中曽根裁定

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中曽根裁定(なかそねさいてい)は、1987年10月31日自由民主党総裁中曽根康弘が、竹下登幹事長安倍晋太郎総務会長宮沢喜一大蔵大臣の3人(安竹宮)の内から竹下幹事長を次期総裁に指名したことを指す。

経緯[編集]

中曽根総裁の2期目の任期は本来1986年9月に満了することになっており、当時の総裁は3選が禁止されていたことから、いわゆる「ポスト中曽根」として次期総裁に誰が就くかが政界の焦点となっていた。ところが、直前の7月の衆参同日選挙で自民党が圧勝したため、その功績に報いて中曽根の3選を認め、さらに2年間総裁を務めさせるべきとする声が党内から上がった。しかし、ニューリーダーへの世代交代を望む金丸信らの働きかけにより、中曽根総裁の任期を特例として1年のみ延長することで妥協がまとまり、両院議員総会の全会一致で延長を決定した。

1987年10月、ポスト中曽根選びは、竹下幹事長、安倍総務会長の党幹部2人に宮沢大蔵大臣を加えた3人の間で争われることになった。

当初は福田派のプリンスとして名を鳴らし、1986年には派閥領袖(清和会会長)となっていた安倍が、竹下より有利とされていた。初当選が同じ安倍と竹下の間には、安竹同盟とも呼ばれる親友関係があり、安倍は竹下の支援を受けるとも目されていた。また、竹下は所属していた田中派内で、派閥の会長であった二階堂進のグループとの間に確執があり、そもそも派閥全体の支持を獲得していなかった。

しかし1987年7月4日、竹下は田中派の多くの議員を率いて経世会(竹下派)を自ら旗揚げし、田中派からの独立を正式に果たした。竹下は一躍、党内最大派閥の長となった。竹下派では、田中派時代にロッキード事件の影響で長年総裁候補を出せなかったことへの反動から自派総裁選出の期待が高く、旗揚げした当事者である竹下としても引くに引けなかった。

宮沢喜一は、既に1985年に鈴木善幸から宏池会を禅譲されていた。三人の中では宮沢が最高齢でもあり、当然、総裁を目指さないわけには行かなかった。このほか、河本派会長で前回の総裁予備選2位の河本敏夫は、自らがオーナーである三光汽船の経営破綻により求心力を失っていたため出馬しなかった。中曽根派は、渡辺美智雄が後継者として有力視されていたものの派内を掌握しきれておらず、派として後継候補を擁立する状況になかった。旧田中派反竹下系である二階堂グループの二階堂進は総裁選出馬の意向を表明していたが、当時立候補に必要であった国会議員50人の推薦人が集まらず最終的に出馬を断念した。これにより、候補が4人以上の場合に行うと規定されていた予備選が実施される可能性は消滅した。

これらの事情により、中曽根後継を決める総裁公選実施の機運が高まっていた。しかし、禅譲によって影響力を残したい中曽根は、安竹の親友関係や角福戦争の後遺症に目を付け、安竹連合による選挙の実施を阻止するため、様々な情報を出して撹乱し、総裁選挙の実施を阻んだ。3候補の中では、議員票で劣る宮澤だけが話し合いに積極的であった。最大派閥の長である竹下が話し合いを受け入れた際には、竹下支持グループの小沢一郎らが「票数で勝るのになぜ話し合いを受け入れる」と公選を強硬に主張した。しかし、三角大福中時代の熾烈な党内抗争に辟易としていた安竹宮3人は、話し合いによる後継総裁決定を模索する。

結局、安竹宮当事者同士の話し合いでは決着がつけられず(つけられるはずもなく)、中曽根が思惑通り、自ら後継総裁を指名する形となった。自民党の歴史の中で、「後継指名」や「裁定」の形をとったことは何度かあるものの(池田による佐藤指名、及び椎名裁定による三木指名)、有力候補が揃って退任間際の総裁に、自らへの指名を期待して裁定を仰ぐという異例な事態は、中曽根の巧みさとともに、ニューリーダーの「ひ弱さ」を印象づけることにもなった。

裁定は、1987年10月31日、自民党幹事長代理であった宇野宗佑により文書で正式発表され、指名されたのは竹下幹事長であった。中曽根は自らの延長任期中に廃案に追い込まれた「新型間接税」(消費税)の導入と、当時容体が日ごとに報道されていた昭和天皇崩御に対応できる人物であるべきことを考慮したとされる(一説には、ポスト中曽根争いの際に竹下と安倍が口論になり、話し合いの末、「竹下総裁-安倍幹事長、ポスト竹下に安倍」と竹下に約束させたと言われているが、安倍晋三ら安倍側の関係者は否定している)。

中曽根の後継指名は極秘裏に進められ、かつ様々な煙幕を張っていたために、時事通信が「安倍総理誕生」と誤報を打った。また、総裁選挙の可能性が取りざたされていた頃、『ニュースステーション』は独自の総裁選シミュレーションを行ない、安倍総務会長が竹下、宮沢を抑え第12代自民党総裁に選出すると予測したりした。

先述の通り、公選実施による主戦論を唱えるメンバーが多かったのは安倍派も同様で、裁定が下された直後の安倍派の打ち上げでは、先輩政治家たちがお通夜のように静まりかえる中、遅れて料理屋に入ってきた安倍に対して、小泉純一郎はいきなり卓をダーンと叩き、「だからあんた、甘いんだよーッ!」と怒鳴りつけたという。あまりの剣幕に周囲は唖然として声もなく、安倍はただ黙って苦笑いするしかなかったと、同席した平沼赳夫は述懐している[1]

裁定の結果、安竹宮3派と中曽根派、更に竹下と良好な関係にあった河本派の主要5大派閥は主流派となり、竹下内閣は自民党政権ではじめての非主流派の閣僚がいない内閣となった。

1988年6月から発覚・報道され始めたリクルート事件では、安倍晋太郎幹事長・渡邉美智雄政調会長および宮沢喜一大蔵大臣(いずれも当時)も未公開株を譲り受けていたことなどが報道されたため、彼らは全員、ポスト竹下から後退することとなった。ポスト竹下は宇野宗佑[2]、その次は海部俊樹となった。その海部は中曽根裁定について、結局安倍が弱気になり竹下に譲る形で降りたという見立てをしている。

1991年5月15日、安倍はついにその機をつかむことなく病没したため、結果として中曽根裁定が安倍の総理総裁への道を閉ざした形となった。

1991年10月27日、ポスト海部として、宮沢は経世会の支持を得て自民党総裁に選出される。しかし、その経世会の内紛等による内閣不信任決議案可決・政権交代のため、1955年以来連続して続いていた自民党内閣の最後の内閣総理大臣となる。

脚注[編集]

  1. ^ 文藝春秋2004年7月号「ポスト小泉の資格を語ろう」
  2. ^ 竹下総理総裁は、自分の後継総理総裁に中曽根裁定同様に裁定を行なって、中曽根派の宇野宗佑外務大臣を指名した際、直前まで竹下派会長の金丸信と話をつけていなかったため、福田赳夫を後継に動いていた金丸は面目を失う形となった。

関連項目[編集]