トロット

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トロット
各種表記
ハングル 트로트
発音 トゥロトゥ
RR式 teuroteu
MR式 t'ŭrot'ŭ
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トロット: 트로트트롯[注釈 1])は、大韓民国の音楽のジャンル日本統治時代に入ってきた日本演歌から派生したものであり[1][2]、日本では韓国演歌とも呼ばれる。韓国ではかつて、倭色との批判や発禁処分がされていた[1][3]。「成人歌謡」「伝統歌謡」「ポンチャック」とも呼ばれる[4]

特徴[編集]

「トロット」の語源は、社交ダンスのフォックストロットFoxtrot)だが、2拍子という点を除いて、両者に関連性はないと指摘される[2]

朝鮮日報によると、2000年代以降は日本の演歌要素を減らして、新たなリズムを取り入れて歌われたものが登場し、「ネオ・トロット」または「セミ・トロット」と言われている[3][5]。その後は日本の演歌のように感情を抑えた優しいメロディ・唱法は受けず、強く押しつけるようなものが受け入れられている[6]ヨナ抜き音階など、音楽的にかなりの共通点を持っていた演歌とトロットは、この頃になると異なる特徴を持つようになり、「トロット」を「倭色歌謡」とみなす風潮は薄れていったとされる[7]

歴史[編集]

社会学者の小林孝行は、トロットの形成期を日本統治時代の1930年代と指摘している[7]。この頃、日本で作られた大衆音楽が朝鮮半島に翻案されて伝えられ、大衆音楽の形成に大きな影響を与えたという。ただし、この時点では「トロット」というジャンル名は存在せず、「流行歌」や「歌謡曲」と呼ばれていた。トロットというジャンル名が成立するのは、60-70年代としている(日本の演歌も同様で、形成期は20-30年代まで遡るが、ジャンル名が成立するのは60-70年代とされる)。

米軍政期・李承晩時代[編集]

日本による統治からの解放以降、「日帝残滓清算」という風潮の中で、それまでの大衆歌謡は「倭色歌謡」として批判の対象とされた[7]。大韓民国が樹立し、李承晩政権が誕生した翌年の1949年には、倭色歌謡と低俗歌謡を退治し、愛国精神を鼓舞する歌を普及させる目的で「国民歌謡普及運動」が展開され、1953年には遊興施設における日本のレコードの使用が禁止された[8]。さらに、1956年には文教部と国民皆唱運動推進会の共催で「倭色風歌曲排撃、啓蒙講演会」が開催された[7]

また、1950年6月25日の北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国の南侵によって勃発した朝鮮戦争により、国土は壊滅的な打撃を受けた。朝鮮戦争中は軍歌が流行したが、1953年7月27日朝鮮戦争休戦協定署名後には北朝鮮へ渡った作曲家・作詞家などに対して「越北作家」のレッテルが貼られ、彼らの作による『断髪令』・『有情千里』など多くの歌が発禁処分となった。これは1988年まで続き、著名曲でありながら公の場では歌えない歌謡曲が多く存在することとなった。

こうした中でも、アメリカ軍政期の1947年にデビューし、「新羅 달밤」(新羅の月夜)を大ヒットさせた玄仁(ヒョン・イン / 현인)が活発に音楽活動をしたほか、1954年には、イ・ヘヨン(李海燕 / 이해연)が「断腸のミアリ峠」(단장의 미아리고개)が大ヒットさせた。さらに、1957年にはエレジーの女王・イ・ミジャ(李美子 / 이미자)がデビューし、後に彼女は韓国歌謡界の女王として君臨することとなる。1959年ごろから、韓国においてもSPレコードからLPレコードの時代となり、従来は比較的身分の低い低学歴の職業と目されてきた歌手界にも、大学卒の歌手が出現するようになり話題となった。

なお、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁による占領統治が解除されても、依然として在韓米軍は数多く駐留したままで、この頃、米軍キャンプを回るジャズ歌手なども多く登場している。

朴正煕時代[編集]

1961年5・16軍事クーデターで朴正煕が国家再建最高会議議長に就任しに就任した。同年は、ハン・ミョンスク(韓明淑 / 한명숙)の「黄色いシャツの男」(노란 샤쓰의 사나이)が大ヒットしたほか、フランスのシャンソン歌手イベット・ジローや日本の浜村美智子によってカバーされた(浜村のカバー曲は1972年、「黄色いシャツ」の名で一部に朝鮮語の歌詞を残したまま発表され、ヒットを記録した)。またこの頃、反共ラジオドラマによって「涙の豆満江」がリバイバルヒットしている。

1962年に朴正煕は大統領に就任すると、国内の文化界に強い圧力を加えだし、1975年にはビートルズなどの曲が共産主義色彩をたたえるという理由で総222曲が発行禁止処分にされたりした。また、1965年には韓国で初めてレコード販売が100万枚を超えた李美子の「つばき娘」を倭色として放送やレコード販売を禁じる発禁処分されたりした。背景には世論の反発を押し切った同年の日韓国交正常化で高まった韓国国民の反日感情を宥めるためと噂された[1]

1967年、南珍남진)による「カスマプゲ」(가슴 아프게)が大ヒットした。同年には、後に国民的歌手となる羅勲児もデビューを果たしている。1971年にはフォークデュオのラナエロスポ(라나에로스포)による「サランヘ」(사랑해)が、1973年にはパティ・キムによる「離別」が大ヒットし、両曲の作曲家を手がけた吉屋潤の名を高めた。特に「離別」は、北朝鮮の金正日総書記の十八番としても知られている。1976年にはチョー・ヨンピルによる「釜山港へ帰れ」が大ヒットする。

1977年には李成愛が日本語に訳したトロットを日本でヒットさせた。従来にも菅原都々子による「連絡船の歌」のヒットや、平壌出身の歌手である小畑実の人気などスポット的に韓国歌謡の日本でのヒットはあったものの、本格的なトロットの日本への紹介は李成愛が初めてであった。李成愛の成功は、チョー・ヨンピルや羅勲児らの歌うトロットの日本進出をもたらし、近年の韓流ブームほどは爆発的でないにせよ、第一次韓国ブームともいえる現象を引き起こし、韓国歌手の名前が日本にも浸透するようになり、後にキム・ヨンジャ桂銀淑などの韓国人歌手が日本に進出・定着する礎となった。また、「黄色いシャツ」・「離別」・「カスマプゲ」・「釜山港へ帰れ」などの数々のトロットを日本人演歌歌手が競ってカバーするようになり、日本でも大ヒットすることとなった。

1980・90年代の動向[編集]

1979年に朴正煕大統領は暗殺され、1980年からチョン・ドンファン大統領が就任した。1980年代に入って一時復活の兆しが高まったものの、その人気は長期的に見て凋落傾向にある。

ことに1990年代以降は、ソテジワアイドゥルなどに端を発する、従来のトロットの流れを全く汲まないグループやアーティストによる洗練されたダンス曲・ポップロック・バラードなど、いわゆるK-POPが若年層を中心に絶大に支持され、トロットはすっかり中高年世代限定の歌というイメージになってしまっている。しかし、ヒョンチョルテ・ジナソン・デグァンソル・ウンドのトロット四天王が登場し、一定の存在感を示している。

日本においては、1990年代半ばに幻の名盤解放同盟電気グルーヴ李博士を紹介すると一気にテクノファンに浸透、ポンチャック・ブームを巻き起こした。

2000年代以降の動向[編集]

韓国ではドライバーが好んで聞くジャンルの音楽で、高速道路サービスエリアの売店でCD、カセット集が販売されていたり、交通情報専門ラジオ局である「交通放送」や「KBS2R(KBS happy-fm)」、「MBCラジオ(MBC標準FM)」などのラジオ局では、昼間の時間帯を中心に多くのトロット曲がオンエアされている。2000年代以降、ラジオ番組からトロットは減少する傾向にあり、いくつかの番組やトロット枠(KBS2/happyfmの午前11時台)などが消えている一方、WBS円音放送は仏教系の宗教局でありながら、積極的にトロット番組をオンエアしている。

2004年にはチャン・ユンジョンの「オモナ(어머나)」が老若男女を問わず記録的な大ヒット。トロット曲としては1993年のキム・スヒの「愛慕」以来12年ぶりに地上波音楽番組で1位を獲得した。「オモナ」をCMソングに起用したLG電子の携帯電話MP3ミュージックフォンは「オモナフォン」と呼ばれた[9]

2005年発売のパク・サンチョルの「無条件」が大ヒット。同年開催の「第2のチャン・ユンジョンオーディション」優勝者の「トロット王子[10]」ことパク・ヒョンビンらと共に新世代トロットとして注目を浴びる。

2009年に、ガール・グループ出身のホン・ジニョンがトロット歌手に転向してデビュー曲「愛のバッテリー」で成功を収めた[11]

2014年春、Mnetがプロ・アマ参加のトロット歌手オーディション番組「トロットX」を放送。ナミエ朝鮮語版チョ・ジョンミンらを発掘する[12][13]

2019年春に、朝鮮放送(TV朝鮮)でプロ・アマ参加の女性トロット歌手オーディション番組「明日はミス・トロット」が放送され、同時間帯1位の視聴率を記録するなど好評を博した[14]。ちなみに同番組名でのトロットのハングル表記は英語の「trot」の発音に近い「트롯(トゥロッ)」である。 2020年春に後続番組「明日はミスター・トロット」が放送され、視聴率30%台に到達するなど人気を博し[15]、両番組の上位入賞者らが歌手としての人気とは別に企業広告・商品モデルに抜擢されるなどの人気を呼ぶ[16]

2019年4月、社団法人大韓歌手協会と韓国音楽実演者連合会が共同で、低迷する韓国歌謡界活性化のための公聴会を開催し、喫緊の課題として「トロット」に代わる名称を探ることが提案された[4]

歴代のトロット歌手[編集]

1950年以前デビュー[編集]

  • イ・エリス(李愛利秀/ 이애리수
1930年20歳でデビューし、1932年に高麗時代の旧都である開城を舞台にした『荒城의跡』(荒城の跡)が朝鮮盤(朝鮮語版レコード)初の大ヒットとなった。同年、日本においても李アリスの芸名で西條八十の詞による『あだなさけ』などを発表した。私生活においては恋愛にからむ人間関係不調を苦にして2度の自殺未遂を起こすなど波乱の人生をおくった。
  • チェ・ギュヨプ(蔡奎燁 / 채규엽
1930年デビュー。1932年に『酒は涙か溜息か』・『希望の丘(丘を越えて)』・『影を慕いて』など日本の流行歌を朝鮮語訳して歌いヒットした。その後も『峯子の歌』などのヒットを連発するが、1934年には当時の東京市内カフェー(当時存在した風俗営業を行う特殊喫茶)で女給(広く一般的に女子のサービス業従業員のことを指したが、赤線やカフェーにおいては狭義に風俗営業を行う女性のことを指した)との淫行スキャンダルを起こし、1937年には詐欺容疑逮捕されるなど私生活でも話題にも事欠かなかった。また日本においても長谷川一郎の芸名でレコード発表をした。
  • イ・ナヨン(李蘭影/ 이난영
1916年全羅南道木浦府(現在の木浦市)生まれ。1933年オーケーレコードからデビュー。元祖「エレジーの女王」と称されている。1935年に『木浦 눈몰』(木浦の涙)が大ヒット。1939年には作曲家の金海松(キム・ヘソン / 김해송)と結婚。1940年には『泣けよ門風紙』・『木浦は港』がヒットする。日本敗戦後は夫とK.P.K楽団を主宰するが、朝鮮戦争で夫が北朝鮮軍に拘束され、2人の最期の別れとなった。儲けた7人の子供は渡米しラスベガスで歌手として活躍したが、本人は晩年慢性アルコール中毒となり1965年に逝去。
  • コ・ボクス(高福寿/ 고복수
1911年生まれ。コロムビアに所属していたがなかなかデビューのチャンスがなく、1934年にオーケーレコードに転出して『他鄕살이』(他郷ぐらし)でデビュー。これが大ヒットし、1935年には『沙漠の恨』、1937年には『짝사랑』(片思い)などのヒットを飛ばした。1939年に同じく歌手の黄琴心と結婚した。1958年に歌手を引退し、種々の事業を展開するもことごとく失敗し、1972年に寂しい老後を終える最期となった。
  • イ・ファジャ(李花子 / 이화자
1935年酒場の従業員をしていたところをスカウトされ、いわゆる妓生歌手の中では最も多くヒット曲を連発した。1938年に『コルマンテ牧童』が、1939年には『어머님 前上白』(母への手紙)がヒット。1940年の『花柳春夢』は、日本人歌手である菅原都々子が『片割れ月』としてカバーするほどのヒットとなった。私生活においてはスキャンダルの女王として知られ、晩年にはアヘン乱用により1950年中毒死したとされているが、最期に至るまでの詳細や没年齢は定かではない。
  • ナム・インス(南仁樹 / 남인수
『涙の海峡』でデビュー、1937年オーケーレコードからの再デビューで『水車サラン』がヒット。学歴・音楽経験ゼロからのスタートだったが、作曲家の朴是春(パク・シチュン / 박시춘)との黄金コンビによって、1938年には『哀愁 小夜曲』(哀愁のセレナーデ)、1940年には『泣いて別れた釜山港』などが大ヒットした。「女インス」「金インス」と呼ばれるほどの遊び人として知られた。締まり屋としても知られ、日本の敗戦後は興行にも手を伸ばし、持病の肺結核を悪化させることとなった。1946年に『가거라 三八線』(去れよ三十八度線)、1953年に『離別 釜山停車場』(別れの釜山停車場)、1956年には『青春告白』などのヒットを飛ばし、1962年に没するまで第一線のスター歌手であり続け、生涯で1000曲あまりを歌い歌謡皇帝とまで称された。
  • ファン・グムシム(黄琴心 / 황금심
1921年生まれ。1938年『いとしのあなた』でデビュー。1939年に同じく歌手の高福壽と結婚。1953年に『三多島消息』をヒットさせた後引退して、数多の事業に乗り出すもことごとく失敗して苦しむ夫の高福寿を物心両面で支えた。2001年逝去。
  • チャン・セジョン(張世貞 / 장세정
1921年生まれ。平壌の少女歌手として、1937年に『連絡船 떠난다』(連絡船の歌)でデビューし、大ヒット。1939年には『港の名無草』がヒット。当時の芸能界に力のあった李哲(イ・チョル / 이철)の歓心を得ようと綱引きを繰りひろげた、ライバル李蘭影との不仲は有名である。1940年には『さらば断髪嶺』がヒット。日本の敗戦後は舞台などで活躍したが、晩年はロサンゼルス市内で過ごした。2003年逝去。
  • キム・ジョング (金貞九/ 김정구
1916年江原道元山府(現在の元山市)生まれ。1931年に元山光明普通学校卒業。兄に作曲家の金龍煥(キム・ヨンファン)、姉に歌手の金安羅(キム・アンラ)をもつ。キリスト教徒で、1938年の『王書房恋書』などのコミックソングで人気を博した。同時期に『눈물 젖은 豆滿江』(涙の豆満江)・『海の交響詩』を発表し、ヒットとなる。『涙の豆満江』は1960年KBSラジオ反共ドラマによって再び人気に火がつき、1990年代初頭まで韓国国民の間では『釜山港へ帰れ』を上回る支持を集めていた。こうした功績によって1980年に歌手として受賞することは稀有な文化勲章を授かっている。ソウル市内の『草原の家』というビアホールで70歳を過ぎてからも現役歌手としてステージに立っていたが、1998年ロサンゼルス市内で逝去。
  • ペク・ニョンソル(白年雪 / 백년설
1915年生まれ。やや不安定な歌唱でレコード収録の際にNGを連発する事で知られる。1939年に『流浪劇団』がヒット。1940年には『나그네 설움』(ナグネソルム)が大ヒットし、『番地없는 酒幕』(番地のない酒場)もヒットした。1941年には満州移民奨励歌『福地萬里』・『大地 港口』(大地の港)がヒットした。日本の敗戦後は歌手活動を停止して事業展開に専念するが、朝鮮戦争を経て歌手復帰した。1970年に引退、熱心なエホバの証人の信者でもあった事から、1978年ロサンゼルス市に渡り、1980年に没した。
  • チン・バンナム(秦芳男 / 진방남
1917年生まれ。1940年に『不孝者읍니다』(不孝者は泣きます)がヒット。日本での収録中に母の訃報が入り、曲のタイトルそのままのレコーディングとなった。その後、1950年からは作詞家に転向し半夜月のペンネームで『斷腸 彌阿里고개』(断腸のミアリ峠)などの作詞を手がけたことで知られる。
  • ヒョン・イン (玄仁/ 현인
1919年に温泉街である釜山府東莱(現在の釜山広域市東莱区)に生まれる。本名は玄東柱(ヒョン・ドンジュ / 현동주)。1942年に東京・上野の東京音楽学校声楽科を卒業したバリトン歌手で、上海で活動中に終戦を迎えた。声を震わせるような歌唱で知られ、1947年に『新羅 달밤』(新羅の月夜)がヒット。その後も1951年の『がんばれ!クムスン』、1953年の『ラッキー・ソウル』などのヒットを飛ばし、晩年まで懐メロ番組の常連であった。2002年に逝去。生前の功績を称える銅像と『がんばれ!クムスン』歌碑が釜山の影島大橋の袂に建立された。

1950年代デビュー[編集]

  • 李美子(イ・ミジャ / 이미자
1941年京城府(現在のソウル特別市)生まれ。1958年にデビューし、エレジーの女王と呼ばれている。伝統的に歌手という職業が低く見られがちであった韓国においては、破格の扱いを受けるまさに歌謡界の女王といえる。韓国では美空ひばりのことを「日本の李美子」と称するほどであり、その存在の大きさが窺える。主要なヒット曲だけで100曲を超え、歴代大統領コンサート観覧に訪れたほどである。1965年のヒット曲『東栢 아가씨』(椿娘)は日本的な曲であるとの理由で当局により発禁処分を受けた。韓国の3大放送局のひとつMBC(韓国文化放送)による韓国歌手人気ランキングではチョー・ヨンピルに次ぐナンバー2の得票で、ナンバー3の人気ポップスグループソテジワアイドゥル(서태지와 아이들)を抑えたこともある。

1960年代デビュー[編集]

1970年代デビュー[編集]

1955年生まれ。明知大学校の学生であった1978年に、韓国MBC大学歌謡祭で自作曲『그때 그사람』(あの時あの人)を歌い、歌手デビューする。翌1979年に起こった朴正煕大統領射殺事件の宴席に酌婦として同席していたことが明らかになり、1981年まで放送出演禁止措置を受けた。

1980年代デビュー[編集]

1990年代デビュー[編集]

2000年代デビュー[編集]

2010年代デビュー[編集]

2020年代デビュー[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 辞書では「트롯」の意味を歩法やフォックストロットのみとするが、一般的には韓国演歌の意味でも使用される。

出典[編集]

  1. ^ a b c 韓国演歌「トロット」が熱い あどけない小学生までもが人生の悲哀を歌う:朝日新聞GLOBE+” (日本語). 朝日新聞GLOBE+. 2022年5月3日閲覧。 “トロットの定義について調べてみると、こんな説明だった。「韓国の音楽のジャンル。日本の演歌から派生したもので、日本では韓国演歌と呼ばれる。韓国では、成人歌謡、ポンチャックともいわれる」。日本が朝鮮半島を植民地支配したころ、演歌もいっしょに入ってきて、伝統的な民謡などと組み合わさり、独特の歌謡として発達したようだ。このような時代背景からだろうか、トロットには「倭色」というレッテルがつきまとった時期もあった。倭色とは日本的なものを批判するときに使われる言葉。朴正熙政権は1965年、韓国で初めてレコード販売が100万枚を超えた李美子の「つばき娘」を倭色との理由で放送やレコード販売を禁じた。当時、朴大統領は世論の激しい反発を押し切って日韓国交正常化を進めていた。高まる反日感情をなだめるための政治的な理由があったとのうわさが広まったという。”
  2. ^ a b 트로트” (朝鮮語). 한국민족문화대백화사전. 2022年5月20日閲覧。
  3. ^ a b 【萬物相】『明日はミスター・トロット』-Chosun online 朝鮮日報”. archive.is (2019年5月12日). 2019年5月12日閲覧。 “キツネが歩くように4分の4拍子に合わせて身軽に踊るリズムが日本を経て韓国に入ってきてトロットになった、というのが定説だ。このため、かつては「トロットは倭色(日本風)だ」とも言われた”
  4. ^ a b 전통가요? 뽕짝?… '성인가요', 새 이름을 찾아주세요 newdaily 2019年4月30日
  5. ^ ホン・ジニョン、「トロットの沈滞に意気消沈? 自信がある」 innolife.net Music Story..
  6. ^ 歌姫キム・ヨンジャの「超浮き沈み人生」(下) 再ブレーク呼び込んだ名曲「アモール・ファティ」 産経新聞 2019年4月30日
  7. ^ a b c d 小林孝行「日本の『エンカ』と韓国『トロット』の比較のための基礎的観点」아시아문화연구 제47집, 2018年
  8. ^ 금기와 자율 - 韓国・国家記録院
  9. ^ 「オモナフォン」、東芝製端末……LGグループのMP3フォン新戦略 ITmedia Mobile 2005年3月15日
  10. ^ 韓国の〈トロット王子〉、パク・ヒョンビンが新曲発売イヴェントを開催 タワーレコード 2012年6月28日
  11. ^ 1집 '랏츠 오브 러브' 쇼케이스, 신곡 부족 아쉬워 MK 2019年3月8日
  12. ^ [‘트로트 엑스’ 화제의 3인방]① 30년 무명 가수 나미애의 꽃밭 レディー京郷 2014年7月号
  13. ^ 트로트 샛별 조정민 일요시사 2014年12月30日
  14. ^ '미스트롯' 시청률 14.4% 또 신기록…TV조선 프라임타임 수도권 시청률 모든 지상파 제치고 1위 朝鮮日報 2019年4月25日
  15. ^ 視聴率:『ミスター・トロット』32.7%、自己最高更新 朝鮮日報日本語版 エンタメコリア 2020年2月28日
  16. ^ 2020年ブレーク!韓国音楽界を賑わせている「トロット」って? KONEST NOW!ソウル 2020年8月12日

関連項目[編集]