三遊亭圓右

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三遊亭 圓右(さんゆうてい えんう)は、落語家名跡三遊派の系統から生まれた名である。「円右」とも記す。現在は空席。

初代[編集]

初代 三遊亭 圓右さんゆうてい えんう
初代 三遊亭 圓右
本名 沢木 勘次郎
生年月日 1860年8月1日
没年月日 (1924-11-02) 1924年11月2日(64歳没)
出身地 日本の旗 日本
師匠 2代目三遊亭圓橘
名跡 1. 三遊亭橘六(1872年 - 1877年)
2. 三遊亭三橘(1877年 - 1882年)
3. 初代三遊亭圓右(1882年 - 1924年)
4. 2代目三遊亭圓朝(1924年)
活動期間 1872年 - 1924年
家族 2代目三遊亭圓右(長男)
所属 東京寄席演芸株式会社

初代三遊亭 圓右万延元年6月15日1860年8月1日) - 大正13年(1924年11月2日)は、落語家。本名は沢木勘次郎

4代目橘家圓喬と並び称される明治期から大正期にかけての名人。一代で圓右の名跡を築いた。

父は徳川水戸家の作事大工の家に生まれ[1]、名を沢木林蔵といった。本郷出身。幕府の御家人だった伯父は風流人で笛を得意とし初代三遊亭圓朝のお囃子をしていた関係で幼いころから楽屋に出入りする。1872年ころに2代目三遊亭圓橘門下で橘六、1877年に二つ目で三橘、1882年に圓右となり、1883年真打昇進。1897年上方にも活動を始める、この頃に上方ネタを多く改作。1924年10月24日、大師匠三遊亭圓朝27回忌に2代目圓朝の名跡を管理していた藤浦三周からその年の秋に名乗ることを許されるが、既に身体は肺炎に冒されていた。結局病床で襲名するも間もなく死去。享年65。2代目圓朝となったのは事実であるが、圓朝としてはほとんど活躍せずに没したため「幻の2代目」と言われる。一方、圓右時代の功績が華々しかったためか、一般には「初代圓右」として認識される。「名人圓右」といえば、初代圓右のことを指す。墓所は谷中龍谷寺。

『唐茄子屋』『火事息子』『包丁』などが得意ネタ。

ズボラな性格でろくに稽古もしないで噺を演じるが、聴衆には不自然に聞こえなかったという。

宮松亭での落語研究会で、「包丁」を当日の朝に音曲師の三遊亭橘園に教えてもらい高座に上がったところ、果たして途中で忘れてしまった。「楽屋ではもう、明かにわすれちゃったってことが判って、『さア困ったネエ』ってんですが、教えるわけにもいかず、どうするだろう、お客様はダレやアしないかしらんてんで…同じようなところをとっくり返しひっくり返し十分間ほどもやったが、ようやくその間に先の方を思い出して、どうやら噺がおしまいになったんで、楽屋ではもう、みんなほっとしました。ところが、お客様にはそれがちっとも判らなかったらしい。ですから、非常に腕はあったですね。だけども、そういういけぞんざいなことをするんです」6代目三遊亭圓生著『寄席育ち』より)

幼少期からあだ名は「ほうたく」(天一坊の幼名)

弟子に初代三遊亭圓歌4代目古今亭今輔5代目三遊亭圓橘3代目三遊亭萬橘三遊亭圓條(太田卯三郎)、三遊亭橘園(福田富次郎)、2代目立花家千橘三遊亭右太作(在原ないし有原次郎)、三遊亭右朝(田中金太郎)、三遊亭右鶴(松永辰三郎、後の3代目三遊亭新朝)、三遊亭圓丸(安井国太郎)、三遊亭右左喜(丸吉竹次郎、後の古今亭志ん上)がいる。8代目三笑亭可楽(三遊亭右喜松、後に三橘に改名)、5代目古今亭今輔も一時期圓右門下だった。

2代目[編集]

2代目 三遊亭 圓右さんゆうてい えんう
本名 沢木 松太郎
生年月日 1891年11月28日
没年月日 (1951-08-27) 1951年8月27日(59歳没)
出身地 日本の旗 日本・東京
師匠 初代三遊亭圓右
名跡 1. 三遊亭右之助(? - 1909年)
2. 三遊亭圓子(1909年 - 1918年)
3. 三遊亭小圓右(1918年 - 1924年)
4. 2代目三遊亭圓右(1924年 - ?)
家族 初代三遊亭圓右(父)

2代目三遊亭 圓右1891年11月28日 - 1951年8月27日)は、落語家。本名は沢木松太郎。初代圓右の長男。

東京本郷の生まれ、最初は父圓右一門で右之助で前座修行、1909年ころに二つ目で圓子、1918年4月に小圓右で真打を経て、1924年12月に父が亡くなってすぐに2代目圓右襲名。

落語界のサラブレッド扱いされ、廻りからちやほやされ、世間知らず、苦労知らずで育ったため周囲からは法界坊の松若様に準えて「馬鹿松様」(「松」は本名の松太郎に因んで)と言われるほどわがままで威張った振る舞いが多かった。このため、弟弟子初代三遊亭右京(後の5代目古今亭今輔)がわがままに耐え切れず兄弟子初代三遊亭右女助(後の4代目古今亭今輔)一門に移籍するという事態を引き起こすなど、周囲の信を欠き全く信頼を得られず、実力はあったが大成できぬままに終わった。

1930年ころからほとんど活動なく、程なく廃業、その後は郵便局に勤務。1951年没。享年59。

3代目[編集]

3代目 三遊亭 圓右さんゆうてい えんう
生年月日 1923年12月8日
没年月日 (2006-03-22) 2006年3月22日(82歳没)
出身地 日本の旗 日本東京都杉並区
師匠 不明
5代目古今亭今輔
名跡 1. 橘小圓左(1941年 - 1947年)
2. 古今亭壽輔(1947年 - 1955年)
3. 3代目三遊亭圓右(1955年 - 2006年)
出囃子 野毛山
活動期間 1941年 - 2006年
所属 日本芸術協会→落語芸術協会

3代目三遊亭 圓右1923年12月8日 - 2006年3月22日)は、東京都杉並区出身の落語家。本名は粕谷泰三出囃子は『野毛山』。生前は落語芸術協会所属。

浪曲師の父で木村重丸常磐津の師匠の母の常磐津文字綱の下で育つ。少年時代の1934年急遽寄席に代演し、落語「越後屋」を披露し大喝采を浴びる。その後も話芸を磨き、1941年、橘ノ?橘?三遊亭?小圓治に入門し橘小圓左で初高座。しかしながらいわゆる定席には出演できず、主に小規模な端席回りや地方の営業を行う。1943年まで出征、1947年3月、5代目古今亭今輔に再入門し古今亭壽輔を名乗る。1955年4月、真打昇進し、3代目圓右襲名。

1970年代から1990年代にかけて、「太陽からの使者」のフレーズで売った『お好み演芸会』(NHKテレビ)の「噺家横丁」(大喜利)レギュラーや木ノ葉のことのコンビでの『ノコと円右のラブリー10』(テレビ朝日)、『ドバドバ大爆弾』(テレビ東京)の審査員役などのさまざまなテレビバラエティ番組出演やライオンの「エメロン石鹸」やP&G2007年8月以降は大王製紙)の成人向け紙おむつアテント」のテレビCMに出演。エメロン石鹸のCMではツルツル頭を磨き上げたシリーズ、アテントのCMでは「ゲンさん」シリーズで知られ、前者は約10年、後者は約15年出演していた。これで広くその顔を知られるようになる。この他うすき製薬の「後藤散」のCMにも出演していた。

つるつるの頭と自在に動く顔の表情がトレードマークで、柔らかで上品ながら生気にあふれた語り口は多くのファンを持った。得意ネタは『銀婚式』『日蓮記』『青い鳥』『酒の素』『天皇陛下とモリアオガエル』など、新作一筋。また、師匠今輔の「おばあさん落語」も継承し、『温泉おばあさん』『七夕おばあさん』『再会おばあさん』などで色気と茶目っ気のあるおばあさんを演じた。なお、今輔は岳父に当たる。

2006年3月22日、前立腺癌のため死去。享年82。

一門弟子に古今亭寿輔(寿輔の弟子が6代目今輔を襲名している)、3代目三遊亭小圓右三遊亭右紋、2代目三遊亭右京三遊亭右左喜らがいる。

趣味釣りで、特に川釣りが好きだった。 もとの弟弟子だった桂歌丸(のちに破門後、互いの兄弟子である桂米丸に再入門)も同じ趣味を持っており、互いの釣り好きに絡むエピソードとして、過去に圓右から翌日の新宿末広亭での出番を替わってくれるよう頼まれた際の顛末[2]を著書で披露している。

脚注[編集]

  1. ^ 『演芸博物館 白編』小島貞二、P.56-60
  2. ^ 歌丸はその日釣りに出掛けるつもりだったので「申し訳ないんですが、あたしも明日は所用で…」と謝りを入れて断ったところ、なんと当日出先の釣り場で圓右と遭遇(圓右も釣りのために出番を休んだ)、お互い顔を見合わせて「なんだ、所用じゃねえじゃねえか」と笑ったがのちに二人して席亭の大目玉を喰らった、というもの。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]