赤軍事件の全体像を残す会編『証言 連合赤軍』所収
  13. ^ a b c d e f g h i j 永田洋子『続 十六の墓標』
  14. ^ 椎野礼仁『連合赤軍を読む年表』(2002年 彩流社)における植垣の発言
  15. ^ 『若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』朝日新聞出版、2008年。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 高沢皓司編『銃撃戦と粛清 森恒夫自己批判書全文』 新泉社、1984年
  • 永田洋子『十六の墓標 (下)』 彩流社、1983年
  • 永田洋子『続 十六の墓標』 彩流社、1995年
  • 坂口弘『あさま山荘1972 (下)』 彩流社、1993年
  • 坂口弘『続 あさま山荘1972』 彩流社、1995年
  • 植垣康博『兵士たちの連合赤軍』 彩流社、1984年
  • 坂東国男『永田洋子さんへの手紙』 彩流社、1984年
  • 大泉康雄『氷の城―連合赤軍事件・吉野雅邦ノート 』新潮社、1998年
  • 加藤倫教『連合赤軍 少年A』 新潮社、2003年
  • 椎野礼仁編『連合赤軍事件を読む年表』彩流社、2002年
  • 「実録・連合赤軍」編集委員会+掛川正幸編『若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』朝日新聞出版、2008年
  • 朝山実『アフター・ザ・レッド 連合赤軍 兵士たちの40年』角川書店、2012年
  • 大泉康雄『あさま山荘銃撃戦の深層(上)(下)』講談社文庫、2012年
  • 連合赤軍事件の全体像を残す会編『証言 連合赤軍』皓星社、2013年
  • 連合赤軍事件の全体像を残す会編『証言 連合赤軍11ーGの証言』皓星社、2017年。※タイトルには当該メンバーの実名が入るが、当項目の該当表記にならってGと表示。