三光汽船

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三光汽船株式会社
The Sanko Steamship Co., Ltd.
種類 株式会社
市場情報 東証1部9112
1949年12月23日- 1985年11月14日
本社所在地 日本の旗 日本
106-0032
東京都港区六本木三丁目1番1号
六本木ティーキューブ17階
設立 1934年8月31日
業種 海運業
法人番号 6010001017895
事業内容 外航海上運送
代表者 田端仁一 (代表取締役社長)
資本金 4億5,000万円
売上高 995億9,500万円(2012年3月)
従業員数 91名
決算期 3月
主要子会社 三光シップマネージメント株式会社
関係する人物 河本敏夫
外部リンク http://www.sankoline.co.jp
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三光汽船株式会社(さんこうきせん、The Sanko Steamship Co., Ltd.)は、日本海運会社である。

概要[編集]

1934年大阪府大阪市西区飯野海運大阪出張所にて吉田市之助(河本敏夫の義兄)が三光海運を創業した。当初は船荷の仲介業務が主でその傍ら自ら船舶を運航していたが、日中戦争勃発に伴う天津航路への船荷需要の伸びから経営が安定。1938年に社名を三光汽船に改称し、中型船の運航や中古船の買収で事業を拡大。更には造船業にまで進出する。

終戦を迎えた際に三光汽船は13隻の船が運航可能だったが何れも老朽化しており、しかも船舶公団による計画造船の割り当てでも不利な立場に置かれた。大型の外洋船を所有する様になったものの、運航は大阪商船(現商船三井)に委託して用船料を受け取ることが暫く続き、1959年にようやく自社での運航を再開した。

1963年6月に「海運業の再建整備に関する臨時措置法」と「外航船舶建造融資利子補給及び損失補償法及び日本開発銀行に関する外航船舶建造融資利子補給臨時措置法の一部を改正する法律」のいわゆる「海運二法」が国会で成立。運輸省による海運集約化が行われるものの、三光汽船はこれに参加せず自由に船腹拡張を行い半ば一匹狼的存在として海運業界を席巻してしまう。1971年には時価発行増資と第三者割当増資によって大量の資金調達を行い、これを新造船の大量投入に回すとともに翌1972年には大手海運のジャパンライン(現商船三井前身のナビックスライン)株を買占め、乗っ取りを図ろうとしたことが注目された[1]

しかし、石油ショック以後の海運不況により、転売目的で過剰な船腹を抱え込んでいた三光汽船は経営が行き詰まり、5,200億円という巨額の負債を抱え1985年8月13日会社更生法を申請した[2]。これは当時の日本における戦後最大の倒産だったが、この前日に日航ジャンボ機墜落事故が発生していたため、マスコミの三光汽船倒産の扱いはとても小さなものであった。また、事実上のオーナーであった自由民主党河本派領袖河本敏夫が、この一連の責任をとって沖縄開発庁長官を辞任。河本の政界での影響力が低下することとなり、その後の自民党総裁選への出馬を阻まれる要因の一つとなった。

この後、リストラ船舶を売却などを行ったことにより、急速に業績回復させ1998年に更生計画を終結、2008年3月期には2293億7700万円を売り上げるまでになった[2]

しかし、直後のリーマン・ショックによって輸送量が減少し赤字に転落[1]2012年3月9日には事業再生ADRの手続きを行い、約1,000億円の債務整理を開始した。しかしながら、貨物船「さんこうみねらる」が海外船主に差し押さえられたことにより、三光汽船の信頼性が低下し荷主離れが進んだ結果[1]、2012年7月2日には東京地方裁判所に2度目の会社更生法の適用を申請した[3]。同日にはアメリカ合衆国[4]イギリス[5]裁判所にも破産手続きを行い、後日承認されている。その後、三光汽船はWestern Bulk Carriers ASと共同で貨物船「さんこうみねらる」の差押えの手続を取消す訴訟を起こし、メリーランド地区地方裁判所はその訴えを認めてアメリカ合衆国海事法による「ルールB」での差し押さえを取り消した。そして同年8月2日には同船の航行を再開に至っている[6]2014年12月2日、東京地裁から2度目の会社更生手続き終結の決定を受けた[7]

沿革[編集]

なお、これ以降は米マネジメント会社による組成ファンドの傘下で経営再建を図る。

出典[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]