鳩山一郎

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鳩山 一郎
はとやま いちろう
鳩山 一郎
(1954-1956年の間に撮影)
生年月日 1883年1月1日
出生地 日本の旗 日本東京府東京市牛込区
(現:東京都新宿区
没年月日 (1959-03-07) 1959年3月7日(76歳没)
死没地 日本の旗 日本・東京都文京区
出身校 東京帝国大学法科大学英法科卒業
前職 弁護士
所属政党立憲政友会→)
政友本党→)
同交会→)
(立憲政友会→)
(無所属→)
翼賛政治会→)
大日本政治会→)
日本自由党→)
(無所属→)
自由党→)
分党派自由党→)
(自由党→)
日本民主党→)
自由民主党
称号 正二位
大勲位菊花大綬章
衆議院永年在職議員
法学士(東京帝国大学・1907年
配偶者 鳩山薫
子女 鳩山威一郎(長男)
古沢百合子(長女)
鳩山玲子(次女)
鳩山節子(三女)
山中恵子(四女)
渡邉信子(五女)
親族 鳩山和夫(父)
鳩山春子(母)
鳩山秀夫(弟)
鳩山道夫(甥)
鳩山由紀夫(孫)
鳩山邦夫(孫)
鳩山太郎(曾孫)
鳩山二郎(曾孫)
鳩山紀一郎(曾孫)
鳩山玲人(曾孫)
サイン

日本の旗 第52-54代 内閣総理大臣
内閣 第1次鳩山一郎内閣
第2次鳩山一郎内閣
第3次鳩山一郎内閣
在任期間 1954年12月10日 - 1956年12月23日
天皇 昭和天皇

日本の旗 第40代 文部大臣
内閣 犬養内閣
齋藤内閣
在任期間 1931年12月13日 - 1934年3月3日

内閣 田中義一内閣
在任期間 1927年4月20日 - 1929年7月2日

選挙区 (東京市選挙区→)
(東京府第10区→)
(東京府第2区→)
旧東京1区
当選回数 15回
在任期間 1915年3月26日 - 1946年5月7日[1]
1952年10月2日 - 1959年3月7日

当選回数 1回
在任期間 1912年4月2日 - 1915年3月26日

その他の職歴
初代 自由民主党総裁
1956年4月5日 - 1956年12月14日
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鳩山 一郎(はとやま いちろう、1883年明治16年〉1月1日 - 1959年昭和34年〉3月7日)は、日本政治家弁護士

第52・53・54代内閣総理大臣位階勲等は、正二位大勲位55年体制が成立してから初の総理大臣であった。

概説[編集]

1912年明治45年)に東京市会議員に当選。1915年(大正4年)に衆議院議員に当選。1954年(昭和29年)-1956年(昭和31年)の首相在任中、保守合同を成し遂げて自由民主党の初代総裁となって55年体制を築き、日本ソビエト連邦の国交回復を実現した。

年譜[編集]

戦前[編集]

1935年

戦前は主に立憲政友会の議員として活躍した。

ただし、1924年大正13年)の政友会分裂では政友本党に参加して一時期政友会を離脱していたが、1926年(大正15年)には自身が中心となって合計26名で政友会に復党し、田中義一総裁に気に入られて復党早々に幹事長に登用されて党内の反発を受けた[2]

1927年(昭和2年)の田中義一内閣でも内閣書記官長に就任するなど、重用された。

統帥権干犯問題[編集]

1930年(昭和5年)、第58帝国議会のロンドン海軍軍縮条約の批准をめぐる論議では軍縮問題を内閣が云々することは天皇統帥権の干犯に当たるとして犬養毅総裁とともに濱口内閣を攻撃、濱口首相狙撃事件の遠因となった。

また、この時期の政友会は田中義一及び犬養の後任の鈴木喜三郎両総裁の下でリベラル派が屈服させられて右派・親軍派が主導的になっていったとする見解もあり、この説を採用するならば、義兄・鈴木の入党を田中に仲介したとされている鳩山が結果的にはこうした動きに加担してしまったことになる。

さらに第2次若槻内閣末期には山本悌二郎森恪らと共に陸軍首脳であった永田鉄山今村均東條英機らに倒閣を持ちかけるといった、議会人としては極めて問題のある行動にも及んでいた[3]

こうした行動は占領期になり、GHQから「軍部の台頭に協力した軍国主義者」として追及され、公職追放の一因となった。

統帥権干犯論は議会の軍に対するコントロールを弱める結果となり、これを根拠として軍部が政府決定や方針を無視して暴走し始め、以後、政府はそれを止める手段を失うことになって行く。

犬養内閣以後[編集]

鳩山は犬養内閣から齋藤内閣にかけて文部大臣を務めたが、1932年(昭和7年)に義兄の鈴木が犬養毅の後をうけて政友会総裁となると党内の実力者となった。

1933年(昭和8年)の京都帝国大学滝川幸辰の学説・思想を非とするいわゆる滝川事件の際には、京大総長に対して滝川教授の免職を要求し、これが拒絶されると文官分限令によって一方的に滝川を休職処分にした。このことは戦後になって批判された。

樺太工業から賄賂を受け取ったと政友会から攻撃された樺太工業問題の際には散々弁明したあげく「明鏡止水の心境で云々」と発言したところ辞職の意思表示だと報道され、嫌気がさして辞職した。

1934年(昭和9年)3月3日岡本一巳代議士のいわゆる五月雨演説の綱紀問題による疑惑のため、鳩山文省疑惑に対し、純真なる教育界に及ぼす影響甚大なるを恐れ辞職。[4]

「明鏡止水」は流行語になった。 この事件は政友会の久原房之助による内閣攻撃の一環であり、枢密院平沼騏一郎が後ろで糸をひいていたという。

帝人事件では台湾銀行頭取にはたらきかけて11万株の帝人株を払い下げさせたといわれたが、そもそもこの疑獄事件は砂上の楼閣で、ここでも平沼騏一郎の画策があったとされている。

1936年(昭和11年)2月20日の総選挙で総裁の鈴木が落選するという失態を演じると、鳩山は宮中に工作を行って鈴木を貴族院議員に勅選させ、これを根拠に鈴木の総裁居座りを実現させるが、党内から大顰蹙を買う。

鳩山は総裁代理として党を主導しようとしたが、軍部と迎合しようとする多数派とは一線を画し、軍に近い中島知久平前田米蔵島田俊雄らと対立した。

1939年(昭和14年)の政友会分裂に対しては中島を総裁に担いだ前田・島田ら親軍派の政友会革新同盟(革新派、中島派)に対し反中島という点で鳩山と一致した久原を担ぎ自由主義的な正統派(久原派)を結成したが[* 1]、久原は中島・前田・島田ら以上の親軍派だったためやがて鳩山は久原とも対立した。

1940年(昭和15年)に鳩山は民政党総裁の町田忠治と極秘に会談し、政友会の正統派と民政党を合同させて新体制運動に対抗する相談を行っていたが、それを潰すために圧力をかけたのが久原であった。

1942年(昭和17年)の翼賛選挙に際しては翼賛会の非推薦で当選した。

1943年(昭和18年)の第81帝国議会では東條内閣による戦時刑事特別法改正案に反対し翼賛政治会を脱会した。

その後は長野県軽井沢別荘で隠遁生活を送った。鳩山が主として軽井沢を舞台に交流したのは、近衛文麿吉田茂宇垣一成真崎甚三郎松野鶴平芦田均笹川良一赤尾敏といった人々であり[5]、隠遁とはいっても軽井沢にいる政治家たちとの情報共有は欠かさず、終戦和平工作にも関与した。また近所には伊沢多喜男来栖三郎清沢洌陸奥イアン陽之助らもおり、彼らはおたがいに訪ねあっては時局を憂いた。

軽井沢に引っ込んだ理由としては、軍部のいうがままに流される議会に失望し、その潮流に巻き込まれたくなかったこと、東條英機の対抗馬になりうるのが近衛文麿や木戸幸一のようなインテリしかおらず、兵隊上がりの東條を退陣させることはとてもではないが無理であると考えたことが挙げられる。

このように、昭和戦前期の鳩山の政治行動には、親軍的な部分と軍に抵抗した部分が混在しており、このことは戦後の政治活動に様々な形で影響していく。

戦後[編集]

自身が公職追放に該当する旨が記された通知書を手にし、困惑の表情を見せる鳩山(1946年5月3日)
公職追放を受けて軽井沢に隠棲し、畑仕事に精を出す鳩山(1950年)
1953年田村茂撮影)
1954年第1次鳩山内閣の閣僚らと

1945年8月15日、鳩山は軽井沢の石橋正二郎の別荘で玉音放送を聞いた。そのとき彼は一瞬涙を流したが、庶民のように茫然自失してはおらず、「これで軍人の時代は終った。こんどは俺たちの時代だ」(鳩山一郎『自叙伝』)と言ったといい、翌16日には早くも、数年に及ぶ山荘生活に一旦終止符を打って、東京へ帰った。

9月15日付の朝日新聞東京版に、原子爆弾の投下国際法違反の戦争犯罪であるという内容を含む談話を発表、GHQは朝日新聞に48時間の発行停止を命じた[6][7]

第二次世界大戦終結後、1946年(昭和21年)の総選挙で日本自由党が第一党になり、鳩山総裁が首相の指名を待つばかりとなったが、就任を目前にして戦前の統帥権干犯問題を発生させたことなどをGHQが問題視し、同年5月7日[1](GHQの処分決定は同年5月3日)公職追放の処分を受けた(軍国主義台頭に協力したとの理由の他に戦前政友会の総裁の時にナチス・ドイツアドルフ・ヒトラーの行政政策を成功と言った事と戦後のアメリカを批判したことが各新聞の記事に載ったとの理由 ─ 統帥権滝川事件を参照のこと)[* 2]。公職追放に際し、鳩山は吉田茂を後継総裁に指名し、同年5月22日に第1次吉田内閣が発足した。追放中の1948年(昭和23年)、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された[8]

日本の独立回復を目前にした1951年(昭和26年)6月11日、自邸での自由党への復帰を巡る議論の最中に脳溢血で倒れる[9]。鳩山の追放は同年8月6日に解除された[10]。首相の座を目前にした追放や追放解除を目前にしての健康問題と、不運な状態が続いた鳩山は、世間の同情を集めることとなった。

翌年の第25回衆議院議員総選挙で自由党代議士に復帰した。しかし、吉田首相が「鳩山復帰後は総裁を譲る」という約束を事実上反故にしたことで、対立が表面化。バカヤロー解散での造反と吉田自由党への再合流を経て、1954年(昭和29年)11月24日に再び自由党を離脱して改進党と合流し、日本民主党を結党した。

貴族主義的でワンマンと呼ばれた吉田茂は不人気で政権を降り、鳩山は同年12月10日に首相となった。首相としては初の地方議会議員経験者であった。1955年(昭和30年)11月15日、盟友で寝業師と言われた三木武吉の尽力により日本民主党・自由党保守合同を成し遂げ、自由民主党(自民党)を結成した。これにより保守勢力革新勢力(この時点では社会主義)を軸とした55年体制が確立された。1956年(昭和31年)4月5日に自民党初代総裁に就任し[11]7月8日第4回参議院議員通常選挙では、「友愛精神」の政治理念と日ソ国交回復・独立体制の整備・経済自立の達成などの政策目標を訴え、鳩山ブームを起こした。吉田前首相のアメリカ中心の外交から転換し、日ソ共同宣言を同年批准し、公約通り日ソ国交回復を成し遂げた[12]

鳩山内閣においては、日本の独立確保という視点から再軍備を唱え、改憲を公約にしたが、与党で改憲に必要な3分の2議席には達しなかった。また、改憲を試みるために小選挙区制中心の選挙制度の導入を図ったが、野党からはもちろん、与党内からも選挙区割りが旧民主党系寄りという反対があり、「ゲリマンダーならぬハトマンダー」と批判され、実現には至らなかった。またエネルギー政策での功績では、原子力基本法を提出、成立させ、のちの原子力発電時代の礎を築いた。

鳩山は日ソ共同宣言に署名して帰国した直後に総理・総裁引退の声明を発表。ソ連との国交回復を花道に内閣総辞職し政界の第一線を退いた[12]。その後、友愛青年同志会を育成するほかは、療養生活を送り、長男・鳩山威一郎の末っ子鳩山邦夫学習院初等科4年から5年に進級直前、1959年(昭和34年)3月7日に衆議院議員在職のまま没した。享年77歳(満76歳没)[13]

なお、鳩山内閣期の1955年(昭和30年)に、在日米軍の駐留を認める旧日米安保に代わる条約として、在日米軍を撤退させ日本の集団的自衛権を認める「日米相互防衛条約」を検討し、重光葵外相がアメリカに打診したが、国務長官だったジョン・フォスター・ダレスは日本の軍備の不十分さなどから非現実的とこれを一蹴した[14][15]。同席していた岸信介(党幹事長)はこのダレスの対応に大きなショックを受け、安保条約の改正のためには自主防衛努力の姿勢や西側陣営に属することを明確化する必要性があることを痛感、自らの政権でそれを実現していくことになる[14][16]

逸話[編集]

1956年音羽御殿の応接室に集まった自民党幹部
「ピース(平和)」
1952年1954年ごろ、内閣総理大臣吉田茂(左)と
  • 文京区音羽の自邸、通称「音羽御殿」は、高等師範学校附属中学時代からの友人で建築家の岡田信一郎による設計。体が不自由だった鳩山は自邸を政治の場に活用し記者会見にも利用した。また、1945年に発表された「ピース(平和)」という名前の品種のバラを気に入り、音羽御殿に100本以上植えさせた。現在は鳩山会館として一般に公開されている。
  • 文部大臣時代の1933年聾学校での手話教育を口話教育に転換させた。
  • 第一高等学校に入学が決まり、当時、皆寄宿寮制度であった一高の不衛生で蛮カラな寮に息子を入れる事を嫌がった母・春子が、当時の校長の狩野亨吉と自宅通学の可否を巡り悶着を起こすが、結局狩野校長に『入寮がお嫌いなら他の学校を選びなさい』と言われ、それでも『鳩山家には鳩山家の家庭教育が御座いますから』と食い下がる春子に、狩野は『じゃ、学校も廃して家庭教育にしたらよいでしょう』と言われ、しぶしぶ一郎を入寮させる。結果として一郎は春子が懸念するまでも無く、快適な寮生活を過ごした[17]
  • 鳩山が結婚前に薫に宛てたラブレターは、後年に『若き血の清く燃えて』で刊行されている。
  • 教育者の家庭に育ち、政治家としてはアクの強さに欠ける面があったようだが、盟友の大野伴睦三木武吉らに支えられ、政党政治家として筋を通した。
  • 政界一家の2代目かつお坊ちゃん育ちのせいか、時折気に入らないことがあると同志や家族に向けて癇癪を起こすことがあり、妻の薫に対しても暴力を振るうことがあった。それに対して薫は「私を相手に暴力を振るうことがあっても同志の方にそのような振舞いをしてはいけません」と言って夫を諭した。後に脳梗塞で倒れても、以前の薫の教えを守っていたために同志達が離れることもなく、以後鳩山は薫を非常に大切にするようになったのだと言う。孫の邦夫の幼時の回想では、癇癪を起こした際に取り成す役目も薫がしていた。
  • 分派政党を作っては合流といったことを繰り返したため、保守合同時の自由党総裁だった緒方竹虎から「出たり入ったり、また出たり」と皮肉を言われたのは著名な逸話としてよく知られる。
  • クリスチャン(キリスト教徒)でなおかつフリーメイソンである。
  • 戦後、青森へ遊説に行くため、上野で汽車に乗ろうとすると、車両が中華民国人に占拠され、車両を出て行こうとしない老人が殴られるのを目撃した。青森から東京に戻る際には、朝鮮人が列車を占拠しようとしたが、駅長が拒否するという事件にあった。鳩山は、「自衛隊はこういうことが起こらないために必要だ」と述べている。
  • 大の甘党で、赤飯に砂糖をかけて食べたという。
  • バラの花を好み、総理在任中も休日には「とどろきばらえん」(東京都世田谷区)を訪れバラを観賞し、苗木を購入、自宅の庭に植えさせている。政界引退後はバラ栽培に没頭した。
  • プロスポーツにも造詣が深く、読売ジャイアンツでは後援会会長を務めた[18]
  • 1956年1月31日、参議院本会議で「軍備をもたない現行憲法には反対である」と答弁し、2月2日発言を取り消し釈明した。また1956年2月29日、参議院予算委員会で「自衛のためなら敵基地を攻略してもよい」と発言し、ただちに取り消した。
  • なお、葬儀は自民党葬で執り行われた[19]

友愛[編集]

1953年、息子鳩山威一郎(左から2人目)、孫鳩山由紀夫(右から1人目)と

友愛(Yūai)の提唱[編集]

鳩山一郎の提唱する「友愛」は、1938年に出版されたリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの著書『The Totalitalian State against Man』(直訳: 全体主義国家対人間)[* 3][* 4]を原点としている。

元々、同書はクーデンホーフ=カレルギーのアメリカ亡命を手助けした日本人外交官・米澤菊二に贈呈したものである[20]。米沢の帰国後、本は早稲田大学教授・市村今朝蔵の手を経て鳩山に渡され、彼の手で邦訳されたのである[21]。(他の多数のクーデンホーフ=カレルギー本は、クーデンホーフ=カレルギーの依頼で1920年代後期に『パン・ヨーロッパ』を翻訳・出版した元外交官の自民党議員鹿島守之助鹿島建設)により戦後、翻訳・出版された。)

鳩山は「Fraternity」(フラタニティ。元のドイツ語Brüderlichkeit ブリューダーリッヒカイト)を「友愛」と訳出、『自由と人生』の邦題で1952年(昭和27年)に洋々社から出版した[* 5]

パン・ヨーロッパ論者・クーデンホーフ=カレルギー伯爵はナチス・ドイツにとって不都合な人物であった。伯爵はナチスに暗殺されるおそれすらあり、国から国へとヨーロッパ中を逃亡し、1940年、リスボンから米国へ亡命することになった。亡命の査証手続きに四苦八苦するクーデンホーフ=カレルギー伯爵を何かと手伝ったのがポルトガル公使館長・米沢菊二である[20]。伯爵が亡命に成功する1940年8月、それはナチス・ドイツが日本、イタリアと日独伊三国同盟を9月に締結する前月の出来事である。クーデンホーフ=カレルギー伯爵は、伯爵を追うナチスと手を組んだ国家の大使でありながら伯爵の世話をした米澤との別れに際し、この『The Totalitarian State against Man』を贈った[20]。米澤は帰国後、国際ジャーナリスト松本重治に同書を貸し、松本は軽井沢で政治学者・市村今朝蔵(日本女子大早大)に貸した[20]。市村は軽井沢の学者村「友達の村」の発起人であり、松本も参加していた。鳩山は軽井沢で市村から同書を受け取って翻訳したのである[20]。出版を強く勧めたのは政治評論家岩淵辰雄である[22]

鳩山は友愛の普及に努め、彼の孫の代に引き継がれるに至っている。財団法人日本友愛青年協会は、鳩山一郎の「友愛」を、文字通りの友愛(Yuai)と紹介している。友愛は『自由と人生』で述べられる「友愛思想」「友愛革命」「友愛社会」に即した思想である。日本友愛青年協会の見解としては、友愛は体系化された理論ではなく、今後、人々が研究を深めることで完成されるという。

クーデンホーフ=カレルギーの思想に則った「友愛」が目指すのは、母性愛による優しい世界づくりである。各論は、相互尊重、相互理解、相互扶助、人道主義、人格主義、協力主義、騎士道、武士道、淑女紳士としての人間関係構築、などである[23] 。友愛運動の理念であるところの、人格の尊厳に基づく相互尊重、相互理解、相互扶助(または相互協力)を、友愛3原則という[24]

友愛青年同志会[編集]

1953年(昭和28年)、友愛を標榜する友愛青年同志会が結成され、鳩山一郎が会長に就任した。一郎は10万人の会員を率いる会長として政財界で指導力を発揮した。1959年(昭和34年)、友愛を更に広めるべく財団法人日本友愛青年協会が設立された(一郎の妻、薫が理事長就任)。1973年(昭和48年)、友愛青年同志会は友愛青年連盟に名称を変更。1998年平成10年)、友愛青年連盟は財団法人日本友愛青年協会と合併し、2011年から一般財団法人日本友愛協会となった。関連団体に友愛婦人会(1958年結成)、友愛クラブ(1967年発会)がある。また、各地に友愛山荘が設立されている[24]

クーデンホーフ=カレルギーは鳩山の友愛青年同志会名誉会長を務めた。

フリーメイソン[編集]

フリーメイソンリーは友愛の団体である。日本のフリーメイソンリーに取材をしたジャーナリスト赤間剛の著書『フリーメーソンの秘密 世界最大の結社の真実』(1983年)によると、赤間がフリーメーソン・ライブラリーのカードを閲覧したところ、鳩山一郎は「1951年3月29日入会」「(ロッジ番号)No.2」とあった[25]。入会場所は「東京ロッジ No.125」[26]

鳩山は河井彌八とともにフリーメイソン第二階級、第三階級に昇進した(1955年3月26日)[27][* 6]

鳩山は「友愛精神」という言葉の他、「兄弟愛」という言葉を用いて昇進の挨拶をした(1956年6月5日)[28]

クーデンホーフ=カレルギーもフリーメイソンであったが、伯爵のパン・ヨーロッパ連合がフリーメイソンと関係があると批判されていたので伯爵は1926年にウィーンのフリーメイソン・ロッジ「Humanitas」を辞めた。伯爵がこのロッジに所属していた事実はナチスが暴露した他あらゆる文献で確認できるが、他のロッジで再びフリーメイソンリーに参加したという話は出ていない(伯爵は生涯パン・ヨーロッパ連合を継続した)。

栄典[編集]

位階
勲章
外国勲章佩用允許

家族・親族[編集]

父:鳩山和夫
音羽御殿で孫の由紀夫 (中央) ・邦夫の兄弟とくつろぐ一郎

系譜[編集]

鳩山家(東京都文京区
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
井上多門
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石橋正二郎
 
安子
 
 
和子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鈴木喜三郎
 
 
 
 
 
 
 
鳩山由紀夫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鳩山威一郎
 
 
鳩山邦夫
 
 
 
鳩山十右衛門博房
 
鳩山和夫
 
 
カヅ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鳩山一郎
 
 
信子(五女)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
春子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
渡邉康雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
渡邉曉雄
 
 
渡邉規久雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
玲子(次女)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鳩山秀夫
 
 
 
 
 
 
鳩山明
 
鳩山玲人
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鳩山道夫
 
 
 
 
 
 
 
菊池大麓
 
千代子
 

箕作麟祥鳩山威一郎の項にも関連系図。

著書[編集]

単著[編集]

  • 『民法総論』巌松堂書店、1913年10月。 NCID BA30351948 
    • 『民法総論』 前後編、巌松堂書店、1916年8月-1916年9月。 NCID BA49443575 
    • 『民法総論』 前後編(再版)、巌松堂書店、1918年3月-1919年8月。全国書誌番号:43023886 
  • 『スポーツを語る』三省堂、1932年9月。 NCID BN07963901全国書誌番号:47003496NDLJP:1211783 
  • 『外遊日記世界の顔』中央公論社、1938年3月。 NCID BN05480827全国書誌番号:46047510NDLJP:1261583 
  • 『私の自叙伝』改造社、1951年6月。 NCID BN01314542全国書誌番号:51006029NDLJP:1707007 
  • 『私の信条』東京文庫、1951年8月。 NCID BN10734061全国書誌番号:51006517NDLJP:2934142 
  • 『ある代議士の生活と意見』東京出版、1952年11月。 NCID BN10267625全国書誌番号:53001609NDLJP:2975870 
  • 『鳩山一郎回顧録』文藝春秋新社、1957年10月。 NCID BN03323770全国書誌番号:57013671NDLJP:2975881 
  • 『若き血の清く燃えて 鳩山一郎から薫へのラブレター』川手正一郎編・監修、講談社、1996年11月。ISBN 9784062084802NCID BN15626022全国書誌番号:97040008 
  • 伊藤隆季武嘉也 編『鳩山一郎・薫日記』 上巻(鳩山一郎篇)、中央公論新社、1999年4月。ISBN 9784120028953NCID BA40813052全国書誌番号:99105788 

共著[編集]

翻訳[編集]

関連作品[編集]

映画
テレビドラマ

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1939年(昭和14年)4月に政友会が分裂した際は久原・三土忠造芳澤謙吉の3人が政友会正統派の総裁代行委員に就任し、1ヶ月後に久原が正統派の総裁に就任した。
  2. ^ かつての著作『外遊日記 世界の顔』(1938年)がヒトラー礼賛本とされ、公職追放の一因になったと言われるが、特にファシズム礼賛という内容ではない。また実際には鳩山ではなく評論家の山浦貰一がゴーストライターとして執筆したと言われている。
  3. ^ 『The Totalitalian State against Man』は、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーによるドイツ語の原書『Totaler Staat, totaler Mensch』(1937年)の英訳書である。ドイツ語の原書は1965年に改名され『Totaler Mensch, totaler Staat』として再出版された。リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの著書に関しては1968年出版の『Für die Revolution der Brüderlichkeit』(直訳: 友愛革命のために 出版社: Verlag Die Waage ISBN 3-85966-030-6)も参照。
  4. ^ 英訳書『The Totalitarian State against Man』は、サーアンドリュー・マクファディエンSir Andrew McFadyean)による英訳。英訳書序文の著者はヘンリー・ウィッカム・スティードHenry Wickham Steed)。英訳書の他、フランス語訳の『L' Homme et l'Etat totalitaire』(1938年)もあり、訳者はマルセル・ボーフィス(Marcel Beaufils)。日本語訳は本文参照。
  5. ^ 1953年、乾元社から再出版。1967年、洋々社から再出版。
  6. ^ 1955年5月25日に「昇進が行われた」とある(赤間 1983, p. 88)。

出典[編集]

  1. ^ a b 『官報』第5821号、昭和21年6月12日。
  2. ^ 井上 2004, pp. 28–29
  3. ^ この露骨な提案は陸軍からも拒否された。筒井清忠『昭和戦前期の政党政治』、237頁(ちくま新書、2012年)など。
  4. ^ 『社会問題日誌 昭和9年』大月社会問題調査所、昭和10。 
  5. ^ 『文學界 第7~8号』(文學界社, 1999年)290頁
  6. ^ II 原爆報道”. 国際平和拠点 ひろしま. 2022年6月26日閲覧。
  7. ^ 山本武利 (1996). 占領期メディア分析. p. 48〜52. ISBN 978-4-588-32701-8 
  8. ^ 第2回国会 衆議院 不当財産取引調査特別委員会 第15号 昭和23年4月14日
  9. ^ 6-1 鳩山一郎の復帰 | 史料にみる日本の近代”. www.ndl.go.jp. 国立国会図書館. 2019年5月18日閲覧。
  10. ^ 鳩山氏ついに追放解除に”. 日本経済新聞 電子版. 2019年5月18日閲覧。
  11. ^ 1956年ニュースハイライト(1956年(昭和31年)
  12. ^ a b 初代鳩山一郎時代”. 自民党. 2023年9月25日閲覧。
  13. ^ 昭和34年3月 中日ニュース No.269_2「鳩山さん亡くなる」 中日映画社
  14. ^ a b 読売新聞夕刊2010年平成22年)7月27日
  15. ^ “相互防衛、米軍撤退を提起=ダレス氏一蹴、幻に-鳩山一郎内閣”. 時事ドットコム(時事通信社. (2010年7月7日). http://www.jiji.com/jc/zc?k=201007/2010070700996 2010年11月13日閲覧。 [リンク切れ]
  16. ^ 北岡伸一 (2010年4月7日). “日米安保条約と政治家のリーダーシップ”. http://www.nids.go.jp/event/other/just/pdf/04.pdf 2014年11月13日閲覧。 [リンク切れ]
  17. ^ ローレン『友の憂いに吾は泣く(下)』
  18. ^ 故鳩山邦夫氏の祖父、一郎元首相は、巨人の初代後援会長だったのをご存じか。41年と思われる“音羽御殿”での貴重な1枚
  19. ^ “異例国葬、党内に配慮 全額国費、首相は正当性強調:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞. (2022年7月15日). https://www.asahi.com/articles/DA3S15356795.html 
  20. ^ a b c d e 戸澤「鳩山一郎氏の足跡を追う」
  21. ^ 2005年「日・EU市民交流年」に向けて - リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーが生み出した「人と人との交流」- (『友愛』2004年9月10日号より転載) 東北大学大学院法学研究科・法学部RCK通信
  22. ^ 戸澤「クーデンホーフ・カレルギーと友愛運動 (1)」
  23. ^ 鳩山友愛塾公式サイト 設立趣意書
  24. ^ a b 財団法人日本友愛協会公式サイト
  25. ^ 赤間 1983, p. 79
  26. ^ 1945-1976”. History. 日本グランドロッジ. 2013年8月23日閲覧。
  27. ^ Freemasonry and Modern Japanese History”. 横浜ファーイースト・ロッジ No. 1. 2013年8月23日閲覧。
  28. ^ 赤間 1983, p. 85
  29. ^ 『官報』第135号「敍任及辞令」1927年6月13日。
  30. ^ 『官報』第2093号「叙任及辞令」1933年12月21日。
  31. ^ 『官報』第2176号「叙任及辞令」1934年4月6日。
  32. ^ 『官報』第3021号「叙任及辞令」1937年1月30日。
  33. ^ https://toyokeizai.net/articles/-/12266?page=2

参考文献[編集]

評伝[編集]

  • 宮崎吉政『鳩山一郎 日本宰相列伝19』(時事通信社、1989年) 
  • 堀徹男 『さようなら、みなさん! 鳩山日ソ交渉五十年目の真相』(木本書店、2007年)
  • 『鳩山一郎とその時代』(増田弘中島政希監修、平凡社、2021年)

発展資料[編集]

  • 広瀬隆 『私物国家 日本の黒幕の系図』 光文社、2000年、361頁
  • 鈴木幸夫 『閨閥(けいばつ) 結婚で固められる日本の支配者集団』 光文社・新書判 昭和40年 82-88頁
  • 豊田穣『英才の家系 鳩山一郎と鳩山家の人々』(講談社1990年、講談社文庫、1996年) ISBN 4-06-263447-3
  • 早川隆 『日本の上流社会と閨閥(菊池・鳩山・石橋家 個性豊かな人物群)』 角川書店 1983年 165-168頁
  • 神一行 『閨閥 特権階級の盛衰の系譜 改訂新版』 角川文庫 2002年 45-60頁
  • 森省歩『鳩山由紀夫と鳩山家四代』(中公新書ラクレ、2009年)
  • 佐野眞一『鳩山一族 その金脈と血脈』(文春新書、2009年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

公職
先代
吉田茂
日本の旗 内閣総理大臣
第52・53・54代:1954年 - 1956年
次代
石橋湛山
先代
田中隆三
日本の旗 文部大臣
第40代:1931年 - 1934年
次代
齋藤實(兼任)
先代
塚本清治
日本の旗 内閣書記官長
第28代:1927年 - 1929年
次代
鈴木富士彌
議会
先代
則元由庸
日本の旗 衆議院懲罰委員長 次代
島田俊雄
党職
先代
結成
自由民主党総裁
初代 : 1956年
次代
石橋湛山
先代
結成
日本民主党総裁
初代 : 1954年 - 1955年
次代
自由民主党
先代
結成
日本自由党総裁
初代 : 1945年 - 1946年
次代
吉田茂
先代
鈴木喜三郎(総裁)
立憲政友会総裁代行委員
1937年 - 1939年
次代
革新同盟と正統派に分裂